歴史と本マニアのための部屋

歴史、政治、本、あと吹奏楽関連のつぶやきです

第5話「告白」 大河ドラマのlightな感想 光る君へ

 

さて、登場人物の年齢を整理してみよう。

物語の始まりのころは右大臣家から詮子さまが入内される前の年、977年。

第二話以降は984年の花山天皇即位の前後を軸に話が進む。

その間の経過、約7年。

この時間の過ぎゆく間に主人公は幼少から思春期を迎え、公達らはより高い位階を賜り、後宮そして政権は遷り変っていく。

(間違えました、主人公のまひろは984年時点でまだ14才です)

※太字は第二回以降の登場人物。

同一人物で右側に肩書が増えているのは、昇進した位階を示す。ただし現時点984年での肩書であり、将来の肩書はネタバレのため伏せる。

こうしてみると、主人公たちは初回から比べて元服・裳着の式を経て大人になったかのように見えるが、べつに元服したばかりというだけで、社会人としてスタートを切ったばかり、まだまだ青年期というか思春期の若者という時期である。

道長の同僚の4人のうち、藤原行成は後の三蹟のひとりとはいえまだ元服したばかりなので、物語の中でまだ自己主張がなく、先輩たちにあいづちを打つばかりなのもうなずける。

 

 

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※これ書いてる人は単なる大河ドラマファン。

国文学のことは知らない。「なんて素敵にジャパネスク」のコバルト文庫白泉社花ゆめコミック、あさきゆめみしの漫画を読んでみたことがあるだけの単なる通りすがり。

この記事の内容には思いつきとノリと勢いだけしかありませんのであしからず。

 

今回のテーマは怨霊

まひろの父藤原為時の邸は、源氏物語でいうところの末摘花の邸を模しているという点は、第三回の感想で書いた。

(※参照史料の過去記事)

※末摘花について

源氏物語、末摘花の帖に出てくるお姫さま。彼女は遠い昔の宮様の血筋でありながら、現在は身分ある方の後見や経済的に支援してもらえる縁戚もなく、さりとて高貴な殿方のお通いがあるわけでもなく……でも宮様の血を引く以上、身分だけは高い。

調度などのしつらえも雅やかであるべきところだがそうもいかず、経済的に困窮をきわめて衣装やその他父宮様からうけついだ由緒ある品々を食べ物と交換してその日を暮らすありさま。壁は朽ち、庭園は荒れ、築地塀は崩れ、………

でも自分たちで働く身分ではなく現金や物々交換での収入を得ることもできない。

え?

どこかで聞いた事あるな???

その窮乏ぶりは(父為時が師貞親王の漢文指南役に就くまでの)まひろの邸のようすそのものではないか。家柄が宮様の血を引いてるかいないかの違いだけで。

まひろの邸は風流に遣水など流しているが、あばら家の雨漏りはかろうじてなくなっただけの寂れた物悲しい雰囲気だ。質実剛健といえば聞こえはいいが単に必要最低限で暮らしていることには今も昔も変わらない。食べるものに困らなくなっただけの違いだ。

 

さて。

第五話にみられる源氏物語のモチーフは、怨霊物の怪もののである。

前回のラストシーンで道長と道兼の正体を知り気を失って倒れるまひろ。その後、家の自室でまひろが病に伏せっている。

そこへ僧を招いて加持祈祷かじきとうがおこなわれている。

陰陽道の占いについて

当時の貴族は陰陽道の占いに拠って国家の重大事から日常出かける方角まで何もかもが決まった。たとえば占いの方角と本来の目的地が違う場合、方違かたたがといって占いの示す方角の家に前泊し、翌日本来の目的地に向かう。また、陰陽道が示す凶日や悪い夢を見たとき、ケガレに触れた場合は物忌ものいとして一定期間、心身を浄めて外出を控えなければならない。それほど占いの結果は重要なものだった。

《※ケガレ、穢れとは女性の月経、出産に関わる血の穢れ、人の死などを指す》

※僧による祈祷について

安産祈願、また病気平癒の祈り、はては国家安泰まで、全て僧侶によって祈りを捧げ、ものごとの平穏を祈った。また悪霊を鎮め退散を念じたりもした。

たとえば、源氏物語の若紫の帖で、紫の上と光源氏が出会うきっかけとなったのも「北山の僧都」に病の祈祷を依頼しに出かけたからである。

※ついでに。僧侶の祈祷のところ、字幕に出てるのが「祈とう」だけなので漢字にしてみると「おん宮比羅くびら~(繰り返し)」。たぶん。古代インドのサンスクリットだから解説しなかったのか。宮比羅(くびら)は、仏教の水運の神で、天竺霊鷲山の鬼神で、薬師如来十二神将の筆頭である。宮毘羅、金毘羅、金比羅、禁毘羅とも書く。梵語ではクンビーラ(Kumbhīra)またはキンビーラ(Kimbhīra、「何を恐れることがあろう」の意)……中略…クンビーラは元来、ガンジス川に棲む鰐を神格化した水神で、日本では蛇型とされる。クンビーラはガンジス川を司る女神ガンガーのヴァーハナ(乗り物)でもある(引用:宮比羅 - Wikipedia

また、現代に伝わる祈祷としては不動明王に祈願する護摩行がある。

水垢離みずごりとは神仏に祈願し、冷水を浴びて身を浄めること。ドラマでは乳母が「外では凍えてしまいますので」と角盥を室内に持ち込み、真言宗の念仏を唱えだす。こんな寝殿造りで柱だけのつくりの部屋ではすでに外同然じゃん?と心の中でツッコむが、その前に惟規だけが僧侶に対し「死んじゃうよ冬だよー!?」と叫んでくれてて、そのコメントだけが視聴者の声すべてを代弁してくれててよかった。そして二人してもめた挙句水を頭からかぶっててコント全体のオチとしてはなかなか秀逸だったのでは(違)。

しかしあくまでこの加持祈祷はコントではない。

この祈禱でまひろの病を治そうとみんな大まじめである。

僧の念仏が胡散臭いかどうかは問題じゃない。

だいたい加持祈祷において病気平癒と悪霊退散は明確に分離していない。

医療の概念がそもそもなかったこの時代、病気は原因不明のものとされ恐れられた。夜になると暗闇が支配する(だから第一話でまひろ一家の夕食が午後五時と、日暮れ前に済ますことになってる)。夜は夜盗のほか物の怪とか怨霊など人外のものが跋扈する異世界であった。

それと同様、病、そして天変地異などは何かのたたりであるとも信じられていて、それを祓うためにも祈祷は幅広く行われていた。《高貴な身分になると医師は診察するにも御簾越しに脈を取る程度、使われていた薬と称するものも今でいう医薬品とはだいぶ成分が違うし、医療をほどこす意味じたいが現代とは全く違う》つまり科学的に病を診察し治療するのではなく、病気になったら僧に祈祷してもらい祈るのが一般的だったのだ。それがこの時代がまだ古代であり(貨幣経済が浸透してないことと共に)まだ中世ではないということの根拠でもある。

そして僧はまひろに取り憑いているのは悪霊ではなく、母ちやはの霊がまひろを気にかけて成仏できなくて彷徨っているからであり、このままでは怨霊となってまひろは呪われるとのこと(そして上記の水垢離を薦められる)。

さて。

都の外れのあばら家。(今回まひろの家は下級貴族であるけどあばら家に限りなく近いことには変わりない。)

原因不明の病に寝込む姫君。

加持の僧と憑依する謎の怨霊。

その霊は切々と訴えかける……もし成仏できなければ姫君を呪い殺すという……

 

つまりモチーフとして、夕顔に取り憑く六条の御息所が挙げられるわけです。

源氏物語で夕顔が光源氏と一夜を過ごすのはモデルとして源融の旧邸六条河原院が挙げられる(当時すでに荒れ果てていた)が、そのような屋敷で(嫉妬に狂った御息所の)悪霊に取りつかれ生死のはざまをさまよう姫君(源氏物語では夕顔は一夜で命を落とす)。

取り憑いてる霊が、ドラマでは娘まひろに無念をのこす母であり、子を思うあまりのこととなっていたのが唯一の救いです。

 

寄りてこそ それかとも見め たそかれに

ほのぼの見つる 花の夕顔

この夕顔と光源氏の歌の贈答における源氏の返歌が、ドラマ第二話でまひろが代筆業で書いていた和歌だったので、解説サイトを引用しておく。

 

 

この時代医療という概念がない以上、人は感染症や外傷で簡単に死んだ。実際に天然痘の流行で公卿もあっけなく次々と亡くなっていく。

夜の闇と並び、病気が物の怪のしわざとして恐れられていた当時は加持祈祷は重要なファクターのひとつであった。

 

 

不憫な子

今回初めて登場した、やや出発からして遅れた感のある道綱といわゆる道綱母(=藤原倫寧の娘)。つまり道綱母蜻蛉日記の作者であり、百人一首に名を遺す歌人でもあることは周知のとおりであるので詳しくは述べない。

ドラマでは道綱は朗らかではつらつとした陽気な性格として描かれている。が、兼家の

「お前は(兼家の本妻時姫の産んだ)三兄弟と同等には扱わぬ。しかし控えめにしておればいずれ良いこともあろう」

という言葉通り、身を立てていくにおいて父から目をかけられることはなく実際才能は凡庸だったともいう。

兼家のかけた言葉は決して非情でもなんでもなく、妥当なものだったのでは?女子は政略結婚として入内や将来有望な貴族と結婚させる道があったが、男子はこの時代、自分で道を開くしかなかったから、兼家が親として彼にしてやれることは「いずれ、良いこと」として昇進を多少手助けするくらいしか無かったのかも。

道綱母は受領階級の娘であり、父藤原倫寧は位階は低いが国司を歴任している。大貴族は地方に広大な荘園(私有地として年貢が上がる)を所有していたが、それに劣らず大金持ちだったのが国司、のちの受領で、領地から自分自身の懐に入る莫大な収入があったので、身分は低く(四~五位程度)ても経済的には非常に潤った。(それって現在でいえば横領なんだけど、当時は地方政治にそこまで厳しくなかったのでいくらでも抜け穴があったといった方が正しい)

※資料

………受領は一定額の租税の国庫納付を果たしさえすれば、朝廷の制限を受けることなく、それ以上の収入を私的に獲得・蓄積することができるようになった。

平安時代中期以降は開発領主による墾田開発が盛んになり、彼らは国衙から田地の私有が認められたが、その権利は危ういものであった。そこで彼らはその土地を荘園公領制により国司に任命された受領層である中級貴族に寄進することとなる。また、受領層の中級貴族は、私的に蓄積した富を摂関家などの有力貴族へ貢納することで生き残りを図り、国司に任命されることは富の蓄積へ直結したため、中級貴族は競って国司への任命を望み、重任を望んだ。………(引用: 国司 - Wikipedia )

 

ぶっちゃけ言うと道綱は母の身分からいって人身位をきわめることはできない。氏の長者にはなれない立場、それは道隆が負っているからだ(今のところ)。でも彼ら親子は全く経済的に困ってない、衣装も屋敷の構えも豪壮。そこが受領階級が中流たるゆえん。あっつまりドラマで登場する屋敷は道綱母つまり妾の邸に兼家が通ってるところ。本妻=北の方はあくまで時姫であったので他の妻のところへは通っていたという通い婚の構図。

受領の娘は経済的に困窮していなかったが、しかし生まれが地方の父の任地であり鄙びた地で、貴族の女子に欠かせない都の雅なしつけをほどこせなかったのでつてを頼って都の貴族の邸に女房(身分のある女官)として行儀見習いに出したりしていたらしい。

もうおわかりですね、当時の宮廷サロンを形成していた才媛の女房達はみな受領階級の出身。収入に余裕があったため潤沢な教育を受けており、彼女らの中から選り抜きの知識エリートたる子女が、大貴族の邸、そして後宮へ出仕して姫君に仕える構図です。

受領階級出身の女房(=女官)は、以前の身分も含めれば今ドラマに登場しているだけでも道綱母赤染衛門に道隆の妻の高階貴子(高内侍・儀同三司母)、まだまだ出てくるしそして主人公………おっと誰か来たようだ。

 

今の所、主役を張っている兼家

いまのところドラマは兼家を演じる段田安則さんの土壇場である。膨大なせりふとドラマの転換点のキーを握る場面での決定的な役割。それらすべてを不敵な笑みを浮かべながらすごみをきかせて演じられている。

どう考えても悪役ナンバーワンなのだけど一方の主人公の父なので、そうそう憎むわけにもいかないあたりに、視聴者としてはジレンマを抱えて苦しんでいる。

主人公たちが自分のルーツと生き方に心揺れ動く中、でもそれは個人的事情だ。

政治の世界は劇的に日々動きつつある。

それを兼家の視点から主観的かつ批判的に描いていて、物語は一貫してある方向にブレーキを壊しながら突き進んでいくことがますます克明になってきて、物語は最初の山場に差し掛かりつつあることを感じて緊張してきた。この山場を突破すればいよいよ物語は本題に入ることになる(まだ本題じゃなかったんか)。

 

花山天皇の断行した革新的な政治の数々。

蔵人頭藤原実資と、弘徽殿の女御の兄上藤原斉信がそれぞれ逆の立場から今の政治を語るところによれば。

荘園整理令の発布、貨幣流通の活性化、武装禁止令、物価統制令、地方の行政改革など、枚挙に暇がない。

でもたとえば貨幣流通の活性化を一つ見ても、時代的に時期尚早すぎたのだ。まだ民衆は物々交換やってて貨幣の流通量自体が絶対的に足りないし、だから貨幣価値が低いのに流通量を無理やり増やすとどうなるか…?余計インフレを起こすかといういと取引の現場で実際にそこまで流通しなかったため、結局この政策も不発に終わる。

外戚として政治の実権を握った藤原義懐と乳母子藤原惟成が、政策を専横して独断的に行う中、蔵人頭藤原実資はふたりを喝破し、彼らの権威などまるで最初から無いかのように実直に政治について語る。さすが物事の実を見て誠実に行動する人物なだけのことはある。

兼家は二人に盾突くとどうなるかわかっているので歯ぎしりしながらも刃を引っ込めているが。

 

ただし。

花山天皇の奇行ぶりや、政治の急速な改革による失政などはこののちに政権を握るものによって故意に事実を大幅に書き換えられている可能性もあり、今ある史書をそのまま信用はできない。

 

帝は弘徽殿こきでんの女御、忯子よしこさまをご寵愛されていてそれは目にもまぶしいほどである。

ご寵愛ぶりが過ぎて女御様は寝込むほどである。

めでたしめでたし。

とりあえず今は。

 

彼らの活躍を横目に兼家、関白頼忠(公任の父)らは地に這いつくばって辛酸を舐めており、左大臣源雅信はどこか明るい口調ではあるが、彼ら花山天皇の側近による、目に余る専横ぶりには手を焼いているふうである。

そこでまたしても女御様のご懐妊を呪詛せよと指示を出す兼家。

どこまで悪役なんだ、そこまで振り切るとある意味すがすがしい(いやちっともよくないが)。

そして脅迫に屈することなく陰陽寮安倍晴明は断固として断ろうとするが、その席に人の気配を鋭く感じ取る晴明。

なんでですか?

占いなどの超常能力により、彼は普通の人にはない触覚みたいなのを備えてるのでしょうか。

 

それはともかく、兼家以外の公卿が御簾越しに並んで脅迫に加わるのであった。

「この国の未来は我らが担うのだ」

なんという傲慢な物言い。

いや、自信と確信にみちあふれ、むしろ善政をおこなう賢君のような風格すら漂わせる兼家。うっかり今の摂政はこちらでしょうかと勘違いしそうになるくらいの堂々たるたたずまい。

なんとしてでも、どんな手を使ってでも、絶対に権力をわが掌中におさめるのだと高らかに宣言するかのような姿に、安倍晴明は消え入りそうになって退散したようだ。しかし兼家の脅迫条件をのんだのかどうかは判然としないが。

御簾の向こうに並んだ、無表情でマナーとか謙虚さとかは無縁の人々。これらの公卿の中にちゃっかりと兼家の嫡男、道隆も加わっている。そうか君は彼らと同じ道を行くのだな。いい人だと思ってたがそれは買いかぶりだったようだ。

そもそもマナーとか謙虚とか言ってるようでは出世街道から脱落するのは現代も一緒である。出世する=有能で人格もすばらしい人、とは限らないのである。むしろいい人はどんどん去って行ってなんなら悪い噂を広められるところまでも現代と同じだったりする。

御簾って、このドラマに登場するような身分の高い公卿たちはお互い対面にもっと多用してそうなものだが、なんでこういうイレギュラーな使われ方してるんでしょう。

第四回で典侍ら女官たちの局が御簾で廂側から隠されてるのはまあ分かるのですが。

 

隠し札のジョーカーを切るときはいつなのか

道隆と言えば。道隆が詮子さまと対面している、場所は梅壺だろうか。帝の御代が代わったのでそこは定かではないが宮中のどこかであろう。これこそ絶対御簾越しじゃないと対面できないはずなんだけど、なんでこう宮中の描写がいちいち開け放しなのか分からない。

詮子さまは春宮様の母上ですよ?

まあそれはいいですが。

その立場上、兼家・道隆親子としてはなんとしても詮子さまにご機嫌をそこねずに打ち解けてほしいところだが、いやいや君たちのやったことを考えればよくもまあ道隆が直接ご機嫌うかがいに上がっただけでも詮子さまとしては呆れるばかりであることだろう。

第四回の場面を皆さままさか忘れたわけではありますまい。

まさか道隆の意見に賛成なわけありませんよね?

上記の御簾の向こうに並んで脅迫する公卿たち然り、兼家の指図で円融天皇に毒を盛っていたこと然り。どれも史実であると確認はできないけど、しかし彼ら手段を選ばない公卿たちの面々を思い出せば、近からずとも遠からず、黒に近いグレー、多かれ少なかれ同様のことをやって出世してきたであろうことは容易に想像がつく。

詮子さまには同じ時姫を母に持つ超子さまという姉上がおり、円融帝の前の冷泉帝に入内して皇子を産んでいる。なのに花山天皇が即位した時、その皇子は次の春宮に名前すら上がらず全会一致も同然で詮子さまの皇子、懐仁親王が春宮におなりあそばしたでしょ?

なんで?

超子さまと冷泉帝の皇子はどこ行ったんですか?

このなりゆきからも、政治の向きはすべて政略結婚によって動いていて身分の高い姫は政治の流れにより入内させられ動かされていたことがわかる。

詮子さまがかたくなに心を開かなくなったのもむべなるかなである。

そして父兼家との和解を勧められるも冷たく断わる詮子さま。

道隆に高らかに「裏の手がありますので。兄上には申せません、裏の手ですから」と言い放つ。

 

よっぽどの重要なカードを握っているのか詮子さま?ここまで、一家の嫡男である道隆に堂々と対峙できるような決定的な何かを握っているらしい。

彼女のこれからの生きざまをちょっと調べると、この裏の手というのはわかりやすすぎるくらいはっきりと浮かび上がってくる。

ただ、彼女は期が熟するのを待っているだけだ。

父兼家と同様、詮子さまは周到に準備を重ね、肝心なところで乾坤一擲の決まり手を差すことだろう。

静かに無表情に見え淡々と道隆に語りかけるその鉄の仮面の下には、決して不条理に屈しないという燃え上がる炎のような決意を読み取ることができる。

 

 

青春と恋

今回のドラマ、ロミオとジュリエットふうではない。あれは同等の家格で対立している同士の物語で、道長とまひろはあくまで右大臣家の(少なくともこの時点で既に)将来の約束されてる貴公子と、まひろでは絶対に主人と妾以上の関係にはならないからだ。

しかし道長は五節の舞で倒れた姫がまひろだと聞いて、つたない字で文を書く。

和歌も入ってない文を。

ほんとにつたないな…

行成が「代筆してさしあげます」と申し出てくれたのにばっさり断る道長、いやいやそこは麗しい筆跡で代筆してもらえばよかったんだけどね?

そこで恋の歌と文について。

当時、男性は貴族でも出歩くが、姫君は屋敷の深窓にこもり絶対に顔を見せることはなく、偶然出会うことは絶対にないので、知り合うきっかけといえば楽器の名手だとか筆跡とか和歌がすばらしいとか、舞で評判だとかそういう噂を手掛かりに男女それぞれに気に掛ける相手を探るしかない。

そして声を掛ける初手としての文はイメージ優先なわけで、女性のほうも何度も文を受け取るなかで徐々に打ち解けていくのが慣例であった以上、文の筆跡は美しいのが定石であり大貴族なら邸宅のなかで書が美しい女房が代筆するのもセオリーだったくらいなのに。

まあ最初の文はあくまで声掛けであり、でもそれだからこそ美しい筆跡で文をしたため、相手に読んでもらって心に留めてもらわないと意味ないんじゃないのか。

何やってんの道長くん?

 

でも道長、父と食事する場面がたびたびあり、三兄弟のうち道兼はもう結婚して東三条邸にはいないという設定なのか?

父と差し向いで宮廷の仕事のこと、政治のことでさりげなく話を交わす道長は、ぼんやりしているようだがやはり父兼家には目をかけてもらっているのかもしれない。

「我々が政治の主流に立つのだ」という言説を畏まって拝聴する道長

 

道長がまひろに会いたいと文を書いたのは、やっぱり、自分の出自というか身分をまひろに伝えてないままだったという後ろめたさがあったからに過ぎないのだな、と思う。

 

【※ここで余計なツッコミを入れるとすれば。】

散楽の男直秀がまひろの邸に屋根伝いに夜あらわれてまひろと会話する時点で、というか夜に(しかも最初はまひろは寝間着姿という下着同然の衣装で)男女が顔をあわせて面会してる時点で、当時の感覚だといわゆる男女関係になっちゃうんですけど。

まひろはともかく、もっと上流の姫君は兄弟間でも男性には顔を出さないものなのに。

まして、六条の廃屋?でまひろと道長が家族にも秘密でこっそり会うなんて!?ほんと名実ともにふたりは男女関係ってことにされますよね当時だと。それでなくても、まひろは五節の舞で倒れてから以降、「物の怪憑きの姫君」っていう怪異な噂が都中に広まってるというのに(by直秀)。

 

そんな個人的な心のツッコミは置いといて。

ここでは初回からのまひろの心の葛藤を、父にも否定された心のわだかまりをありのまま受け入れてくれた道長の心の広さっていう物語として見ることにした。まひろは14才という思春期真っただ中、尊敬する父に正面からは言えないけどずっと憧れをいだいていたものの、人間として(まひろがスパイにされるなどの)受け入れがたい大人としての父の姿を認識しつつもずっと背中を追ってきた。

「わかることも、許すこともできません(第四話より)」

ちっとも素直になれないお年頃。

でも兼家のやり方に連座するかたちで犯罪に加担してしまった事が判明した父を、まひろはどう心の中で受け入れればいいのか……「お前は聡い」と父に的確に指摘され、その通りここで抗ったところで意味がないことは父以上にまひろがよくわかっているはずだ。愕然として返す言葉なくまひろは父から静かに視線をそらす。

ひとり母の形見の琵琶を抱えて掻き鳴らすも、答えは出ない。というか永遠にはっきりと答えなど出るものでもない。

第二回で裳着の式=成人の儀式を迎えたまひろ。あの時は正装の意味も重みもいまいち理解してないふうだったが、しかし世の中の現実を思い知ることで、真に大人へと脱皮する。まひろも、道長も。まひろは人知れずここでだけ泣くことで心の葛藤を無理やり洗い流したかのように見えたが、道長はやり場のない憤りをぶつけるため物理的方法に訴えるしかなかった。

 

7年前は道兼に一方的にやりこめられる立場でしかなかった力関係。

しかし今の道長は押しも押されぬ右兵衛権佐、立派な成人貴族である。

「弱きものに乱暴を働くは心小さきもののする事」という自分の中の(そして世の中一般の)正論を、はっきりと正面から言うだけの度量を兼ね備えて道兼に正面から対峙した。

ここでの道兼の外道な発言と、さらに暴力で言いたいことをわからせる道長のようすを見て、子供たちも頼もしく成長したものだと悦に入る兼家が輪をかけて一番外道だと思うけど。

視聴者としてはいつか道兼に制裁を与えてほしいと願ってたところだったので、これで溜飲下がったというものだ。

 

まひろと道長が出会う六条の廃屋もまた、源氏物語のモチーフだ。

この記事で前述したとおり、この廃屋の場所は父為時の邸ではなく、六条だ。

六条。

つまりここでも、紫式部が夕顔の邸のモデルとして設定したとされる、源融の別邸で当時すでに廃屋となって荒れていた六条河原院を模してるんじゃないですか?

というか、このドラマでいう六条ってそのまま六条の御息所から場所をイメージしてるとしか思えない。

直秀が道長を案内して連れてきてくれたことになってますが。

というか直秀、築地塀に忍者みたいなステップで華麗にひらりと馬に飛び乗るとかいう離れ業、盗賊っていう設定だからですか?

この築地塀が良い感じに雨で土が流れ落ちてて年季を感じますが、ロケではなくセットでこういう経年劣化した細工をしてるのだとしたら、やっぱ背景美術は手が込んでると思う。

直秀みたいな盗賊あがりの散楽に出る男が出没する六条のあたり。源氏物語の六条の御息所の邸は高貴な貴婦人の住まいだが、こういう廃屋があるところはなるほど治安が悪そうだ、そんなところにお忍びでとはいえ出入りするなんて、まひろ、さらに物の怪憑きの姫っていう噂が独り歩きするよ、大丈夫か……嫁のもらい手がなくなるぞ…おっと誰か来たようだ……

 

散楽の主宰である直秀一味は酒盛りのシーンでも分かる通り、身分は当時下賤のものなわけです。いや、身分というか身分がないわけです。農民とか一般町民などの平民ではない、日常とは違ったことを生業にするから。

彼らが散楽を開いていた街角も、(自分は)市だと思う。第一話の感想に書いた通り。市とは様々な遠隔地からも商人があつまり、様々な身分の人が交錯する非日常の場。

つまり「ハレ」の空間なわけです。(⇔日常の空間はケの空間という)

役人の広報も高札として掲げられ、また散楽のような見世物もひらかれ、また処刑場でもあったはずです。

そして散楽とは古代西アジア、そして中国を経て伝わった奇術師とも言われている。彼らは刀を呑み、火を吹き、手足をバラしてつなげるなどの芸を自在に操った。ドラマの散楽では座の一味がアクロバットショーのような動きを披露している。

そのような非現実の芸をなりわいにする直秀。

《歌舞伎も元々、河原(=つまり市と同様の非日常の空間)での芸能だったらしいし》

そして家族の目を忍んで、直秀に「道長とどうにか渡りをつけられないか?」と頼むまひろ。目通りだけならお互いの邸で御簾越しに対面すればすむ事だけど話の内容はどちらの家に広まってもまずいので。

………いやいやいや???やっと父為時が12年ぶりに式部丞という栄えある(?)官途に就けたのだから、そんなアングラな人物と関わってることがちょっとでも露見しようものなら、まひろ、もうそれはスキャンダルでしかないよ、やめときなよ…と老婆心から気になるわけですよ。いやほんと……

《心の声:いやいや、まひろにもパシリとして使われ、道長には泣いてるまひろのことを丸投げされ、直秀は憎めない面倒見のいいキャラと成り下がってる感があるけど彼の職掌上、本来アングラな世界の住民なはずですし……関わってはいけないのですよ…》

自分がついそんな事を思ってしまうのも、主人公側ではなく大人の都合でものをいう為時と兼家の側になってしまったからなのかもしれない。うーん、年取るってつまらないな…

慟哭するまひろと慰める道長の情景は、特に触れることはありません。完成された展開でありツッコミようがないからです。あそこはただまひろのようすに静かに耳を傾けるだけ。父上はわかってくださらなくても全視聴者はまひろの味方です(たぶん)。道長も黙って否定もせず聞いてくれている。

そこはなんか考えながら見るシーンじゃないんです。視聴者も共に感情に身を任せて月の冷たい光を眺めていればよろしいのです。

しいていえば……文のやり取りもおぼつかない、若いふたりの稚拙な恋ともいえないやりとりは……

(自分の中では)別冊マか別フレあたりの、無理に背伸びした青春まんが進行といった所です()

りぼんとなかよしほど対象年齢は低くない。

しかし花ゆめみたいな理知的な境界線上に浮遊するファンタジー系でもない。

フラワーコミックほど明るい学園ものでもない。

なんとなく日常を淡々と描きながら静かに展開する熱いドラマ的な…?(個人的偏見)

 

 

 

第4話「五節の舞姫」 大河ドラマのlightな感想 光る君へ

 

脚本が登場人物の心理を丁寧に描写していて、また会話もごく自然に登場人物の設定に溶け込んでいて違和感なく、見ていて飽きない。

 

時代劇や歴史ドラマを見ていると時代考証にツッコミを入れがちな性格なのだが、今回の大河ドラマを見るにあたっては、そんな面倒な限界ヲタクな性質はひっこめとくことにした。

すんなりと世界に入れる気がしてきたので。

 

ひとつひとつの台詞に説得力がある。

それらが、この難解であまり耳になじみのない時代の描写に、躍動感あるきらきらした生命力を吹き込む。

 

手に汗握るドラマの展開にハラハラする。

俳優さんの演技にただただ息を呑み、圧倒される。

含蓄に富む一瞬の表情、万感の思いが込められた演技。

ドラマのせりふに名言、名演が多すぎて一瞬たりとも目を離すことはできない。

 

視聴者は物語のあらすじと結末はある意味知っている。

しかしフィクションであるとはいえ当時を生きた人たちのそれぞれの思い、立場、また日々のなにげないつぶやきを、臨場感あふれる手法で鮮やかに描き出すことで年表の味気ない間隙を見事に埋めている。

こういう歴史の影に埋もれて見えない人々の心の機微を観たくて、大河ドラマを見ているのかもしれない。

 

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身分

第四話の冒頭でまひろは自分の身分を明かす。

道長にとっては、平民でないとは思ったものの上流貴族ではないのだなという印象をもった、そんな表情に見えた。

そして藤原宣孝が途中でまひろを迎えにきたことで道長は「本当だったのか」とでも言いたげな表情。

 

散楽の主宰である直秀は、散楽の中でも道長に対し「弟よ~」と声をかけていただけに正体を知っているようで

「右大臣家の横暴は内裏の中だけにしろ」

とくぎを刺す。

 

大臣家の横暴もあるけど、直秀は率直に道長とまひろの身分の差を指摘していたのではと思う。当時は通い婚で思いを寄せる女性の邸に男性が通い、結婚となるのが常だった。女性の家の格式が高ければ正妻となるが、身分の低い家の娘は側室、妾として早々に打ち捨てられることも多かった。通い婚だから男性が通ってくれなければそれで関係は終わってしまうからだ。

直秀には道長に遊ばれて捨てられるまひろの未来が想像できたのでこのような忠告となったのだろうか。今を時めく右大臣兼家の子息ともなれば、通う女性には事欠かなかっただろうと思われてそうだ。

兼家のやりかたに眉をひそめてる感のある道長には、「右大臣家の横暴」というワードは必要以上に心に突き刺さったということか。

あー、ワイドショーの特ダネ的なスキャンダルはワイドショーの中でやるもので、道端で気軽に口にするなという事ですね。

 

道長とまひろのエピソードはドラマの中でも数少ないほのぼのとした癒されるシーンで見ていてほっこりする。

 

しかし。

現実の道長の人格はどうだったのかは詳しくないのでしらない。

そしてドラマの中での道長が今後どのように成長していくのかはまだ分からないけど。

兼家の横暴というのは的確な指摘である。(公卿以上の位、殿上人しか伺候できなかった内裏での政治の向きを、なんで路上の芸人の直秀が知りえるのか、内裏にスパイでも放ってたのか謎だけど)

 

身分の高い家でも、それなりに格差はあった。

 

ここで藤原氏家系図を貼ってみよう。

(旺文社古語辞典1988年版のコピー)

奈良時代から見てみると藤原氏の北家のみが平安時代に主流として残っていたことがよくわかる。北家の中でも良房に連なる九条流が実権を握り、為時は良門の血筋になるため傍流であった。

 

登場人物が藤原氏だらけなのはこれを見ればだいたい納得がいくだろう。

花山天皇の叔父である義懐、そして道長と勉学の席で顔を並べていた斉信、公任はそれぞれいとこ同士。さらに義懐の甥が行成

へえー。ややこしいですねえ。

第3回、三男の道長に兼家が叱責してて今が大事な時と諭されても道長は「私は三男ですし~」とのらりくらりやってるのに対し、道兼は「わしも三男じゃ!!!」とさらに雷が落ちる。

そう、兼家は三男だ。兄弟の伊尹、兼通、為光の動向を考えると、兼家のこのときの焦りもわかるというものだ。

ちっとも安心できない(by兼家)。

その通り。

 

 

ここで通い婚に話を戻そう。

妻の邸に男性が通うのが通い婚。

男性は成人すると独り立ちし、そして通う妻の家の権力、財力をバックに出世していくのがセオリー。

現に道長の兄、嫡男の道隆はすでに独り立ちし、聡明な妻(高階氏の)貴子姫を正妻に迎えて、政治的にも揺るぎない地位を手に入れ(これは道隆自身の器量によると考える)、また子女の定子さまもゆくゆくは懐仁親王に入内させるつもりで英才教育をほどこしているようだ。

まさに順風満帆、非の打ち所がない出世街道を邁進中のエリート中のエリート。

 

逆に考えると、見込みのある若い公達に目をかけて自慢の姫と結婚させ、出世の手助けをするような野心のある高位の政治家もいると考えられる。

っていうところがこれからのドラマの伏線だと思うのだが想像に過ぎないので、これからの展開を楽しみに待ちたい。

 

 

宮中の風景

身分の高い人たちによる鍔迫り合いのシーン。

今回の話でこの世の春を謳歌しているのは、花山天皇外戚として実権を握った叔父の藤原義懐よしちかと乳母の子の藤原惟成これしげ。彼らによる政治は失策であったかのようにドラマでは描かれているが、実際に花山天皇は政治に暗かったかというとそうとも言い切れない。

とにかくそれまでの政治の中心にあった人々を蔑ろにするという意味では右大臣家を凌ぐ横暴ぶりで、堅実な政治の運営が行われているかというと怪しくなってきた。

 

このように政権の中枢にいる人たちがこのありさまなので、彼らは民衆の生活など考えてなかったことがよくわかる。

第3回の道長が放免に捕まり釈放されたあと、兼家と道長の会話にもあるように

道長「民衆の暮らしを理解しようとして……」

兼家「政治を行ううえでは民衆のことなど知らない方がいいこともある。知ってしまうと政策の断行の妨げとなる」

という感覚が当時の一般常識だったようだ。

要するに民主主義じゃないのだ。

主権は民衆にはない。政治は身分の高い人により、身分の高い人のために行われるものであって、民衆のあずかり知ることではない。福祉とか医療とかいう発想もない。

福祉とかを言い出すには社会がまだ成熟してなくて他の人のことを気にする余裕は(民衆の)誰にもなかったし、医療はまだ当時呪術とか祭祀と切り離されていなかった。

帝の退位、即位の日取りも陰陽師が占いで決めていたように、貴族は普段の生活のすべてを占いに頼り、何か体調に不具合があると怨霊に憑かれていることを疑って祈祷する。

 

このように様々な点で現代とは違う平安の世だが出世のためにはコネとか賄賂まがいのことが必須という意味ではいつの時代も変わらない。

実力がある者が出世するとは限らない。

しかしそんな中、実在の人物として実際にそんなに出世しなかった藤原実資さねすけ蔵人頭くろうどのとうとして登場している。

今回も、花山天皇が即位する前に、宮廷でこれからも蔵人頭を務めてほしいという声掛けに、慣例が無いことを挙げて実直に辞退を申し出る実資。

なんでだ、公卿くぎょうならみんな喉から手が出るほどほしい頭中将とうのちゅうじょうのポストだぞ、そのまま出世コースに乗れるエリートのはず、それを次の御代では辞退するって信じられない。

 

彼は実務家としての手腕があるから何をやってもうまくこなせるはず。しかも次期天皇の覚えもめでたいとなれば出世は約束されてるのに、なんでそれをみすみす捨てるようなまねを?

この辺が史実だったかどうかは知らないがこの場面、実資の性質をうまく描いてると思う。また逆にこのあと外戚として実権を握る春宮の叔父義懐と乳母子藤原惟成が、かんしゃくを起こした春宮に冠を取られるという辱めを受けているところに、彼らの立場の滑稽さがよく表れていると思う。

 

この後、藤原文範ふみのりが兼家にそつなく祝辞を述べに参上している。彼は当時75才、宮中でも長老的な存在だったのか、時流をよく読んでいるというか。

花山天皇外戚である藤原伊尹これただ(兼家の兄)も生母の懐子もすでに亡く、即位時に後ろ盾の貴族はいなかった。

それよりも文範(と共にぞろぞろと追随する公卿の面々)は、次期天皇である春宮の外戚、兼家に挨拶しておくほうが今後を考えるとそれぞれにとって身のためだと考えたのであろう。

次期天皇は誰か、誰が先に妃を差し上げるか、どの妃が先に皇子を産むか、それによって政治の流れが変わるのだから、今の天皇に政治的に側近として尽力するなんて無駄な骨折りだと考えられていたのだろう。

今の天皇の先の先まで考えていないと政治家としてはやっていけないという意味だ。

実資とは別の意味で、花山天皇は彼ら公卿の視界には入ってない。

 

 

詮子の哀しみと恨み

この展開はドラマでのフィクションと思いますがあまりにもストーリーに首肯するところがあったのでそのまま感想を書く。

帝の退位が決まったと耳にして、東三条院で端近のひさし(縁側)でくつろぐ道長のもとにいそいそとかけつける詮子。帝のいる内裏へ参上する話題とあって、まるで少女のように気分が浮き立っているようでいかにも可愛らしい。それにいつものように気取らず対応する道長との会話がほんとにこのドラマの唯一の癒しどころで、道長なしにはとてもこの番組は見られたものではない。

こんなのん気そうな道長が今後どうやって出世していくのか、さっぱり想像がつかない……。

 

しかし帝のもとに参内した詮子は、鏡で自らの容色の衰えを気にしながらも話題にするべきはそこではなかった。(鏡は貴族のみが手にすることができる貴重品ではあった)

ここで兼家と道兼が密かにおこなっていた謀略が明かされる。

(今はやめているが)帝の食事に毒を盛っていたこと。

第三回で帝自ら藤原実資に明かしていたように、確かに帝の第一皇子、懐仁親王を即位させるという意味では円融帝と兼家の利害は一致していた。ただその一点だけでだが。

しかしこの謀略に詮子も加担したことにさせられて、「お前のことは生涯許さぬ。二度と顔を見せるな、鬼めが」などと罵られるいわれは決してないと思うんですが。まあ結託していたと思われても仕方ないところではあるけど(利害関係という意味では)。

考えてみよう。

15歳で入内し、他に男性も知らない詮子にとっては帝はただ一人の夫なわけで(一般市民的な言い方をすれば)。

 

兼家とその息子三兄弟は性懲りもなく(あえてこう表現する)、自分たちの後見する懐仁親王を帝の位につけるにはどうしたらよいか画策している。彼らが出す案を見てもこの人たち救いようがないなと思うし、道長はそんな彼らを心底嫌悪しているようででも自分の立場ではどうしようもないという風である。

そこへ怒鳴りこむ詮子さま。

背景の廊下に二人ほど音もなく女房が渡殿を進んでいくが、彼女らは懐仁親王さま付きの女房だろうか。するとそれは詮子の命令だろうか。この悶着騒ぎの最中にも、春宮となった親王様に何かあってはならないからとでもいうかのように。

詮子さまはここで父兼家と決定的に訣別したようだ。

そしてこの企てに加担したであろう三兄弟にも。

信頼していた道長も一味なのだろうか、その表情からどのように読み取ったかは判然としない。

そしてこのあと何事もなかったかのように酒宴を仕切り直す兼家の神経も、信じられない。

 

道長と詮子は元服前の三郎だった時代から、唯一気さくにものを言い合えた仲、このような嫌疑は父に決定的な疑惑が向いたとはいえ、道長のことは心のどこかで信じていたはずだ。

兼家はやりすぎだったといえるだろう。

その後の歴史を知っている立場としては、兄道隆とともに、あまりにもあからさまにやりすぎたのだ。

彼らは何もかも思い通りになると、あまりにも奢り過ぎた。

「薬など生涯飲まぬ」

その通り。薬など飲まなくても、彼女はこれからの歴史を長い人生の中でずっと見守っていくことになるのだ。

(※そもそも薬自体が上流貴族でないと手に入らない高価なものだったし、また薬自体の定義もまた曖昧だったが)

 

 

貴族のあそび

兼家の躍進を見越して、左大臣雅信まさざねは娘の倫子に花山天皇への入内をもちかける。

しかし一夫多妻制で多くの妻へ通うことが通例であった時代、帝も後宮に多くの妃を迎えていた世とはいえ、花山天皇の女性関係での放蕩ぶりは広く知れ渡っていたと見えて倫子はすげなく父の頼みを断るのであった。

「あの女子好きで名高い次の帝に入内して、幸せになれるのかしら」

雅信は奥様の穆子様にもあきれられている。

「今更……娘は出世の道具にはしない、入内はさせないとあれほどおっしゃっておられたではありませんか!!」

 

その通り。

もっと言ってやってください。

入内のタイミングも年齢も、全て倫子には遅すぎるのだ。倫子は現在22才、適齢期には遅い。そして次の春宮様はまだ10歳に満たず、年齢がつりあわない。

しかし源雅信はこれまで、娘の結婚に一向に慌てて動く気配がなかったのに、この期に及んで兼家の権勢を見て思いついたように娘に入内の話をするとは。

なんて浅はかなのでしょう。

帝へ娘を入内させる貴族たちは、みな深謀遠慮の中で相手の出方をみながら政治の流れを読んでいるのだ。

そんなところに思いつきで割り込めるものではない。

 

奥様の穆子様のほうがよほど落ち着き払って貫禄があり、頼りがいがある気がする。

 

さてここで倫子が抱いていた首にひもで繋がれた猫。今も昔も猫は人と近い動物で、源氏物語にも女三宮と柏木の帖で猫が登場する。ここで倫子が肌身離さず可愛がっている様子はいかにも身分の高い姫という雰囲気をかもしだしている。

(平民も猫を飼っていたのかどうかはよくわからないが平安時代の文学には猫がよく登場する)

彼らが遊んでいるのはすごろく。

現代の、紙に書いたコースを進んでいくのではなく、ちょっと仕組みが違う。

※遊び方は下記のリンク参照。

双六 | 玉川大学教育博物館 館蔵資料(デジタルアーカイブ)

 

正倉院に原型として伝製品がいくつか遺っている。

正倉院 - 正倉院

 

宿直の場面で道長や公任たちが遊んでいた囲碁と共に、貴族の遊びとして当時流行していた。

このすごろく遊びでも娘に負かされたのか?思い付きの入内の話も一蹴されて面目ない様子の雅信。どこか詰めが甘く憎めない人柄。

 

登場人物がみな公卿の一人までも個性がはっきりしていて、見ていて飽きない。

 

 

五節の舞姫

当時の文学にも登場する宮中の行事五節の舞のことだ。大嘗祭おおなめまつり新嘗祭にいなめのまつりに行われる豊明節会とよあかりのせちえで奉斎される舞である。

源氏物語では光源氏の乳兄弟、藤原惟光の娘で藤典侍が五節の舞姫として差し出されている。公卿や殿上人など貴族の娘が指名されていたが、貴族の女性は顔を人前に出すことはなかったので次第に中流以下の貴族の子女から指名されるようになっていたようだ。

倫子ほか左大臣家が危惧したように、人前に容姿をさらせば多くの公卿の目にとまり、あらぬ方から求婚を受けたりしかねないし(この場合は帝の目に触れることを恐れて)舞への出仕を上流貴族は控える傾向があったといえる。

 

大嘗祭おおなめまつりとは新天皇が即位(現代では国事行為となる即位の礼の各儀式が終了)した後に新穀を神々に供え、自身もそれを食する。その意義は、大嘗宮において、国家、国民のために、その安寧、五穀豊穣を皇祖天照大神及び天神地祇に感謝し、また祈念することである。(引用:大嘗祭 - Wikipedia )

花山天皇即位後の大嘗祭においての舞。

ここでまひろは道兼と道長を公卿の席に見出し、彼らの本当の名前と地位を知ることになる。

 

それはさておき、この舞、そして衣装はドラマのキービジュアルにも登場していて、当初から楽しみにしていたのだけど聞きしに勝る華やかさ。

舞の練習の場面ではまひろはしょっちゅう間違えて他の出演する姫たちに失笑をかっている。しかし畏れ多くも帝も臨席する宮中の行事で奉斎するのだからちゃんとやってください、まひろさん。いつも歌とか漢詩はあんなに鮮やかに操るのだから、舞や管弦の楽器をよくするのも貴族の姫の必須技能(上流の)としてちゃんとこなしていただかなければ。(乳母の台詞ふうに)

実際に唐衣裳を装着した十二単はこのような正装だと30キロくらいあると聞いたので舞が大変なのも分かる気はする。

衣装の紋様も宮中行事らしく、まひろの紫の唐衣の下に着用した袿(?)には金で鳳凰が描かれている。

そう、このドラマ公式サイトの上部バナーに使われてる、一番最初に公開されたビジュアルで吉高由里子さんが着用されてる衣装のことだ。

 

ほかの姫君たちの衣装も色違いにして唐衣裳に冠もつけた正装だ。

紋様も当時使われていたであろうものをきちんと踏襲している。

衣装に予算を全振りしてる感は、最初の思い込みではなくほんとだなと思った。

 

衣装とともにリアルに再現されていると言えば、屋敷の寝殿造り。

(引用:5. 貴族の生活 | 世界の歴史まっぷ )


これは東三条殿=つまり今回ドラマに登場する兼家の右大臣邸を再現したもの。

寝殿(正殿)は主人の生活の間、北の対には正妻が住まい(だから妻を北の方という)、東西の対その他には家族が住む。家の中といえどもそれぞれに付き人として女房がつき、やりとりは文で行い、特に女性は家族と会うにも御簾越しで顔を見せることは少なかった。

左大臣家の土御門殿も同様の規模を持っていたとみていいだろう。

数多くの殿舎は渡殿=屋根付きの廊下や橋でつながれ、庭園には大きな池と釣り殿を排していた。

だからといってここで魚を釣るわけではない。

貴族たるもの、断じてそんな下々の者がやるようなことはしない。

 

池には紅葉や桜の季節、そして管弦などを催すときの宴で、管弦(=雅楽)の楽団を船に載せてそのさまを寝殿の御簾越しに、また男性貴族は簀子縁に並んで鑑賞するという趣向だった。

そして招待された貴族は釣り殿などからもこの雅な宴を鑑賞できたというわけだ。

このような宴はその時の権勢を誇った貴族の大邸宅で催され、目的は貴族の子女のお見合いだったりもした。そこで御簾越しに披露される姫君の管弦の音色に耳を傾け、招かれた男性貴族は求婚の歌を贈る。

 

未来のネタをバラすコーナーにつき閲覧注意

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ここから以下、未来のネタ(あくまで歴史上わかってる筋書き)でネタバレになります

 

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ご了承いただける方はこのままお進みください。

楽しみにしていたいという方はここでお戻りください。

 

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ほんとうにいいですか?

 

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では以下、(たぶん未来の)ネタバレです。

兼家の息子、三兄弟の筆頭である道隆には正妻高階貴子、そして娘の定子様ほか嫡男、その他子女多数がいるはず。道兼も後に妻をめとることだろう。

 

そして道長は正妻として左大臣家の倫子に求婚するわけですが、倫子は年齢的にぴったりの花山天皇に入内する話がちらっと父源雅信から出るもすぐさま否定されている。

そこで道長が求婚するにあたって、どのような場面が設定されるのか考えるに、惣領姫である倫子に求婚するからにはこの土御門殿を継ぐわけで、そのお見合いの舞台も当然土御門殿になるだろう。そこで、管弦の宴とかを左大臣家主宰で開催し、多数の公卿が招かれて求婚の歌を贈る貴族の中の一人として道長は登場するのだろうか…?

とか思うわけです。

 

倫子は自身のサロンで、まひろの突拍子もない発言に時折ノリで返事してしまい赤染衛門に叱られてはいますが。

赤染衛門先生がついておられると思うと倫子のサロンもこの先安泰だと思う。

しかし上流貴族のサロンの主人として、倫子は誰であっても丁寧に接してさりげなく気を遣い、鷹揚に場をまとめることのできる、知性を備えた聡明な姫として描かれている。

まひろの発言にやんわりとくぎを刺し、このような場では言ってはいけないことの区別を暗に諭しながらも場の雰囲気を明るく変える、そのようなことができる聡明さ。

 

手段を選ばない右大臣家の面々と比して、左大臣家は人格と品性ある家として位置づけられている。

左大臣家は屋敷の調度も几帳など明るい色で、庭園には季節の花を配した御所車が華やかだ。

対極にあるふたつの家だが表立っては対立していないようで、そんな中、どのように左大臣家と道長は接近していくのか……?

このあたりから、そこに注目してみていきたい。

 

 

 

第3話「謎の男」 大河ドラマのlightな感想 光る君へ

 

目次:クリックで各項目へ飛べます

 

 

紫式部が主人公の大河ドラマ、題名が「光る君へ」ということで、なんとなく時代は平安時代だろうとは予想していたものの、筋書きは源氏物語を追うのかな?と思っていたがそんなわけはなく、紫式部自身の生涯を描いたドラマになるようだ。

しかし代表的作品が源氏物語ということで、ドラマの設定の中に源氏物語にお題を取ったものが散見される気がするので、このへんで一度整理しておく。

※あくまで自分用の覚書きです。

 

大河ドラマに見える源氏物語の要素》

・貧乏な紫式部の生家ーー末摘花すえつむはなの窮乏
(貧乏の原因が違うけど。紫式部の生家は父為時が高い官位を得られないことによる経済的貧困。末摘花は通ってくる男性貴族もいないことからの収入の欠乏)

 

・まひろが飼ってる小鳥が籠から逃げてしまい泣いている場面

ーーー若紫の帖で、紫の上のせりふから
「雀の子を犬君いぬきが逃がしつる。伏籠ふせごのうちに籠めたりつるものを。」

 

・まひろの(自称)設定【私は帝の血を引く姫なのよ。母上は宮中に出仕していた女房だったけど帝のお手つきとなり私を産んだの。でも身分が低いため宮中を追われて…】

ーーー桐壺帝と桐壺更衣きりつぼのこういの間に生まれた皇子、光源氏の生い立ちそのまま。(ここではまひろの作り話にすぎなかったが。)帝の皇子、内親王であっても後ろ盾となる外戚がいせきがいないとその生涯は陽の目を見ないものとなり悲惨な末路をたどる。それを案じて桐壺帝は光源氏に姓を下賜し、臣籍に降下させたのであった。

 

・町の小路の身分の低い者の家にお忍びで現れるーー
まひろは絵師のところに庶民に扮して潜りこみ代筆仕事。つまりこの絵師の家は、夕顔の家がモデル。ここの代筆でまひろが詠む歌が、夕顔から源氏に贈られた歌への返歌そのまま。(「心あてにそれかとぞ見る白露の光そへたる夕顔の花」に対して)

寄りてこそ それかとも見め たそかれに ほのぼの見つる花の夕顔

 

 

・第3話の宿直とのいしている公達きんだちらによる、恋話の場面
ーーそのまま帚木ははきぎの帖の「雨夜の品定め」

 

 

・正妻が左大臣の姫

藤原道長の正妻は左大臣雅信まさざね>の娘、源倫子ともこ

ーーー光源氏の正妻は左大臣の娘、葵上。

 

 

確執への訣別

第二話の冒頭、裳着の式の夜のこと。

まひろは月の光が差す中ひとり文机ふづくえに向き合い、無心になって和歌をしたためていた。

ものものしい正装の十二単は片隅に打ち捨てられ忘れ去られているかのようだ。

人の親の 心は闇に あらねども
   子を思ふ道に まどひぬるかな

これは父為時の家系の曾祖父、藤原兼輔が詠んだ歌である。 

(現代語訳)子を持つ親の心は闇というわけではないが、子どものことになると道に迷ったようにうろたえるものです

為時の家系は藤原兼輔藤原定方など詩歌に秀で、文辞の才を以て聞こえた人が多い。

 

まひろはこの歌に格別の思い入れがあるようで、のちに源氏物語にもたびたび引用されることになる。このことからもわかるように、血筋の家系に伝わる和歌を、その意匠まで深く理解し使いこなしていくまひろ。第二回ではこの場面のあと、中盤で、庶民の姿に身をやつし町の小路で代筆するまひろに為時が雷のような叱責の一撃を下す。

その一方で、親子仲睦まじく暮らすとはいかずとも、まひろは父為時を(ひそかに)師と仰ぎ崇敬してやまない存在としているはず。

誰に言わずとも心の底では。

この二人の、お互い譲るわけにはいかないだけにすれ違う気持ちがなんとももどかしい。

魂で分かり合える属性のはずなのに。

 

第三話で左大臣の御殿、土御門殿での姫君の集いに上がったまひろは、そのあと為時からの会話で自分は兼家から間者として差しむけられたことを知る。すなわち兼家の手足となって動いている為時の立場を察して、母の死の真相を会話の間に無言のうちに読み取るのだった。

母ちやはが愛用していた形見の琵琶を前に、まひろはこれまでのわだかまりを涙のうちに流してしまうかのように人目はばからずに嗚咽を漏らす。 

 

この二人の確執はまったくのフィクションであるはずだけど登場人物の心の機微を実に見事に映している。何も語らずとも、彼らの人となりを如実に浮き彫りにして見せる展開、そして目線だけでさっとその場の空気さえ変えて見せるまひろと為時の会話。

脚本も音楽も、そしてなんといっても俳優の方々の演技がやっぱりすばらしい。

映画を観るのは綿密に作りこまれた世界に没入できる体験だが、大河ドラマは同様に精緻に構築された世界観に一年を通して触れられる。なんとも贅沢。

 

 

ケガレと物忌み、怨霊と生霊

まひろと同様、道長が庶民に扮して市場を徘徊していた折に、検非違使庁の下級役人である放免に間違えて捕らえられる。この放免の所業がいやに乱暴であるがそりゃそうである。彼らはもともと罪を犯した囚人が放免された者だからだ。彼らは犯罪人を捕らえるのを生業とし、一般の常民と区別され非人として扱われていた記録がのこる。

いわゆるケガレに関わる者のことだ。当然拷問とか処刑にも関与していたんではないだろうか。道長は従者百舌彦の捜索により無事放免から釈放されたが、その後兼家に「あのままなぶり殺されていたのかもしれないのだぞ!!」と叱られている。いいぞもっと言ってやっておくれ。

華やかなのは都の貴族の邸宅のほんの一部分。当時は法の規則もあいまいで役人へのわいろも横行していたし、何より盗賊などにより治安も悪化の一途をたどっていた。福祉や医療の概念などさらに皆無で、都といえども町の片隅には乞食や病人、行き倒れも多かった。散楽の行われる市に面して、蓆を敷いて座る2人の人物が第一回にいた気がする。彼らも乞食?

そんな物騒な町での捕り物騒ぎ。

道長は所詮首の皮一枚で命をつないだにすぎないのだ。

彼ら放免による罪人の処刑も、公開で市や河原で行われていたはずで、やっぱりそのようなケガレの場である市(の片隅の小路)にまひろが庶民に身をやつして代筆仕事に出入りしていたことは、どう考えてもまずい。スキャンダルである。為時に一方的に叱責されてもそれは仕方のないことなのだよ、まひろ。

 

ケガレというと、家畜の屠殺・解体・皮革製造業も同様に挙げることができる。

この市(で行われる散楽の背景)の場面で牛や鶏が通り過ぎているが、牛や馬は交易運搬に携わる家畜として欠かせないものではあったが食用としては飼われていなかった。つまり彼らは、寿命で死んだ家畜の解体に関わっていたと考える。

要するに血に関わるからケガレ、生き物の生死にかかわるからという意味だ。その意味では、道兼がまひろの母ちやはを刺殺したのはケガレではないのか、そうすると道兼はあのあとケガレつまり人の死に触れたから、物忌みで家に籠らなければいけないのでは……?という疑問が一瞬脳裏をかすめたが、その点は兼家によって否定された。

あの事件に居合わせた道兼の従者は兼家が刺客を放って殺害したという。これで誰も口外するものはいなくなった。だからそのことは解決したとのことだ。

つまりバレなければケガレも無かったことになるらしい。

いいの・・・・・?

バレなければそれでいいの・・・・・?

ほんとにいいの・・・・・・・?

兼家の権勢と財力をもってしてこそ可能な離れ業なのだろうけど。政治の目論見の前にはケガレなど怖くないということか。

 

さてこのケガレに当たった(曝露したといった方が正しい?)ときに、貴族は上記に述べた通り物忌みという対策を講じた。兼家が無視していただけで。

物忌みとは公事、神事などにあたって、一定期間飲食や行動を慎み、不浄を避けることをいう。

(引用:物忌|国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典|ジャパンナレッジ )

引っ越しや結婚などの節目はもちろん、外出や行事への出席などもすべてこれに従った。陰陽道により決められていたのだが、このみそぎ・斎戒の概念は怨霊や悪霊、生霊にも向けられた。

 

まひろと太郎(=惟規)は、放免に捕らわれて後、ようとして行方の知れない三郎(=道長)のことを怨霊とか盗賊?のことかと噂するも、推測の域を出ない……

これはあくまでドラマの中ではまひろの超ヘタな絵が全部悪いことになってる。なんせ太郎が捜索に出て当の本人とその従者の百舌彦にまで掛け合ってるのに本人たちが気づかないのだからもう誰に訊いたって無駄骨である。

そんなベタな展開は置いといて。

このドラマはどうしても道長とまひろが若い頃接点があったことにしたいようだ。今後の展開的にありえなくはない、いや?右大臣の子息と下級とはいえ貴族の藤原氏であるまひろが庶民の出入りする市にたびたび潜伏して散楽を見て笑う………いやいやいや!??ありえなさすぎてこの二人の接点に関しては自分は食指が1mmも動かない。(でも代筆仕事はあったかもな、とうっかり思ってしまったくらい、あれはリアリティがあった)

 

怨霊と生霊も中世までならではの観念である。生霊と言えば源氏物語の中で光源氏が若い頃関係を持っていた六条の御息所が葵上にとり憑いて命を奪う展開が有名だ。

今でいうポルターガイスト、じゃなくて幽体離脱

太郎はまひろに、三郎(=道長)はそういう類のマボロシなのではないかともちかける。

まひろもその点は否定できないというふうに眉をひそめて考え込む。

この辺が平安時代ぽくて、ドラマのセリフが現代的だろうがどうしようが、ああやっぱり古代の世界からこの人たちは抜け切れてないのだなと急に物語に実感がわいてくるのだ。

 

ついでに。

この幻かもしれない三郎(=道長)の身を案じるまひろに、心配ないと夜分遅くにまるで忍びのように忠告しに来る謎の人物、直秀。この男が第三話のお題、謎の男を指すらしい。こういう名もない人物は大河ドラマでは最後まで名もない人物のことが多いので、ここで深く考察するのは避ける。

 

ただ夜空を皓々こうこうと照らす月。

その冷たく青い光を仰ぎ見るまひろの姿は、どこか示唆しさ的だ。

月は和歌にも多く詠まれ、当時の貴族にとって特別な意味をもつ存在だった。

ドラマでも、月はこの後も重要なファクターとして登場することだろう。

 

 

当時の女性

平安時代はまだ武家社会になるまえの古代の雰囲気を色濃く残す。庶民もまだ貫頭衣、竪穴式住居、食器は土器を使っていたくらい。

つまり宗教の縛りもなく、身分の観念もゆるやかで、ただ中国から輸入された儒教は確実に影響をおよぼしていたけど、しかし女性は当時、多分今思われてるよりもずっと自由だった。

 

ここで考えるのはあくまで貴族階級であり、一般庶民は上記に述べた通り医療も福祉の概念もない中、名前もつけられず病気にかかったらそれが寿命といった世界だったが。

まず通い婚といって女性の家に男性が通ってくるのが結婚の形態だった。そのうち正妻は夫の邸宅に(おもに)北の対という住まいをもらう。

しかし貴族と言えども医療の概念もなく寿命には抗えないなか、結構な頻度で配偶者に先立たれることがあり、そのためか妻は再婚する例も多かった。

貞女は二夫にまみえず(史記より)

とかいう観念が江戸時代と違って薄かったともいう。(うーんでも江戸時代でも再婚は多かったという記録も残っていて、一概には言えないが)

 

また、宮中に女官として出仕し、官名ももらっていたところも江戸時代とは大きく違う。

この高位の女官(炊事とかその他下働きの従者は除く)を、女房という。宮中じゃなくても、兼家とか源雅信とかいう大臣の邸そのほか貴族の邸宅に仕える女官のことをも指す。

女房と言っても人の妻のことでは決してない。そこの用語が現代とは違う。

この宮中に出仕していた女房は、典侍ないしのすけを頂点とする帝や春宮に仕える女房のほか、中宮や女御など後宮の妃に仕えるものなどがいた。

この後宮の妃に仕える女房がつまりのちの紫式部清少納言がつとめた管掌である。そういう公式な職業ではないが。

帝の妃となるべき(大納言以上の家の)高貴な姫は教養として、小さい頃からしつけとともに漢詩や和歌、美しい書、筝の琴や笛や琵琶などの演奏などを叩き込まれて育つ。

それらのファクターが美しく聡明な姫としての必須技能であり、入内して帝の寵愛を得るに不可欠であったからだ。

これらの姫君の養育に関わっていたのが貴族の家に仕える女房つまり高位の女官であったし、また宮中での妃のサロンを支える文化的アドバイザーとして女房は重要な役割を果たした。

 

彼ら女房は、主人である姫君が普段は袿に五つ衣、長袴といったくつろいだ姿であったのに対し、

 

宮中に出仕していた女房は(男性貴族の束帯に対する正装のような意味合いで)唐衣裳をつけた。(動画参照)

 

というわけで。

この辺は自分の覚書だが、宮中の後宮で妃たちのサロンに出仕する女房は、のちにドラマに紫式部清少納言が登場する。

(上でツイートを貼ったがもう一度リンクを貼る。ドラマの中ではすでに宮中に出仕する女房達の装束はたびたび登場しているからだ)

をしへて! 佐多芳彦さん ~美しくかさねて! 「女性の衣装」 女房装束 編 - 大河ドラマ「光る君へ」 - NHK

 

また、大臣家の姫君の養育に携わる女房役として、右大臣家の詮子にはお付きの女房は特に登場しなかったし入内後もその存在が確認できない。(画面に登場しないだけで絶対大勢そばに控えてるのだろうけど)

そこで左大臣家の土御門殿をみてみると、第三話に倫子に付く女房の筆頭として赤染衛門が登場する。彼女は倫子、その娘でのちに入内する彰子に仕え紫式部やまた和泉式部伊勢大輔などとも交流があったらしい。

ここで赤染衛門古今和歌集を全部そらんじているという設定はさもありなんである。演じているのは凰稀かなめさんで、そのよく透る声は後に後宮サロンを牽引していくにふさわしい知性を感じさせる。

 

この左大臣家の姫のサロンともいうべきつどいに、まひろが招かれて偏つぎの札あそびを持ち掛けられ、空気を全然読めてないさまは父親譲りの頑固一徹な面というか得意分野を問われて楽しそうというか。

展開がベタなため特にここでは触れない。

登場人物の自己紹介コーナーとでも認識しておいたらいいのでは。

貴族の遊びはそのように優劣や知識を競うのではなく雅びやかな雰囲気を楽しむものに過ぎないのだ。

ということを、倫子の表情が無言のうちに物語る。

 

この左大臣の邸宅である土御門殿は、のちのちドラマの主たる舞台のひとつとなっていくであろう場所のため、季節の草花をあしらった御所車を装飾として配置するなど演出も凝りに凝っていて、今後目が離せない。

第三回は、ドラマの序盤のキーマンである倫子の登場の回と記憶しておけばいいだろう。

 

 

恋愛と当時の若手公達の登場

藤原氏の若い貴族が宿直とのいをしている場面。もうひとりの主人公、道長のセリフが他の登場人物に比べてなぜこんなにも短いのかよくわからないが、周囲の人たちのセリフが含蓄に富んでいるので見ていて飽きない。

この辺のイケメン公達らが光源氏をほうふつとさせる。

宿直といっても宮中の警護であり、物騒な事件が起こっている最中でもない限り当面はすることがないのか?囲碁を打っている。囲碁は、正倉院にも伝世品が遺っており、隋か唐の時代には日本に伝わっていたという古い歴史をもち、枕草子源氏物語にも登場する当時から人気の貴族の遊びであった。

 

藤原公任が出してきた女性からの文が、使われてるご料紙も色とりどりに「いくつ貰ったのやら数えきれない」とのたまうほどで、この辺も光源氏を模しているのかもしれない。

水も滴るような麗しい公達ぶりは、黒の装束でさえもその美しさに磨きをかける演出かと思わせる。

多方、主人公の道長は相変わらずぼんやりとしていて返答も焦点が定まらない。

後のストーリーを思うと、このぼんやりぶりは故意にやってるのかと思うほど、自分の意見が特に聞かれない。公任に言わせれば「そこがこいつの良いところ」だそうで、一応そういう評価にしておこう。

ほかにも藤原行成も登場し、光源氏とその友人やライバルたちに模した登場人物はこれで揃い踏みだろうか。藤原行成といえば小野道風(おののとうふう)、藤原佐理(すけまさ)と共に、三蹟とうたわれた能書家のひとりである。

彼と並んでも特に今の所特筆すべきものが何もない主人公の道長

大丈夫だろうか今後の展開は…?

(行成と比べるのがかわいそうという説もある)

 

家柄が良ければ出世できる典型を地で行っているのかもしれないが、彼の本領はそのうち結婚後に発揮されることになるだろう。

 

 

 

 

 

 

第2回 めぐりあい 大河ドラマのlightな感想 光る君へ

 

※これ書いてる人は日本史も国文学も知らない単なる通りすがりの大河ファンです。この部屋の内容に深い意味はなく単なる思いつきとノリと勢いでやっています。なお、自分の覚書も兼ねてるので逐一資料を調べて解説リンクを貼ります。煩雑になりますがご了承ください。

 

だいたいの印象。

現代語のせりふが登場して、史実を正確に伝えてないのでは?と一瞬戸惑う。

しかし大河ドラマにはめずらしく、一般にあまり知られてない平安時代、しかも制約の多い貴族社会を描くならそのくらいくだけたシーンがあったほうがなじみやすいだろう。

時代考証も地道に誠実にされてる感じ。

そういうカジュアルなイメージづくりと衣装やセットなどの堅実な設定により、史実に描かれないフィクション部分と実際に記録に残ってる事件をもふくめて、丁寧に伏線を張りながら感情の機微も細やかに描いてる。

脚本も奇を衒わない展開、難解なせりふもなくわかりやすい。

役者さんも色んなキャラクターが配されていてそれぞれに持ち味がにじみ出た演技で、実際に身の回りにこういう性格の人いるなあと思わず感じるリアリティがある。

 

ではそれぞれの場面について細かく考えていくことにしよう。

 

 

目次:クリックで各項目へ飛べます

 

まひろの裳着の式(元服)と父との葛藤

第一回の子役さん時代は終わり、今回はまひろの元服の儀、つまり裳着の式の場面から始まった。

今回から吉高由里子さんに役が変わる。

これから一年間よろしくお願いいたします。

 

さて裳着の式とは当時で言う成人式みたいなもので、10代前半で執り行われる。

第2話は前回詮子が入内した天元元年(978年)から6年後、984年が舞台。

前回のまひろが7~8歳だったと仮定すると(道長は11歳、詮子は15歳だった)、今回ちょうどまひろは13~15歳ごろである。今の成人式が20歳なのからするとだいぶ早いけどそういう時代なので慣れるしかない。

これで結婚もできる年齢とされ、腰結をお願いした藤原宣孝おじさんもなにげなく「良い婿を迎えてこの家を盛り立てていかなくては!」とかサラッと身も蓋もないことをいうが、宣孝おじさんにしてみれば祝辞をはなむけに贈るというほどの意味合いだろう。

裳着の式:裳着 - Wikipedia

裳着(もぎ)は、平安時代から安土桃山時代にかけて、女子が成人したことを一族および他氏に対して示すことを目的として行われた通過儀礼。(中略)成人したものとして当該の女子に初めて裳を着せる式で、裳着を済ませることで結婚などが許可された。(中略)女子に裳を着せる役は腰結(こしゆい)と称され、徳望のある者から選ばれた。(中略)これ以降、裳着を済ませた者は、袴は緋を着ることとされた。

※ただ。この場にいるはずの親族はもっと多いはずだし、為時には妻ちやはの死後、通う妻もあったし子供も4人ほど生まれているはずだが、これ以上本編に関係の薄い登場人物が増えると物語の展開に焦点が合わなくなってくるので省かれたのだろうか?

 

でも前回兼家が為時に個人的な雇用として世話してくれた(それにはもちろん見返りを求められたが)春宮様の漢文指南役というやんごとない職のおかげで、第一回の目を覆うような窮乏振りから一転、為時の屋敷ではやっとのことで下級貴族としての体裁を保つことはできているようだ。

築地塀が崩れているのだけは如何ともしがたいようだけど。

使用人も第一回で二人も辞められたのに、それから6年の間に、いつの間にか増えている。みんなが身につけてる衣装にもゆとりが感じられる。母ちやはの衣装を物々交換に出してどうにか暮らしていた第一回の頃を思えば、今は明日の食べ物の心配をしないでいいだけでも安心だ。

 

そんな中ではあるけど、おめでたいことにまひろは裳着の式を迎えた。相変わらず質素なしつらえの邸であるが、まひろが着ている十二単だけは目を瞠るような贅を尽くした装いであることが見るからにわかるので、為時はどうやってこの衣装を工面したのか気になるところではある。このような零細な暮らしぶりのなかでも、娘の晴れの日になけなしの費用をはたいて都合したのだろうか?

白地に素晴らしい紋様が織り出され描かれている豪華な唐衣に、茜色から桜色に移ろう可憐で華やかな襲目の五つ衣、白絹に菱紋の生地の裳には家の名の藤が描かれている……

ため息が出そうなほど美しい晴れ姿。

 

この衣装にこめられた思いを深読みしてみる。

当時は婿取り婚。

幼少のころから長男惟規よりも漢籍に興味を持ってくれた聡明なこの長女つまり惣領姫によい縁で良い結婚をしてくれればいいのだがという、下級貴族ならではの親としての心懸かりが読み取れる。

当時、男性貴族は妻となる家の後ろ盾をたのみに出世していくものであり、また妻としてもよい縁があることで家を盛り立てていくことになるものだが………

ん??????

妻の実家の権勢を後ろ盾に出世していく婿……????

(設定では)為時は兼家に個人的に雇われてるだけで、ここ六年ほど除目でも官位をもらえてない、政治的には傍流中の傍流の家系、経済的にもわずかな使用人とともに今日を食いつなぐので精一杯ですが…????

大丈夫ですか為時さん、、、??????

致命的に観点がずれてませんか・・・?

為時は学者だし出世のためには学問を修めないと!という堅物。

和歌や漢籍の教養、また管弦の楽器の演奏などは貴族の最低マナーとして常備するべきものではあるが、だからといって立身出世の鍵はそこにはない。

摂関政治の流れを握るのは教養ではないのだ。

この、為時がいまいち世の中の流れに乗れず真っ向から逆らっているようすはこの後も克明に描かれることになるだろう。

 

乳母の「亡き北の方様が姫様の晴れ姿をご覧になったらどんなにかお喜びでございましょう」というお祝いの言葉もむなしく、全員視線がどこへともなく泳いでいてこの場の空気全てが空回りするなか、為時と宣孝はいたたまれないかのようにそそくさと別席の酒宴へと消えていくのであった。極めつけに宣孝はそれまでの晴れやかな笑顔から一変して、(母の死に関してとは触れずに)道兼のことを詮索し追及するまひろに対して冷徹に釘をさす。まるで言われんとしていることに対しはっきりと否定するかのように。

男って現実から目をそらすから嫌いなんですよね(ここで唐突な主観)。

 

まひろの教養の素地を育んだ環境

ついでにいえば、為時が本気で姫君のまひろに良縁をつなげたいのであれば、再婚した後妻を通い婚ではなくさっさと屋敷(の北の対)に迎え入れ、姫君に雅なしつけをほどこし教育させる事に余念がないはずだ。貴族の子女の養育には母親の存在は不可欠。

しかし後妻は屋敷には招かれずのまま。

まひろは琴のや琵琶の演奏にいそしんだり、そして美しく書をしたためることなどせず相変わらず漢籍を読み耽っている(それは史実だっただろう)。書、和歌、琴や筝の演奏、これらの教養は当時の婚期の姫君として必須科目であり美人としての評判が立つには不可欠であった。

当時は通い婚だから姫君は屋敷の深窓から出ることはない。そういったうわさがまず求婚を受けるきっかけとなるのだ。

いや?まひろは確かに書はたしなんでいるけど………

まひろの場合は、姫君がつけるべき一般教養としてではなく、姫君にしては賢すぎる(そして周りがもてあまして困る)ほどの知性をそなえていることを示唆していると思われる。

漢字が読める女性は奇特な存在だ。

このことは紫式部アイデンティティの根幹にかかわること。

どう養育されても結局彼女のあくなき探求心の芽をつむことはできなかったのだろうなと思う。

 

何度でも繰り返すが為時は学者肌。その家系は数々の学究の徒を輩出していることで知られており、屋敷には漢籍が山と積まれていて、研究と研鑽に余念がなかった……

※紙について。

紙は紀元100年ごろまでに漢で発明されたと考えられ、日本にも当時伝わってきていて記録は奈良時代の竹簡から進歩してはいたが、かといって貴族のみが扱える贅沢にして貴重な品だったことには変わりない。(正倉院には奈良時代の反故になった戸籍や計帳、正税帳などの公文書の裏に写経することで遺った膨大な紙背文書の史料があるが、再利用してたのも紙が貴重品だったからである。)

また漢籍自体も写本にて伝えられてきた中国から渡来の文化。

紙が貴重であり、また印刷と出版が一般的でなかった時代。

出版は江戸時代には版画と浮世絵という形で町人文化を席捲するが、その時代はまだ遠い。

 

※紙が貴重であり印刷ができなかった時代、知識の流布は写本に頼るつまり手書きで写すしかなかった。そのため古今東西、知識の蓄積は宗教施設(教会や寺など)に偏り、内容は宗教に関わる経典や宗教の学問関連がほとんどであった。そしてその高価な、いや値段などつけられない貴重な知的資産は中央集権化と共に権力者のものとへ集積していく。

近代市民革命によって主権が市民に遷る以前は、こうした知財は権力を誇示するために、その象徴として豪華な図書館に収蔵された。それは一般に広く供覧するためではなくあくまで権力を内外に広く知らしめることが目的であった。

 

こう考えると為時の邸はけっして裕福ではなかったにしても、まひろの知的欲求にじゅうぶん応えるにあまりあるだけの漢籍漢詩が備えられてあり、自由に閲覧できる環境だった。

裕福かどうかはともかく、まひろにとっては子供時代から青春時代は贅沢で幸せな時間をすごしていたといえるだろう。

 

まひろは幸せだった?それはドラマの筋書きとしてはそれぞれ思う所があるようだが。

 

ここで弟の惟規が為時からたたきこまれているところの、史記列伝を見てみよう。

史記(資料:史記 - Wikipedia )

史記』(しき)は、中国前漢武帝の時代に司馬遷によって編纂された歴史書である。二十四史の一つで、正史の第一に数えられる。計52万6千5百字。

史記の編纂は紀伝体による。

 本紀 - 帝王の記録で、主権者の交代を年代順に記したもの。
 表 - 歴史事実を簡略化し、表で示したもの。
 書 - 政治に関する特殊なテーマごとに、記事を整理したもの。
 世家 - 諸侯の記録をその一族ごとに記したもの。
 列伝 - 各分野に活躍した人物の行いを記したもの。

史記には武帝時代、ローマ帝国で言えば共和制ローマ時代までの中国の歴史が神話時代から系統的にまとめられている。中国の文化=東洋史の特徴はこの時代から紙が発明され、また文字も一貫してずっと持っていて、王朝ごとに民族は入り乱れたが甲骨文字の古代時代からずっと、天命が皇帝に下されたゆえに王朝を主宰する思想を頂いて歴史を途絶えることなく伝えていることにある。天命が失われたとき民衆が革命を起こし、次の皇帝が天から命を受けて世を修めるということだ。

 

惟規が間違えておぼえてたのは平原君。

→(平原君 - Wikipedia

為時が講義してたのは孟嘗君

鶏鳴狗盗、いまでも有名な語句ですね。

孟嘗君は名は文、姓は田氏である。リンク:孟嘗君 - Wikipedia

史記孟嘗君列伝より鶏鳴狗盗のあたりを引用】:

靖郭君田嬰者、斉宣王之庶弟也。封於薛。有子曰文。食客数千人。名声聞於諸侯。号為孟嘗君。秦昭王、聞其賢、乃先納質於斉、以求見。至則止、囚欲殺之。孟嘗君使人抵昭王幸姫求解。姫曰、「願得君狐白裘。」蓋孟嘗君、嘗以献昭王、無他裘矣。客有能為狗盗者。入秦蔵中、取裘以献姫。姫為言得釈。即馳去、変姓名、夜半至函谷関。関法、鶏鳴方出客。恐秦王後悔追之。客有能為鶏鳴者。鶏尽鳴。遂発伝。出食頃、追者果至、而不及。孟嘗君、帰怨秦、与韓魏伐之、入函谷関。秦割城以和。

 

【現代語訳】:

靖郭君 田嬰という人は、斉の宣王の異母弟である。薛に領地をもらって領主となった。子どもがいて(その名を)文という。食客は数千人いた。その名声は諸侯に伝わっていた。孟嘗君と呼ばれた。秦の昭王がその賢明さを聞いて、人質を入れて会見を求めた。(昭王は孟嘗君が)到着するとその地にとどめて、捕らえて殺そうとした。

孟嘗君は配下に命じて、昭王の寵愛している姫へ行かせて解放するように頼ませた。寵姫は「孟嘗君の狐白裘(こはくきゅう)がほしい」と言った。実は孟嘗君は狐白裘を昭王に献上していて、狐白裘はなかった。食客の中にこそ泥の上手い者がいた。秦の蔵の中に入って狐白裘を奪って寵姫に献上した。寵姫は(孟嘗君の)ために口ぞえをして釈放された。すぐに逃げ去って、氏名を変えて夜ふけに函谷関(かんこくかん)についた。

関所の法では、鶏が鳴いたら旅人を通すことになっていた。秦王が後で(孟嘗君を釈放したのを)後悔して追いかけてくることを恐れた。食客に鶏の鳴きまねの上手い者がいた。(彼が鶏の鳴きまねをすると)鶏はすべて鳴いた。とうとう旅客を出発させた。出てからまもなく、(孟嘗君が不安に思ってたとおりに)やはり追う者がやってきたが、追いつくことはできなかった。

孟嘗君は帰国すると秦をうらんで、韓・魏とともに秦を攻めて函谷関の内側に入った。秦は町を割譲して和平を結んだ。

(画像引用:戦国七雄 - Wikipedia )

 

史記列伝の部から、為時が講義してる孟嘗君列伝の原文と現代語訳を引用しておいた。

孟嘗君とは戦国四君の一人(戦国四君 - Wikipedia)であり、彼らはいずれも紀元前の春秋戦国時代、群雄割拠する中互いに国を背負って戦った宰領だ。史記のそれらの列伝にある有名な故事から、「鶏鳴狗盗」を伝授しようとするも惟規は「……ヘイゲンクン?」とのたまい、さわやかに「わからないのは仕方ありませぬ」と宣言する。さっぱり頭に入らないらしい。

一般市民としては非常に共感する場面である。

そこで部屋の脇の片隅でボソッと「……孟嘗君」とつぶやく姉君のまひろ。

惟規は転がりまわって

「あーねーうーえ~~~!さっきの答えなに~~?」

「モウショウクン~~?はあ~~~知らねぇ~~」

とわめく。

ものすごく親近感が湧くぞ、惟規。

父上が「大学に入らねば出世できんのだ!」といきまいているところが、すでに上流貴族ではない(ほんとうの貴族は勉強なんかしなくても元服時点ですでにエリート)。なので仕方ないが惟規も普通に一般的には優秀だったのでは?英才教育をほどこされてるのですし。

長男への、為時がかける期待があまりにも高すぎるだけなのでは?

孟嘗君列伝を明日までに一日で暗記とか無理ゲーである。ほんとに。手元にある岩波文庫の現代語訳にして15ページ分。無理である。惟規がかわいそうでしょ。

 

 

まひろの代筆

さてまひろは、猿楽のおこなわれていた市場で絵師の店に潜入し、ひそかに(男性にふんして?)和歌を代筆しているようだ。

 

これについてはNHKから、書かれていた歌が公開されていたようなので引用する。

この2首はスタッフの方の創作による和歌らしい。

最初の歌:

ちりゆきて またくる春はながけれど いとしき君に そわばまたなん

 

2番目の歌、これが内容を確認されてから突き返されたという問題の歌。
いまやはや 風にちりかふ 櫻花 たたずむ袖の ぬれもこそすれ

理由は単にまひろのリサーチ不足だ。ラブレター代わりに書くのだからそれなりにリアリティを持たせないとバレるのは必至だと思う。歌の出来がよければウケるわけではない。……当たり前かも。

 

最後に出てくる歌、これも受け入れられなかったようではあるが、この歌には出典がある。源氏物語第4帖「夕顔」で詠まれている光源氏の歌である。

たぶん、のちの伏線としてここで登場したのかもしれない。

寄りてこそ それかとも見め たそかれに ほのぼの見つる 花の夕顔
(現代語訳)近くによってはっきり御覧になったらどうですか。黄昏時にぼんやり見えた夕顔の花を

 

というわけで後に源氏物語の執筆の場面になったとき、この夕顔の歌を覚えておくと何かストーリーに絡みがあるはず。たぶん。

 

【引用サイト】


依頼してくる人によって貴族は料紙を持参するが、身分の低いものは貴重品であるご料紙を手に入れられず、木簡や土器片を文の代わりに用いている。

この点からも、漢籍の蔵書を豊富に所有する為時は、経済力はなくても身分は低くても、知識人階級なのだなということがなんとなく察せられる。

 

また、この男女間の文のやり取りは相聞つまりラブレターであり、男女が直接会うことのない身分において文は最初に男性から女性にアタック(死語)するきっかけになる大事な手段であった。(紙であれば)使ってるご料紙が何か、また文の筆跡は麗しい字か、和歌の出来はどうか、全てが相手の器量を判断する重要なファクターだった。

相聞歌を贈って来た相手に思いを馳せる。しかし女性はここですんなりと返す歌でOKしてはいけないという謎のルールがある。簡単になびいては、遊んでるはしたない女だと思われるため、女性側からは少し気を持たせつつ考えているような歌を返しながら何度かやりとりをして男性の熱意を試すのが通例だった。

 

これに対し源氏物語では、男性側からの恋愛観というか女性観が語られる場面もある。それもまたこうした男女間の相聞のやりとりにおける様々な意見が出されるがそれはドラマの中で取り上げられることはあるのだろうか。

 

さてまひろのお忍びでの代筆業は小遊三師匠ふんする絵師に、和歌を詠んだ料金を場所代?として上納している。

つまり収入目的でなくてまひろの目的はあくまで歌が詠めればそれでよかったようだ。

しかし乳母の密告から為時に簡単にバレてしまう。そらそうでしょ、いつかはバレますよ。乳母も大切に育てて来た姫君があんな場末の市場にでかけていって相聞歌の代筆業とか、露見したら「あばずれ女」って言われるかもしれないと思うといたたまれなかったんだと思うんですが。責めないでやってください乳母を。

 

・まず

  袴も履かず

  牛車にも乗らず

  扇で隠さずに顔をさらして

  袿をひっかけて

外出してる時点ではしたないおてんば娘の所業であり、露見すれば嫁の貰い手はない。

 

・市場などという使用人の身分の者が出入りする庶民の場へ出かけているのがさらにはしたない。

 

・やっていることが他人の歌の代筆。家庭内で代わりに文や和歌をしたためることはあっても見ず知らずの者に詠むとかいうことは、貴族の未婚の子女のすることではない。これも露見すればまず家の名を汚す。祐筆という家庭内では筆跡のうつくしい使用人が主人の文をかわりに書くことはあるが、他人の恋の歌を詠むとか、スキャンダルでしかない。

 

 ↓↓↓↓

ここでちょい疑問に思ったのですが。

市場にフラッと出かけるのがはしたないなら、小遊三師匠ふんする市場の絵師を介して、まひろが自分の従者か乳母にわいろでも掴ませて連絡係になってもらい、依頼者からの文のやり取りとして和歌を代筆すれば、こんなにあからさまにばれなかったし見張りも立てられることなくこっそりと謎の(女流)歌人として活躍できたかもしれないのにね?もうちょっとうまく立ち回れたはずだと思いますが。

まひろはなんであんなに弾丸のように度々市場に出かけて行ったのでしょう。もう子供の時とは違うのですけど。

 

ここで朴訥で温厚な学者肌であったはずの為時から雷の一撃が落ちた。初回の、兼家邸で時姫が道兼に放った「お黙りなさい!」の叱責かっていうくらいのすさまじい迫力。為時さん、黙って本読んで講義してるだけではなかったんだな。春宮様への漢文指南のときは何言われようが片時も動じなかったのに。(それは仕事だったからですね)

為時としては書くのは書くでも写本ならよいらしい。

それが当時一般社会の通常の認識だ。

古典を書写することが当時の教養を身につけるということだったので。(いいえ貴族の子女の教養はそっちだけじゃないが、為時が指導するとこういう男性向け教養になってしまうだけだ)

 

でもまひろは教養をつけ自我を獲得した当時には珍しい自立心のある女性なのでそういう頭ごなしの𠮟責は逆効果でしょうね……

物語の上で母の死が父親との確執に陰を落としている。

身の回りの誰もが口をつむぐ六年前のできごとなどまひろには到底納得できない。

一方的に頭ごなしに指示してくる父となんか意思疎通できるはずもない。

自分の気持ちなんか誰も分かってくれない。

なぜ和歌を詠んじゃいけないのか、色んな人の気持ちになって……(ええだから従者を通じて文でやりとりする代筆ならいいんじゃないかとあれほど(´・ω・`)

まひろはこのときおよそ15歳。

反抗期か???

 

何にしてもこの時期すでに何らかの形で文学的素養の芽生え、文豪としての片鱗をみせつけていたと考える。そういうエピソードだったのかな。

 

兼家と道兼

冒頭の裳着の式のあと、親戚()の藤原宣孝と最近の身辺の様子を語る為時。

兼家が世話した(ことにドラマではなってる)師貞親王、のちの花山天皇への漢文指南役はうまく続いているようだ。藤原宣孝親王が即位した折には為時の衣冠も昇進がかなうことだろうと目論むが、まあこのストーリーが物語前半の山場のひとつでしょう、遠からず訪れる山場。

親王が為時の漢文指導を理解してるのかどうかは、物語の流れには一番どうでもいい。

為時からの報告を聞いて、兼家は師貞親王にというより円融天皇に見切りをつけたようだ。自分の娘詮子に孫の皇子である懐仁親王ができたので、そっちをすぐに即位させたい方向にシフトしたらしい。大筋は史実だろう。事実、ここで実際に汚れ仕事に手を下す、陰で暗躍する役に道兼が兼家からじきじきに任命されている。

道兼にとっては因果応報、単に自業自得であり別に同情はしない。

兼家はこのドラマでいう黒幕、悪役ポジションとして描かれている。段田安則さん、為時役の岸谷五朗さんと並んで好きなんだが、眉ひとつ動かさずにサラッとひどいことを言う、冷酷な役に徹するあたりがプロである。言ってることがひどいって全く思ってないキャラづくり。衣装も黒地に金の紋様で渋いというかラスボスぽいなあ……

そういえばタイトルロールで兼家のところだけ一瞬、華やかな色彩が黒一色の墨を流したような不穏な画面に変わるんですよね、それはそういう黒幕の役どころだからですかね。これから以降、もっとひどい展開になるのでまあ仕方ないですね。

ヒントは、この時代の歴史書大鏡あたりか。いずれ遠くないところで道兼さんの真の役回りは明らかになるでしょう。

 

 

宮中の日常風景

その①藤原実資

公式サイトから解説が出ていたのでリンクを貼っておく。

宮中の紫宸殿、帝の御前での公卿の審議に陪席している貴族の中に一人だけ、あざやかな緑色をした縫腋の袍をまとう、体格のいい人物がいる。いやに日焼けしてるけど当時の貴族は(文官ならなおさら)ほとんど屋外に出ない筈、なぜ?

このひとは実在の人という設定で、宮中のできごとを小右記という日記にまとめている、蔵人頭(くろうどのとう)藤原実資という人物だ。

(関連資料:小右記 - Wikipedia )

と思ったら縫腋の袍は緑ではなく青だったという意味らしく、帝から信任厚い人物で特別に着用を許可された衣装ということだ。またその紋様は帝の衣装に使われる特別なものらしく、彼の特権的な立場がこの点からもうかがわれる。

蔵人頭という官職自体は源氏物語にも頻出(いわゆる光源氏のライバル頭の中将)するが実際の役職や内裏での職場が公式サイトに図解で示されているのでわかりやすい。

(以上、公式サイトの解説より引用)


ちなみに藤原実資の衣装に今回実際に使われている桐竹鳳凰麒麟という紋様を拡大してみるとこんな感じである。原則、天皇しか使えなかった紋様。

画像引用:桐竹鳳凰 | 日本服飾史

 

その②藤原道長

11歳の第一回放送から6年後のため17歳の設定の道長であるが、元服してまず就いた位が右兵衛権佐(うひょうえごんのすけ)、従五位下である。

(公式サイトを参照のこと)


まひろの父為時が任官を願い出ていた(が除目では指名されなかった)式部省の小丞は従六位なので、元服の時点で道長がすでに官位が上だ。家柄が出世を左右する上流貴族ではこのように厳然とした格差があった。

(だから息子を大学に行かせて出世を目指すとかいっている為時はだいぶ的外れであるが、下級貴族にはそれしか道がなかったともいう)

 

武官としてエリート街道を順調に走り出した道長、衣装を身につけた姿も凛々しく……はない気がする。彼はいつも癒し系らしい、今のところは。大内裏右兵衛府か、朝堂院か、朝廷に出仕し武官として訓練に励んではいるようだが雰囲気がふんわりしている、癒し系の存在。

このロケは第1回の陰陽寮に続いて、平安神宮で行ったと思われる。蒼龍楼・白虎楼あたりで撮影されたらしい。当時の記録をもとに再建された朱塗りの宮廷建築が、貴族の衣装に鮮やかに映える。

温厚な兼家の嫡男、道隆が衣冠束帯姿で部下を率いて粛々と職務にいそしんでいるさま、道兼もそつなく仕事をこなし、……

この場面の道長と姉の梅壺の女御様、詮子との会話がこの第二回での唯一の休憩ポイントである。ほかの場面がいくらなんでも殺伐としすぎである。ここでくらい現代語のタメ口で話してくれたほうが肩の力が抜けてちょうどいい。ストーリーの緩急のつけかたが秀逸。この直前の兼家と詮子との会話が血も涙もないだけに余計、癒し系の空気がきわだつ。

道長と詮子が恋の談義を繰り広げているが実際は後宮の駆け引きはこんな個人の感情では動かないはず。公卿の誰が娘を入内させ(その姫の母の実家の権勢も関係する)、どの女御様が先に皇子を産むか、それが政治の時流を一気に決定づけるからだ。誰が先に産むかが問題だ。一寸の時をも争うのだ。

現に為時が漢文指南をしていた師貞親王は生まれてすぐに立太子つまり春宮になっている。それは外戚つまり母の実家の藤原伊尹の権勢がものをいったからだ。彼が奇行を繰り返していたことはこの政治の流れには何ら関係はない。

ーーーしかし。彼が花山天皇として即位したときには外戚伊尹はすでに亡くなっていた。それが何を意味するかはもうすぐドラマの中で語られることだろう。

 

さて詮子はこれ以降、梅壺の女御様という肩書をつけて呼ぶ。梅壺とは後宮の殿舎のひとつ。女御とは妃の位をあらわす。(下位から順に更衣、女御、中宮、皇后となり、実際の最高位は中宮である。しかし実際には関白頼忠の娘、藤原遵子(のぶこ)が皇子を産まずに中宮となっている)

ほかの登場人物も皆当時はこのような肩書で呼ばれていたはず、藤原実資は頭の中将さまというふうに。なぜかみんな名前呼びなのは、初回から大人数が初登場なので混乱しないようにという意味だろう。そのうち登場人物が固定してきたら右大臣さま(兼家)とか左大臣さま(帝の御前で兼家の右側に伺候していた源雅信)とか、肩書で呼ぶようになりませんかね、ならないでしょうねこれからも初登場の人多すぎるから。

 

 

市と散楽

さてまひろが代筆の場としてもぐりこんでいた、小遊三師匠ふんする絵師が店を構える町の小路、そしてそのチマタに立つ市。

この市にならぶ店にはそれぞれに幟(のぼり)がかかげられている。店の構えは板葺きに石を載せただけの簡素な小屋が多いけれども。この幟、市女笠だったり、色とりどりの絹の房だったり、反物が翻っていたり……それぞれの店の実際の商品だ。ほかにも店はあったはずだけどテレビの解像度的に確認できなかった。

庶民は看板に店名を掲げられても文字が読めないから、このように商売道具のサンプルを掲げて看板とするのが常だった。サンプルが小さすぎる場合は手描きで大きく幟にして掲げたり。というところが丁寧に再現されていて、よく背景を作りこんでるなーと思った。

 

道行く人は貴族の家から使いに出て来たのであろう下男や下女らしきものが籠をかかえて行き交い、牛や鶏など家畜を売買に来た人もおり、またつづらを担いだ行商人みたいな人は郷里から都までまたは近郊から商売に出て来たのだろうか。

都の街角はそのような喧騒に包まれてにぎやかだ。

果てはこの場に不相応な絹の衣装をまとった公達(きんだち)(=貴族)がこっそりとお忍び?で店先にいたり……その店先がまひろが潜む絵師の店だろうか。その公達は恋の歌の代筆を依頼しにきた客だろうか?(そんな身分の者は自分で出向かず従者を差し向ける者だと思うけど)

 

また、散楽の見世物の背景には豪奢なしつらえの、身分卑しからぬ高貴な人が乗って来たのであろう牛車が停められているのが見える。

誰だ???

制作チームはこの散楽をワイドショーと割り切って楽しく使ってるふしがある。庶民は前述のとおり識字率は非常に低かったので、というか文字も当時は中国からの漢文文化をコピーしたものしか流布してなかった世の中、こうした時事問題をお題にした見世物は庶民の誰もが楽しめる唯一の娯楽だったといっても過言ではない。

じゃあなんで中国では漢字、漢文がそんなに普及してたのか。それは隋の時代以降制度として定着した科挙の影響が大きいです。四書五経の暗記というやつです。それにより儒教思想の固定化を招き、春秋戦国時代より隆盛をきわめ諸子百家ともうたわれた、自由な哲学的思想は抑圧されて陰を潜めてしまうわけですが。

でも庶民に共通して認識された自前の文字文化というのは自らの文化圏を強固なものにするツールとして自律的な役割を果たす。

 

で、そんな自前の文化を持たない東アジアの島国であるこの国では、庶民に直接訴える娯楽はこういった見世物だったわけで。

今回の散楽は出産を模している……どうやら外戚の横行とお妃の入内、春宮の地位を巡る争いを描いてるらしい。ただ庶民向けのワイドショー代わりだから知性も優雅さも何も感じられないけど。

この寸劇とリンクして兼家の娘詮子の苦悩が描かれる。散楽で天皇への貴族の子女の入内を揶揄するのはわかる。民衆にひろく知られてる話題だからですね。しかし物語のなかで、詮子がお妃として群を抜いてエリート街道を進むというか誰の追随も許さない今後の展開を思うに、ドラマとして実はそんなわけもなくというエピソードを付加したいのかもしれない。実際に今回兼家が提案したことはフィクションではない。そんなことを眉ひとつ動かさずサラーっと、しかも今となっては女御様の御殿で大勢女官たちが控えるであろう中、誰憚らず口にする兼家の大胆さには驚嘆するほかない。

この辺は史実として記録に残ってることであるので、今後絶対近いうちに物語に絡んでくるのでどういう描かれ方をするのか楽しみに待ちたい。

 

そして散楽を見物に来た水干姿の道長元服して間もない、官位もスタートしたばかりの貴族の子弟はというか男の子はこういう普段着で市中に出ることもあるあるパターンだ。

まひろがおてんばすぎるだけなのだ。

というわけでここで再会するくだりは全部、歴史上はフィクションなわけですが。

史実では、宮中に出仕するまで道長紫式部は出会ったこと無いはずです。

この場面は庶民の暮らしがよくわかる一場面としてとらえておきます。

 

 

かびくさい為時の衣装から考える、貴族のみだしなみ

第一回放送の後半で、兼家の仲介で春宮様に漢文指南に上がることになった為時はひさしぶりに宮中に出仕するため、縫腋の袍を身につけていた。

そこで妻のちやはが「衣装に香は焚いたのですが……ひさしぶりに出すと、かびの匂いがどうしても取れなくて……」と困っていた場面がある。

ここでまひろが身も蓋もなく「それは雨漏りのせいです!」と叫ぶがちやはにたしなめられている。(父上の面目を立ててあげて、まひろお願いだから)

 

ここでいう香に通ずることも、和歌や書を嗜み漢籍に通ずること、管弦の楽器を奏でることと並んで、貴族の教養のひとつ、大切な身だしなみであった。

めったにお風呂に入れなかったからというのもあるが、貴族は絹の衣装に香をたきしめるのがマナーだった。このへんは近世のヨーロッパの貴族が香水をふりかけたのと用途としては同じだ。

正倉院には奈良時代の銀の香炉が伝世品として遺されている。

※参照画像リンク:正倉院 - 正倉院

 

どのような薫りだったのか、実際に画面からは伝わってはこないけど、高貴な人の衣装には必ず香が焚かれていたことを想像しながら、それぞれの場面を見てみるといいかもしれない。

個人的な嗜好とか身分による違いも、衣装の紋様や襲の色目と共にその人自身を表すコンテンツとして全体をコーディネートする要素と認識すると、物語もまた違った色彩を伴って目の前に拡がることだろう。

 

以下、ネタとして。

香といえば数ある中でも最高のものは沈香だった。東南アジアにのみ産出する、樹脂が沈着した香木のことで、当時すでに南海からなんらかのルートで輸入されていたと考えられる。

しかし貴重なものに変わりなく、その高貴な薫りもあいまって貴族の垂涎の的であった。正倉院にはこの沈香の巨大な香木が納められていて、歴代の権力者が少しずつ切り取った跡が残っている。

去年正倉院展に合わせて、この沈香の香木がヌイグルミになってコラボグッズとして発売されていたので載せておく。

余りにも有名なこの香木には蘭奢待という雅号がついており、その漢字の中にそれぞれ隠し文字として東大寺の字が隠されていることでも知られる。

そのくらい沈香を焚くということは貴族にとって一種のステータスシンボルでもあったといえるだろう。

 

 

 

 

 

 

第1話 約束の月 大河ドラマのlightな感想 光る君へ

 

自分はときどき、気になる年だけ見てみるlightな大河ドラマファン。

大河ドラマってNHKの看板番組として桁違いの予算が組まれてるし色々特別な存在だ。

ジャンルが最近幕末か戦国時代かってなっててマンネリ化してるなと思ってたので、今年のテーマが紫式部平安時代と聞いて珍しく思い、見てみることにした。

 

目次:クリックで各項目へ飛べます

 

 

 

まず大河ドラマとは、フィクションだ。

実在の人物を題材にしたフィクションと思ってストーリーを追わないと、細かい史実を知ってる人がツッコミを入れてたりするがそういう観点はナンセンスだ。キャラの年齢と設定が合わないとか。時代が平安時代、生没年もわからない人が多く登場するし、細かい背景をドラマの筋書きで埋めていくにはフィクション部分はなくてはならないもの。

時代劇(完全なフィクション)というより歴史ドラマとして見たいけど、あくまでドラマはエンタテイメント、娯楽作品として見るものとしてこの感想を書いていく。

史実は各自、視聴者が歴史学の論文を読んで照らし合わせて検証すればいいだろう。

それに、大河ドラマともなれば第一線の研究者が正式に時代考証の担当(または補佐的な位置)としてついてくれるから、荒唐無稽な設定や筋書きにはならないものだ。

というわけで安心して楽しめるエンタテイメントであり、新しい解釈も加わった第一級の歴史ドラマとしても見れる、それが大河ドラマ

(※自分は日本史も国文学もよく知らないlightな大河ドラマファンなのでそんなツッコミはできず、安心してTV見て楽しんで笑ってる派です)

 

オープニングとテーマ音楽

番組の冒頭に毎回流れるタイトルロール、その背景のムービーとBGMが毎回楽しみだ。一年間つきあうことになるからだ。

今回のオープニング動画、芙蓉(?)の花が開くところのスローモーションが美しい。また動画に墨が画材として(?デジタル的なものかもしれないが)使われていて、宮廷の女房文化が背景となってることを思い出した。

テーマ音楽の演奏は毎年NHK交響楽団が担当していて、これを聴きたいからドラマ見るっていう要素が自分の場合は半分以上を占めてるかもしれない。日本でも指折りの奏者が集まるN響の演奏が毎週聴けるなんて贅沢な仕様だ。重厚で壮大なオーケストラにピアノとハープが織り交ぜられ、高貴で華やかな印象を演出している。

時代のうねり、そこに生きる人々の息づかいを想起しながら毎回この音楽を聴くんだなあと感慨に浸りながら初回のオープニングをながめていた。

このムービーをバックに背負い流れるタイトルロール、毎回登場する俳優さんが変わっていくのでそこも見ておきたい。

 

俳優さんとキーワード

第1回はまひろ(落井実結子さん)を主役において紫式部の子供時代が描かれている。

紫式部の生家

ここの明日の暮らしにも事欠くような貧乏ぶりを描いている冒頭部分はおおむね史実に沿ってると思う。当時を再現したと思われる撮影セットのディティールがすごい。雨漏りの修理代がないところから物語が始まり、それにちゃんと家の土塀はくずれかけてるし、母屋?以外の屋根は板葺きに石を載せただけ、父親の為時の衣装は粗末で母の絹衣装だけが一張羅?それも売って生活の糧にしてるらしいし(物々交換)。

紫式部の父為時が学者だが出世しなかったのはほんとうで、なぜ出世しないのかというと世渡り上手じゃなかったから。

要するにいつの時代も目上の人、権力者に取り入って賄賂やコネを使って出世していくのは変わらないらしい。

……そういうのほんと嫌になりますよね ( ꐦꐦ◜ω◝ )

あ、失礼しました。

この風采の上がらない、朴訥な性格の父為時を演じてるのが岸谷五朗

生真面目にしょぼしょぼと勢いなく喋るさまが演技が上手い。さすが。この父親ではこの一家は永遠にこの暮らしかもしれないなあと暗澹たる気持ちになってくる。

そこへ如才なく為時に忠告をして去っていくのが藤原 宣孝。演じてるのは佐々木蔵之介。(←京都に実家=酒蔵がある俳優さんだからか?初回登場時に酒入りのひょうたんを持って現れる)世渡り上手な役回りとして登場するので着てる衣装が格段に贅沢な絹の紋様。この人が藤原 宣孝ですよ、みんな覚えておこう(そんなの知ってる?失礼しました)。登場時、この年齢設定なのかーと思って唖然として思わず史実を調べてしまった(なんのことかって?いいえなんでも)。

この人が藤原 宣孝ですからね、なんか何気ない登場ですが忘れないでくださいね。え?しつこい?すいません(´・ω・`)

登場人物がほぼ全員藤原性で覚えられない?まあそこをなんとか。ロシアの小説がなんとかフスキーって名前ばっかりなのと一緒(そうか?)。

当時は藤原氏がほぼ政権の鍵となる要職を独占してた摂関政治時代の真っただ中。それなら紫式部の父為時も藤原性じゃん?となるが、為時の家系は何代か前で政権の主流から外れた家柄なので今から時流にのるわけにはいかない落ち目の血筋だということだ。この時代、本人の才能も必要だがなんといっても生まれの血筋が運命を左右する。このことはこれ以降の話で嫌でも目にすることになるだろう。

 

高貴な人の暮らし

藤原道長の生家ということで藤原兼家の屋敷=東三条殿の寝殿造りの広間が登場する。

正妻時姫の三人の息子、そして入内が決まった娘詮子が並ぶ中ドラマは進むが、ここで嫡男道隆の娘が赤ちゃんで登場、定子様のことですね、みんな赤ちゃんが泣いてるのに顔色一つ動かさず満面の笑みなのが怖いですね。端っこに座ってる幼い息子さんは伊周さんでしょうか。

吉田羊さん演じる詮子が当時15歳の設定だったのはうーんまあいいか、それよりのんきな弟三郎=藤原道長との会話で

「父上の息子なら何もしないでも偉くなれるわ」←まあわかる、元服後の官位がスタートラインからして違う、でも何もしないんじゃダメだけど

「姉は帝のお妃だし」←ここ重要、覚えとこ

道長にとっての姉が帝のお妃だってことが重要なわけですね。なんでって?まあ今はいいじゃないですか。

 

貴族と一般庶民ではまったく生活習慣が違う。そういう意味でちょいツッコミ(あれツッコミはしないんじゃなかったんか)。

兼家はこのとき大納言と右近大将を兼ねていた家柄、この一家のメンバーが正月とはいえ一堂に並んで顔を合わせていたのが当時の時代設定としては違う気がする、たぶん。

ドラマの初回に大人数が登場するから自己紹介的なシーンでやむを得なかったってことにしときます。

豪壮な寝殿造りの母屋で、男性貴族が並んでるのははこれで合ってると思う、でも女性貴族はこの家柄くらいになると御簾の内側の席に並んでて扇で顔を隠し、その場にいる者にささやかな声をかけるだけだったような?

その後、詮子が入内後に道兼さんと時姫と三郎が縁側=端近で語らうシーン。それもドラマで一つの画面に納まってもらう都合だと思われるけど、こういう家族のメンバー同士、道兼と三郎が会話するのはありとして、女性である時姫はこういう正妻なら北の対の深窓に居を構え、家の中での会話も従者に文を託し、家族でも顔は絶対に見せないものだったと思います……でもドラマで顔を出さないとストーリーが進まないので同時に会話してた設定なのだろう。

(ついでに当時は男女の恋愛もまずお互いに文を交わすところから始まったような…)

参考資料:こういう当時の習慣は、この漫画の最初のほうにわかりやすく出てくる。

あさきゆめみしが原作が源氏物語で読みにくいって人にはこっちを勧める。

※ただしこの漫画、長い、そして面白いので途中で止まらなくなること必至なため要注意。

 

その時の時姫のセリフ:

「詮子は大切にしていただけておるのじゃな」うんうん。しかし入内した娘はもう名前を敬称略で言ってはいけない気がするんだが?

(父上(兼家)と兄上(道隆)は何を話されているのでしょう、なぜ私は呼ばれないのでしょう、という道兼の問いに対して)時姫は「道隆は妻も子もあり一人前じゃ」そうそう。

「して道兼。そなたにもよい妻をみつけてやらねばのう。どなたか意中の姫はおらぬのか?」

そういや道兼は、最初の家族全員の登場時にも父兼家に向かって(嫡男道隆に対抗して)「わたくしも良い妻と家庭をもって出世しとうございます」のようなことを述べていた。

 

当時は通い婚であり婿取り婚だった、つまり妻の家に通い、出世となれば妻の実家の地位と財力次第になってくる。男性貴族は自分自身の官位にもよるが、妻の実家の後ろ盾が大きい。自分が出世できるかどうかは妻の実家の影響を考えなければならない。

また、当時の貴族の権力争いはつまり兄弟間の出世争いでもあり、兼家が道隆を嫡男として目をかけ、「時流を読め」と密談を繰り返しているのはわかるけどだからといって道兼まで父に出世の都合を直談判してどうする?

道兼、自分の出世は自分で掴むんだ。結婚相手こそ最大のキーを握るんだぞ。

まだ結婚してないからって矢とか、三郎とか従者に当たり散らしてる場合ではないぞ。

家族の間とはいえ手の内をさらしてどうするんだ。

父兼家がここまで出世したのは、時姫の実家の権勢もあるかもしれないがそれまでに表では言えないようなことをしてきたからこそだし。表で言えないけど、それは下記に述べるところの河原の散楽の場面で、民衆から風刺というかはっきりと名指しで揶揄されている。

詮子の前に、すでに兼家は同じく時姫の娘である超子を冷泉帝へ入内させる(後の三条天皇となる皇子を産む)などの手を打ってあるし(ドラマには登場しないけど)。盤石といっていい兼家の出世競争の布陣にぬかりはない。

出世競争って?娘を入内させて生まれた皇子が天皇となり、自分が宮廷での外戚つまり摂政となって権力を握る事?それって男性貴族自身の実力と関係なくない?

当時の宮廷がそういうシステムだったのでしょうがないな。

 

ほかにも表では言えないようなことを次々となさる兼家様ですが…

おっとここでのちの花山天皇となる親王が登場されました。為時が漢文指南役として就任するようです。碌も個人的に兼家が出すらしい(そこは事実かどうかは知らない)。これで雨漏りの家とも訣別できましたね、指南役は前途多難のようですがここが踏ん張りどころですがんばってください為時さん。

それはともかく兼家が今後(裏で糸を引いて)何をしでかすかはドラマの前半のみどころのひとつです。

 

舞台が平安時代

源氏物語を彷彿とさせる、めくるめく華麗な宮廷絵巻。

豪華絢爛な女房装束と華やかな管弦の宴に雅な和歌を交わして……

ドラマを見るまではそういう平安貴族の優雅な物語を夢見てましたが、そうだったこれは大河ドラマだったし宮廷は権力闘争の場で密約、暗殺、謀略が飛び交う駆け引きの場だったことを思い出した。物語の主人公は後に宮廷に出仕する紫式部であり、源氏物語が脚本の基ではない。

そうそう、そうでした、そうこなくっちゃね。

 

 

幼少期の紫式部=まひろと、11歳当時の藤原道長=三郎

飼っていた小鳥が逃げてしまい、近くの川まで探しにきたまひろと三郎が出会う場面。

この設定はドラマオリジナル、史実にはそんな記述はないというか両者ともそんな幼少期の記録はどこにも残ってない(はず)。

それよりもこのドラマ、フィクション部分にちゃっかり有名なシーンを投影してきてますね。この話題はさんざんTwitterで見かけましたが念のためここでも触れる。

源氏物語の第5帖、若紫の冒頭にある、北山の僧都のところに病の祈祷をしにきた光源氏がとある高貴な人(兵部卿宮)の屋敷を小柴垣から偶然垣間見て、当時10歳ごろの紫の上を見初めるくだり』

光源氏と若紫を三郎=道長とまひろさんに見立てて、忠実に再現している。

ただドラマでは垣間見ではなく、がっつり直接会話してますが。

 

以下、ちょっと長いけど、若紫の帖の冒頭の原文の引用ーーー

日もいと長きにつれづれなれば、夕暮れのいたう霞みたるに紛れて、かの小柴垣のもとに立ち出で給ふ。人々は返し給ひて、惟光の朝臣とのぞき給へば、ただこの西面にしも、持仏据ゑ奉りて行ふ、尼なりけり。
簾少し上げて、花奉るめり、中の柱によりゐて、脇息の上に経を置きて、いとなやましげに読みゐたる尼君、ただ人と見えず。

四十余ばかりにて、いと白うあてに痩せたれど、つらつきふくらかに、まみの程、髪の美しげにそがれたる末も、なかなか長きよりもこよなう今めかしきものかなと、あはれに見給ふ。

清げなるおとな二人ばかり、さては童べぞ出で入り遊ぶ。

中に十ばかりにやあらむと見えて、白き衣、山吹などのなれたる着て、走り来たる女子、あまた見えつる子どもに似るべうもあらず、いみじく生ひ先見えてうつくしげなるかたちなり。
髪は扇をひろげたるやうにゆらゆらとして、顔はいと赤くすりなして立てり。

「何事ぞや。童べと腹立ち給へるか。」

とて、尼君の見上げたるに、少しおぼえたるところあれば、子なめりと見給ふ。

「雀の子を犬君が逃がしつる。伏籠のうちに籠めたりつるものを。」

とて、いと口惜しと思へり。このゐたる大人、

「例の、心なしの、かかるわざをしてさいなまるるこそ、いと心づきなけれ。いづ方へかまかりぬる。いとをかしうやうやうなりつるものを。烏などもこそ見つくれ。」

とて立ちて行く。

髪ゆるるかにいと長く、めやすき人なめり。

少納言の乳母とぞ人言ふめるは、この子の後ろ見なるべし。

尼君、

「いで、あな幼や。言ふかひなうものし給ふかな。おのがかく今日明日におぼゆる命をば、何とも思したらで、雀慕ひ給ふほどよ。罪得ることぞと常に聞こゆるを、心憂く。」

とて、

「こちや。」

と言へばついゐたり。

つらつきいとらうたげにて、眉のわたりうちけぶり、いはけなくかいやりたる額つき、髪ざし、いみじううつくし。

ねびゆかむさまゆかしき人かなと目とまり給ふ。

さるは、限りなう心を尽くし聞こゆる人に、いとよう似奉れるが、まもらるるなりけりと思ふにも、涙ぞ落つる。

尼君、髪をかきなでつつ、

「けづることをうるさがり給へど、をかしの御髪や。いとはかなうものし給ふこそ、あはれにうしろめたけれ。かばかりになれば、いとかからぬ人もあるものを。故姫君は、十ばかりにて殿に後れ給ひしほど、いみじうものは思ひ知り給へりしぞかし。ただ今おのれ見捨て奉らば、いかで世におはせむとすらむ。」

とて、いみじく泣くを見給ふも、すずろに悲し。

幼心地にも、さすがにうちまもりて、伏し目になりてうつぶしたるに、こぼれかかりたる髪、つやつやとめでたう見ゆ。

  生ひ立たむありかも知らぬ若草を おくらす露ぞ消えむそらなき

またゐたる大人、「げに。」とうち泣きて、

  初草の生ひゆく末も知らぬ間に いかでか露の消えむとすらむ

と聞こゆるほどに、僧都あなたより来て、

「こなたはあらはにや侍らむ。今日しも端におはしましけるかな。この上の聖の方に、源氏の中将の、瘧病みまじなひにものし給ひけるを、ただ今なむ聞きつけ侍る。
いみじう忍び給ひければ、知り侍らで、ここに侍りながら、御とぶらひにもまうでざりける。」

とのたまへば、

「あないみじや。いとあやしきさまを、人や見つらむ。」

とて、簾下ろしつ。

 

この引用の水色の部分にそっくりなシーンです。

えさをやり巣をきれいにして大切に世話していた小鳥、それがふとした拍子に(自分でか他人のしたことかはともかく)かごから逃げてしまい、目を赤くはらして憂いている様子、黒く豊かに肩にかかる振り分け髪、泣いてるところをを慰められるさま……

たぶんここ見てる人の脳裏にいっせいにこの台詞が流れたことと思われる。じゃあもう一回。

「雀の子を犬君が逃がしつる。伏籠のうちに籠めたりつるものを。」

 

ここが引用されるとなると、この先登場されるであろう清少納言先輩と中宮定子様による例のやりとりも絶対出てくるだろう。きっとそうにちがいない。そのときに備えて引用コピペも準備しとこう。これでばっちりだ。

 

さてここで、聡明な紫の上の幼少期になぞらえて描かれている、主人公の紫式部、まひろさん。この(仮名の)本名がどうにも令和の現代ぽいが、女性は通常は本名などなかったかあっても記録に残ってないのでしょうがないです。

 

さてここでいきなり漢文の「蒙求」から冒頭の句をスラスラ書き始めるまひろさん。

王戎簡要(おうじゅうかんよう)……『蒙求』の冒頭よ♬ 続きを書いて?」 

(この子役の子がすごい、長くて難しいセリフを述べながらのシーンの中にこの漢文、字も暗記してないとスラスラ書けない。大人でも難しい。すごい。)

そしてまひろの博識ぶりに舌を巻き、しどろもどろになる三郎。

「おっ……俺は貴族の子ではないから、名前が書ければいいんだ」

三郎、それでいいんか?貴族のプライドとかないんですか?姉との会話でも、おれは勉強はできないしとか堂々と語ってますが。

ここで出てくるお菓子は当時どういうものが食べられていたのかという深堀りは省略します。そういう食文化にも興味をそそられますがきりがなくなるので。

ただ、今も昔も砂糖は貴重なぜいたく品であり、というか菓子=餅だったのかなあ、砂糖は使ってたのかなあ?とにかく貴族の三郎だからこそ手に入れられたものには違いなく、まひろが目を見開いて驚いてるのも無理はない。そんなのまひろは生まれて初めて口にしたことでしょう。

ここでまひろが最初は身分を騙って帝の血を引いてる姫だとかのたまいますが、裏表のない単なる子供の思いつきって感じでかわいいです。今でいうお姫様になりたいプリンセス願望ってところでしょうか。たぶん他意はない。

(※ちなみにお雛様を飾る習慣は庶民の間にはこの時代まだなく、川に紙で作った人形=形代を流す習慣はあったかもですけど、この頃は貴族の遊びでも貝合わせやすごろく、囲碁などが娯楽として嗜まれていた)

しかし

「帝のお手がついて身ごもり子供を産むが身分が低いため宮中を追われる」

設定がこの場の思いつきってことになってますが、そのまま源氏物語の最初の帖、桐壺の設定にそっくりですね。まひろの作り話と違う所は身ごもった子が姫か男子かの違いだけですね。

 

再三言うけど二人のここでの出会いはフィクションです。

それに河原という場所は本来、子供と言えども身分の高い貴人が従者もつれずに訪れる場所ではない。少なくとも三郎はそういう身分ではない(詳しくは省略)。

なんでドラマで出会いの場所を河原に設定したのか、フィクションなんだからこの直前の場面の市で開催されてた散楽の場面でもよかったじゃないか。

謎は深まるばかり。

 

 

通貨

冒頭の部分で母ちやはが使用人に「年末のぶん、これだけなんだけどごめんなさい」といって何か包みを渡す。給料に加え、いわゆる年末のボーナス的な何か。(しかし雨漏りなどの窮乏に耐え切れず、第一話だけでも2人使用人が暇を願い出るが)この時代まだ通貨ではお給料が支払われず、物々交換による流通形態の経済だったことを示している。

 

銭、つまり銅銭は飛鳥・奈良時代富本銭とか和同開珎などが製造され流通したが、いずれも流通期間や地域は限定的なものにとどまった。海外=朝鮮半島や中国大陸との貿易は朝貢貿易だったからつまり対外的には物々交換を続けていたことになる。

本格的に銅銭が国内で通貨として流通しだすのは、農民の生産力、一般民の経済力が底上げされる鎌倉時代以降。でも使われたのは輸入銭だった。どういうことかというと。

平安末期に平清盛が兵庫の大輪田泊(おおわだのとまり)つまり福原に港を定め、日宋貿易を始めてから以降、いわゆる宋銭が輸入され広く使われるようになる。足利義満の時代にも日明貿易により銅銭(永楽通宝)を輸入し、これは明銭と呼ばれ人気があった。戦国時代以前のアニメやドラマ(もののけ姫とか)には紐に通した100枚単位の銅銭が出て来るが、それは応仁の乱~戦国時代のことなので明銭だろう。

わが国に自前の通貨が流通しだすのは江戸時代1650年ごろ以降、寛永通宝が作られてからあとのこと。けっこう最近ですね。江戸時代も改鋳による通貨の質の悪化とそれに伴うインフレーションも多かった。

さらに円という単位で統一されるのは明治維新の後。

国際的にみると、通貨の信用度って大事だなあ。

 

こうやって振り返ると物々交換でやっていた平安中期以前は牧歌的な経済、中華帝国を中心とする朝貢貿易経済圏の東端でほそぼそと暮らしてる当時の様子が浮かび上がってくる。

それは日本が遠く太平洋に浮かぶ島国で大陸と軍事的、経済的に隔絶された立地だったからという点も看過できない。大陸の国は民族もろとも滅亡の危機に絶えずさらされていたので必死で外交努力もするし自国の生産性=国力を上げようとして、生き残りのために死力を尽くしていた。遣唐使平安時代になってから中止したという事実が日本の意識というか立場を客観的に物語っている。外交という意味では日本は周辺国と同様、一瞬たりとも大陸の動きから目を離したことはないはずだが、事実は事実と認識していてもいまいち国家としてどう動くかという視点の人がいなかったのだろうか。

 

 

ロケ地

冒頭の陰陽寮

京都の平安神宮での朱塗りの建物を背景に、新たに屋根のないものを新しく組んだのでしょうか。平安神宮は今後、番組予告にもある舞を踊る舞台としても登場するようです。朱塗りの大極殿などが並ぶ、大内裏を今に再現した平安神宮は貴族の政治の場を映し出す背景としてこれ以上ない場所でしょう。

 

散楽と市、チマタと辻

三郎がまひろに出会うきっかけとなる外出、市への散楽の見物。

本来大納言家の子息である三郎が行く場所ではないけど元服前の気楽な身分だからなんでもありである。ここの部分全部がフィクションである。

まひろはもっと身分が低いので上記と同様。

この市で行われていた散楽とは一種の芸能だ。

日本の奈良時代に大陸から移入された、物真似や軽業・曲芸、奇術、幻術、人形まわし、踊りなど、娯楽的要素の濃い芸能の総称。

引用:散楽 - Wikipedia

起源は西域。つまり今のシリアからイラン、中央アジアからタクラマカン砂漠あたりをシルクロードを経由して古代に中国へ伝わったらしい。つまり中国での宮廷芸能である雅楽に対して、庶民の芸能という意味で散楽と呼ばれたそうだ。

中国に西域から伝わった奇術、幻術……

それって唐の都長安で大流行りした幻人を指すのでは??

ちょうど唐の時代にイランではササン朝ペルシアが崩壊し、多数の文化人が亡命してきた。後ろ向きに馬上からの騎射の構えを描くいわゆるパルティアンショットもこの時期、工芸品の紋様として伝えられた。ほかにも宗教(ネストリウス派キリスト教景教イスラム教=回教・清真教)や様々な文物がこの時期イランから往来したが、その中に幻人も含まれていたと考えられる。

幻人は古く漢書西域伝の條支(シリア)の項に登場する。史記にも登場したかも。燃えあがる炎や刀を飲み込んだり蛇を操ったりと、路上で奇術を操り大衆の見物するところで芸を披露したという。

それが唐に伝わり、イラン伝来のガラス器や西方の葡萄などの果物とともに異国情緒を伝える芸能として、幻術は長安の都で見物することができた。当時の長安イスラム帝国バグダードと共に人口百万人を超える大都市で文字通り世界の文化の中心の一端を担っていたことから、当時遣唐使としてやってきた日本の官僚がほかの文化と共にこれらの芸能を持ち帰り伝えたと考えられる。

その後日本では猿楽、そして能楽へと姿を変えて後世へと伝えられた。

 

さてこのドラマで散楽と称して上演されていたのは一種のアクロバットショー、サーカスみたいなものだろうか?それにストーリーが付加されている。

このアクロバットショーの演出がすごい。タイトルロールにアクロバット指南とあったけど何かと思ったらこれに違いない。

さてストーリーは、三郎の従者の百舌彦の予想した通り藤原氏の専横を揶揄した寸劇仕立てになっていた。コウメイ(=源高明)が兼太以下の三兄弟に倒されるがその後、三兄弟に憑依して呪いをかけ……って筋書きだ。

つまり源高明が倒されるというのは安和の変を指すのでは?たぶん。

資料:安和の変 - Wikipedia

藤原三兄弟がここで誰を指すのかは省略するとして、この安和の変自体に兼家は関与してないにしても藤原氏以外の源性を排除するという意味で間接的に利益にはあずかっているだろう。

この政変ひとつみても、誰が先に自分の娘を入内させるか、誰の娘が先に皇子を産むか、それに政治の流れがかかっていたことがよくわかる。

……そういうのほんと嫌になりますよね ( ꐦꐦ◜ω◝ )

あ、すいません。

こういう寸劇がアクロバットショーつまり散楽として上演されていたのは、今でいうワイドショーとか週刊誌のゴシップ記事の類と本質的には変わらない。

つまり我々一般庶民は千年経っても同じ娯楽を求めてるってことだ。

内容はなんでもいい、倫理も節度もいらない、流行りの話題で面白けりゃいいんだ。

・・・ほんと嫌になりますよね ( ꐦꐦ◜ω◝ )(3回目)

 

こういう散楽が上演されたのはドラマでは市の一角。

市とは庶民が交易に集う場所。まだ貨幣経済でなく庶民の間では物々交換だったことから、市には各地の物産が集積しそれを求めて庶民が集まった。

こうした市は普段の生活の場とは一線を画したハレの空間と考える。そこでは役所の役人からのお触れが高札に書かれて掲げられ、また処刑が行われていた場所でもあっただろう。処刑はまた河原でも行われた。そういう意味で河原は身分の高い人が(公に)行く場所ではないということから、上記の三郎とまひろの出会いの場所が河原だったのはなんでなのかと書いた。

 

市が立つ場所はこのドラマでは京の都だから官設の市つまり平安京に設置された市を指すのだろう。右京は早くから廃れたはずで、公卿の屋敷もほぼ左京に集まっている。つまりここに登場する市は東の市と思われる。

では官設のもの以外に市が立つ場所とはどういうところだろう。

物産の集散地にして市が開かれる所、役所からのお触れが高札で立つ、処刑(=見世物)が行われるところ、それは地元住民が行きかう所、つまり交差点だ。街道が交差する場所ともいう。それをチマタと呼ぶ。

古くは奈良の平城京に軽のチマタがあり(今の樫原市)、また山辺の道沿いに海石榴市(今の桜井市)も立っていた。

京の都に建てられた市は官営であり、それよりずっと前から人々の営みの中で、普段の空間(ケ)に対して市つまりハレの空間が存在していたということだ。

それを前提にドラマに登場する市をよく見ると、座っている物乞いあり、また色々な店が軒を連ねている。三郎の従者の百舌彦はここで(同じ身分の)恋人を見つけたようだ。

 

一般民衆が登場する場面はこれからも折に触れてあるはずなので、どういう描かれ方をするのかよく見てみたい。

 

 

衣装とその紋様もみどころのひとつだと思うが、あと寝殿造りのセットも真に迫ってて凄いのだけど長くなるので次回の感想に書く。

 

取り急ぎ1話の感想はここまで。

1話の衝撃のラストはここでは書かない。

歴史の間隙にフィクションを織り込むとはいうもののそこまでやるかという徹底ぶりで、今度こそ源氏物語の世界を夢見てドラマを見始めた人たちを奈落の底へ突き落したなと思った。本気で貴族の権力争いを描くつもりだな、やるならとことんやってください。

 

 

 

北海道見聞

 

自分はうどん県民。

曾祖父母の代から今住んでる自治体に在住で、自分も県外に住んだことはない。旅行に出かけても関西、遠くて関東の千葉県までだった。

しかし、ふとしたきっかけで生まれて初めて北海道へ行くことになったので、徒然に思ったことでも書いてみたい。

 

目次:クリックで各項目へ飛べます

 

 

目的はウチの高3男子くんのインターハイ応援である。

なぜか入ってる部活の試合で県代表になったらしい。いつからそんなアスリートになったんですか男子くん。シランカッタ。

いうてもその競技は県予選の出場校が少ないからという理由だからだった、と思う。とにかく、県予選を突破できて本人は得意そうにしてたので深くは追及しないでおこう。

 

そういういきさつで急遽北海道へ行くことになった。

今年は男子くんは受験生なので、家族は県外へ行くのは控えてたが、今回は例外だ。

となるとスポーツ観戦で俄然ガチになるのはウチの高齢者。彼らは若いころから(その年代には珍しい競技の)スポーツに明け暮れてて、今も色んな競技の世界大会のTV中継をリアタイしてTVの前で手に汗握って声援を送り、近くで何か大会があったら観戦行くくらいにはガチだ。ただし彼らはプロ野球だけは視界に入らないらしい。その理由は「野球選手は必死さが足りない。リーグ戦だから消化試合みたいになってて、一球に食らいついていく根性がないから応援しない」だそうだ。………プロのアスリートなんだから野球選手も必死にトレーニングに練習に明け暮れてるだろうし一球に食らいついてると思うけど……その言い方はかわいそうでしょ……?

とにかくインターハイ応援ということで、当然高齢者たちも一緒に行ってくれることになった。ていうか高齢者たちがウチよりも(そして他の保護者よりも)ガチで一番気合が入っていたといえるだろう。(いやまじで)

 

インターハイの会場は北海道だ。男子くんの出る競技は石狩市で開催される。県予選前にチラッと今年の開催場所を見てみたけど、今年は北海道なんだ…?へえ?とか思ったけどまさか行くことになろうとは。

たぶん男子くんは北海道はじめてだよね、あの学年はコロナで修学旅行は遠くに行けなかったからね……だから今回が一番盛り上がってるかもしれないwww

 

まず結論

時系列に無駄に振り返りたいので、箇条書きに結論を先に述べる。

うどん県民から見た夏の北海道。

インターハイは応援をがんばった。全国大会とはこんなものというのは昔からいやっていうほど知っているので、応援することに意味がある。というか涼しいので毎年北海道でやるべきまである。野球の甲子園も全部、全国大会とか夏の国体とか、全部北海道でやるべき(極論)。

・というわけで、涼しい。湿気がなくて素敵。一年の大部分は寒い冬とかいう現実から目を背ければ移住したいかもと錯覚する。

広い。とにかく広い。いろいろスケールが違う。

食べ物がおいしい。おみやげが、食べ物以外を探すのに苦労するレベルで、食べ物がおいしい。今まで自分がいちばんおいしいと信じてきた瀬戸内海の海鮮とか、身近な地元の農産物とか、…いろいろ価値観が覆された。

これらの、日本の財産ともいうべき北海道の産業を守るために何ができるのか?柄にもなく考える……輸入の食料品に目を奪われることなく、みんな国産の食品を買おう。一次産業を応援しよう。って気になる。

 

 

しかし自分はあくまで時系列で思い出したい。長くなるけど勝手に始める。

 

北海道のイメージ

テレビの旅番組とかドラマで見るところの、一般的な北海道のイメージとは?

毛ガニとイクラがおいしい。サッポロラーメンもおいしい。

クマとかキタキツネとかリスに会える。

観光地は時計台とイチョウ並木と旭山動物園

釧路湿原でタンチョウが飛ぶ。

最高峰は大雪山

函館の夜景がきれい。

温泉とか湖とか大自然もたくさんある。

広い牧草地とじゅうたんみたいに綺麗な畑が広がる大農場。

新鮮な牛乳と、乳製品がおいしそう。

 

とか色々思いついて、わーい楽しそう~!と一瞬思ったが、ネットで学んだ付け焼刃の知識が脳裏をかすめた。

「札幌から釧路までが東京ー大阪間より遠い。レンタカーで自力で運転すると疲れるだけ。そしてガソリンスタンドは極端に少なく、交通事故というより野生動物との接触に気をつけなければならない。クマに遭ったときの練習もしておかないと……」

そういうわけで今回はインターハイの応援がメインであり、釧路湿原でタンチョウが飛ぶのを見るのは諦めたのだった(そらそうやろ)。

石狩市が試合会場、だが札幌は宿泊をはじめとしてすべてのコストが高騰してたので、自分らは札幌から40キロほど離れた小樽に宿をとった。いいもんね、ウチは都会とか人混みの雑踏は苦手なんだ(という開き直り)。小樽は札幌から高速道路で30分余り、そこを拠点に試合日は一日石狩市へ行っていればいいのだから。

また、小樽は市街地にほどよくこぢんまりと観光地がまとまっており、高齢者の観光にもぴったりなように思えた。(そしてそれは半ば当たっていた)

 

今までの(高校時代の)部活の応援は、男子くんにはなぜかずっと禁止されてたのでこれが最初で最後の応援になる。

というか競技は若干変わったけどスポ少時代は親が全部運営してたし遠征の計画も何もかもやってたなあ、暑い日も寒い日もいつも応援してたなあと逆に懐かしかったり。というふうに色々思う所はあるけど、とにかく最後の応援なので高齢者たちとは違う意味で自分は気合が入っていた。

ただ男子くんからはなんも話してくれなくて、行程表もLINEで写メが来ただけ。どんだけ話したくないんだ?失礼な。ウザいって、そんなストーカーじゃあるまいし。

 

 

1日目 四国~千歳~小樽への移動日

移動は飛行機。まず初日、香川から岡山へ出るために瀬戸大橋を渡る。

 

さて岡山市の岡山桃太郎空港(ここからなら千歳空港まで直行便で飛べる)から飛び立つ。夏らしい青空と灼熱の太陽ともしばしお別れ……?北海道は涼しいってほんと……?ウチは飛行機移動はじつに10年ぶり、北海道は初めて!わーい!

高齢者たちは度々の旅行で飛行機は慣れてるが北海道は25年ぶり、お食事とか楽しみやな~~とテンション上げてたので、自分は逆にプレッシャーだった。おいしい店に高齢者を連れて行かないとダメだし出されるじゃん、がんばらないと…!

いや、がんばるのは試合の応援だ。ウチは10年ぶりの航空機搭乗の例に漏れず、手荷物検査で金属探知機に引っかかる失態をやらかしつつ手続きを済ます。高齢者はというと「何やっとるん」という白々しい視線を送ってくる。ほっといてくれ。

 

さて空を飛ぶこと、約2時間。移動距離にして1200キロくらい…?関東を超えた先は、自分には未知の世界だ。高度10000メートル。小心者の自分は、危機管理のために飛行中に流される動画を眺めながら、胴体着陸とか緊急避難とかなるかもなという疑心暗鬼に陥っていた。常に最悪の事態を想定するくらいじゃないと飛行機は乗れない(←持論)。客室乗務員が勧めてくれるドリンクものどを通らないので断る。

………だから飛行機は10年ぶりなんですってば。

高齢者たちは無邪気そうに窓の外を眺めてて、こなれたものである。楽しそうだなあ。

 

平日とはいえ夏休みのハイシーズン、さらにインハイに行く選手の一団も混じって航空便は満席だった。そしてこの後、北海道では宿も何もかも色々満員状態で、行く先々で混雑をきわめていた。

ーーー結論。北海道旅行は8月は避け、6~7月に行くのがいい。たぶん。インハイの混雑を差し引いてもやっぱ8月は夏休みだから家族連れでどこも混雑する。

往路の航空機満席を見てなんとなくこう思った自分の勘は、このあと半分当たり半分外れたと言っていいだろう。

 

新千歳空港

自分は高齢者を引率するツアコン業者と化していたので、ここに到着できた時点で仕事は半分終わったようなものだった。………この空港は霧で有名っていうし、航空機が予定通りに運航するかどうかは機材の関係とかいろいろ、運次第だから。

北海道の空の玄関、新千歳空港

うどん県の、飛行機発着ブリッジが2~3つしかない空港を見慣れてる自分にとってはここがすでに遊園地状態だった(落ち着け)。ターミナルビルのおいしそうなレストランや目を引くソフトクリームの誘惑を振り切って、レンタカー業者の送迎車を呼ぶ。おみやげものはここでなくても買えるよ、と心の中で言い聞かせつつ。

さっそく大混雑のターミナルビルで荷物受け取りもそこそこに若干迷子になる高齢者B。いいかげんにしてくれません?これから先が思いやられる。

その後、空港でレンタカー業者の送迎車を見つけられないという地味なトラブルもあり危うく本物の迷子になりかけながら、無事にレンタカー代理店に着き手続きも済ませて無事出発。代理店は千歳空港からも離れた辺鄙な場所(だから安い)で時間も予約時間ぎりぎり、この手続きが終われば実質自分のツアコン業務は終わりー!やったー!

……と盛り上がっていたのは甘かった。本番はこれからだったからだ(そらそうやろ)。

 

北海道の風景

レンタカーの運転は高齢者Aが責任もってやるというのでほぼ全部お願いした。ありがたいことだ。ちょっと目的地まで、ですぐ50キロという単位の移動だったので自分には運転は無理だったからだ。

ただ自分が楽しみにしてたもののひとつ、北海道らしい(ってなんだ)風景を写真に撮ってみるというお題は結局実現しなかったけど。

振り返ると、泊ってた小樽と、空港の千歳、試合会場の石狩市を結ぶ区間は高速道路とか大きな道路などのインフラが整ってて(なんならJRの路線も多分充実してる)、移動に不自由することはなかったのだけど。逆に言えば車窓から眺める景色ものどかな田園風景じゃなくてふつうの都市の郊外だったり山の中だった。

なんだうどん県と変わんないじゃんか。

つまり夏の北海道といえばイメージするところの

「広い牧場で青々とした牧草が茂り、乳牛がのんびり草食べてるところ」

とか

「大農場に草刈り後の大きな干し草の塊がいくつも転がってるところ」

とか

「キタキツネとかリスとか、鹿が車窓から遠くに見える」

みたいなのを期待してがんばって外を眺めてたが、そんな大自然にはお目にかかれなかった。移動するときにちょっとだけ別方向に走ってれば、すぐそういう風景が見られたはずだけど、土地勘がなさすぎて、また目的が試合という緊張感から?気分に余裕もなくそういう横道に逸れる冒険というのはしなかった。

よってそういう写真は一枚もない。あしからず。

大きな道路沿いにも北海道らしい?というか雪国らしいところはあったけど。しかし写真に撮り忘れた。

なんていうの?大きな幹線道路での珍しい標識。

路肩の白い車線の上に配置された赤と白の縞々の下向きの矢印。

中央分離帯の上にも青い矢印がある

たぶん雪に埋もれたときに、車が脱輪しないように?というか縁石に乗り上げないようにっていう意味かもしれない。雪が5センチ積もるのが10年に一度あるかないかっていううどん県民には、初めて見る珍しい光景だった。

それと、個人の住宅からお店、マンションまでいたる所にわざわざ1メートル以上?の高い脚がついた200㍑サイズ?の燃料タンクが必ず設置してあった。これが噂に聞く、雪国ならではのセントラルヒーティング?システムとそれ用の燃料タンク?って思わず盛り上がるも、絶対に個人宅が映りこむので(そらそうやろ)、やっぱり写真に撮れずそこは諦めた。なるほどー、だから家の中で洗濯物も乾くしアイスクリームも食べれるんやなー、と納得。家とか店の玄関がもれなく二重玄関になってるのも、寒さ対策というか雪対策だと思う。なるほど、どんだけ冬の吹雪がすごいんだって話だ。それ見てると、道行く車も寒冷地仕様(ガソリンが凍らない)なんだろうなーと思ったり、そういや全部四駆かもなと思ったり……

こういう現実は、夏の爽やかな気候に誘われて思考回路がお花畑になり北海道に住むのもいいなーと浮ついてる自分みたいなのに、厳しい雪国の実態をつきつけてくれる。雪国というなら日本海側の地域はもれなく雪国だ。ていうか北海道は亜寒帯、ロシア(シベリア以外)か、アメリカの北半分(雑な分類すると)とかと一緒。

冬は外にバナナ置いとくと釘が打てる。らしい(?)。雪が積もっても中途半端にとけると凍る…?うーん、10℃下回ると真冬が来た!とか言って騒いでるうどん県民には想像つかない。

 

 

小樽の寿司

高齢者に、旅のポイントをまとめてもらうと、

・試合観戦が第一

・第二の目的は北海道ならではの海鮮を食べたり買ったりしたいとのこと。

したがってお寿司屋さんへ行くのはこの旅行のメインイベント(違)。

なんで小樽はお寿司がおいしいのか、そんなの札幌でも食べれるじゃないかと最初は思ってたが、どう見ても小樽の方がおいしそうでしかも値段が手ごろ。小樽には市内に漁港が3つもあって、新鮮な魚介類がリアルタイムで手に入るから、らしい。

漁港があるということは市場がある。

市場があるということは場外市場があるに違いない!

という高齢者の意見で、2日目のメイン目的地は場外市場に決まった(食べ物ばっかり)が、お寿司屋さんだけでもホテルから歩いて行ける距離にだけでもいくつもあったので(市内に約100件あるらしい)、その中の地元の人が行きそうな小さな店に行ってみた。

観光客がメインの客層のお店は、概してろくな品質の料理ではないから(持論)。

 

小樽の、宿から歩いて行ける範囲にもいくつもある。全部、カウンターの店構えのいわゆる回らないお寿司屋さん。

すごすぎない?

回らないお寿司屋さんだけで市内(の中心部?)に約100件ですって。人口規模はウチの住んでる市の隣の市くらいだというのに。どうなってるんだ。いっそここに住んでお寿司屋さんを軒並み制覇したい。それが無理なら一軒くらいうどん県にお持ち帰りしたい(無理)。

まあしかしお料理というのはその土地の風土の中で食べるから美味しいし、味も引き立つのであって、一軒お店をお持ち帰りしたからどうなるとかいう問題ではない(だから無理)。

 

通された席は常連さんじゃないからか?カウンターではなかったがお寿司は最高だったので記念写真。


上から
カンパチ、マグロ、生ボタンエビ、ホッキ貝、サーモン

ホタテ貝、卵焼き、イカカズノコ、アワビ

シャコエビ、ズワイガニ、ウニ、カニみそ、イクラ

※汁物として土瓶蒸し付き

これで1人3500円。

 

もう一回言おう。

すごすぎない?

何がすごいかって、(いつも美味しいお料理が出ても絶対に美味しいと言わないでなんかツッコミを入れる)高齢者Aが、店員にお礼言ってベタ褒めしてたくらいにはすごい。

お寿司屋さんもほかにも色んなお店があるだろうし、海鮮料理もお寿司以外にもいろいろなお店があったと思う。しかしとりあえずお寿司屋さん行って気に入っていただけたようなので自分は一安心なのだった(byツアコン業者)。

 

後で市内を散策すると、観光客向けの海鮮丼屋さんがたくさんあったけどそういう所はイヤだという。なぜ?出されるネタのランクが落ちてるに違いないから、だそうだ。

ほんとめんどくさいな……(byツアコン業者)。

 

 

小樽の宿

千歳空港から約100キロ、一時間余りのところに小樽はある。

……こういうちょっとした移動ですぐ100キロになるのが盲点です。それに、目を皿のようにして探さないとガソリンスタンドもすぐにはみつからない、というのもあながち嘘ではない。

空港からは高速だったけど、ほかにも全部道路は延々直線で、信号間、交差点間がすぐ3キロとかになる。色々感覚がバグってくる。そんなこんなで注意力散漫になりがちらしいので、運転手の高齢者Aに一生懸命コーヒーとか休憩とか勧めるも「いらない」の一点張り。そこで意地張ってどうする?飛び出してくるのは子供とかだけじゃなくて鹿とか動物もいるんだぞ。余裕もって運転しなきゃ。

 

ホテルの駐車場は早い者勝ちの限られた枠だったけど、とにかく空港から直行したので無事ゲット。その枠は3泊4日の間使えたので後々ありがたかった。

ただ、行って見るとホテルは小樽運河沿いの眺めのいいところなのだが、まわりに不自然に駐車場が多い、気がする。その付近は運河としての役目を終えてから土地の使い手がいなくなり、しかし観光地としての駐車場の需要は高い、というところか。

 

ホテル自体はレトロな内装で落ち着いた雰囲気のすてきなところだった。

ロビーの置物も19世紀ふう。

今回の自分のツアコン業者としての功績はここに集約されるのではないか。高齢者たちが超気に入ってくれたので。そりゃもう設備からコスパから何から何まで徹底的に調べ上げましたし……ツアコン業者としてここが一番大変でしたけど高齢者たちにご満足いただけて何よりです……(ほんとに仕事みたいになってきた)。

 

宿に使われてる建材が周辺の運河に使われてる地元産の石材と揃えてるのか、それを模した外観なのか街並みに溶け込んでて統一感があった。

上記のとおりロビー、お部屋のインテリアも落ち着いた色の家具調でまとめられ、各部屋にはアンティーク調の内装の家具や照明がそなえつけられてる。水回りも綺麗できちんとしてる(そこ大事)。部屋からの眺めは運河が一望できる高層階だった。

ただ実際の木材の家具だったから年季が入ってるふうだったのは否めない。

そこをぼやいてた高齢者たちも(実際そこは問題じゃない)、広くて豪華な大浴場があったので、温泉宿じゃなかったけど観光の疲れはお風呂で癒せたようで、超満足だったみたいだ。

 

しかし高齢者たちにこの旅で一番好評だったのはここのホテルの朝食バイキングだった。(なんでそこを気にしてるのか?それはこの旅のツアコン担当は自分だったからでして)

いやほんとレベルが違った。

新鮮なパリっとした生野菜(地味にそういうとこは中々無い)がずらっと並ぶサラダコーナー。味噌汁のネギも綺麗。

お米のごはんが美味しすぎる。

みんなのお目当ては海鮮丼だったと思うが、お刺身の品質は言うまでもなく。またここに限らず、サーモンがどこで見ても最低でも1センチの厚さで驚く。ブロックで流通してるってこと?

塩辛その他ごはんのつけあわせ、和風のお惣菜、どれも種類豊富で味付けが本格的、さすがホテルというところか?牛乳も地元産らしく、おいしい。

さすが食材の宝庫たる北海道の面目躍如。ラインナップがすごすぎた。刺身にしか目がない高齢者Aと違い、高齢者Bと自分はいつもおかずとか料理作ってるだけあって、和風総菜の味にはシビアだがどれも美味しいということで意見が一致したので。

洋風のからあげとかウインナーとかもあったけどそこを目指す人はほとんどいなかった。そりゃそうやろ。

ミニケーキとフルーツも充実、そこは個人的に外せない。

手ごろな値段で泊まったところにしてはサービスも含めてすばらしく、快適に滞在できたので特にここに書いておく。

 

※ ↓ 泊まったところ

【公式】ホテルソニア小樽 - 小樽運河沿いにあるヨーロッパ調のホテル

 

 

2日目 小樽の街並み

海産物の卸市場と観光客

今回の旅のメイン目的は海鮮の食事と市場での買い物(←←違)。

というわけで市場といえば朝から営業?というイメージから、場外市場に行ってみた。市場はどうやら一か所ではなく分散してるらしい。でも自分たちが想像してたような観光客相手の店が立ち並んでにぎわってる場外市場じゃなくて、ほんとの地元民が日常的に食材を買い出しに行くような、スーパーの海産物売り場とそう変わらない雰囲気のところがほとんどだった。その証拠に観光客の姿はそこでは一人も見なかったから。

しかし置いてるものが、いちいちすごい。

イクラ筋子、まとまった量の生ウニ、殻付きのホッキ貝とかホタテとか牡蠣、サーモン刺身の大きな短冊、水揚げされたばかりのヒラメ?その他多様な鮮魚、ホッケとか貝柱とかの上質な干物、それから生け簀で泳いでる毛ガニ、……数えるときりがない。

こういうところで買い置きしておけるなら、食卓はものすごく豪華になるにちがいない。

自分の脳裏からは一瞬冬の寒さと積雪という一年の大部分を占める要素が抜け落ちて、

『こういう地域に住めば、……お寿司屋さんとか通わなくても日常的においしい海鮮が食べられるのでは…?ウチの地元のうどんがおいしいとか比べ物にならないレベルで、格安に豪華な食材が手に入るのでは…?』

という考えに一時取りつかれたのだった。

しかし我に返って考えてみた。自分は寒さに致命的に弱い以前に、冬季の燃料代がすごいことになる事に思い至り、経済力もないのに軽率にこういうとこ住みたいなーとか思いつくのはやめることにした(そりゃそうやろ)。

 

しかしお店のおじさんがぼやいてた事がなんとなく耳に残る。

そういやこの後回った小樽市内も外人、つまりアジア人がほとんどを占めてたように思うのだが、市場のおじさんも「日本で売るよりアジアの他の国のほうがよっぽど高値で売れるから、質のいいものは全部外国へ流れて、国内に流通するのは下等な品質のものだけ」と言っていた。

 

それに、北海道という有名観光地に来るのが外国人ばかりということは?

日本に来れば他の国より格安に旅行できる物価の安い国とみなされてる(実際そうなので)ということだ。

そうつぶやいて市場のおじさんはため息をつき、高齢者Aも「そういうことやな」と言ったきり黙って向こうへ行ってしまい、あわてて自分は後を追った。

結局この場外市場では地元の人向けのなまものしか扱いがなくて自分たちはあまり買わなかったのだけど、

 

小樽の町は有名観光地だから札幌と同様に外国人の姿が大部分を占め、自分はその日ずっとおじさんの言葉をわだかまりのように胸の片隅に置きながら回ることになった。

しかしその後楽しくて暗い影はしばらく忘れてたけど。

 

 

近代建築遺産

さて、小樽は運河が観光地として有名だ。

運河にレトロな倉庫が残ってる景観が有名らしい。観光雑誌とか観光サイト、TV番組でも取り上げられて有名だ。そのくらいなら自分でも見かけたことがある。

 

街並みを散策してみるとこういった堅牢な造りの豪商の倉庫街がずらりと並んでいる。どれも明治時代からの遺構ばかり、当時の繁栄をわずかながら伝える建築というところだ。



こちらは日本郵船の旧小樽支店。

当時の運河の海運を一手に引き受けていたようで、広大な船溜まり跡地を伴っていて、当時の繁栄が偲ばれる。



というわけで、観光名所であるそれらの街並みと倉庫街をながめられる小舟でガイドさんの解説を聴きつつ運河をめぐるクルーズというのを予約してたので、40分ばかりの船旅に出た(大げさな……)。

その間、にわか雨に出会って全身びしょ濡れからの、舟のガイドさんが簡易合羽を配布してくれて難を逃れるっていう事件はあったものの。

綺麗に整備された沿岸の遊歩道もあわせて、明治時代には開発されていたという港と運河沿いの倉庫街を高齢者と一緒に、また同乗の観光客と舟で楽しく巡ったのだった……

 

近くにはレトロな街並みを利用した、観光客向けの商店街もあった。ただ暑すぎて高齢者には気候がきびしく、また混雑しすぎててあんまり回ることはできなかったけど。


(単なるスマホでの撮影のためポートレートにすらなってない写真ですいません)

しかし自分は、上記の倉庫街を眺めながら、この町で育った作家の事を考えていた。

小林多喜二だ。

(小林多喜二 - Wikipedia )

彼は1924年小樽高等商業学校(現在の小樽商大)を卒業後、その後小樽の北海道拓殖銀行に就職している。(伊藤整も学生時代には彼と同窓生だったのだが、自分はなんちゃって社会主義者のため、視線は小林多喜二に不自然に偏っているがご了承いただきたい)

言わずと知れたプロレタリア文学の作家で労働運動へ参加し、治安維持法で逮捕され29歳で命を落とした。

 

ここに並ぶ倉庫街と小樽港の近代化に伴う経済的発展。

それは明治時代に端を発する開拓、札幌と小樽のインフラ整備(鉄道とか金融とか)によるものだったけど、それを牽引してたのは当時でいう所の資本家だ。彼らは財閥として明治政府から格安で工場や施設などの払い下げを受けたり、あと日清・日露戦争第一次世界大戦の戦争需要によって大きく事業規模を広げたものも多い。戦争需要とは武器や兵站の需要で、要するに死の商人だ。

運河沿いの写真の下側、手前に見える白い壁は、渋沢倉庫といって渋沢栄一が関わっているらしい。なるほど、権力者だなあと思って自分は素通りした。

明治時代の労働者の環境が劣悪だったのはいうまでもない。

ここ小樽でも港湾の労働者、冬季の馬ぞりの荷役とか、はしけで荷を船から運搬する労働者たちは住環境もふくめて不衛生かつ不健康な条件下で働いていたようで、もちろん労働基準法もない時代だからたぶん使い捨てのようにして物のように扱われていたらしい。

はしけ舟の船溜まりは、雇用主である日本郵船支店の目の前に跡地が広がっている。

小林多喜二はそんな労働者たちを見て育ち、長じて労働運動に身を投じたようだ。

 

 

それから鉄道と並んで小樽に甍を並べた(いうても瓦屋根じゃないけど)のは金融機関だ。日銀小樽支店を筆頭に、写真のような名だたる銀行や証券会社が(多い時は19軒)並んでいたらしい。人呼んで北のウォール街。なるほど?旧日銀の建物はそのまま、日銀が管理してるのか?金融資料館みたいになって見学自由だった。

商品によっては、当時の世界市場の相場を握っていたものもあったという。どんだけ。

 

ただ彼ら金融機関も業務の取引先はあくまで資本家、つまり労働者を搾取する側だったということに変わりはない。

北海道拓殖銀行がどの建物なのかよくわからなかったけど、小林多喜二はその後東京で特高警察に逮捕され亡くなっている。(この街並みを利用した中に小樽文学館なる施設があったが、自分も元気が残ってなくてそこは回れなかった)

 



小樽港が繁栄していたのは、はしけ舟つまり大型船から荷下ろしする舟が活躍してたころまで。その後大型船が接岸できる埠頭が港に整備されると、はしけと運河は役目を終え、現役で使われることはもうない。

当時の繁華なようすを今に伝える石造の建築群だけが残され、栄華の一端をわずかながら物語っている。

 

 

3日目:インターハイ

旅行の主目的はこの日の応援だったのだけど、ここに書くと内容も写真も含めてがっつり個人情報なのでそこは置いといて、自分のこころのつぶやきに留めたい。

この日のメイン行事は応援だから、午後の試合だったけど朝からかけつけて、他校の試合も観戦して参考にすることにしていた。というわけで周りに飲食店もない中、あるのはセイコーマート!というわけでそこでお弁当を買ってみるのがこの旅行の最大の目的(違)!

といいつつ、行ってみると勝手がわからずに平凡なお弁当を買ってしまうのは観光客あるあるだ。メロン味とか?限定品のアイスとか売ってたらしいが、そういうのを探す気分的な余裕がなかったのでさっさと試合会場に向かった。というか試合会場にたどり着けただけでも自分の仕事は終わったようなものだ(違)。

 

札幌市の隣の石狩市、沿岸部の防風林の中に広がる工場地帯と点在する住宅地の中に試合会場はあった。

その競技の日本代表が毎回合宿に使うくらい、選手たちの間ではメッカとして有名らしい。なるほど、サブグラウンドと主グラウンドに分かれてる。まわりにも広大なフィールドが広がってて、何校集まってもウォームアップも練習もし放題である。ただ、試合前の練習は他校を借りることができたらしいけど。ありがたいことです。

試合の運営もたぶん地元の、同競技の高校生の部員が無償ボランティアでスタッフをやってくれていた。こういうアマチュア大会における生徒の労働力搾取はどうにかならないのか、とまた自分はなんちゃって社会主義者ぽい思考回路に陥っていた(めんどくさいな)。

 

他の試合は次々と大差の点でコールド試合が決まっていく。その勢いにおののきながらいざ男子くんの出る試合が始まったのだが例にもれず同様に大差の試合となったのだった。

そんなことは全国大会あるあるで、上位校は代表に食い込もうかという選手も混ざる中、みんな県代表として鍛錬を積んできたのだからそうそう通用するわけもなく……

それよりもやっぱり応援で誰よりも張り切って気合入ってたのは、ウチの高齢者(と自分)だった。

なんか偶然全国大会出れたから応援に来てみたの、がんばって♪♬っていう、のんび~~りとフィールドを無言で眺めてる他の保護者を差し置いて………

 

ことあるごとに大声で激を飛ばし、目を血走らせて(?)試合の成り行きを固唾を呑んで見守る高齢者ふたり。

そういや自分もスポ少時代はずっと応援に張り付いてたことを思い出し、要所要所で応援の声を上げた。

静かな応援席に自分らの声だけが響き渡る。

なんなの!?とビビッてドン引きするほかの保護者。

《………いやいや応援しようよ!君ら何のためにここまで出てきたの、一緒にやろうよ!》

って口に出してほかの保護者の肩たたいたり……はしなかったけど、しかし熱血ガチ応援はウチらだけであった。

騒がしいだけ?

いや、応援した方が、選手らはきっと心強いと思うよ、甲子園の応援団見てみなよ、絶対効果あるって……

 

まあ第一には選手の実力がものをいうのではあるが、しかし応援が選手の背中を押すことは、心理的に考えてもまず間違いないのだ。

積んできた練習量が圧倒的に違うのか、ウチの校風がのんびりしてるからか?試合の結果は大差の点数だったけど、当の選手たちはやりきった感があったので、自分も応援は精一杯叫んでたので、満足?ではある。

※応援席は芝生で、観客も保護者もまばらに散らばり、密集した応援ではなかったことを追記しておく。

 

 

このあと札幌市内のサッポロビール博物館を見学して、隣接したレストランでジンギスカン料理を食べよう!っていうのがツアコン担当の自分のプランであった。

しかし試合が長引いたのでビール博物館は省略することにしてさっさとレストランへ向かったのであった。

そんなわけで、移動中に見ようと思ってた地平線まで続く道と農場とか、道端でエゾリスとかキタキツネに出会うとか、そういうなんか北海道らしいことっていうのができなかったのは心残り。

試合が長引いたからなのでそういうのはやむを得ないのでいいんだけど。

 

車窓観光的に、サッポロビール博物館で外観だけ撮ってみた。手前のビール樽には、右から縦、かつ斜めに読むと麦とホップを製すればビイルという酒になる」という標語?がかかげられている。なるほど~。

 

さてその後、博物館に隣接するなんか良さげな綺麗なレストランを予約してたので、このレンガの建物をガラス越しに眺めながらジンギスカンを夕食にいただいたのだった。

そこは高級店ぽいしお客さん少ないんじゃない?ほんとは予約なしでもいけるやろと、たかをくくってたけど甘かった。200万人規模の都市札幌を甘く見てはいけない。みるみるうちに満席になって店を出るころには行列の待ち列ができていた。まじですか?

ここのレストラン自体は綺麗なところで、お料理もきちんとしてて美味しかったのでたぶん高齢者たちには満足いただけたんじゃないかな。とツアコン担当としては気を揉んでいたけど。たぶん大丈夫。

………あーほんとツアコン担当としてはどうなることやら心配しかなかった。

試合応援より、ほんと予定が円滑に運ぶのかそれだけが問題だった(ほんとに)。

 

 

4日目:札幌ラーメン

空港はサバイバルの場

ゆったりと日程を組んだので、最終日は移動日としてくらいしか予定はなかった。空港へ帰る途中に、札幌卸売市場の場外市場に寄ったくらいだ。またしても場外市場?しょうがないです、高齢者の指示によるものなので。

しかし実際には小樽で目当ての買い物はできなかったらしく、高齢者はここで目的の海産物を購入してたので、ちょっとは意味はあったかもしれない。

そうして札幌から空港まではちょっと50キロの道のり、こういうちょっとした距離にびっくりするのだけど、とにかく空港からめっちゃ離れた辺鄙な場所にあったレンタカー業者の事務所にも無事到着して一安心だった。ここに着く=飛行機の便に間に合うのと同義語だからだ。あとは自分で運転して道に迷ったりすることももうない。

しかし、試合の応援に来てた保護者も、ほぼレンタカーだったかもしれない。ナンバープレートのひらがなから推察するに。そりゃそうだろうなあ、現地行って見たら試合会場近辺には路線バスも走ってなかったし。空港だけじゃなくて、苫小牧ナンバーのレンタカーも多かったのは、カーフェリー勢かもしれない。それも一理ある、寝てる間に着くから時間はかかっても旅行の日程としては合理的だ。ただうどん県からはその選択肢がなかっただけで、フェリー使える人うらやましいなあー。

 

そして空港にたどり着いたのはいいのだが、そこからが凄かった。夏休みの日曜日だったというのを忘れていた。

まずここでお昼時だからご飯食べてから搭乗しよう!って言ってたのが甘かった。

ターミナルビルの中はお土産店も飲食店も、というか通路に至るまで歩けないくらいの人の波。おみやげをあらかじめ買っておいてヨカッタ。こんなんじゃ買い物にもならない。

しかし飲食店もどこも10人以上の行列で飛行機の便にはたして間に合うのか?という問題が浮上する。そのへんで並んでるインハイ帰りらしい学生もみんな同じことを言ってたけど。なんで飛行場でごはん食べるのに行列なの?と、高松空港しか慣れてない自分には色々想定外だった。

普段からこんな調子なのだろうか、そこにインハイを招致したのは何かの間違いなのでは、そんなのお客さん捌き切れるわけないじゃん、とこの理不尽な状況にふとそんなことが頭をかすめるが、ラーメン店に並んだのでたぶん間に合うだろう、たぶん。

 

この人波の流れが行きつくところで偶然並んだラーメン屋さんに入ってみたら、そこは札幌ラーメン(太いちぢれ麺にバターの乗ったスープ?)の店だったのだが、当たり前ながら。時間に急かされながらもそこで食べたラーメンは、めっちゃおいしかった。

 

後日、帰省してきた妹たちに解説させると「そうゆう飲食店街の〇〇横丁的な店の配置は、入り口にある店がいちばんおいしいからそこに入ったのは正解」だそうで、なんか知らないが当たりの店に入ったらしい。そんな〇〇横丁で食べたことないのでシランカッタ。

ていうかそのラーメンがおいしすぎて、麺もスープもすばらしすぎてやっぱり家に帰ってからはしばらく何も食べたくない症候群だった。だって何見ても比較にならないんですよね(まじで)。ラーメン屋さん入ろうとか絶対思わない、中途半端にお店入るくらいならインスタントラーメン食べる。

 

さらに手続きに延々と手荷物窓口に並びつつも。

予約してた便は機材管理の都合でお約束の遅延になりながら、天候的には恵まれてて無事に飛び立った。自分が心配してた胴体着陸とか緊急避難とかにもならずに、無事に帰ってこれたのだった。あくまでそこは心配性。

 

そういえば書くのを忘れていたが、高齢者たちは結婚〇〇周年記念の旅行だったらしい。それもシランカッタ。まあ偶然手配してたのはお食事も高級店?だったので良かったのだけど、それは単なる偶然ともいうwww。

男子くんはそれから1日遅く、ついでにエスコンフィールドでプロ野球観戦もしてきたらしく機嫌よく帰ってきた。自分らの試合は?まあ全国大会だもん頑張ったよね、らしい。うんそうだねっと言っておいた。

修学旅行がコロナの影響で「四国から近県にまとめられてて地味だった」たしいので、彼らには今回のが旅行って感じで盛り上がってよかったらしい。なので根掘り葉掘りどうだったか尋ねるのはやめた。友達同士で楽しかったらしいからそれでいいじゃん。

 

とにかく往復飛行機と、レンタカー運転という交通手段のなかでトラブルなく帰ってこれたことが最大の収穫なんじゃないでしょうか、ツアコン担当としては。

それは選手たちも同様で。

 

自分は、個人的には、一人でもまたそのうち絶対に、こんどは混雑しないころの7月?に、絶対北海道行きたいなー旅行するなら北海道以外ありえないよねー?と思う。

当面、がんばって働こう……

 

 

 

 

 

 

 

 

シルクロードー後編:正倉院展

 

★★この記事は日本史はさっぱり分からない人の想像です。

★★単なる個人的な想像であり、根拠となる説や論文はとくにありません。

★★なんとなくで読んでください。

 

この記事は2022/10/29、正倉院展を見に行った感想です。

前編として、午前中に法隆寺を見に行った感想を書いたのでそっちを読んでからこの正倉院の感想を読むことをお勧めします。前後編で補完し合ってますので。

 

 

目次:クリックで各項目へ飛べます

 

 

 

東大寺周辺

午前中に法隆寺、午後に正倉院展と駆け足で観光したので、奈良公園とか東大寺周辺は回る元気がなく、合間にゆっくり喫茶店でお茶を飲んでおりました。というか東大寺には入らず帰ってきました。すいません。

申し訳ありませんが、コロナ流行前の2019年に正倉院展に行った時の東大寺の写真でお茶を濁しておきます。

 

この門は転害門(てがいもん)といって、三月堂(=法華堂)と共に東大寺に残る数少ない奈良時代の遺構。なぜなら12世紀の南都焼き討ちで、興福寺などと共に、東大寺の古くからの伽藍は大部分が焼失したからだ。

転害門は東大寺の敷地の西側に伸びる佐保路に面して建つ。8本の柱が支える堂々とした構えは、見る者に天平時代のおおらかな雰囲気を伝えてくれる。

 

大仏殿も撮ってみた。しかし大仏殿周辺の敷地には入らないという偏屈者なオタク。

だって大仏殿と大仏は後世の再建でしょ?

しかし昭和になって、大仏殿の台座から

「陽寶釼(陽宝剣 よう(の)ほうけん)」

「陰寶釼(陰宝剣 いん(の)ほうけん)」

が発見され、正倉院宝物の目録にはあるものの出庫の付箋がつけられたまま行方不明だったものだったとわかるなど、ドラマの舞台として話題には事欠かない場所である。(ニュース記事:東大寺大仏の足元の剣、正倉院の宝物と判明 )

 

あの時(2019年)は、紅葉がきれいでした。

 

 

 

正倉院とは

今回のお目当ては正倉院展だ。

(というか自分が奈良に行く目的は大体が正倉院メインだ。)

 

若草山のふもとに広がる広大な敷地に、東大寺興福寺春日大社などの大寺院や神社が甍を連ねる奈良公園

ご神獣とされる鹿がそこかしこでのどかに草を食む。無邪気にじゃれあう子鹿、切り落とされた角で闘っている(?)雄鹿。

その敷地の一角に静かにたたずむ奈良国立博物館

正倉院展は、国立博物館の新館で毎年2週間だけ10月下旬から開催されている。今年はコロナウイルスの影響で時間指定制になっていたせいか、いつも入場するときに長蛇の列に並んでいた行列が、三分の一くらいの長さになっていた。

渋滞とか行列は大っ嫌いな自分だが、ここだけは観念していつも並ぶ。並んででも入ってみたい博物館は正倉院展だけである。

 

惜しむらくは、単眼鏡を買い忘れていたことだ。宝物の精緻な文様をくまなく観察しようとすると、拡大して見れるグッズは必要不可欠。ほかの博物館でも言えるかもしれないけど。また今度Amazonで探してみようっと。

ちなみに、観覧しやすいように毎年工夫を凝らしてくれていて、3~5メートル四方はあろうかという巨大な紙?に宝物の写真が印刷されたものがあちこちの壁に大きく貼りだされ、ほんの指先程度の大きさしかない宝物も詳細な文様や色彩がはっきりわかるようになっていた。単眼鏡を忘れた自分みたいな人にもよくわかる、親切な仕様。

 

しかしなんで自分は毎年これだけのために奈良に行ってるのか(コロナ流行の間を除いて)。

国宝級の宝物なら、他の国立博物館宮内庁図書寮などの収蔵品、あと徳川美術館源氏物語絵巻とか、色々ある。

それらと正倉院宝物の違いは何なのか。

 

 

正倉院って、そもそも何なの?

というわけで基本的な事を書いておく。

知ってる人はスルーしてください。

正倉院というワード自体はかつては一般名詞であった。寺院や官庁に建てられた倉庫を正倉、それらがある一廓を正倉院と呼んでいたが、現存する正倉は東大寺のもののみとなり、ここにおさめられた文物を特に正倉院宝物と呼ぶようになったらしい。

 

唐招提寺に残る宝蔵と経蔵。奈良時代から残る校倉造の数少ない遺構のひとつ。

 

 

では東大寺正倉院宝物とは?

ざっくり言えば、奈良時代756年、聖武天皇77日忌の法要に際して、光明皇后が遺品を東大寺へ奉納したのが始まりということになっている。大筋は合っているだろう。

 

収蔵品はそのほかにも、来歴でいえば

東大寺大仏の開眼会に使われた品々

東大寺で普段から実際に使われていたもの

・あとの時代になってから追納されたもの

・その他来歴が分からないもの

と多種多様に分類することができる。

また、用途、材質、産地などと分類していけば収拾がつかなくなるほど宝物の性質はさまざまである。

 

江戸時代までは朝廷管轄のもとに東大寺が管理してきたが、現在は宮内庁所属の正倉院事務所の所管になっている。(公式サイト:正倉院 - 正倉院 )

(画像リンク:正倉院 - Wikipedia )

 

 

正倉院宝物の特徴とはなんだろうか。

・最初の奉納の際に東大寺献物帳という目録があり、また歴史書に記載があったりして宝物の由来がはっきりしているところ。収蔵品のプロフィールがこれほどの規模で公的に証明されている宝物群は他に類を見ない。

・また、奈良~平安時代のものでありながら、同時代のものには遺跡からの出土品が多い中、一貫して宝庫で厳重に保管された伝世品であり、非常に状態が良いこと。

・宝物の数は同種のものもカウントに入れると9000点を超えるが、このような来歴のものがそのスケールでまとまった形で保存されていることで、文化的にも歴史的にも重要な意味をもつ。

また正倉院文書の存在もこの宝物群を特徴づけている。

 

 

毎年この展覧会は非常に混雑するが、それは会期が非常に短いからだ。それは秋の宝物の点検、研究と曝涼にあわせて出展しているからであり、あくまで公開期間は宝物の管理保全過程の一環に過ぎない。

そもそも、織物や漆器、ガラスや工芸品など繊細な宝物が長い年月の保管に耐えたのは、高床式の建築物に勅封という厳重な管理体制のもと、辛櫃にきちんとおさめられ日光や外気、湿気の影響を受けにくい状態で保管されていたからだ。いまは空調設備のついた建物に移されているといっても、展示室で照明に当たると褪色や劣化の原因にもつながる。

博物館や美術館の収蔵品の、一般公開と保管という命題はずっと相容れないテーマだ。

 

宝物の劣化や紛失というリスクを冒しながら。

また文化財の調査・研究と並行して。

美術館・博物館が広く一般社会に向けて、平易な解説を加えて系統的に宝物を公開してくれる機会というのはありがたいチャンスなのだ。生涯学習とはよく聞くワードだが、こういったそれぞれの道の専門家が専門的な題材を用いて実際に解説してくれるという機会を逃す手はない。

正倉院の所蔵する宝物の数に対して、一年に1回の公開なのに展示数が少なすぎるという声を聞くが、それぞれの宝物、一つの文様取っても本が1冊書けるくらいなのに、自分としては宝物の展示数は今のでも多すぎるくらいである。解釈が追いつかない。

 

最近デジタル化が進み、博物館で毎年買える図録以外にも、出展される宝物は公式サイトで解説とともに主なものの画像が公開され、また図録は民間の出版社から抄録という形で出版されている。(また収蔵品は全て正倉院公式サイトに解説が載り、文化庁のサイトでも国宝については解説と写真が見れる。)

そういったかたちでも楽しめるのだが、前編でも述べた通り、現地に行って現物を見るという体験はこれ以上ない感動を与えてくれる。時間と交通費を割いてでも、本物の存在に触れるということには価値があると考える。

 

目の前で見る宝物は、画面越しで見るよりもよりいっそう質感、色彩、感触が感じられる。

刻まれ織り込まれた文様は、まるで呼吸し生きているかのような躍動感に満ちている。

 

 

 

中華世界と、唐の国際性

前編で獅子狩文、つまり狩猟文の伝来についてちょっと書いた。その背景について述べておく。

中華の世界観

日本を含む東アジアは、清の時代つまり1911年の辛亥革命までは中華帝国を中心とした世界だった。天命を受けた皇帝が世界を支配するとされ、今の北京郊外には、実際に皇帝が祭祀を行った場所:天壇が残る。つまり周囲には臣下となる契約を結んだ国家=朝貢国が並び、その範囲の外は蛮族の住む地と認識されていた。これを冊封体制という。

周辺民族の呼び方は蔑称で「狄」「夷」「戎」「蛮」などと呼ばれた。

 

※周辺異民族の例:どこまでが朝貢国でどこからが夷狄かは時代により諸説ある。

北狄ーー匈奴鮮卑突厥柔然など、万里の長城以北の遊牧騎馬民族を指す。北魏、元、金、清など、強大な軍事力を背景として中華帝国を支配する国もあった。

東夷ーー朝鮮半島高句麗百済新羅加羅、倭など

南蛮ーー南越(広州)、南詔(雲南省)、扶南(タイ)、林邑(ベトナム)、真臘(カンボジア)

西戎ーー氐(四川省の山岳地帯)、羌(青海省)、月氏(後に中央アジアへ移動)、吐谷渾

化外の地ーー長安以西、または敦煌以西の、主にタクラマカン砂漠周辺の都市国家

画像引用:中華思従 - Wikipedia

 

※周辺諸民族の例:紀元前、前漢時代の冊封体制

画像引用:冊封 - Wikipedia

 

中華圏(東アジア)の物流と文化

このように、中華世界は元来朝貢品を納められる側であり、また時代が下って唐以降は長江以南も蛮族の地ではなくなって、広大且つ多様な国土を背景に、基本的に自給自足できる経済体制を持っていた。つまり、中華世界では文化的にも世界最高水準を持っていて、かつ輸入に頼らなくてい良かったのだ。その交易は主として周辺民族との朝貢品のやり取りによる朝貢貿易がメインだった。

このことからシルクロードにおいては中国は独自の製法を持っていた絹を売ればよく、貿易は圧倒的に黒字だったと思われる。

ただ北方遊牧騎馬民族は常に軍事的脅威であり、万里の長城をはじめとする軍事費は常に国家財政を圧迫した。朝貢貿易というより中国が弱体化したときは侵入され、莫大な保証金代わりの金や絹織物と引き換えに和平を得たりした

それを除けば中華圏の周辺諸民族は、朝貢と引き換えにした民間レベルの交易により絹以外にもさまざまな文化的恩恵を享受した。字(漢字)と紙、貨幣経済(銅銭)、鉄や銅等の金属や織物など美術工芸技術、稲作や灌漑など農耕技術、政治や法律制度、仏教や道教などの宗教、例を挙げればきりがない。

 

 

交易の担い手としての胡人とオアシス都市国家

また西方のタクラマカン砂漠以西の諸国家、そして北方遊牧騎馬民族の諸国家は中間貿易により空前の利益を上げるのである。今でいう商社の役割というか、末端の需要・利用者へ届ける過程で仲介業者の役割を果たし、そして運送業としても機能した。末端の購入者は古くは東ローマ帝国ビザンツ帝国、そして地中海を経てヨーロッパ世界へつながっていたのだ。

 

例:代表的な仲介業者的民族といえば、ソグド人がいる。( ソグド人 - Wikipedia )

下の地図のイランの上あたりのサマルカンドが彼らの本拠地ソグディアナ。パミール高原から流れ出すシルダリヤ川とアムダリヤ川に挟まれたこの地は古くから交易路の要として隊商が行き交い、また幾多の国家が興亡したまさに文明の十字路、のちにイスラム国家が支配するに及んでサマルカンドは「世界の中心」とも呼ばれた。

(地図は拡大できます、PCはクリックしてください)

 

ソグド人は高い鼻と彫りの深い顔貌を持ったペルシア系民族で、特に中国では胡人と呼ばれた。彼らは隊商を組んでインド、バビロニア、アラビア、ペルシアなどから東は中国まで往来して広く交易に従事した。中国では、それらの胡人がもたらすものには全て胡の字がつけられた。胡桃(くるみ)、胡瓜(キュウリ)、胡麻(ゴマ)、胡椒(コショウ)など。また中国に帰化したものも多く、唐の玄宗皇帝時代に反乱を起こした安禄山はソグド人と突厥人の混血である。

 

シルクロードの隊商路を通した中継貿易は莫大な利益を生み、砂漠と南はヒマラヤとパミール高原に挟まれた狭隘なオアシスルートには古来から都市国家が興亡した。また、北の遊牧騎馬民族からの侵略に絶えずさらされた地域でもあった。

それらの地帯は唐以降の時代にトルコ系民族テュルク族が進出したことからトルキスタンと呼ばれる。オアシス国家が興亡した東トルキスタンの概観を貼っておく。

 

 

5世紀にオアシスの道からインドへ渡った僧・法顕の「仏国記」はこう語る。

沙河中多有惡鬼熱風。遇則皆死無一全者。上無飛鳥下無走獸。遍望極目欲求度處則莫
知所擬。唯以死人枯骨爲幖幟耳。

 

沙河中に悪鬼多くあり。

熱風に遭えばすなわち皆死して一つとして全き者無し。

上に飛ぶ鳥無く下に走獣無し。

遍望極目、度るところを求めんと欲して、則ち擬する所を知るなし。

唯死人の枯骨を以て幖幟となすのみ。

北宋本「法顕伝・宋雲行記」長澤和俊訳注 東洋文庫194 より)

 

この沙河とは敦煌から楼蘭王国間の白竜堆を指す。( 白竜堆砂漠とは - コトバンク ) 強烈な風に浸食されたヤルダン地形とよばれる砂漠が広がり、まさに、当時は見渡す限り人影も目指すべき道しるべもなかっただろう。

画像引用:敦煌ヤルダン国家地質公園 - Wikipedia

(位置参照:敦煌雅丹国家地質公園  https://goo.gl/maps/MibhLAD4z5S9X7Co7 ) 

 

陸のシルクロードタクラマカン砂漠で南北に分かれ、また天山山脈の北に広がる遊牧民の国を行く草原の道もあったが、いずれにしても長安から敦煌まで点在するオアシス都市を過ぎたあとは、その後は「生きては帰れない」という意味のタクラマカン砂漠が茫漠と広がるのみだった。

砂漠に点在するオアシス都市の間を、盗賊や戦乱の危険に脅かされながら水や食料、そして交易品を満載して隊商が行き交った光景は、遠い歴史の砂の中に今も埋もれたままである。

画像引用:タクラマカン砂漠 - Wikipedia

 

正倉院にのこる宝物群は、時代が降るものもあるが、奈良時代のものに関しては多くが西方の彼方から、西域のオアシスを経て遥々招来されてきた背景を持つ。

 

では具体的に、どういったものが伝来されて正倉院に遺されているのか考えてみよう。

※正確にいうと草原の道、そして海のシルクロードはオアシスの道とは歴史、交易品を異にする。ここでは主にオアシスの道にそって触れていくことにする。

 

 

文様の伝来ーー唐草文様

たとえば。法隆寺の瓦には、丸瓦の間の横長いほうに唐草文様が見える。白鳳時代のおおらかで古風な文様。

さらに、時代が古い若草伽藍の瓦の破片も法隆寺には展示されていて、文様を見ればその文物の来歴、時代がおおよそ比定できるという意味で文様の解析は重要だ。

 

 

 

東大寺三月堂の瓦。たぶん天平時代かもっと後かも。

 

 

 

唐草文様はツタ、スイカズラ(忍冬文)、パルメット(ナツメヤシ)などの文様を組み合わせた文様で特定の植物を指すわけではない。

さらに花鳥文、鳥獣や海獣文を配したり、下記の文様に見られるような唐花文と組み合わされたりした。

 

 

たとえば今年出展の漆背金銀平脱八角鏡。

技法は文様をかたどった金銀板を置きその上に漆塗りした後、文様の形に漆を剥ぐという凝った造りである。周囲に鳳凰などを配しながら、優雅に唐草文が散らされている。

 

ほかにも正倉院にある鏡の装飾は端正華麗で見事なものが多い。

 

この鏡は背に銀を貼り花鳥文が入った宝相華唐草が彫り込まれ、地紋は魚々子文様という粟粒をまいたような点描で埋め尽くされている。

この鏡の周囲には下記のような五言律詩が刻まれていて、その内容から、また鏡の装飾技術からも唐製ではないかと言われている。

 隻影嗟為客  隻影客たるを嗟(なげ)き
 孤鳴復幾春  孤鳴復(また)幾春ぞ
 初成照瞻鏡  初(は)じめて照瞻の鏡を成し
 遙憶晝眉人  遙かに晝眉(がび)の人を憶う
 舞鳳歸林近  舞鳳は歸林近く
 盤龍渡海新  盤龍は渡海新たなり
 緘封待還日  緘封して還日を待ち
 披拂鑒情親  披拂して情親を鑒(うつしみ)ん

【大意:長く異郷の客となり、額を奏でても孤独なまま幾年が過ぎたことか。初めて鏡を作り、故郷の佳人を遥かに思う。鳳凰は近しい林に帰りゆき、龍は今や海を渡る。鏡を封じて私も帰る日を待ち、再会の日には開いて二人の思いを映しだそう。】

 

 

歴史を振り返ると、鏡は古代中国で作られたものが早く漢時代には日本に伝わっていた。

例えば宗像神社の沖津宮、京都は天橋立のたもとの籠神社には、それぞれに宗像氏、海部氏が伝世してきた漢鏡が残っている。

沖ノ島の奉献品|世界遺産「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群デジタルアーカイブ

宝物|丹後一宮 元伊勢 籠神社(このじんじゃ) 奥宮 真名井神社(まないじんじゃ)

 

鏡は姿を写すという性質上、祭祀や魔除けとしての役割からか、権威の象徴か、漢鏡は古墳からも数多く出土しているのは周知のとおりだ。

また貴人の姿見として、奈良時代にあっては寺院の装飾・鎮壇具として用いられ、正倉院宝物にも多くの鏡の名品がある。由緒から見ても正倉院に遺っている鏡は、どれも宮中で用いられ、また聖武天皇の遺品として納められたものとしてふさわしい威容をを誇る。

 

正倉院の宝物に見られる唐草文様は例を挙げればきりがないが、代表的なものとしては銀薫爐(ぎんくんろ)がある。銀をろくろによって球形に成型し透かし彫りするという技法も素晴らしく、またのびやかな唐草文と鳳凰・獅子が躍動する、古代のおおらかな作風を今に伝える名品だ。
※公式HPの解説:https://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures?id=0000010552&index=22

 

・銀の工芸品とそれに見られる意匠

唐草文ではないが銀細工で今年出展されていたものに、銀壺がある。花鳥文の合間は魚々子文様の点描がびっしり打たれていて、その中に大きく動物と狩猟する貴族が描かれる。貴族はここでも騎馬に乗り、後ろを向いて矢を射るパルティアンショットのポーズを取っていて、そのためこれも唐製かなあと思ったりする。パルティア=安息国から受け継ぐサーサーン朝の流行はここでも色濃くみられるのである。

※公式HPの解説https://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures?id=0000014204&index=51

 

 

このように唐草文様はあらゆる宝物にほどこされているので具体的に挙げるのはここまでにとどめたい。

 

 

正倉院宝物の目録として今に伝わる「東大寺献物帳

正倉院宝物は今に伝わるものだけでも9000点にのぼるが、ルーツは冒頭にも書いた通り聖武天皇の遺品を77日忌の法要の際、光明皇后東大寺へ一括奉献したのが始まりである。

その献納宝物には、願文とともに目録がつけられた。筆頭が「国家珍宝帳」である。性質上、目録自体が宝物である。欧陽詢の書風を伝える文体は当代随一の名蹟、天皇印がくまなく押され、朝廷の権力者たちのサインもある公式文書だ。

画像引用:東大寺献物帳 - Wikipedia

 

また現代の文化財分類・保護の視点から見ても、宝物ひとつずつに詳細な記載があり、

・当初納められていた品

・出庫されて所在がわからないもの

・後世追納された品

これら全部の品のプロフィールが途中まで部分的にでもわかっている点が、この正倉院の宝物群をして名品たらしめていると言っても過言ではない。宝物は沈黙のうちに多くを語るが、その正当性はこうしたプロフィールがいかにはっきりしているかにかかっているからだ。

《 ただし。仏教をあつく信仰していた聖武天皇の法要で献納されたにしては、目録の中に大量の武器(刀、弓矢、かぶとなど100人分)がまざっているのは不自然かもしれないが。実際これらの実戦用武器は、その後、恵美押勝の乱で反乱鎮圧のために使われたと考えられる。》

この例外を除くと当初からの宝物の動静は逐一目録によってわかるのであり、近代になって分類・管理されるようになった故宮博物館とか大英博物館とはその点で大きく異なるといえるだろう。

 

東大寺への宝物奉納がどういう意味を持っていたにせよ、それらは国の権力を司る性質を持った宝物ばかりであったことは間違いない。

 

 

種々薬帳と、屏風花氈帳

目録は国家珍宝帳のほかにもある。その中の種々薬帳は献納された薬物の目録である。献納した光明皇后はまた、民衆に向け施薬院悲田院を創設して病人を治療、また孤児の保護を行ったとされる。なるほど、東大寺にも薬物を献納して仏の加護を祈ったんですね……?

いや自分は日本史は素人なのでそんな素直にはとらえられない。都はのちの時代にもこのように歌に詠みこまれるほど華やかだったのかもしれないけど。

いにしへの奈良の都の八重桜 けふ九重ににほひぬるかな(伊勢大輔『詞花集』春29)
いにしえの昔の、奈良の都の八重桜が、今日は九重の宮中で、ひときわ美しく咲き誇っております。

民衆の暮らしはというと(前編でも書いたな…?)飢饉や天災、河川の氾濫、疫病の流行などが蔓延するなか人々は重税にあえぎ、また徭役や防人なども働き盛りの世代を労力として取られるため農民の暮らしはますます困窮していたと思われる。

そんな中、舶来のものを多く含む世にも珍しい貴重な薬物の数々を全て法要で献納してしまうとは、とても庶民の救済が目的とは思えない。

国家珍宝帳と種々薬帳、また屏風花氈帳にあるものを一括して奉献することで、権力を誇示したかったのではないだろうか?

誰が?

という疑問は残るけど。

宝物を献納したのは聖武天皇に先立たれた光明皇后であり、そこに権力を誇示する意味は無いようにも思えるが、少なくとも民衆に手厚く施しを与えた慈愛にあふれる光明皇后、というイメージはあまりにも事実とかけ離れているのでは、とチラッと思ったのだった。

 

宗教の伝来ーー仏教について

繰り返し書くけど、飛鳥~奈良時代の遺品は

★唐・長安の国際性

★仏教の伝来

を軸に考えると、それらの時代の文化財にはにはおのずと一貫性というかテーマが見えてくる。

ここでついでに仏教伝来についてもうちょっと書いておく。

(前編に貼っていた地図をもう一回貼っておく)

中国に仏教が伝来したのは後漢時代の紀元一世紀。

それは上記の通り砂漠の道を通じてだった。しかし仏教が生まれたインドではサンスクリット語で経典が書かれており、正確に中国に伝わったわけではない。

そこで本来の仏教経典を求めて、また教義の研究を極めるために、中国や朝鮮半島からは何人もの僧がインドへ渡っている。彼らを入竺僧と呼び、一説には1000人を超えるとされるが、旅行記などその詳細を記録にのこしているのはわずかである。下記に例を挙げる。()内は往復にかかった年月。

東晋・法顕 337年生-422年没(15年)往路ー砂漠の道・帰りー南海路
著書:法顕伝=仏国記

★唐・玄奘 602年生-664年没(17年)往復ー砂漠の道
著書:大唐西域記(地理書)、大慈恩寺三蔵法師伝(弟子の記した伝記、法隆寺に写本がある)

★唐・義浄 635年生ー713年没(24年)往復ー南海路
著書:大唐南海寄帰内法伝

 

長安から以西は砂漠の中に点在するオアシス都市つまり隊商都市をたどっていく旅であり、特に敦煌よりあとはタクラマカン砂漠ウイグル語で生きて出られない砂漠を意味するが、文字通り道に迷ったら終わりの死の旅であった。

砂漠をたどったその先は、最高峰7000m超、平均標高5000mの峰々が連なるパミール高原を越えなければならない。ゆく先々での盗賊による被害も多かった。

画像引用:パミール高原 - Wikipedia

 

いずれにしても、死と隣り合わせ、命がけで彼らは経典を求めてインドを目指した。

特に唐の玄宗皇帝の時代に玄奘が持ち帰り、漢典に翻訳した経典は膨大な量にのぼる。それらは朝鮮半島海印寺(ヘインサ)に版木が残る高麗八万大蔵経のもとであり、また日本の大正新脩大蔵経の底本となった。

(画像引用:海印寺 (陜川郡) - Wikipedia )

これらの経典が東アジア世界の仏教教義の研究に与えた影響ははかりしれない。

 

奈良時代には

華厳宗東大寺・新薬師寺

法相宗薬師寺興福寺

三論宗元興寺・大安寺)

成実宗

倶舎宗

律宗

といった南都六宗と呼ばれた宗派を通して仏教教義は大いに広められた。

正倉院には東大寺で写経された、唐伝来の教義や仏典をもとにした膨大な数の経典が納められている。国家事業として仏教を布教することで天皇の、また朝廷の威信を高めようとしていたことがうかがえる。

 

 

74回正倉院展の印象

このように東西の交易を行き交ったのは文化の意匠、また宗教など多様な分野にわたっている。それらを踏まえて正倉院展を振り返ってみる。

★★注:単なるミーハー観光客の視点です★★

また来歴、製法、材質などからまず産地がどこなのかを考えながら見ていくのも、新しい見方ができて面白い。

※公式アカウントからの解説

 

白石鎮子のウサギと虎、竜と蛇

https://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures?id=0000010060&index=3

https://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures?id=0000010061&index=4

動物が闘うという意匠は西方遊牧民のスキタイぽいけど十二支のモチーフは中国風。大理石製なのに使い込まれたような傷と摩耗のあとがあるような…?用途不明とあるが、そんなに深く考えず、宮中の毛氈や花氈の重しとしてそのまま使ったのではないのかなあ。東大寺での法要など、屋外で行った行事になると重しは必要だっただけなのでは。

単なる道具にしてはさすが、造形はみごとで動物が互いに絡みすぎてわからない…という所で横に色分け解説したでっかいグラビア図解を掲示してた。

親切設計だ。

巨大なグラビア図解はその後いたるところで掲示されてて、繊細な文様もはっきりわかって見やすくてよかった。3~5m四方?みたいなでっかいグラビア印刷。あんまりにも綺麗に文様が見えて、ふつうに図録が欲しくなってくる(←まあ絶対買うんだけど)。

 

 

全浅香

https://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures?id=0000010092&index=0

沈香は東南アジアに産する香木に樹脂が沈着したもの。全浅香は雅名を紅塵といい、種々薬帳ではなく国家珍宝帳に記載がある宝物である。黄熟香=雅名/蘭奢待と共に「両御香」と呼ばれた名品。蘭奢待は中世、将軍や武将などの権力者が代々切り取った跡がある。正倉院宝物は、この香木によって権力の象徴と認識されていたのかもしれない。

「沈すなわち香」と呼ばれ古来珍重されてきた沈香

香木は熱帯にしか産出しないものであり、伝来は仏教と同じころ?の6~7世紀ごろといわれ、古来から貴族の装いには欠かせないものであった。正倉院にも衣装を掛けて香を焚きしめたと思われる香炉がいくつか現存する。貴族は嗜みとして、好みによって香をブレンドして使い分け、後世には香道として発展した。

そのほかにも正倉院には多様な香木、薬物が納められている。東南アジア産出のものもあるが、流通ルートは遣唐使などを通じて唐から入ってきたと考えるのが自然だろう。

 

《おまけ:また、今回出展してない薬物に関して》

※どうでもいいツッコミーー種々薬帳には「薫陸」が見える。薫陸香は中国名であり、乳香を指す。産地は今のイエメンで、その海岸沿いのドゥファール地方に生える乳香樹の樹脂である。古代エジプトメソポタミアにおいて乳香は神へ捧げる聖なる香りであり、防腐剤としてミイラに使われた没薬、また黄金と共に東方三博士の贈り物として旧約聖書にも登場する。しかし、正倉院にある「薫陸」は「胡桃律」という別の薬物
https://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures?id=0000010323&index=1
であり本物の乳香ではない。実際に胡桃律に薬効はあったようではあるが。

アラビア半島に産する乳香の実物が実際に一般貿易レベルで中国に流通するのは宋の時代(12世紀)になるのを待たなければならなかった。つまり南海貿易によって大量に広州その他の港に輸入されるようになる時代になるまで。

 

※さらにどうでもいいツッコミーー冶葛(やかつ)という薬物も納められているが、成分としては毒である。上記の武器や弓矢が、奉納後の戦乱に際し出庫されて実際に戦闘に用いられたと書いたが、この治葛も記録によれば奉納後大幅に減っている。誰が何のために出庫したのか、謎は深まるばかりである。
https://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures?id=0000010326&index=1

 

その後日本では、平安時代には花の香と掛けて風流な趣味として、香を焚きしめる習慣は貴族の間に広く行きわたった。

五月待つ花橘の香をかげば 昔の人の袖の香ぞする古今和歌集 読み人知らず)

 

 

裛衣香(えび香)

防虫剤としていくつかの香を調合し、麻の袋に入れて宝物の櫃に入れていたらしい。宝物や織物に香りはついたかもしれないが、しかし防虫効果はあまり意味なかったようだ。効果あれば、織物もあれだけ虫害に遭っていないだろう。

効能としては現代でいえばパラゾールというが、全く安心できないということかも…しかしえび香は多くのものが調合されている貴重な品である。

 

 

﨟纈(ろうけち)屏風

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https://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures?id=0000020049&index=3

ロウを使って染める技術を使ったもの。しかし現在にはその技法は伝わらず、何点かの染め織品や屏風にその技法をとどめるのみである。

他の現在は失われた技法としては夾纈(きょうけち)がある。どちらも平安時代以降の製品は存在しない。

今回公開されていた屏風には象、サル、オウムなどが描かれている。これらの動物は南方から中国に知識として伝わったか、陸路で伝えられたかのどちらかである。日本人は情報を中国から仕入れたため知っていたのか?

正倉院の時代には唐の支配は遠くインドシナ半島まで及んでいた。しかし象は、ラクダと共に西域から伝えられたらしい。運搬用家畜として使われ、また象牙を取る目的で知っていたのだろう。

 

様々な象牙細工

象牙の白は、紫檀琥珀などと共に装飾の一部として多用された。

沈香木画双六局

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ヒノキの地板に天板として沈香を互違いの木目に貼り、側面と脚に黒柿を貼る。双六の碁盤目の筋や、四隅の細工は象牙で装飾する。象牙のほのかにクリームがかった柔らかい白が木目の中に映える優雅な品だ。

双六じたいは今のゲームとは違うルールで行われた遊びと考えられる。他にも正倉院には碁盤なども残り、碁は平安時代になっても貴族の遊びとして流行した。

 

紫檀画箱
 

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こちらは素地に紫檀が使われており、そこに木画で唐草文が描かれる。この箱は伝世品は蓋のみであり、本体は明治時代の補作で色合いが蓋とはくっきりと違う。

※宝物は厳重に保管されていたとはいえ織物や本品のような木工品は繊細なものも多く、螺鈿細工などは後世に脱落部分を補作されている。(※螺鈿紫檀五弦琵琶、螺鈿紫檀阮咸など)

※(今年は出展してない)紫檀木画槽琵琶にも象牙と木画は多用されている。
https://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures?id=0000014804&index=7

 

 

 

奈良時代のアクセサリー

紐類 残欠

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いわゆる帯に下げるストラップ。そこに今風にいえばアクセサリーを結んでコーディネート。古代の貴族のおしゃれ感覚がよくわかる。ここから下はアクセサリーショップと思えばいいでしょう。今でいうかわいい系。キレイ系ではない。

しかし素材は天然の貴重なものばかりである。ストラップも全部染めた絹である。

 

貝玦、牙玦

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https://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures?id=0000012098&index=0

螺鈿の材料でもあるヤコウガイや、象牙でもストラップにつけるアクセサリーが作られた。貴人の装いに輝きを添える可憐な印象の宝物。

ヤコウガイは日本付近では奄美大島屋久島付近までを北限とし、また西大西洋、インド洋のサンゴ礁に生育する巻貝である。(ヤコウガイ - Wikipedia )その貝殻は真珠のような輝きをもち螺鈿細工の材料として使われ、また玳瑁やメノウ、トルコ石ラピスラズリ、また紫檀象牙などと共に宝物を華麗に飾った。

 

玦(けつ)とは、古代中国で用いられた佩玉(はいぎょく)の一種。ランドルト環みたいな円の一角を欠いた形をしていて、紐を結び付けて帯に下げる。

玉とは中国では翡翠(ヒスイ)のことを指す。美しい半透明の石で、古来から宝石として、神へ捧げる神聖なものとして、また装飾品として古代中国では古く紀元前、殷周の時代から珍重されてきた。帯から下げる装飾品としての佩玉には、玉玦(けつ)のほかにも玉壁(へき)、玉璜(こう)、幅の広い環状の玉環(かん)、幅の狭い環状の玉瑗(えん)などがある。

(※故事成語ー完璧の語源となった玉壁 解説ー和氏の璧 - Wikipedia )

産地はタクラマカン砂漠崑崙山脈のふもとホータンであり、古代中国王朝へはもともと四川省青海省(たぶん)あたりに居住していた民族の月氏によりもたらされた。そのため中国では「禺氏の玉」とも呼ばれた。

このように、美しい玉は中国では皇帝や貴人の身につける装飾品であり、遣唐使によって日本に伝えられたそれらの習慣は、奈良時代の朝廷でも広まったと考える。
※画像参考リンク:玉璧 - 故宫博物院

 

※ホータンの位置(前出の図)  和田玉 - Wikipedia

 

 

犀角魚形

https://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures?id=0000012066&index=0

犀の角で作られた、紐から下げて使われたと思われるチャーム。正倉院にはほかにも緑色、黄色、青などの色ガラスの魚形が残る。

魚をアクセサリーにつけるのは唐では高貴な身分にのみ許された慣習で、日本でもそれに倣ったのではないかと思われる。

 

犀角を使った宝物は他にもたくさん残っている。

斑犀如意(はんさいのにょい)※如意とは、僧侶が座して威儀を正すために用いた。https://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures?id=0000014559&index=6

犀角は象牙、玳瑁などと共に日本では産出しない。輸入ルートは奈良時代は唐を通じてであっただろう。それらの独特な文様は様々な細工に取り入れられ、愛玩された。(世界的にも珍重されたこれらの素材は乱獲・密漁・密猟のもととなり、現代においてはワシントン条約により取引は禁止されている)

 

 

彩絵水鳥形

https://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures?id=0000012089&index=2

ヒノキでかたどった水鳥を色とりどりに彩色し、本物の水鳥の羽根を貼り付けたもの(今は羽根は失われている)。実物はほんの指先ほどで、胸につけたブローチとかの装飾品なのだろうか。

これも大きなグラビア印刷で引き延ばされて横に掲示されていたが、大きく伸ばしてもなおその精緻な細工が目を引く。

※鳥の羽毛をはりつける細工は、ほかに屏風にもほどこされている。(しかし本品と同様羽根は脱落してわずかしか残っていない)

・鳥毛立女屏風(6曲1双)
https://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures?id=0000020020&index=6

・鳥毛帖成文書屏風(6曲1双)
https://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures?id=0000020026&index=12

 

 

黒柿把鞘金銀荘刀子

https://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures?id=0000012138&index=1

斑犀把緑牙撥鏤鞘金銀荘刀子

https://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures?id=0000012125&index=2

これらストラップのアクセサリーの中でも実用品にして工芸品としても群を抜いた技巧を誇る品である。材質も黒柿に金銀の装飾、またあるいは犀角の柄に撥鏤(染色した象牙に線刻で文様を彫る)細工の鞘をかぶせたミニサイズの刃物。木簡や、紙を切ったり削ったりするのにも実際に使える便利グッズでもある。

目を引くのは象牙の鞘に施された花鳥文。今回出展の品でいえば銀壺、ほかの宝物では漆胡瓶にみられるような文様が小さな鞘に刻まれている。

 

 

ガラス器

今年は展示されてない宝物であるがこれもシルクロードを経て伝えられた、伝世品としては他に世界には例がないもののためちょっと書いておく。

そもそも数としては装飾品としてのガラス玉は正倉院に何十万個も伝わっているが、ここではガラス器(食器等)で伝わっているものについて考える。

有名なものについてちょっとだけ。

白瑠璃椀

https://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures?id=0000011989&index=0

緑瑠璃十二曲長坏(みどりるりじゅうにきょくのながつき)

https://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures?id=0000011994&index=0

瑠璃杯

https://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures?id=0000011991&index=12

 

これらのガラス器は意匠としてはペルシア伝来のもので、製法もまた同型のものは今のイランから多数出土している。

また、白瑠璃椀は安閑天皇陵の古墳から酷似したものが出土したことが知られている。

しかし正倉院に伝わるものは出土品とは別の美しさを保つ。また十二曲長杯はペルシア製か唐製か、生産地も結論は出ていない。

 

(あんまりこの項は深く考えてません、シルクロードを隊商によって割れずに唐まで持ち込まれ、またそれが遣唐使船によってなのか日本まで運ばれたということだけでも奇跡的な事という点に思いを馳せてるだけです)

 

 

正倉院文書

正倉院文書 - Wikipedia

最後に正倉院宝物をして、当時の歴史を鮮やかに蘇らせるものとしては正倉院文書がある。5つの目録からなる東大寺献物帳も文書には違いないがその分類は宝物の目録である。それとは違って正倉院文書は納められた目的からさらに発展…ではなく歪曲……でもなく、いわば偶然発見された存在ともいえるだろう。

 

………どうゆうこと?

という問いに簡潔に応えると、正倉院文書はすなわち紙背(しはい)文書であるからだ。

紙背文書 - Wikipedia

正倉院の所属していた東大寺聖武天皇ゆかりの寺であり、また仏教をもって国家の威信とした奈良時代にあっては仏教研究の一大拠点だった。遣唐使により伝えられた膨大な経典はその東大寺ほか、奈良の他の大寺院でも写経・研究され、そのため膨大な量の紙、墨が必要だった。

しかし当時記録具として主流だったのは木簡であり、紙は貴重なもの。そこで公文書や戸籍などにまず紙は使用され、写経にはそれらの公文書が反故(ほご)になったものを再利用して使った。当時の紙は一度使って捨てるという発想はほぼ無かったと言っていい。

その結果、東大寺にのこる経典の裏には奈良時代の戸籍、また役所の発行した公文書がそのままの姿で見られる。紙に記載された本来の用途の裏面に遺された文書を特に紙背文書という。

幕末にこの事実に気づいた国学者、穂井田忠友が写経の裏を見て文書を抜粋・分類して整理した。

その後も文書の分類・整理は続々と続けられていたが、しかしその結果資料としては分断される結果となり、現在は元の体系に復元する作業が行われている。

データベースとしてオンライン上でも閲覧できるようになっているが、しかし正倉院展に行くと戸籍として展示されている文書の裏には写経の墨が映り、また紙を継いだ跡など、それらは現物でしか見られない。

 

日本最古の戸籍や当時の納税帳など、貴重な社会経済史の史料として奈良時代の研究に寄与している文書群である。

 

 

 

正倉院宝物と正倉院展

以上の通り、正倉院宝物は当時の時代をそのまま、しかも国際色ゆたかにあらゆる分野にわたって丸ごと残している、世界的にも稀有なコレクションである。

これらの貴重な品、しかも発掘品ではなく伝世品に展示を通して出会える機会、それが正倉院展だ。

 

奈良時代以降は遣唐使の廃止と共に日本では大陸文化の影響は受けながらも、そのままコピーするのではなく独自の発展を遂げていく。

それに従って今は見られなくなった習俗や技法を目の当たりにできるのが正倉院展

展示される宝物は全体の数に比して毎年少ないという声もあるけど、これだけの複雑な背景をもつ宝物群は、そんなに一度に展示されても把握しきれたものではないので、毎年これだけ展示してくれるだけでも、素人としてはかみ砕くのに精いっぱいである。

毎年展示物は図録にまとめてくれてミュージアムショップで販売してくれるし、自分は毎回楽しみにしている展示会である。