歴史と本マニアのための部屋

歴史、政治、本、あと吹奏楽関連のつぶやきです

第14回「星落ちてなお」 第15回「おごれる者たち」 大河ドラマのlightな感想 光る君へ

 

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兼家の死

前回の13回と併せて14回では兼家の晩年と死が描写されている。

自分は個人的に、(現代の議会制民主主義に対して)真っ向から逆を行く平安時代の政治家としての兼家は評価はしたくない。

しかしそんな狭量な価値観はこの際横に置いておく。

 

当時の熾烈を極めた政争を見事に泳ぎ切り、藤原氏のさらなる繁栄するいしずえを築いた傑物として、このドラマでは兼家に最大限の敬意を払っているのだ。

藤原氏の間で、また兄弟間でも政治的には長い不遇の時を耐え、しかし将来を見据えてひそかに布石を固め、伏線を盤石にして虎視眈々とその時を待った。

一族の人間を束ねて手綱を執り、時代の流れを読む目の確かさがある。

道綱は下にも上にも置かない扱いで不興を買わないよう気遣う。

また、為時のように去るものは放逐し決して追わない。

そして寛和の変など、好機と見るや隙を逃さず一気に攻勢に撃って出る豪胆さ。

何かそこには一貫して不変にして普遍の政治哲学がある。

 

13話ごろから認知機能にかげりが見られていたが、それを自覚するやすぐさま道隆に後継を譲り、すべてを捨てて出家する兼家。

娘詮子を入内させて生まれた懐仁親王を帝位に就け、外戚として権威を揺るぎないものにした兼家は、ここが潮時だと自ら悟ったのだろう。

第一線における判断が鈍った時が自らの人生の幕を下ろすときという真実をわかっているのだ、おそらく。

あまりにも鮮やかな引き際である。

 

ここから隠居生活に入るという前に、間もなく兼家はその生涯を閉じる。

満ちることのない三日月に照らされて。

そして夜明け、なぜか寝殿造りの庭の池にかかる橋のたもとで息を引き取っていた。

この最期の描写はまだ兼家にはやり残したことがある、というよりは、末法思想と浄土信仰による死後の世界への不安と阿弥陀如来による救済を願ったことを現わしているのだろう。

巨星、堕つ。

三日月を見つめる最期の兼家はしかし決して鋭い眼光を失うことはない。

ドラマが語る時代の目は、兼家に限りなく最上級の尊厳を払っている。

 

で、毎回書くが、威厳を失わずに且つかすかな徴候で老いを見事に感じさせる、段田安則さんの演技が鳥肌ものですごいです。

演技とはせりふだけではない、体全体というか目線ひとつ指先一本に至るまで隅々にまで魂が行きわたっているものなのだなあ、としみじみと感じ入る。

彼の出演がこれで最後というのは、このドラマにとっても大きすぎる痛手なのでは?

 

 

訃報を耳にした人々が見せたそれぞれの感情

偉大な影響力を及ぼしていた存在の兼家が亡くなり、ドラマの登場人物たちには激震が走った。

しかし、それぞれに反応が全く違うのでくわしく振り返ってみる。

為時

ひそかに哀悼の涙を流す。なぜ?兼家が実権を握ってから以後、除目から干され、官職に就けてないのに(この先さらに6年の間)?

それもこれも為時が花山天皇の漢文指南役という兼家が世話してくれたポストを辞去したからという、単なる兼家の嫌がらせだったから、なのに。

ここで「以前兼家様には大変お世話になったことを思い出すと……」と涙に暮れている様子をみると、つくづく為時の政治感覚が絶滅しすぎてて、見てて憂慮するというよりもはや呆れるというか失笑する。

 

まひろ

そんな為時の様子を横で見ながら、「うれしくても悲しくても人は泣く、涙は出る」とか語ってるまひろも、政治感覚は為時と同様です。この二人がこの家を差配してるうちは、一生ここの住人達は野菜を自ら耕して食べて行かなきゃならないのではないでしょうか。
 

いと

惟規の乳母いとだけは、経済的に常識人の感覚をお持ちのようである。家の経済状況がこれ以上ない位傾くという窮状を見かねて、使用人である自分を養うことももう不可能と悟ったのか為時に暇を願い出ている。

そして宣孝が持ち込んだ兼家の訃報にも「これで政治の風向きが変わるかも」と期待に胸を高鳴らせていたのも、いと一人である。

為時一家の台所事情を具体的に知っている身としては喜ばずにはいられなかったのだろう。気持ちはよくわかる。

 

宣孝

宣孝も、いと同様に兼家が世を去ったことで為時にも官職が期待できると喜ぶ。このドラマでは宣孝様が地位ある人の中では唯一の常識人かもしれない。

そして彼は国司として筑前に下向することとなったようだ。霊験あらたかなことで知られた御嶽詣りの御利益?そうかもしれないです。

国司(いわゆる受領)となれば官位は低いものの、決められた税収を国へ上納したらそれより多く入った税収は全て国司のポケットマネーであったので、その辺のちょっと位が高い貴族よりは桁違いに経済的に裕福だったりすることも多かった。

そのため宣孝様は国司としてこれから裕福におなりだろうから、為時一家のスポンサーとして援助してくださらないものだろうか。そうすれば、市で干し鮎が買えないといってひもじい思いをすることもなくなるだろうに。

でも貴族のメンツからそんなことは言えないのか、そもそも何も考えてないのか、宣孝が辞去するときにも為時は兼家の訃報のほうに心を痛めているようで、宣孝の言葉など半分頭に入っていないように見える。

そんなんだからいつまでたっても為時邸の築地塀は崩れたままなんですよ。

清貧?

竹林の七賢

そんな夢物語を追えるほど現実社会は甘くないと思いますが。

 

15回で擬文章生となった惟規を、一家を上げてお祝いし、いとはとっておきのお酒を開け、まひろは琵琶を弾いてはなむけとしているが、この昔は漢文が苦手だった惟規を一家の大黒柱に据えざるを得ないほど、為時一家の窮乏は限界に迫っているのだ。

為時が官職を得られるまでまだ数年。

息が詰まるような日々である。

 

道兼

彼は兼家の死後、奥さんの繁子も娘の尊子も顧みず、酒浸りのアルコール依存症におなりでした。この時代の酒は精製されてない純度の低い濁り酒みたいな感じだったと思いますが、それにしても限度を超すのはよくない。飲み過ぎはいつの時代も人生の破滅を招く。

自分を抑圧し嫡男の道隆と何かと差別していた父兼家の存在がなくなったのだから、これで胸を張って生きていけるのではないかと思うかもしれないが、兼家は死の直前まで道兼を洗脳していたというかあくまで道隆に従う格下の存在だという意識を明確に道兼に植え付けようとしていたので、その呪縛から逃れられないのも無理はない。

道長に「もう父上はおられないのですから」と諭されるまで、自暴自棄な生活を続ける兼家。15話の中盤、993年の描写に至ってようやく大納言に昇進した道兼の姿が見られてほっとするのだった。

 
道長の同僚たち

公任

10代のころはいち早く従四位に昇進した出世頭のエリートだったが、関白の父頼忠の死後は全く振るわない。出世の行く先を見失って、道兼に早くから取り入り、目をかけてもらおうとするがその読みは見事に外れた。

そして次に打つ手はというと「がんばって道隆様に取り入らないと」とのこと。公任も、そんなだから昇進のペースが振るわないのです。自分の手で自分の道は拓いていかないと、とは為時の言いそうなことだが、しかしあまりにも他力本願過ぎる。

このドラマの登場人物随一のイケメンであるが、イケメンであるからと言ってドラマの展開上好待遇であるとは限らない。

行成

そんな公任のなりふり構わない言動を行成は白々しく眺めて諫めている。

「道兼様は喪に服さないのはありえない。また、道兼様がやさぐれているといっても、道隆様のほうが嫡男であり定子様を入内させていたのですから関白の席を譲られたのも自然な流れ。なるようになったということでは?」

いちいちど正論過ぎてぐうの音も出ない。

彼はゆくゆくこれからも注目キャラであり、文人として、三蹟の一人として名を馳せただけではなく、存在を覚えておくべき一人である。

斉信

彼は花山天皇の女御忯子を妹に持つ。よって花山天皇の出家と共に、義懐らと一緒に政界から姿を消すのかと思いきや、斉信はちゃっかり引き続き官位を捨てていなかった。そして兼家の血筋でもないため今回の訃報により出世するわけでもないがかといって失脚もしていない。 

公任と行成にツッコミを入れつつ、彼はこの先もそつなく政界で生き残っていくことであろう。まひろとは絡みはないかもしれないが、ききょうとはのちに内裏でやりとりがあるかもしれない。

 

実資

彼は謹言実直な実務家である。いわゆる今でいう優秀な事務員なのである。参謀というよりは秘書タイプ?いや、有能な大臣ではなくて事務次官的な。

そのため曲がったことも嫌いだし忖度なしに発言する。兼家のことは性格的に全く毛嫌いしていたはずだがかといってたまに真っ当なことを兼家が発言した時にはその時限定で意見に賛同することもあった。

経済的に藤原氏小野の宮流を継承する大資産家であったので実資自身の官職への執着はなかったとはいえ、この誠実な言動は専ら彼の性格によるものだろう。

 

さて兼家の訃報に際しては、直接にというよりその後の道隆の政治・人事への介入の専横ぶりに対して苦言を呈している。

「関白殿は恥を知らない身内贔屓」

全くその通りでございます。第15回の除目では60人もの身内を昇進させたとかで、公卿たち全員の顰蹙をかっているがそれが道隆の権勢に陰りをおよぼしたとは史実は伝えてはいない。

実資ら実際に政治にかかわっていた貴族がこうやって裏で愚痴をこぼしていたに過ぎないのかもしれない。

 

《ドラマの台詞へのツッコミ》

今回だけ、脚本の台詞や視覚的な演出がいきなり短絡的になってないですか?

この場面に登場する実資の後妻の婉子の台詞。(ここには詳しくは書かない)

そして道長の側室、源明子が流産となった報告を受けて倫子の言葉。
「明子様はまだお若くこれから子もできましょう。わたくしもがんばらねば」

史実はその通りなのだがナレーションなどで仄めかしたり暗示的な小物を使ったり、

平安時代の貴族はそんなはっきり言葉にして言わなかったと思うのだ。

今回の彼らの言動はいかにもあけすけではすっぱ、奥ゆかしい上流階級の上品さはどこへ消えてしまったのか。

 

ただ史実としては平安時代はのちの江戸時代の儒教の倫理観に凝り固まった思想とは違い、おおらかでのびやかな時代だった。

確かに、当時は性に関しても開放的だったはず。

だけど、

しかし、

言葉にして昼間からそんな上位の貴族が言わないだろうと思う。

 

自分がこのドラマを見てるのはセリフが含蓄があって味わい深いからだ。

長い人生を経てきた登場人物も、若い者たちも、それぞれの立場で趣深い台詞で生き生きと演じ切っているところがとても魅力的なドラマなのだ。

撮影セットも本格的に感じるし、衣装の紋様も美しい。

登場人物たちが年齢を経て、社会的に地位を築いていく過程でこのような軽薄なセリフが出てくると物語の重厚さに水を差す。

 

以前、兼家に熱心に息子道綱の昇進を言い含めて約束を取り付けようとする寧子に、道綱が「いいんだよそんな一生懸命頼まなくても」とたしなめていたとき、寧子は

「仕事が男を育てるのです、立派な官職をいただいてこそ……」

というようなことを言っていた。

このようにちょっとした一場面、なにげないひとことにも深い意味を持たせている、このドラマの脚本。

それが楽しみで毎回見ているので、これからもドラマの展開で人生のいろんな場面をかいくぐり登場人物たちはさまざまな表情をみせていくことであろうが、それぞれの視点から丁寧に描かれたシーンひとつひとつを噛み締めて鑑賞していきたい。

 

中関白家

道隆

さてそんな兼家をめぐる人々の葛藤を巻き込みながら、強大な権力を掌握し独裁へ突き進む道隆。いえ、権力を握ってもそれを理性的かつ道徳的に運用できれば、古今東西独裁の権力というものはそこまで悪用されなかったのでは?と思う。

しかし現実は道隆のなりふり構わない専横ぶりに、ついてくる人は誰もいなくなるのではないかと思われる。

兼家も強引な権力の行使が目立ったが、少なくとも誹謗中傷の声は表向きには上がらなかった。

兼家に在って道隆に無いもの、それはやはり政治哲学なのではないかと思う。

外戚の座をかさに着た権力でもそれなりに、兼家には世の中を広く見渡す視野と度量の大きさみたいなものがあった。

藤原氏は大きく言えば世襲権力だが、しかし同族間での実力に基づいた純粋な競争原理が働いていたので自然と最も有能なものが常に氏の長者の地位を勝ち取り、そして無能なものは淘汰されていった(無情にも)からこそ、盤石な基盤と絶大な力を持ちえたのだ。

そこへくると、兼家の子女のなかで詮子は機知に富み政治的な才覚を顕わし、数多の妃が並ぶ後宮内で勝ち残り皇太后の座に就き、勢力を揺るぎないものにしている。

しかし道隆はどうだろう?

帝の皇子を産んだのは姉詮子であり、その皇子を帝位につけて一条天皇とし、外戚として摂政を勝ち取ったのは父兼家だ。道隆は兼家が一族の中では底辺の地位あたりに甘んじ、屈辱を忍び、文字通り泥水をすすって這うように苦難に耐えてきた年月、そこから得られる経験と人脈という目に見えない財産を持たないまま、白紙の状態で黙っていても最高権力がスマートに、スムーズに降りてきただけなのだ。

 

貴子

それに、道隆の宮廷での立ち回りは、妻の(高階氏の)貴子に牽引してもらっているようなもの。

実際、貴子は兼家が出家する前に道隆に「(いつ兼家からこちらに権力が継承されてきても)一向に構いませんよ?何なら明日にでも。」と満面の笑みで応えている。

このように、道隆は無意識に(嫡男だからか)兼家の権力を継承するのは自分だと鷹揚に構えていたふしがあるが、貴子は「こちらが権力の座(関白の地位)を継承するのはなるべくしてなった当たり前のこと」と見ている節がある。

なぜなら今まで貴子ができることは全てやって来たという自信と、定子は後宮で愛されるに足りるだけの教養を備えた立派な姫に育て上げたという自負が隠すことなくありありと表情に、確信を持った目線にあらわれていたからだ。

宮中に出仕し、その豊かな教養ゆえに高内侍と呼ばれて愛でられた高階氏の貴子。彼女は娘の定子、息子の伊周ほかの子女に、ありあまる文才を生かして高度な教育をほどこしてきた。

 

定子

そして後宮で定子が賜った登華殿は、知識人や若い公卿が集う華やかで知的なサロンとなっていく。(ドラマのナレーションから拝借)

一条天皇に定子が愛されたのは、(父道隆が定子以外の姫の入内を許さなかったという強引な政策があったにしても)このような文化的素養があったから、なのだろう。

その点は、ふたりで遊んでるのがすごろくに偏継ぎ(偏と旁を合わせるカードゲーム)というところに象徴的に現れている。

貴子に「後宮おさとして広い目で見て皆をまとめなければならない」と言われているけど、当時13才の入内したばかりの姫である定子にはいまいちピンときてないらしいが。

ただ新しい青磁香炉の調度品に素直に目を奪われているばかりの初々しさ。

当時の青磁(と白磁)といえば。

磁器は宋又は高麗からの輸入品で当時でも値段はつけられないほどの高価な舶来品であった。なぜなら磁器の焼成には1200℃を要し、日本の窯には到底その技術はなかったので。透き通る磁肌と高い空のような美しい水色に近い青。宋時代における茶の文化の隆盛と共に青磁の生産は最盛期を迎える。まさしく文芸を以て是となす定子のサロンを飾るにふさわしい調度品である。

※定子が持っていたものと同様なものの参考画像。これは龍泉窯の青磁香炉。実際には龍泉窯の最盛期は南宋時代のため、定子の生きた時代よりも約100年後のことなのだけど。まあ大体同時代の文化の輸入品を宮中に置いていた、という設定だと思えばいいだろう。

(画像引用:青磁袴腰香炉 文化遺産オンライン )

 

太后であられる東三条院詮子の憂鬱

定子のサロンは一条天皇の母、皇太后東三条院詮子からはよく思われていないようだ。なんでだ、定子の父道隆は詮子の兄なのに。とかいう現代的な感覚はこの時代にはない。

詮子には強引すぎる政略と陰謀を仕組んでいた父兼家(とその同類とみなしていた兄道隆)への確執は決して生涯消すことのできないものだし、道隆が送り込んできた女御定子など認められるものではない、詮子の大切な一人息子である一条天皇にはもっとふさわしい姫が女御として入内してほしいが、道隆の一方的な妨害によりどの姫の入内も許されないというジレンマをここで抱えていたのだろう。

ただ。この詮子の憂鬱はこの時だけのもののはずだ。

その悩みはもうすぐ解消されることだろう。

詮子自身の強固にして決然たる意志によって。

 

まひろとききょうの視点(庶民ではない下級貴族)

第14回では貴子が主催して伊周の婿入り先の姫探しに、和歌の会を自邸宅で開催している。

伊周は「和歌も漢詩も、笛も弓も」誰よりも秀でているらしく、宮中でも同僚の貴族からは羨望の的、女房などからは高嶺の花として何かにつけ話題の中心であったらしい。

そんな伊周が婿入り先の姫探しをするとあって我こそはと名乗りを上げ参加の申し入れをしてきた家の姫君たちの顔ぶれは、どの姫も容姿端麗、才色兼備の誉れ高い教養が垣間見え………

ん???容姿端麗でありどの姫も華麗な衣装で目を奪われるようではあるが……?

なんかこう、みんな良家の深窓の姫君ではあるが、それだけだという雰囲気がある。

場の空気を読んで自ら動こうということもなく、なにもかも用意されるのを待っているというか、与えられたことだけを凡庸にこなすだけの緊張感のない雰囲気………

俳優さんの演技もみな同一である。

それぞれの姫の描かれ方に、個性が持たされていない。

 

鋭い観察眼をもつ才気煥発のききょうには、そのようなぬるま湯に漬かったあいまいな空気は耐えられなかったようで。

まひろには後日、包み隠さず下記のように述べている。

「先日の和歌の会はつまらぬものでございましたわね。あのような姫たちがわたくしは1番嫌いでございます。より良い婿をとることしか考えられず、志を持たず、己を磨かず、退屈な暮らしもそうと気づく力もないような姫たち。」


 彼女らはのちの道隆邸における弓競べの観覧の席に座り、伊周に憧れの視線を向ける姫君たちとみな同一人物だと思われる。

(※しいていえばこの観覧席には本来御簾が下ろされているはずであり、姫君たちからのみ弓を引く公卿たちが見えるのであって、外からは姫君たちが見えるはずはないのだけど。人前で扇で隠しているとはいえ顔を、姿を晒すなど、当時で言えばストリップショーに等しい行為であり姫君たちにはありえない状態のはず)

 

まひろが提示した和歌:

秋風のうち吹くごとに高砂    尾上の鹿の鳴かぬ日ぞなき

さて、この拾遺抄巻第三  秋(読人不知)の歌であるが、ききょうは次のように評している。

威厳に満ちながら秋にふさわしい、涼やかな響きの歌でございます 

 

この和歌の会、名目は形だけとはいえ「和歌が詠める、才能ある姫君」を発掘することなのに特別ゲスト扱いで伊周の婿入り候補ではないまひろとききょうが和歌を披露するのはいいけど、肝心の参加してる姫君たちはどのような和歌をお詠みになったのだろうか。

知識と才能にあふれた姫君を見つけるのはそう簡単なことではないということだ。

 

そういえば土御門殿の倫子のサロンにまひろが伺候しなくなって久しく、倫子から直々に呼び出されて左大臣家に女房として仕える話も(恋の傷も癒えないのにできるわけないじゃん!と思ったのか)まひろはあっさり断るし、そうこうしてるうちに和歌が劇中で詠まれることも少なくなったので久しぶりな感じがした。

そういえば赤染衛門先生はお元気であろうか。またお顔を拝見したいものである。のちに、再開して消息をうかがえる時もめぐってくるだろう。

 

さてこの話題は、ききょう=清少納言中宮定子のもとへの出仕話につながってくる。

ききょうの志:宮中に出仕して広く世の中を知る

確かに気持ちはわかる。貴族の姫君はききょうのような受領階級の姫(父君が五位以上の階級)の身分だと、屋敷の外に一生出ることもなく、御簾の内側で和歌を詠んだり貝合わせやすごろくなどの遊戯に興じ、また琴や琵琶などの楽器を演奏したりして過ごすのだ。結婚も通い婚だから、恋愛時代から結婚後も貴族の女性は邸の自室から出ることはないのだ。

究極に深窓の令嬢で箱入り娘しか育たないこの環境で、何事にも興味と好奇心を持つききょうが満足できるだろうか、いや絶対にありえない。

さすが後代に遺る随筆「枕草紙」を書き記すことになる、清少納言

そもそもの心構えがまず違う。

 

ここでききょう先生の名演説が堂々と語られたので、上記の姫君評と共に、そのまま載せておく。当時夫も息子(10才ごろ)もいたがほんとに別れているようだ。志を語るにあたっての覚悟と決意が半端ない。

自分の志のために夫を捨てるつもりです

夫は「女房に出るなどという恥ずかしいことはやめてくれ、文章や和歌はいいから自分を慰めてくれる女でいろ」と言いますが、(そんな男は)下の下でございましょう?息子にはすまないことですが私は私のために生きたい。

広く世の中を知りそれが世の人のためになるような、そんな道を見つけたいのです。

ものごとへの好奇心。

繊細な分析力。

鋭い観察眼。

また、これらを簡潔にそして的確に、かつ格調高く文学的に綴る稀有な才能。

謎の多い当時の宮中女流作家たち、彼女らの人生の背景をこうして視覚的に追うことで、当時の文学作品の背景をより身近に感じられる気がする。

 

庶民の視点

さて、ききょうの一本筋の通った断固たる決意表明を聞いたまひろだが、ではまひろはどのような志を持っていたのだろう。

少なくとも、まひろは家でひたすら漢籍と和歌を習得し修めることに余念がないだけで、宮中へ女房として出仕するなどどはこの時つゆほども考えてもいないし語ってもいないように見受けられる。ききょうの決意をきいても他人事のようにお祝いを述べて終わるだけである。

確かに女房として出仕するのはすなわち宮中で公卿ら男性に顔を晒すことであり、それは同時に(下級とはいえ)貴族の女性としては恥と考えられていた側面があったことは否定しない。ききょうの夫が言ったことも現代の感覚でいうと差別になるだけであって、当時の貴族の感覚としては至極まっとうな意見だったにすぎない。

 

ドラマの中で語られるまひろの志はどうだったのか?

それは文字の読めない人を少しでも少なくする事。

そこにすかさずききょうがツッコミを入れる。さすが鋭い指摘。ぐうの音も出ない。

「でも、我々貴族の幾万倍もの民がおりますのよ?そのことはご存じ?」

 

その通り。まひろの志は、最も民主主義が芽生えるのが早かったヨーロッパでもルネサンス以降、18世紀とかである。600~700年は早い思想を語っているのだから、まひろの言葉は周囲の人に荒唐無稽、実現できる根拠のない戯言だとして、夢見る貴族のお姫様扱いされて終わるのも無理のないことである。日本で文字が一般民衆階級に普及するのも江戸時代以降(の町人階級)だから少なくとも600年後ということになる。ヨーロッパと同じじゃないか。

※登場人物たちの、まひろの行動を耳にしての反応

宣孝:平民に文字を教えて何か儲けがあるのか?ないだろうwww*1

いと:べつにお礼を頂いてないのですからどうでもいいじゃありませんか*2

さわ:一人に教えたところで、国の民皆は救えませんよ?(迫真)

ききょう:なんとまあ、もの好きな……(呆れ)

 

ここで、文字を教えている農民の子の親からまひろに直接言葉を頂いたので、そのまま載せます。

「子供は立派な労働力だ」

「文字なんか読めたって暮らしはよくならねえ」

「俺らはあんたらお偉方の慰みもんじゃねえんだ!」

つまり、

まひろの行動は単なる自己満足にすぎないのだとはっきり当事者から宣告されたのです。

 

学問の出来が悪かった弟の惟規が擬文章生に合格した祝いに、琵琶を弾くまひろ。しかしその表情はお祝いにしてはどことなくもの寂しい。惟規は琵琶の音を「哀しい音ですね」というが、まひろは自分が政治にかかわることができるでもなくただ貴族の邸で過ごすしかできない身の上を嘆いているように見える。

 

また、白居易の琵琶行という漢詩を書写しながらぼんやりつぶやく。

「私は一歩も前に進んでいない」

現実を憂いつつ、無力な自分。こうして学問を究めることしかできない……

そんな心の独白が静かに聞こえてくるようだ。

 

おまけコーナー:漢詩について

さてこの白居易だが、源氏物語にも多々引用されている。

第一巻の桐壺は題材として長恨歌の粗筋をそのまま踏襲していることは有名だ。また、

「天に在つては願はくは比翼の鳥と作らん、地に在つては願はくは連理の枝と為らん」

という長恨歌の一節を題材に取った「比翼連理ひよくれんり」というキーワードを引用して光源氏と紫の上の仲睦まじさを描いている。

李白杜甫と並び称される唐の詩人である白居易は通称を白楽天として奈良時代の当時から日本でも親しまれ、その著作はまとめられて「白氏文集」として広く知れ渡っていた。

 

白氏文集からは清少納言枕草子に引用している。というより定子様と清少納言による当意即妙のアイデアの応酬というところか。

いわゆる『枕草子』第二八〇段に見える「雪のいと高う降りたるを」の中で触れられている香炉峰の雪のことである。

枕草子のこの場面は有名で、古くから数多くの画家が描いている。


白居易の漢文と現代語訳

『香炉峰下新卜山居』白居易【原文・書き下し文・現代語訳・解説】

 

 

レジャーとしての寺社参詣

無力さをかみしめ、鬱々とした人生を嘆くまひろ。

さわも家では継子として父母につらくあたられているといい、気分転換を思いついたまひろは為時に願い出て、さわと2人で石山詣でに出かける。

 

石山寺は観音信仰の寺で創建は奈良時代にさかのぼるという。

懸造りで建てられた本殿は平安時代の建造でもちろん現在は国宝である。

(当時はこの柵はなかったけど)

 

琵琶湖から流れ出る瀬田川のほとりの山の裾、視界の開けた風光明媚な場所にある石山寺は都から近いこともあり、長谷寺参りと並んで貴族の(特に普段家から出られない女性の)参詣先として人気があった。参詣という名目で旅行できるから、という意味もあっただろう。

つまり当時の人たちには参詣=レジャーという意味が強かった。

交通手段もなく移動は女性は袿の被衣姿に掛け帯、笠に虫の垂れ衣をたらして足は足袋に草鞋という旅装でひたすら歩くのである。さらに寺へ参篭するのに一週間かけていたことをみると往復一か月?とかいう計算になってきて、確かに都を離れて自然豊かな地に物見遊山がてらリゾート地へ出かけるという目的のほうが多かったかもしれない。

 

さて従者を連れて徒歩で道をいく二人はすっかり意気投合したようで、紫式部の著作に実際に出てくる親友という人も、さわのことを指している、つまりさわは実在の人物なのではないかと思えたりする。

ここで兼家の妾であった寧子と道綱の一行に出会い交流を深めるのだが、そんな政治的背景はまひろにはどうでもいいらしく、昔から蜻蛉日記の作者として思慕と憧れの念をいだいていたであろうまひろは、童心に戻ったかのように無邪気に純粋に笑顔を見せる。今までの悩みなどどこかに吹き飛んだかのように。そういう意味では物見遊山より祈祷より、まひろにとっては石山寺にはるばるやってきたのは意味があったかもしれない。

大人になって実際に恋の喜びそして苦しみを身をもって知ったからこその、蜻蛉日記への理解がより深まったこともあるだろう。

まひろが、まるで推し作家の新作販売日に書店に一番乗りしたら偶然推し作家本人に出会えたときのマニアックなファンみたいな言動で、いかにも嬉しそうにソワソワしてて実にほほえましい光景だった。

 

さて。実際に石山寺に行ってみたので、梅の季節の雨の日であったが、現地の風景を貼っておく。

ちょっとしたこういう掲示板にすら素朴なわびしい雰囲気があって歴史を感じる。

 

石山寺の語源になった巨大な石を背景に、梅の盆栽が展示されていた。

寒い中可憐に咲く白梅。

 

 

ひろたちが参詣したであろう本殿脇の廂廊下。貴族の邸の廂もこういう廊下に同様に高欄がついていたのだと思う。

 

おまけ:大河ドラマの舞台という事でイメージイラストが掲げられていた。

素敵なアニメ風イラスト。

 

 

さらにおまけ:琵琶行の漢詩全文

※引用元:『琵琶行』白居易 【全文の原文・書き下し文・現代語訳・解説】 より

この冒頭の太字で書いてる部分が、まひろが書写していた部分です。

そのあとの、第一段おわりの色を黄緑に変えた部分を、まひろが声に出して静かに少しだけ朗読している。

そして「私はまだ一歩も前に進んでいない」というナレーションが入る……

 

原文

琵琶行 並序

元和十年、予左遷九江郡司馬。明年秋、送客湓浦口、聞舟中夜弾琵琶者。聴其音錚錚然有京都声、問其人、本長安倡女、嘗学琵琶於穆曹ニ善才。年長色衰委身為賈人婦。遂命酒使快弾数曲。曲罷憫然自叙少小時歓楽事、今漂淪憔悴、徒於江湖間。予出官二年恬然自安感斯人言是夕始覚有遷謫意。因為長歌以贈之。凡六百一十ニ言、命曰琵琶行。

 

(第1段)

潯陽江頭夜送客

楓葉荻花秋瑟瑟

主人下馬客在船

挙酒欲飲無管絃

酔不成歓惨将別

別時茫茫江浸月

忽聞水上琵琶声

主人忘帰客不発

尋声暗問弾者誰

琵琶声停欲語遅


(第2段)

移船相近邀相見

添酒迴燈重開宴

千呼万喚始出來

猶抱琵琶半遮面

転軸撥絃三両声

未成曲調先有情

絃絃掩抑声声思

似訴平生不得志

低眉信手続続弾

説尽心中無限事

軽攏慢撚抹復挑

初為霓裳後六玄

大絃嘈嘈如急雨

小絃切切如私語

嘈嘈切切錯雜弾

大珠小珠落玉盤

間関鶯語花底滑

幽咽泉流氷下難

氷泉冷渋絃凝絶

凝絶不通声暫歇

別有幽愁暗恨生

此時無声勝有声

銀瓶乍破水漿迸

鉄騎突出刀槍鳴

曲終収撥当心畫

四絃一声如裂帛

東船西舫悄無言

唯見江心秋月白


(第3段)

沈吟放撥插絃中

整頓衣裳起斂容

自言本是京城

家在蝦蟆陵下住

十三学得琵琶成

名屬教坊第一部

曲罷曾教善才伏

粧成毎被秋娘妬

五陵年少爭纏頭

一曲紅綃不知数

鈿頭銀篦撃節砕

血色羅裙翻酒汚

今年歓笑復明年

秋月春風等閑度

弟走従軍阿姨死

暮去朝來顏色故

門前冷落鞍馬稀

老大嫁作商人婦

商人重利軽別離

前月浮梁買茶去

去来江口守空船

遶船明月江水寒

夜深忽夢少年事

夢啼粧涙紅闌干


我聞琵琶已歎息

又聞此語重喞喞

同是天涯淪落人

相逢何必会相識

我従去年辞帝京

謫居臥病潯陽城

潯陽地僻無音楽

終歳不聞絲竹声

住近湓江地低湿

黄蘆苦竹繞宅生

其間旦暮聞何物

杜鵑啼血猿哀鳴

春江花朝秋月夜

往往取酒還独傾

豈無山歌与村笛

嘔唖嘲哳難為聴

今夜聞君琵琶語

如聴仙楽耳暫明

莫辞更坐弾一曲

為君翻作琵琶行

感我此言良久立

却坐促絃絃転急

淒淒不似向前声

満座重聞皆掩泣

座中泣下誰最多

江州司馬青衫湿

 

現代語訳

元和十年、私は九江郡の司馬に左遷された。翌年の秋、客を湓浦のほとりまで送っていく船の中で、夜琵琶の音(ね)を聞いた。その音色はみやこ風で、誰が弾いているのかを聞くと、元長安の名妓で、かつて琵琶を穆、曹という二大名人に習い、年を重ねて美貌が衰えると、商人に身請けされてその妻になったという。

その話を聞いて私は酒を持ってくるように命じ、いそいで彼女に何曲か琵琶を弾いてくれるよう頼んだ。彼女は弾き終えると悲し気に若かりし頃の楽しかった思い出を語り始めた。そして今はすっかり零落し憂き世をさすらっていると言う。

私もまた左遷されて2年の月日が経つ。自分の身の上には特に心患うこともなかったが、この人の話を聞いて感じるものがあり、この夜はじめて流謫(るたく)の身の悲しさを思った。そこで長歌を作って彼女に捧げようと思う。およそ612語、これに「琵琶行」と名付ける。


(第1段)

潯陽江のほとりで夜客を見送った。

楓葉に荻の花、秋は何とももの悲しい。

私は馬から下り、客は船に乗り込んだ。

杯を挙げ酒を飲んで別れの宴といきたいところだが、音曲がない。

酔って楽しく見送りたいのに、沈んだ気持ちで別れの時を迎えた。

別れる時どこまでも広がる川に月影が映る。

その時ふと川面に流れる琵琶の音に気づき

私は帰ることを忘れ、客は出発をやめた。

その琵琶の音のことをそっと聞いてみる、いったい誰が弾いているのかと。

琵琶の音はやみ、返事はなかなか戻ってこない。


(第2段)

船を移し、近づいて琵琶弾く人を迎え

酒を添え灯火を巡らせて再び宴会を開く。

何度も声をかけてやっと来てくれたが

顔を隠すかのように琵琶を胸に抱えている。

絃を巻いて音を整え、バチを払って二、三音。

まだ曲にはなっていないがすでに情緒が立ち昇る。

絃を低く抑えた音には思いがこもり

志を得られぬ身の上を訴えるかのよう。

眉を垂れ手に任せて琵琶の音を奏で

心中の無限の思いを語り尽くそうとするかのようだ。

軽く押さえ、ゆるく捻(ひね)り、撫でて又跳ね

最初は『霓裳羽衣の曲』を、次は『六玄』のしらべを。

太い絃はザワザワと激しく雨が降るごとく

細い絃はヒソヒソと内緒話をしているよう。

ザワザワとヒソヒソが交じり合えば、大小の真珠が玉の皿に落ちるかのよう。

のどかな鶯の鳴き声が花の下でなめらかに響き

むせび泣く泉の流れが氷に閉ざされて行く道を遮られる。

氷の下で泉は凍り付き、弦もまた凝結して流れは途絶え音はやむ。

ひそかな憂いと恨みが生まれ、この時音がやむのは音があるより良い。

しばらくすると銀の甕が破れて中から水がほとばしり

鉄の鎧をまとった騎兵が飛び出して、刀や槍を打ち鳴らす。

曲が終わるとバチを収めて弦の真ん中をザンと払う。

四つの弦が同時に鳴らす音は絹を引き裂くよう。

東の船も西の船も話し声が消えてしんと静まり返り

ただ川の真ん中に秋の月が白く光るのを見るばかり。


琵琶を弾く女は物思いにふけってバチを絃中にはさみ

身じまいを整えて立ち上がった。

そして自ら、かつて長安のみやこに住んでおりましたと語り始める。

家は蝦蟆陵下にあってそこで暮らしておりました。

十三の年には琵琶を習得し

天子様の教坊の一番の教室におりました。

私が弾き終えると、琵琶の名手たちはその素晴らしさに頭を垂れ

美しく化粧をすると、姐さんたちに妬まれました。

お金持ちの貴公子が争って私に心づけをよこし

一曲弾けば心づけの赤い絹は数知れないほど。

螺鈿(らでん)の櫛は拍子取りに使ううちに砕けてしまい

赤い薄絹の穿(は)きものは転がった酒器に汚れ

その年けらけら笑って暮らせば翌年もまた同じ。

秋の月も春の風も考えなしにのほほんとやり過ごし

そのうち弟はみやこを離れて従軍し

妓館のお母さんも亡くなりました。

夕暮れは去ってまた明日が来て、そうこうするうちに花のかんばせも色あせ

人気は衰え、馬に乗って通う客も稀になり

すっかり若さを失うと商人の妻となりました。

商人は儲けが大事で、妻と別れて暮らすことなど意に介さず

前の月に浮梁に茶の買い付けに出かけてしまいました。

夫が出かけた後は河のほとりで一人留守船を守り

船をめぐる明月も川の水も私には寒々しいばかり。

夜更けて思うことといえば若き歓楽の日々。

夢に泣くと化粧が溶けて赤く流れ、ぬぐってもぬぐっても涙があふれてくるのです。


(第4 段)

私は琵琶の音にすでにため息をついていたが

女が語る身の上にまたため息が出た。

琵琶を弾く女も私も共にみやこを放逐されて落ちぶれた者どうし。

人が出会うに古い知り合いである必要もない。

去年長安のみやこを離れ

流謫(るたく)の身となって潯陽の地で病に伏す。

潯陽は辺鄙な場所で音楽というものがない。

一年中笛の音も絃の音も聞かず

住まいはじめじめとした湓江の川べり。

黄色い葦や苦竹が家の周りをうっそうと取り囲み

朝から夕べまでいったい何を耳にするかといえば

血を吐いて鳴くというホトトギスと猿の哀しげな声。

春の川辺の花の朝と秋の月夜には

しばしば徳利を手に一人酒を傾ける。

山守の歌や村人の吹く笛があるではないか。

いやいやキーキーガーガーとあれは聞くに堪えぬ。

今夜あなたの琵琶が奏でる物語を聞いて

まるで仙界の音楽のごとく耳が清められました。

どうか断らないでほしい、もう一度座ってあと一曲の願いを。

私もあなたのために琵琶の音色を詩に変えて『琵琶行(びわうた)』を書いて進ぜよう。

琵琶女は私のこの言葉に感じてしばらく立っていたが

座って絃を絞るとにわかに急な調子が流れ

音色のうら悲しさは先ほどとは様変わり。

満座の者これを聞いてみな涙に濡れた顔を覆う。

座中最も涙を流したのは誰か。

それはこの私、江州の司馬だ。わが青衣はすっかり涙で濡れてしまった。

 

 

 

 

*1:

*2:

第13話「進むべき道」 大河ドラマのlightな感想 光る君へ

 

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一条天皇の御代と中関白家の栄華

さて、ドラマの舞台は前回から4年の時を経て、990年(永祚2年)。

986年安和の変花山天皇を謀略に陥れて譲位させ、7歳になる孫の一条天皇を即位させて、摂政の座につき絶大な権力をほしいままにした藤原兼家

兼家の子息たちはいずれも飛躍的に昇進を遂げるが、嫡男の道隆は正二位内大臣となり、その家は中関白家と呼ばれて輝かしい隆盛の時代を迎える。

 

物語の時代は前回から4年とんでいるので、登場人物の年齢と官位をあらためて表にしてみた。ご覧の通り、道隆以下の中関白家のメンバー(太字)は誰もが一足飛びに昇進をはたしている。

伊周なんて16歳にして正四位頭中将である。この官位は貴族の子息の最高の出世ルート。選りすぐりのエリートってことだ。

(それに頭中将は花山帝時代の藤原実資さまと同じではないか)

道長も、正三位中納言と悪くない扱いである)

兼家の子息らに比べると、関白だった父頼忠を亡くした公任(下の表の太字)などは、以前までは出世頭の有能なエリートであったが、父という後ろ盾を失い昇進には陰りが見えるありさま。公任はドラマの中で道兼(正二位)におもねって目をかけてもらう算段をつけている。(その他の公達らも同様に昇進ははかばかしくない様子である)

 

 

道隆の正室貴子は学才のある知識人を輩出していた高階氏の家系で、その薫陶を受けたためか、貴子いわく「伊周は漢詩も和歌も、笛も弓も、誰よりも秀でていますものね」と、非常に高い教養があったようだ。16歳にして頭中将という出世頭であり文才に秀でていて、また音楽も嗜み武勇にも長けていたということだろうか。

伊周の衣装は地模様に葡萄唐草文を配し、その上に濃い紅の上品な色で鳳凰の紋様が浮き彫りのように織り出されている。葡萄唐草文も鳳凰も由緒正しい唐由来の正統派で高貴な標題であり、この点でも若き貴族のエリートぶりがうかがえる。

 

登場人物の衣装ひとつ取っても中関白家の未来は洋々たるものである。

その輝きはまばゆいばかり。

そして、定子もまた今後、豊かな学識をもって入内後に知識人のサロンを築く。

 

 

まひろの身の振り方と識字率の矛盾

ところ変わってあいかわらず質素なしつらえの為時邸。まひろも為時も惟規の乳母のいとも、紋様とて無い麻地の衣装のまま、文字通り着の身着のままに等しい窮乏振り。

かろうじてまひろが幼かった頃の雨漏りだけは回避できているようであるが。

もう一度言う。

986年から10年は為時は無位無官である。ドラマのこの時点で990年、あと6年このまま。もう気が遠くなってくる……だれか為時邸に、生活に苦労しないだけの衣食住のほどこしを……どうかお恵みを……

さて今日もやって来た宣孝おじさんである。身なりが当時で言う僧正のコスプレ?派手な袈裟ふうの衣装で、物見遊山がてら御嶽詣でに行ったらしい。

いわゆる今回の第13話におけるピエロみたいな感じ?

御嶽詣でというのは大和国吉野の里、金峰山に詣でることをさす。

京の都の貴族にとって、吉野は身近なレジャースポットといったところか。当時の貴族には、寺社参詣が唯一の外出理由であり、外出すること自体が旅だった。紫式部ゆかりの琵琶湖畔の石山寺も風光明媚なロケーションが貴族にウケていたらしいし。

その他大和の国にある長谷寺室生寺などと併せて、吉野山金峰山は今も昔も有名山岳リゾート地なのだ。とくに吉野の桜は古く和歌にも多く詠まれている。また、鎌倉時代を経て南北朝時代南朝は吉野に本拠を置いた。

山岳リゾート、いわゆる軽井沢。ドイツ人にとってのガルミッシュ=パルテンキルヘンチェコ人にとってのチェスケー・ブジェヨビツェ。

何言ってるのか分かんなくなってきたので次行こう。

 

そんな息詰まるような暮らしを見かねて、宣孝おじさんは次のまひろの婿を探そうと提案するもまひろは断固拒否する。

いいんですか、史実でもあと六年は少なくともこの暮らしが続くのに?

まひろは20才を迎え、少女だった頃の軽装から落ち着いた大人の女性の袿へと、色合いも爽やかな若草色でぐっと垢抜けた装いだ。

要するに結婚適齢期。(てかもう当時では行き遅れの年……おっと誰か来たようだ)

この御嶽詣も、宣孝おじさんの暮らしぶりだからこそ行けたのであって、為時邸の財力では明日食べる魚を買う予算さえない。

 

明日食べる魚………

まさに、まひろはさわと共に市へ買い出しに行っている。市への買い出しなんて下女の仕事である。このような場所に出入りすること自体が貴族にとってはスキャンダルだと思うが、まひろは背に腹は代えられない。というか、さわは単なる巻き添えを食らったに過ぎない。

案の定、市は犯罪者が獲物を狙って跋扈する無法地帯でもあった。だから、画面の視界に入らなかったけどたぶん物乞いとか放浪者もいただろうし。

そこで人買いに遭遇するまひろたち。

子供は古今東西、高値で奴隷商人に売れる商品だったのだろう。子供という概念ができたのが近代であり、それまでは子供は小さな労働者に過ぎなかったのだし。

安寿と厨子王とかの昔話もありますよね。奴隷商人は何も大航海時代の黒人奴隷相手だけの専売特許ではない。古くはエジプトや古代ギリシャ、ローマといった国家でも奴隷は売買されたしそれは古代インドや中国でも同じであった。

つまり奴隷とは彼ら自身に人権はなく、親子関係を無視して身柄を売り買いできる個人の資産であった。しかしまひろは彼ら一般民衆とその下の階層の人たちを見て識字率の低さ、そして教養の大切さを痛感したようだ。

字さえ読めれば、書ければ。

この民衆の識字率向上というのは歴史上、常に国の行方を左右した重要なファクターだ。この時代の女性の識字率というのはあくまで(下級も含めて)貴族の女性という意味に限られ、その波及効果は宮廷文化と貴族の邸、そこに出仕する女官としての女房文化であった。つまり担い手は貴族の域を出ない。

貴族は当時生活に和歌を取り入れ、季節の挨拶から恋愛の文まで自由に詠み、またそれは政治のやり取りでも使われた。

ただ古今の著作に通暁し、仮名から漢字まで、和歌に日記文学漢籍まで自在に操るまひろのほうが、ほんとは少数派だったんだろうけど。そこまでのインテリジェンスを備えた女性は、特に漢文に通じている女性は稀有な存在ではあったようだ。
(同時代のヨーロッパでは貴族でも読み書きできる人はほぼ居なかったことを考えると、日本の平安時代は貴族限定ではあるが識字率が高かったといえるだろう)

 

識字率

当時の仮名文化と和歌はあくまで貴族社会がベースであり、それ以外の階級を題材にはしなかったし読者としても想定しなかった。貴族の視界にはあくまで貴族しかいない。

 

ここに登場する人買いは当時いくらでもいただろうし、貧民の子供が奴隷として売られていく光景も日常的にありふれた光景だっただろう。市の風景に登場しないだけで、路上の物乞いもたくさんいたことだろう。

ただ彼らが貴族文化に登場しないだけのことである。

ほんとうに町人、村人レベルまで文字が普及するのは少なくとも近世つまり江戸時代、武士階級が身分として固定され、人口の一角を膨大な数の武士が占めるに至り、彼らに漢文古典(=儒教教育)の教養が普及するまで待たなければならない。ここで村人と書いたのはあくまで寺子屋レベルの最低限の読み書きという意味である。

国としての文化を底上げする意味で識字率が普及するにはじつにあと600年は待たなければならないのだ。

まひろが路上で文字の読み書きを実演してみたり、庶民の子供(文字が読めない)に文字を教えたりする場面は当時の社会構造からして理想ではあっただろうけど、それを貴族階級であるまひろが担当していることで時代観がブレてくるのである。

さわが、人買いにどつかれて怪我をしたまひろに「ひとりに教えたところでどうにもならない」と、真正面からど正論を言っているがその通り。

細かい年代の設定とかどうでもいい派だが、まひろのこの方針だけは明確に当時の貴族の常識から逸脱しているのでツッコミを入れてみた。

 

※ちなみに宣孝様は息子をまひろの婿にと懇願されるも言下に断っているが、なぜそこまではっきりと拒否したのだろう?その理由は今はよくわからない。

まひろが婿を取らない理由は、たぶんまだまひろの心の中に道長様が住んでいるからだと思われるけど。でも月日は過ぎ、物語はどんどん進んでいくのである。時代の流れに立ち止まるという単語はない。

まひろの中ではもう決着をつけた過去のことなのだ。

 

尾張国司が暴政により交代したくだりが、内裏の朝議にでてくる。そして道隆ら一般的な公卿が示す方向性はそんな些細なことは無視するというものであった。

道長はそこに意を唱えるが、このドラマの道長像はどこまで真実を語っているのかよくわからないのでとりあえず保留にしよう。後の彼の政治への姿勢を顧みても、どうも一貫性がないような気がするので。)

この朝議にもある通り、民衆の意を汲んで民衆のために政治をするという方針からは、当時の意識は程遠いものがある。

 

現在の政治は民主主義、主権は民衆にあり、政治は民衆のために行われている。

当時は政権は天皇(と公卿)が握っていたから主権も天皇にあると考えられるだろう。(近代絶対王政のように全国に張り巡らされた組織を基盤とした、集中した権力を握っていなかったにしても。)そして政治も彼ら貴族の為に行われているのであり、民衆の存在は顧みられてもいなかったし、荘園からの税収が上がってくる源泉としかみなされていなかったのではないか。

 

兼家の老い

ここで現在のところ断然主役を張っている、兼家こと段田安則さんの演技がまたしてもいぶし銀のように鈍い光を放つ。

老いてなおその瞳は龍のような眼光を失わない。

なんていうか、ドラマでここまでの歩みがほんの13回を数えるにすぎないがまさに波乱の人生を泳ぎ切ったかのような風格を備えている。

花山天皇が譲位するにこぎつけるまでの長い艱難辛苦の道のり。その道程において寸分も気を抜くことなく徹底した裏工作を怠らず、自分の政治信念を貫いた。

家の概念が、江戸時代以降の男系相続の儒教観念とはだいぶ違うけど、でも根底の思想には家の繁栄があることには変わりない。

道長は「長い戦いを生き抜いてこられ、父上は気が抜けてしまわれたのやもしれぬ」と推察しているが、確かに兼家は肩の荷が下りたかのように安堵の笑みを浮かべ……

 

それぞれの人生のステージでの段田安則さんの演技が、それぞれに光っているのだ。

今回のテーマは老い。人生において下り坂、大役を成し遂げて自分の役割を終えたと感じた時が、人にとってすなわち死なのかもしれない。そう思わせる、定子入内からの急激に感じられる兼家の老衰。

 

そう、人にとって死とは、後の世において忘れられた時がほんとうの死なのかもしれない。しかし兼家にとっては自分の中でもう死んでも良いと認識したときが死だった、のかもしれない。

定子入内の夜、道隆に話しかけようとして足を踏み外す。

(源明子と対面して)話していても視線が定まらず、手元が小刻みに震え、姿勢も不安定になる。話し方にもあれほど張り詰めていた覇気がすべて消えた。

明け方起きたら視界がはっきりしない(白内障緑内障?)

そして、会話の内容がかみあわず、覚えていたひとを忘れる様が、いまでいう認知症のようすを現わしているのだと思う。(※道長は『物の怪のせいだろうか』と言っているが)

これらのせりふに現れない動作や目線によって、前回までの精気隆々としたようすと打って変わって、まざまざと四年の月日の流れと兼家の止められない老いを隠すことなくえがいている。

これこそ俳優の真骨頂ではないですか?

職場が病院なので認知症の人も間近に見るし、身内にも高齢者がいるので細かいニュアンスがまさに、老いていくさまをリアルに表現されていて、すごいの一言。

前回までの兼家を演じていた同一人物の俳優さんとは思えない、変貌ぶりです。

 

さらに凄いのは。

この、自分でもはっきり感じる老いという現象に対し、いやそんな観念がなかったからこそ?これらの変化に戸惑い恐怖を感じるさま、そしてまだ自分の意識、認知能力がしっかりしているうちに次の世代への継承をしなければと思って咄嗟に安部晴明を召喚するあたりが、老いてなお、傷ついてなお斃れない龍のような雄姿を彷彿とさせる。

死を恐れて当時の人は浄土宗に頼り出家したが、しかし兼家は自分の死が見えてきて何を恐れたかというと自分の死後の世界ではなく、自分が死んだ後の家の行く末を恐れていたのだった。

その恐怖におののき一人すすり泣いているように見えるのは、しかし決して家族にもその姿を見せることはない。

 

凄い。

そしてそんな心の内を読まれたのか、安部晴明には「跡継ぎの方、それはもうお心のうちは決まっておりましょう」と見透かされていて兼家は苦虫を嚙み潰したように向こうを向く。

兼家がそのお心のうちを明かしたのは道隆ではなく道長だった。

兼家の中では後継者は間違いなく道隆であり、事実兼家の死後、実質的な政権は道隆の手に渡る。ではなぜこのとき兼家は道長に後継者の心得などということを語ったのだろう。

兼家にも見えない何か、道長にもわずかながらに何か権力の糸をつかむきっかけが、兼家のかすんだ視界に垣間見えたのだろうか。

 

兼家「民におもねるな」

 

この後のことばが名言すぎるので、詩のように綴ってみた。

守るべきは、家だ。

真のまつりごとは家の存続だ

人は皆いずれは死に付されて土に還る

されど家だけは遺る

栄光も誉も死も……

家だけは、活き続けるのだ

家のために成すこと、

それが儂のまつりごとである

 

その考えを引き継げる者こそ、儂の後継だ

 

これ、社会の仕組みが律令制から院政へ、武家社会へと変わっても、そして結婚制度も通い婚から男系相続へ遷り変っていっても、

変わらない普遍のテーマではないでしょうか。

兼家が自分の寿命が明日をも知れぬことを自覚しながら、後の世代に遺した言葉。

その覚悟が、夜の闇の中、月を思わせるほの白い光に照らされて威厳を以て迫ってくる。

後の歴史を見ても、このビジョンを鉄の意志と覚悟を以て貫いたものはのちに永く栄えることになる。徳川氏とかがいい例である。御三家、譜代大名と徳川の家系を絶やすことのないように鉄壁のシステムを敷いている。(それ以前に政治政策が盤石であったのはいわずもがな)

 

 

道長と正妻

さて、道長の正妻は二人。

左大臣家の一の姫、倫子。通称鷹司殿とよばれる、源雅信の娘。広大な土御門殿を継承し、道長もここを拠点として政治家としてのスタートを切ることになる。

そしてやっぱりお姑さんの穆子様は道長びいきである。子供時代はぼーっとしていたとかいう道長の言葉も「それは倫子を笑わそうとなさっているのよ」とさりげなく優しいフォローを入れて下さっている。

どうなのですか、土御門殿における道長への、下にも置かない丁寧な扱い。

道長は新婚夫婦としても、政治家としても、これ以上ないくらい幸せで順調な滑り出しというべきだろう。スタート地点ですでにアドバンテージ感が半端ない。

そしてここに寝てる御年2歳の(988年生まれの)姫君が、一の姫あきこ様……彰子様…

彰子様じゃないですか!

(そういえば帝は10~11才、彰子様は2歳、8歳差なのですね……ついでに定子様とは11才差なのですね……)

 

ここで、貴族の子女は姫ができたほうが有利というのは当時が通い婚だったことも関係する。つまり帝も内裏の後宮で、それぞれの妃の殿舎に通うからだ。

姫を入内させ皇子が生まれた暁には外戚として実権を握れるから、政権の座を狙う貴族には姫ができたほうが有利なのだ。逆に、息子は少ない方がよい。なぜなら息子たちは長じて政争のライバルになるので。

 

それと、左大臣家の姫君には乳母がついてるでしょ、倫子様が膝にのせて廂で寝かせてるわけないでしょというツッコミは一旦横に置いて。

ここでは幸せな新婚夫婦の図でしかないので特に何もありません。

倫子様は人妻らしく、袴の色というよりは袿を濃い紅色にし、木瓜を織り出したみごとな衣装をまとっていよいよ奥様としての風格を備える立派な姿でございます。

しかしそこでまひろを久しぶりに呼び出し、何を相談するのかと思いきや、道長の文箱を勝手に開け、まひろとやりとりしていた文を持ち出して誰からの文なのか考えてほしいという。

 

恋文が本人に届けられるまでに、届けた下人の手から本人以外に渡ることはよくある話だったとしても。

いくらなんでも倫子様、ご主人の文箱から持ち出すなんて、さすがに個人情報保護の観点を無視しすぎじゃありません?

漢詩だけど、女文字じゃないかと思うのよ……」

そして倫子様、勘が鋭すぎです。土御門殿の深窓の奥で育てられた箱入りの姫君にしては世の中をわかりすぎてませんか?

そして自分が書いたものを恋のライバル(だったけど負けた)相手の姫様に差し出されてずばり女文字ではとか当てられ、まひろは生きた心地もしなかったことでしょう。

すらすらと陶淵明の帰去来の辞とか解説してますが、ものすごくせりふが上滑りしてて目線は白目をむきそうなほど不自然に浮ついてさだまりません。

 

※もう一度帰去来辞を貼っておく。

歸去來辭 陶潜
歸去來兮 田園將蕪胡不歸
既自以心爲形役 奚惆悵而獨悲
悟已往之不諫 知來者之可追
實迷途其未遠 覺今是而昨非
舟遙遙以輕颺 風飄飄而吹衣
問征夫以前路 恨晨光之熹微

さあ家に帰ろう。田園は(手入れをしないので草で)荒れようとしている。なぜ帰らないのか(今こそ帰るべきだ)。
これまで、すでに自分の(尊い)心を肉体の奴隷としてきたのだから(=役人となって心を悩ましてきたのだから)、どうして失望してひとり嘆き悲しむことがあろうか。
すでに過ぎ去ったことは諌める方法がないのを悟り、将来のことは追いかけられるのを知っている。
本当に道に迷った(=間違った方向へ行った)としても、まだ遠く(へは行って)はいなかった。今(役人を辞めて帰るの)が正しい生き方で、昨日まで(の生き方)は間違っていたことを悟ったのである。

 

でもまひろにとってはまさにこの詩の心境はあてはまるのではないだろうか。

くわしい境遇は陶淵明とは違っても、これからの生き方はまだやり直せるというあたり、まひろにぴったりなのでは。

 

さて相変わらず為時の士官の路は拓けない。当たり前である。為時とまひろは今まで何度もあったチャンスをわざわざ握りつぶし、見逃し、やり過ごしてきたのだ。今更なにを慌てているのだろう。

しかし畑で野菜を作るだけでは食べていけないので(当たり前の話で、第二次世界大戦末期の日本でも庭でさつまいもと野菜を作るも、タンパク質不足で栄養失調に陥ってたではないか)、まひろは自ら就活を始めたようだ。

 

つまり上流貴族みたいに入内するという話ではなく、受領階級の姫にありがちな女房として出仕する道を探すということらしい。受領階級は領地からの収入も多く、任国によっては今日の内裏に勤める貴族よりも経済力があり裕福な者もいたほどだ。身分は低くても財力はあったということらしい。

………いやいや?

受領階級なら、ですからね?

 

あくまで家柄が全ての貴族社会、父の為時はもう4年も無位無官なのに、女房としてどこの馬の骨ともわからない女を雇う邸があるわけもなく。

下女としてなら……それは主人と目通りもかなわず邸にも上げてもらえない、台盤所とか掃除婦としての身分の低い使用人じゃないですか。

絶対イヤですよね。

もう時すでに遅し、為時とまひろは見通しがすべて甘すぎるのです。

 

つまり逆に言えば、定子様が入内し中関白家は隆盛期を迎えるわけですが、その後宮サロンに出仕することになる清少納言の父清原元輔は、この時期周防守~肥後守を歴任していて、財力はあったと思われる。

つまり次回以降、清少納言ことききょうはどこかで出演されると思われます。

楽しみに待ちましょう。

 

 

 

 

 

第12話「思いの果て」 大河ドラマのlightな感想 光る君へ

 

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死の影は身近にありそっと忍び寄ってくるもの

この話の冒頭で描かれるのは為時の病弱な妾の死。

死は当時とても身近にあり、形式的にだが死の床で僧侶に剃髪を受け(と言っても少しだけ髪を切るのみ)、出家することで死後浄土へ迎えられると考えられていた。

当時、死は日常と隣り合わせ、とても身近なものだったという描写だろうか。平均寿命もとても短かったし、怪我とか感染症の流行、また天災や戦であっけなく亡くなる事も多かっただろう。ここに見られる病弱なゆえの死ばかりではなく、文字通り明日をも知れぬ命だった。

源氏物語の中で描かれる

「正妻になれない女たちの苦悩」

と並んで、

「すぐそばに、身近にある死」

も、壮大な物語の脊梁をなす、時代を映すテーマだ。

 

人の命は短く儚いもの。

まるで朝露のように、あとかたもなく消えてしまうもの。

最高権力者の花山天皇ですらも寵愛する女御忯子の病には祈祷するしかなかったように、当時病気に対して科学的な医療の知識はなく、ただ治癒を祈る信仰と陰陽の占いに頼るのみであった。

死という概念への畏敬、

死後の世界への恐怖、

そして病に対してなす術もないことへの無念さ。

だからこそ生後すぐに五十日いかの祝い(お食い初めの起源)で乳児に餅を食べさせるまねの儀式をしたり、また袴着はかまぎの儀(3歳)で成長のお祝いをするのであり(袴着は七五三の起源)、乳児期を経て感染症などを乗り越え3歳まで生きるのがまず難題だったのである。

また、長生きをして40~50才とかになると四十よそじの賀とか五十いそじの賀として長寿を祝ったりもした。成人する前に夭折することも多かった時代、長生きするのは天災や流行り病を乗り越える困難なことであったので周囲から祝われたようである。

 

古くは秦の始皇帝が恐れた死。

彼は不老不死の薬を求めて部下の徐福を蓬莱山(があるとされた東シナ海)へ使いにやらせ(そして徐福は生きて戻らなかった)、また始皇帝陵にはおびただしい兵馬俑と皇帝の馬車を模して死後も皇帝に仕える軍隊とし、また宮殿のような空間と不老不死の薬とされた水銀を流して……

 

この死を恐れ、死後に救いを求める思想は日本に入ってきて仏教と結びつき、密教とはちがった宗派を生む。浄土宗と浄土真宗である。現世は病のほか天災、戦乱、飢饉などにより庶民の暮らしはよりいっそう死が身近であった。

花山天皇の出家のシーンで御所の朔平門から、道兼が帝を牛車に人知れず乗せて都を脱出する場面がありましたね?あの草木も眠る丑の刻、牛車の車輪が回る向こうの路上、築地塀とどこかの邸の立派な門に背を預けて、住所不定の衣装もぼろぼろな浮浪者(=ホームレス)が虚ろな目で牛車を眺めていました。政変に右往左往する貴族と帝の乗る牛車越しに浮浪者が一瞬見えるという構図が、当時の社会構造を(貴族の視点から)はっきりと表している。

あのような路上生活者は実際にはもっとそこらじゅうにたむろしていたと思われます。

散楽が行われ、まひろが歌の代筆をしていた絵師の店のある都の市の路上などに、ほんとは路上生活者も居てむしろに座り物乞いなどをやっていたはずです。

そのような存在はドラマのビジュアル上、故意に排除されているだけです。

 

源氏物語も貴族が主人公、公に流通させる出版という目標がなかったにしても、物語の読者もまた貴族を想定して書かれていると思われる。

価値観が貴族主体、そしてこの大河ドラマもまた主人公が貴族である以上、視点はあくまで貴族からとして描かれている。

 

このドラマの終盤では極楽浄土が現出したところも描かれるかもしれない、もしそうなら後日譚としてだろうけど。

それは道長の嫡子頼道が宇治に建立した平等院である。

阿弥陀如来さまにより、南無阿弥陀仏の念仏を唱える者はみな浄土へ導かれるのである……

(画像引用:平等院 - Wikipedia )

 

 

まひろの友人

ここで、為時の亡くなった妾(高倉の女)の忘れ形見の姫、さわが呼び寄せられて共に妾の臨終を看取ることになるのだが、この娘はそのまま為時邸に滞在してまひろのお話相手となるらしい。庭の遣水と畑を相手に野菜と会話しながら細々と暮らすまひろと意気投合していて楽しそうであり、やっとまひろが心から打ち解ける親友のような存在が現れたのかと思うと視聴者としてはほっとする。倫子のサロンでは文学的な話しでは盛り上がっても、姫様たちの会話にはまひろは常に気後れしていたようだったので。

 

このさわという娘、今は父に引き取られて生活しており、衣装も一般的な貴族の姫らしい風格がある。というかまひろ一家が困窮しすぎているだけなのだが。それに外出に際してちゃんと市女笠に虫の垂れ衣をたらして、奥ゆかしさがある。というかまひろが何もかもオープン過ぎるだけだ。

そのような良家の子女が他家、しかも築地塀が崩れるようなあばら家(に近いでしょう)に滞在しているとは、家のひとたちにバレないのでしょうか。大丈夫なのでしょうか?

たぶん筆と箸以外の重いものを持った事のないのであろう、貴族の姫さわは掃除とか畑仕事とか何をやっても新鮮な驚きをもって作業に励み、また琵琶の演奏までまひろの指南のもと体験しているようだ。

内裏での陰謀が渦巻く濁った空気、重苦しい筋書きから一転して太陽と土と水を相手に会話する素朴なシーンは目にも耳にも癒されるものがある。

 

サロンの風景

為時が官位を失ったことは左大臣家の倫子のサロンでも話題に上がるが、まひろは臆することなく隠し事もせず、事実をありのままに語っている。

「下人にも暇を出しましたので家の事は自分で……畑仕事も自分でやってみると楽しゅうございますよ、心を込めて声を掛けていれば野菜はすくすくと美味しく育つのです……掃除をしていれば床の板目が様々な紋様に見えて飽きません…」

通常の物語だとこのサロンに参上する衣装をまず整えられなくなって、伺候を辞退するところだが……まひろはそもそも家と同じ普段の素朴な(絹ではない)袿でいつも参上しているし、過分に身を飾り立ててひけらかすこともない。いつも等身大、ありのままである。

この貧乏に窮する事態になっても明るく前向きにとらえて自然に振舞うまひろに、姫君たちも共感を示しているし、倫子も感嘆の意を述べていた。

これからも左大臣家の学びの会には、変わらず顔をお出しくださいませねという倫子の言葉にまひろも「最初は居心地が悪かったですが」と正直に言いつつも、まひろもサロンに参上することは楽しみらしい。ふたりでかわいくウインクしながらこっそり微笑みあっているところが何とも可愛らしい。

サロンに初めてまひろが参上した時の口上が、

「前播磨守権小掾の藤原朝臣為時のむすめ、まひろでございます。」

といって緊張しているところにかけられた言葉が

「今の御父上の官職は?」

で、円融帝の御代だったため為時は無官で、まひろは返す言葉もなく、その場の皆が「まあ……」と一様に色を失っていたことを思い出す。

サロンで姫様たちの話のポイントもつかめず、皆が笑うところでまひろは愛想笑いもできず、ただ赤染衛門先生の講義だけはまひろは心底楽しそうで、でもまひろのエッジがききすぎた鋭いツッコミにはやはり姫様方はついてこれず……という時もあった。

でも倫子はそんなまひろの思い付きにいつもさりげなく付き合ってくれていたし、深窓の姫君に似つかわしくないおおらかな度量と鷹揚さを持っているなと思う。

倫子がサロンの別れ際に自然に笑ってくれたのにつられ、やっとまひろも張り付いたような作り笑いではなく、自然と本心から笑えるようになってて感無量。

サロンで少しづつ姫様たちと打ち解けあいながら……ここまでの道のりが、ほんとに長かったなあと思う。

まひろは社交的でも何でもなく、かなりの引きこもり文学少女だと思うが、外に出てみて交流を深めるのも悪くないですよね?

 

ちなみにまひろがいう「瓜も菜っ葉も誠意を込めて世話していれば……」ですが、畑で引っこ抜いていたのは瓜ではなく、かぶです。脇に雑草が生えていた痕跡もなく撮影セットの畝に埋め込んだだけの野菜である点がリアリティに欠けるところは否めないが、ここが本筋じゃないので、まあいいとしよう(上から目線)。

 

 

(おまけ:前回、第11回「まどう心」感想に書き忘れていた箇所の回想)

まひろは父の官職が途絶えた今、世俗の念が消えたとでもいうかのように、漢籍の書写に余念がない。活版印刷がない時代、書物の複製は専ら書写によるものだった。仏教経典の書写は大寺院において僧侶によって大規模に行われていたが、詩や漢籍などの文学作品はあくまで当時個人像のものを回し読みしていたようだし、やはり写本は貴重なものであり、蔵書の数はすなわち財力をあらわしていた。

ではなぜ為時邸は貧窮を究めているのに写本や巻物の書籍は所狭しと沢山あるのだろう。理由はわからないけど為時が衣食住を削ってまで蒐集した貴重な漢籍なのだろうなあ。交際費や娯楽にかける実費も削って全部書物につぎこんだのがありありとわかる圧巻の蔵書数だ。

ここでまひろが書写しているのは唐の詩人白居易(=白楽天)の長恨歌言わずと知れた、玄宗皇帝と楊貴妃のロマンスを描いた長編だ。

 

長恨歌の前半を引用しておく》

※この途中の「春宵」の部分あたりを、ドラマではまひろが書写していた

 

漢皇重色思傾国 御宇多年求不得

楊家有女初長成 養在深閨人未識

天生麗質難自棄 一朝選在君王側

迴眸一笑百媚生 六宮粉黛無顔色

(現代語訳)漢の皇帝は女色を好み 国を傾けるほどの美女を得たいと思う
だが天下を治めている長い間 求める人は得られなかった
揚氏の家に娘がいて 大人になったばかり
深窓の令嬢として育てられ 誰もまだ知らない
生まれつきの美貌は変わることなく輝き
ある朝 選ばれて帝王のおそばに仕えることになった
振り返って微笑むと その艶やかな色っぽさはこの上ない 
後宮の美女たちもみな圧倒されてしまう

 

春寒賜浴華清池 温泉水滑洗凝脂

侍児扶起嬌無力 始是新承恩沢時

雲鬢花顔金歩揺 芙蓉帳暖度春宵

春宵苦短日高起 従此君王不早朝

(現代語訳)春のまだ寒い頃 華清池で湯浴みを賜った
温泉の水はなめらかで きめ細かな艶やかな白い肌にふりそそぐ
侍女が助け起こすが 艶めかしくしな垂れる
これがはじめて皇帝の愛を受け入れた時だった
雲のように豊かな美しい髪 花のように美しい顔 揺れる金のかんざし
蓮を刺繍した寝台の帳は暖かく 春の夜が過ぎてゆく
だが春の夜はとても短く 起きる頃には日が高くなっている
これより皇帝は早朝の政務をしなくなった

 

承歓侍宴無閑暇 春従春遊夜専夜

後宮佳麗三千人 三千寵愛在一身

金屋粧成嬌侍夜 玉楼宴罷酔和春

姉妹弟兄皆列土 可憐光彩生門戸

遂令天下父母心 不重生男重生女

(現代語訳)皇帝に愛され宴席でもそばに仕え(妃は)暇がない
昼は昼で春の行楽に付き添い 夜は夜で枕を独り占め
後宮の美女は三千人
その三千人分の寵愛が(妃)ただ一人に注がれる
黄金の館では化粧を凝らし 艶めかしく夜を共にする
美しい御殿での宴が終われば 酔いは春と溶け合う
兄弟姉妹みな領地を賜り
ひときわ光彩を放つ一門の栄華
こうして世の親たちは
男を生むことを重んじず 女を生むことを重んじるようになった 

(引用:『長恨歌』現代語訳:参考文献:源氏物語ウェブ書き下ろし劇場:台本:演劇の世界:MAC )

 

※もう一度言う。前回、第11回「まどう心」感想に書き忘れていた箇所の回想です。そして、さらに繰り返すが、まひろが書写していたこの漢詩は唐の詩人白居易(=白楽天)の長恨歌

ここで妄想が広がる。

楊貴妃がひとたび微笑を巡らせば、後宮の並みいる才色兼備の妃たちもみな色を失う。

後宮の寵姫3000人ぶんの寵愛を一身に受け、その美しさは芙蓉が花開いたよう……

 

まひろは帝の後宮に入内する身分でないことはいうまでもない。

ただ楊貴妃のように寵愛されるのは女として幸せであることには間違いない。貴族の姫として栄達を究めることは政治的な別の意味を持つとしても。花山天皇の女御忯子さまが病に倒れたとき、内侍たちが宮中の噂として「帝に寵愛され過ぎて倒れるなんて…(女として)お幸せね~」「あこがれる~」「おかわいそうに~」というコメントが陰でコソコソと囁かれていたが、まさにある意味幸せである。)

そして帝に仕えるというよりは、海を渡り時代を超えて語り継がれるロマンスに自分を投影してみて、好きな人と添い遂げる幸せをこの漢詩から夢想していたのでは……

まひろは、道長との成就しえぬ恋を捨てきれず、心のどこかで大切に胸に秘める思いを持っていたのでは……

一縷の望みというやつです。

この淡い思慕の情は、今回第12回で見事に打ち砕かれることになるのですが。

 

結婚観

道長の場合

道長左大臣家の一の姫倫子との結婚。これは史実に見え、ドラマを見ている人誰もが知る未来でもある。ここに至るまでの登場人物たちの葛藤を伏線を回収しながら第12回で描いているのだと思う。

兼家の長男道隆の妻は高階氏の貴子。受領階級であり官位は高いわけではない。その意味では道隆は家柄目当てで結婚したというより、貴子(と高階氏の学識と知性)に自分の出世を賭けたとも考えることができる。

毎回繰り返して書くが、当時の結婚は通い婚、正妻になる姫の実家が婿を経済的にバックアップしてもりたてる、政治的スポンサーの役割を果たすのだ。夫の衣装を季節に応じてセンスある色と柄を選んで仕立てて準備するのも正妻の役目。

この時点で、まひろは家柄でいえば藤原氏の傍流の傍流でしかも財力はゼロというかマイナス。道長の妻というか側室にすらなれなくて、時々気が向いたときに通う町の小路に住む女で、飽きたら捨てればよい都合のいい存在がいいところだろう。

何番目かでいいなら妻(=側室)として待遇するよ!悪い話じゃないから!道長がいうのは現実を見た精一杯の気遣いだったと思う。

でも男がそんな事をいくら言ったところで、まひろには身を切られるような残酷な通告であり

「そんなの、耐えられない!」

という悲痛な叫びも、もっともなのである。

 

まひろの場合

ここでまひろが二十歳を迎えるのを目前にして現実に縁談が持ち上がる。

宣孝が、為時の窮乏を打ち破る現実的な対策としてまひろに縁談を持ち込んだという方が正しい。

「この家の窮地は、まひろが婿取りすれば万事落着するのじゃ」

繰り返すがこの縁談を持ち込んだのは宣孝だ。

親戚のおじさん。

身なりも良く世渡り上手というか世間ずれしたというか如才ないふうな、まひろよりも20近く年上の、佐々木蔵之介さん演じる宣孝おじさん。

もう書いてもいいですかね?

いいですかねネタバレしても?

大河ドラマご覧の皆様はご存じですね?

将来のまひろの旦那様です。

えええ~~~???

物語がどう転がってそうなるのか?

今の時点ではさっぱり想像がつかないですね。

単に親切な親戚のおじさんです。

裳着の式でまひろの腰結を担当してくださった信頼ある親戚のおじさん宣孝様が、旦那様…?逆に言えば、宣孝様は誠実なお人柄なのですか……?大丈夫なのでしょうか…?

 

それは置いといて宣孝の持ち込んだ縁談は、従四位下藤原実資である。花山天皇譲位に伴いいったん官位を解かれるも、一条天皇の御代になって蔵人頭に再び任命されたであろう、優秀な実務官僚である。

為時の第一声「実資さまは、身分が違いすぎる」とあるのももっともである。

(実資の妻は源惟正女、前回まで桐子という名で登場していたが昨年亡くなったはずで、今は実資は独身のようだ。)

 

為時から見た実資

まひろ「あの方は父上よりも学識がおありなのですか?」

あのね、縁談に持ち上がった相手に対し、父上のしかも学識の有無を基準にしてどうするんだ、まひろ。究極に世の中を知らない、恋愛の基準もわかってない、文学オタクの台詞です。ついでに、第二回放送あたりでは思春期の反抗期?か、父と喧嘩してたまひろですが、このように大人になってからは相変わらず父上を尊敬してやまない、どこか盟友のように感じてるところのある学者気質のまひろである。ついでに引きこもりの陰キャである。陰キャがどうとかいうつもりはないが、事実世の中の華やかな栄達には興味なく無縁の学者肌である。

為時「学識の高さもさることながら、あの方の素晴らしいところは権勢に媚びないところだ。筋の通った、お人柄なのだ。」

そして為時とまひろのこの会話を見ても、彼らがその学才にしては出世できない致命的な弱点がありありと表現されている。婿がねを探すのに、将来性とか政治的な才覚とかを問わずに「誠実で権勢に媚びないところ」を評価してどうするんや。まるで出世できない性質の人をわざわざ選り分けて探しているみたいじゃないか。それじゃ婿になってくれても出世しないと言ってるようなもんじゃないか。

この人たちの人を見る基準は「学問があるかどうか、誠実な人かどうか」なのだ。

そう感じたのか、つくづくこのふたりに任せておくのはダメだと痛感している宣孝おじさん。

 

宣孝から見た実資

「学識、人望、それに加えて実資様には財力がおありだ、うーんまひろの婿として申し分ないことこの上ない!!」

藤原北家嫡流として小野宮家の莫大な所領を継承した実資は当時有数の資産家であった。所領とは荘園であり、そこからの収入を指す。

宣孝様はこの三人の中でただひとり、生きていく上には財産がないと、先立つ経済力がないとやっていけないことを分かっている存在だ。まひろと為時が夢見がちなことをのたまうなか、宣孝だけは、実資が大金持ちなことを挙げて満足そうにうなずく。

さらに後日、わいろとして貴重な写本の数々(に仕込まれた実資様がお好みと思われる絵)を贈り相手の心証を良くしておくべく先手を打っておくことも忘れない。

ほんとに世渡り上手である。

しかし実資の日記、小右記には「鼻糞のような女との縁談あり」とつづられて(国文学わからないので実際に小右記に載ってるのかどうか知らないが)、また宣孝も赤痢にかかって生死を彷徨っていた実資を目にし「あれはもう死にかけだ、次いこう」とドライに気持ちを切り替えている。

死にかけだったかどうかはともかく。

 

縁談に全く乗り気でなく「宣孝様、もうおやめください」というまひろに宣孝は一喝する。

夕闇を背に、夢見るまひろを一言で論破する宣孝様。

「そなた一人のことではない」

かすみを食ろうて生きていけるとでも思っておるのか」

「甘えるな!!」

よく言ってくださいました宣孝様。世の中を生きていく術を全く分かっていないこの二人にはこのくらい言わないと効かないのでございます。

 

前回の第11回で「正妻でなくともよい、婿にしてくれる殿方がいれば万事解決なのだ」とも宣孝様はおっしゃられていましたが、この側室で迎えてくれる殿方がいまのところまひろにとっては道長だったのですがねえ……

でもまひろは、世の中を分かってないとか甘えるなとか言われても、そこだけは女として、いや人間としての尊厳が許さなかったのでしょうね………

自分を一人の人間として見てほしい。

ちゃんと正面から存在を認めてほしい……

この願い、そんなに論理の通らない無茶苦茶なことではないと思いますがね、当時の結婚観ではまひろの願いは叶わなかったのでしょう。

死の無常観よりも、こっちのやるせなさのほうが今回のストーリーでは心に重くのしかかってくる。

 

現場から:道綱の気持ち

なんの現場かというと。妾の立場からのレポートである。道綱は兼家の正妻時姫の子ではなく妾の息子である。そのため政治の世界でも昇進に明確な差がつけられ「従四位下にしてもらったはいいのだが誰からも相手にされぬ」というふうに内裏でも浮いている存在というのは本当なのかもしれない。

妾である母は兼家から熱烈に愛されていた、のは昔の話で、通う足が遠のき苦悩するさまは蜻蛉日記に克明にえがかれている。

「男としては妾にじゅうぶんなことをしてやっているつもり」

なのかもしれないが、では

「じゅうぶんなこと」

とは?

妻はみな

「自分を一番に愛してほしい」

という願望を持っているはず。

そしてそれは一夫多妻制である以上叶えられない願いだ。

みんな大切に思っているというのは男の一方的な言い分に過ぎないのだ。

通ってくる男を信じて待つしかない妻の気持ちは男には決してわからないだろう。

 

道長を巡る人々の思惑

左大臣源雅信と摂政兼家

このふたりは、兼家が摂政の座を勝ち取り権勢を揺るぎないものにしたのちも、ライバル関係であることには変わりなかったようだ。花山帝の御代、外戚藤原義懐が我物顔にふるまい、政治の実権をほしいままにしていたことに対して、彼を排斥しようと関白頼忠と共に一致団結していただけの話だ。

そこで摂政の兼家はさらに権力を盤石にする狙いか、道長左大臣家の姫倫子との縁談に前向きである。兼家と左大臣雅信が対立して互いに勢力を削いでいたのでは第三の勢力が台頭してくるのを助長するようなもの、ここは相撲で四つに組み合うがごとく勢力バランスを均衡に保っておこうという兼家の打算なのかもしれない。

と、このような狡猾な下心を露骨ににおわせながら、兼家は左大臣雅信に慇懃丁寧に縁談を持ち掛ける。

表情はにこやかで下手に出た物腰。

「どうか左大臣様のご厚情を賜りたく存じます」

といって深々と頭を下げるがその目は

「断ったらどうなるかわかってるだろうな!??」

と、無言で圧力をかけてくる。心なしか勝ち誇ったような笑みさえ浮かべる兼家。

対して左大臣は皇室の血を引く源氏であるため政治的にこれといって野心もないようで、倫子かわいさのあまり気づいたら二十歳がすぎていただけに過ぎない感がある。兼家の伏線を万全に張った、まるでアリジゴクの罠のような縁談になすすべもなく反対する気力もなく、かろうじて

「倫子の気持ちも聞いて見ませんと……」

と態度を留保するのが精いっぱいのようだ。

 

倫子の直訴

そして兼家は婚家両親への面接代わりにか?左大臣家へ、文の使いと称して道長本人を差し向けた。しかしその文は

「此の者、道長也」

という、冗談にもならない口実なのがわかりすぎるふざけた文で、左大臣

「なめておる………!!!」

と憤りを隠せない。道長本人がどういう人間かというより、この縁談そのものを成立させること自体に兼家の目論見があり、道長とは目通りしてくださればそれでよいのですという意味か。面接も形式的にすぎないのか。

 

そこで、以前からこの話が左大臣口から仄めかされるにあたって、ほかの(公任様とかの女遊びで有名な)公達を一蹴して道長を激烈に単推ししてくれた人物がいる。

それは源雅信正室源穆子である。

御簾越しに、対屋から遠く道長を眺めてうっとりする倫子と穆子。

結果的に道長は倫子を正室にすることで、ほかの色々な運も重ったこともあり人臣の栄達を究めるのであるが、穆子の有無を言わさない左大臣への圧力プレゼンがなければこの縁談はまとまらなかったであろう。

道長本人が直接縁談の話を以て左大臣家へ現れたとあって、決定的瞬間だと踏んだのか、倫子本人もこの期に及んで左大臣へ直訴する。「倫子は、道長様をお慕いしております!」しかし決定権は左大臣にあり、そして摂取兼家を生理的に嫌悪している以上、倫子の決死の願いもなかなか通らない。

「打毬の会でお見掛けして以来、夫は道長様、と心に決めておりました。どうか道長様をわたしの婿に、倫子の生涯ただ一度のお願いでございます!」

えぇ……そんなストレートな………

「摂政様の家系でなければ、良かったのだがのう…」と煮え切らない左大臣。なんて往生際の悪い。兼家の視線に射すくめられたように何も言えなかったのに、反対もあったものじゃないと思いますが。

「叶わなければ、倫子は生涯、猫しか愛でませぬ!」

といって泣き崩れる倫子。

「泣くでない、父は何も不承知とは言っておらぬのだから……ああ、よしよし……」

 

とそこへ、言質を取ったとばかりに、しゅっと袴を捌く衣擦れの音と共に、颯爽と現れる正室の穆子。まるでここまでの展開も含めて何もかもお見通しであったかのように。

「倫子、良かったわね!」

「なんだ、お前!!???」

ここまでくると単なる夫婦漫才でしかないが、

「父上は、『不承知ではない』と仰せになりましたよ!この縁談、進めていただきましょう」

と言ってのける。

穆子様の左大臣様を手玉に取る技量、実に鮮やか。

勝ち誇ったようにテキパキと立ち回る姿がお見事である。

「あなた、よろしくお願いいたしますね!」

ここであきらめたように座り込む左大臣

この道長にとっては姑にあたる穆子、これからの結婚生活でも協力者になってくれるはずであり、道長は頭が上がらないことであろう。

 

というか実際の結婚というのは三夜通ってもらってはじめて披露宴(という名の所顕)をするのであり、その前に、正式なプロポーズ代わりの求愛の文を何度も贈っていただき、最終的に女性側からOKの文を出すことを以て結婚の承諾が成るものなのだけど。

ここで道長は全てのマナー違反をおかしている。

文のやり取りもなく、事前に夜の訪問をするというアポも取らず。左大臣家への訪問なのに。姫様への了解も取りつけず。

いきなり夜に倫子のもとへ訪れ、夜を共にしているのである。なんでですか。

ここで貴族の邸の造りが御簾とか几帳で区切っただけの開放的な空間で鍵も扉もなく、いわば夜に来られると締め出したり追い出したりすることは不可能、極端にいえば、姫君は拒否することはできない。

でも案内する女房にそもそも許可を下したのは左大臣正室の穆子なのである。

道長様がアポもなくご訪問ですって、夜に?……いいわ、屋敷に入れておしまい!」

この穆子様の行動がつまり倫子と道長の結婚を許可したという直接の指示である。

道長様にはもっと手順を踏んで正式な求婚をしてもらいたかったですが……

穆子様、いいわ、って………

いいんですか…………?

左大臣家、それでいいんですか……?

 

詮子の思惑

倫子とは別に、道長にはもうひとり正室が居たことで知られる。いや、厳密には第二の妻という地位でありつまり側室だ。というか側室はたくさんいたが、倫子と同様に大切にされていた妻といおうか。設けた子の数は倫子と同様だからだ。

それは一条天皇の母で東三条院となって権勢をふるう詮子が庇護している、源高明の一の姫、明子である。

詮子はここで明子女王と言っているが、正確には、源高明の娘であり源姓を賜って臣下に下った親王の娘なので、女王ではない。しかしここでわざわざ皇室の血を引く姫であることを強調しているのは、由緒正しい出自の姫を妻に持つのは道長の政治的立場を強固なものにするうえで、悪い話ではないのだと、詮子は言いたいのだろう。

確かに絶世の美女であるし、詮子がぜひにと推すのもわからないではない。

 

ただ。

明子は源高明の娘。

源高明といえば安和の変藤原氏に失脚させられ太宰府に左遷させられた人物で、その娘を娶るというのは道長にとって政治的にマイナスなのでは???

というのが現代の感覚だけど、実際はそうではないらしい。

もう安和の変は過去のものとされているのだろうか。

 

そんな心配は道長の視点からのもので、源高明の娘である明子にしてみれば、父を陰謀により失脚に追いやった藤原氏は父高明とその派閥(政治的に)、また身内のものにとって敵を討つべき相手である。藤原氏と一括りにしてしまうと、当時の政治の主要な地位を占めていた高官から下級貴族まで政界のほぼすべてを席捲していたのが藤原氏なのだから、そこを憎むとなるとものすごく目標がアバウトになってしまうと思うのだが。

でも安和の変には少なくとも兼家の血筋には関係しているものがいるわけで、その三男の道長ははっきりと陰謀に関係はしていなくても、あの政変の結果、利益を被った立場ではあるだろう。

明子から恨みをかう対象とされても(道長の意志はそこに存在してなかったとしても)、文句はいえないかもしれない。

でもこの明子の静かに決意した様子はただごとではない。

倫子とともに仲睦まじい夫婦というか道長の側室として多くの子を産み、この後の人生を平和に送ることになる……とは単純にいえないようだが、どういう展開になるのか気になるところである。

 

まひろの願い

この道長の倫子との結婚を決断した話を、まひろは直接道長の口からきいている。

よく考えると、はっきりと振られたのである。

いや?正確には違う。

道長は心の中で「妾でもいい、といってくれ、まひろ……!」と切に願っているようである。

しかしそうは問屋が卸さない。

男の思い通りに世の中は動かないのだ。

 

まひろも、人格と尊厳を備えた一人の人間である。

誰が最初から「君の事は一番じゃないけどね、何番目かに大事にするから」と言われているという事実を分かってて、OKを出すのでしょう?

当時は一夫多妻制であり、それが男女の関係の常識だったとしても。

 

しかも急に文を受け取り、まひろがこのようなそれまでの葛藤とプライドを天秤にかけ、最終的に心のどこかで割り切って決断し、待ち合わせにかけつけた結果がこれですよ。

(文をよこした主が三郎と知り姉をからかう惟規なんて、まだ可愛らしくて許せます)

 

道長が名残惜しそうに、結婚の報告をする横で。

まひろは平静を取り繕いながら形ばかりのお祝いを述べる。

 

しかし、そんな道長には靡かないとでもいうように、まひろは決然と言い放つ。

 

男に人生を決めてもらうのではなく、

自分がどう生きるかは自分の意志で選ぶのだと。

 

道長様とわたしは辿る道が違うのです。

 

わたしはわたしらしく。

自分の生れて来た意味を探して参ります。

 

 

でもこの選択をしたと冷静に語れるほどまひろは大人ではなかった。

 

家に帰ると庚申待ちの夜のため寝ないで待っていた惟規が、黙って酒を酌んでくれた。

さわは「こらえずとも、ようございますよ。まひろ様……」と声を掛けてくれた。

 

惟規の差し出す酒を柄にもなく黙って受け取り飲み干す。

そしてさわの言葉どおりこらえきれずに無言で涙を一杯にためて、夜空を見上げるまひろ。

 

人間は幸せでも泣くし、悲しくても泣く………

道長と男女の関係になってまひろはこうつぶやいていたが、あの時すでにこの別れは暗示されていたというか、まひろはこうなると分かっていたはずなのだ。

ゆくゆくは道長正室を娶るし、それがおそらく許容できない自分は、黙って身を引くことになるのだろう、と。

 

それが理性では分かっていても、流れる涙は止められない。

このまひろのどこにもやり場のない悲しみを、BGMのオーケストラが、万感の思いを込めて音楽に紡ぎ出す。

 

惟規の酒を飲み干すまひろのバックに弦楽器が哀愁を込めた旋律を奏でる。

そのあとの、短調みたいな和音が厳粛で悲壮な雰囲気を醸し出す。

 

最後のシーンでまひろが夜空を見上げる10秒間くらい、そこに最後の和音が3つ、静かに音もなく置かれる。

弦楽器の旋律と共に。

 

このシーンの最後の3つの和音が、まひろの気持ちを全て物語っている。

 

何かに似てますね?

自分の中ではドヴォルザーク「スラブ舞曲」第2集2番、いわゆる72-2の、最後の和音に似ていると思う。

この曲の終止形が、今回のラストシーンの情景に似ている。

※曲の最後の和音の箇所を頭出し済み:Antonin Dvorák - Slavonic Dance op 72, Nr. 2, Berliner Philharmoniker, Silvesterkonzert 2018 - YouTube

 

ホ短調の曲だが曲調は途中で軽やかに明るくなるけど、やはり和音というか旋律というか、どこか物寂しいのはスラヴ民謡だからか。

※曲の最初から再生したい方、だいたい6分くらいの曲です。お時間ある方は、できれば頭からきいていただき、最後の和音をかみしめるように味わえば、より哀愁が際立ちます:Antonin Dvorák - Slavonic Dance op 72, Nr. 2, Berliner Philharmoniker, Silvesterkonzert 2018 - YouTube

 

 

 

 

第11話「まどう心」 大河ドラマのlightな感想 光る君へ

 

第11回のお題は「まどう心」。

誰が、何に心まどわされているのだろう?

前回からの展開で、それぞれの立場から心境を想像しながら考えてみる。

 

目次:クリックで各項目へ飛べます

 

 

寛和の変 後日譚

花山天皇の場合

前回書いたけどもう一度。女御の忯子亡き後、菩提を弔いたいと出家を望んでいた花山天皇だが、そのように(嘘の怪異現象を演出したりして)陰ながら工作し唆したのは兼家と実働部隊の道兼である。あからさまにいい人の振りをして近づいてくる道兼のような人物は信用してはならないという良い例だ。

そもそも利害関係が露骨に分かる政治工作を仕掛けられてまで、なぜ帝ともあろうものが、ここまで単なる臣下、二位の右大臣兼家ごときにないがしろにされなければならなかったのか?

それは彼の出自を思い出せば首肯できる点も多い。父は冷泉帝、母は藤原伊尹の娘・女御懐子。しかし父の冷泉帝はすでに先の政変(源高明藤原氏によって失脚させられた安和の変)によって円融帝に譲位し権力はなく、母懐子も早くに亡くなった。また外戚であり当時の藤原氏筆頭の伊尹も既に亡い。叔父の義懐はまだ兼家より20才ほども若く、その点で政略を運営していくには役不足だった感は否めない。

要するに政治・財政的に庇護してくれる権力がなかったため、花山天皇は兼家に存在ごと吞み込まれ消されたといえるだろう。

天皇なのだから財政基盤=国家財政じゃん、心配いらないじゃん?と思う向きもあろうが、当時の帝の財政基盤は後宮に姫を女御や中宮として差し出す野心的な貴族が全面的に当世の帝を外戚としてバックアップするというシステムだったから、つまり父も母も亡くした花山天皇と年若い外戚の義懐政権では、ライバル(=兼家)に対して完全に役不足だったということになる。

帝をバックアップできるだけの政治・経済的基盤がじゅうぶんでないと後宮に姫は差し出せないということだ。いやにハードル高いな。その時点で対象となる貴族と帝に年齢の釣り合う姫はだいぶ絞られてくるともいえる。

 

さて。父も母も亡い親王、というところで皆さまお心当たりございませんか?いや、父帝(円融帝)は亡いというより譲位し上皇になっていただけですが。

そう、一条帝の異母兄で四歳上、当時11歳だった居貞親王のちの三条天皇です。

花山天皇が今回の寛和の変で19歳で譲位したあと、一条天皇が7才で即位すると同時に春宮として内裏に参上しているようすがドラマでも描かれていた。

系図引用:三条天皇 - Wikipedia )

居貞親王の母は、兼家の亡き長女である超子。
つまり????

一条天皇の即位の時点で、兼家は現在の帝と、次代の春宮を共に自身が外戚として掌握し、摂政になれる権利を2代の御代にわたって確実に押さえたという構図なのです、あの春宮登場の場面は。そこでしらじらしく春宮の横で廂に共に伺候する兼家。

こう言っては何ですが、身も蓋もないというか手段を選ばないというか、やることなすこと徹底的すぎて開いた口が塞がらないというか…まあそれは現代の感覚にすぎない。

ここまで苦労した甲斐がありましたね兼家さん。苦節何十年もの政争を泳ぎ切って何人もの政敵(つまり兄弟含む)を追い落とした末に、みごとに政権を握ったのでした。

これを機にいよいよ藤原氏が実権を握る摂関政治の時代は隆盛を迎える。内裏の後宮を舞台とする王朝国風文学もこれからが最盛期。

かくして何十年にもわたり陰に陽に政治工作を徹底してライバルを消し、頂点に上った兼家。これで氏の長者となり、あとは自分の後継者=道隆に権力を継承できれば全ての望みは叶えられたと言えるだろう。

 

為時の場合

目標を冷徹に定めそこに向かって猪突猛進するがごとくに突き進んだ兼家。対してまひろの父為時は、政治的工作を全く行わず、衣冠昇進には学問あるのみの頑固職人肌のため、官位喪失はなるべくしてなった結果、いわば自業自得でしかない。慰めの言葉も必要ない。

父の官位喪失を知ってうろたえ「では私はこれからどうなるんです?」と、父を問い詰める長男惟規に対して、この期に及んで為時が放ったキメ台詞をお聴きになりましたかみなさま?

「父はもう、何もしてやれぬ」

うう……そうですね、あまりの無常な境遇に皆が涙を誘われます……

「死ぬ気で学問に励め」

………????

え???学問ですか????

為時ほどの博覧強記の学者でも、やっと兼家のつてを頼って手繰り寄せたのが六位蔵人だったのに?????

いまだに、出世するカギは学問でがんばれば身を立てられるとお思いなのですか為時さん?

どこまで理想主義なんですか????

まるで官位を放棄し理想に生きる老荘思想、清談に耽る竹林の七賢みたいになってませんか?

このときの惟規、まひろ、乳母いとの絶望的な表情が全てを物語る。衝撃が大きすぎて誰も立ち直れない。

そう、これ以後10年の時を為時は無位無官で過ごすことになるのだ。働かずしてこの質素とはいえ築地塀と遣水を構える邸をどうやって維持していくのだろう。乳母いとと従者乙丸のお給料は誰が払うのだろう。貨幣経済は都でも全く浸透してないから現金の概念もないとはいえ。

そもそも全部為時が悪いんだ。自業自得だ。

何回目の放送だっけ?確か兼家に「もう十分お世話になりました、ありがとうございました。」といって自ら花山天皇の漢文指南役を辞去したのは為時自身じゃないか!?

(あの役が兼家からの花山天皇の動向を探るスパイを兼ねていたとしても。)

あの漢文指南役は、なんとか兼家ならではの口利きをして手に入れた、いわばワープ枠というか穴場というか兼家がひねり出したウルトラC枠だったのに。その枠を自ら理由もなく、お世話になりました♬のお気持ち表明だけであっさり捨て去る為時。あの態度そのものが、兼家が口利きした役という意味を1mmも理解してないことを如実に物語ってるし、兼家のメンツが丸つぶれなのも全くわかってない。為時は失礼なことを言ってるとは夢にも思ってない所が哀れを通り越して滑稽ですらある。

為時はサラリーマンなのです。しかも兼家が個人的に用意したポストの。その上司の心づくしの役を足蹴にするわけです、為時は。社会人として一番やっちゃいかん事をやったのです。

兼家はあの回、あの場面で「そうか、ご苦労じゃったな」と、スッと無機質な営業スマイルに変わっていた。自分の手を離れた駒にはこれ以上感情を挟まず、その利害には今後一切関与しないことにするという政略上の兼家ならではの防御システムが作動したものと見える。

全力を尽くしたうえで運に見放されたのなら、視聴者としてもまだ気持ちのやりどころはある。しかし為時はあろうことか自分で運命の手綱を放したのだ。弁明の余地もなく、同情する気にはとてもなれない。

 

兼家の場合

兼家の大一番は先の寛和の変であり、これ以後政権の主要な席は身内の者(息子たち)で固め、露骨に政治を意のままに操るようになっていく。長兄の道隆は正二位大納言、道兼は参議というふうに。

さっそく臨時の除目を発表し天下に大号令をかける兼家。ここで注目するなら藤原為光従一位右大臣に叙せられていることか。為光は兼家と兄弟で政争を争った仲、さらに為光は娘に花山天皇の女御忯子がいて花山帝時代には権勢をふるっていた。そこで、同じく兄弟の伊尹と兼通を追い落としてきた兼家によってこの除目は絶望的と思われたが、政治のパワーバランスというか、左大臣源雅信の対抗馬として為光を右大臣に置くことにより各氏族の均衡を図ったのか?兼家の真意はわからないが、為光本人は思っても無かった僥倖らしく、思わず膝を打って喜んでいるふうである。

唯一の例外は藤原実資蔵人頭であった席をいったん解かれるが、実務の優秀さゆえに一条天皇のもと再び蔵人頭に就く(はず。その場面はまだだけど)。

なんといっても一条天皇はまだ7歳におわす。少なくとも元服されるまであと7~8年(?)はあり、兼家が大掛かりな政策を長期にわたって画策するも何もかも思いのままである。

(たぶんお気に入りなのだという意味だろう)道長と差し向かいで月を眺めながら酒を酌み交わす兼家。

一条天皇の即位に際し、高御座に何者かが生首(誰のかわからない)を仕込むという事件が起きた。これは史書にも見えるようだがしかし真偽は定かではない。ともかく事実とするなら明らかに犯人は寛和の変で失脚させられた義懐だ。でも犯人は追及されず、捜査もされず、そもそも事件自体が証拠隠滅により表沙汰にはならなかった。

死の穢れは貴族が何よりも忌み嫌うもののはず。出かける先に葬式等の不幸があると、わざわざ別方向に前泊して(方違え)まで死の穢れを避けるというくらい、陰陽の占いと共に習慣を徹底するものなのに。

道長はその場で役人と内侍に全くの独断で箝口令を敷いたが結果的に(兼家によれば)その判断は正しいと褒められている。

要するに天皇陛下の政治手腕に皆が期待しているのではない。誰が天皇陛下のもとにお仕えするかが重要なのだ。

「新しい帝は即位された。それが全てだ」

この万感の思いがこもった兼家のせりふは非常に感慨深く、兼家の表情はすべての重荷を下ろしたかのように温和になり、ただの近所の好々爺にすら見える。

兼家は人生を賭けた世紀の大立ち回りをやってのけ、敵が最後に仕掛けた罠も道長の素晴らしい冷静な判断によってことなきを得た。最後までどう転ぶかわからなかった一族総出のプロジェクトを無事終えたことを噛み締めるように、ひとことひとことに万感の思いがこめられている。

天皇陛下のもとにお仕えするもの」が(いわゆる外戚として)政治の実権を握る者。

外戚であるかどうかはともかくこの後鎌倉時代武家政権に至って「天皇の権威」は「形式的に武家征夷大将軍を任命する権威」にすり替えられ、これを任命されたものが政権を握る構図はその後、明治政府が成立するまで続く。

 

ついでのつぶやき:明治維新

ちょっとここで勝手に時代を幕末に飛ばします。だってパターンそっくりですよね。

あれほど江戸時代の間に零落し権威が地まで堕ち、御所も朽ち果てかけて誰も存在を顧みることのなかった京の都の天皇を、幕府に対抗しうる権威の象徴としてにわかに持ち上げたのはほかでもない尊皇派、翻って討幕派、のちの明治政府だ。

このような時代の風が吹き荒れる中ただひとり親幕派であった孝明天皇崩御するやいなや、急転直下に事態は動き出す。この不穏な空気を読んで先手を打ち大政奉還し、単なる400万石を持つ諸侯に成り下がって恭順の意を示す徳川慶喜を、討幕派(急進派)はどうしても打倒する口実が欲しかった。(過激討幕派は同日に討幕の密勅をとりつけていたのに、大政奉還を一瞬先に先手を打たれ、討幕という名目を失い足元を掬われた格好だったがそこから新たに起死回生の策として武力討伐計画を練ったという意味)

そこで奥の手として、慶喜内大臣官位剝奪と400万石全部召し上げと題し、また天皇に政権を動かす王政復古の大号令を秘密裏に密室クーデターとして敢行する(小御所会議)。(→この直後の武力蜂起=戊辰戦争につながる)

討幕派が手に入れたかったのは錦の御旗だ。

これと帝の存在を隠語として「玉」と呼んだりした。

どっかで聞きましたね、これ?

要するに寛和の変で三種の神器を清涼殿から持ち出し春宮のもとに移したのと、やってることは800年以上経っても変わらないわけです。

玉を得た方が官軍であり正義なのです。

この観念により天皇家は断絶せず滅ぼされもせず、存続できたともいえるだろう。政権を争う直接のターゲットにならなかったという意味で。

要するに、象徴としての天皇という存在を、誰が頂きにおいて政権を執り行うかということだ。この象徴を手に入れてさえしまえば、既成事実として官軍を自称できると考えた討幕派は決死の覚悟としてこのクーデター計画を練り、結果として討幕派が玉を移し奉ることに成功した暁には幕府は朝敵となって壊走せざるを得なかった。すくなくとも慶喜は武力で抵抗は全くしなかった。(個人的信念により武力抵抗した勢力(会津藩新選組、奥州列藩連合)がこの後戊辰戦争を戦うことにはなるが、それはあくまで個人的信念にすぎない)

 

兼家からまひろを見る目線

ここで兼家が安堵し一息ついたところでまさかの足を掬われかねない案件が向こうからやってきた。いいえ、足を掬われることなどあり得なく、ただ厄介な虫が飛び回って鬱陶しかっただけのようです、摂政兼家様にとっては。

まひろはここで無理と分かっていても一縷の望みにすがって兼家に目通りを願い出る。

倫子には「摂政兼家様はあなたのような方とは住む世界が違うのです、身分を弁えなさい」と上から目線で一刀両断に付されてもなお果敢に実行に移す。

あとで宣孝には「お前の豪胆さには恐れ入った」と驚かれる。

なんか周りから散々ないわれようだがごもっとも、常識人たちの述べるところがまったく正しい。まひろの肝の据わり方が半端ないだけで。

藁にも縋る思いとはこのこと、まひろは一所懸命に父為時の雇用は模範的なビジネスモデルなのだとプレゼンする。内裏において右に出る者はいない優秀な学者なのだから必ずや政権においてお役に立てるはずだと。

しかし倫子にも一笑に付されたのと同様、兼家にもまるで存在が視界に入ってないかのような、まるで前世からこの会話の内容まで決まっていたかのような、一分の隙もない断定のされ方で門前払いに等しい扱いをうけ、まひろは追い出されるのだった。

 

そりゃそうでしょうよ。

上記の為時の項でも述べた通り、為時は上司:兼家のメンツをつぶしているのですよ。

この期に及んで、しかも為時本人ではなく娘如きが頭を下げに来たところで何が変わるというのでしょう。そしていうに及んで「学問に長けているゆえ政権のお役にたてるかと……」などと的外れな熱弁を繰り返すようでは、これ以上喋っていたら兼家の逆鱗に触れるところでした。

面会に来ただけでも非常識、兼家が実際に邸に入れて案内してくれただけでも百歩譲ってくれているのに。

ということで、この回までは少なくとも為時とまひろ親子は全く政治勘のない堅物な頑固者として描かれています。

いやいや、しかしほんとこれから史実に拠れば10年官位なしのようですが、どうやって為時一家は生計を立てていくのでしょう……?

 

道長

上記の兼家の項で述べた通り、この時点ではクーデターの歯車の一員でしかない。政変成功の結果兼家の権勢は長兄道隆が継ぐこととなり、道長の立場にはいまのところ変化はみられない。ただ父と酒を酌み交わしその功を労われているところから、やはり兼家は道長を秘蔵っ子として目を書けているのだなということは感じられる。

道長の政治的身辺は、この後縁談により大きく動いていきそうなので、ここで触れるのはここまでにとどめる。

 

道隆と伊周・定子

さてクーデターで今の所恩恵を最大に受けているのが道隆一家、のちの中関白家だ。その長男伊周が長女定子さま(と次男隆家)と一緒に安部晴明に引き合わされ、その後宴の席となり晴明を下にも置かない歓待ぶりである。なんでこんな歓待してるのかというと、陰陽師の力によりこの家の運気を良き方にお導きくださいという意味だろうか。

そんな権勢家の思惑はさておき、安部晴明の応対することばはどこか義務的、かつ慇懃無礼だ。

晴明の態度を食えない呪術家だとでも読んだのか、伊周も返す刀で切りつける。

笑顔でいう言葉にすでに刃を隠そうともしない。

笑裏蔵刀しょうりぞうとうとは

兵法三十六計の第十計にあたる戦術。敵を攻撃する前段階として、まずは友好的に接近したり講和停戦して慢心させる作戦を指す。

孫子』「行軍篇」は「謙虚な言葉遣いでありながら軍備を増しているものは、進撃するつもりである。突然に講和を申し込んでくるものは、謀略である」と言う。

それへの晴明の返答も棒読みのテンプレ過ぎて場の空気が刺さって痛いが、兼家ひとりがこの丁々発止の目に見えないチャンバラごっこ(伊周は13才ゆえ、ごっこ遊びにすぎないのでしょう)をいかにも楽しそうに豪放に笑い飛ばしている。このくらいでないと政権を握ることはできないのですねえ(嘆息)。

水も滴る麗しい公達ぶりの伊周さまに並んでいるのが定子さま、御年9才……数え歳で10歳?

年齢がわからなくなってきたのでもう一回これを貼る。

 

定子様を晴明はじっと見つめ、……じっと見つめて……見つめ続け………

ひたすら見られて定子様もぎこちなさそうにしている。

晴明には、何か定子様に重ねて見えるものがあったのだろうか。

さすが陰陽寮を取り仕切る力をもった清明

でも何が見えたかは言わず、ただすなおに兼家・道隆一家に恭順の意を示す。

ここでほんとに見えたことを正直に口に出さずとも、個人的な主従関係において今言うのは得策ではない、と踏んだのだろう。なにせ花山天皇を陥れるクーデターの影の主犯、まったく油断できない。でも兼家も、それを百も承知のうえで晴明を利用しているのだからお互い様である。

 

道兼

ここで兼家・道隆一家のパーティに乱入する道兼。

僕が一番危険な役かつ肝心要なところをクーデターで押さえていたのに、ごほうびは全部兄上ですか!!ぼくへのごほうびは無しですか、それはあんまりですよ父上!!

という感じでなりふり構わず殴り込み状態、ああ、小さいお子様の定子様と隆家様、伊周様もまだ13才なのに皆さまその下品な振舞いに驚かれてドン引きじゃないですか、ちょっとは場を弁えなされませ道兼様………

とかいうツッコミもそこそこに兼家は慌てて道兼を連れ出す。場を取り繕っているつもりだろうが場が白けすぎて全然隠しおおせていない。なんですか、その別の場所というか、まるで体育館倉庫の裏みたいな渡殿の端っこは?やんちゃな次男は裏に呼び出してお説教ですか?

つまり、道兼にはそんなにごほうびを上げるつもりはないという意味ですね、兼家さま?次男の命運という意味ですか?単に便利な立場にすぎないのですか?そこをなんとか取りなして「自らなんとかするのだ」という方向にもっていく話術がさすがというほかありません。それを素直に元気よく受け取る道兼も不憫でなりません。

いや、ほんと俗世のすべてを手に入れて高笑いが止まらない様子の兼家にも弱点というかアキレス腱はあったと思えば、ちょっと人間味が増してほっとする。冗談抜きで。

兼家さまには気苦労が絶えませんで、ほんとにおいたわしく……(棒読みにて以下略)

 

詮子

このたびは懐仁親王さまがご即位され帝におなりあそばされるにあって、女御様は皇太后さま、東三条院詮子様とよばれるに至りてまことにお慶び申し上げます。

と思わず言ってしまう、詮子様の威容である。お召しになっている袿も金襴のまぶしい格調高いお衣装になり、ますます国母としての風格を備えられ………

ただ、7歳の一条天皇に「走らずに悠然と構えておられませ」とはあんまりの言いようで。運動不足になるじゃないですか、こんなだから当時の貴族はみな短命なのですよ。

 

……いやいや?詮子様は寛和の変までは、独自に左大臣源雅信とのルートを築いて父兼家には頼らないと豪語し、道長と独自同盟を結ぶ勢いでしたが、一条天皇が即位してしまうと、詮子さまとしてもそこが最終ゴールだったことに変わりはないわけで、やはり右大臣家の一員には違いないのです。

しかし詮子と左大臣源雅信とのルートは切れたわけではない。兼家も左大臣の権勢が増大することを恐れて藤原為光を右大臣に充てているわけで。

この間から言っていた、詮子お気に入りの三男道長左大臣家の縁談もボツでもなんでもなく、このままいけば滞りなくまとまりそうな予感がするのです、この第11回の中盤ですでに。だって兼家にもこの縁談には利点しかなく、進めておくに越したことはないからどこからも邪魔は入らないでしょう。

何より、円融帝に毒を盛っていたのが兼家で、兄弟皆それを知り黙認していたことが分かった時の詮子の逆上ぶりと、誰一人詮子に味方する声掛けもなかったばかりか全員がシラを切ってごまかしていたことを、詮子様は決して忘れてないと思われるのです。ただ、道長はほんとに知らなかった……ということです。

道隆様はすっかり権威を手に入れて、そんな昔のことはお忘れかもしれませんが。

でもドラマ見てる身としては決して忘れはすまい。

 

ゆるキャラにして愛されキャラ、みんな大好き道綱の癒しオーラ

道綱の母が兼家にいつものサブリミナルコール「兄弟方のご出世がめざましいですが、なにとぞ道綱の事も、お忘れなきよう……」とつぶやくなか、

「俺、もう蔵人にしてもらってるから♪♫ 高い位についても役に立つ自信ないし~」

武官から一転、五位蔵人として束帯に身を包み地道に仕事に励む道長の姿をみつけて

「どう!??しっかりやってるー??」

と、満面の笑みを振りまき明るく楽しそうな道綱。これは政略というのではなく身上の朗らかさというのか。

 

ほんっっっと自分は道綱様、この役を演じる上地雄輔さん大好きでして………!

実資様を演じるロバート秋山さんもおもしろいですが、あの方はシリアスなどうにもならない場面で「これはおかしい!」と叫ぶだけ、無力じゃないですか?

道綱様はこの陰鬱なドラマのゆくえ、登場人物それぞれが水面下の駆け引きに余念がないなか視聴者としては泥沼の物語から足を洗えずに沈痛な面持ちで画面を見る中、この人だけが癒しの存在なのですよね。

政治の駆け引きなど今も昔もそのようなものかもしれませんが、だからこそ彼の存在が底抜けに明るいおかげで、ドラマ見てても視聴者としては救われるわけです。

 

ただ裏表がなさすぎて、道綱母のサブリミナルコールも道綱本人の力量に限界があると思われ、あまり母の願いは届きそうにはなさそうで悲しいところです……

 

 

倫子の本音と赤染衛門

さて。土御門殿の倫子のサロンでは、今日も古今和歌集の講釈が赤染衛門によって開かれていた。

 君やこむ  我やゆかむの  いさよひに  真木の板戸も  ささず寝にけり

古今和歌集巻十四 恋歌四 読み人知らず)

現代語訳:あなたが来るか、わたしが行こうかとためらっているうちに真木の板戸も閉めずに寝てしまいました。

※いさよひ=十六夜ともとれるが、この場合「猶予ひ」とも言い、つまり躊躇するとか思い悩み戸惑うということを意味する。

 

倫子いわく「赤染衛門古今和歌集を全部諳んじているから。」

そこでまひろは、この古典的テキストに載っている恋の歌を作者の気持ちに立ち、一歩踏み込んで解釈して見せている。

「実は作者は寝たと言いながら、寝られずに待っているのではないか。」

つまり

「寝てしまうとそれは今夜は男が来ないと自ら認めてしまうことになるから惨めになるではありませんか。(やはり通ってくる背の君を信じて寝れずに起きているものです、恋する女というものは)」

赤染衛門先生はお嬢様からの信頼も篤く、「言葉の裏に込められた意味を感じ取れるようになりましょう」と有難いお話があった。

 

このドラマの端々に見える

「今は熱心に通い、自分を愛してくれているけれど、いつ殿のお通いが減っていって夜離れし、捨てられるかもわからない。」

という、通い婚ならではの、男女の関係とはいえ女性はじっと待って夜を過ごさなければならなかった寂しさと悲哀がこの歌にもしみじみと詠みこまれている。

倫子のような雲の上の身分の高い女性でないかぎり、いや身分が尊い女性であっても、というか身分が高い女性こそ、男性のお通いが絶えてなくなるのはプライドが許さなかったであろう。

源氏物語にも出てくるではないか、前の春宮妃であった六条の御息所と光源氏が恋仲となるが、まだ若かった光源氏は次第に町の小路の気安く訪ねられる女(=夕顔)の家に通うようになり、また正妻の葵上もおり、通う足が遠のく光源氏にすがることもプライドが許さず、………

そうこうするうちに生霊となり夕顔に取り憑いて亡き者にしてしまう……

源氏物語に出てくる女性たちの悲哀には、こうした当時の結婚観を半ば諦観をもって眺めている紫式部の無常観みたいなものが通奏低音みたいに流れている。

 

※サロンで解説する赤染衛門当人はといえば、大江匡衡とのおしどり夫婦で有名で仲睦まじい結婚生活を送っていたので、夫に捨てられる女性の悲哀を詠みこむと彼女の口から言われてもいまいちピンとこないが。

 

そこでまひろを特に呼び止めて、除目から落ちてからの家の状況などまひろの暮らしぶりを気にかけて下さる倫子さま。政治的には左大臣家にできることは何もなくても、でもまひろの状況さえ許せば倫子のサロンには遊びにいらっしゃいと気軽に言うなど、こまやかな心遣いがやはり繊細な人柄を現わしていて、またまひろの突拍子もない言動にはやさしく諭されるなどおおらかにして度量の深さをも併せ持つ。邸の奥、深窓でサロンの恋話に興じているだけの姫ではないようだ。

なぜなら、摂政兼家は従一位、そして倫子は左大臣家の一の姫であり、自分の結婚相手がじゅうぶんに政治的に大きな意味を持ってくることを分かって物を言っているらしいからだ。なぜなら倫子と結婚するということはすなわちこの土御門殿をも継承することを意味するからで。

それは政治的アドバンテージとして若い貴族には計り知れない意味があるだろう。

と、こういう背景をにおわせながら、倫子は突如「わたくしが好きなのは猫ばかりと両親は思い込んでいるようですけれど」とか言いながらまひろに好きな男性がいると告白してくるのである。

倫子の婿取りが当時の結婚適齢期より大幅に遅れているようではあったが、上記の事情により、求婚者は山のようにいるはずで、倫子にしてみればよりどりみどりの状況だし。

何よりまひろには倫子の好きな男性というのが気になって、愛想笑いもついつい笑顔が張りついてひきつってしまうまひろ。

こんなところで伏線を引っ張っても意味ありませんね、倫子が正妻として嫁ぐ(というか婿にもらう)貴族というのは道長のことです。

史実というか真実はどうだったかわかりませんが、このドラマの世界線では(若い頃の)道長の本当の想い人はまひろです。

しかしそれは実現できないという前提で、このあとふたりの逢瀬がふたたび描かれていたが結局どういう結末となったのか。

 

 

恋の顛末

道長とまひろの思いが通じて以降、ドラマの筋立ては政治パートと恋愛パートの二本立てで進んでいる。政治パートは最大の転換点を過ぎ、これからは勢いをつけて一足飛びに進んでいくと思われる。つまり兼家の権勢がこのうえなく大きなものとなってくる時代だ。

では、まひろと道長2人の恋はどこへ向かうのだろう?

もうはっきりと結論は出ているともいえるが。2人の身分を考えれば言わずもがなである。しかしあえてここで台詞に明文化されていたので振り返ってみる。

道長の気持ち

このドラマの世界線では、道長とまひろは両思いである。それを前提として道長にはあまり悩みがなさそうだ。

そりゃそうだ、いまのところ右大臣邸にいて生活の心配はなし。

そのうち正妻が決まればそちらに生活拠点を移し(ていうか正妻とかいう家柄が大事なのはどうせ父兼家が決めてくれるだろう、そういえば左大臣家の姫とかいってたな……くらいの意識でしょうし)、そこから気になる女のところに通えばいい。

通う先の女は何人いてもいい。

息子と娘は多い方がいいのだから。娘は入内させれるし、子供は多ければ多いほど自分の掌中にある政治勢力として多数派を形成できますからね。兼家一家を見ててもわかりますよね。

まひろも通う先の女の一人としていてくれればいいんだよ。つまり側室というか身分的に妾だけどいいよね、なに、衣食住の心配なんかさせないよ、一生面倒みるから……

え……なんかダメなの?何がダメなの??

っていう意識かなあ。

だって直秀がまだご存命の回で、いつだったかまひろと道長が六条で秘密裏に会って話してて、土御門殿の住民に見かけられるといけないから別々に帰ろうというまひろに、「なんで見かけられるとまずいの???」って道長は全くわかってなかったもんなあ。まひろには身分違いの相手、道長と会ってるのなんかばれたらスキャンダルでしかないもんなあ、妾になったのかとか言われそうで、いやだったんだろうなあ。

道長にはそんな悩みとかは全然なさそうだなあ。

 

まひろの気持ち

さて、そんなお気楽な男性貴族の道長はさておき。

まひろの苦悩がこのドラマにやはり通奏低音みたいに流れている。通ってくる男を待つしかない当時の貴族の結婚。お通いが絶えればそこで関係は終わり。北の方ともなれば邸の北の対とかに居室をもらって一緒に住めますが、まひろと道長の身分の差ではそれは生きてるかぎり叶わない夢でしょう。

当時の紫式部が考える恋愛観、結婚観が源氏物語に反映されているとは思われるが、それが実体験に基づいたものというか物語執筆までに恋愛経験はあるだろう(というか結婚と出産を経てたような)だからある程度リアリティがあるのはまあわかる。

で、その相手が道長になってるから今回のドラマは筋書きがややこしいわけで。

 

とにかくまひろと道長は両思い。

道長はまひろと恋愛関係を続けていくことに躊躇がない。

でもまひろはこれ以上この関係は耐えられない。

だって逢瀬の場所が六条の廃屋敷ですよ?

幽霊出てきそうですよ?

まひろは、自分を一番に見てほしいんですね、好きな人に。たぶん。

………え?中学生ですか?

あ、まひろは16~17才か、まあ一緒みたいなもんでしょ、当時としては結婚適齢期ですが、だからこそまひろは結婚に夢を持っていて理想を捨てきれなかったのでしょうか。

 

こんな家族にも世間にも伏せなきゃならない関係で、廃屋でしか会えなくて、そんなの嫌なんですよたぶん。まるで世の中に言えない関係みたいじゃないですか。あ、世の中に言えない関係なのか。えええ?そんなのイヤだ!ってなったんじゃないのかな。

(まひろの理想の世界)ちゃんと結婚の際には3夜通ってくれて(という決まりだった)、3日目の朝には所顕ところあらわし(家庭内の発表的なやつ)として三日夜餅を一緒に食べて…両親にも面会してもらい、邸の女房や従者たちにも妻として認めてもらって……

そうしたらいずれ妻としてちゃんと邸内に対屋を一つ与えられ北の方として正式に迎えてくれて、ほら道隆の妻高階貴子様みたいにね?

そういうの女子ならみんなあこがれるじゃないですか。

結婚ってこんなのかなあ?みたいな。

 

自分はわかりますよその気持ち。みんな白いウエディングドレスとか白無垢とかにあこがれるのといっしょですよ。

そういう女子ならではの夢を一笑に付すとかしたくないですよ。

大切な憧れの気持ち無碍にしたくない。

 

「君の事は何人目かの妻としてだいじにするからさ」

てことでしょ?何人目かだけど、正妻はほかにつくるけど、ほんとに好きなのは君まひろだよってことでしょ??

親の顔よりよく見ますよそういうセリフ((笑))。

古今東西、世の中の男がいつの時代も女にそう言い寄っては舌の根も乾かぬうちに別の女の所へ通ってそう言うんですねわかります。

 

まひろの中にはきっと「蜻蛉日記」がフラッシュバックしたことでしょう。

道長に説得され、情にほだされそうになってはっと我に返り、まひろは叫ぶ。

『北の方じゃなきゃ、嫌!!!』

《幻の副音声:あんな女の盛りを過ぎて夫に顧みられずに一人寝が寂しいと言うような悲しく寂しい人生は送りたくないの!》

………なんかまひろの心の声が聞こえた(妄想)。

PTSDですか、まひろさん。

かわいそうに……(´;ω;`)

その他にも、まひろが小さい頃に女の所へ通っていた父為時。夫が冠俸給もない中窮乏に苦しみながらも家に尽くす母を蔑ろにしていた(ように見えた)父為時。

もう枚挙に暇がありません。

そういう時代(一夫多妻制の通い婚)だったのだからしょうがないですが。

でも今は、まひろの気持ちを大事にしてあげたいんですよ視聴者としては。むりやり有象無象の数ある妻のひとりとして埋没していくなんて……

かわいそうです。

 

 

宣孝の言い分

緊張した政治の駆け引きや、情感あふれる弦楽器のBGMに混じって、このパートがおまけというかコントのように付属している。

さて為時が官位を失ったことでまひろはどこか働きに(=女房として出仕口を探して)出ようかと口にする。

それに対し宣孝は言下に否定する。

「なに出仕などして働かずともよい。そなたが婿をとればよいのだ。北の方にこだわらなければいいのだから。そなたは話もおもしろいし漢才や詩歌の心得もある、じゅうぶん婿の候補はいくらでもいることだろう、あ、器量は、まあまあ良いのだし!?」

 

わあ……宣孝様、まひろの地雷原を踏みましたね……

言っちゃいけないことを言いましたね…

北の方の座なんてどうでもいいって、言いましたね…

だめですよ女子にそんなこと言っちゃ……

 

さらに宣孝が持論を展開することには、

え?妾はイヤだ?何を言っとる、わしにも幾人も通う女はおるが、みんな一様に大切に思うておるぞ。だ~れからも異論は出ておらん。なに、大丈夫だ」

 

わあ・・・・

宣孝様、これで全女性を敵に回しましたね……

あ、一夫多妻制なんだからこれが当時の一般常識なんでしょうけど。

でもね、女たちが一様に、他の女のもとに通う夫君の背を快くお送りしてたとお思いですか?そんなの悲しいにきまってるじゃないですか。

みんな夫の背にすがって、衣を引きちぎらんばかりに握りしめて自分のもとに居てほしいと言いたいのを、世の常識とやらに縛られて口に出さないだけのことです。

 

黙って待つしかできない女の苦悩は、これから源氏物語に色々な姿で描き出されることになるだろう。その背景には、史実にはないけどやはりこうした実体験があったのだろうと思わされる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第10話「月夜の陰謀」 大河ドラマのlightな感想 光る君へ

 

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今回は大きくストーリーの流れが二つに分かれる。政変と、恋だ。では政変のほうから見ていくことにする。

寛和の変

………自分は日本史については素人なので史実といっても何も知らないのですけど。少なくともWikiに見える内容通りではあるようだ。

一年に渡って語られる大河ドラマ

そのプロローグの終章を飾る、天地を揺るがす大事件。

序章は終わったのだと高らかに告げる。

ここを分水嶺として、政治的にも、また関わる人々の人生そのものも大きく動いていく事件。

 

自分はこの感想部屋で、この事件を軸として山場へ持ってこれるように、この政変そのものについては言及を避けてきた。また、この事件への伏線や今後の展開についても明言しないことにしていた。藤原義懐一派の専横ぶりが際立ち、「このようなことはおかしい」という実資の憤りがより鮮明に感じられる筋書きだったため、自分も感想を考えながらこの政変まではじっと息を潜めて耐えようと思ったので。

これまで9回にわたって語られてきた喜怒哀楽の物語はすべてこの政変へ収束するように、ドラマの脚本もそこへ一気にスポットライトを当てるように語られてきている。

 

だが長年与えられた位階に甘んじて、誰よりも耐え忍んできたのは他でもない兼家だ。

安部晴明と謀って花山天皇を陥れ、失脚の憂き目に遇わせて力づくで自分の血筋の孫である懐仁親王を帝位につけようとする兼家。

このなりふり構わぬ振舞に顔色も変えず淡々と従う安部晴明に品格が感じられないのはいうまでもないが。そもそも貴族の生活から行動まで全て陰陽の占いにより決まっていた時代、陰陽師が意図的に政治に関わっていたのではあまりにも不公平、かつ政治にクリーンさがなくなるではないか???

……クリーンな政治?

そのような単語はこの時代の辞書には存在しない。

生き馬の目を抜くような政争の世界で、一瞬でも気を抜けば、誰かに心を許せば出し抜かれて葬られる過酷な時代。

友情とか協調とかいう概念はないのだ。

兼家がどんなに苦難の道を歩んできたか家系図を見ればわかろうというものだ。

 

 

兼家はそもそも三男坊であった。長兄の伊尹、兼通を長い政争の末に打ち破り(という表現が一番しっくりくる)、やっとのことで右大臣の座に就いた。

その様はまさに臥薪嘗胆がしんしょうたん

参照:臥薪嘗胆 - Wikipedia 
屈辱を忘れないようにする、復讐を成功するために苦労に耐えること。仇を報いたり、目的を成し遂げたりするために、艱難辛苦をすること。

これ以前にも藤原氏はかりごとにより、政敵である源氏を追い落とした過去もある。

安和の変だ。(参照:安和の変 - Wikipedia )このときは左大臣源高明大宰府へ実質左遷させている。兼家ら三兄弟がこれに関わったかどうかはっきりとはしないが、結果としてこののち藤原氏が政権を握る転換点となった事件である。

この源高明の娘が源明子で、安和の変ののち東三条院詮子(道長の姉)の庇護を受けているシーンが今回一瞬見えた。明子はこののちストーリーに関わってくるという意味だけど今回は名前を確認するにとどめておく。

 

その伝統を受け継いだのか(?)文字通り手段を選ばない藤原氏の兼家。

しかしこの陰謀が露見すれば、失脚するのは兼家の方だ。この時点で57歳(下記参照)、兼家の年齢で失脚すればもう人生において政争に復帰できる見込みはなく文字通り終わりなのだ。

 

兼家にとってはいわゆる背水の陣。

一世一代の大博打というやつだ。

 

失敗した時の想定として、道長に対し関与してないと通すように厳に言いつけ、政治的に無傷のまま残しておく算段をも顔色も変えず語っている。

その際に、政変が成功すれば兼家の権力の跡継ぎは長兄道隆であると言及することも忘れていなかったが。あくまでこの時点では道長はもしものときの保険でしかなかった。

 

ともかく三兄弟+道綱、そして政変の鍵を握る詮子(と懐仁親王)を前に兼家は陣頭指揮を執る。前回「帝を御位から下ろし奉る」などと敬語なのか不敬なのかわからない論理をまくしたてていた兼家だが、根回しを重ねたうえで、ここにきて冷静沈着に寸分の隙も無い計画を立ててきた。しかしどこかで歯車が狂えばもう頓挫するともいえる。

安部晴明の占いに拠り丑の刻(AM1:00~3:00)から虎の刻(AM3:00~5:00)までに決行することとなり、人目につかない時間帯になったのはよかったが、これで占いの結果日中の時間になればどうするつもりだったのだろう。

それに帝を内裏の門に連れ出した姿を実際に確認することなく、門番の時の声が上がると同時に内裏の門を閉じるてしまうのもまた賭けである。

裏門につけた道隆の用意するという女車も、誰に見咎められないとも限らない。ここで目撃者が出ないとも限らないのだ。

そんな些細な齟齬からも崩れるこの計画。

なんとしても成功させて花山天皇には落飾(=剃髪、出家)してもらわなければならない。

 

これで計画が成功するかどうか、皆の顔に緊張が走る中、道綱には清涼殿の典侍から三種の神器のうちふたつを道隆と共に受け取り、梅壺の春宮(と詮子)のもとに運ぶという、計画の要ともいえる大役が仰せ付けられた。しかし目撃者がいれば始末せよとの厳命に戸惑う道綱。

この、三兄弟+ 詮子の肚の座り方とくらべて道綱は非常に人間味があって現実的だ。他の三人と詮子が激烈な政争の中を泳ぎ切っていてちょっと冷酷過ぎるだけなのだ。

道綱役の上地雄輔さん、自分は大好きなんですけど。このドラマでは他の錚々たる顔ぶれの中でよく言えば一般人、言い方を変えると度胸がすこし足りない人物として描かれている。いやいやその見てて共感できる感情の揺れとか、ほんと自分は一番親身になれて大好きな役柄ですけどね……

 

さて運命の時はきた。

寛和2年6月23日(986年7月31日)。

安部晴明の占いによれば、歳星が二十八宿の氐宿を犯す日。この日を逃せば兼家には災いが降りかかり、花山天皇は長く帝位に留まることになるだろう……

失敗は許されない。かくて兼家の立てた緻密な計画は完璧なまでに成功裏に終わる。最後のシーンで剃髪した花山天皇(もう上皇だけど)が、道兼に裏切られたことを知って悲痛な叫びをあげているところが居たたまれません。見るに堪えない。なんてことをしてくれたんだ兼家(今更)。

 

政変の後のことは史実にあるとおり。

懐仁親王践祚して一条天皇となり、いままで政権を我が物顔に操っていた藤原義懐と乳母子の藤原惟成は失脚し(史実に拠れば花山天皇と同じ寺で出家している)、以下同様に蔵人として務めていた面々は罷免となる。(蔵人頭藤原実資も役を解かれるが余りの実務の有能さに?彼だけは翌年復帰している)

大事なことなので2回言います。

それまでの蔵人は全員罷免されたのです。

六位蔵人として務めていた藤原為時さんもお辞めになられるという意味です。これでまひろの家はまた衣冠なしの貧困家庭に逆戻りです。

どうするのでしょう、また昔のように築地塀の崩れも放置し、雨漏りが滝のように降り、さらにお給料の減少に耐え切れず使用人が辞めていって限りなく0に近づいていく無限ループに逆戻りですか!?

 

さらに花山天皇は世を儚んでか、自害するということはなかったけれども、寺を巡礼する旅にでたという。また、和歌や芸能に秀でており、風流な余生を送った。余生と言っても出家したのはまだ19歳だったが。上皇となってからも妻妾を持ち、女好きだったが、それは性格だから変えられるものでもない。繰り返すが19歳の若さで政略に嵌められ、引退を余儀なくされたのだから破滅的な行動に走ってもおかしくないなか、仏の路に入り自分を見つめ直す姿勢は、見ていてハッと胸に手を当てさせられる……

奇行が多かったとかの伝説は、別の政治派閥による創作の可能性もあるし。

なぜなら歴史の叙述は常に勝者の立場から語られるからだ。歴史を残せるのは勝者のみともいう。

大阪城を思い出してください。秀吉の築いた大阪城は基礎に至るまで徹底的に破壊され、家康により上から(今現存する)新しい大阪城が建てられましたでしょう?あれと同じことです。

今見える、手に取る事のできる歴史はすなわち正しい、とは限らないのです。

 

ドラマのテーマは源氏物語であり紫式部が生きた時代を描くというものですが、その本編に入る前の序章の終わりを告げる時がきたとは言える。

これから政治的に兼家が主役の時代になり、道長にもスポットライトが当たる時がくるだろう。

 

 

さて、今回のストーリーのもうひとつの焦点、恋について考えてみる。

まひろと道長の恋

2人の恋は一見成就したかのように見えるが決してそうではない。

現実に男女の関係になっても。思いが通じて満足で幸せそうな道長に対し、まひろは涙しながら「人間は幸せでも泣くし、悲しくても泣くのよ」と述べる。

まひろはこのどちらの感情もあるから道長のように一概に喜べないのだろう。

単刀直入に言えば、二人の関係の障壁になっているのは身分だ。兼家の口添えあってもなお六位蔵人の官位でしかない学問一辺倒の為時の娘では、道長の妻になってもよくて妾、側室にしかなれないし結婚して幸せかというと「何番目かの妻」では素直に喜べないのは当然。

婿入り婚であった当時、男性貴族の出世の鍵を握るのは婿入り先の政治・経済的権勢であったので、まひろは絶対に正妻にはなれない。妻妾の立場がどんなに辛く心細く寂しいものであるかは、道綱の母が記した蜻蛉日記にまざまざとその現状が書かれているのを見ても一目瞭然だ。

 

詩歌をよくし文筆の才が冴えわたるまひろ。

普段のようすは冷静沈着、世俗の出世や儲け話とは無縁で、親子ともども純朴に学問を愛する。機械みたいに、AIのようにただデータベースからはじき出すような思考回路?父の英才教育あってのもの?

いや、感情の奥底にほとばしるような情熱を隠しているからこその、味わい深い表現になるのだろう。

 

このまひろの繊細に揺れ動く女心というのか、言葉で表すことのできない心情の機微を、吉高由里子さんが無言のうちに表情で見事に語る。

父が通う妾宅へ真相究明に潜入するも、その妾は病で明日をも知れぬ命であるという重い事実を受け止め、男女の仲とは一筋縄では説明できない奥深さがあるのだとまひろなりに理解しようとかみしめていたところだが……………

(※このくだりや色々な男女関係がこのドラマでは描かれているが、そのどれもが源氏物語のしみじみとした情趣、人の心を強く打つ感動などの「あはれ」に集約されていく伏線なのではと思わせる節がある)

その後、道長からの文を従者の百舌彦が届けに来るが(この文をまひろが直接受け取っているシーンは断じて貴族の姫としてありえない行動だとしても)その文を食い入るように見つめ思いを馳せるまひろの表情が実に美しい。

それまでとは打って変わって、みるみるうちに恋する乙女の如くかわいらしく艶やかになり、透き通るような色白の肌は心なしかほんのり色づいているかのよう。

感情の昂ぶりのあまり目までうるんでいるかに見える。

 

貴族の文のやり取りって本来こうですよね。何回も熱烈な歌を贈られ、しかし女性側はすぐに靡くのははしたないとされて何度か返歌をするうちに次第に打ち解けていく……

ただしまひろがただの姫でないところは、返歌を昔の有名な漢詩から引用している点だ。なんと(5世紀の)東晋陶淵明から取っている。そりゃ道長も戸惑って行成に相談するわけです。なぜなら漢籍は男性が朝廷での仕事で扱うもの、女性は関わるべきものではなかったからで。

 

行成も行成で、(道長が実際に引用したのが古今和歌集からというのを関連させてるのもあるだろうが)古今和歌集 仮名序冒頭を踏まえて、まひろとの文のやりとりを解析して見せた。実にお見事。このふたりの関係は今後も政治的に重要な意味を持つことを暗示しているのだろうか。

行成が引用した仮名序冒頭:
和歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。
世の中にある人、事業(ことわざ)、繁きものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり。

現代語訳:
和歌は、人の心をもとにして、いろいろな言葉になったものである。
世の中に行きている人は、関わり合う色々な事がたくさんあるので、心に思うことを、見るもの聞くものに託して、言葉に表わしているのである。

 

まひろはもらった文の和歌を通して道長に思いを馳せる。

しかし返歌に託した漢詩で、また直接道長に伝えたところでも、単純に自分の思いに溺れてないところが、やはり何か筋が通った意志の強さを感じる。

源氏物語のような長大で複雑な構成のものを執筆するだけの胆力がこの辺にも垣間見える気がする。

 

上記の仮名序に見える「心で思うことを見るもの聞くものに託して和歌に詠む」ことに対し、漢詩は「志を託している」と解析する行成。

 

実際の道長が文に託した和歌は、熱烈な恋の歌だ。いずれも古今和歌集から。

思ふには 忍ぶることぞ 負けにける 色には出でじと 思ひしものを
(巻第十一   恋歌一 503番 よみ人しらず)

現代語訳:強い恋心に、忍ぶ心が負けてしまいました。決して誰にも知られないようにと思っていたのですが。

※恋が思いがけず露見してしまったという歌は他にも数多く残っている。次の二つの歌は「ちはやふる」で自分は知った(国文学は初心者勢)。人に言えない恋心を抱えて思い煩うのは今の世にも言えることかもしれない。

しのぶれど 色に出にけり 我が恋は ものや思ふと 人のとふまで
拾遺集恋一 平兼盛
現代語訳:心に隠していたけれど、顔色に表れてしまっていたのだなあ、私の恋心は。「何か物思いをしているのですか」と人が尋ねるほどに。

恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思ひそめしか
壬生忠見
現代訳: 恋をしているという私のうわさが、広まってしまった。誰にも知られないよう に、心の中で思っていたのに。

 

死ぬる命 生きもやすると こころみに 玉の緒ばかり 逢はむと言はなむ
(巻第十二恋歌二568 藤原興風

 恋しさで死んでしまいそうな命が救われるかもしれないので、試しにほんの少しでも逢おうと言ってみてください

 

命やは なにぞは露の あだものを 逢ふにしかへば 惜しからなくに
(巻第十二 恋歌二 紀友則

 命、それが何だというのか、所詮、露のようにはかないものであるのだから、逢うことに替えられるなら惜しくはないのに

 

どれも熱烈な恋の歌、古今和歌集に載っている。ではこれをプロポーズととるのかというとどうなのでしょう。一夜の関係、ゆきずりの関係を前提としているのでしょうか。いや、当時は男女が顔を合わせるというのは「相まみえる」=結婚すると同義語であったくらいだったので当然プロポーズという意味だろう。

 

この求愛の歌に対し、まひろの答えは漢詩の引用であった。陶淵明の「帰去来辞」である。

※官を辞して帰郷する決意と喜び、自然を友とする田園生活の自由な心境がうたわれている。江南の田園風景を背景に、官吏としての世俗の生活に背を向け、いわゆる晴耕雨読の生活を主題とする(引用:陶淵明 - Wikipedia )


歸去來兮 田園將蕪胡不歸
既自以心爲形役 奚惆悵而獨悲
悟已往之不諫 知來者之可追
實迷途其未遠 覺今是而昨非

(現代語訳)

さあ故郷へ帰ろう。
故郷の田園は今や荒れ果てようとしている。
どうして帰らずにいられよう。

今までは生活のために心を押し殺してきたが、
もうくよくよしていられない。

今までが間違いだったのだ。
これから正しい道に戻ればいい。

まだ取り返しのつかないほど大きく道をはずれたわけではない。
やり直せる。

 

まひろは「自分の心に正直になればいい」というふうにこの漢詩を解釈しているように見える。そして、まだやりなおせる、とも。

 

田園へ帰ろうという趣旨からか、道長はまひろに

「遠くへ駆け落ちして官位と家を捨て、お互い身一つで暮らそう」

と持ち掛けるがまひろはここで漢詩を引用している。

この恋文のやりとりのベースには前回の直秀の詩が色濃く影響しているわけです。あの事件から立ち直れずにいる道長に、「やり直せるからまた立ち上がろう」というふうに説いている。元の「田園に還り晴耕雨読を生活の糧に生きよう」とは真逆になっている気もするけど。

 

まひろは、行成の言葉を借りれば

「志を詩に託した」

のだ。

でも、ここでまひろに漢詩を引用してまで激烈な熱情と向こう見ずな行動を諭されるような立ち位置でしたっけ。

大臣家のご子息様ですよね?

もっと御身を大事に慎重に行動なさるべきなのでは?

 

しかしこれは二人とも歴史に名前が本格的に登場するまでの無名の時代にすぎない。

若さならではの感情の奔流がなせるできごとだったのだろうか。

 

※ドラマで詠まれた和歌と漢詩のテキストはこのサイトから引用:
【光る君へ】第10回「月夜の陰謀」回想 陶淵明と古今和歌集が象徴した2人の違い 「志」を説くまひろと「心」を訴えた道長 紀貫之「仮名序」の影響力とは – 美術展ナビ

 

 

 

第8話「招かれざる者」、第9話「遠くの国」 大河ドラマのlightな感想 光る君へ

 

※個人的事情で、感想は今回2回分まとめて考えます。

 

 

 

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直秀という存在を考える

さて、この時点で第9話の結末までを知ってる前提で書きますが、直秀および散楽の一座は、源氏物語紫式部を主人公に据えるこのドラマでは、オリジナルキャラとして描かれている。

ここまでは大河ドラマとしてはよくある設定です。史実だけを追いがちな歴史物で、より身近に感じられる存在としてオリジナルキャラはよく重要な役割で登場したりする。

さて直秀は他の大河ドラマと同様、貴族や権力者としては描かれず、主人公たちの物語を第三者の立場で俯瞰するという位置づけを取る。というより特殊な職業として当時の社会を構成する枠から一歩離れて、その矛盾点を鋭く指摘するという役割を担っている。

身分が流動的で平民と権力者の立場が頻繁に入れ替わっていた戦国時代の大河ドラマとは違い、平安時代は完全に各層が固定化されてて、お互い他の身分の社会は伺い知ることができなかった。そのためドラマ化にあたり、社会全体のようすを(わかりやすく)アナウンスしてくれる直秀の存在は、ドラマのスタートにあたって必要不可欠な存在だったと言えるだろう。

 

さてドラマの主人公の貴族身分は下級の貴族である。下級だからまだ下から上の身分を見上げて客観的に語ってくれる立ち位置ではある。

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この下にどのような身分があったのかというと。

まず貴族の邸宅において、女房は主人の身の周りに仕え衣装を季節に応じて用意し   たり年中行事を司ったり、また主人の文や和歌を代筆したり、他家との折衝を家司が行ったりする。ここまでが大まかな貴族の身分と言えるだろう。彼らの生活レベルは衣装、生活習慣、食生活ともに他身分とは一線を画す。

邸においてそれ以外のことを行うのが下男・下女で、彼らは薪割り、物資の運搬、炊事、洗濯、屋敷の補修や維持管理、市場で日常物品の購入や物々交換、他家への文の使いなど……彼らは身分的に主人の家には上がれないしお目見えも許されない。

また彼らが行きかう市やチマタには商工業者が集っていたりするが、あまりにも関連人口が少なすぎてこの時代まだ産業として成立してないのでそこはスルーする。

ではこういった平民身分として他に挙げられるとすれば地方の農民、漁民、海人だ。彼らが住む地は地方の国司が治め、また寺社や貴族の荘園として私的な領地に組み込まれているところも多かった。

平安時代前期、まだ一日二食、砂糖などは上流貴族しか手に入らず、経済は物々交換という原始的システム。農民の衣服は麻の貫頭衣に住居は竪穴式という奈良時代と大して変わらないレベル。医療の概念はなく権力者ですら呪術的にとらえて祈祷に頼り、社会福祉の発想もないので自然災害とか感染症の流行、貧困の問題もほったらかし。働けなくなったら行き倒れになるしかなかった時代。

識字率は言うまでもなく0%に限りなく近い。字が読めた知識人は寺院の僧くらいのもの。

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もうお分かりですね?これら平民身分のようすは貴族にはまったく情報が入ってこない。

直秀はこの二つの世界をつなぐジャンクション、接点であったようだ。この分岐点を通じてお互いの世界にお互いの情報が流れる。あくまでドラマの中の抽象的な立ち位置にすぎないが、固定された身分社会をはっきり描き出すうえで彼は重要な役割を果たしていたと思う。

都の人々が行き交う市、チマタ、河原において上演されていた彼らの散楽。

それを目にするのは都に住まう人々のほんの一握りにすぎなかったにしても、でも世の中の事を散楽というワイドショーで単純明快に演出してみせていた。今でいう新聞タブロイド版、または週刊誌。面白く娯楽にのせてニュースを提供するのが身上。

直秀曰く「民衆はみんなカツカツの中を日々精一杯生きてる。彼らはそんな重苦しい日常を跳ね飛ばして心の底から笑いたいんだ。(まひろの考えた五節の舞姫ストーリー案は)所詮貴族の戯言だ。ちっとも笑えやしない」

平民、使用人や農民や商人でなく、直秀らは芸人一座。彼らはまた盗賊として、義賊としても活躍していた。上記の通り社会福祉のバックネットが無かった時代、野垂れ死にする運命だった貧民たちに盗んだ高価な戦利品をすべて分け与える……

しかしあちこちで盗賊として窃盗をはたらいたことに変わりはなく、検非違使が捕らえたこと自体は、貴族から見れば正当な業務にすぎないのだ。

しかし彼らは捕らえられてもなお歌い舞い踊り、わずかな時間でも芸を楽しむ生粋のエンターテイナーぶりであった。

身分制度外の者、一般社会から人間と認識されてない彼らは転じて裏社会のルールで生きていたという設定も、たしかに当時実際に在りえた設定で、脚本の妙に思わず唸る。

 

散楽について(第一回の感想から)

結局彼ら散楽の一座が上演していた芸能とはどのようなものだったのだろうか?

ドラマでは政治のものまねを上演していたが。

ここで散楽について、第一回感想の記述から加筆訂正して引用する。

 

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【以下、第一回感想から引用します】

散楽と市、チマタと辻

 この市で行われていた散楽とは一種の芸能だ。

日本の奈良時代に大陸から移入された、物真似や軽業・曲芸、奇術、幻術、人形まわし、踊りなど、娯楽的要素の濃い芸能の総称。

引用:散楽 - Wikipedia

起源は西域。つまり今のシリアからイラン、中央アジアからタクラマカン砂漠あたりをシルクロードを経由して古代に中国へ伝わったらしい。つまり中国での宮廷芸能である雅楽に対して、庶民の芸能という意味で散楽と呼ばれたそうだ。

中国に西域から伝わった奇術、幻術……

それって唐の都長安で大流行りした幻人を指すのでは??

(参考地図)

※中国より右の青字は大河ドラマ平安時代と同時代10世紀の国名です。
※中国より左は散楽の起源となった古代ローマ時代の地図です。
※散楽に関係あるルートの国名と都市名しか載せてません。

 

ちょうど唐の時代にイランでは、安息国の後継として栄えたササン朝ペルシアがイスラムの攻撃を受け崩壊し、多数の文化人が都の長安へ亡命してきた。後ろ向きに馬上からの騎射の構えを描くいわゆるパルティアンショットもこの時期、工芸品の紋様として伝えられた。ほかにも宗教(ネストリウス派キリスト教景教イスラム教=回教・清真教)や様々な文物がこの時期イランから往来したが、その中に幻人も含まれていたと考えられる。

幻人は古く漢書西域伝や史記で、條支(シリア)や黎軒(アレキサンドリア)から献上されたとして登場する。それらの地では、燃えあがる炎や刀を飲み込んだり蛇を操ったりと、路上で奇術を操り大衆の見物するところで芸を披露したという。

それが唐に伝わり、イラン伝来のガラス器や西方の葡萄などの果物とともに異国情緒を伝える芸能として、幻術は長安の都で見物することができた。当時の長安イスラム帝国バグダードと共に人口百万人を超える大都市で文字通り世界の文化の中心の一端を担っていたことから、当時遣唐使としてやってきた日本の官僚がほかの文化と共にこれらの芸能を持ち帰り伝えたと考えられる。

その後日本では猿楽、そして能楽へと姿を変えて後世へと伝えられた。

正倉院に伝わる伎楽の面(散楽ではないが)。鼻が高くイラン系のソグド人の風貌を伝えるといわれる。この面の役名は酔胡王といい、胡は中国から見て西方つまり中央アジアとその文化を指す。参照:正倉院 - 正倉院

 

※散楽の衣装。短い胴着で裾に花鳥文の染め抜きがある。右端は袴の裾カバーで、ここに見える騎乗で後ろ向きに動物を射る紋様がいわゆるペルシャ起源のパルティアンショット。参照:正倉院 - 正倉院

 

※下記貼り付けの記事より引用ーー

また、正倉院宝物の弾弓(だんぐう)に描かれた「散楽図」(下記画像引用:正倉院 - 正倉院)や『信西古楽図』『新猿楽記』などによると軽業、曲芸、奇術、幻術、物真似などの雑戯であって、乱舞(らっぷ)、俳優(わざおぎ)、百戯(ひゃくぎ)とも記されており、日本に入ってきたものも中国大陸のものと同じような内容であったと思われる。

正倉院宝物の弾弓に描かれた「散楽図」

(※参考資料)

 

さてドラマの舞台は平安時代

このころには、散楽は奈良時代のような朝廷の庇護を受けた官設の楽団ではなく、場所も寺社における国家行事ではなく、平安時代には散楽が上演されたのは市の一角の路上だったりする。つまり大道芸人の性質を帯びてくる。

市とは庶民が交易に集う場所。まだ貨幣経済でなく庶民の間では物々交換だったことから、市には各地の物産が集積しそれを求めて庶民が集まった。

こうしたは普段の生活の場とは一線を画したハレの空間と考える。そこでは役所の役人からのお触れが高札に書かれて掲げられ、また処刑が行われていた場所でもあっただろう。処刑はまた河原でも行われた。ほかに古代には歌垣(つまり平安時代で言う歌合せ)が市で行われたり、また夕占などの祭祀も広い意味では市でのイベントに含まれるかもしれない。

(中略)では官設のもの以外に自然と市が立つ場所とはどういうところだろうか。

物産の集散地にして市が開かれる所、役所からのお触れが高札で立つ、処刑(=見世物)が行われるところ、それは地元住民が行きかう所、つまり交差点だ。街道が交差する場所ともいう。それをチマタと呼ぶ。

飛鳥時代にはすでに市があったことが史料に見える。代表的なものでは、藤原京の古道、下ツ道と山田道の交差点は軽市かるいちまたは軽のチマタ(今の樫原市橿原神宮前の丈六交差点)と呼ばれ、また山辺の道と大和川が交わる所には海石榴市つばいち(今の桜井市金谷付近)が立ち、ほかにも石上のチマタや当麻のチマタがあった。

京の都に建てられた東西の市はあくまで官営であり、それより古代から人々の営みの中では、普段の空間(ケ)に対して市つまりハレの空間が存在していたということだ。

 

第一回感想の散楽についての記事引用は、ここまで。

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直秀のこれからの身の振り方

居住地も職業も固定しない流浪の彼らの自由さに比べれば、確かに都の貴族は立場と身分に一生縛られる鳥かごの鳥。

この第8~9話ではやたら鳥かごの鳥が強調されるし実際鳥かごが頻繁に画面に登場する。それはしがらみから抜けられない紫式部と貴族たちを暗喩するモチーフなのかなあ。

 

直秀は丹後、播磨、筑紫の国にも行ったことがあるという、それらの国には海がある。というか播磨と筑紫は瀬戸内海の海運により行く場所といえるだろう。

そして海の向こうには彼の国の陸地が遥かに見えるという。

……………え???(白目)

海の向こうに外国の陸地が見える??隠岐対馬でさえ本州からは見えないのに???

このへんは大河ドラマならではのファンタジーというかフィクションですね。

なんで日本から外国の陸地が見えるんだ。この外国というのが京の都以外の地というなら筑紫も外国じゃないかとなるし。おかしいでしょ。

ではこのへんは中世キリスト教世界でいう、地球は平らなのだという古代ならではの概念ってことで片づけといて(いいんかい)、

直秀の言う「彼の国」とはどこかを考えよう。

ここで散楽の項で貼った地図の東アジア部分を思い出してください。この東アジア部分は平安時代当時の国名と都市名で書いています(だいたい)。

 

普通に考えて日本から見た海の向こうは当時の高麗なわけですね。その向こうには宋がある。

唐の国際交流が隆盛を極めた広範囲多民族国家の繁栄を経て、宋になると経済が爛熟期を迎える。「江浙熟すれば天下足る」と謳われたように江南の長江流域の農業生産力向上を背景に、また隋の大運河の水運を地の利にとり、商品経済市場が活性化しまた貨幣経済も宋全土にひろく浸透していく。また海路を整備し杭州以南の港に市舶司が置かれ、南海貿易(イスラム世界と)によって莫大な利益が上がっていた。これらの宋銭が日本へ大量に輸入され漸く日本でも貨幣経済が動き始めるのはもうすこし後で、平清盛の時代を待たなければならない………

そういや兼家の東三条殿には調度品として高麗か宋の青磁が並んでましたね、この時代の舶来品は権力と財力の象徴として、値段はつけられない的な存在で。

直秀の目は、どうやらそっちに向いていそうです。

世界はもっと広いんだと直秀の目が静かに物語っている。

つまり彼の国とは、のことだろうか。

ちっぽけな貴族社会で縛られているまひろを横に見やりながら。そこでまひろに「一緒に行くか!?」と声を掛けますがここで一緒に行くほど大河ドラマアヴァンギャルドではなかった。というかテーマが源氏物語という、読者を貴族社会に設定した読み物をベースにしたドラマではそこまで破天荒な展開にはできなかったのでしょう。

いいえまひろの行動が既にもう十分破天荒なので、ドラマチックな展開はしばらくおなかいっぱいです。

 

ーーもうちょいおまけーー

そして古代は日本海側の地が政治の舞台でもあった。平安時代もまだ政治経済的に古代の域を出てないのでこの記事でもこのまま論ずる。

出雲の国がどこにあったかはご存じですね、今の島根県です。

それから丹後の国にも大規模な古墳が多数遺っていて、また古代の良港もあり、丹後の天橋立のたもとの籠神社には日本で最古の系図海部氏系図 - Wikipedia )がある。

また、越前(福井県北部)の敦賀氣比神宮から越後国弥彦山付近を範囲として越、古志の国越国 - Wikipedia )が栄えていた。越国(の越後と越中の境)の、糸魚川市にある姫川では上流から翡翠を産出し、古代の重要な交易品のひとつとなっていた。(※同様に川の流れに乗って上流から翡翠が流れて来る川には中国ウイグル地区の于闐ホータン川(散楽の地図の、楼蘭の左側)があり、有史以前の古代から玉の産地として有名である)

越の国出身の天皇もおり(継体天皇 - Wikipedia )、前代の天皇と時代が空くため大和の政権に対し王朝が入れ替わっているという説もある。

これらの日本海側の地はすべて港を有し沿海航法ではあるが海運で繋がっている。つまり彼らの職掌は部民でいうところの海部氏や安曇氏(姫川の上流にある穂高神社祭礼の山車は船である)に代表される海の民と思われる。また九州を拠点とする海人である宗像氏、山陽は備前地方に本居地をおいた吉備氏(大船団を有した)、のなどと共に、海を拠点とする勢力があったと思われる。

政権はその後奈良時代に至って大和政権がいちおう掌握するに至るが、日本海側が経済の主なステージであることは変わらず、これらの港はのちに北前舩の寄港地としてふたたび栄えることになる。

それらをふまえると、「海の向こうにあるものを目指して、海を越えていく」という直秀の言葉には現実味があるというか、当時盛んだった海上交易を彷彿とさせるものがある。

 

左大臣家の一の姫、倫子の縁談を巡る人々の思惑

もうこの項目は史実にもある通り有名ですが、ドラマの展開で台詞にでてきてるわけではないので、いちおうその過程で登場人物かどういう意思で動いていたのかを、この辺で一度整理したい。

いま8~9話あたりでは、左大臣家の倫子と道長の縁談がそれぞれの両親によって話が持ち上がっている段階でしたね。

右大臣藤原兼家の場合

今の時点で春宮懐仁親王を陣営に抱えているから安泰、というわけではなく、味方の足場を少しでも盤石にしたいという思惑からか?宇多天皇の系譜である源氏、左大臣家と政略結婚できないかと画策しているようだ。そこで年齢的に倫子と道長がちょうど似合うことに気づいたのかもしれない。

兼家の目的は孫の懐仁親王をどうしても天皇位につける、ただそれだけに集約しているようだ。

大臣家藤原詮子の場合

父兼家はあてにならない。円融天皇に退位を迫る目的で毒を盛っているようでは、春宮懐仁親王の身もいつどうなるか、兼家の毒牙が伸びてくるかもわからない。

そこで詮子は考えた。父兼家があてにならないなら、右大臣家がダメなら左大臣家を味方につければいいじゃない、と。そんなパンがなければお菓子を食べればいいじゃない的な発想も強引すぎてドン引きだが、詮子はいたって本気である。内裏の梅壺に左大臣源雅信を呼びつけ、ほんと強引に自分の陣営、春宮懐仁親王側につけと一方的に迫る様は傍から見ると恐怖でしかない。兄道隆に語った「奥の手」とは左大臣家とのつながりを持つことだったのか。

したたかとは、この様子をいうのだろう。

吉田羊さんの演技が光る。

以前、父兼家に、円融天皇に毒を盛ったことを直接問い詰めに直談判しに現れた場面も手に汗握る緊迫のシーンでしたが、この左大臣に決断を一方的に問い詰めるさまも、はりつめた空気に鬼気迫るものがある。

吉田羊さんの衣装が入内当初から、若い15歳で春宮も生まれたばかりの女御様にしては袿が妙に渋いなと当時は思っていた。しかしこういう展開にはまさにぴったり、落ち着きと風格を兼ね備えた演技に寄り添う衣装で、厳格なドラマの雰囲気を否が応でも盛り立てている。

左大臣源雅信の場合

彼は倫子と右大臣家の縁談自体に反対の様子。なぜなら右大臣兼家が生理的に受け付けないらしい。右大臣家の血筋だけはお断りのようだ。それに、左大臣家としては結婚相手は選ぶ立場であり、べつに右大臣家と手を組まなくても政治の立場的にも何ら困らないからというのもあるだろう。さりとて宇多天皇の血筋である源氏、そうそう身分の低い貴族を相手にもできず、のんびり構えていたら倫子が20を過ぎていたというところか。なんとものどかな状況である。

藤原穆子むつこ左大臣家北の方、正室)の場合

左大臣雅信が薦める藤原公任に対しては、「公任様は見目麗しく、その賢さは目から鼻に抜けるような方ですが、女子おなごにも大層マメに文を贈っているとのこと、倫子が寂しい思いをするのではと心配で……」と、このひとの意見が一番地についていてまともだ。ちゃんと倫子のことを気にかけているのはこの北の方だけだ。がんばれ北の方。絶対左大臣なんかの意見に流されちゃいけないぞ。右大臣の思惑も、倫子を思う気持ちとは到底かけ離れているし。その点道長様は右大臣家の御子息なのですから偉くおなりになるのは間違いございませんわ」と言われているが(;'∀')(;'∀')(;'∀')、右大臣家には道綱とか道義とかがおりましてね???北の方は内裏に出仕しないから外のことはご存じないですかね(;'∀')(;'∀')

北の方、道長を右大臣家の息子というだけで信用するのは早計かと………(結果を知ってるから視聴者は安心だけど)

倫子本人の気持ち

打毬の会で道長が競技に参加する様子を見て以後、倫子としては道長に一応「まんざらでもない」(by左大臣雅信)(しかしこの表現は貴族らしくない)という気持ちを抱いているようです。ここだけは完全にドラマ上の想像の世界ですけど、あの場で誰もが公任様に目を奪われているのかと思いきや、そうでもなかったということでしょうか。

左大臣家の姫君のサロンで、まひろとは別の意味で道長様にうっとりと思いを馳せる倫子様。そうそう、姫君の恋はこうやって始まるのです。どこかのまひろみたいに一緒に馬に乗ったりしないのです。倫子様に「ええ~馬にも乗るの??盗賊みた~~いwwwwワラww」と揶揄されてもしょうがないですよ、まひろさん??

 

 

兼家の陰謀と詮子の謀略が雌雄決着をつけんと火花を散らす

正面から公卿の集まる政治の場で議論し、正攻法で花山天皇とその一派から懐仁親王になんとか流れを持ってこようと苦心する兼家。

花山天皇の側近の立場である中納言藤原義懐と、乳母子の藤原惟成。彼らについては史書には良く書かれてないが、実際はどういう人柄だったのかはわからない。史書は後の権力者が書いたものであり、筆者にとって邪魔な立場の者は良いふうに書かれないのは世の常だ。

彼らについては先帝から蔵人頭を務める有能な官吏、藤原実資もドラマの中で散々にこき下ろしている。彼の記述は実際に日記「小右記」に残っているから、事実の面もあるかもしれないが。

だってね?花山天皇最愛の女御様、忯子様がご逝去されたからといって、蔵人頭実資に向かって「帝のおそばに新たに女子を送り込め」とはあんまりの言いようですよね。仮にも参議にして従二位中納言の義懐様ともあろうお方が、女子を送り込むなどとあからさまな……(以下妄想の世界)「忯子様亡きいま帝をお慰めするために、どなたか心映えのすぐれた姫君を探しておる所だが、実資、そなたには心当たりの姫はおらぬだろうか」とかね、なんとでも言いようがあるでしょうよ。まして、一つの発言の言葉尻が思わぬ政争の発端ともなりえる内裏の世界で、義懐様はなんというあけすけな……

そこに実資は冷ややかにツッコミを入れる。当然である。花山天皇には今も

姚子(ようこ)様
諟子(ただこ)様
婉子女王(つやこ)様

という女御様たちが控えておいでなのですよ?彼らをを差し置いて、なんという無遠慮な。まあ、女御様たちも花山天皇の心を癒せてないというのは事実としても。

このうち婉子(つやこ)様はまたのちほどドラマの中で名前を見ることができるだろう。ネタバレになるのでこの辺にとどめておく。

 

が、そういう丁々発止の鍔迫り合いのさなか、兼家が病に倒れた。(この一瞬倒れるも後に意識を取り戻しているところを見ると、一過性の脳梗塞だったのかなあ?と色々原因を考えてみるが、しかし推測にすぎない。)

ここで、8~9話の感想のため、もうネタバレしてもいいと思いますけど、兼家はこの病気をつかって策略を立てた。正確には安部晴明と共に。

ええっ????

ここで兼家倒れるの??

あなたにはまだこれから〇〇とか△△とか重大な歴史的事件が関わってくるはずなのに???

どうゆうこと????

って最初は思いましたが、ただ倒れただけのようであり、医師の見立てでも命に別状はないらしい・・・しかし治療と言っても医師の指示は「お名前を呼んでこの現世に魂を呼び戻すのがよろしいかと」って、それじゃ呪いで人を病気にさせるのと逆なだけで、やってること変わらないじゃないですか???

ああ、これは平安時代前期、まだ古代の続きで医療というより病気自体が呪いとか祭祀、呪術と密接に結びついてる時代なのでした‥‥

 

しかしそんなお祈りは見た目にやってるだけなのであった。

祈祷師をよび安部晴明とともに祈り、忯子様の怨念が成仏できずに彷徨うとかいうこともみんな周りの目を逸らすたくらみにすぎなかったのだ。

兼家の上を行く最大の策士はなんといっても安部晴明ですけど。兼家に、政略が正直に手の打ちようがないことを打ち明けられた晴明は

「私の秘策、お買いになりますか」

と、含み笑いを浮かべながら不敵にいう。

ほんとの黒幕はお前だったのか!もうこのドラマは誰も信用できない……(今更)

 

兼家の目的は春宮懐仁親王さまを帝の位につけること、そして外戚の座につき政権を掌握することだ。

そのためには今帝位についている花山天皇が邪魔なのだ、はっきりいって。

ああなんと不敬なのでしょう、自分で書いてても畏れ多いことです。

 

藤原詮子が決死の思いで左大臣との強制的な共謀を組み、自ら動いてセーフティネットを盤石なものに整えたというのに。

兼家が倒れ、兄弟みな右往左往してなすすべなくうなだれていた中、詮子だけはそんな醜態をさらす兄弟を見下し蔑むかのように(父兼家と一括りに見られてるからやむをえない)、自らの打った策を披露し、慌てふためいて青ざめる兄弟たちを叱咤激励してなだめていたというのに。そして道長はいつも詮子の味方(問答無用で)。

8話から以降、視聴者も丸々1週間、話の行く末に気を揉み、夜も寝られないほどだったというのに。

兼家が起きた時の詮子様の驚きようも取り乱し方も、ほんと同情しかありません。

 

倒れて以降、周りの人たちの様々な思惑すべてを、突然仮病であったと明かした兼家が陰謀の全容を明かすことで、右大臣家全員の立場というかメンツというか全部を持って行ってしまった。

ここで兼家を演じる段田安則さんの表情が決まりすぎてて8話以降気落ちしていた自分は溜飲が下がったというものだ(右往左往してたのは気のせいだ)。

一番の決め所に向けて周到に伏線を張り、驚く面々を一喝のもとに説き伏せる。

ここへもってくる展開も、兼家がここぞとばかりに述べ立てるせりふも、どれもかっこよすぎる。

やっぱり今の所の暫定的主役は、断然兼家ですね。

皆さま異論はありませんね。

 

そして仮病で臥せってたのも全部春宮懐仁親王さまを帝位につけるため、忯子さまの怨霊がさまよってることにして今から、次回何が起こるかは史実に詳しいのでネタバレでもないけどいちおう伏せておく。

ただひとつ、左大臣家との独自の動きなぞお見通しというわけで(なんでバレてたんだろう)、詮子にだけは春宮懐仁親王の将来をちらつかせて一撃に釘をさすことも忘れない。さすがの詮子もここは不本意ながら反論せず黙るしかないところだ。

 

直秀のその後

さて猿楽一座の直秀は盗賊業で検非違使に捕らえられてましたね。

9話の前半で道長検非違使庁の役人に賄賂をわたし、「人を傷つけてもないし何も盗ってないし、手荒なことはしないでもらいたい」と伝えた。

そしてその場面の直後、誤って捕らえられたまひろと従者の乙丸は放免されている。

 

そして検非違使庁の役人いわく「盗賊は腕を折るのがセオリー」といい、道長の同僚である右衛門の武官たちも「鞭打ちの刑がせいぜいかと」というなか、盗賊たちは流罪が決まったようだが、実際に検非違使庁の門番が告げた彼らの行き先は鳥辺野であり、はたして直秀たちは森の中に遺体となって打ち捨てられていた……

 

これがまずドラマ上の事実でした。

ではなぜ道長検非違使庁の役人に「手荒なことはしないでくれ」と賄賂を渡し取引は成立したかのように見えたのに、盗賊たちは殺されたのか。

いくつか仮説は立てられる。

道長の同僚の指摘する通り、7人もの盗賊を流罪の手続きにするにはものすごく(役人の)手間がかかるから面倒だとなり、流罪に旅立つふりをして門番にはほんとの行き先である鳥辺野と告げた

・この賄賂を、直後に放免したまひろと乙丸への謝礼と受け取り、盗賊の処置への賄賂だとは思わなかった(だったら鞭打ちにしとけばよくない…?)

・役人たちの誰も盗賊如きの処分などどうでもよく、担当役人のその時の気分によって偶然に処刑となった。

 

ここで七人の処刑とはおおごとな気もするが、上の散楽のくだりで説明したように、当時は医療と言っても祈祷と結びついた呪術的、祭祀的な面が強く、まして社会福祉など概念すら存在しない時代。

つまり人の命は怪我や病気、天災などで簡単に奪われていた時代ということだ。特に出産前後の死は多く、生まれた児も無事に育つ子は少なかった。

当時を生きていた人はそういった様々な生き残りの機会を潜り抜けて来た心身ともにかなり頑丈な人、ということになる。

 

そして直秀らが打ち捨てられていた鳥辺野は都人の葬送の地であり、このような地は各地人の住むところの身近に設けられていたと考えられる。鳥葬というか。まだこの時代埋葬ではなかったようだ。

貴族は火葬つまり荼毘に付されていたようだが、彼ら盗賊は罪人であり、それも含めて庶民は鳥葬にまかせるのが通例だったようです。鳥葬とは遺体を自然に鳥がついばむにまかせる葬送のやりかたです。えええでもその現場は見たくないです(書いてても怖い)、だから都を離れた深い森の中と決められていたのでしょう。このような葬送の場は、北の化野とかほかにも都にはいくつか場所が決められていたようです。

 

では葬送の方法はそれとして。

道長が、直秀らの行き先が鳥辺野ときいてまひろと共に騎馬でかけつける(なんか何度目かのタンデムですがもう何も言うまい)。

ここで打ち捨てられている直秀一味の亡骸をみんな埋葬するわけですが。

ええ、ドラマだからツッコミは無し???

いやこれだけは言わせてもらう。

 

葬送の地が何のために都から離れた森の中なのか。

死は、血(を伴う女性の月経や出産)と共に当時最も恐れられ遠ざけられてきた穢れの対象だよ。

なぜって?

上にも書いたでしょ、病気は原因がわからないから祈祷するくらいしか対処できなかったんだよ。死は避けられない、誰しも身近に訪れうる恐るべき闇だ。

そのような穢れにあたったものは、屋敷内で死人が出た場合も含め喪に服し、忌を結んで外出や公務を控えるんだよ。もし動物が迷い込んできて死骸になってた場合も一緒だよ。

今でも、お葬式が出た家は喪服を着るでしょ。喪服は喪に服すと書くんだよ。

それをですよ、なんでそれらの死をもっとも忌み嫌うはずの貴族がふたりしてしかも手で掘って(道具無いからな)、埋葬してるんですか。

 

って、ここまでは当時の通常概念を書いておこう。

そういう前置きがあったうえで、厳然と守るべき、穢れを避けるというセオリーを冒してでも、二人は直秀らの一味を埋葬したかった。

と、こういうふうに解釈します。

 

まひろにとっても、道長にとっても、身分としきたり、政治抗争に縛られた自分たちの立場とは違い自由に活きる直秀。

もしかしたら直秀がそれらの縛りから解き放ってくれるかもしれない。

ありえないとわかっていてもそういう幻想を抱かせてくれるだけの奔放な魅力が直秀にはあった。

夢を見させてくれる、不思議な懐の深さ。

身分とは関係ない、人間としての直秀の魅力。

そう、直秀は最初から相手を身分で測ったりしなかった。

 

出世の駆け引きとは無縁の学問に生きるまひろ。

泥沼の政略の駆け引きから抜けられない道長

どちらも立場は違えど、息詰まるような毎日を過ごしているという点では変わらない。

ドラマの中でふたりが成長していくうえで、やさしくその行く末を見守ってくれるかのような直秀の存在でしたが、このような不意の退場により、ドラマの展開自体も急転直下の結末によって序章を終えるのかもしれない。そう、まひろが少女時代を過ごしたこの都が序章の舞台だったのかもしれない。

 

ではこの第三者の立場から物語を見つめるストーリーテラーのような役割は、今後誰が務めるというのだろうか。

とりあえず第10話で大きく前半の山場を迎えるはずなので、物語の展開を見守ることにしたい。

 

 

余談:女房とは

貴族の身の周りに仕える教養の高い女官。受領の娘などの階級が多かった。高位の貴族の邸になると、それぞれに仕える専任の女房がいた。赤染衛門は倫子付きというように。ほかにも台詞はないけど、恭しく仕える女房は多くのシーンで登場する。

(力仕事や炊事、買い出しなどは下男・下女の仕事で、彼らは屋敷には上がれない、主人にお目見えできない身分なのでまた別の話)

その一方で、女房たちは屋敷の主人の側室つまり妾となる事も多かった。

後宮における尚侍、典侍、更衣なども天皇の衣装を司る女官だが、帝の寵愛を受けて後宮に入ることもあった。つまり源氏物語桐壺の更衣など。

左大臣家の北の方が、主人源雅信赤染衛門から聞いた情報を北の方は知らなかったのをいぶかしみ、気にしていたように。

藤原為時が「高倉の女」のもとへ通っていることをなぜかこれのりの乳母いとが知っていて恨めしそうにしていたことからも分かる通り。

女房は裏を返せばそういう対象になりうる存在であった。

 


今の感覚からいうとあり得ないですけど。だって広大な庭を擁し、いくつもの殿舎・対屋が軒を連ねる邸宅とはいえ、女房が妾になれば同じ邸に側室がいるってことですよ?

正室を亡くして女のもとに通う為時のほうが、家族としては単に通い婚だから女の存在を意識せずに済むからいいんじゃないですか?(いいいのか?)乳母いとは為時の動向を大層気にかけていたようですけど。すごい嫉妬ぶりでしたけど。

 

 

 

 

 

 

 

第7話「おかしきことこそ」 大河ドラマのlightな感想 光る君へ

 

目次:クリックで各項目へ飛べます

 

 

 

「続・おかしきことこそめでたけれ」

まひろは直秀から指導を受けて(?)、散楽の構成に関わることになる。

散楽の練習にも立ち会うまひろ。

いいですか、これはフィクションですからね?

これを真に受けてあんな奴らと関わってたんじゃもう姫様は嫁に行けないとか悲観的になることはありません。左大臣家の倫子様ともなればこういうのはスキャンダルでしょうが、まひろの地位では都の噂になることはないだろう。

たぶん。

 

言葉の通じない人民にも共通して伝わる演出は何なのか。

誰にも受け入れられる笑いとはどういうものなのか。

そういう演出家としての手腕を問われる……まではいかないけど、ここで物語作家としての土壌が培われたのだろうか…?源氏物語は文学作品ではあるが54帖にわたる物語が印刷もない時代、写本によってつまり発掘品ではなく伝世によって代々読み継がれてきた作品であることを考えると、そこには文学としての価値と共にエンタメ性があったと考える。

ほんとうの芸術は作者が死してから評価されるものだと言われるけど自分はそうは考えない。紫式部日記にすでに宮中での出来事として源氏物語の内容に話題をとったものとみられる会話がでてくるし、当時から宮中で話題であり、というか話題になったからこそ紫式部に宮中への女房としての出仕話が舞い込むのであるから。

言葉によらない笑いの本質のようなものをまひろはこの散楽という民衆芸能から本能的に肌で感じ取り、のちの作品に無意識に生かしていたのでは?

文学性とエンタメを両立している作品、源氏物語

 

路上で上演される芸能である散楽は、現代で言うところのワイドショー。

とすると、当時執筆するそばから人気を呼び宮中の話題をさらった源氏物語は、次の展開が気になる雑誌の連載というか、写本を通じて広く回し読みされていたところからも、要するに源氏物語人気の連ドラという立ち位置かなあと思う。

 

まひろの演出したワイドショー、もとい散楽の寸劇はチマタの話題をさらっていて大成功だったし、手腕は評価されてしかるべきでは。だって大評判すぎて右大臣家までその噂(つまり右大臣家にとっての悪評)が伝わったくらいですからね、大盛況です。

源氏物語は今後まひろが体験することになる人生の悲哀を織り込み、「もののあはれ」つまりしみじみとした情緒や趣をあらわした文学と評されることになるが、稀代のストーリーテラーとしての手腕はこの頃既に断片的にでも芽生えていたというところが描かれていると思う。

登場人物500人といえばトルストイの大作「戦争と平和」に肩を並べる規模。そのような才能が一朝一夕に大成するものではない。為時のつぶやき「そなたが男であったらのう…」というのは単に出世できるかどうかという点を超えてまひろの本質をよくわかっていたというべきか。(だからといって出版社の編集みたいに父がまひろをプロデュースするには時代が文字通り1000年は早すぎた)

 

 

いつの時代も出世する人がよい人とは限らない

にこにことした顔で優しく道兼の身を思いやる道隆。

伝家の宝刀、呪詛を引き合いに出して堂々と兼家と渡り合う安部晴明。

うわべの印象は逆な2人だが、結局相手の立場が弱い事を引き合いに出して弱みを掴んでいることに変わりはない気がする。

安部晴明が正面切って啖呵を切るさまも、なかなかたじろぐものがあるけど、優しい人の顔をしている道隆のほうが正体がなかばうっすらと分かってるだけにうすら寒いものを感じて怖い。

 

そうはいっても怖い安部晴明(しかもあのやり取りを楽しいとのたまう)に脅迫されて、愛人の藤原道綱母に優しくなだめられている兼家。その情けない有様を見ると、あの人の道を踏み外した外道(←ほめてない)にも人並みの心というものがあったのかと、ふと身近に感じたりする。いいえ絶対にあんな奴に同情とかしませんけど。

 

悲嘆にくれる花山天皇ですが、この展開は史実にも残っているので今更ここでは述べない。寵愛していた女御様の死が前回のラストで描かれた以上、これからの展開もわかっている。ドラマの登場人物もみなそれを知っているので、もはや花山天皇のそばには誰も侍っていない。

政治の流れを読む能力0の藤原為時は何の気の迷いか、間者としての、花山天皇の漢文指南役を辞退したいと兼家にみずから申し出る。

どうしたんですか血迷ったんですか為時さん!??

いいえこれが為時の地の性格でしたね…!

視聴者としてなんの安心もできないこのキャラ…!スリル満点です…!(ほめてない)

それを聞いた藤原宣孝は血相変えて為時をたしなめる、いや、もはや頭ごなしに叱責している。もう手遅れになってはまずいではないかともの凄い剣幕である。

当たり前である、ドラマの第一回から右大臣家の兼家と近しくなっておけと宣孝が助言し、天皇が春宮であった時代から長年漢文指南役を地道に続けたおかげで今の官位があるのに、後ろ盾の勢力がない花山天皇の将来が危うい今、なんで今の地位を自ら棒に振るも同然の失態を犯したのか!???

うんうん視聴者として、宣孝さんに非常に同情します。その心労、想像に余りあるものがある。いつか胃潰瘍で倒れないだろうか、心配でしかない。

そこに火に油を注ぐがごとく、為時に賛同するまひろ。

「(今の春宮が即位された時官職を解かれる事になっても)父上の御判断は正しかったと私も思います!」

もう宣孝の常識人としての忠告にも耳を貸さない、政治が読めない親子。あの、ここにもうひとりの常識人、まひろの弟の惟規くんはいらっしゃらないのでしょうか。誰かこの親子にツッコミを……

とそこにあらぬ方向から横槍が入った。主君である為時の背後から使用人が現れる謎の展開ではあるが、というか主人たちの会話に使用人が意見するという意味でも謎だが、とにかく乳母からでさえ異論が唱えられている。使用人が次々と辞めていき、どん底を味わった時期でも辞めなかった古参の乳母でさえあの時代には戻りたくないという。

しかし、乳母の決死の訴えもむなしく、運命の歯車は無常にも回っていくのであった…

 

 

宮中で行われていた遊戯

投壺

さてそんな妹の女御様を若くして亡くした斉信であるが、「出世に陰りが出るぞ」とからかう公任様が貴族にしては下品なのはいうまでもなく、道長もそれなりに持論を述べている。円融天皇の女御であった姉詮子の悲嘆にくれる様を身近に見ているせいか、

「入内は決して女子を幸せにはしない」

道長は述べる。

………さあここで、皆さまご一緒に。

それを君が言うか!!???

道長こそ、子女を次々に入内させ、摂関政治の栄華を謳歌した代表的な人物なのに、その台詞はどうしたことですか・・・?なんかの伏線か、演出か・・・?

ここまでは道長は、右大臣家の向かう政略の方向に意義は唱えず、苦虫を嚙み潰したようにしながらも無言で従ってはいるが、根はいい人のように見える。

いやいやいや……

人は見かけによらぬもの。騙されてはいけない。

 

ではなく、ここで公達らが興じている遊びというか矢が投げ込まれている壺はこれである。例として正倉院に遺っているものを挙げる。

 

投壺[とうこ](投げ矢の壺)
銅製、鍍金(ときん)の壺。下膨れの胴、両耳を付けた長い頸(くび)が特徴的。外面に線刻で唐草文や花、鳥、瑞雲、獅子などの様々な文様(もんよう)を表している。
投壺(とうこ)は古代中国において宴席の余興として行われたゲームで、離れた場所から壺に向かって矢を投げ入れ、その優劣を競ったという。

引用サイト:https://www.narahaku.go.jp/exhibition/special/201310_shoso/

この壺は宋の官窯である龍泉で青磁のものが作られたり(要するに平安時代に)、形を変えて東アジアで現代に伝えられ親しまれている遊戯である。当然、彼ら貴族が用いている壺もおそらくは唐の国から舶来のものという設定だろう。古くは古代中国の春秋左氏伝に見える古い歴史を持つ。

という由緒をもつものではあるが、傍からみて矢がうまく入っているとはお世辞にも言えず、やってて当人たちが楽しそうかというと微妙ではある。

これなら当時流行りの、今回登場していた藤原実資の妻が興じていたすごろくや、また囲碁などのほうがルールもゲームの展開からいっても盛り上がって秀逸なような……?

囲碁がこのあと1000年を超えて親しまれている遊戯なのも、うなずけるというもの(単なる視聴者としての主観)。

 

打毬(だきゅう)(=ポロ)

この打毬も歴史としては古く、紀元前6世紀のペルシャを起源とする。なので春秋時代がはじまりとされる投壺とそう歴史の古さは変わらない。そういう古代の遊びを回顧する話なのかな、今回は。

(引用サイト:打毬 - Wikipedia )

狩りに用いるような鹿の毛皮を袴に用いたところも麗しい公達ぶりの面々。何やってもイケメンな彼ら。日頃屋敷の深窓から出る事のない姫君たちがこぞって見物に出かけたがるのも納得の凛々しい姿。

しかしここで、突如行成の不参加が従者により告げられる。日取りの吉凶はあらかじめ占いに拠って決められるから、体調不良というのは本当のようだ。

しかし参加者がいないとゲームにならない。

そこで道長が咄嗟に思いつくのが「じつは最近発見された弟」という触れ込みの、直秀なのだが。彼なら散楽をやってて身体能力も申し分なし、競技にも戦力になってくれるだろう。

それに父兼家は音に聞こえた艶聞家であり、ここで突然隠し子がもう一人見つかったところで誰も不思議に思わないようである、そりゃ蜻蛉日記みたいなのも書かれてもおかしくないですね兼家さん……しかもあれは世に広く知られているらしいのに兼家自体が気に留めてないあたり、やはりまひろの解釈でいうところの「道綱母の自慢話」という見方はあながち間違ってないのかもしれない。

でもここで皆さん思い出してあげてください?

道長には直秀なんて弟をでっちあげなくても、ちゃんと兄弟がいるでしょ?

ほら道綱っていう兄が。

本気で忘れられてるようですね?あまりにも不憫では?事実そういう存在であったようですけど……それに道兼もいるでしょ?どうなってるんでしょう?

 

あと姫君たちの席が屋根を掛けただけの御簾もなく、姫君の姿は見物の庶民からも見える位置でどうなのっていうところはある。

屋根は、奈良時代から伝わる唐由来の配色という感じでちゃんと取材されてるな?という感じはするけど。

この女子群像にみられるスカートみたいな色ですね。

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(引用:高松塚古墳 - Wikipedia )

 

そういう点を除けば、野外に出かけることが生涯でも数少ない機会であった姫君たちの盛り上がりぶりは痛いほどわかるので、まひろは何をこだわって行かないというのか?と言われても仕方ないだろう。そこに道長が出るから戸惑っているという意味だと思うが。

ほかに姫君が外に出かける機会といえば、葵祭の見物とか、寺社の参詣とか(石山寺とか長谷寺へ)、そのくらいのものである。ほかは自分の邸で催される季節の宴を御簾越しに見物し、招待された公達をほのかに様子をうかがうという程度のものだっただろう。

さてここでは公達の表の顔としての打毬を視聴者様にお楽しみいただき……

 

あっ道長様を陰から拝見してひそかにときめく倫子様が描かれてますね?そうそう平安貴族の恋の始まりとはこういうちょっとしたきっかけですよね?ただ姫君たちの前に御簾がない(あるけど下ろされてない。なぜ?)だけで。

まひろさんは徒歩でここにおいでるような身分ですし(ふつうは姫君は牛車に乗る)、だいたい檜扇を忘れてますし(アイテムとしてそもそも所持してない説)、衣装が一人だけ段違いに質素ですし(しょうがない)、場違いではある。

 

そんな表のアナウンスよりこの場面のメインは、競技のあと大雨により着替えることになった公達たちによる姫君評だろうか。

ドラマのストーリーはともかく、当時の貴族の女性観とか結婚観とかの一般論は全部この場面の台詞に集約されてるので、他の登場人物が気の迷いで色々言ったとしても、ドラマの方向性は全部ここで言われるビジョンによって進むと思えば間違いないだろう。

ここに出てくる公達たちの台詞を偶然まひろが聴いてしまうのですが。

 

彼らはみな道長と同様な家柄、身分なので、まひろとは恋愛関係にはなっても正妻扱いにはならないのは記事の最初ですでに述べた。なのでまひろがここで何かに期待して聴いてるのがすでに僭越なことだし、彼ら公達のいうことは当時の身分制度上、もっともなことなのだ。

結婚は彼らの身分になるとすべて政略結婚であり、恋愛をそこに持ち込むことがそもそもの間違い(by公任様)。

道長が前回のラストでまひろに伊勢物語の歌に擬して熱烈な和歌を文に書いて贈っているが、まひろはそれは幻想であったに過ぎなかったのだと現実を悟る。

この頃10代後半であったと思われるまひろには、この恋は現実であったとしても、儚い初恋の記憶としてその後記憶の底に残るのだろう。

それから人生において様々な経験を経て源氏物語を執筆し始めるまひろ。

光源氏とか言う主人公は全知万能の神みたいな描かれ方で現実味がないが、脇役も含めて登場人物にはいやに人間味がある人たちが多い。

それらの人たちは、この決して裕福ではなかった時代を含めての経験や見聞が存分に創作に活かされていると思う。

史実の描写ではなくても、散楽の構成にスタッフとして加わる様は、そういった目に見えない部分を補っているのではないか。