歴史と本マニアのための部屋

歴史、政治、本、あと吹奏楽関連のつぶやきです

犬山見聞

 

この記事は、ござさんのコンサートツアーの静岡と名古屋公演の間で犬山に行ったときのことを別にまとめたものです。

時系列的には下記の記事の続きです。

 

目次

 

 

時系列は静岡公演のあと、夕方ごろ

さて静岡のコンサートも終わり、あわただしく名古屋行きの新幹線ホームに上がる。静岡って街の印象のわりに駅が超巨大だと思う。腐っても県庁所在地てことか。県外民には、観光地の伊豆とか浜松、三保の松原のイメージが勝ってて静岡市っていわれると印象が具体的に思い浮かばなかっただけなのかもな。

夏至も近いころ、夕日に暮れなずむ下りホームは人影もまばらだった。

この空いてるという表現も比較が東京と大阪と京都だから、よくわからない。新幹線のひかり号は一時間に一本しかこないよっていうFFさんの説明とボヤキを聞きながら、

『何文句いってんのよ新幹線が通ってる時点で勝ちじゃんよ、四国見てみなよ』

と心の中でツッコミを入れる。

静岡と名古屋間は東海道新幹線沿いでアクセスもよい。

ござさんもやっぱ移動は新幹線なのかなーと思いつつ、疲れた体をシートに埋めて、浜名湖の景色が飛ぶように後ろに流れていくようすを眺める。新幹線の窓から大高という大河ドラマでみたことのある地名が一瞬見えたかと思うと、その後あっというまに16両の車体は名古屋駅のビルの谷間に吸い込まれていく。

名古屋といえば味噌(?

自分は東海地方は初めて訪問する(修学旅行で行ったがくわしい記憶がない)ので土地勘がない。名古屋駅地下はダンジョンのごとく迷路になってて、FFさんに連れられて迷子のアヒルよろしく必死でついて行った。

晩ごはんは名物の味噌煮込みうどん(トンカツと迷った)。

周辺の店もどこもかしこもメニューに味噌が入ってて、なんとなく地下街に漂う空気からして味噌っぽく、いかにも名古屋だなーって感じがする。海外から日本の空港に降りると醤油の香りがするっていうが、あーいう空気感と一緒なのだろうか。

ていうか、なんでうどんかって?うどん県民としては伊勢うどんとか稲庭うどんとかと共に、県外の名物うどんはいつか食べてみたいメニューだったので。しかし、出された料理は煮込みって名前なのに麺のコシが半端なくてだいぶ面食らった。でも名古屋民のFFさんに作法を教わって食べるのはアトラクションみたいで楽しかったです。ネギと生卵が入ってるのがポイントらしい。

次の日のうなぎ屋も含め、メニュー代には漬物が含まれていたようで、しかもおかわり自由なのもびっくりした。元々の値段設定が高い?でも普通は漬物ってメニューのひとつで有料だし、注文しないと出てこないですよね…?元々無料オプションからのおかわり自由ってどゆこと…?

肝心のうどんの写真が無いな……舞い上がってて撮るのを忘れていたΣ(゚д゚lll)

 

犬山への嶮しい道のり

そこで名古屋から快速というか私鉄の特急で犬山に向かう。濃尾平野の中の城の一つとして犬山城はカウントされてたから名古屋市内なのかなーっ?てなんとなく思ってたら、今地図をみてみると、犬山は岐阜との県境だった。そりゃそうよ木曽川沿いなんだから。ということは午前中に犬山観光をねじ込んだのは結構な強行軍だったことになり、ついてきてくれたFFさん、ほんとにありがとうございます(ほんとすいません)。

名古屋まではアクセスがよかったものの、そこから名鉄に乗る行程が謎だった。駅の構造もダンジョンだったし、乗り場のホーム表示も究極にわかりにくい。日本一のダンジョンと呼び声高い大阪梅田の地下街、あそこは改築されてすごい綺麗になったし濡れ衣着せられてかわいそうだ。JRの新幹線と在来線、地下鉄と百貨店のデパ地下が混在しててそこから派生してる名鉄の乗り場のほうが絶対断然ダンジョンだ。

とにかく特急で犬山まで30分(県境まで)。犬山駅はそれまでの静かな住宅街地帯を抜けた先にある、ちょっとしたターミナル駅みたいなところだった。もう夕闇が濃く迫る中、駅の2階コンコースからお城のライトアップが見える。とFFさんが教えてくれるが、しかし自分は昼間のお城そのままのところを見たかったのでそういう景色は見なかった。

でも世の中では大阪城とかライトアップしてるとこが観光の目的地になってる場所もあるけど、しかし犬山城はライトアップがメインじゃないからだ。

 

犬山の景色

宿の周囲は住宅街と城下町だったこともあり、部屋からお城がよく見えた。朝焼けの中にほんのり天守がうかびあがるのが見えたので写真を撮ってみる。以下、すべて自分のポンコツ型落ちiPhone10による画素数の粗い写真を添付します。

静岡に続いてコンサート会場はこのぶんだと良い天気なのではないかと思われた。さすが、晴れ男。

さて午後からコンサートだから、城下町をゆっくり散策してると間に合わなくなる。そのため、犬山城のまわりにも軒並み城跡が並んでるこの界隈を、朝ごはん前に見に行くことにした。これがやりたかったから、それだけのために犬山に来たと言っても過言ではない。

やっぱり歴史を物語る遺構というのは現地で実際に立ってみて感じてこそ、その意味がわかるというものだ。いまどきオンラインで何もかも見れるっていうけど、自分の足で稼がないとわからないものはやっぱりあるだろう。

犬山城は濃尾平野の北端を扼する木曽川沿いの交通・戦略上の要衝なのだけど、中山道沿いに中央アルプスのふもとを行くルートはまたひとつ山地を超えて南側のほうだから違うなー、ここは大河ドラマで見たところの東美濃って地域だな、蜂須賀正勝が拠点にしてたあたりかな、とか思いながら早朝の住宅街を木曽川に向かって歩いた。

ここで見たかったのは、犬山から木曽川を挟んで斜め対岸にある、鵜沼城跡だった。しかし現在は私有地で城跡も整備されてない、単なる雑木林の丘と化してる城跡にこんな早朝から見物に来てるのは自分以外には居なかったが。

 

しかし木曽川沿いの断崖絶壁に立つという絶好のロケーションなのは犬山城と変わらない。城の遺構が残ってれば、または復元されてれば、大河を挟んで並び立つ両雄とかなんとか、ふたつの城の持つ重要性も全く違って見えただろうなあと思いながら周囲を歩いた。鵜沼城跡がどのくらい断崖なのか、この鉄橋の向こうに見えるのが城だといえばだいたい想像がつくだろう。

 

鉄橋は名鉄が通ってて土木建築の名所?なのか古いけど立派な造りだったので、いっしょに写真に撮ってみた。こういうのも現地に行かないと雰囲気はわからないものだ。

大正時代の建築で、車道と並んで併用してたのを車専用の橋に最近架け替えたらしい。

ちょうどこのとき、始発みたいな時間帯で電車が走ってきたのでこれも撮ってみた。昨日犬山まで乗ってきた車両(違うかもなあ)。


この辺にはほかにも要地に城跡が点在していて犬山城はその中でも重要な位置を占めていたのだろう。

木曽川流域にも、この上流に猿啄城跡、犬山のはす向かいにそれぞれ鵜沼城跡と伊木山城跡、ちょい下流に松倉城跡。たぶんまだまだあるはずだ。それから、遥か北方には岐阜城がそびえる。

木曾三川が運んできた肥沃な土壌の濃尾平野は、川の氾濫に悩まされる歴史をたどってきたではあろう。しかしその開けた地形は古代中国の華北平原のごとく、古くから諸勢力が覇権を巡って争ってきたことを、これらのおびただしい城跡の存在が無言のうちに物語る。

 

木曽川が滔々と流れるさまは今も昔も変わらないようで、河畔を望む城跡も戦国時代からたぶん変わっていない。犬山城の西側対岸には、伊木山城跡がそのままの山の姿で遺っている。

 

濃尾平野を流れる木曾三川、いわゆる木曽川と長良川、揖斐川流域は舟運を利用した物流と戦略の拠点だったのだろう。ここを制するものが経済・物流・戦略的にこの地域の覇権を握ったといっても過言ではない。

実際に犬山城主となったものの変遷を見てみればわかる。

 

犬山城は断崖絶壁の上から大河を望む河畔に位置する。その立地が似てることから古来より別名を白帝城と言い慣わされてきた。

(本家の白帝城は中国大陸を流れる長江の中流域、三峡にある地理上の要害として三国志にも登場する。今は三峡ダムに沈んでて、元々河畔の断崖絶壁だったのが川の真ん中に位置する島になってはいるが。)

(↓ 引用:白帝城 - Wikipedia

クルーズ船から見る白帝城

 

犬山城

で、立地もさることながら犬山城の天守閣は望楼型というか、構造的に最も古い時代の形を遺してて、ここに来ないと見ることができない眺めなのだ(だから国宝)。


お城の遺構としては予習してたとおり天守以外の門とか櫓とかは残ってなかった気がする。でも古地図のとおりお城のつくりは大体変わってない。そのため、石垣を撮ってみた。ちゃんと角は算木積みで、石の長さを互い違いに積んでて強度を保ってる積み方。


結果から言えば、見物に早朝から出かけたのは正解だった。早朝にほかの城をみてきて、開門と同時に犬山城に行ってぎりぎりだったからだ。

国宝なのでお城にはエレベーターもなく鉄筋コンクリートで補強もしてないので(建造当初からの現存天守だから)、そうすると天守の構造に耐えられるだけの人数しか上がれないから、入場制限をしているということらしい。自分みたいな大河ドラマ見たから犬山行って見よーっていう民がたくさんいるのか、自分が天守から降りてきたのが開門一時間後くらいだったけど長蛇の列ができてて、その時間帯に並んでももうコンサートには間に合わなかったであろう。

文化財に人気が集中するなんてなかなか無いから、せいぜい入場料もたくさん徴収して修復にあてていただき、貴重な姿をそのまま長くとどめてほしいものだ。

 

せっかくのぼってきたので写真をあげてみる。普段は天守とか全然登らないんだけど。

当時のままの廻り縁しかないところを壁にへばりつきながら回る(高所恐怖症)。城から北西の眺め、たぶん左奥の山の向こうが岐阜城のエリア(見えない)。

天守の屋根に見える瓦は片喰紋(カタバミ)で、城主が転々とする中で家康から犬山を任され幕末まで城主を務めた成瀬氏の家紋。

(成瀬氏はその後も犬山城を私有地として守ってきた)

 

ついでに天守の漆喰壁に花頭窓ふうにかたどった装飾があったので撮ってみた。窓じゃなくてあくまで装飾としてついてる枠だけど、ちゃんと焼杉(杉?)で作ってて、炭がつきそうなリアルさ。触ってはいけない(国宝だから)。

 

お城の城主が執務にあたったり、防衛などの指揮を執るのは城郭のなかの御殿とかの部分であったことが多いと思うので、天守はあくまで物見台とか物資の貯蔵庫、武器庫だったりという使い方が主だったのだろう。

というわけで天守からのほかの方角も撮ってみた。お城から南側つまり濃尾平野を眺める。たぶん小牧城のほうまで見える?のか、戦況を見張るのにうってつけの立地。

 

天守の逆向き、つまり木曽川の東方向を見てみると、朝見てきた鵜沼城跡がすぐ目の前に立っていた。鉄橋の向こう側の丘みたいなところ。確かに目と鼻の先で、お互い牽制し合う立ち位置に感じられた。この距離で敵同士の城だったら、動きがあったら丸見えである。実際に犬山側から鵜沼城を改めて見てみるとほんと近すぎて、意味もなくハラハラしてしまう。

 

ついでに城下町の解説も街角にあったので貼っておく。

犬山は割とはっきりと住宅街の区画とか道路とかに、お堀の名残というか城下町の面影をよく残してるようで、今の地図と並べてみるとよくわかる。

特にお城のある山はそのまま川沿いの断崖絶壁だし。


お城の入り口もそういえば撮ってた。出す順番が逆だが。大手門と桝形とかは全部住宅街になってしまってたので石碑だけ、とりあえず。

 

 

おまけ-----おみやげと名古屋のごはん

開門して一時間もたたないうちに大混雑の様相を呈していた犬山城をあとにして、自分らは急いで名古屋に戻った。電車で30分じゃんと思ってたが、今考えたらコンサートの午前中に県境で観光するって結構な賭けだ。なんかの拍子に戻れないことだって考えられるし、ほんとよくこんなこと思いついたな自分。

でもせっかく名古屋に行くとなれば、ついでの観光で名古屋城でお茶を濁すんじゃなくて、自分はどうしても犬山城を見たかったので本望だ。

首尾よくいきすぎて浮足立っていた自分は駅でお土産まで買ってしまった。ほんとなら名古屋駅で名古屋土産を買うべきなのだが。でも犬山が楽しかったからいいとしよう。

いーでしょー栗きんとんが詰まった羽二重餅の棹菓子、切り分けて食べる上品さ。なんという贅沢。普段はこんなんじゃなくてご当地のジャンボポッキーとか買うのに。

(家に帰ってから、静岡で買った上等な新茶をていねいに淹れて、それに添えるお茶菓子として食べた。なんか尾張と駿河の国の歴史を噛み締めていただく静かな時間って感じ。)

(全体的にこの記事はノリがおかしい)

 

分単位で計画してた電車に予定通り飛び乗って、どうにか名古屋駅でほかのFFさんと合流するのに成功したのは単なる偶然かもしれない。

途中でなにかひとつでも予想外のことがあれば無理な行程だったからな、今思えば。そんなアホな思いつきの強行軍を実際に計画組んでくださってほんとにありがとうございますFFさん。

そもそも自分ひとりだったら名鉄に乗れなくて犬山に行けなくてこの計画は未遂に終わってたと思うから。名鉄の乗り場とか本数とかどの便がいいんかとかわかりにくくて、一人だと行けてた自信は全くない。

 

 

名古屋駅の地下のダンジョンにふたたび戻ってきて、引き続きFFさんに迷子のアヒルみたいについていくと、そこはひつまぶし屋というかうなぎ屋さんだった。

名古屋におけるコンサートと並ぶメインイベントとしてひつまぶし食べてみたかったのだ。だって名古屋飯っていうじゃないですか。

親戚に以前おみやけでひつまぶしセットなる物をもらい、いつもスーパーで買う(たぶん解凍の中国産の)うなぎとあまりにも別物だったから、現地の店で食べてみたかったのもある。

ていうか自分はひとり行動だと、例えば今回の犬山のような場合ぎりぎりまで観光してお昼ご飯抜くのがパターンだったのに、周りから総ツッコミが入ってちゃんとしたごはんを食べろという指摘があったし。(監査か?)

いや?自分はいつもちゃんと食べてますったら。サブウェイとかで。ほんとですって。

 

ここでも頼まなくても出てくるオプション漬物。またしてもお代わり自由。すごない?

うなぎは炭火焼?で香ばしくておみやげにもらったやつと似てておいしかった。

あれか、焼肉とか行くペースでこういううなぎ屋来るんだろうか、名古屋民は。

 

よくわからんけどうなぎ屋は広い店内も満席だった。

うなぎ屋という存在がほぼ希少価値と化してるうどん県民から見ると不思議現象で、なんでもうどんと比べるからいけないのか、最近物価高でうどん屋で500円超えるってぼやいてる身としてはやっぱ感覚がよくわからん。うなぎ屋がこんなたくさんあるのに満席っていう状況が。

でもおいしいのでたまにでも来ようってなるのはそうかも。

正しく、ご当地に来ないと食べれない料理だと思う。

 

ここでまたしてもギリギリまでお昼ご飯に時間を費やし、またしても地下街を迷子のアヒルのようにFFさんについて行ってどうにか地下鉄に乗り込んだのだった……

 

というか書き忘れてたが、名古屋にはインバウンド観光客とマスコミに勝手に名付けられてる外国人観光客はほぼ1%もいなかった。いや、名古屋城とか行ってたらいたのかもしれないが、少なくとも新幹線の発着ホームにも地下の飲食店にも、地下鉄にも外国人の姿も大声で日本語以外を話す集団も全然いない。

そのためか、まわりから聞こえるのが日本語っていうだけでも名古屋の町は落ち着いた雰囲気だった。なんか安心して歩ける気がした。

 

というわけで、ござさんの名古屋コンサートの日の午前中だけを別記事にしてみた。

 

コンサートの記事は本来の日記部屋に別に書く。

 

 

 

 

 

 

 

 

「この世界の片隅に」のリバイバル上映を見てみた(長文注意)

 

目次

 

 

日常の風景

普段自分は映画のレビューとか書かない派、映画館で観る習慣も無いのだが。

今年の夏、戦争が題材のアニメを観に映画館に行ってみた。

この映画は2016年公開らしく、今年の終戦記念日前後に7年ぶりに映画館で再上映とのこと。自分は今回初めて見るので、あまり内容のネタバレ情報を見ないように、最低限の知識だけ調べて行った。

 

この世界の片隅に

昭和20年、広島・呉。わたしは ここで 生きている。

映画にはこういう副題がついている。

 

また、映画館に行ったらポストカードがもらえ、そこにはこういうセリフが印刷されてあった。

お帰りなさい

すずさん

すずが見つめていた″片隅”から、80年の時を経て、今を生きる私たちへ。

 

予告編とかを見る限りでは、登場人物のデザインというか外見はどう見ても普通の人でしかなかった。

戦争映画といえば描かれる光景は

「戦艦から火を噴く艦砲射撃、戦闘機を撃墜する高射砲、泥沼の塹壕、味方の軍に見捨てられ、機銃掃射の雨の中を絶望的に逃げて捕らえられ捕虜にされる民間人、戦後の深刻な身体的・精神的後遺症」

という直視しがたい悲惨なものだと思っていた。

 

だから戦争アニメといえば

「戦火をかいぐぐり生死をさまよいながら登場人物みんなで力を合わせ、誹謗中傷を浴びながらも力強く生きていくもの」

という先入観を持っていた自分の眼には、

「『この世界の片隅に』では原爆の被害も扱われてるし、登場人物も亡くなるし確かに戦争を扱ったアニメだけど、でも、見たかったのはこれじゃない」

っていう違和感が残っていた。

 

【※今まで持っていた、自分の認識中での戦争が題材に出てくるアニメとか映画】

はだしのゲン

禁じられた遊び

ギターの主題で有名な映画。冒頭で、路上への機銃掃射により主人公の女の子の両親が亡くなるところから映画は始まる。

対馬丸

沖縄から学童疎開の船が航行中に魚雷攻撃で沈没した史実を描いた映画。学校の視聴覚室で授業中に見た。

 

今まで自分が戦争に持ってたイメージは、被害が視覚に訴えてくる、記憶に残る悲惨さだ。実際に自分が戦争を経験してなくても、イメージでもなんでもこうした悲惨さは忘れてはいけないのだと肝に銘じてほかにも本とか小説とかを読んできた。

 

でも「この世界の片隅に」に出てくるすずさん他登場人物たちはみんな普通に日常の生活を生きている一般人ばかりだ。

しかし一般人が被害に遭うのが戦争という非日常の世界なのだと思って、そのうち肝を冷やすようなシーンが出てくるのかと思って身構えながらストーリーの展開を追っていた。しかし、肝を冷やすようなシーンはあるにはあったけど、自分の想像していた展開というか内容にはならなかった。

戦争の悲惨さ、非人道さを訴えかけるような内容であったにしても。

しかしそれらはあくまで日常の生活と地続き、連続の中の一部。

戦争がテーマだけど、戦闘シーンも死傷者も存在するけどメインテーマとしては描かれない。あくまで淡々と、気づけば日々の時間の流れと共になにげなく過ぎていく。

映画を見たのは終戦記念日も間近に控えた日だったし、戦争のショックな面をあらためて再確認することで、同時代を生きる人と悲しみと憤りを共有したかったのに、自分は振り上げた拳を下ろすところがなくて戸惑った。

 

映画館の静寂の中で、繊細な心情の移ろいや美しいBGMを思う存分堪能できたのは期間限定の上映の中、ラッキーだったと思っている。

しかしこんなんじゃ戦争は風化していくばかりじゃないか、このままでは映画の真のテーマもはっきりしないし自分の気持ちも消化できないまま中途半端に終わる、何より伏線を全然追えなかったので、DVDを急遽注文してじっくり検証することにした。

(家のパソコンには簡略にサラウンド音響機器を拡張したシステムとヘッドホンをつけてるから、実質映画館の音響と変わらない(つもり))

 

違和感の正体

呉という土地

このアニメには同名の原作がある。作者・こうの史代氏は広島で生まれ育ち、呉のすずさんの家は祖母宅があったところがモデルだという。

ではなぜ作者のこうの氏は産まれた地の広島を、原爆の被害を題材の中心に据えなかったのか?それこそが戦争を描く上で不可欠のテーマであるべきじゃないのか?戦後生まれとはいえ広島市民であるなら、なおさら。

 

この映画の舞台は原爆の落ちた広島市ではなく、海軍工廠があり空襲によって市街地が全滅した呉市。つまり広島長崎以外のすべての全国の都市で起こっていた空襲被害のあった都市、当時全国の民間人が実際に体験したであろう事柄が全編に織り込まれていることで、戦争の影はわずかながらしかし致命的な片鱗を物語の中に見せている。

サブリミナル効果みたいに日常生活に潜む戦争と言おうか。

原爆の被害を書いた本では、呉は似島と同様に死傷者が避難していく場所としては登場しても、呉を主体として描いたものは読んだことがなかったこともあって、余計に戦争が遠い所のものにしか感じられなかった(ただし映画の前半まで)。

 

普通とは

(映画観たり洋食屋さん行ったり、博覧会行ったり……)

「まだそがぁな世の中じゃったねえ。平和のための軍縮で軍艦作れんようなって、この辺の者はみんな失業してしもうた」

(背景に出征者を見送る万歳三唱が響く)

「大ごとじゃ思うとった、あの頃は。大ごとじゃ思うとったころが懐かしいわ。」

すずさんが嫁に来て間もないころ、お義母さんが一升瓶で米を搗きながらこうつぶやいた。

 

昭和19年の春、だんだん配給の統制が厳しくなり、店から商品がなくなり、反戦の声に憲兵が目を光らせ、当然のように健康な男性は全員強制的に徴兵されていく(しかもそれを関係者一同で祝わなければならない)。

お義母さんの不安げな顔は、いつのまにか少しづつこうした風潮に慣れてしまっている状況を危惧すべきだというような表情だった。

このお義母さんは印象的なところで含蓄のある表情を見せる。台詞は一般的なのに、表情の見せ方でここまで違うものかとちょっと慄く。

 

登場人物が取り乱したりすることもある中、お義母さんは終始一貫して「普通」を保とうとしていたし、それがこの映画の根底を流れているのかもしれない。

普通とは、今でいう正気を保つみたいな文脈で、この映画の真ん中に位置づけられていると思う。

 

当時はマスコミによる扇動と政府の情報統制で正確な戦況は一般には知られてなかったし、連戦連勝のニュースに眩まされて被害や死傷者数も知られていなかったのだろう。

すずさんが呉にお嫁にくるとき、汽車から工廠と戦艦が見える海側の鎧戸は全部強制的に閉めるよう指示が出ていた。憲兵が見張りに廻る念の入れようで。

さらに憲兵はすずさんが嫁入り先の段々畑でなにげなく港の戦艦をスケッチしているところまで摘発しにくるくらい情報統制は徹底的、お義母さんも径子さんも驚いて声もなく、周作さんもすずさんに顔を向けない。

すずさんが間諜かぁ……

しかしそうつぶやく周作さんの背中はわなわなと震えている。「六時に帰るけえ録事じゃ思うとった人じゃのに、何の企みができるいうんか((笑)」北條家の人々が憲兵が帰った後、笑い飛ばす豪胆さには、ただただ敬服するばかり。

確かにすずさんは小さい頃からぼうっとしとりましたが、それにしても。

「みんなが笑って暮らせるようになるとええんやけどね」

というお義母さんの言葉は、「みんな笑って暮らせる世の中が」知らない間に手の届かない所に行ってしまう時代にすでになってることを暗示してる気がして、物語の先行きを不安にさせる。

 

すずさんは憲兵に有罪と決めつけられる。

刈谷さんの長男ほか、健康な男性は徴兵の赤紙がきたら強制的に出征しなけばいけない。

呉の駅前では女学生の隊列が大声で軍歌を謳いながら行進していく。

すずさんは兵隊さんに持たせる千人針をせっせと縫い、すずさんの妹のすみなど独身者や学生は勉強もできず勤労奉仕と称して軍需工場で兵器製造に従事させられた。

時代の背景にはこういう価値観が浸透していて、登場人物たちはそれを無意識に、かつ間接的に戦争行為に加担し、また政府の方針に無言のうちに賛同していたともいえる。

誰もそれを不思議に思わなかったし異議も唱えなかった。

(異議を唱えるものは憲兵特高警察に即逮捕・投獄されて上記のように拷問されたり処刑されたりしたのだから、不可抗力の時代ではあったが)

 

普通とはどっちなのか。

こうした戦時体制に迎合して世の中になじんで生きていくことなのか、それとも体制に異議を唱えることなのか。

 

 

水原さん

まだ18とかそこらの歳で、話したこともない知らない人のところへ嫁に行き、家族の一員として、毎日かまどを焚き、洗濯板で着物を洗って干し、狭い畑を耕して、慣れない裁縫で服を縫う。

段々畑でふと目にした綿毛のタンポポを吹くと、風に乗って夕日の中を飛んでいく。

 

このすずの日常を

「たまげるぐらい普通じゃのう。当たり前のことで怒って当たり前のことで謝りよる」

と形容したのは、戦艦青葉に乗ってフィリピンから帰国した同級生の水原さんだった。

「お前だけは、最後までこの世界で普通で、まともでおってくれ」

水原さんは当たり前の人の道から外れていったらしい。それは水兵として戦艦に従軍していたことを意味すると思うけど、しかし違和感を述べているあたりは水原さんも

「普通でいなけばならない」

という意識を捨ててなかったということだろうか。

戦争に勝つ、敵を倒すということはつまり人を殺すということだから、平常心では従軍できなかっただろうから。水原さんは「わしを思い出すなら笑うて思い出してくれ」といって再び旅立って行った。辞世の句の代わりだろうか?

 

※水原さんはすずさんがよくわからないまま北條家に嫁いできたなかで、唯一幼馴染として周作さんとすずさんの前に現れる。周作さんはすずさんに炭を入れたあんかを持たせて、「もう会えんかもしれんからゆっくり話してきたらええ」と、持っていくように促す。そしてすずさんがいったん離れへいくために出たあと、玄関に周作さんは鍵をかけた。

周作さんはすずさんを18やそこらで勝手に連れてきてしまったということに負い目を感じているのか?すずさんに、もう一度相手を自分の意思で選んでほしいという意味をこの炭入りのあんかに託していたように見える(後日すずさんに問い詰められても目が泳いで視線を逸らす小心者の周作さん)。で、実際水原さんとそういう話をするが結局すずさんは周作さんを選んだ。

しかしそれは自分の意思で選択したのではない、自分の心なのに自分の思い通りにならないと、すずさんは憤る。

しかしそれこそ普通、当たり前、好きな人は自覚して意図して好きになるもんじゃない。すずさんの周作さんへの好意はポーズでもなんでもなくて、本心だったのだから。

 

普通じゃない背景をもつ義姉さん:径子さん

どこまでも普通のすずさん、そこに北條家に突然お米を持って義姉さんの径子さんが里帰りしてきて、しかも長期滞在することになる。すずさんの地味なもんぺを見て「冴えん!」と一喝し、弟の周作さんとはじゃれあいながらも、すずさんには笑顔も見せず「あんた、広島帰ったら?」とにべもなく言い放つ。

この径子さんを最初映画館で見た時、自分にはどうしても

「田舎の古い家にいる神経質で意地悪、お義母さんとはすごく仲のいい典型的な小姑」

に見え、ごく普通どころかだいぶぼうっとしてるすずさんが不憫でならなかった。

でも話の筋を追ってみると、作業はなんでもテキパキしてるし、娘の晴美さんをしっかり育てて躾けてるし、意地悪に見えたのは単に話し方がハキハキしてるだけで、性格がはっきりものを言うタイプだからにすぎないからかも?ということに気づいた。

服装も流行を追っててお洒落、はっきりものを言うテキパキした女性っていうのは当時の感覚では夫の三歩後をついて歩くのが理想の嫁とされてた時代には、自己主張強すぎてだいぶ煙たがられる存在だったのかもしれない。

と気づくが早いが、夫が亡くなるとさっさと婚家に見切りつけて離縁してくるという身のこなしの早さ。すごい。

職種は知らないがちゃんと外で仕事をすぐ見つけてくるくらいしっかりしてるし。

しかし、夫との間に一男一女をもうけるも、息子は跡取りとして婚家に引き取られたというあたりが、まだ家制度という旧民法が生きていた時代を表しているけど。

径子さんが積極的に生きる女性だったとすれば、環境に受け身ですぐなじみ、素直に生きる普通の女性がすずさんなのだろうか。そしてそれは当時の大部分の女性の生き方なのかもしれない。

 

普通の日々と戦争

どちらにしても水原さんはふたたび戦艦に乗り出征していった。そして突然知らされる、すずの兄要一の戦死。

 

※この前触れは、ここにきて思い出してみればしっかり伏線はあった。そういえば、すずが嫁に来てすぐ、要一あてに結婚の報告を葉書にしたためていたが、あて先は

「濠北派遣鯉第5173部隊」

とあった。濠北、ときて嫌な予感がするべきだったのだ、それはオーストラリアの北、ニューギニア方面のことだ。それってソロモン沖とか、太平洋戦争の南限の激戦区ですよね。要一兄さんが海軍か陸軍だったか知りませんが、どっちにしても軒並み戦艦は沈没し島では陸軍が全滅を繰り返していた激戦区。全滅というより、補給がなくて熱病にやられたのかもしれない。どっちにしても生存者はほとんどいない死の戦線だったから、このハガキの宛先をもっとよく見ておくべきだった。すずさんが嫁入り一か月後に里帰りしたときも、ハガキの返事は帰ってきてないのだから。黙ってこういう伏線を張ってくるので、油断ならない。

遺骨の代わりとして送られてきたのが石ひとつだったことが全てを物語っている。全滅したことが分かっているだけで、死体の判別もつかず、もしかしたら持ち物もろとも、跡形も残らなかったのかもしれない。そこで舞台名簿から割り出して遺族に死亡通知だけ形ばかりの石と共に送っていたのかもしれない。

人はあっけなく死ぬ。死と生は常に隣合わせだ。

 

このできごとから崖を転がり落ちるように、人々の日常に戦争が影を色濃く落とし始める。でもそれは世の中みんなそうだから、戦地の兵隊さんは命を懸けて戦っているから、そんなマスコミの扇動と情報統制を信じて人々は暴動も起こさず従順に規律を守って日々を過ごしている。すずさんも、周作さんを事務官だったのを海兵に徴用され、(お義父さんは空襲で負傷したことがのちにわかって)家には誰も男性がいなくなる。でもついに学生まで徴兵しはじめた時点で、どこの家にも既に男性は残っていなかったのだろう。そういう意味でも、すずさんの家はあくまで普通、一般的だ。

テニアン島全滅、そして硫黄島が全滅したことで、日本本土に(搭載できる燃料の点で)往復できる距離の拠点を米軍が確保したことから、水原さんが去ったあとの映画の後半は急激に空襲の場面で埋め尽くされる。

 

すずさんの居場所

周作さんはすずさんをなんもわからんまま嫁にもらってここまで連れてきてしもうて、と悩んでいたようだが、すずさんは嫁入りの一か月後の里帰りで広島の街で産業奨励館(今の原爆ドーム)や福屋百貨店本店をスケッチしながら、

「さよなら、広島」

と、心の中で訣別していたようでもある。

 

普通に暮らす人々の日常の中に、少しづつ、しかし確実に戦争ははっきりと浸透していった。食糧や日用品はすべて配給制、配給自体もどんどん滞っていく。

すずさんがご近所さんに訊いて野草の葉や根、芋などを使った調理法を試している。BGMが軽快で愛らしい。すずさんのおっとり具合と文語調の語り、コメディータッチがすべてを覆い隠しているが、流れてくる料理があまりにも悲惨なだけに、その実態があまりにもカロリーもたんぱく質も不足してて見るに堪えないだけに、何回も繰り返し見るほどにじわじわと恐ろしさが沁みてくる。

 

食料も調味料も手に入らなくて飢えてても、防空壕で度重なる空襲におびえながらも、しかしすずさんはいつも通り掃除して、野菜を切ってかまどに火をおこし、洗濯物を干す。田んぼの雑草を抜き水をやる。

水原さんが入湯上陸という名の休暇で北條家を訪れるまでは、すずさんは嫁に来て新しく覚える事をこなすことで精いっぱいの、良くも悪くも普通の人として描かれている。

すずさんが自分の居場所を北條家の嫁とかではなく、個人として、周作の妻として意識し模索し始めるのは、お義父さんを陸軍病院へお見舞いの帰り、不発弾の爆発に巻き込まれて晴美さんを亡くし自分も右腕を無くしてからだと思う。

不発弾のことをもう少しよく覚えていたら。

晴美さんとつないだ手が左側だったら。

お見舞いの帰り、まっすぐ家に向かっていたら。

色々な思いが交錯してすずさんは悔やんでも悔やみきれなかっただろう。

径子さんから罵倒されても甘んじて受けるしかなかったし。

(壊れた時計を直しに行くというのは口実なのか)別れた下関の黒村の元夫に晴美さんを疎開させに行くという決意があったからか、断腸の思いでそれを決めたのだろう、径子さんは暗澹たる表情をして切符を買いに駅に並んでいたのに。

径子さんは晴美さんを失って茫然自失のまま存在意義を全く見いだせていないのだけど、しかしそれは誰のせいでもない。と皆心に言い聞かせるしかない。

 

すずさんはそれまで唯一自己を表現できたかけがえのない右手を失って、何より存在意義と言っても過言ではなかった右手、それまでの右手との思い出が、圧巻のナレーションと共にすずさんの脳裏を走馬灯のように巡る。それと共に崩れていく背景はすずさんの自我そのものでもあるだろう。

機銃掃射の戦闘機が飛び交う中、周作さんの問いかけにもすずさんの心は開かない。自分は映画を見ていてここで心が折れそうになった。右手が使えないから実家に帰されるのでは、というかすずさんが自ら存在を否定するのなら最初から周作さんと心から夫婦にはなれてなかったということではないか。今まで呉の街を一緒に歩いて気持ちを語り合ったのはなんだったのか?水原さんに打ち明けたすずさんの心のうちは嘘だったのか?

(その前にお見舞いに来た妹のすみに、実家の広島へ帰ってくればいいと誘われてもしかしすずさんはそれを選択はしなかったが)

 

機銃掃射の空襲が7/28。

それから9日後というテロップが流れ、すずさんは実家に帰ることにして荷造りをし、最後の日の朝径子さんと語りあう。

北條家で、

周作さんの妻として、

すずさん個人として、

径子さんと居場所を問答するなかで、冷静に自我を見つめ直したのか、水原さんに打ち明けた気持ちを思い出したのか、すずさんは結論として北條家に残る事を選択したようだ。

すずさんの周囲の人が存在を認識したというよりは、ここから後すずさんは自己の存在を呉で北條家で確固たるものとして認識していくように思う。

 

間接的だからこそ恐ろしい戦争の描写

しかしそういえば7/28から9日後というわかりにくい設定だがそれは8/6、原爆の閃光が呉の街を一瞬覆い尽くし、地震のような振動が襲い、瓦が落ちた。きのこ雲が遠く立ち昇り、ラジオは電波がつながらない。すずさんは広島へ帰って江波のお祭りに行くという設定だったがそれは不可能になった。

 

この映画に出てくる原爆の描写は直接にはこれだけだ。

広島の隣の呉が舞台の、8/6をストーリーの中に含む映画にしてはあまりにも伝聞にすぎない。海軍に勤める周作さんからも「新型爆弾らしい」としか情報は入ってこない。

原爆の描写ではほかにも隣保館の壁に行き倒れになっていた被爆者(刈谷さんの息子だった)、歩いて呉へむかう足を引きずった被爆者と道端に途中で倒れている人、広島からの飛散物(回覧板とか障子)、そして連絡のつかないすずさんの実家江波の家族。

すずさんの家族も母は原爆の日に街へ=中島本町とかそちら方面へ買い物に行ったというからもう行方はわかることはないだろう。母を探して歩いたからだろう急性放射能障害か、父は10月に亡くなり、妹のすみも翌年の1月になってから紫斑が出ていたから予後は分かっている。

 

原爆の情報は映画の中ではこれだけだが、ここまでの空襲の激化や物資の統制と飢え、教育を蔑ろにして学生を軍需工場に動員する時勢、すべてが日常を少しづつ蚕食していって気がつけばその状態に慣れている、それが一番恐ろしいのではないか。

昨日までは普通だった些細なことがひとつづつ変わって、または消えていく。

それが当たり前のことになって誰も異議を唱えない。

すずさんは玉音放送から敗戦を知り、憤って畑に拳を叩きつけて慟哭するが、すずさんの涙は今までこれらのことに気づかないで言いなりになってきた自分への涙なのか。

そして、平和になったから出された白米のごはんを見てどこかから差し出された手は誰の手なのだろう。それは見る人によって意見が違いそうだけど、自分は未来のすずさんの手かなあと思う。憤ってもすずさんにもすべての人にも明日は来る、その毎日を生きる事がそれぞれの居場所なのだと教えてくれているのだと思う。

 

後に年が明けて周作さんも海軍の戦後処理から生還して、出会った時と同じ相生橋でもう一回思いを打ち明け合う二人。これで本当の夫婦になれたのかもしれない。

そしてすれ違う化け物と籠に入ったワニ。すずさんの想像上の生き物なのかもしれないけど、だいたい最初に出逢った場所があの大男の背負った籠の中ってどういう比喩なのだろう、ほんとに化け物ではないだろう。(行商人の山車とかそういう比喩だろうか?)

とにかく籠の中でも何でも周作さんはすずさんを見つけてくれたし、個人として存在をみつけてくれたということだ。

夫婦ってそういうふうにお互いを慈しんで尊重するところから始まるのだと思う。

 

直截的なエピローグ

ここから後語られるのは物語としては後日譚に入るように思える。だって、すずさんと周作さんのそれぞれの居場所と思いというテーマはお互いに確かめ合ったのだから。

この後日譚で回想として入ってくるのが原爆投下当日の様子で、映画終盤になってリアルな被爆者の姿が提示されて見ていて一瞬ひるむが、しかしガラスが突き刺さったようすってもっと細かな破片というか粉みたいな無数のガラスがびっしり浴びるように刺さっていたはず。しかし親子で歩く被爆者のお母さんの腕は簡略化されてるが先が無いし、すぐに蛆がたかって息を引き取ってしまう。デフォルメされている描写なのにさらにリアルな様子が容易に想像できる。

 

すずさんとこの親子の生き残りの子供が出会うのは原爆投下後5か月後の厳冬の1月、その間どうやって食いつないでいたのか、寒さはどうやってしのいでいたのか、知る由もないが闇市で米軍にチョコをねだる子供がたくさんいたように、こういう戦災孤児はたくさんいたはずだしすずさんもそういう子達を見てきたはずだが、ここでこの子と出会って何事も無かったように連れて帰っているのはなぜなのだろう。(戦災孤児を収容した孤児院も当時あったはず、全員収容はとても無理だったにしても、そして孤児院とは名ばかりの収容所だったにしても。)

子供はすずさんの右手を見て、お母さんのガラスが差さって右手を握れなかったまま別れたことが思い出されたのかもしれない。とにかくすずさんと周作さんはごく自然にこの子を負ぶって帰る、何も言わずに描かれているけどそこに無言の絆を感じるのだ。

すずさんには結果論だけど、晴美さんと年恰好が似た子を引き取ることになって、人生に新しいページが開けたように思う。そしてここにきて思い出す、そういえばまだ二人には子供がなかったことを。

ふたりがこの子を連れて眺める呉の街と山々に灯る明かり。もう灯火管制のない町並みが明るく三人を照らす。まるで優しく行く末を見守ってくれているかのように。

(この子を連れて帰って浮浪児の身なりとシラミだらけのようすに北條家の人々はドン引きしていたが。)

しかしその中で径子さんだけが晴美さんの遺品から洋服を出してきて、合うかねえと言ってくれているところが何回繰り返して見ても自分は涙を禁じ得ない。径子さんは玉音放送を聞いてそれまで抑えていた堰を切ったように、晴美さんの名前を呼んで嗚咽していただけに、余計にこの一言が沁みる。スカートを出してきて、いったいどういう思いでいたのかと思うと胸を鷲掴みにされる思いでこっちが苦しくなる。

 

ここで涙腺崩壊していたので、このあとのエンドロールがこの子とすずさん、北條家の人々のその後を描いていて余計に泣くしかなかった。正確に言えば、DVDで何回も繰り返して全て伏線が読めてからが、ほんとに泣くしかない。

次の時代を感じさせる機関車のような、小気味よいリズムに乗って新しい日々は再び刻まれていくようすを垣間見れて、安堵に包まれているのだ。

 

映画の環境に対する執念と情念

時代の空気と香り

この映画のテーマは上記のように無言のうちに戦争を描いているということに気づいた時点で、自分はそういう作品に今まで出会ったことがなく、そういう手法で戦争について訴えることもできるのかと目から鱗で衝動的にこの感想を書き始めた。

伏線を張り巡らせてストーリー展開が静かに進んでいくところも、見る方に様々な解釈の選択肢を与えていて何回見ても考えさせられる。

戦争を扱った作品と言えば悲惨さを訴えてこそだと思っていたのはこの記事の冒頭でも書いたが、今の歳になってこれを見たからこそこういう感想が書けたのだと思っている。この映画の公開当時に見ても別の印象をもったままさして記憶に残らず、ふうん?ていう感じで通り過ぎていたかもしれない。だから余計に今これを観て感じたことを今書きたかった。10年後にはまた別の感想になっているかもしれない。

自分は、いい作品ってそういうふうに見る人によって、見る時代によって、様々な表情をもつものだと思う。

(戦争を題材にした他の作品がどうとは言ってない。ただ、こういう描写をする作品に初めて出逢ったので何かに遺したかっただけ)

 

話題がそれた。

この項で書きたいのは、この映画の時代考証のすごさだ。

自分は広島出身でもないから土地勘も無く、原爆のことについて詳細な教育を受けたわけでもないが、原爆の絵本というのを持っていてそれに載ってる当時を知るひとから聞き取りした情報に少なくとも酷似してて驚いたからだ。

それぞれの場面であまりにも情報量が多すぎて書ききれない。

冒頭の中島本町本川元安川両岸の街並み。今は平和記念公園になってる中島本町一帯は、当時は広島随一の繁華な街並みだったこととか。

雁木、店の看板、住宅や建物の形。まだ昭和一桁台は今のレストハウスが原爆投下時の燃料会館ではなく大正屋呉服店だったこととか。どうやらほんとに当時の地図どおりの区割り、商店名で位置と方角を比定して背景を描いてるらしい。

草津のおばあちゃんちにスイカを届けるとき、遠浅の砂浜を歩いて渡っているところとか。昭和一桁当時はまだ埋め立てが進んでなかったからだと思う。

それからすずさんが闇市(これもモデルがあるらしい)の帰りに迷い込んだ遊郭。映画の中では遊郭とは一言も触れられてないが、建物や登場人物の服装がどうみても遊郭のそれでしかない。あと、門柱があって境界が区切られているところとか。この遊郭も実在したらしく、目印とされてる建物も現存する(郵便局とか)。そしてすずさんと知り合いになってアイスクリームの話をするリンさんが出てくるが、スイカを小さい頃一度だけ赤い所食べたことあるとかいう証言は、ひょっとして草津のおばあちゃんちに行ったときのスイカ食べに来た座敷童っぽい子ってことでしょうか。子供のすずさんには座敷童に見えても、実際は親のない子とかが迷い込んできたのかもしれない。状況的にたぶんそうだろう(断定)。

 

もうあらゆる場面がいちいち当時を再現しすぎてて、書ききれないのでこのへんにしといていいですか?

背景の美術ボード集とかあったら買いたいくらい。売ってそうですね、欲しいです。

背景だけではなくモンペの縫い方とかの服飾、食事などの内容、配給制度から防空壕の構造、空襲の焼夷弾の種類、闇市の商品と相場……何から何まで時代考証がすごすぎる。いちいち具体的にやってると書ききれないので省略しますけど。

少なくとも自分がこれまで読んできたいくつかの原爆を扱った本とは完璧に内容が一致しているので。

当時を知る人が少なくなりつつある時代を扱うには、こうした徹底した時代考証が必須だと考えるため、そういう意味でもこの映画は良作だと思う。時代考証をおろそかにすると、それをベースに展開するストーリーにも説得力がなくなるから。

そして歴史というのは常に勝者によって書き換えられるので、もう戦時中のようすと原爆を証言する生存者が残り少なくなってきた昨今、厳正な調査に基づく作品というのはその存在自体が公平に時代をかたる証言者になりえる。

 

示唆に富む音楽

この映画を目に見えない形でしかし色彩豊かに飾るのが、テーマソング、BGM、挿入歌にエンドロールの曲などの音楽だ。

エンドロールをよく見ると音響監督が映画監督と同一人物だった。音響って歩く音、かまどの火の音、服の衣擦れの音とかも含むからそういうリアリティを監修するという意味なのかもしれない。それらの効果音がリアリティに富むのは言うまでもない。

原作の絵柄そのままの素朴なキャラクターデザイン、それぞれに表情豊かな声優さんの演技、味わいのある方言、どれをとっても映画の世界観を醸成している素敵で大切な要素なのだけど、なんといっても自分は個人的にはBGMの歌、歌詞、そして演奏を推したい。

歌と歌詞が映画の世界観とぴったり、そして演奏がエンドロールを見ていると全部生楽器演奏らしい。たぶんシンセサイザーの電子音の打ち込み音源は使ってないぽい。

生音がどうシンセサイザーの電子録音と違うのかというと、生の倍音が醸し出す表情豊かな音はそれだけでストーリー性を持つからだ。奥行き、立体感、感情、さまざまな点で電子録音とは物理的に違う。聞いてて使われてる音がどうみても倍音が響いてて絶対にこれは楽器で演奏してるなと確信したので、エンドロールで確認すると果たしてどの楽器も自分が知ってる名前がずらり並んでいた。やっぱりな!?演奏家の息吹が感じられるんですよ、音に。あれは電子音ではないと一目でわかるし、それぞれの場面に込められた思いを情感豊かに彩ってて素敵です。

プロの演奏家が思いを込めた音は、映画のストーリーを更に奥深く演出してくれるのだ。

 

映画のサントラとかを単独で売ってたりするが、でもこの映画の音楽はあくまで映画の場面と共に味わいたい。登場人物と共にその場面を臨場感あふれる音楽で楽しみたい。

 

余韻に浸りたいのでエンドロールに続いてクラファンにご賛同いただいた方々の名前が並ぶところのBGMもすばらしい。それにデッサン形式のイラストがあって、リンさんとすずさんのその後?か別ストーリー?か何かが見えるのも、色々想像できて悲観的ではないラストを思わせて良い。

 

 

 

ついでにこの映画に出逢うまでの、小さい頃に触れた戦争関連の本を挙げる。単なる覚書コーナー、個人的なメモコーナーなので読まなくていいです。

資料置き場:小さい頃、または大人になって読んだ戦争の本

ガラスのうさぎ

小学校の何年生だったか学級文庫にあった本で、東京大空襲が題材の本だったんだけどなぜか繰り返し読んでいた。内容が楽しいわけでもなく装丁も可愛いくもなかったんだけど、当時は図書室の本も片っ端から読んでたのでこれを手に取ったのは特に深い意味はなかったけど、でも内容は今でもうっすら覚えている。

かわいそうなぞう

それから近所の小さい本屋でラノベとかといっしょに、お年玉で買った上野動物園のゾウの本(文庫だったかもしれない)。今思い出しても、涙なしには読めない結末。並べてみて思った。どっちも金の星社だった。単に偶然なのだけど。

 

ほかにも戦争を題材にした絵本はたくさんある。

ちいちゃんのかげおくり

子供心にもどういう展開なのかわかって読んでて辛かった。

ひろしまのピカ

大人になってから読むと、(原爆の図を描いた)丸木夫妻が絵を担当していた。絵が全てを物語っている。格調高くて凄惨で残酷。

どうして読んでて辛い本を読んでたのかは知らないが、とにかく小さい頃に接していたたくさんの本の中に、戦争を扱った本も少なからずあっただけかも。別に意識してたわけではなく手あたり次第読んでいく中に混じってた感じ。でも怖くはあったがかと言ってそれを棚に戻したりしないで無意識に読んでいた。

 

(本ではないが)広島平和記念資料館

また、親戚や家族といっしょに広島に旅行して原爆資料館に行ったとき、被爆者を模した蝋人形や写真パネル、被爆者の遺品などの展示をを見たけどただただ怖かっただけで、当初はそれしか記憶がなかった。

ヒロシマ・ノート

 

 

 

 

その他、(大人になってから)読んだことのある戦争の本。ナチスホロコーストが題材。どっちも子供の目線からの本。

アンネの日記

ゲットーの四角い空

それから先週の終戦記念日火垂るの墓を地上波テレビで放映していたが、あの映画も子供の頃に見たときはは
・清太と節子かわいそう
・お母さんの死ぬシーン怖い
・西宮のおばさん意地悪で嫌い
という印象だけが残った。もう見たくなかったしレンタルビデオ屋で自ら借りようとは当時は思わなかった。一言で言えばトラウマ。テレビではトトロとかナウシカラピュタを繰り返し放映しててそっちのが好きだった。

 

自分はいわゆる団塊ジュニア世代だから親がすでに戦後生まれ。祖父は体格が小さく徴兵を免れたし、田舎だから空襲もなく、家は代々小作農だったから戦前は貧困に窮していても野菜とか米には困らなかったらしい。だから清太と節子が直面したような食料不足と飢餓というのはどうにも実感がわからない。

 

ただ、なんとなく上記のような本とか映画、史料に接して、子供心に戦争は怖くて嫌だという印象は持っていた。それ以外のことは難しくて当時はわからなかった。

今思えば嫌だと思って当然だ、立場の弱い子供は真っ先に見捨てられて抹殺されるから。または子供は体力がなくすぐに病気で死ぬから。

戦争は怖くて嫌なもの。恐ろしくて悲惨なもの。

 

 

大人になってから見たものは、子供の頃の視点とは全く別の印象をもっていた。それはその間に自分の意識が年月とともに変化したことを意味するし、違って当然だ。

夜と霧

ナチスドイツによるホロコーストについて。著者は実際に収容者としてアウシュビッツを生き抜いた精神科医。 

黒い雨

広島の原爆についての小説。放射線障害の眼に見えない恐ろしさ。情報統制によるいわれのない差別が生む二次被害

 

(映画)シンドラーのリスト

戦場のピアニスト

地下水道

地下水道、下に挙げた世代と、灰とダイヤモンドの三作を指して抵抗三部作と呼ぶ。いずれもナチスドイツ支配下ポーランドワルシャワレジスタンスを描いたもの。

世代

※若い頃のロマン・ポランスキ(戦場のピアニストの監督)がMunde ムンデク役として出演している。

ひめゆりの塔

沖縄戦:昭和28年の映画。俳優やスタッフが全員戦時中をリアルに生きていた世代で、沖縄は米軍占領下、なんならサンフランシスコ講和条約締結前の中で制作であり、実際の戦場さながらの火薬の量と、実感が込められた迫真の演技が感動を呼ぶ。しかし実際の沖縄戦を考えると映画の描写はまだまだ平易に描かれたものに過ぎない事を心に銘じてみるべきだ(それは戦争を扱ったどの作品にも言えることだ)。

屍の街

広島の原爆を描いた文学作品

 

原民喜の詩や作品(夏の花など)

このほかにも戦争を扱った映画、小説、絵本、詩、ドキュメンタリーやドラマなどは数えきれないし題材は第二次世界大戦だけではない(ベトナム戦争など)が、共通して描かれているのは戦争の恐ろしさ、狂気、悲惨さだった。人道的観点から捕虜の扱いを定めたジュネーブ条約や対人地雷禁止を定めたオタワ条約などがその後定められたが、現在をもってしても遵守されているとは言い難い。

 

戦争では人がお互いに殺し合う。それは狂気に支配された非日常な状態であって、麻薬が蔓延する温床とも指摘される。麻薬に頼らないととても正気を保てないからだろう。そして麻薬に頼るのは結果的に正気ではなくなるということで、戦場の帰還兵は銃火器による聴力麻痺とか振動病(神経の麻痺)と共に麻薬中毒精神疾患なども大きな問題になった。ベトナム戦争で大きく明るみに出た後、対策が取られていると言われているけどそんなわけがない。戦争で負った心の傷はどんなケアをもってしても癒されないだろうと思う。

自分の中では戦争はこういった残虐な非日常な空間で、庶民は抑圧されてファシズムを謳う大政翼賛会みたいな組織やマスコミ、憲兵などに監視されている日々を送っていた。と思っていた。自分の中での認識はそうだった。昨日まで隣人だった人もこうした世論に流されていつしか全体主義に染まる。権力に都合悪い意見は検挙され、拷問を受けて転向を余儀なくされる。普通の人が知らない間に戦争に巻き込まれ、加担させられる、それが戦争の恐ろしさ、全体主義の恐ろしさだと思っていた。

 

関心領域

全体主義の恐ろしさと、(登場人物が)間接的に戦争に加担することについての映画

 

 

正倉院の沈香についての簡単なまとめ

 

この記事では正倉院所蔵の蘭奢待つまり黄熟香について簡単にまとめてみる。

 

目次:クリックで各項目へ飛べます

 

正倉院の宝物

奈良・東大寺正倉院には聖武天皇ゆかりの宝物その数約1万点が、奈良時代よりはるか1200年の時を超えて大切に護られ伝えられてきた。

 

現代、骨董品の目利きには茶道具や掛け軸が納められた函の箱書きが価値を大きく左右する。それは宝物の由来や来歴がはっきり分かっているほど価値が高くなるからだ。

そういう意味で、正倉院の宝物は、聖武天皇を追悼するために光明皇后が目録を作って東大寺に献納した宝物群がベースであり、これ以上由緒正しい箱書きに相当するものもない。この目録を国家珍宝帳(ほかにも4種類の目録が作られた)といい、天皇御璽が全面に捺されている。

宝物は使用された時代や来歴がはっきりしているからこそ、これを元に比較研究することも可能になってくるし、正倉院の宝物はひとつずつに本が書けるというくらい、それぞれの品の来歴には長い物語が秘められていて掘り下げていくと興味は尽きることは無い。

 

正倉院宝物は、世の中の定説では簡単に言うとこういうことになっている。

大筋で間違っては無いがしかしこの説明で正倉院宝物の全てをあらわしているわけではない。

 

藤原道長がすでに正倉院の宝物を拝見したという記録があるから、平安時代にはすでに世にも知られた由緒ある宝物群だったことは間違いないようだ。

さて聖武天皇ゆかりの奈良・天平時代の宝物以外にも、国家珍宝帳に記載されていない宝物がたくさん正倉院には残されている。平安時代以降も宝物は追加献納され続け、また勅許を得て出庫され使用されたりもした。これらの履歴もほぼ全てが記録に残り、数量もほぼ全てがカウントされている。刀剣などの武器や、毛氈、屏風などの調度品は返還されたりしたが、薬物などの消耗品は使用されたぶんだけ減って、追納されたわけではない。

黄熟香という名で知られる正倉院の名宝もまた、そのような献納された時代や理由が不明な謎の宝物の一つだ。そうすると宝物の状態などから時代や使用目的などを推察するしかないわけだが、さて黄熟香はなぜここまで世界的にも名品の呼び声が高いのか。

 

蘭奢待らんじゃたい

さて正倉院の黄熟香には、後世になって雅号がつけられている。その名も蘭奢待。特に有名な宝物につく固有名詞みたいなものか。横文字で言えばスパイ映画に出てくる宝石のコードネーム的な。

たとえば武家社会で大名たちが嗜んだ茶道では、名のある茶道具にはみな銘がつけられている。愛称みたいなもの?蘭奢待もそういった通名みたいな感覚で世に広まったと考えていいだろう。

《例:茶道の青磁を例に、銘がつけられた品々をならべてみる。こうしてみるとやはりどれもはっきりした来歴が残っていることがわかる》

青磁筒花生 銘 大内筒|根津美術館

 

 

蘭奢待にはそれぞれの字に東大寺という字が隠されているのは有名な話。こういう文字遊びみたいなことになってるのも、知名度の高さを物語っている。

また歴代の権力者、為政者が(例:足利義満足利義政織田信長明治天皇)勅許を得てだが、蘭奢待を切り取り使用したとみられているのも、名声をほしいままにしたその芳香を一度試してみたいという願望が働いたものであろう。権力濫用ともいう。

 

沈すなわち香

黄熟香とは沈香の中でも最上級のものを指す。

さて香料は正倉院にも数多く収められており、光明皇后国家珍宝帳と並んで献納宝物の目録として種々薬帳をつくり、香料薬物をおさめている。その内訳は国産のものは存在せず、すべて唐や南方から伝来したものだ。街道もなく定期航路も安全な操船術も無い時代に、これらの多くの香薬はどのようにして伝わったのだろう。

以下引用:薬草に親しむ−正倉院に伝わる薬物60種のリスト 種々薬帳(しゅじゅやくちょう)

(◎印=植物性生薬、△=動物性生薬、□=鉱物性生薬、◆不明)

(1)    △ 麝香(ジャコウジカの雄の香のう分泌物)
(2)    △ 犀角(サイカク・インド産クロサイの角)
(3)    △    犀角(サイカク・インド産クロサイの角・犀角の記載2つあり)
(4)    △    犀角器(サイカクキ・犀角でつくった盃)
(5)    □   朴消(ボウショウ・含水硫酸ナトリウム)
(6)    ◎    ずい核(ズイカク・バラ科の成熟した果実の種子)
(7)    ◎    小草(ショウソウ・中国産の遠志をいうが現存品はマメ科植物の莢果)
(8)    ◎    畢撥(ヒハツ・インド産ナガコショウ)
(9)    ◎    胡椒(コショウ・インド産コショウ)
(10)   □    寒水石(カンスイセキ・方解石(炭酸カルシウムの結晶))
(11)   ◎  阿麻勒(アマロク・亡失したがコショウ科アムラタマゴノキの果実と考えられている)
(12)   ◎    菴麻羅(アンマラ・トウダイグサ科アンマロクウカンの果実片、種子)
(13)   ◎    黒黄連(コクオウレン・現存)
(14)   △    元青(ゲンセイ・亡失のため不明)
(15)   ◎    青しょう草(セイショウソウ・亡失)
(16)   ◎    白及(ハクキュウ・ラン科シランの球根)
(17)    □    理石(リセキ・繊維状石膏・含水硫酸カルシュウム)
(18)    □    禹余粮(ウヨリョウ)
(19)    □    大一禹余粮(ダイイチウヨリョウ)
(20)    □    竜骨(リュウコツ・哺乳動物の骨の化石)
(21)    □    五色竜骨(ゴシキリュウコツ・化石生薬・亡失)
(22)    □    白竜骨(ハクリュウコツ・化石鹿の四肢骨)
(23)    □    竜角(リュウカク・化石鹿の角)
(24)    □    五色竜歯(ゴシキリュウシ・ナウマン象の第三臼歯)
(25)    □    似竜骨石(ニリュウコツセキ・化石生薬 化石木)
(26)    ◎    雷丸(ライガン・サルノコシカケ科ライガン菌)
(27)    ◎    鬼臼(キキュウ・ユリ科マルバタマノカンザシの根茎・現在はメギ科ハスノハグサ)
(28)    □    青石脂(セイセキシ)
(29)    □    紫鉱(シコウ)
(30)    □    赤石脂(シャクセキシ)
(31)    □    鍾乳床(ショウニュウショウ)
(32)    ◎    檳榔子(ビンロウジ・ヤシ科ビンロウの種子)
(33)    ◎    宍(肉)縦容(ニクジュヨウ・ハマウツボ科ホンオニク)
(34)    ◎    巴豆(ハズ・トウダイグサ科の種子)
(35)    ◎    無(没)食子(ムショクシ)
(36)    ◎    厚朴(コウボク・現在はモクレンホウノキ属だが現存品は別物のようである)
(37)    ◎    遠志(オンジ・ヒメハギ科イトヒメハギの根)
(38)    ◎    呵(訶)梨勒(カリロク・カラカシ・シクンシ科ミロバランノキの果実)
(39)    ◎    桂心(ケイシン・クスノキ科ニッケイの樹皮)
(40)    ◎    芫花(ゲンカ・フジモドキの花蕾)
(41)    ◎    人参(ニンジン・ウコギ科コウライニンジンの根)
(42)    ◎    大黄(ダイオウ・タデ科ダイオウの根茎)
(43)    △    臈蜜(ミツロウ・トウヨウミツバチの蜜蝋)
(44)    ◎    甘草カンゾウマメ科カンゾウの根)
(45)    □    芒消(ボウショウ・含水硫酸マグネシウム
(46)    ◎    蔗糖(ショトウ・イネ科サトウキビの茎から得られる、いわゆる砂糖)
(47)    □    紫雪(シセツ・鉱物八種の配合剤)
(48)    ◎    胡同律(コドウリツ・樹脂の乾燥物)
(49)    □    石塩(セキエン・塩化ナトリウム)
(50)    △    い皮(イヒ・ハリネズミの皮)
(51)    △    新羅羊脂(シラギヨウシ)
(52)    ◎    防葵(ボウキ・現在はツヅラフジ科シマサスノハカズラだが亡失のため不明)
(53)    □    雲母粉(ウンモフン)
(54)    □    蜜だ(陀)僧(ミツダソウ)
(55)    □    戎塩(ジュエン)
(56)    □    金石陵(キンセキリョウ)
(57)    □    石水氷(セキスイヒョウ)
(58)    ◆    内薬(ナイヤク・亡失して不明)
(59)    ◎    狼毒(ロウドク・亡失して不明だが、サトイモクワズイモの根茎、トウダイグサ科マルミノウルシの根、ジンチョウゲ科の根などが考えられている)
(60)    ◎    冶葛(ヤカツ・断腸草あるいは胡蔓藤のクマウツギ科)

※動物由来の薬物は皮革、角、歯、骨、病的結石、生殖腺分泌物など。

※植物由来の薬物は樹皮、樹幹、根や地下茎、果皮、種子や樹脂。

※現代にも伝わるメジャーなものは赤字で表示した。

 

また種々薬帳にない香薬も多く、それを帳外薬物という。雄黄、白石英、滑石、蘇芳など、これらの献納された時代や目的は謎だ。その中でも有名なのが蘭奢待こと黄熟香で、1.5メートルを超す大きさの沈香木であること、品質も最高の物であることを鑑みると、いずれかの権力者が納めたのであろうと思われる。

 

藤原道長はこの蘭奢待を拝見したいと所望し、寛仁3年(1019年)正倉院を開けさせ宝物を見ている。(切り取ったかどうか、目印の付箋は残ってないが)

すると平安時代にはすでに献納されていたといえる。

 

そこで去年の大河ドラマ、光る君の中で紫式部の父藤原為時が越前守として赴任したとき、宋からの輸入品目録がでてきたので引用してみよう。

種々薬帳が8世紀半ば、この光る君の時代はだいたい10~11世紀。

種々薬帳にはなく、そして帳外薬物としていつしか正倉院へ献納され、そして単にドラマの演出だとしても、この宋時代の貿易品として名前があがってきているのが沈香だ。

※この各項目は下記の記事にまとめてみた。最後のほうの「香料」の項目以下を参照。

 

光る君の時代すなわち平安時代になってもこれらの薬物はすべて唐や宋を通じて西方のペルシャやトルコ、中央アジア、また南方の東南アジアなどから輸入していたことがわかる。

それら中東のペルシャやアラビア、エジプト、メソポタミアなどの国では香料は祭祀と結びつき、神に捧げる神聖な薫りとしておもに火で焚かれる焚香料が主流であった。特に有名なものとしてアラビア半島先端で採取された樹脂である乳香がある。これは中国にも伝わり薫陸香として名前が残るが、間にアラビア商人を経由しているので別の香料が誤って乳香として伝えられた可能性もある。

 

それに対し東アジアつまり中国や朝鮮、日本では香はすなわち聞くものとして発達した。つまり香木を小さな香嚢にいれて携帯したり、また香炉に衣装をかけて焚きしめ、衣擦れとともにほのかに広がる香りを楽しんだりした。当時は入浴の習慣もあまりなく、また夜の照明も少なかった中、身にまとう香りは一種の重要な装身具でもあったからだ。

たとえば正倉院には衣装に香を焚きしめる調度品として銀薫炉が残っている。

平安時代には沈すなわち香とよばれ、広く貴族の間で珍重され愛好された。

 

※香料ではなく中国茶の作法だが、茶を茶碗に注ぐ前に最初の香りを楽しむ茶器として聞香杯がある。(沈香はいわゆる香を楽しむ香道で今も使われているが)ほかにも東アジアでは様々な形で香りを楽しむ文化は残されているようだ。

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沈香の産地はベトナムカンボジアミャンマー、タイ、マレーシア、インドネシアブータンやインドなどの南アジアから東南アジアに広く分布するジンチョウゲ科アキラリア属の常緑高木に発生する。

正確には原木には香りが無いが、樹木が何らかの原因で傷ついたとき、その部分に樹脂が染み込み、沈香木になる。

さらに沈香木となった原木が倒木となり地中で朽ちたときに、樹脂の固まった部分が発見されたものを、すなわち沈香という。

このように沈香は幾多の偶然による産物であり、大量生産も不可で、なおかつ良質の沈香に変化するには100年とも150年ともいわれる期間を経なければならない。

この樹木が棲息する地も東南アジアの山中であり、発見するのも容易ではない。

紀元三世紀前半の呉の萬震による「南州異物志」には沈香の詳細な記述があり、すでに三世紀には中国では沈香についてほぼ正確な知識が得られていたことがわかる。

 

それが奈良時代の種々薬帳には記載がなく、平安時代には知られていたというのは、中国には知られていても日本に伝えわるには遣唐使などの遠洋航海による貿易(民間事業ではなかったとしても)などを俟たなければいけなかったということだろうか。

 

そこで宋時代(=日本の平安時代)の中国側の史料をふたつ引用し、現代語訳してみよう。

 

嶺外代答 より巻七 香門「沈水香」

※編者の周去非(しゅう きょひ、1135年 - 1189年)は、中国南宋の官僚・地誌著述家。静江府古県県尉・紹興府通判を歴任した。古県県尉の任にあったときに書き留めた400余条と、范成大の『桂海虞衡志』を参考にして、産物・風物・制度など関する海外情報を全10巻の地誌『嶺外代答』(1178年)にまとめた。この書は趙汝适の『諸蕃志』など後の地誌に影響を与えた。(引用:周去非 - Wikipedia )

 

原文:

沉香來自諸蕃國者,真臘為上,占城次之。真臘種類固多,以登流眉案范成大桂海虞衡志作丁流眉,宋史作登流眉。所產香,氣味馨郁,勝於諸蕃。若三佛齊等國所產,則為下岸香矣,以婆羅蠻香為差勝。下岸香味皆腥烈,不甚貴重。沉水者,但可入藥餌。交址與占城鄰境,凡交址沉香至欽,皆占城也。海南黎母山峒中,亦名土沉香,少大塊,有如繭栗角,如附子,如芝菌,如茅竹葉者,皆佳。至輕薄如紙者,入水亦沉。萬安軍在島正東,鐘朝陽之氣,香尤醞藉清遠。如蓮花、梅英之類,焚一銖許,氛翳彌室,翻之四面悉香,至煤燼,氣不焦,此海南香之辨也。海南自難得,省民以一牛於黎峒博香一擔,歸自差擇,得沉水十不一二。頃時香價與白金等,故客不販,而宦遊者亦不能多買。中州但用廣州舶上蕃香耳。唯登流眉者,可相頡頏。山谷『香方』率用海南沉香,蓋識之耳。若夫千百年之枯株中,如石如杵,如拳如肘,如奇禽龜蛇,如雲氣人物,焚之一銖,香滿半里,不在此類矣。

 

※現代語訳の国々の位置はこれを参照のこと。

 

※[  ]は、自分が足りないなーと思ったことを雰囲気で補足しました。たぶん合ってるんじゃないですか。たぶん。

 

現代語訳:

《産地の解説とそれぞれの品質について》

沈香は諸外国から輸入されるものの中で、真臘しんろう[=今のカンボジア]が最も優れ、占城チャンパー

([今のベトナム南部:上記記事を参照]が次ぐ。真臘の品種は豊富で、登流眉(原註:范成大『桂海虞衡志』では丁流眉と記され、宋史では登流眉と記される)が代表的である。その産する香は、香気芳醇で諸蕃のものを凌駕する。三佛齊シュリーヴィジャヤなど[=今のジャワ島を中心とした島々にあった国]の国で産するものは下岸香に属し、婆羅蛮香がやや優れる。下岸香の香気はすべて腥烈せいれつで(なまぐさいの意)、特に貴重ではない。沈水香は薬餌に用いるのみである。交址こうしと占城は隣接する地域であり、交址の沈香が欽に到るものはすべて占城のものとされる。

《特に海南島産の沈香について》

海南[島][広州の南に位置する島。海南省。]の黎母山峒れいぼさんどう 中では、土沈香とも呼ばれ、大きな塊は少なく、蚕の繭や栗の角、附子、芝菌、茅竹の葉のような形状のものがあり、いずれも良品である。紙のように薄く軽いものでも、水に沈む。万安軍[産の品]は[海南]島の正東に位置し、朝陽の気を浴びるため、香りは特に濃厚で清遠である。蓮花や梅の花のような形状で、一銖ほどを焚くと、煙が部屋を満たし、四方を回しても全てが香る。灰になっても焦げた臭いがしない。これが海南の香りの特徴である。海南の香は極めて希少で、省民は黎峒で牛一頭と引き換えに香一担を取引し、帰還後に選別しても、沈香は十に一、二しか得られない。近年、香の価格は白金と同等となり、そのため商人は取引せず、官吏や旅行者も多量に購入できない。中原[=華北平原]では広州の船で運ばれる外国の香のみを使用している。ただ、登流眉[真臘=カンボジア産の品種]だけが、[海南産に対して]その価値を競うに値する。山谷の『香方』は、海南の沈香を主に用いているが、これはその価値を認識しているからである。千百年経った枯れた木の中にある、石や杵、拳や肘、奇妙な鳥や亀、蛇、雲や人物の形をしたものなどは、一銖を燃やすだけで、半里に香が満ちるが、これらはその類いではない。

 

諸蕃志

※中国南宋時代に成立した地誌。1225年ごろ成立。泉州の市舶司(=唐の時代以後、海外との貿易を管理し、徴税するためにおかれた役所。また役所の長官。)をつとめた趙汝适(ちょうじょかつ 1170–1231)によって編纂された。周去非が著述した『嶺外代答』(1178年)から資料をとっている。

原文:

沉香所出非一,眞臘為上,占城次之,三佛齊、闍婆等為下。俗分諸國為上下岸,以眞臘、占城為上岸,大食、三佛齊、闍婆為下岸。香之大槩生結者為上,熟脱者次之。堅黑者為上,黃者次之。然諸沉之形多異而名亦不一,有如犀角者,謂之西角沉,如燕口者謂之燕口沉,如附子者謂之附子沉,如梭者謂之梭沉,文堅而理緻者謂之橫隔沉,大抵以所產氣味為高下,不以形體為優劣。世謂渤泥亦產,非也。一説其香生結成以刀修出者為生縮沉,自然脱落者為熟沉,產於下岸者謂之番沉。氣哽味辣而烈,能治冷氣,故亦謂之藥沉。海南亦產沉香,其氣清而長,謂之蓬萊沉。

 

現代語訳:

沈香の産地は一つではなく、真臘が最上、占城が次、三佛齊、闍婆ジャワなどが下位である。俗に諸国を上下岸に分け、真臘、占城を上岸、大食タージー[イスラム諸国]、三佛齊、闍婆を下岸とする。香の一般的な分類では、結節のあるものが最上、熟して剥がれたものが次である。堅く黒いものが最上、黄色いものが次である。しかし、沈香の形状は多様で名前も異なる。サイの角に似たものは「西角沈」、燕の口に似たものは「燕口沈」、附子ふし[トリカブトの根から採れる生薬]に似たものは「附子沈」、に似たもの[梭は機織りに使う舟形の小さな道具]は「梭沈」と呼ばれる。文様が堅く、理が緻密なものは「横隔沈」と呼ばれる。基本的には、産地の香りの良し悪しで優劣を判断し、形状で優劣を判断しない。世では渤泥でも産出するとされるが、それは誤りである。一説では、香が結露して刀で削り出したものを生縮沈、自然に脱落したものを熟沈、下岸で産出するものを番沈と呼ぶ。その香りは嚥下しにくく、味は辛辣で強烈であり、冷気を治すため、薬沈とも呼ばれる。海南でも沈香が産出され、その香りは清らかで長く、蓬莱沈と呼ばれる。

 

 

まとめ:沈香の香りはどんなだったのか

詳しくは上記の現代語訳を参照されたい。

平安時代から貴族に「沈すなわち香」として愛用され、高貴な薫りとして珍重された香だが、ほかにも南方伝来で植物由来の香料としてはインドの白檀がある。これらの解説からいうと、沈香は白檀の深遠で幽玄な芳香に、しびれるような清澄さを加えたようなものといったらいいだろうか。

 

いずれにしても高貴な人々がまとう衣装に焚きしめられ、また彼ら貴族はこうした香料を何種類も複雑に調合し、個人の好みで香りを楽しんだ。その特徴はたとえ暗闇であっても誰のものの香りか判別できるくらいであったようだ(当時は照明などの使用は限定されていただろうから)。

 

たとえばこんな和歌がある。

春の夜の やみはあやなし 梅の花 色こそ見えね かやはかくるる

古今和歌集・春上 凡河内躬恒

現代語訳:(闇とはあらゆるものをすっぽりと隠すものだが)春の夜の闇はどうも筋の通らないことをしている。梅の花の、色こそ見えはしないが、その香は隠れているか、いや隠れていないではないか。

この歌では花すなわち梅と呼ばれて親しまれた梅の香りを詠みこんでいるが、同様に衣装に焚かれた香もまた周囲にそこはかとなく漂い、その香をいつも纏っているであろう人の訪れを無言のうちに告げるものであった。

 

沈香はこのように貴族を中心として人々の生活に、また文化的にも古代中国から朝鮮、日本にかけて広く浸透し親しまれてきたものであり、それだけに正倉院に納められた黄熟香の巨木は、献納された記録こそ無いが由緒正しいものである事がおのずから知れる。また、その芳香を試してみたいという歴代の権力者の意向も分かるというものである。

 

 

 

 

 

 

 

 

第33回「式部誕生」 第34回「目覚め」 第35回「中宮の涙」 大河ドラマのlightな感想 光る君へ

目次:クリックで各項目へ飛べます

 

 

まひろから藤式部へ

さて、この回からドラマの主な舞台は、まひろの家・為時邸から中宮彰子の住まう後宮の飛香舎、通称"藤壷"へと大きく転換していく。

まひろは、物語の続きを藤壷に女房として出仕し働きながら執筆するように、道長から要請されたからだ。

これまでドラマはまひろと為時邸の家族や下人の視点で、一人称として語っていた。帝や中宮定子や彰子は、カメラのレンズを通してあくまで異世界の住民として描かれていたのだが、このまひろの出仕により大内裏の公卿の様子や内裏の後宮でのできごとはいきなり近親感のある日常のできごととしてクローズアップされてくる。

この細かいディティールが外部からはわからなかったから、まひろは桐壺の帖を書き始めるにあたってまず道長に帝の生い立ちや中宮のこと、後宮や内裏のようすを仔細に取材して想像を膨らませて書いたようだ。

しかしこれ以後、後宮で繰り広げられるできごとはまひろを主語に置き当事者として語られるようになる。

道長御堂関白記、実資の小右記、行成の権記に代表される貴族がつけていた日記の中で、藤壺で展開するストーリーが重きを置くようになってくるのも、これ以後のことである。

よって、主人公の三人称はこれ以後まひろではなく、これ以後は藤式部で統一する。

 

 

※内裏における藤壷の位置

清涼殿からすぐ隣にある。同様な位置の弘徽れ殿と共に、中宮や、また有力な貴族を後見(親)に持つ女御が賜った殿舎。

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(画像引用:飛香舎 - Wikipedia

 

職場としての藤壺

さて、まひろの生家である為時邸は小ぢんまりとしながらも(越前編を除き)ドラマのスタートから今日までの物語の展開を支えてきた背景であり、たぶん平面図も入り組んでいてあらゆる角度からの観察に耐え得る細かい設定を備えていた。

同様に、藤壺も物語の舞台としてクローズアップされるに及んで、ハレの日の舞台から日常の生活シーンへと解像度が上げられたために舞台裏も含めて仔細が語られる。

つまり中宮のお世話係やお話相手、宮中行事のスタッフとして働く女房達の日常生活にドラマの焦点が移っていく。それは、主人公藤式部の仕事でもあったからだ。

 

藤壷のしつらえ(注ここだけで15000字、長い\( 'ω' )/オワタ

参考サイト:公式で各部の拡大写真が見れる。道具類の名前だとイメージがわかないときにご参照ください。

【光る君へ絵巻】ドラマ美術の世界 ~内裏・藤壺「中宮彰子の住まい」 - 大河ドラマ「光る君へ」 - NHK

さて、この部屋に並んでいるのは、どれもなんとなく置いているものではない。ここの調度類が、大河ドラマ史上でも類を見ない豪華さなので、細部にわたるまで言及したい。

庭の藤

土御門殿にも映り込む庭はわずかながら、御所車などに藤や季節の花があしらわれていたが、藤壺では松の木に藤を這わせて大ぶりな花房が揺れている。(まだ当時は藤棚を作るという習慣はなかったらしい。)藤壷の名の由来である。また、中宮彰子の家系藤原家にも由来する藤の色は、室内調度に透かし模様の入った几帳として取り入れたり、また御簾を巻き上げている布にもグラデーションとして使われていた。

室内は几帳や御簾、また柱の間には透ける布の壁代を提げるといった調度で区切ることで厳密に空間を分けず、行事や用途によって柔軟に使い分けられるようになっていたらしい。この几帳や壁白がシースルーで狭さを感じさせず、涼やかな演出に一役買っているように見える。

繧繝うんげん縁の畳と脇息

※例:正倉院御物に残る繧繝紋

繧繝紋についてはいつかの回でもすでに述べたように様々な様式があるが、この紋様を縁にあしらった畳を使える人は帝や中宮、皇太后上皇、(准三宮に叙せられた)親王など限られた高貴な身分のみであった。

たとえば、公任の屋敷・四条宮でまひろの和歌を学ぶ会を主宰していた公任の妻敏子は親王の娘であり高貴な身分であるが、あくまで使用していたのは高麗縁の畳である。

(そもそも畳自体が当時は非常に贅沢な調度品で、ふつうの貴族は日常、自邸では藁の円座などを使っていた。)

 

さて、上のふたつは中宮御所ならではの設備ともいえる。

和歌屏風

畳に座する彰子の背後に堂々と鎮座するのは、道長が彰子の入内に際して公卿たちに和歌を依頼し、そして当代随一の書家である行成に清書させたことで有名な和歌屏風である。

この屏風の話は様々な記録に見え、だいたいドラマで描かれた内容は史実であるといっていい。公任が歌の出来に悩んで提出がギリギリまでもつれこんだのも含めて。公任は若い頃出世頭であった過去は捨て、道長と政治の舞台で競うのは諦めて和歌と文芸に生きると決めたようなので、この記念すべき屏風に下手な歌を贈っては名折れだと相当に気負っていたのかもしれない。

そしてこの機に乗じたのか、花山院も歌を贈ってきてこれは道長の計算外だったようだが、結果的に屏風の権威を高めることになったのは間違いない。

 

この屏風が彰子と対面するすべての人に、無言のうちに後見である左大臣道長の権勢を見せつけ威圧するものとなった。

一条天皇は「中宮は朕のほうを見ようともしないではないか」と道長に苦言を呈していたが、しかしこの屏風がかもしだす無言の圧力が一条天皇をして藤壷を忌避させる遠因となったのでは?と想像する。

なぜならそこに道長の権勢をみることはできても、中宮彰子の意思微塵も感じられないからだ。

帝は、中宮自身と対話してみたかったのではないだろうか?

 

螺鈿と蒔絵

この項目以下で語る通り、藤壺にはおそらく全て倫子が吟味し選りすぐった品々が並んでいたことがわかる。

【※他の屋敷(公任の四条の宮、伊周の屋敷、道綱や斉信の屋敷など)と比べても一目瞭然。ここと比肩できる調度を揃えていたのは、道長の父兼家の右大臣邸、また土御門殿に引き取られていた東三条院詮子の居室などくらいのものである。それらの室内の二階厨子には青磁の花入や香炉が飾られていたり、漆塗りに螺鈿の屏風や衝立が使われていたりしていた。このような唐や宋からの舶来品に見られる高度な細工の工芸品を並べることができる身分は、ごく一部に限られていた】

そこで藤壷で中宮のそばに並べられた調度品を見るにつけても、あらためて当時でも屈指のレベルだったのではと思われる精緻な細工のものが目白押しである。

まさに贅を尽くした空間というにふさわしい。

 

まず漆塗りの唐櫃には螺鈿と蒔絵によって、蝶と藤の花があしらわれている。

螺鈿らでんとは、ヤコウガイ漆器等にあしらった工芸技法である。

ヤコウガイは珊瑚の棲息する南方の海で採れる。貝殻の裏側に重厚な真珠様の層をもつ。これを使った螺鈿細工は南海貿易により古代中国へ伝わり、さらに奈良時代遣唐使によって日本に伝えられるという由緒と伝統を備えた工芸品である。

↓↓↓ ※この聖武天皇由来の五弦琵琶は正倉院にのこされた伝世品で、起源はインドに求められる。

(画像引用:螺鈿紫檀五絃琵琶 - Wikipedia )

その後平安時代になり、国内でも螺鈿の技術が伝えられるようになったことを示唆しているのだろうか。

蒔絵まきえは同様に漆器の地にえがいた紋様に金銀などの金属粉を定着させる技法でありこれもまた比類ない贅沢な装飾法である。(参考画像:たとえばこの手箱は蒔絵で文様がほどこされているうえ、車輪を螺鈿で表現するという絢爛豪華な品。)

(画像引用:蒔絵 - Wikipedia )

 

他のどの貴族の邸にも置かれてなくて、かつ中宮御所としての品位と格式を示す調度品として、ドラマに登場していたものの中では、まずは当時の工芸の粋を集めたともいえる螺鈿と蒔絵の唐櫃を挙げたい。

 

青磁の水差しと、打乱筥うちみだりのはこ

上に挙げたが、これも普通の貴族の館にはない品。時代的に宋の青磁かもしれない。遣唐使の時代から青磁を輸入してきた日本だが、宋の時代に至って青磁白磁とともに工芸品として完成の境地に至る。

この水差しと化粧道具を入れた箱は、中宮の御帳台つまり寝台の隣にある二階厨子に置かれており、朝起床した中宮はここで髪や身だしなみを整えたようだ。

青磁の水差しは宋の竜泉窯のものという設定だろうか(ちょっと時代が違うけど)、透明な空のごとく、澄み切った美しい碧色を呈している。この時代の青磁は全て唐か宋からの輸入品で、とても値段などつけられないほどの奢侈品であった。まさに道長と倫子の財力を持ってこそ手に入れられたもの。なぜなら国産はようやく陶器が生産の緒についたばかり、磁器は焼成温度が1200℃を超えるという高度な技術を要したため当時国内では生産不可だったからだ。(※ついでにいうとこの水差しの形式は胡瓶といって原型は遠く古代ペルシャに求められる)

その横には金細工をほどこされたハマグリの貝(紅か白粉?)、小さな銅の手鏡?、絹の巾着、櫛に筆に・・・と化粧用具が並べられた打乱筥うちみだりのはこが置かれている。筥には鮮やかな色とりどりの紋様で埋め尽くされた錦が内張りされ、そしてこれらが並んでいる二階厨子もまた美しい朱地に別の紋様の錦で飾られている。

まるで宝箱のよう、豪華すぎて眩しくて目を空けていられないほど(誇張ではない)。

なぜか御帳台の横の朝の身支度スペースの調度が一番贅沢に見えるのは気のせいか?

 

ここまでは朝のエリア、次に昼の生活スペースに置かれていた調度について考える。

朱塗りの棚と文箱

彰子から見て右側に配置されている朱塗りの棚。

(朱とは辰砂のことである(成分でいえば硫化第二水銀)。魔除けとして古墳時代から石室の内部に塗られていたことが知られている。また漆器の調度や食器類に使うことで鮮やかな差し色になるとして古来好まれてきた)

中宮の母倫子が(壮麗な土御門殿で生まれ育った左大臣家の姫ならではの)目利きで吟味した選りすぐりの品々ばかりなのだろう。金蒔絵で鶴や蝶を刻印した文箱や小物入れ、絞りの錦で縫ったお手玉、絵巻物か何かの巻物など、贅を尽くしたというか宮廷文化の粋を集めたようなものが並ぶ。

たとえば第29回「母として」の回では、倫子が年若くして中宮となった娘のために内裏の藤壺に通いつめ、話し相手になったり道具や調度を揃えるのに心を砕き、細心の注意を払っていた様子が描かれていた。(参照サイト:【光る君へ】第29回「母として」回想 “文芸ドラマ”の姿、いよいよ鮮明に 「枕草子」は政治の真っ只中へ 母子の心を動かした「竹取物語」のモダンな感覚 – 美術展ナビ )

 

※もっとも、中宮の御座所は倫子と道長が持てる財力とコネと知性とセンスのありったけをつぎ込んで創り上げたはずである。そこで藤壺画面には映り込まないけど、実際に彰子が使ってたんじゃないかと思われる品はもっとあるはずだ!という個人的思い込みから、勝手に想像します。(これまでのストーリーから、また時代背景から想定されるもの)

たとえば。

・銀細工の八稜鏡(唐で流行した)
(参考画像:双獣双鳳紋八稜鏡 | 兵庫県立考古博物館加西分館 )

上記の第29回で藤壷に献上する品々を倫子が土御門殿で選定する場面で、手に持っていた鏡がこれ。隋や唐の時代に中国で流行した形式で、主に遣唐使によって奈良時代に日本に伝わったが、倫子が持っているのは平安時代に入って日本で作られたものだろうか。銀に唐草紋様や、花鳥や鳳凰などの瑞兆をあらわすモチーフが鋳出された八稜の鏡。

・瑠璃(ガラス)の器や高坏
(参考画像:正倉院 - 正倉院
白瑠璃高坏(中倉) | 主な出陳宝物 | 開催概要 | 正倉院展 )

金に糸目をつけないのであれば、当時随一高価であったと思われるのは瑠璃(ガラス器)である。平安時代であれば、ペルシャ帝国(今のイラン)などからイスラム商人を介して輸入されたと思われるが、大変繊細で壊れやすいことから非常に値の張る奢侈品であった。日本でも古墳の副葬品としてのガラス玉や、正倉院の伝世品である瑠璃椀などの例にみられるように、限られた権力者の手にしか渡らなかったと思われる。

芸術的価値はもちろん、かかっているコストを考えると藤壷にあってもおかしくない。

・宋伝来の青磁白磁
青磁の例:参考サイト

白磁の例:参考画像 土の百変化 — 院藏陶磁コレクション_宋─元代 

青磁白磁は宋や高麗からの輸入品でガラスと同様壊れやすいが、その美しさから日本でも文人や権力者から引く手あまたの高い人気を誇り、これも値段などつけられない奢侈品。

上記の通り、彰子の御帳台の横には青磁の水差しが置かれている。さすが。

※まだ女御だったころの定子にも、母の貴子が青磁の香炉を献上していた。

・蒔絵の筝の琴や琵琶
(琴の参考画像:主な収蔵品 | 春日大社 )
(琵琶の参考資料:奈良を「伝える」活版工房 丹 TAN )

内裏の後宮中宮と数多くの女房が控えるとなれば、管弦の合奏なども多く行われていたのではないか。この後に出てくる曲水の宴での雅楽もその一種である。そこで使われていた楽器はこのようなきらびやかで華やかなものだったと考える。琵琶も筝も中国伝来だが、このころには平安貴族の間には広まっていただろうしまひろの実家にも母譲りの琵琶があった。

帝はフラっと藤壷にやってきて得意の横笛を吹いて見せるが、ああいうのはイレギュラーで、あくまで先触れがあり日時も決められて管弦の催しとして大掛かりにイベントとして行われたのではないだろうか。

中宮はいまのところ敦康親王と帝が訪れてくる以外はひとりで寂しそうにしているが、もっとこのようなイベントをやったりして様々な人の訪れがあったと思うのだが。ドラマではひたすら母倫子がかいがいしく訪れてはお話相手になっていたのを見るばかり。

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ここまで、藤壺の調度を思い込みと妄想で補完するコーナーでした(*^▽^*)

 

さてふたたび彰子の身の周りに並んだ実際のものに言及することにする。

紫檀や黒檀、象牙を使用した双六盤や囲碁

奈良時代の参考画像(模造複製):https://www.narahaku.go.jp/collection/500-0.html

(双六はまひろと為時も家で遊んでいた。)今でいう紙にコースが書かれたものとは当時はルールが違っていたが貴族の間では大流行して賭け事に使われ、禁令も出るほどだった。このルールは現代に伝わっていない。

そのほかに当時中国から伝来し貴族の間で流行していた遊びには囲碁がある。こちらは双六と違い、今でも同じルールで東アジアを中心に広く親しまれている。1000年もルールも用具も変わらないってすごくないですか、囲碁って。

さてちょっと話は飛んで第36話に彰子と敦康親王が差し向かいで双六で遊ぶシーンがある。使われてるのは上記の奈良時代風じゃなく箱型の江戸時代に近い形式みたいだが、どちらにしても双六台は紫檀か黒檀、双六石は象牙だろう。(黒色の双六石の材質がよくわからないが)なぜならどれも東南アジアやインドにしか産しないもので南海貿易によって輸入されたものであり、彰子の使う道具はこのように貴重にして最高級品ばかりだったと思われるからだ。

 

投壺や貝合わせなどの遊戯道具

投壺

第32話で道長藤壺を訪れ、敦康親王にと遊び道具の投壺を一式プレゼントしていた。

奈良国立博物館の収蔵品:https://www.narahaku.go.jp/collection/p-1317-256.html
※実際の遊び方:「投壺之禮」如何寓教於樂? | 中國文化研究院 - 燦爛的中國文明
正倉院宝物:https://www.narahaku.go.jp/exhibition/special/201310_shoso/

正倉院に収蔵されているものが一番ドラマに出てきた形に近い。以下、正倉院の解説。

銅製、鍍金(ときん)の壺。下膨れの胴、両耳を付けた長い頸(くび)が特徴的。外面に線刻で唐草文や花、鳥、瑞雲、獅子などの様々な文様(もんよう)を表している。
投壺(とうこ)は古代中国において宴席の余興として行われたゲームで、離れた場所から壺に向かって矢を投げ入れ、その優劣を競ったという。

この贈り物には、現時点で次の春宮と目されている敦康親王に贈り物をする道長には政治的意図が見て取れるが、とにかくこの投壺は古代中国の西周(紀元前1027年~770年)ですでに遊戯具の青銅器として使われていた歴史あるもの。左大臣たる道長から親王様への贈り物としてふさわしい。

遊び方は付属の投壺矢を壺に投げ入れて入った本数を競う。(本来は宴会での遊戯。負けると酒杯を飲み干す決まりがあった)ただ、このときからわずか100年後に正倉院開封したときにはすでにこの遊戯は廃れており、誰も遊び方を知らなかったという。

 

貝合わせ

【光る君へ】第29回「母として」回想 “文芸ドラマ”の姿、いよいよ鮮明に 「枕草子」は政治の真っ只中へ 母子の心を動かした「竹取物語」のモダンな感覚 – 美術展ナビ

上記解説サイトを参照のこと。彰子が誰も訪れない静かな藤壺でひっそりと一人貝合わせに興じるところに母の倫子がお話相手として現れる場面。

この遊戯はハマグリの貝が対の貝以外には絶対にぴったり合うものが無いところから生まれたもので、平安時代の当時は貝殻をトランプの神経衰弱のように合わせる遊びだったようだ。

だから高価で華麗な遊戯具というには彰子が持っているハマグリの貝はシンプルだからここに並べるのはちょっと趣旨が違うが、投壺と同様に藤壺で親しまれていた貴族の遊びという意味で一連の物として考えるといいだろう。

(金泥や絵付けで華やかに物語絵などが描かれ、蒔絵の漆器ケースとセットで普及するのは江戸時代に入って、大名家の嫁入り道具としてである。どちらにしても高貴な身分のための遊戯具であった)

金銀蒔絵の高燈台

燭台に光背のように蒔絵の円板をつけたもの。陶器に油を入れ灯芯を浸して灯をともす。ふつうは庶民の燭台にはこのような蒔絵の円板とかはつかない。

ここで蛾の紋様が採用されているのは、徐々に成長する生き物のため中宮の成長になぞらえて調度品にあしらわれているらしい。ほかにも蛾の紋様はこのような理由で、縁起物として当時は様々なところで使われた。

吊り燈籠

藤壷の廂には透かし彫りの見事な燈籠がずらっと提げられている。そういえば越前国府にも宋の様式の優美な塔籠があったことを思い出した。

藤壷のものは元々の備品なのか新しく道長が調達したのかわからないが、どちらにしても宮中ならではの装飾で、藤壺の優雅な雰囲気をいっそう引き立てている。

現存する平安時代の吊り灯籠を有する春日神社。参照サイトと動画を貼っておくので、こういうのが飾ってたんだなーと、ビジュアル的にご参照ください。

中元万燈籠|春日大社|奈良県観光[公式サイト] あをによし なら旅ネット|奈良市|奈良エリア|イベント・体験

吊香炉

衣装に香を焚きしめるのは貴族の嗜みであった。香の配合にもセンスが問われ、姿が見えなくてもあたりに漂う香りで誰が訪れたか当てられたくらい、衣服に焚きしめた香はその人を象徴するものであったといえる。

特に貴族の女性は近しい家族で会っても男性に顔を見せることはまれであったため、和歌の腕前、豊かな長い黒髪、衣装の襲の色目、文の筆跡、琴や琵琶などの楽器演奏、そして御簾越しにかけられる声やかすかに漂う衣装の香がその人となりを判断する重要な手段、手掛かりとなった。

衣裳の紋や襲と合わせてこうした香にもセンスがあらわれるからである。

香と言えば沈香などの香木がもとだが実際使われていたのはそうした数種類の香を配合した練香と呼ばれるものが使われていたらしい。

衣服に焚きしめるのは透かし彫りの香炉や竹かごに衣装を懸けるが、この彰子のサロンに置かれているのは空間に香をくゆらせる空薫物の香炉のようだ。置かれた場所は彰子の真後ろ、屏風の前に、背の低い衣桁のようなものに組紐で提げられた丸く小さな香炉が見える。

土御門殿では廂に香炉を吊っていたが、藤壺では趣向を変えて室内調度としていた。調度品や衣装でビジュアル的に高貴な演出をするだけではなく、空間をもトータルコーディネートするのが貴族の嗜みでもあったのだ。

 

さて、ここまで中宮の御座所である藤壷のしつらえを見てみた。

すごかったですね。

書いてて自分でもすごいなあと思いました(;'∀')汗

もう圧巻のひとことです。

名実ともに天皇の清涼殿の次に高貴で華麗な空間であったことを彷彿とさせる品揃え。

内気で口数の少ない彰子が寂しい思いをすることが無いように、倫子が華やかに盛り上げると誓った後宮。思えば入内の時満年齢でいえば11歳、数えでも12歳の彰子を内裏へ送り出した母倫子の胸中はいかばかりだったか。そして定子の面影を追う帝に全く顧みらることなく寂しい藤壺で過ごす彰子のことを、気にかけないときは一瞬たりとてなかっただろう。倫子の心中は察するに余りあるものがある。

並んだ調度品には、心づくしという言葉ひとつでは言い表すことのできない細やかな気配りが隅々まで感じられる。

 

(以下、視聴者としてのつぶやきーー)

為時邸は質素なつくりで下人も少なく見た目に素朴でしたよね、セットの規模としては邸内を遣水が流れてて本格的だったとも言いますが。しかし豪壮華麗なつくりというと兼家の右大臣家、そして土御門殿と内裏の清涼殿でしたが、細部まで本格的にクローズアップするに耐えるこだわりというと、断然この藤壷だと思うんですよね。

はっきり言おう。この藤壷編に大河ドラマの予算の大半をつぎ込んだのではないかと思うくらい。道具も衣装も。

並んでる調度品一つ一つが微に入り細を穿つ念の入れようです。どれ一つとしてまったく手を抜いてないばかりかカメラに大きく映らないところまで全てにおいて抜かり有りません。

衣装も当初主人公のまひろがいつまでも麻の衣装で素朴な印象でしたが、ここに至って舞台が内裏になるに及んで、まひろほか同僚もみんな女房装束の十二単、ほかの登場人物たちもみな高貴な身分に出世して華麗な金襴の袿や直衣を着込み、衣装の豪華さが半端ない。

今回の大河ドラマにおいて、ここに挙げた調度品もみどころですが、やはり毎回登場人物たちが出世していくにつれてどんどん豪華になっていく衣装が最大のキーポイントだと思う。戦国時代ものと違って王朝を舞台にした今回は、下剋上もなく血筋が人生を決める、すなわち着ている衣装=身分を表していたからだ。

登場人物たちの身分設定通りに惜しみなく予算を投入して再現された平安時代の衣装たち、有職故実に基づいて再現された織や紋様、豪華な刺繍の仕上げ、繊細な襲の色目など、今作でしか味わえないこだわりの演出を存分に楽しみたい。

 

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ここまで藤壷のセットについての考察でした。

お付き合いいただきありがとうございました。

以下、引き続きドラマの粗筋についての考察にうつります。

 

女房の局と、仕事内容

さて、まひろの同僚たちと彼女らの控室もクローズアップされていたので、併せてメモしてみたい。藤壷の女房の局は殿舎の北側に並んでいたようで、女房達は廂に面して基本的には二人一組の単位で空間を壁代=壁代わりに垂らされた布で区切って使っていたようだ。今でいう水回り共用のシェアハウスといったところか。

シェアハウスだから自分の局には最低限の個人所有の物を置いているだけで、あとは廂の廊下に必需品が並べられていた。朝起きて身だしなみを整える化粧道具、着替えの衣装、そして全部手縫いだったからか裁縫道具も常備されていた。なかでもお風呂に入れなかった当時、香を焚きしめるのも大切だったが長い髪は度々洗えないからきちんと手入れしていたようで、女房同士交代でお互いに髪を梳く様子が出てくる。

・早起き

・蔀戸を上げる

・寝巻の白い単衣から、緋の袴を履いて着替える。

・角盥で布(絹?)を濡らし顔を拭く。

・衣装を着たら交代で髪を櫛で梳く。

・次に化粧。

・最後に唐衣と裳をつけ扇を持って出勤準備完了。

上の項目で女房装束は豪華と書いたが、しかしこうして着付けの順番を見るにつけても、予算もそうだけど撮影にかかる俳優さんたちはいちいちこうして着付けているのかと実感して、あらためて大がかりだなあと思う。

撮影がクランクインするまでに、おそらく去年の夏ごろから衣装合わせ、所作の習得など、大変だったのではないかと思うわけです。男性は烏帽子や冠をかぶり公卿たちは束帯に刀を提げていて何かにぶつかったら大変だし。女性は長い垂髪をつけ、特に十二単は裳と唐衣をつけて袴を引きずって歩くだけでも大仕事だと思う。袴を履いて段差を上がる、何気ないこの動作、つまづかないのかいつも冷や冷やして見ている。袴をかろやかにさばいて演技されている倫子様や女房役の人々に脱帽です。さすがプロ。立ったり座ったりするだけでも、複雑な衣装を捌くしぐさが自然です。帝の直衣がいちばん裾も袴も引きずってて袖も長く動きにくそうではあるが。いかにも労働しない身分の服という感じで。

 

これまで宮中の女房で台詞と名前があったのは清少納言だけだったので、ストーリーに絡んでくる職業としての女房がクローズアップされてくるのはこれ以後だ。

いわば定子の後宮では正装した清少納言が主人の定子やほかの公卿たちと和歌や漢詩でやりとりしているところだけで、いまいち生活感に欠けた。でも高畑充希さんとファーストサマーウイカさんの惹きこまれる演技で、忘れることのできない輝く定子の後宮のイメージは持てました。

 

さて、ここにきてまひろこと藤式部は藤壷を舞台にお給料をもらって源氏物語を執筆することになったから、藤式部の仕事部屋である女房の局に焦点があてられるのも自然な流れではある。

 

同僚の登場と陰湿ないじめ

さて一日のルーティーンを見て回ったところで次は女房としての仕事を体験する藤式部。別に職場体験ではなく本採用の正社員なのだけど、藤壺に上がったばかりの藤式部は為時邸とちがって煌びやかな世界に気圧されて、まだどこかお客さん気分が抜けてないように見える。女房を志願して就職活動をしたのではなく、源氏物語を書くという文芸枠で要請されて就職したからかもしれない。まだ、職業として責務を果たして働くという意識が見えないように感じられる。

恐らく直属の上司になるのであろう、藤壺を取り仕切っているらしい宮の宣旨という女房に局を案内され、日ごろの仕事を教えてもらって藤式部ははりきっているつもりで「わたくしもお手伝いしとうございます!」と発言するものの、他の女房に思いっきり顰蹙を買っていた。

「お手伝い・・・??」

回りの女房が裁縫仕事しながら引きつった表情を浮かべているのが怖い。

彼女らの心の声をレポしてみよう(想像)。

・お手伝い感覚で出しゃばってこられても困る

・お手伝い感覚とかバイト感覚で仕事されても邪魔なだけ

・宮中の仕事をお手伝いなんて、勉強し直しておとといきやがれ((๑¯ω¯๑)あっ宮中が舞台なのに口が滑りました)

 

さらに、さっそく就職翌日に寝坊したまひろに対して(物語を執筆してたから本業のためなのだけど)イヤミの応酬が始まった。

新人への顔見世みたいなものか?

って昭和時代の部活の、先輩による圧力面接じゃあるまいし。

「夜遅くまで何をなさっていたのでしょう」

「誰ぞの足でもお揉みにいらしたのではないの?」

「まあ、藤式部ったら……おとぼけになってwwwww」

「(意訳=しらばっくれても無駄よwww)」

赤染衛門先生の解説によれば、足を揉む=夜伽に召されるという宮中用語らしい。

(定子の後宮でも定子の実家が没落していくにつれて内裏を退出し、職御曹司に戻り、再び内裏に召される過程での定子への陰口がすごかったですが)

相変わらず宮中の女房達の陰口というか質の悪いいじめは健在のようです。

人間、人数が集まると自然と上下関係ができて誰かを理由なくターゲットに決めていじめるようになる。なんでなんだろう、ほかに楽しい事ないのかしら?

 

さてまひろが初めて体験した大きな公式行事は中宮大饗だいきょうだった。

まだ勝手がわからない藤式部はまごついて宮の宣旨に怒られている。めげるな藤式部。この通例正月2日に行われる行事で、ドラマが1007年に時間が進んでいることがわかる。

次々と中宮様に拝礼に参内する大臣以下公卿たち、それに下賜する錦などの録を次々と準備する女房達で藤壷は賑やかだ。行事の最後の録の下賜だけが再現されているが、饗応の宴、舞楽や鷹飼の参入、管弦などの芸能と続き一日を通しての行事であったから女房達は大忙しだったことだろう。

ひょっとしてこの晴れの日に、女房達は衣装や調度、お菓子などを下賜されることもあったのだろうかとも思う。女官が宮仕えしてお古をいただくことはままあることだしそれが楽しみで仕えていた面もあるのではないか。

中宮大饗だいきょうの準備で、中宮大夫の職にあった斉信がもったいぶって藤壷の女房を指揮して取り締まりにくるが、女房達は気にも留めてない風で鼻であしらっている。宮の宣旨が扇で顔を隠し、どっちつかずの返事をして全く意図がわからないのが全てを物語る。

この一大プロモーションに向けて職場一丸となって残業するところ、上司からおひねりやお古をもらえるチャンスがあるところ、いじめがひどいところ、そしてなんといっても凡庸な上司の言う指示を気にも留めずに同僚との世間話に花が咲くところ…

もうこれ大企業のオフィスフロアの日常ですやん。

 

大河ドラマはこれ以後、腕一本で叩きあげてきた筋金入りの職人である藤式部が、オフィスを舞台にバリキャリとして目覚ましい出世を遂げていくストーリーになります。

皆さまよろしくどうぞ。

ちなみに藤式部の性格は冗談も通じず真面目一辺倒、男との浮ついた噂もなく道長様からの任務一筋に邁進する仕事人間です。

24時間闘えますかを地で行ってます。

いえ、無駄に残業するのが美徳なのではなく、筋金入りの叩き上げバリキャリなだけあって手加減しない、妥協を許さないという意味です。

どのくらい妥協を許さないのかというとこの後すぐ出てきますが、藤壺に上がってはうるさくて物語が書けないから道長の懇願もほったらかしてさっさと実家に引っ込むくらい、仕事に対して真摯です。

だから物語の仕上がりぶりは帝をも唸らせるものが上がってきますが。

 

さて部下に顧みられない凡庸な上司こと中宮大夫の斉信は、暇つぶし兼顔見せに公任と共に藤式部の局を訪れる。さっそく、全然指示を聴かない部下たちの愚痴を藤式部につらつらと述べる斉信。ここで愚痴ってもしょうがないじゃないですか、藤式部は新人なのに。

そんな無駄な愚痴に、藤式部の新人としての切り返しぶりが素晴らしい。

「わたくしのような地味でつまらぬ女は、己の才を頼みとするほか御座いませぬ。左大臣様のお心に叶うよう精一杯励みます」

地味に自分の腕をアピールしつつ、謙遜する神業。

すごい。

そしてさらにすごいのは、「地味でつまらぬ女」は、以前打球(いわゆるポロ競技)の会に貴族の令嬢としてまひろが末席に参加したときのこと、あの時の雨宿りで、まひろが斉信と公任の会話を隠れて聴いていたことを踏まえてという設定。

あれはいつのことでしたか、第7回放送のことでした。台詞をそのまま引用します。

斉信・公任のまひろ評「地味でつまらない」「あれは無いな」「女というのは本来、為時の娘(=まひろ)みたいに邪魔にならないのがいいのだけど、あれは身分が低いからダメ」

斉信「左大臣家の姫倫子は、もったりしていて好みではない」「ききょう(清少納言)のことは遊び相手としか考えていない」

公任「俺たちにとって大事なのは恋とか愛とかじゃない。いいところの姫の婿に入って、おなごを作って入内させて、家の繁栄を守って、次の代につなぐ。女こそ家柄が大事だ。そうでなければ意味がない」

そして第33回放送の今回に至って藤式部と道長は、斉信と公任にいまの時点で完全に勝利しているんですよね。ものごとは勝ち負けが全てじゃないにしても。

道長は、公任の言う「家柄がよい姫」つまり宇多天皇のひ孫である左大臣家の倫子に婿に入り、願い通り娘を入内させ中宮の座につけた。居並ぶ公達のライバルの中で群を抜く出世を果たしている。(今のところ中宮彰子と帝の関係が道長の懸念であるとしても)

そして、藤式部はその道長に雇われるという形ではあるが、物語を執筆するという才能のみで出世し、地味でつまらない家柄の低い女でも見どころはある事を証明した。

それをサラッと笑顔で嫌味なく返す藤式部、さすがです。

そして何を言われたのか真意を全く分かってない斉信と公任。

凡庸な上司で部下の女房にあなどられたままで、出世も大納言とか中納言止まりで大臣まで進めない原因はですね、君たちのそんな詰めが甘いところにあるのだと思うよ、視聴者の感想としては。

 

 

女房の名前というのは藤式部も通称であるように、父上の官名等をもとにつけられたものなので、ここで登場した同僚たちを彼女たちの本名とともに整理しておく。

まひろと将来いちばんの親友になる小少将の君は源時子。倫子の姪。ドラマでは薄い藍色?の唐衣をつけている。中宮大饗の支度をしながら、藤式部のことを赤染衛門からきいて「まあ、お方様(=倫子)の学びの会にお若い頃出ていらしたなんて、学がおありですのねえ」と、まだなじんでない藤式部にも好印象を持っててくれそうな素直そうな品のよい人。笑顔が素敵。

 

これ以外の人は藤式部に冷たい(今のところ)。

大納言の君は源廉子。この人も倫子の姪。女房名はたぶん父上が大納言だから。えんじ色の唐衣。

宰相の君は藤原豊子。道綱の娘。桃色の地に細かい紋の唐衣。……ん????ということは、道長の娘である中宮彰子にとってはいとこ???というわけで、父上の身分によって主人と女房という厳格な差ができてしまうところが身分が全ての貴族社会の実態であった。

左衛門の内侍は橘隆子。桃色地に雲立涌紋ふうな織の唐衣をつけている。この人が何かにつけて藤式部への当たりが強く率先していじめてる印象。理由もなく何を恨んでるのだ。のちに藤式部が中宮の信頼を得るに及んで、女房としての自分の役割を奪われたことを根に持っていると密かに赤染衛門と語っていたが、それは単に逆恨みだそれぞれ自分なりに誇りを持って中宮にお仕えすればよいではないか。

 

さて、宮中に出仕してくる女房にはいくつかのパターンがある。そもそも良家の令嬢は結婚する相手以外には、家族にも顔は見せないのが通例であるが女房としての職務を遂行するとそうも言っていられない。ではどのような場合に出仕してくるのだろう。

・良家のお嬢様タイプーー収入には関係なく宮中の作法などを身につける目的の行儀見習い

・零落した貴族タイプーー昔は父上の身分など高かったが収入が途絶えて就職してくるタイプ

・文芸枠タイプーー中宮彰子への家庭教師役、貴族との応対など宮中文学の最先端を担う例:まひろ、赤染衛門和泉式部、伊勢、小式部内侍、大弐三位

今のところ藤式部が出仕したときには全員一番上の良家のお嬢様タイプしかいない気がする。

確かに斉信の愚痴も、あながち嘘ではない。確かに能率も何もあったもんじゃない。だって、邸の奥で深窓の令嬢として数多くの女房と使用人にかしずかれて育てられた姫君たちが、いきなりオフィスに就職することを考えてみたらよろしい。

どう考えても矛盾してる。

だって出かけるにも牛車(=運転手と付き人が何人もいるハイヤー)で、広大な庭園が拡がる自宅で管弦の宴(=オーケストラ生演奏会を兼ねた晩餐パーティ)とかやってるような邸で育ったのにですよ。いきなり、女房=側仕えの使用人として宮中に出仕しろと言われるわけですよ。で、中宮の世話とか公卿との接待とかいう雑用を任されるわけですよ。

制度のバグでしかないでしょ。

こんなので現場が回ってたとはとても思えない。

ちょっと、心の隅で斉信に同情しようかな?という気持ちが無いわけではない……

 

結論:

このような仕事のおぼつかない女房達による効率の悪い職場。

横行する陰口。陰湿ないじめ。

廊下に面した開放的な局は間口が広く、一人用とはいえ全く静かじゃなくて落ち着かない。何しろ一文字書くごとに何か周囲でもめごとなり事件じゃないにしても始終騒がしくてうるさく、全然書き進まない。

というわけで藤式部は意を決して宿下がりを願い出る。

あの静かな為時邸で庭の遣水のせせらぎに耳をすませば、物語は文字通り秒で仕上がるように思われた。見てる視聴者としてもこの辺じれったすぎて胃が痛い。実家でスラスラ書き進めてたころがつい昨日のように思われるだけに余計に。

しかし藤式部の出仕は最後の切り札として道長が斡旋しただけに、そうは問屋が卸さないのだった。

 

道長の焦り①

藤式部が藤壺に上がって一週間で早々に見切りをつけ、さっさと退出しようと道長に願い出るが道長にも言い分がある。

・藤式部が藤壺に常駐しててくれないと帝は藤壷に興味も向けてくれない。

・一人用の局で他の女房の倍の広さなのだから書けるはず

・なんなら完全個室の局を用意する

・この物語の執筆が成功裏に終わらないと俺は身の破滅なのだ

・伊周に対抗できるたった一つの策が、お前の物語なのだ

いままではまるで人の好い年おいた好々爺のように近づいてきたのに、ひとたび藤式部が少しでも意見するとこの勢いで反論される。おもわず藤式部は、

「物語への帝からの反響が不発に終わった場合自分の身柄はどうなるのだろう、もしかして粛清されるんじゃないだろうか?」

と不安が胸をよぎったらしいが、それは道長によってはっきり否定された。

そこで安心した藤式部は何か確信を得るものがあったのか、必ず新しい帖を書いて戻ってくることを誓ってまひろは実家へ下がった。

 

確かに桐壺の巻は帝に「自分の事を難じているようで腹が立った」と言わしめつつも、長恨歌などの唐の故事や仏教の思想を物語に織り交ぜるなど、「書き手の博学ぶりは無双と思われる」という帝の本音をも引き出すほどの出来であったことは特筆すべき。

もう藤式部の中では各登場人物が個性を持って動き出し、はっきりと展開の道筋も見えていたのかもしれない。なぜなら源氏物語の設定は非常に時系列も何代もの長きにわたり、伏線の張り方も複雑で通り一遍の構想ではこうも人々の胸に響く展開にはならないだろうと思うからだ。

物語は思いついたときに書かないと勢いを失う。

その通り。

 

藤式部は宿下がりの前の挨拶に中宮の御前に伺候するが、挨拶もそこそこに他の女房によって中宮とは御簾で隔てられ、意思疎通は遮断されたまま実家に退出していく藤式部。

 

ただ、藤式部には好きな色は青、好きなのは冬の空と周りの誰にも言わない本音をわずかにのぞかせて、そこに藤式部は中宮への内面世界にアクセスする手がかりを咄嗟の所で掴んだという手ごたえを感じているようだ。

 

宿下がりと、中宮彰子についての世論

さて、唐突に先触れもなく為時邸に宿下がりしてきた藤式部ことまひろを前に、驚く家族の面々。

涙の別れからわずか8日で?と訝しむ惟規。

いじめられたのでございますね?と勘の良いいと。さすが、為時邸の現役女房。

姫様がご無事でよかったと泣く乙丸。

大切にされてるなあ、このメンバーの前ではいつまでもまひろでいられるんだなあとちょっとほっとする。宮中があまりにも殺伐としているだけに。娘の賢子も女童として召し抱えるとの道長の案に、為時は宮中など権謀術数が渦巻く恐ろしいところだから子供が行くところではないとばっさり切り捨てていたが、確かに。あんな敵意の目と陰口しかない所で賢子は育てられないだろう。

 

しかし心配して惟規はまひろの部屋までやってくるのだった(といっても庭から目の前だけど)。まひろは高貴な姫君ばかりのところでいじめなんかあるはずがないと言い訳するがあまりにも説得力がなさすぎて白々しい。藤壺へ戻るかどうかもわからないと思いを巡らせながら豪語するまひろに惟規は苦言を呈し、「めんどくさいなあ姉上は、俺はそんな面倒な女には惚れないけどー」と軽口をたたく。

まひろも負けずに、「私も惟規みたいな殿御には惚れないですっ」と応酬することを忘れない。

仲がいいなあ、この姉弟コントいつまでも聞いていられる(* ´ω` *)ダイスキ☆

 

さて道長に宣言したとおり為時邸に下がった途端に次の巻はスラスラと書き進み、帚木帖はほんとうに秒で出来上がった。よっぽど藤壷の環境が落ち着かなかったのだろう。ある意味道長に気に入られたのはいいが立場が縛られ過ぎてかわいそうでもある、まひろ。

そして出来上がった帚木を、いとと惟規に読んで聞かせている。有名な雨夜の品定めの一部分らしい。

原文:(佐馬頭)又なのめに移ろふ方あらむ人を恨みて気色ばみ背かん、はたをこがましかりなん。心は移ろふ方ありとも、見初めし志いとほしく思はば、さる方のよすがに思ひてもありぬべきに、さやうならむたぢろきに、絶えぬべきわざなり。

ーーーーーーーーー

現代語訳:(佐馬頭曰く)それにまた、本心からではないが心を動かされる相手の女のあるような男を恨んで、その気持ちをあらわにして仲違いをするとしたら、これまたばかげていることです。男の心の移っていく他の女があったとしても、初めて会った時の(妻に対する男の)気持ちを(妻が)大切に思うならば、(かつて妻である自分に愛情を持っていたという)その点においての頼り処に思ってでもいられるでしょうに、そういうちょっとしたもたつきが原因になってついに縁が切れてしまうに違いないものです。清水書院の参考書「源氏物語評釈」から)

ドラマのまひろの台詞をそのまま引用するとこうである。

【たとえ今心がふらふらしていても見初めあった当初の愛情から相手にすまぬと思う気持ちが男にあれば、頼りがいのある夫だと女は思ってもよいはずなのに、そんな風に気持ちのたじろぎから縁は絶えてしまうものなのです。】

 

個人的には、源氏物語は一文が長く、主語や目的語も推測するしかなく、修飾語もどこからどこまでにかかるのか解釈も難しく、古文の時間でも一番苦手でした。そこでつまづいたのでそれから人生の中で古典の国文学にはあまり親しんでこなかった経緯があり、いまだに原作はよくわからない。(あさきゆめみしで読んだから粗筋は知ってるが)でも年月が過ぎて今改めて読んでみると、登場人物の思い悩むさまやあはれという表現のしみじみとした情趣というのが昔とは違った見え方として捉えられるようになった気がする。

この物語は(諸説あるが)おそらく宮中のことを詳しく知っている層を読者に想定しているから、いちいち詳しい解説とかを省いていてそのため現代人が読むと分かりにくく感じるのかもしれない。

つまり同時代人が読む限り、ものすごくツボを突いていて大流行となったのはわかる。

 

さて、ここで姉弟コント第二弾。

惟規が言うことに「《うんうんと深く感じ入ったようにうなずきながら》おもしろいよ、それ!!!!!!!!! 数多の男と睦んだわけでもないくせに、よく書けるねーそんなの!?」

まひろ「睦まなくても書けるのよー」

惟規、姉上に対してあまりにもストレート過ぎんですか?もうちょっとオブラートに包んでくださいませ。数多くの男と関係したわけでもないのにって姉上に向かってあけすけにも程がありますww曲がりなりにも貴族なんでしょ、もっと奥ゆかしくなさってください惟規様www

 

中宮様って、みんなうつけだって言ってるけどほんとなの?定子様はお美しく聡明な方だったって聞くけど、中宮様ってどうなの?」とぶっちゃけ話を展開してくる惟規に、まひろはあわてて反論するがどうにも説得力がない。

「うつけじゃありません、ちゃんと御意思はおありになるわ、奥ゆかしいだけ」

気軽な気持ちできいてきた惟規はまひろの剣幕にたじろぐが、まひろは世間の中宮様への意識と評価はこんなものなのかと暗澹たる気持ちになってくる。

《まひろの心の声:ちゃんと御意思はおありになるって言っても、それをどれだけ理解してあげられているというのだろう?ほんとに自分は中宮様の全てを分かっているのか?そんなわけない。》

まひろでさえこれなのに、帝にそして世間に受け入れてもらうことなどできるのだろうか?と前途多難な道のりに思わず眉をひそめるまひろだった。

 

武士の由来、興福寺の僧兵

ここで武士の話が織り込まれてくる。これは当時の公卿たちの当事者が多く日記に記録を残しているからできることである。

つくづく凄いんですよねこの日記とかいう記録。できごとが日時に至るまで1000年経った今でも特定できるほどの精度を誇り、しかも後世に史官によって書き換えられていないそのままの一次史料だから内容にも信頼がおける。

無いですよ?そんな精度で政治から貴族の日常生活まで多岐に渡る記録がしかも複数残ってる歴史の国って、なかなか。

伊勢平氏の興り

伊勢神宮の所領を統治する役目への任官で、平維衡たいらのこれひらと同じ平氏平致頼たいらのむねよりが武力で争った経緯について、道長は帝へ直訴してでも任官を取り消そうとした。帝へ直訴とは、左大臣の地位剥奪も覚悟の上の決死の上訴だ。

当時政治主導による社会福祉や医療制度は全くなく、権力も後宮政策による藤原氏摂関政治が幅を利かせていたことを考えると政治に透明性も公平性も無かったが、しかし戦乱で常に庶民の生活が脅かされることはなく、ある意味では平和だった。上記の社会福祉のインフラが無かったから極端に庶民の平均寿命が短かっただけで。(当時そんなに医療とか科学の研究が進んでいたのはイスラム世界くらいのものなので、日本が特に遅れていたという意味でもないし。)

道長いわく

「武力による権力奪取を許していたら世の中はあっという間に戦乱が支配することになるだろう」

このときは結果的に平維衡は謝罪して淡路の守に任官されることで罪を許され、また平致頼隠岐に配流され決着をみるが、しかし道長のこの発言は将来の予言を含んでいる。

つまりこのとき武力衝突を起こした伊勢の平氏はのちの武家平氏の棟梁である平清盛の祖先なのだ。このときの諍いをうやむやにしてしまったことが、院政の台頭を経て武家政権への橋渡しの先駆となった(ちょっと言い過ぎか。)

そう、伊勢平氏は伊勢南部に位置する熊野水軍、また同時期に治めていた播磨の国の瀬戸内水軍といった強大な水軍勢力(=海運や操船術に優れた氏族、海賊ではない)を従えて後に瀬戸内海一帯の制海権を握り、清盛の代に兵庫の福原(=今の神戸あたり)に都を移して港を構え日宋貿易で莫大な利益を上げ、ついに政権トップに立つあの平氏の祖先です。

この揚羽蝶の家紋に見覚えありますよね、壇ノ浦で滅ぼされたとされる平家一門の紋です。(画像引用:伊勢平氏 - Wikipedia )

 

時代が行き過ぎた。

そこで隆家がそんなに遠くない未来を予言してこのシーンは幕を閉じる。

「朝廷も武力を持つという選択肢もありではないか」と。

しかしこの提案は荒唐無稽すぎて誰からも賛同されなかった。

これは隆家がのちの太宰府に任官中に刀伊の入寇に対して九州土着の武士団を指揮し侵略軍を撃退するという武功を暗示しているものだろう。

刀伊の入寇とは中国東北部遊牧民族(たぶん女真族)が対馬壱岐を経て九州北部へ攻め込んできた事件を指す。鎌倉幕府北条氏時代に起こった元寇よりもはるかに早いこの時代、この事件以外にもたびたび中国北方民族は海を渡って攻め込んできたらしい。それに対し何で朝廷はこんなにのんきなのか、残っている記録も大した事件に発展したと記してないのはなぜか。

それはもちろん間に日本海を隔てていたことで、大規模な軍勢が十分な軍備と糧食を携えて攻め込んでくることが難しかったからということに尽きる。現に中国と陸続きの朝鮮半島は常に中国の属国として支配される運命に遇ってきた。

日本の防衛戦略は海に隔てられているという好立地を受けて、代々全くおざなりにされてきたといっていい。(この好立地は空軍と空母・大規模戦艦という、海を越えて攻め込んでくる手段が開発された近代になるに及んで突如有利な立場を失うのだが、それはここでは関係ないので省く。)

どちらにしても、朝廷が常設の軍隊を持つという施策はのちに軍事政権としての源氏による幕府創設という形で実現をみるが、ドラマの時代からは200年くらいずれている。

 

興福寺の強訴

ここで土着の武士団とは別の武力集団についても史実をもとに語られている。

興福寺の僧兵である。

大和守 源頼親と、右馬允 当麻為頼の屋敷興福寺の僧が焼き払うという、このときは道長は仲裁というか直訴を聴き裁可を下すという裁判官に近いことをやっているが、この僧兵もまたのちに政権を脅かす存在に成長する。

今回の係争は民事裁判に近いものがあり、興福寺のほうが歩が悪かったのか、僧たちは「筆頭の僧 蓮聖が公の法会に参加するのを停止」という条項を反故にしてもらう事のみを目的に京へやってきたようだ。

ほかの請願は興福寺に有利すぎて道長ははなから聞く耳を持たなかったが、とにかくお互いに痛み分けとして妥協点を探り合い、一応問題は解決を見て僧たちは奈良への帰途へ就いた。

 

※この僧兵は後にさらに強大な勢力となり、平氏政権のときにはっきりと反意を示すことで平氏からの侵略をうけ、東大寺興福寺にあった奈良時代以来の宝物や立ち並ぶ堂宇はほぼ全て焼失の憂き目にあった。ただ東大寺正倉院、転害門や二月堂などのわずかな建築物、また春日大社斑鳩法隆寺は戦火を免れて奈良時代の姿を今に伝えるに至る。これを南都焼打ち事件という(1181年)。

 

ただ、道長がこの僧たちを追い返した祟りなのか、その後斉信、また道長の兄道綱の屋敷が相次いで火事に遇うという災厄に見舞われた。災いの原因を祟りに求めて恐れ、祈祷して災いを避けようとしていた当時、こうした説はまことしやかに囁かれていた。

ただしどちらも大納言という位で別邸もほかにあり、路頭に迷うようなことは無かったらしいが、何らかの関連を疑ってしまう。他の公卿たちも枕を高くしては眠れなかったことだろう。

 

道長の焦り②と遠大な策略

さて第二巻の帚木帖を秒で仕上げて、為時邸への宿下がりから藤壷へ再び参上した藤式部。道長の検閲(?)も通って早速写本が作られ帝へ献上されたようで、桐壺巻の続きを待っていた帝は作者の藤式部に目通りを許す。

(このへんの帝とか中宮との対面がことごとく御簾越しで無いのとか、女房達が全然檜扇で顔を隠さないのは、サクサク進むドラマでいちいち顔を隠してるといつまでも視聴者が俳優さんの顔と役名が一致しないからという便宜上の都合ではあるだろう。

しかし当時の貴族の大前提として女性は結婚相手以外には、特に身分ある女性は御簾越しに相手に声を掛けるだけで姿を見せないものだったということを考えると、ドラマの演出には時々無理なものがあると感じるが、まあしょうがないと思って目をつむってみることにする。)

帝はいちおう第一印象としてなのか「最初は読んでいて朕の事を難じているのかと思い腹が立った」と述べるも、しかし「物語が次第に心に染み入ってきた、不思議なことだ。朕一人が読むには惜しい。写本にして皆に読ませたい。」との有難いお言葉があり、つまり結論として

「物語はせっかくの良い出来だからもっと続きをどんどん書いて宮廷や貴族間で普及させよ」

ということらしい。

 

ここで帝は白居易の「新楽府」からの一節を引用する。(これはまだ定子存命のころに帝の元へ伺候したまひろが奏上したという過去の伏線がドラマではあったが、たぶん史実ではない)

高者 未だ必ずしも賢ならず、
下者 未だ必ずしも愚ならず。
現代語訳:身分の高い低いでは、賢者か愚者かは計れない

これを当世の為政者に面と向かってまひろが奏上したというドラマの設定はなかなか反骨精神に富んでいて、場合によってはその場で反体制勢力と目されて現行犯逮捕とかその場で死刑宣告、悪くするとその場で切り捨て御免とか禄でもない結末しか思い浮かばない。このドラマの一条天皇はそこまではいかない穏健派らしいがそれでもひとこと苦言は述べている。

しかしそれを差し引いても、文学として出色の出来だから自分が個人的に楽しむ範疇を超えている、このレベルだと一世を風靡するであろう文化資産であり、皇室とかいう閉じた世界よりもっと一般社会に広めたい、という評価になったようだ。

 

※帝のセリフの引用元は白居易の新楽府の一節

澗底かんていの松
高さ31メートル、十抱えもあるような立派な松が、寂しく低い谷底に生えている。
谷は深く山は険しいので人の行く道も絶え、老衰して枯死しても良材を求める大工の見立てに逢うこともない。
天子は明堂を建てようとして不足する良質の梁材を探し求める一方、谷底には松の大木が見捨てられたまま、両者とも相知ることはない。
造物主たる天の意図は測り知れないもの、この大木の松に材質だけを与え、成長する適地を与えなかった。
人の世も同様、漢の金や張湯は代々俸禄を食む名族の家柄であったが、
後漢の黄憲は賢者の評を得ただけであった。
獣医の子の黄憲は卑賤のままであったが、貂尾や蝉羽で飾った冠を冠した金や張湯は高貴な身分であった。
貂尾や蝉羽で飾った冠と獣医、この両者の間には身分の高下の違いはあるが、
高い位の者が賢者であるとは限らないし身分の低いものが愚者であるとも限らない。
諸君、ご覧あれ、人の目が届かぬ深い海底にあの美しい珊瑚が生じ、
はっきり見える天上にも白楡のようなありふれた樹木が植わっているのだ。

 

結論:

道長の目論見通り。

そして倫子のいう「帝に、中宮のお目の向く先へお入りいただく」ことは一旦成功する。なぜならこれを機に帝はたびたび藤壺へおいでになるので。

 

 

褒美の扇

帝から思いがけないお言葉をいただき、道長は藤式部が任務を無事完了したことに対する褒美を持ってきた。

しかも藤式部の局へ、自分で。

漆塗りの箱に入った立派な仕立ての檜扇。

絹の糸で束ねられた扇を藤式部がそっと開くと、それは金粉で飾られ繊細な大和絵が描かれた素晴らしい品であった。

いつの間にこれを作らせていたのだろう。絵師に依頼した立派な品であることは見ればわかる。藤式部の腕を見込んで早くから褒美の品として準備していたのであろうか。そこに道長から藤式部への全幅の信頼が感じられる。

 

ここで描かれていた場面、

ひとりの元服するかしないかの年頃の若い公達と、桃色の衣装に振り分け髪の幼い姫が川のせせらぎに遊ぶ図。空には雀が一羽舞っている。

それはドラマの第一話で、幼い頃のまひろが逃げて行った雀を追って、まだ三郎と呼ばれていた右大臣家の若君こと道長と川原で出会う場面だ。

(そこで幼いまひろは蒙求を諳んじて見せてナチュラルに無邪気に三郎にも続きを諳んじよと誘うのだwwww無理があるwwww)

 

この二人はドラマでは不義の恋を成就させることなく心の交流を続けているのですが(それを世間では妾というのですが)、史実はともかく、相手は正妻のいる左大臣で藤式部の思いは決して表立って言うことはできない。

そんな中で左大臣道長から「これからも、よろしく頼む」とだけ短い謝辞とともに下賜された扇を前に、藤式部は言葉にならない感慨を胸に抱くのだった。

優美な扇を介して二人にしか分からないモチーフによって心を通わせる二人。

ここに至って物語は俄然、少女漫画の様相を呈してきた。

(バリキャリ藤式部の出世ストーリーだったはずですが、おかしいですね?)

藤式部の万感の思いを胸に秘めた表情に、あふれる思いがとめどなく流れ出るような感慨を目に浮かべるようすに、誰もが心打たれずにはいられない。

このシーンだけは、静寂の中、誰にも邪魔されずに、正座して画面の前に座りたい。

藤式部と共に無言のうちに心の中でだけそっと落涙するという繊細な感受性を共有したいのだ。

 

 

その後道長はまたしても焦り出す。(焦り②のターンである。)

道長の新たな心配というかお題は、帝が中宮へお手も触れられないことだ。帝から妻として扱われないことには皇子の誕生は望めない。

物語に帝が関心を持って下さり藤壺へお渡りいただいてもそれでは意味がない。

このへんを見ていると、人間の欲求というものは限りないものなのだなとあきれ果てるが、しかし自分も同じ人間のため人の事は言えない。

まひろは道長の自己中かつわがままな相談を受けるが当事者の藤式部に言ってどうするのだ。他に誰にも相談できるような信頼できる人物がいないからだとしても。

そこでまひろが助言することには、中宮の気持ちが帝へ向けて開かれてないからだというのが精いっぱいだったようだ。

確かに帝の気持ちをいくら藤壺へ向けさせても、肝心の中宮が心を開いていないのでは意味がない。

 

さて藤壷ではワイドショータブロイド版ともいうべき噂話が横行していた。

この藤式部による道長のお悩み相談室を、同僚の女房達は道長の浮気と捉えているようだ。

藤式部と左大臣様はお親しそう?

足を揉む仲?

そのまんま事実じゃないですか!?

あまりにも皆さま勘が鋭すぎて、その通りなだけに見てて背中を冷たい汗が流れるというか、道長ののんきさにあきれるほかない。

噂に早く気づいてください、道長と藤式部のどっちかが。

 

中宮の意思と戸惑い

このあたりで、帝の言葉にもひたすら「仰せのままに」と述べるだけだった中宮彰子が徐々にではあるが自分の言葉で喋り始める。

1007年当時、19歳ごろ。

確かに入内した当時は11歳~12歳ごろ、そんな小学校六年生くらいの年頃から中学生にかけての子に何かしっかりした見識を求めるのがそもそも間違ってるのだ。その年齢から徐々に思春期に入って世の中の色々なことを見分し、経験しながら、まさに自我を形成していく時期の真っ只中だからだ。

 

そして中宮藤壺で年月をかけて(母倫子が足しげく通って見守りながら)成長していく中で、その人格形成に大きな影響を与えたと言って間違いないのは、定子の遺児である敦康親王の存在だろう。

(彰子が入内した翌年、まだ2歳だった敦康親王の養育を藤壷の彰子に委ねることは、定子の面影を忘れられない一条天皇の足を藤壷に向けるための道長の苦肉の策だったのだが、そんな醜い政治的策略をよそに、12才違いの彰子と敦康親王はときに姉弟のように、またときに母子のように仲睦まじく成長していく。)

豊かな内面を有しながらも自己をどう表現していいか、その術を知らなかった彰子に敦康親王は素顔で接することで、彰子は徐々に感情を獲得していったように見える。

 

お手玉の時にとっさに機転を利かせてあらぬ方向へ投げ飛ばし、女房達の視線をそらしたその隙に親王様へお菓子をこっそり渡して笑顔を見せる彰子。

女房達に向ける、冷たいというより感情の波風が立たない無機質な視線は、敦康親王と話している時だけは全く影を潜める。

一緒にお菓子を食べていても彰子の表情は心底明るく、にこやかに微笑む。

藤式部に語ったように、女房達は彰子が薄桃色を好んでいると思い込んでいるが、彰子が好きなのは澄み渡った冬の空、青い色。

 

このような繊細で複雑な感性を内包している彰子は、それをどう表出していいかわからないだけなのだろう。

この感情をもてあまして彰子と帝はお互い距離の詰め方が分からないのだ。おそらく。

そして手探りのように、藤式部にコミニュケーションの手ほどきを依頼しにわざわざ女房の局まで足を運ぶ彰子。

事実ではありえないけど、しかし彰子の行き詰まりようを鑑みるに、いやいやあり得るかもと思ってしまう。

彰子の思考回路を紐解くに、

帝が何を考えているのかわからない

物語に興味をお示しになっている

私も読んでみた

帝が物語のどこに感銘を受けられたのか、主人公の光る君は何をしたいのかさっぱりわからないから教えてほしい←イマココ

そこで藤式部が言葉で説明できるわけもなく、それは彰子が時間をかけて自分の中で解釈し獲得していくほかなかったのだ。

物語で語られていく、しみじみと帝の心に染み入るのあはれの表現、それは人から聞いて理解できるものではないだろうから。

 

曲水の宴

正月から時は経ち、1007年の3月3日、桃の節句

土御門殿では中宮懐妊を祈願して曲水の宴が催されていた。

懐妊祈願というと身も蓋もないというか現代人としては聞いて赤面するのだけど、当時は帝の妃の誰が皇子を産むかは政権の行方に直結する重大事案だったので、無理もないことかもしれないが。

(彰子の母倫子は第6子かつ4女の嬉子を産んだ後で難産であり肥立ちも悪かったようで、未だ床に就いておりこの宴に同席することは叶わなかった)

※どうでもいいですが倫子様は当時44歳、現代でも高齢出産の部類なのですが、このお産も何とか乗り切り、その後も彰子以下ほかの息子や姫たちも育て上げて長生きします。倫子の母穆子様から伝授されていた「大臣の妻の心得」として健康で長生きするというのは地味なようで大事です。なにしろ、両親を病気で亡くした中宮定子は後ろ盾を失い(兄の不祥事もあって)あれほど帝の寵愛を受けていてもなお内裏を追われるのだから。

 

さて、曲水の宴とは中国から奈良時代に伝わった貴族の遊びで、寝殿造りの庭園にしつらえた遣水やりみずに盃を浮かべ、流れのほとりに思い思いに公達が座って自分の所に盃が流れてくるまでに漢詩を詠むという趣向。庭園には唐風の彩色が施されたテントが設営され、雅楽が優美な音色を奏でる中、盃がこれも唐風の彩色の鳥をかたどった模型にのせられて遣水を流れていく。

何と華やかで風流な催しなのでしょう。

観覧にお出ましになった中宮彰子も華やかな雰囲気に気分も浮き立つのか、いつも無表情なのにこの日は心なしか笑顔が見える。

このセットも当時そのものと思うくらいリアル。

また、雅楽の楽隊がすごい。楽器もさることながら衣装もまた宮内庁雅楽部に出演依頼したのかと思うくらいリアル。そんな訳もなく衣装はドラマオリジナルなんだろうけど、この宴を再現するに係るコストを合計すると、あの豪華な中宮の御座所の調度にかかるコストをも凌駕するレベルだったのかもしれない。

(放送から日数が経っているので公式サイトの解説を貼っておく)
をしへて! 佐多芳彦さん ~藤原道長が主宰した「曲水の宴」って何? - 大河ドラマ「光る君へ」 - NHK

そこで孫廂の隅っこのほうに、公卿たちと席を隔てて少ないスペースを奪い合うように、彰子付きや土御門殿に仕える女房達が公達の姿を一目見ようと我も我もと押しかけている。男性貴族が高貴な女性を一目見ようと御簾が風に舞い上がった瞬間とかを狙うみたいに、女房や姫たちもまた公達を間近で拝見する数少ないチャンスだからだ。

 

赤染衛門の夫、大江匡房漢詩が読み上げられる。

時人じじん処を得て青苔せいたいに座し

酒を清流にかべて取次しゅじめぐ

水はそそ右軍ゆうぐん 三日の会

花は薫る 東閣とうかく 万年の杯

波月はげつを巡行するは明府めいふに応じ

沙風さふう斟酌しんしゃくするは後来こうらいなればなり」

 

赤染衛門も扇の影から夫の誉れ高い晴れ姿を眺めて、心なしか微笑み照れているようでもある。いつも威厳のある風采で落ち着き払った赤染衛門には珍しい表情だ。

藤式部が藤壺へ出仕した当初、赤染衛門は夫の事を「外に女を作って遊び歩いては帰らない日々が続いた」とかなんとか言って憂えていた気がするが、別に赤染衛門はここで夫の浮気を案じて微妙な表情を扇で隠しているわけではない。史実では彼らは仲睦まじく、世にも名高い鴛鴦おしどり夫婦として知られていたから視聴者の皆様にはどうぞ安心されたい。

 

と、そこで突如にわか雨に降られてあわてて東の対に避難してくる公卿たち。

彼らは若い頃からの仲である道長と膝を割って話すのは久しぶりという風に、宮中とは違った雰囲気で打ち解けて談笑している。

尊敬語も謙譲語も身分の上下も抜きにして。

このときばかりは昔の三郎だったころの道長と、まだ元服して間もなく赤い袍が取ってつけたようで半ば衣装に着られていた感のあった頃の面々に戻ったかのようだ。

それぞれがこの時ばかりはお互いの政治的立場を忘れて楽しそうに笑い合う。

あの頃はしがらみも利害関係もなく、ただ若さを貪っていたなあと思うと懐かしい。

 

そんな道長と公卿たちを御簾越しに眺めている彰子は、政治の駆け引きの場を抜け目なく泳ぎ切っている左大臣の父道長という顔ではなく、若い頃を取り戻したように笑う父の顔を見てちょっと意外そうにしていた。

何が意外だったのか。

道長の普通の表情、砕けた感情を出して気さくに笑う道長を見て、意外だったのだと思う。

彰子から見た道長は彰子が物心ついた頃からたぶん入内させることしか頭になく、入内したらしたで自分を中宮の位におしこめて、帝のお渡りがないとか帝は彰子に興味を向けてくれないとかそんなことばかりに心を砕いていて、ちっとも人間らしく見えなかったのではないだろうか。

このとき普通に談笑している父を見て「ああ父上もまっとうな人間らしい所があるではないですか」と感じたのではないか。そんなの普通の親子なら当然すぎて何ていうこともないが、それだけ道長は傍目に見ても切羽詰まっていただろうし、政権のトップに居ると何かと言動は浮世離れしてくるものだ。

 

この当惑した気持ちをどこにやったらいいのか分からなかったらしく、彰子は側の藤式部になにげなくつぶやいた。

このとりとめもない感情を藤式部は受け止めて優しく包み込むように導いている。

藤式部の言葉が彰子には新鮮且つ思いもよらなかったようで、当惑しながらも一つ一つ言葉をかみしめるように聞いてはうなずく彰子。

殿方とはみなあのように可愛いものにございます。父上と同じように。

帝も先程の公卿とそうお変わりないように存じます。

帝のお顔をしっかりご覧になってお話申し上げたらよろしいかと存じます。

帝も、ひとりの人間なのです。

この視点が彰子には今まで決定的に欠けていたのではないでしょうか。

だから何を言われても「仰せのままに」というだけだったし、少なくとも自分から帝に意見を言うこともなく無表情のままだったのだろう。

一人の人間として、帝と(それにもちろん他の誰とも)精神的に対峙できてなかったのではないか。

でも彰子に言わせればこう返事が返ってくることだろう。

「だってどうすればいいのか分からなかったし、誰もそんなこと教えてくれなかったじゃない」

そうですよね、学問とか知識は赤染衛門が入内前に指南してくださったし、藤壺に上がってからは数十人の女房たちにかしずかれて何不自由ない生活を送ってはいたが、だからといって誰も彰子の気持ちに正面から向き合って忌憚なく意見してくれる人はいなかったということだ。

彰子自身がそれに気づかないと問題は解決しなかったし、ここに至るまでには必然的に時間が必要だったとも言えるだろう。

これで今まで全て噛み合わずに狂っていた歯車が噛み合い、ようやくゆっくりと回り出した気がした。

 

この様子を彰子の居る東の対から曲水の宴の会場を隔てて、反対側の寝殿から遠く見守っている人物がいた。

道長だ。

道長は財政的に、また政治的コネクションを駆使して藤壷での中宮彰子の立場を全面的にバックアップはできたが、しかし人間としての彰子の本音をフォローすることは父親にはできなかったことのようだ。

母親の倫子も足しげく藤壷に通い詰めて側に控え、お話相手に遊び相手にと心を砕いていたようではあったが、しかし倫子も親として彰子の気持ちに近づきすぎたのか、やはり本心を見抜けていなかった部分はあるだろう。

そういった親には決して分からない中宮の本音を藤式部が引き出してくれたともいえる。

あるいは時間が解決するしかなかったのかもしれないこの中宮彰子の変化を藤式部とのやり取りに遠目ながら感じている道長の表情には、万感こもったものがあって見ている視聴者としても涙がこみ上げてくるのを禁じ得ない。

苦笑しているような、嬉しいような、悔しいような、肩の荷が下りたかのような、すべてがない交ぜになった複雑な顔。

(想像上の道長の心の声:

藤式部、自分には逆立ちしてもわからなかった彰子の心を優しく導いてくれて受け止めてくれて、ありがとう……俺一人では絶対に無理だっただろうなあ……)

しかし自分はテレビ画面を見ながら心に言い聞かせる。

道長、焦っては駄目だ。

これで解決ではないからだ。

こうした小さな一歩にも見えないような進歩がやがて大きな一歩になるということを忘れるでないぞ……

 

金峯山寺と御嶽詣で

しかし道長は焦るのであった。(たぶん宮中の誰の忠告も耳に届いてないぽいな)

中宮様の藤壺に帝はお渡りになるがいまだ中宮に手も触れられない。藤式部の物語には興味を持ってくださったが興味は中宮様に向けていただきたいのに。

そんなこといっても事態は動かないのだが、平安貴族は災害があったり、また行き詰ったりすると神仏に祈祷するという習慣になっていたようで、道長はここで一発逆転を狙ったのか金峯山寺に参詣することを思いつく。

一発逆転とかいう身も蓋もないワードは(懐妊祈願の曲水の宴に続いて)絶対に使いたくなかったですが、道長の行動がもう身も蓋もないのでこういった表現をせざるを得ない。

帝にとって最愛の后である定子を亡くした傷はそんなに短期間で癒えるものではない。

道長は彰子が入内すれば勝手に帝は興味を向けてくれて都合よく皇子を懐妊してくれるとでも思っていたのだろうか?そんな発想は短絡的過ぎるという事実に道長は気づいてきたらしいが、やはり帝のお渡りもない中宮なんて寂しすぎる。

人としてこの事態を放置しておけるわけがない。

道長はなんとか現状を打開したかったのではないか。

そして長男の頼通、妻の明子の兄俊賢らと多数の供人を同行させて金峯山寺に向かった。

これが(事前の100日の潔斎期間を経て)1007年8月の頃。

真夏の事で陽射しも厳しかっただろうし、さらにレインコート代わりの雨着、油単(ゆたん)のような上着はあったとはいえ悪天候でも足を止めずに進む道長の一行。

 

帝は藤式部の局を訪ねて、源氏物語を執筆したきっかけについて忌憚ないところを話し合うのだが、道長の御嶽詣での動機について疑念を持たれていた。

藤式部は

道長様が願われているのは中宮様の女としての幸せなのではないかと存じます」

「親が子を思う気持ちに偽りはない、それだけでございましょう」

という趣旨の返答を以て解の一例を示す。

確かに子のためなら親は命をなげうっても惜しくない。

それだけ、わが身を犠牲にしてでも子のために尽力したいと思うのが親心。

身を粉にして働き、また神仏に祈ってでも親は子の幸せを願うものだ。

この道長の決意、帝には冗談にしかとらえられていないようで、御嵩詣でと聞いて帝は「まさか!???」と本気にしていないようだが、しかしそのような常識では考えられない行動力を発揮するのもまた、人の親ならではだ。

 

たとえば石山寺は貴族が数多く参詣し崇拝を集めた名刹で、琵琶湖のほとりに建つ風光明媚な立地から女性の貴族にも人気を集めていたようだ。

しかし御嵩詣では、同じ神仏に祈りを捧げる行為とはいえ、石山詣でや、また権力者としての左大臣道長が自邸で得を積んだ高僧に祈祷させたりするのとはわけが違った。

吉野山金峯山寺修験道の聖地であり、山岳信仰の中心地として有名だ。つまりわかりやすくいえば山伏などが修行を行う場である。特に金峯山寺は桜で有名な吉野山の中腹から山上にかけて多くの堂宇を構え、霊験あらたかな寺として有名だったようである。

自分が知っている貴族の寺社参詣といえば、石山詣でや長谷寺室生寺などに物見遊山も兼ねて旅行がてら参篭に出かけるという意味か?と思ってドラマを見ていた。

だって、亡き宣孝様が金峯山寺御嵩詣でから戻られた時は、地味な衣装で参詣するものというセオリーを破って奇抜で派手な色目の襲でウキウキしていたので、「テーマパークに出かけるみたいな楽しい旅だったのかなあ?」くらいにしか思っていなかった。

しかしここで道長の道程を実際に見て度肝を抜かれた。

道長の行程を見るに、この参詣を乗り越えれば、どんな願いも成就しようというものと思うくらい厳しいものであったことが見て取れる。

視聴者の誰もが息を呑んだであろう、空前絶後の断崖絶壁。

命綱(藁だけど)を頼みに、滑落寸前のなか、死中求活の覚悟を以て道長は一歩また一歩と道なき道を踏み越えていく。

嶮しい崖に穿たれたわずかな幅の獣道のような道。

土砂降りの雨の中をも油単の衣をまとって雨宿りもせずに道なき道をかきわけて進む。

 

仏のご加護があったのか、修験道の行者のような白装束の衣を身にまとった道長は、どうにか山頂へたどりついて経典を金峯山寺に納めていた。

この金峯山寺への道がどのくらい嶮しいものだったのかというと、現代は吉野山へ登るためとはいえロープウェイがあるくらいで、普通の人の足で登れるものではないらしい。しかもそこは山頂ではなく、修験道の行者はさらに上を目指したらしく、どういう行程での登山になるのか、まさに想像を絶する。

現在に至るまで修験道の道場として息長く信仰を集めている所以である。

人の足が立ち入るのを拒んでいるかのような深い森。

 

人智を超えた神仏が住まう空間で経験に祈りを捧げる道長の表情に、思わず見ていて画面のこちらでも僧の読経を一緒に口ずさんでしまうのだ……

 

伊周と隆家の和解そして訣別

中関白家は995年道隆が亡くなってからあと、加速度的に凋落していく。

この原因としては、伊周との熾烈な権力闘争の末に内覧の宣旨を得てついに頂点に立った道長の意思が、陰に陽に働いているというのが自分の持論だ。もはや道隆が居なくなった以上、庇護を手厚く受けていた中関白家という存在は淘汰され排除される運命にあるのだ。

このあと歴史は道長の思惑通りに回っていくことになる。

敗者は歴史の叙述すらも塗り替えられ、記憶と印象は意図的に操作され、勝者によって悲観的な観点から語られるのは古来のから代々語り継がれてきたことだ。

 

996年の長徳の変に始まる伊周と隆家の左遷に始まり、定子の落飾、二条宮の邸宅の全焼、道隆の妻貴子の死など、目に見える形でみるみるうちに没落していく中関白家。帝の肝入りで伊周は再び官位を取り戻し公卿の座への復帰を果たすが、元の栄華を手にすることはついになかった。

このような抗えない情勢の中で、なりふり構わず死に物狂いで復権を模索する伊周。

それに対し隆家はより冷静な視点で情勢を見極めているように見える。

 

道長の一行が御嶽詣でに出立することを見届けて、伊周の一党が良からぬ企ての打ち合わせに余念がないところに隆家が何気なく酒を持って立ち寄った。

伊周は我が身を滅ぼしてでも、差し違えてでも道長を破滅に追い込もうと執念を燃やしている。

隆家はそれをみて文字通り自らを犠牲にしてでも止めようとしているのが、酒を口実にしたさりげない声かけひとつにも感じられた。2人の心情はもう止められないとろこまで追い込まれているのかと思うと見ていて痛ましい。

 

そしてこの隆家が抱いていた懸念は実際に未遂事件に発展した。

金峯山寺に登頂を果たし険しい山上の堂宇に経典を納めて、無事祈祷を終えて下山する道長一行を狙って伊周と平致頼むねよりが崖から弓矢で狙う暗殺計画が遂行されようとしていた、まさにその瞬間を間一髪で隆家が妨害したのだ。

ただ従者たちから見れば、隆家は落石の危険を予見して道長に張り付き、無事に誘導したに過ぎないが。しかし隆家が邪魔で伊周一行は弓で狙うことができず、早々に撤退せざるを得なかった。

 

ーーーここで勝手に回想モードーーー

道長暗殺計画を伊周から命じられ請け負った致頼むねよりて、この記事のどっかで見ましたよね?どこでしたっけね?書いてて分かんなくなったので調べましたwwwww道長伊勢平氏の武力衝突で両者を遠国配流にして断罪した事件で、平維衡(子孫に平清盛がいる)と共に名前だけ出てきてたんでしたね!そんなの覚えてませんでしたwwwww

 

つまり、隠岐流罪になっていた平致頼むねよりが1001年に都に復帰してからあと、この暗殺計画要因として伊周は彼に接近したことになる。

目的の為なら手段を選ばない伊周。

劇中で伊周はたびたび道長を呪詛する場面が出てくるが安部晴明と違って彼にそんな霊力?があるとも思えず、必死に祈る様は滑稽ですらあるが、しかしこうして実際に道長に危害を加えようとするさまを見ると、俄然危機は現実味を帯びてくる。

伊周は嫡男の道雅に期待をかけるも、逆にうさんくさそうに、そして迷惑そうに白い目で見られる。伊周の北の方が道雅をたしなめるが道雅の意見がもっともだと思う。復讐に生きる人生は非生産的で虚しいものだよ、と言わんばかりの道雅の無言の視線が伊周に冷たく突き刺さる。

ーーー個人的な回想モード終わりーーー

 

ここにきて伊周は平致頼むねよりを実行犯として使ったとはいえ殺人という犯罪に手を染めようとしたことになるのだが、かくして隆家の尽力により伊周が罪人となることは免れた。

そして吉野山の沼のほとりでまるで身投げする前の独白かのごとく、兄弟は積年の胸の内を晒し合う。

理不尽な見えない権力の圧についに屈しようとする中関白家。

ふたりの台詞の端々に、しみじみと彼らの悲哀の運命を噛み締めるのだ。

 

《伊周》

あの花山院の誤射から何もかも狂い始めたのだ。

私はお前を恨んではいない。

しかしなぜ今なのだ。

ここまで邪魔をするとは隆家は俺の仇か?

 

《隆家》

兄上を大切に思うゆえ阻んだまで。

道長を亡きものにしたところで何も変わらぬ。

おとなしく定めを受けいれて、穏やかに生きるのが兄上のためだ。

(嫡男の)道雅も六位の蔵人になったばかりではないか。

俺が花山院の御車を射たことで兄上の行く末を阻んだことは、昔も今もすまなかったと思っている。

それゆえに 憎まれても兄上を止めねばならぬと思ったのだ。

これが俺にできる、あの過ちの詫びなのだ。

 

 

このドラマ、見どころが名言だらけで胸をえぐられる。伏線の張り方といい、脚本のすばらしさに脱帽する。

 

空蝉と夕顔の帖へのそれぞれの世論

さて、宮中では藤式部の書いた物語は第3帖のいわゆる空蝉までできあがり、内裏の女房や貴族たちの間に写本が広まってたいそうな評判となっていた。

この当時まだ日本では印刷技術はない。紙でさえ貴族にとっても貴重品だった時代である。そのため、枕草子やこの源氏物語竹取物語蜻蛉日記など人気の読み物は写本になって流布するのが常であった。つまりわかりやすく言えばクチコミです。マーケティングの基本として信頼できる人からの勧めは、購入したり読んだりして見たいと思う動機の有力な後押しです。その辺の看板とか広告よりも。当時写本しか手段がなかったとはいえ、出版物が広まる契機としてこの写本つまりクチコミはもっとも古典的かつ確実な拡散手段として(貴族の間だけではあるが)確立していたといえる。

この物語という手段を使って道長が藤式部に書かせ、帝の気持ちを振り向かせようと(そして世に広く評価されようと)したのは実に慧眼であった。

なぜなら藤式部の物語は(帚木の帖までの内容であったにも関わらず)帝をして「自分だけが読むには惜しい、皆に読ませたい」と仰せにならしめた傑作だったからだ。

このような作戦が奏功したのは当時の(貴族の間だけではあるが)識字率の高さも要因に挙げられるだろう。

以下、個人的なつぶやき……

貴族を含めても、同時代のヨーロッパでは識字率は10%以下だった。そのため式典とか儀礼は誰にでも視覚に訴えられるだけのインパクトある簡潔な形式が求められた。また唯一の文字媒体である聖書の写本は美麗な挿絵やフォントで装飾的に装丁され、しかも紙はまだ知られてなくて、羊皮紙に書かれた聖書や聖人の伝記はもはや高価な宝物として王侯貴族が所有するだけで人々に広く伝播させるのが目的ではなかった面もある。

対して同時代のイスラム世界は識字率ほぼ100%で、古代ギリシャ文化から古代ローマを経て古代の知識を受け継ぎ、また科学的な見識も非常に正確で現代にまで通じるものがあった。哲学、数学、医学、化学、天文学など幅広い分野で高い水準を誇った。彼らはアルカリを知っていて、また麻酔薬を操り外科手術を行い、火薬を開発し、そして天文学の研究から操船術に長けていて貿易商人は自由にインド洋を行き交った。

中国も古代から識字率は高く、科挙によって身分を問わず有能な者を登用する制度があったことはまひろも若い頃から憧れていた通りである。

これを踏まえれば当時日本でも(貴族だけとはいえ)識字率が高く和歌や漢詩、そして物語を通じて文化に親しむ気風があったのは特筆すべきことかもしれない。

 

さて、帝の仰せの通りに藤式部の手を離れ、意図とは別の所で(貴族が読むことだけを前提にだけど)広く普及した読み物としての物語は、読者がそれぞれの立場で登場人物に自らを投影してリアルに楽しむことのできる画期的な仕様であった。

そもそも当時の公的な文学としては漢文や漢詩が正式なものとされており、公文書も全部漢文で書かれていたなかで、仮名文字の和歌そして物語などは一段下のカジュアルな存在と目されていたらしいが、ここにきて藤式部は帝のお墨付きをもらったことで物語のそして仮名文学の新たな境地を開拓したと言えるだろう。

クチコミレポ

公任の場合

四条宮で妻の敏子と空蝉の帖を音読しながら、酒を飲み直衣の襟元をくつろげて談笑する公任。敏子は昭平親王の娘とあって高貴な姫であり、おっとりと奥ゆかしい言葉遣いにもどこか品が感じられる。ふたりが読んでいた空蝉の帖は、

『光る君が思いを寄せる受領の娘の空蝉のところに夜ひっそりと忍んでいくと、薄衣ひとつを残して逃げられていて、代わりの姫(軒端の萩)がそこに寝ているだけだった』

という部分であり、公任はこの浮気者の光る君の言動を妻に「あなたにそっくり…ww」と言われて開き直り、「俺はこのような間抜けな立ち回りはしない、もっとうまくやるものだ」と居直る。

(ヾノ•ω•`)イヤイヤイヤイヤ!

もっとうまく立ち回ればいいんですか、公任様?そういう問題ですか?公任様みたいな当代きっての秀才イケメン貴公子様に言われればそうなのかもしれませんが。お姿がまぶしすぎて正論に聞こえてきます……

というか当時の貴族は正妻に妾が4~5人とか普通でしたし、いいのか………?

いや、光る君には当時左大臣の姫である葵上という正妻がいたし、しかも葵上は妾であった六条の御息所の生霊が取り憑いて亡くなるし。

よくない。

やっぱりあっちこっちに気安く妾を作って気まぐれに手当たり次第通うのはよくないのだよ。

ねえ?

正妻の倫子がありながら、昔からのよしみとかいう言い訳でまひろと六条の廃邸で密会するという公開できない間柄だった道長様?なんか言い分ありますか?おおっぴらに妻として迎えればよかったのに、ねえ?え???まひろに拒否られた???知りませんし。この六条の廃邸って言う設定が六条の御息所の生霊をオーバーラップさせてきます。

行成

この空蝉の帖を順に音読していくという流れで登場する公任だが、彼は道長に終生ついていく竹馬の友というキャラからなのか、当時妻も子もいたと思うけど、その姿は思慮深く、すっきりした白地に金の紋様の直衣を着こなしてゆったりと邸内を歩くのみ。

当時すでに能書家として有名だった彼ならではの落ち着いたシーンであった。

斉信

打って変わってあちこちの女と浮名を流していたことで有名な斉信。

確か定子様ご存命のころは、宮中でききょうとあやしげな関係にあって言い寄っていたし。初めて登場したシーンで宮中の宿直の場面、公任と道長と3人でそれぞれ語っていたところで、

公任「姉上の女房と文をやり取りしているが、筆跡は麗しいのだが顔がダメ」

斉信「そうか~やっぱ顔は大事だよな~俺は、左大臣家の倫子様に文を贈ってるんだ」

公任&道長「おお~~、左大臣家の倫子様!」

って流れだったと思う。公任は相変わらず昔からイケメンにしてプレイボーイだったらしく、斉信も負けずに女君のところに通っていたらしいがちゃんと将来を見据えて結婚相手を模索していたらしく文を贈っていたのが、左大臣家の姫倫子。

この展開で、倫子に求婚してオッケーもらえたのが一番出世が遅くうだつの上がらない道長で、結果こんなに出世というか権力の頂点に立つとは誰が思っただろうか。

道長なんて倫子に求婚した時点でもう20才だったのにまだ正五位下、蔵人・右兵衛権佐だったんですよ?(この口調、当時の舅だった左大臣源雅信の台詞そのまんまです)

 

話がそれた。

そんな出世しようという意欲もありまた女好きであもあった斉信が、単衣=寝間着姿で女君の膝枕で物語を読む……誰だ、斉信に膝を貸し、同じ単衣姿で浅からぬ関係にありそうな、斉信にしなだれかかるこの女君は???

誰・・・???

中宮彰子の女房、小少将の君????顔が似てるけど…気のせい…じゃないな。

(ヾノ•ω•`)イヤイヤイヤイヤ!

斉信、あなた定子が栄華を誇ってたころはききょうに手を出して言い寄ってたのに、今度は中宮彰子の女房で藤壷きっての美人と呼び声高い小少将の君と関係を持ってるんですか?

どんだけ手が早いんですか?

後宮の女房はいずれも父が高い身分の生まれのお嬢様揃いで、言い寄れば妾として召し抱えれそうな身分ではあるかもしれませんけど…?

このへん、男女関係がフリーというか江戸時代みたいに儒教の教えから貞操を厳格に守るのが女の美徳とかいう概念がないので、とくに女性が自由に生きてて登場人物がみんな輝いてて面白い。

 

また話がそれた。

こうした日常のくだけた関係で一緒に楽しむ読み物、タブロイド紙とか今でいえば週刊少年誌とか、アニメを一緒に見て楽しむ感覚だろうか。それとかNetflixを家でホームシアターにして楽しむとか、そういう感じ?

それほど物語の筋、設定、登場人物、全てにリアリティがあって惹きこまれるものがあるのだろう。

いやまじで、斉信の相手の女君は誰なのでしょう。

こんな単衣で登場するからにはただの関係ではなく、しかも袿の装束ではないことからきちんとした正妻でもなさそう…?(正妻なら敏子みたいな昼のシーンで登場しそう)

 

ところで、空蝉の帖で今回読み上げられているシーンを原文と現代語訳で引用します。

いぎたなきさまなどぞ、あやしく変はりて、やうやう見あらはしたまひて、あさましく心やましけれど、「人違へとたどりて見えむも、をこがましく、あやしと思ふべし、本意の人を尋ね寄らむも、かばかり逃るる心あめれば、かひなう、をこにこそ思はめ」と思す。
かのをかしかりつる灯影ならば、いかがはせむに思しなるも、悪ろき御心浅さなめりかし。

やうやう目覚めて、いとおぼえずあさましきに、あきれたる気色にて、何の心深くいとほしき用意もなし。
世の中をまだ思ひ知らぬほどよりは、さればみたる方にて、あえかにも思ひまどはず。
我とも知らせじと思せど、いかにしてかかることぞと、後に思ひめぐらさむも、わがためには事にもあらねど、あのつらき人の、あながちに名をつつむも、さすがにいとほしければ、たびたびの御方違へにことつけたまひしさまを、いとよう言ひなしたまふ。

ーーーーーーーーーーー


衣を押しやってお寄り添いになると、この間よりは大柄のようにお感じになりましたけれども、お気づきなさらない。
目を覚まさない様子などが、妙に違っていて、どうやらそれとおわかりになって、意外の失錯に興もお醒めになりましたが、「人違いをしてまごまごしていると見られるのも愚かしく、この女が変だと思うだろう、今となっては本意の人を追い廻しても、こうまで逃げ歩く心でいるものを、望みが叶うはずもなく、さぞかし愚か者と思うであろう」とお思いになります。
「これがあの火影で見た可愛い人であるなら、ままよ、どうなるものか」とふとそんな気におなりになるのも、日ごろの悪い浮気心のお癖なのでしょう。
こちらはようよう目が覚めますと、思いもよらぬ有様に驚いた様子で、何の心構えも、しおらしい嗜みもありはしません。
でも、まだ男女の仲を知らないわりには、洒落っ気のある方なので、そう初々しくうろたえはしないのです。
光る君は自分だとは知らせまいとお思いになりましたけれども、どうしてこんなことになったのかと、もしこの女が後から静かに考えた場合、ご自分は差し支えないにしましても、あのつれない人がむやみに世間を恐れるのがさすがに可哀そうなので、度々の方違えもあなたに逢いたさの口実であったというように、うまい具合に取り繕ってお話しになります。(谷崎潤一郎訳 源氏物語一巻より 空蝉 中公文庫)

 

確かに読んでて、滑稽さに思わず笑いを誘わずにいられない場面。

内裏の女房達

宮中の廂に出てみんなで読み合ってる。写本もそうだが、このころの物語の流布としてはこうした回し読みが一般的だったかもしれない。

嫁入り道具として源氏物語一式が広まるのは江戸時代?ごろからで、当時リアルタイムで連載物語として読んでいたひとたちは、新刊が出るたびに、こうして読み合っていたのだろう。

貴族の中でも宮中の応対などで女房が一番世間を知っているし、実際の公卿の様子から、物語の中に理想の人を重ねたり、あるあるな場面を思い出して笑ったりということが一番ありそうな読者層である、後宮の女房は。

彼女らは出身こそいいところの深窓の姫君であるが、上記の藤式部の職場:藤壷の項で書いた通り、宮中の女房とはバリキャリであり当代きっての才媛が集まる所でもあったから、こういう最先端の文化にも当然敏感であったと思われる。

そして男たちの浮気癖も宮中でいれば嫌というほど見てきたであろうから、この帖の光る君の言動を一番身近に感じて笑ったのは彼女ら女房かもしれない。

この最後の一文を読んでいた女房が、見慣れない登場人物だなと思っていたら、Eテレの夕方幼児向けアニメでおなじみのおじゃる丸の声優さんだったらしい。おじゃる丸には長年お世話になったが、ここで女房装束で出てこられると全く分からなかった。女房としての役作りで喋るから当然なのだが。

だってあの声=幼児っぽい男の子、というイメージがあるから。

本当に役者さん、声優さんの仕事ぶりには驚くばかり。

 

若紫の帖と、不義の子というテーマ

金峯山寺から命からがら帰還した道長は、中宮彰子に祈祷の護符を献上した。

中宮さまをお守りくださいますようにとの願いをこめて。

これぞ藤式部が語ったところの「命に代えて子を守る気持ちこそ、親心」。

中宮もこの御嵩詣での道中は険しいものと知っていたのか、心からほっとした表情で「おつつがなく、何より」とあいさつを受け取るのだった。

そこへ乱入する敦康親王。5~6歳のころよりいつしか背も成長して表情も頼もしい。

左大臣が留守の間、私が中宮様をお守り致したぞ」

この敦康親王を、中宮彰子も親王を目に入れても痛くない可愛がりぶり。それもそうだ、敦康親王が2歳ごろからずっと藤壺で養育してまるで姉弟のように育ってきたのだから。

道長敦康親王の成長を目を細めて喜んでいるようであり、当初の「一条帝が定子から少しでも藤壷に興味をむけていただくように」との政治的思惑などとっくにお忘れになっているに違いない、お忘れになっているといいな……(願望)

 

そしてドラマは物語と同様に若紫の段に進む。

道長からの褒美の扇を眺めていて、そして廂のきざはしに停まる雀を見て若紫の段を思いつく藤式部。この設定はドラマオリジナルだろうけど、とにかくこの段で後の光る君の妻、紫の上が登場する。

「雀の子を犬君いぬきが逃がしてしまったの、伏籠ふせごに入れておいたのに」と、大層悔しそうにしています。

と、有名な紫の上登場のシーンが藤式部の声で、ナレーションで流れる。

ドラマをご覧の方はお分かりですね、第一話見てご存じかと思いますがまひろが雀を逃がして追いかけるシーンはこの若紫が伏線です。

このあと紫の上を養育していた祖母の尼君が亡くなり、光る君の屋敷に誘拐同然にして引き取られる様子が若紫の帖では書かれる。

 

しかしそれと同時進行で光る君と藤壺女御の不義の関係もえがかれていれる。この関係の結果生まれる設定なのが後の冷泉帝という筋書きである。

 

この辺からドラマの伏線だろうなとしてはっきりわかるのが、上記の敦康親王の行く末と、この「不義の関係」というテーマである。この点を意識しているとこの先の展開がよりいっそう胸に迫ってくるのである。

源氏物語の伏線の入れ方も人間関係を現実の社会のように緻密に組んでいてリアリティに驚くが、このドラマもフィクションと分かっていてもなまじ否定できないグレーゾーンであるだけに「あったかもしれないなこういう事も」と思ってみると、より現実みが迫ってくる。

 

いいですか?

このドラマでは、藤式部と道長は単なる使用人(女房)と時の権力者左大臣という立場での不義の関係であり、産まれた子が賢子であるという設定です。

このあたりから、まず真っ先に同僚の女房に関係を気づかれます。というか疑われますが、事実なので気づかれるという表現が適切です。特に左衛門の内侍に気づかれていると思います。

出てくるシーンが、お互いの目線が、セリフ回しが、位置関係が、どこからどう見ても夫婦です。

道長に言わせれば中宮様をお支えする者同士、物語を武器に戦った歴戦の猛者同士で労い合っているのだとでもいうのでしょうが、誰がそんな綺麗ごとを信じるのでしょう。

 

ではふたりを夫婦という目線で今後見てみよう。

金峯山寺から帰還した道長が局へ挨拶に来る。その 帰還を心から労う藤式部。まず道長が下人の使者を立てるでもなく直接女房の局などという裏方に現れるはずがない。普通は女房たち皆に参詣の土産が一律に振舞われる程度のはず。その道長を心底心配したふうに藤式部が気遣うが、この金峯山寺から帰還して真っ先に登場するはずなのは土御門殿の倫子様です。道長を信じて一日千秋の思いで待っているであろう倫子様とのシーンはないんですか?

このドラマはどうやら不義の関係を公認して激推しする方向のようです。NHKとしてそれはいいんですか?当時が一夫多妻制だったからいいんですか?でも藤式部も当時夫がいたから賢子はW不倫の子という設定ですけどNHKとしてそれはいいんですか??

 

とにかく道長は物語の進捗状況を心配していたという設定のようだ、物語をオーダーしたマネージャーとして、またスポンサーとして。そういう事情にしたいようですから、一応視聴者として付き合うことにしましょう。

いやいや、藤式部を召して御簾越しにでも新しい帖を納めさせて作者からの口上を聴けばよかっただけなのですよ、道長様。

とにかく道長は帰るなり物語の新しい帖、(夕顔の帖から進んで)つまり若紫の帖を読む。

「逃がした小鳥を追いかけていた頃のお前はこのように健気ではなかったが?」

「うそはつくし?作り話はするし?」(まひろは出身を帝の姫といって偽っていた)

「とんだ跳ね返りものであった……」

などと軽口をたたくふたり。

 

そして不義の密会を描くにあたってビジュアル的に藤の花の開花のスローモーションが流れ、藤壺の宮を暗示していて趣深い。

「こうしてお会いしても、またお会いできるとは限りません。夢の中にこのまま消えてしまう我が身でありたいと咽び泣いている光君のお姿もさすがにいじらしく、世の語りぐさとして人は伝えるのではないでしょうか。類なく辛いこの身を覚めない夢の中のこととしても、と藤壺の宮が思い乱れている様もまことにもっともで恐れ多いことです。」

※原文から、この部分で詠まれた光る君と藤壺の宮の和歌を引用する。

見てもまた 逢ふ夜まれなる夢のうちに やがてまぎるるわが身ともがな

世がたりに人やつたえん たぐひなく 憂き身をさめぬ夢になしても

ここではっきり不義の関係が登場している。

脛に傷のありすぎる道長は、後ろめたいのを通り越してまるで藤式部が告発するスクープの発表会見でカメラのフラッシュを浴びてうなだれる芸能人のよう。そして追いつめられた罪人が観念したみたいな死んだ魚のような目を藤式部に向け、絞り出すような声でうめく。

「これはどういう心づもりで書いたのか?」

しかしここで追いつめられたと観念さえしてそうな道長だが妙に落ち着きがあって、そこがさすが左大臣、バレたとわかりきっていても顔色にも出さないところがさすが一流の政治家(別に褒めてない)。

ここで藤式部が本領を発揮するというか、罪人にしても脛に傷のある芸能人にしても藤式部のほうが役者として千枚上手うわてであった。

罪であっても芸の肥やしにする。

さすが、あっぱれである。

肝の据わり方が尋常ではない。

「我が身に起きたことは全て物語の種にございますれば。

ひとたび物語になってしまえば我が身に起きた事など霧の彼方、まことのことかどうかも分からなくなってしまうのでございます。」

この藤式部の覚悟を前に圧倒される道長

そこで道長はしばらく長考するも、ついに決心?納得?諦観の境地?に至ったのか、すぐ書写させるといって原稿を持ち出した。

肚を括っている藤式部に対し道長はあまりにも優柔不断なのですよね。こんなことじゃ事が露見したら文字通り遊んでいただけなのかと誹りは免れませんよ。

そして原稿を持ち出すもその場で束の間だが逡巡し足が止まる道長

決断できない性格なのはいい加減にしてもらえますか?

 

(ふと我に返ると、こんな不義の物語は一般論として受け入れられるのか?という考えは頭をよぎりましたけど、そんな設定もまた物語の世界を奥深く味わい深いものにしているのではないだろうか)

 

あかねの嘆きーー敦道親王との思い出

時は1007年11月14日、秋も深まり紅葉も美しくなってきたころ、あかねの想い人の敦道親王が27才で亡くなった。

四条宮での学びの会に現れるも悲嘆に暮れるあかね。

「まるで私がお命を奪っているみたい…もう触れられないなんて…」

こういう嘆きから自ら命を絶とうとすらしそうな憂いを含んだ表情が、いつにもまして美しい。美貌とは悲しみの境地にあるときにより華を添えるとはなんという皮肉だろう。

とかいう普通なら歯が浮きそうな王道の表現がよく似合う、艶のある絵にかいたような美人、それがあかね。

ものをのみ  乱れてぞ思ふ  たれかには  今は嘆かん  むばたまの筋

どんなにあの世から私を見守って下さろうとも二度とお顔を見ることも出来ないなんて

と、あかねは悲しみの心境を歌に詠む。

 

そこで藤式部は励ましのつもりで日記を書くことをあかねに提案するのだった。

「かつて書くことで己の悲しみを救ったと仰ったひとがいました(蜻蛉日記の道綱の母?)。あかね様も親王様との日々をお書きになる事で親王さまのお姿を後々まで残せるのではないでしょうか」

ここで古今和歌集の仮名序を思い出してみよう。ほかでもない、あかね登場の回で四条宮での学びの会に藤式部がお題として用いた古今和歌集 仮名序である。

やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。
世の中にある人、事業(ことわざ)、繁きものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり。

心がこもった表現こそ命が吹き込まれ、生き生きと文字が動き出す。

あかねの敦道親王への激しい思いはどんなにか心を打つ作品となる事だろう。

藤式部さま、悲しんでいる人へのカウンセリングとしてはちょっと荒療治すぎる気がしますが……。しかし文筆家として、あかねのような情熱的で繊細な感性の持ち主にはぜひ何か執筆していただきたい、と横槍ながらも興味がわいたというか食指が動いたのだろうか。

 

もうひとつの身分を超えた恋ーー惟規の場合

学者の家系として為時は息子の惟規に期待をかけていた。そんな中教えてもいないまひろが横で全部漢文を覚えてしまって為時は当惑した事だろうが。

とにかく為時の期待を背負って惟規は元服後も大学(朝廷の)に通い、その後文章生もんじょうしょうとしての試験に合格し、中務なかつかさ省で内記ないきとして勤務していた。

為時にまひろは「お前が男だったなら」と残念がられるが、それは逆に弟の惟規をナチュラルに卑下してるなと思うも本人は気さくな性格で深く考えてないように見える。

ドラマ中、公任様と1,2を争うイケメン公達だと思われるが、そんなことはおくびにも出さずに登場する回はすべて姉の藤式部とのコントに費やされるコント要員なのであった。もったいない。

さて惟規が六位の蔵人に推挙される。これは左大臣の配慮のようだが、史実はどうだかわからない。とにかく官位を得て朝廷に出入りを許された惟規は姉の女房の局に会いに来た。ここでイケメン弟、惟規の恋が明かされる。いつまでも子供だと思っていたのに、と乳母のいとに共感の情が湧く。

惟規から武勇談として語られたのは斎院の中将の君との恋だった。

斎院とはここでは賀茂の斎院を指し、伊勢の斎宮と共に未婚の女性皇族(つまり内親王)が祭祀を行う神聖な空間であった。当時は宮廷祭祀も皇族の重要な責務で、陰陽道による占いとか穢れを祓う祈祷などとともに宮中の、ひいては京の都の安寧を支えていたと言っていい。

ただし惟規の恋人は賀茂の斎院に仕える、中将の君という女房だったようだ。どちらにしてもそんな神聖な玉垣を超えて恋人に逢いに行くなどあってはならない不祥事で、しかも惟規の恋は事実らしい。

男女の出会いは当時は噂から、さらに文を贈り合ったり宴や葵祭などの際に垣間見たり、管弦の琴の音などを漏れ聞いたりなど、実際に遇うまでのやりとりから人柄を推察したりして思いを寄せるのが通常とはいえ、斎院の女房では会うこともかなわないはずなのに、どうして?

まさに事実は小説より奇なり。

 

さてこちら中継です。

スタジオ、音声通じてますか?

事件の渦中にある惟規氏へのインタビューに来ておりますが、実況を姉の藤式部さんにお願いしましたら、コントになってしまったのでそのまま掲載いたします。

ーー以下、ドラマの台詞そのままーー

男が超えてはならない斎院の塀を超えて女房と恋に落ちたの?それが露顕して捕まった???

禁忌を犯すからこそ燃え立つんでしょ🔥

なんてこと…(꒪д꒪IIガーン

姉上だって、そうだったもんね!!!!!!!!!

私は禁忌を犯してなんかいませんっ(いやダブル不倫は十分禁忌だろ)

身分の壁を越えようとしたくせにー

そんな昔のこと、もう忘れたわ!

昔のことなのかなぁーー?wwwww

浮かれるんじゃありません!

 

捕まった時、咄嗟に歌を詠んだんだ

「神垣は木の丸殿まろどのにあらねども 名乗りをせねば  人とがめけり」

ってね。

斎院の選子内親王様が俺の歌を見て良い歌だから許してやれって仰せくださったんだよ

ヾ(〃^∇^)ノわぁい♪

そんな良い歌とも思えないけれど(.ㅍ_ㅍ)

天智天皇の引き歌ゆえ内親王様のお心を掴んだのかもなー俺もなかなかのもんだよっ

そうゆうことやってると罰があたって早死するわよあなたも、想い人も!?

 

(しらじらしく)あっ仕事に戻らないとーーー

仕事中だったの!??

これから宿直とのいなんだよ~~じゃっ!

父上に心配かけるような事だけはしないでよ?(←←人の事いえないだろ)

だぁーいじょうぶだって~~~

だめだこりゃ……

 

ここで藤式部は槿あさがおの斎院の段を思いついた気がする。

この後斎院とメモしていたがあれは構想を練っていたのかもしれない。

超えてはならない壁、神聖な女君。

光る君の物語に神の息吹が新たな色彩を添える。

 

中宮ーー帝の正妃としての自覚

藤壺で女房が若紫の帖を音読する場面が映る。

「女が賢ぶって嫉妬し何かと厄介な間柄になってしまうと、こちらの気持ちとしても少し違うところが出てくるのではないかと遠慮し、相手も恨みがちになって、思いがけないことなどが自ずから出てくるものですが、姫君はなんと可愛らしい遊び相手なのでしょう。」

しかし一様にみな批判的である。

 

紫の上を横川の僧都から引き取り、親の兵部卿宮にも無断で養女にしてしまう光る君の展開を巡り、女房らで批評が交わされる。みな身分の高い公卿の姫であるから、一定の教養を持つものばかりで議論も自然と熱を帯びてくる。

大納言の君ーーでも無理に連れ去って行くところは何だか…

小少将の君ーー実の親の兵部卿宮が薄情ゆえ、光る君が引き取ってよかったのではごさいません?

左衛門の内侍ーーでも強引すぎる まことの想い人は藤壺なのに、紫の上は光る君のおもちゃのよう

宰相の君ーー藤壺に再び忍んでいき子まで成しながら、幼子を引き取って育てる光る君は無分別の極み

 

中宮彰子にとっては幼いころに半ば強引に連れてこられ尊い身分として育てられる姫君とはまるで自分のようと感じたらしい。中宮も数えで12才で入内したから同じようなものだ。

ここで初めてといってもいいかもしれない、中宮彰子の本音が語られる。

紫の上には光る君の妻になるのがよい

妻になる、なれぬであろうか?妻になれるようにしておくれ、藤式部

なかばひとりごとのようにつぶやく中宮彰子。自問自答するように、あらぬ方を見て語りかけながら、同時に藤式部へすがるような目線を向ける。

 

ここまで父道長と母倫子による尽力をくまなくみてきた。

入内の際には公卿を招いて盛大な儀式を執り行い、

後宮には倫子が選んだ珠玉の品々が並ぶ華麗な空間で、

女房達も精鋭を揃え(?)斉信には疑問符がつけられていたがとにかく実力派を呼び寄せ、

藤式部へ物語を依頼して大流行となり、帝の御意向で続編も書かれ、

定子の皇子である敦康親王藤壺へ引き取り立派に養育して、

国家安寧を祈願すると称して彰子の懐妊を祈って金峯山寺に参詣し護符をいただいた。

 

もうこれ以上できることはないというくらい道長そして倫子は万全のバックアップ体制を整えている。

あと足りないピースは、中宮彰子が帝へ向き合うことだ。

帝が物語に興味を抱いて藤壺へお運びいただく事はあっても、中宮彰子に、正面から人間として向き合ったことはないではないか。

でもこれだけは人の心の問題で、まわりがどんなに環境を整えても彰子の覚悟が決まらなければ解決しない。

 

そして彰子は藤式部に言わせれば「おくゆかしい姫君」であっただけに、世の中の事も知らないまま入内して、帝へ妃としてどう向き合ったらよいか、どのように振舞えばよいのか、わからなかっただけではないだろうか。

そこでドラマでは藤式部が中宮にアドバイスする。曲水の宴で華やかな雰囲気の中、途中の雨宿りで父道長の思いがけない素顔を御簾越しに垣間見て(当時は家族でも女性はめったに男性家族と顔は合わせなかったため)、中宮彰子の本音が引き出されたわずかな瞬間を逃さずに。

帝に、まことの妻になりたいと仰せになったらよろしいのではないでしょうか。

帝をお慕いしておられましょう?

 

また、藤壺中宮彰子に言う事には、

中宮さまらしい中宮さまとは

青い空がお好きで冬の冷たい気配がお好きでございます

左大臣様の願いもご苦労もよくご存知でおられます

敦康親王さまにとっては唯一無二の女人でございます

色々なことにときめくお心もお持ちでございます

その息づくお心の内を、帝へお伝えなされませ

つまり帝にふさわしい妃とはどうあるべきかではなく、自分らしく振舞うとはどういうことかを考えろということか。自分らしく、彰子らしく振舞えば自然と彰子の人となりの魅力は帝に伝わる、そう藤式部は言いたかったのかもしれない。

 

と、これからの心構えくらいのつもりでまひろは漠然と提案したつもりだっただろうが、ちょうどその時帝が敦康親王を訪ねて藤壺へお渡りのところ、親王様は物忌みで不在のためすぐ帰ろうとされた(←←ひどい)。

そこで唐突に

「お慕いしております!」

と前置きもなく思いの丈を叫ぶ中宮

溢れ出た気持ちが止まらず全て涙になってとめどなく流れ出る。

この涙に、入内してから今日まで7年間の気持ちが全て込められ、この涙が妃としての苦悩も悲しみもすべて洗い流してくれた気がした。

まひろは思いがけない中宮の感情の発露に取りつく島もなく、なすすべもなく見守るばかり。

そして帝は気圧されて帰ったのだった。

 

清涼殿に伺候した道長に向かって、帝は「金峯山寺のご利益はあったのか?」と問う。しかしこの問いは、帝自身への問答であっただろう。彰子のひとことで、いままで胸にわだかまっていた定子への思いに区切りをつけたのかもしれない。

そして道長からのどっちつかずの返事を聞いた帝は、ふっきれたように、藤壺への夜のお渡りを告げて去る。

鳩が豆鉄砲を食ったように、清涼殿の廂にぽかんと取り残される道長

いやそこでぼんやり座っている場合ではないのだ。

 

藤壺はにわかに慌ただしくなった。

屏風を片付け、

御帳台のしわを伸ばして整え、

寝具を運び、

白絹の単衣(=下着)に香を焚きしめ、

彰子の髪を洗って丁寧に梳き、

手も足も体を清めて、

女房たちは水を得た魚のように立ち回る。これが本来の彼女らの仕事であるからだ。

中宮は狐につままれたような表情で現実かどうか信じられない様子。

 

藤壺への渡殿で帝は足を止め、灌木の梢に降り積もった雪を眺める。

雪の日に登華殿の庭に出て定子や伊周らと遊んだ在りし日の思い出。

それらに7年の時を経て、けじめをつけてから新しい妻、彰子の元へ向かったということだろうか。

 

そして入内した当時12歳だった中宮は20歳に、いつのまにか大人になっていた(計算がおかしいな)。

そこでまたしても彰子は「ずっと、大人でございました」と反論する。

入内の当時帝が笛を聞かせても見向きもしなかった彰子に帝が問うと、「笛は、見るものではなく聴くものでございます」と答えたように、彰子は今思えばいつでもはっきりと自分の意見を持っていた。

それを素直に前に出せればよかったかのかもしれないが、人間そう器用に自分の気持ちは操れない。

この自我を、自分の意見をはっきり持った彰子に帝もまた向き合えていなかったのかもしれない。

このすれ違いから生まれた7年間の空白だったのだろう、それは必要にして必然的な時間の空隙だったのかも。

彰子は自分を見つめるための、帝は定子の思い出から訣別するための。

帝は「長い間寂しい思いをさせてしまってすまなかったのう」と謝罪しているし、これでふたりは精神的にも正面から向き合うことができると思う。

 

藤式部と道長は内裏から見える月を眺めて、またしてもお互いを労い合う。

「帝のお心を掴まれたのは中宮自身です。きっと金峯山寺の霊験にございましょう」

その通り、中宮様ご自身が帝へ向き合ったからこその結果でございます。

道長一人が奮闘しても無理だったことなのですから、お気になさりませんように。

藤式部の表情には無言のうちに道長へのいたわりの気持ちさえ浮かんでいるように見える。

年若いというか幼い中宮を入内させて一番苦悩していたのは道長であっただろうから。(そして対策がわからずに倫子とも喧嘩を繰り返しつつ)

 

そんなふたりの年月を超えた感慨深い会話を陰から聴いている女房がいた。

左衛門の内侍である。

 

この二人の関係はたぶん今後はっきりとした伏線の素描としてこれから意味を持ってくるだろうから、忘れないでおこう。

 

 

 

第30回「つながる言の葉」 第31回「月の下で」 第32回「誰がために書く」 大河ドラマのlightな感想 光る君へ

 

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平安時代の庶民の暮らし

旱魃かんばつ

このドラマには、当時人間が抗えなかった天変地異や疫病が多数登場する。貴族も平民も、当時これらには何もなすすべがなかった。

天然痘やはしかなどの感染症の流行

・鴨川の氾濫と洪水

・火事や落雷

皆既日食

 

また、こうした厳しい世は、一般庶民の視点でも描かれている。たとえば、

・散楽による為政者の風刺、それらは社会的階層・身分制度から外れた、平民ではない者たちが担っていた

・夜間は都と言えども盗賊や追剥ぎが跋扈して治安はとても悪かった

 

そして今度は旱魃かんばつに襲われていた。

飲料水や生活用水の欠乏は命に関わるのはもとより、これで作物が収穫できなければ飢饉が待っている。

貴族であっても窮状に追い込まれるのは平民と変わりない。

為時邸でも、いつも枯れることのなかった井戸から水が湧き出てこなくなり、まさしく絶体絶命の危機。飲み水がなければ人間は何日も生きられない。

(この庭に井戸とか湧き水とかいうのは、京都盆地特有の琵琶湖からの伏流水だったらしいが、それも枯れ果てたのだろうか。)

 

こういう異常気象や天変地異に対して、古来人間は神に祈ってきた。

自然の偉大さに対して畏敬の念をもち、またその力の前では人間など取るに足らない存在に過ぎないという事実に畏怖を抱いてきたからだ。

また、夜の闇は人間以外の異形のものが跳梁し跋扈する世界として恐れられてきたし、自然そのものもまた信仰の対象として古来から崇められてきた。

たとえば奈良県桜井市大神おおみわ神社には本殿がなく、背後の三輪山をご神体とする古い祭祀の形態を残す。愛媛県今治市大三島町大山祇神社もまた、古い形の信仰では島の中央にある鷲ヶ頭山をご神体としていたという。

陰陽師の占いや仏教僧による祈祷で重大な政策や貴族の日常のことを決めていたというのも、古代のこうした思想が色濃く残っていると感じる。

平安時代は科学が遅れ宗教に依存していた未開の時代というよりは、何事にも神が宿るという日本古来の神道思想が根本にある気がして、現代では忘れられた大切なことを思い出させてくれた気がする。

 

さてドラマの冒頭では、わずかな水を巡って係争が頻発しているのだろうか、その中でまひろが通行人に何か果物を所望する。さすが下級といえども貴族のお姫様の発想である。作物は全て枯れ果て、都ではみな明日をもしれない命だというのにまひろが思いつくのが「水分を得るのは果物から」とかいう発想自体が生まれながらにして貴族。作物が枯れてるのに果物があるわけがないではないか。

そしてその横では雨乞い踊りが行われていた。

日照りや旱魃に対する雨乞いの祈りは、今でも全国各地で踊られ、伝えられている。この滝宮の念仏踊りは発祥が菅原道真であり、つまりドラマの時代よりも古く当時都で踊られていたのもこうした意匠によるものかもしれない。

重要無形民俗文化財 滝宮の念仏踊 - 地域文化資産ポータル

自然の大きな脅威の前では人間の存在など微々たるものなのだ。貴族の館にしつらえられた池泉回遊式の庭園などはしょせん、見目麗しく整えられた人工の美であり、人間に都合よく身近に備えられたインスタント(簡便・即席)な自然という存在でしかない。

人間は食べ物はともかく水がないと命はもたない。やはりここでも医療とか福祉の救済はないから、道ばたには行き倒れの人ばかり。

 

ついには帝も雨乞いの祈祷を請願したという記録が残っている。有職故実に通じた実資によれば200年ぶりのことである。

そして安倍晴明が祈祷をささげたことにより雨が降る(関連性はさだかではないにしても。)彼はこの翌年、85才という長寿にして亡くなった。まるで最後の力を振り絞ったかのように。

 

びしょ濡れになりながら庭に水瓶を出してくる乙丸ときぬ。そういえば水道が無い時代、飲み水は雨水を水瓶に貯めていたのでした。

これで皆命が救われたと狂喜乱舞。

そういえば為時が道長からの嫡男への漢文指南を断わり為時一家そろって無職になったときに、きぬは乙丸に「このまま飢えるのはいやだし越前に帰って再び海女をやろうかな」と言いつつ、結局は為時邸に留まり下女として暮らしているらしい。乙丸も見捨てられてなくてよかったよかった。

 

さてここで無能ぶりを発揮する右大臣の藤原顕光。彼はもとから目立つタイプとしては描かれず、地道に昇進してきた貴族としての存在だったが道長と共に左右大臣をつとめるにあたって、政権のトップにして重大な政策を動かしていくには器が小さい様子が語られる。娘の元子を一条天皇の女御にしているくらいだから決して位は低くはないのだが。

彼の無策ぶりには周囲の実資や道綱、公任や斉信らもあきれるばかり。

 

年齢と官位の推移

さてドラマの舞台は彰子が入内し、また定子が第二皇女を出産後亡くなってから四年後、寛弘元年(1004年) に舞台をうつして新たにスタートしている。

登場人物の年齢と官位がわからなくなってきたのでここでもう一回メモ。

道長と同年代の公卿たちは同様に昇進し、のちに四人そろって一条帝の四納言と呼ばれるに至る。道長の長女彰子様は入内するなり従三位を授けられ、長男の田鶴は12歳で内大臣藤原公季の加冠により元服し頼通と名乗り、正五位下に叙せられる。しかもその後順調に四位下に昇進している。

奥様、お聴きになりました?頼道様って元服していきなり正五位下ですよ、為時などは何十年もかかってやっと六位から従五位下だというのにです。

何事も血筋がすべての世の中ということです。

(ここで定子の第一皇女    脩子内親王の漢字がバグを起こして表記できてません。)

しかし兼家の五男であった道長が、(まず父兼家が三男であり兄弟たちとの政争に勝って右大臣となってから)道隆と道兼という兄たちの時代を低い身分のまま過ごしつつ、その後伊周との政争にも勝ち抜いて、政権のトップに躍り出ようとは誰が想像できたでしょうか?

道長にはっきりした目標意識があったのはもちろんですが、そこには妻倫子の財力と、また子供たち(=娘たち)に恵まれたこと、そして倫子の母穆子の協力なくしてはあり得なかった今の地位ではありますが)
表にしてみるとますます存在感のなくなってきた(亡き定子様の遺児である)親王様、内親王様たちのことを念頭におきながらドラマの行方を追いたい。

そして齢28にしてまだ即位できない春宮様。おいわたしい。彼の皇子敦明親王様の行く末も今後注目である。

ちなみに定子様の長男こと敦康親王様は、いまのところ道長の策略により藤壺にて中宮彰子様に養育されている。 脩子内親王と媄子内親王様は、定子様の末妹である御匣殿に養育されていましたが、その後御匣殿が一条天皇後宮に召し出される(なんということでしょう)に及んで別の屋敷にうつされたようであるが。

 

まひろの勉強会

このころ四条宮では公任の妻、敏子の主催によりまひろが貴族の妻たちに向けて和歌の勉強会を開いていた。四条宮は公任の屋敷であり、道長、斉信、公任、行成らが若いころに勉学に励んでいた場。公任は藤原氏でも政権の頂点には立てなかったが血筋は名門の生まれ、道長がトップに躍り出るまでは公任が出世頭であっただけあって、屋敷のしつらえも立派である。妻敏子は昭平親王の娘(つまり村上天皇の孫)であり、高貴な身分とあってドラマではちゃんと高麗縁の畳に座している。まひろと列席している貴族の妻たちが座っているのは藁の円座であるが。

でもこのぶんだとまひろはちゃんと講師として迎えられていて、たぶんお給料も支払われているだろうと思われ、ほっと一息というところだ。(なにしろ父為時はあいかわらず無官のままだからだ)

 

さて、まひろ先生の講義を拝聴してみよう。

和歌は人の心を種として、それが様々な言の葉になったもので、この世で暮らしている人の思いを見るもの、聞くものに託して、歌として表します。

心があってこその言葉。

もののあはれが分からねばよい歌は詠めないということです。

(ここまでは古今和歌集の仮名序をもとに語られている)

※原文:和歌やまとうたは、人の心を種として、よろづことの葉とぞなれりける。世の中にある人、ことわざ繁きものなれば、心に思ふ事を、見るもの聞くものにつけて、言ひ出せたるなり。花に鳴く鶯、水に住むかはづの声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。 

「人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞ昔の 香ににほいける」古今和歌集 春上 紀貫之

ここで「あっこの歌知ってます♬」「私も~!」と場が盛り上がる。当時すでにメジャーな存在だったようだ、さすが紀貫之先生。

まひろが語るには、この歌は唐の劉希夷の漢詩を踏まえているという。古典の名著や有名な詩に題材を求めるのは定石ともいえる手法でもある。

年年歳歳花相似たり

歳歳年年人同じからず…」

まひろは古今東西の書籍に精通しているようで、さすがである。頭の中に叩き込まれていなければこうスラスラと出てくるものではない。

あかねの登場

「先生は和歌を詠むとき、そんな難しい事をお考えなんですかぁ?」

「私はただ、思ったことを歌にしているだけですけれど ♡ フフフwwww」

この講義にかぶせるように割って入ってくる声。誰だ、遅刻でしょうか。貴族の妻にあるまじき失態では?なんて常識のない……

 

そこに現れたのは、あかねと呼ばれる女性だった。

まとっているのは薄く向こうが透けて見える、涼しい水色の絽の袿。

(紗や羅と同様に)絹で織られた薄い衣装で、夏の部屋着のようなものらしい。ほんとは中の半袖の単衣も着てなかったはず。(そうすると袴を上にあげて着用したのでしょうか、謎)

声(こゑ)聞けば 暑さぞまさる蝉の羽の  薄き衣は身にきたれども

サラッと口に出しているように見えて、薄いというワードを蝉の羽と衣に掛けているという技巧が仕込まれているスマートな詠みぶり。

誰もが振り向くような人目を惹く美貌をもち、和歌の天才でもある佳人。

もう誰の事かわかりましたね、のちに和泉式部と呼ばれることになる女性です。

 

「遅刻してしまってごめんなさ~い、親王さまとお話していたものだから、つい♡♡♡」

「お話?あかね様が親王様をお放しにならなかったからではありませんの?」

「まあ、そんな…フフフ♡♡♡♡」

あかねの恋人は最初冷泉天皇の第三皇子・為尊親王であり、彼の死後、同母弟の敦道親王と恋に落ちる。この1004年頃の恋人は敦道親王のことだがしかし。

あかねには夫・和泉守橘道貞がおり、さらに敦道親王には正妃・藤原済時の娘がいたから、あかねと親王様の恋はいまでいう所のW不倫である。昼ドラも真っ青の泥沼展開。

このような事実は当時知られていたのであろうか?少なくとも、あかねの遅刻、そして破廉恥な絽の衣装に、勉強会の主宰である公任の妻敏子がキレているがもっともなことである。

「このような場にそのお姿はいかがなものでこざいましょう💢💢」

まひろも絽の衣装はいかがかと勧められ、やんわりと微笑みながらもドン引きしている。

「私はそのような着物は、、、ちょっとΣ( ̄ロ ̄lll)。」

 

和泉式部親王との恋にやつれて昼から酔ったりしているが、ささいな行き違いなのだろうか。やつれた姿もまた、さらになまめかしさを引き立たせて美しい。

あかねからの「いままで身を焦がすような恋に落ちたことはなかったのか?」という問いに「私もあかね様のように自由な恋に生きてみたかった」と心情を吐露するまひろ。

このドラマでは道長と人知れず恋に落ち、賢子(大弐三位)の父は道長という設定なので、その恋が堂々と人に言える間柄だったなら……身分の差さえなければ、妾ではなく対等に恋できただろうに、あかね様は親王様に大切にされ一途に恋されててうらやましい……という心情が、あかねへの微妙などっちつかずの返事の裏に声にならない声として押し込められている。

ここでまひろは和歌の勉強会の合間に、「かささぎ語り」と称して、自作の物語を読んで聞かせていた。こっちは公任の妻敏子そのほか参加していた貴族の妻たちにも好評だった。実際に残っている著作ではなく架空のもののようだが、何にせよ「かささぎ語り」は回りまわって道長が小耳に挟むきっかけになり、のちに源氏物語をまひろに依頼する直接の原因ということになっている。

 

人気の読み物、枕草子

あかねは枕草子を「親王様から下賜されたので」と言って持ち込む。しかしあかねはあまり評価してないようだ。

どっちにしても枕草子は最初、清少納言が寂しく孤立していた中宮定子を慰めるために書き始めたものだったが、今や定子、そして道隆や伊周が宮中で活躍していた中関白家華やかなりしころを描いた文学作品(読み物)として宮中で絶大な人気を得ていたようだ。軽妙で斬新な批評の語り口も当時としては人々に新鮮な印象を与えたのかもしれない。敦道親王からあかねへと渡っているあたり、中宮定子とも伊周とも何の関係もないところで口コミで広まっている風なのがその人気を裏付けている。

そもそも政治の公式記録や公文書、男性の日記などは漢文であらわすのが正式とされ、仮名文字で書かれたものや、物語はサブカルというかカジュアルな存在であった。しかしこうしたいわば新しい形式として仮名文学が認められ広まっていくきっかけになったのが枕草子なのかもしれない。

(国文学には全く不案内のため、ドラマを見た印象からのそのままの感想)

 

しかしあかねのの枕草子評はばっさりと切り捨てるものだった。

なまめかしさがない。

枕草子は、気が利いてはいるけれど、人肌の温もりがないでしょ。だから胸に食いこんでこないのよ、巧みだなと思うだけで。

∑( OωO)〣なるほど……

恋に生きるあかね先輩ならではの批評で勉強になります……

 

「黒髪の 乱れも知らず うち伏せば まづかきやりし  人ぞ恋しき」

精神世界ではない男女の恋がリアルに描かれていて現実の逢瀬を彷彿とさせる。血の通った人間らしい歌とはこうなのだと言わんばかりに、歌を詠む姿も妖艶で美しい。

 

まひろは和泉式部から枕草子を借りて研究することにしたようだ。

清少納言が人生を賭けて世に送り出した傑作、その眼から見た宮中の世界とは。中宮様のために美しく描かれ、人間らしい部分は削ぎ落された洗練された描写……

一世を風靡したライバル清少納言の手腕をつぶさに研究することで、自分の立ち位置や存在意義を対比して再確認することにしたのかもしれない。

まひろはここで改めて和歌とは、文学とは、物語で表現するとはどういうことかを、ただ惰性で世の一般論を語っていたのを見直して仕切り直ししている感じがある。

 

子は親の思い通りにはならない

賢子は勉学に興味が無いようで、碁石でおはじきで為時と遊ぶ。わかります、将棋も本将棋はおもしろくなくて、他の遊びで将棋の駒で遊んだりしてた身としては、難しい事を覚えろといわれてもさっぱり興味もわかないし頭にも入らないその気持ち、痛いほどよくわかる。

まひろはもう6つになり学齢に達している賢子が、自分ならもう蒙求を諳んじていた頃だと思うと気が気でならない。弟に父が講義していた蒙求を横で聞いてただけで諳んじてた母まひろと、そんな比べられてもねえ……賢子がふびんである。

今でいうところの教育ママである。幼児教育に過熱して小学校受験させようとして塾に通わせる現代のママと何が違うのか。賢子がひらがなひとつ間違えて書いたからと言っていちいちきつい口調で咎め、何一つ褒めてくれない。

それじゃあ子供は何も楽しくないし、辛いからじいじの為時のもとに走っていくのももっともなことです。それを咎めて眉を吊り上げてそんなことじゃダメですとか言われても、為時も困っているじゃないですか。

「人の親の 心は闇にあらねども 子を思ふ道に 惑いぬるかな」

ここでまひろの祖父、藤原兼輔(877-933年)の和歌が引用されている。このフレーズは源氏物語の中でも引用されていて、紫式部は家系の先祖はこうした学識があり娘を入内させたような身分であったことを誇りに思っていたようだ。

それはともかくこの場面では、

「子を持つ親の心は闇というわけではないが、子どものことになると道に迷ったようにうろたえるものだ」

という歌本来の訳そのままで引用されている。

のびのびと、病気せず元気に成長してくれればそれでいい、子供が産まれる前はそんな祈るような気持ちでいたかもしれないが、望みをいえば限りがなくなるとはこのこと。

いつも冷静で物事の本質を見極める眼を持っていたまひろが、賢子のことになるとまるで盲目になったような性格の変わりよう。

これから成長していく賢子は自我を持ったひとりの人間なのであって、まひろの思惑通りになるわけではない。人格ある存在として尊重しなければならない。

子供は親の所有物でもなんでもないのだ。

 

そこで為時と惟規の態度はあくまで一歩下がって冷静だ。

というか性別で分けていてその時代ならではの発言となっている。

「女は難しいことを考えないほうがいい、書物を読み将来を自分で選び取れる子になって欲しいというのは姉上の押し付けです」

和歌を学ぶ会で、女房たちに政治に興味を持とうと宣伝しても、もし男だったとしても偉くならないと政治にも関われないのに、めんどくさい事は男に任せていればよいではないですかと言われて終わる。

やはり学問を身につけた女性への世間の風当たりは強い。当時は家柄が全てであったから余計に。

しかし識字率の低かった庶民ならともかく、書物を読んである程度の見識を持った貴族の女性として、まひろは断じてそんな世間一般論に流されるつもりはなかったらしい。

しかしまひろの持論は近世というか日本でいうなら第二次世界大戦後の女性が職業を持って自律するようになってからの思考が入ってて、あまりにも時代を1000年くらい飛び越え過ぎなのではと思うのであった。

 

しかし賢子は母上のまひろが遊んでくれない寂しさから、夜の闇に紛れてかささぎ語りを全部燃やしてしまう。

まひろはきつく叱るが(火事になったら周りにも延焼する)燃えた物語は元に戻らない。

このときのまひろの叱責ぶりがガチで真に迫ってて見てる視聴者としても画面越しに震えて縮み上がったものだが、確かに木造家屋がひしめいていた都では火災は自邸にとどまらないものだったから叱ってもっともな場面ではある。

とにかくまひろがようやく清少納言枕草子に刺激され、何か自分の内面世界をアウトプットしようと試みていた習作のかささぎ語りはあえなく全焼の憂き目に遇った。

ここからどうやってストーリーは次の著作に向かうのであろうか、さっぱりわからない。

 

賢子と対比するかのように、道長の嫡男頼通は若い頃から有能ぶりを発揮していた。

 

為時は左大臣の土御門殿で嫡男の頼通付きで漢文指南役を務めている。(土御門殿の家司に出世したようで帯刀を許される身分になった)百舌彦が使者としてやってきたときは、為時は学問を収入の基にはしたくないというこだわりがあったのだろうか断わっているが、結局土御門殿へ出仕することにしたようだ。やっぱり収入という問題の前には背に腹は代えられない。為時も家族と使用人を抱え、屋敷の維持にもコストがかかるのだし。

土御門殿だけでも現在四人の子がいて(つまり高松殿の明子の子も四人いるが)、家庭教師としての指南役は引っ張りだこだったと思われる。他の子にも指南していたかもしれないと思う。

専属の家庭教師を(やろうと思えば何人でも)抱えることができたところが政権トップの貴族の財力であり、文字を知らずに一生を終えるのが通例だった庶民(貴族の館でいえば下人の身分)との海よりも深い身分の隔たりを感じずににはいられないし、当時はお互いの身分の世界でそれぞれに生きていたのでありこの身分を超えようという発想はなかったらしい。

 

為時は頼通に孫子を講義している。頼通はこのとき元服を済ませた翌年の13歳、才気があふれるように感じられ、為時も教え甲斐があると感嘆しているのは噓ではなさそうだ。輝く瞳は何にでも純粋な好奇心を持ち、鋭い観察眼も併せ持っているようで、なんでも水を吸うように覚えてしまいそうである。

ここで演じられている子役(と言っていいのかどうか)の瞳がまさに頼通本人かと思うほど。そのまっすぐに師の為時を見つめる視線が、育ちのよさと持って生まれた英邁さ、それでいて何でも学び取ろうとする貪欲さ、全てを表しているようで思わず引き込まれる説得力があった。

そこに為時が英才教育をほどこせば、道長の嫡男としてエリートコースの出世は約束されたようなものだ。

 

孫子の頼通が読んでいた部分辺り。頼通はドラマでは書き下し文を読み上げていた。

白文:敢問、兵可使如率然乎
書き下し文:あえて問う、兵は率然のごとくならしむべきか
現代語訳:あえて問おう、軍隊を率然(常山の蛇)のように動かせることができるか

白文:曰、可
書き下し文:曰く、可なり
現代語訳:(言うことには)可能だ

白文:夫呉人與越人相惡也 當其同舟而濟、遇風、其相救也、如左右手
書き下し文:それ呉人と越人と相悪むも、その舟を同じくして済り風に遇うに当たりては、その相救うや左右の手のごとし
現代語訳:そもそも呉の人と越の人は、お互いに憎み合っているが、同じ舟に乗り合わせて大風が吹いたなら、そこでお互いに左右の手のように連携をとり、助け合うであろう

 

追いつめられた道長:乾坤一擲の策 続編

袋小路

さて、清少納言枕草子について、世間の評判も含めてあらゆるところで話題となり流行し大人気の作品となったことが語られていた。

(当初の読者として想定されていた中宮定子の心を慰めたのはもちろん)定子との思い出を忘れられない帝にとっても大切な読み物として、日夜肌身離さず大切に携えていた書物だったであろうことは間違いない。

左大臣として、藤原氏長者として政権トップにあった道長を抑えて本来の関白の位継承者のはずであった伊周は、宮中で話題の枕草子を唯一の武器に帝に取り入ろうとしている。

どうでもいいですが、伊周も、道長も、キーとして利用しているのは中宮定子(の思い出の枕草子)と中宮彰子様なわけですが、後宮政策以外に、自身の政治手腕をもって勝負しようという発想は無いんでしょうか?

そういう時代じゃなかったというだけの話でしょうか。

論点が堂々巡りになりそうなのでこの点はスルーします。

 

隆家は伊周のごますりぶりに呆れて道長に近づく。行成は隆家を警戒し道長を諌めるが、「疑心暗鬼は人の目を曇らせる」と言って道長は拒否することはしない。

その通り、悪いことはいわないから隆家には厚遇しておくことですよ道長様、なかなかの慧眼です。

隆家は今後道長の政権にとってある意味なくてはならない存在だからです。

 

しかし隆家の懸念はある意味もっともで、定子の美しい思い出は枕草子によって可視化され半永久的に美しく昇華されたといっていい。この現世と来世をも超えた一条帝と定子の精神的な結びつきはもはや誰にも壊せない鉄の壁ともいえた。

道長はこの難攻不落の障壁を乗り越える策を練らなければならない。

 

さて、彰子の藤壺に来ても帝は定子の遺児・第一皇子の敦康親王ヒョウタンに落書きなどして遊ぶばかり。

敦康親王道長が意に反して泣く泣く藤壺で彰子の元で養育させているのは、帝に藤壺に来てもらって中宮彰子に目を向けてもらうためなのに、まるで彰子など初めから居ないかのように振舞う帝。彰子は存在が空気か何かのようである。

この状況を見て焦るのは政治的な思惑がある道長

しかし彰子の様子に居たたまれなくなって行動に打って出たのは母の倫子だった。(倫子はわずか12歳で入内し藤壺に上がった彰子の為にたびたび内裏を訪れ、彰子の養育や話し相手になっていたようだったので)

倫子は道長に頼んで清涼殿に伺候して帝に直訴する。いわば左大臣家の政治生命を賭けた暴挙と言ってもいい。道長があとで嗜めた通り、この直訴が失敗し帝の勘にさわれば、もう二度と藤壺にお渡りいただけないかもしれないのである。

倫子が独断で政略の前線に突如撃って出た、いわば一世一代の賭けだった。

幼き娘を手放しお上に捧げ参らせた母のただひとつの願いでございます、出過ぎた事と承知の上で申し上げます、お上の方から中宮さまの目の向く先へお入りくださいませ、母の命を懸けたお願いでございます」

あとで道長にこの直訴を嗜められた倫子は、「殿にはわたくしの気持ちは決しておわかりいただけないようでございます」と言い放つ。確かに。道長はあくまで彰子の入内を政略の道具として見ていないのだから倫子とは永遠に平行線をたどるしかない。

そして帝には「こちらを見ようともしないのは彰子のほうではないか」と、一笑に腑されるのだった。

ここで道長と倫子夫妻の行く末は詰んだかに見えた……

彼らは賭けに負けたのだ。

もう起死回生の次の一手を打つのは不可能だ……

その場にいた誰もが思ったことだろう。

しかしこんなことでめげる道長ではなかった。政治家として長年兄たちに次ぐ席に甘んじ下積み時代を過ごしてきた道長にしてみれば、倫子の発言など取るに足らない日常の風景だったのかもしれない。倫子にしてみれば一世一代の賭けでも、道長にとっては内裏での政争の駆け引きなど毎日のように繰り返しているからだ。

取材

そして何もなかったかのようにシレっと同僚の公卿たちに対して情報提供を求める道長。このくらい心臓に毛が生えたような、何事にも動じない鉄の精神を持ってないと政治家はつとまらないのかもしれない。

どなたの屋敷か(どうせ土御門殿なのだろうが)寝殿造りの池に臨む庭で羹次あつものついでを楽しむ面々。羹次とは鍋で野菜(大根、芋や葉物)と肉(雉)や魚料理(鮎)を調理し温かい食事として提供したものらしい。当時一条帝が倹約令のようなものを発布し豪華な宴会料理は自粛させられていたため、野外で鍋料理を囲んで会食をしたという設定のようだ。

見た目には17世紀以降の西欧貴族のような、狩りにでかけてピクニックのように野外で本格的料理を楽しむというコストと手間とお金がかかった宴会みたいに見えるが、調べたら全く逆の意味だった。

ちなみにあつものに懲りてなますを吹く(「楚辞」9章から)という古語もある。こっちの言葉の意味は、過去の失敗に懲りて、必要以上に用心深くなり無意味な心配をするという愚行を指す。しかし道長にこうした心配は無用であった。失敗を踏まえながらもそれを恐れずに果敢に新しいことにチャレンジする精神を忘れない、それが道長の政治哲学。

いやいやいや巻き込まれる倫子様の身にもなってください。かわいそうでしょ。

この野外で鍋を囲む会は四納言の会(俊賢除く)とでも言おうか。後の一条帝の四納言のうち斉信、公任、行成、そして道長が額を突き合わせて眉を顰め談義を交わしているのは、ずばり「一条帝の心を懐柔し振り向かせること」への対策だ。

倫子が彰子を入内させるにあたって誓った「中宮様の御在所を華やかな後宮に」というのは、とっくに調度品を豪華なもので揃えたり女房に赤染衛門とか有能な者を送り込んだりしてできる対策はやり尽くしている。

それよりも今帝の心をとらえて離さない枕草子に変わるような、何か面白い物語はないものかと思案する面々だが、しかしそんな簡単にホイホイ面白いものが生えてくるわけもなく、集まったメンバーは一様に顔を曇らせる。畏れ多くも相手は帝であり、簡単に話しかける事すらできないというのに何をどうすればいいのか。

公任が妻から四条宮の会での「かささぎ語り」の話を出したのは偶然だが、しかし道長はその噂を聞き逃さなかった。さきの越前守藤原為時娘つまり、まひろが書いたという点にぴんと来たようだ。ほんとひそかに想ってる人のことについては地獄耳ですね、道長さん。

というわけで道長は仕事を依頼するターゲットをまひろに絞ったようだ。

 

信頼できる筋へ依頼することになった原因と結果

そこで道長が考えたキャッチフレーズ。聴いて思わず首肯せずにはいられない説得力。

コンセプトは中宮彰子様をお慰めするための物語」。

定子が亡くなってもう四年もたつというのに、帝のお渡りもお召しもない中宮さまをお慰めするために、学びの会で読んでいるようなおもしろい物語を、中宮さまに献上するために書いてもらいたい、と道長はまひろを説得する。

とどめのひとことは「枕草子よりずっと面白いと聞いたゆえ」

道長にしてみればライバル(のようなものである)清少納言枕草子を引き合いに出してまひろの興味を誘ったのだろうが、作家はそのような動機では創作意欲はわかないどころか創意を削がれるだろう。

しかし中宮様をお慰めするためなら…とまひろの作家としての食指がわずかに動いた。

ん・・・?

あれ・・・・・?

違いますよね?????

賢明な視聴者の皆様からはすぐにご指摘があるはずですね…?

道長がまひろに物語の執筆を依頼してきたのは、読者として想定しているのは中宮彰子ではなくて帝のほうですよね???

道長の真意は藤壷で寂しく暮らす中宮彰子を慰めるためではなく、藤壺で話題になるような物語をまひろに書かせ、それを囮にして一条天皇藤壺へと興味を向けてもらい実際に足を運んでもらって、彰子と帝をつなぐ橋渡しにしたいという思惑からですよね?

倫子の一条天皇の直訴にあった「帝から中宮に視線をお向けくださいませ」という願いは、道長によって物理的になかば強引に動機付けされようとしていたのだった。

さすが稀代の政治家道長、一寸先は闇の内裏の政争を泳ぎ切っているだけあってなにごとも行動が早すぎる。というか依頼先が的確過ぎる。

 

まひろは惟規に性格診断を頼むが難しすぎると一蹴される。そこで頼み込んで惟規から聞き出したまひろの性格というのは「根が暗くてうっとうしい、めんどくさい性格」だった。惟規はまひろの逆襲を恐れて「姉上が聞いたんだろ!?????」とビビり倒しているがまひろは何か掴んだようにぶつぶつとひとりごとを言うだけである。

惟規くん、そんなに恐れることはない。君は事実を言っただけだ。

根が暗くてうっとうしいというキーワードでなんで物語を書こうという結果になるのか?よっぽど性格があてはまる所があって後ろめたいんでしょうか、まひろさん。

そこでさっそく道長へ紙を要請するまひろ。天皇に献上する物語を執筆するならご料紙も最上級の物でなくてはならないからだ。しかしなぜか道長自身が衣装を直衣から地味な狩衣に身をやつしてまで、為時邸に直接ご注文のあった紙一式を従者の百舌彦らと共に持ち込む。なんでだ?道長が直接来ないでも(衣装まで変えてコスプレか、変装か、そんなに後ろめたいのか?)百舌彦とその他家人らに持っていかせればよかったではないか?重大ミッションだから道長自身が事細かに依頼する仕事の詳細を語りたかったのか?

いやそうではなくて、まひろが憧れていた越前の紙を9包も持ってきたぞって言いたかっただけの説がある。あながち当たらずとも遠からずだろう。これで大好きな物語が好きなだけ書けるぞっ!??どうだがんばれって発破かけたいだけなのでは。

どのみちこの仕事を依頼する一連のいきさつは一切倫子には知らされていない。

よっぽど後ろめたいんでしょうか道長は…人に言えないことはいつかバレるんですよ、大丈夫ですか……?正妻二人も抱えててもう子供も計八人もいるのにこれですか…?

まひろが書いた物語は笑えるし面白いものだったが、まひろ自身の手によって一度ボツになった。誰もが読んで楽しめる通りいっぺんの表面だけの物語なんて恥ずかしくて世に出せないし、中宮様へ献上などとてもできないというわけだ。

さてここで物語を献上する相手、想定する読者は寂しい中宮様ではなく帝を想定していて、物語の執筆には目的として政治的策略が関わっていることが明らかになった。

まひろは「私を騙したのですか!???????💢💢道長に対し怒り心頭だが、読者が帝となると、それはそれで作家としての食指が動いたらしい。

節操ないなと言われればそれまでだが、帝に献上するとなれば、文筆家としてまた学芸の家系の血を引くものとしてまひろの腕が鳴ったというか、どこまで自分の才能が通用するか試してみたくなったのかもしれない。

まひろの中に眠るプロとしての血が騒いだのだという気がする。

 

芸術とは偶然の産物であり、誰の思惑通りにもならないもの。それが結果的に運命の岐路で重要な役割を果たす

さて、中宮様に献上するのでなく帝に献上すると仮定して。内容も帝が共感するような、宮中のリアルな描写が求められると踏んだのか、まひろは道長に帝の情報をいきなり取材しインタビューを始めた。

しかし一条帝が即位なさったのはまだ七歳のころ、15年ほども前のことで道長はまだ20歳ちょっと、父兼家がまだ権勢を誇っていたころで記憶があるかと言われるとあいまいだったのではないか。その頃の政治には道長はまだまだ関わっていたというには程遠かったのだから。

それはともかく宮中のこと、帝や後宮についての様々な細かい事は普段から道長はよく見聞きしているはずだった。

帝についての色々なこと……

内裏と後宮のこと、

人柄、

若き日のこと、

女院様(今は亡き東三条院詮子様)、

皇后定子様とのこと、

帝の生身のお姿……

いくらでも帝について取材する話題はある。

まひろが決して立ち入れない内裏のことも、清涼殿での帝の様子や後宮の事など左大臣として帝に近く仕える道長ならわかることは多いだろう。

道長は断片的に語り始める。正史として史官が叙述するのではなく、生身の人間としての帝の姿なら身近にいる道長などの公卿が伝える姿がぴったりだ。

道長の回想は続く………

ご誕生のときそれは美しい御子であられた。

即位は7歳のころ。(安和の変つまり兼家の策略により)

定子様が13歳で入内したとき帝はまだ幼く10才であられた。定子様は帝の良き遊び相手であった。そんないきさつもあり、定子様をお慕いする帝の思いは我々が思うより遥かにお強いものだった。

人の心はけっして第三者が思い通りに操れるものではない。

 

まひろはこれらの題材からまず、物語の登場人物にそれぞれの性格とか個性を持たせるところから手をつけるようにしたようだ。

登場人物として挙げられたのはまず帝、中宮、あまた登場する女君たち、皇后、……

そして暗示するような女院の死というキーワードは、源氏物語でいう藤壺中宮の死だろうか。

しかし結果的に全54帖、文字数にして約100万字、登場人物500人と人数の多さだけ見ればトルストイ戦争と平和と同等か世界観はそれよりさらに広く掘り下げられているともいう大著になる片鱗をこのときすでに見せていたともいう。

惟規の言うところの「根が暗くてうっとうしい、めんどくさい姉上」としてのまひろの性格があってこその源氏物語である。言い方を変えればまひろは根気強く継続できる(もっと言い方を変えればしつこい)性格なのである、たぶん。よほどの胆力がないとこれを最後まで書きあげることなどできたものではない。

だからこそこの長編を倦まずたゆまず綴ることができたのであって、また個性豊かな登場人物をしかも複雑な伏線も含めていきいきとそれぞれに自我をもたせて自由に動かせているあたりが天才としか言いようがない。

 

まひろはうろうろと自室の周辺を行ったり来たりと、家人からみれば精神を病んだのだろうか大丈夫か?と危惧されていたらしいが、こういう構想を組み立てていたのだから迷ったり悩んだりしていたのは当然だろう。むしろちょっと悩んだりしたくらいであの大著がうかぶ頭脳ってどんななのか想像もつかない。

そのうちまひろの面前になにか降りてきたというか、越前の紙を前に構想が文になって繋がっていく。天才がよくいう「ひらめいた」というやつである。

まひろが憧れていた越前の上等な質感の紙を前にして、まひろの持っていた誰も気づかなかった才能、眠っていた感性が呼び覚まされた瞬間かもしれない。

 

そして出来上がった物語(つまり第一帖桐壺の巻)を道長が読んでみるが、しかし「これを献上すると、かえって帝のご機嫌を損ねるのではなかろうか」と、道長から辛口の評がついた。

確かに筋書きはあまりにも宮中の現実をそのまま描写しすぎて帝にも身近な設定ばかりで、読んだ人はみな思わず登場人物のモデルを心のどこかで実在の人物に想定してみずにはいられないほどのリアルさである。

まひろは「これが私の精一杯でございます」と返す。

内容について咎められるにはあたらないだろう。

まだ16歳の中宮彰子をお慰めし楽しく読んでもらうための物語ではなく、自他ともに認める文筆家としての自負をもって、まひろが持てる限りの才をなげうって完成した物語なのだから。

まひろは帝に忖度するのではなく、この物語を純粋に文学として帝に評価してもらいたかったのではないだろうか。

 

伊周と帝の逆襲

さて伊周の復権は加速する一方だった。

脩子内親王の裳着(1005年頃?)が盛大に行われたが、帝はこのときの腰結役(近親の社会的身分が高い人がつとめる)を伊周に依頼し、席次も右大臣顕光と大納言道綱の間にするように、帝によって強制的に決められていた。

(※ 脩子内親王はこのとき七歳。男子で言う元服に当たる裳着を執り行うにはまだ早いのでは?という気もするが。一条天皇が特例の宣旨でも出して急がせたのだろうか。)

しかし公卿でもない伊周に昇殿を許した理由は脩子内親王の裳着のためなどではないはずだ。帝の真意は伊周の復権道長への牽制だろう。

道長左大臣と内覧就任には東三条院詮子の威光が働いていて異例なだけであり、地位を考えると右大臣兼家の五男である道長よりも、関白道隆の嫡男である伊周のほうが出世の順は早いはずなのだ。一条天皇がその論を唱えれば、道長は反論も出来ず指をくわえて黙って見ているほかない。それが本来の序列が示す現実だったはずだ。

さらに道長は帝から、伊周を陣定じんのさだめに出すように斡旋を頼まれる。普通は陣定には参議以上が参上する決まりのため伊周はほんとうは参加できないのだが、そこへ帝から直接言うと角がたつため道長が発案したように装ってほしいというのだ。

帝直々の、たっての依頼をまさか否定するわけにもいかず苦虫をかみつぶしたような苦悶の表情を浮かべて承諾する道長

 

道長からの無言の反撃

道長もこの状況を手をこまねいて黙って眺めていたわけではない。

土御門殿で道長が主宰した漢詩の会が開かれ、いつもの四納言(俊賢除く)に加えて伊周と隆家が招かれた。ここでゴキブリを遠巻きに見るかのように、冷たい3人の目線が伊周に突き刺さる。

三人(公任、斉信、行成)の心の声:道長ときたら政敵の首領を自邸に招くとはどういう風の吹き回しだ?』

伊周も正面から道長の招待を受けて立つとは相当の度胸である。最悪の場合道長に何かの拍子で毒でも盛られたらそれで最後だというのに。虎穴に入らずんば虎子を得ず。まさに窮地。政権に返り咲くためなら手段をいとわない伊周は、まさに背水の陣を敷いたのだ。

ここで伊周が披露したと伝わる自作の漢詩が記録に残っている。さすがは「書も、和歌も、笛も弓も、誰よりも秀でていますもの」と母貴子に手放しで賞賛されていた伊周。こういった文芸や武道に優れた腕前を発揮することが当時の貴族の出世の条件でもあったから、伊周はまさに出世頭だったのにこういう憂き目にあうとは。あきらかに理不尽な不遇に身をやつしている(←←←伊周・帝サイドの言い分)

「花落春帰路」(本朝麗藻)
春帰不駐惜難禁 花落紛々雲路深
委地正応随景去 任風便是趁蹤尋
枝空嶺徼霞消色 粧脆渓閑鳥入音
年月推遷齢漸老 余生只有憶恩心

書き下し文:

春帰りて駐らず 惜しむこと禁じ難し
花落ちて紛々たり 雲路深し
地に委つるは正に景に随ひて去るべし
風に任するは便ち是 蹤を趁ひて尋ぬ
枝空しく嶺を徼りて霞色を消す
粧ひは脆く渓閑かにして鳥音を入る
年月は推し遷りて齢漸く老ゆ
余生は只だ恩を憶ふの心有り

 

しかし斉信と公任は、道長が仕組んだ茶番劇ともいえるこの会の真意を裏の意味に解釈していた。

政略の構想を立てるには、囲碁のように何十手までも先を読みきれなければ、政界では生き残れない。(どう考えても先を読めてない道綱が大納言の地位に居られるのは単に家柄の威光があるからにすぎない)

道長は伊周と隆家に向けて、「私には君たちを招く余裕と広い度量があるのだ。帝は伊周を再び取り立てようという固い決意があるようだが、自分は焦ってないし全く気にしていない」ということを無言で示し、おおらかな寛容さ、敵を広い心で受け止める器の大きさをアピールしているのだろう。

というふうに。伊周と道長のやり取りには何らかの政治的メッセージがあると考えるのが自然なのかもしれない。

 

運命の瞬間

枕草子を手に、聡明で快活だった定子との華やかな思い出の世界に浸り、戻ってこれない帝。

そんなけだるい雰囲気の清涼殿に参上し、のちに源氏物語の桐壺巻と呼ばれる物語を、突如帝へ献上する道長

何の先触れもなく説明もつけずに何気なく帝へ勧め、道長は孫廂で伺候し冷静な表情を保つべくすずしい顔を装う。しかしまさにこの物語の去就が道長の、中宮彰子の、そして一族の命運を握っているといっても過言ではない。

神の裁可が下されるとでもいうかのようにBGMに賛美歌が流れるなか、道長は祈るような表情だ。しかし帝は気にも留めてない。

「そんなことくらい、蔵人に申し付ければいいものを」

帝にとってはあくまで、数多ある献上品のひとつ、気軽な創作本のたぐいだろうと思っていたのだろうか。どちらにしても、この調子では実際に手に取って読んでもらえるかどうかも怪しいものだ。

 

道長から見た帝の表情は一見、無反応に近いものがあったが、しかし帝は就寝前にこっそりと手に取った桐壺巻を読みふけっていた。

果たして桐壺をお読みになった帝の御意見は、道長が予想した通り(あまりにもリアルな宮中の描写のせい?)帝は「これは朕への当てつけか?」と怒り心頭な風風情であったが、しかし作者が気になる、続きを読みたいとも仰せになった。

「唐の故事や仏の教え、我が国の歴史をさりげなく取り入れておるところなぞ、書き手の博学ぶりは無双と思えた。書いた者を召し出すなら、続きを読んでからにしたい。」

 

結果として「物語へ興味を持っていただく事によって、帝が藤壺へお渡りいただくきっかけを作る」という道長の作戦は、ぎりぎりの所で繋ぎ止められたといえる。

でもこの作戦はどこかに致命的な矛盾をはらんでいる。

帝と中宮彰子が仲睦まじく暮らしていただくようにするためには、物語へではなく中宮彰子自身へ帝がご興味をお持ちくださることが最終目標なのに、そこへの解決策はいまだ皆無と言っていい。利発で聡明であった定子との決定的な差を感じている帝に訴えかけるには、彰子はあまりにも自己の表出に欠けるのだった。

帝に全く顧みられない中宮彰子の寂しい境遇はこの時点では何ら変わることはなかったが、しかし道長にとっては大きすぎる一歩となった。

 

「お前が女であってよかった」と思える時by為時

そこで道長が用意した決定打は、まひろを藤壷に女房として召し抱えるというものであった。つまり桐壺巻の続きの物語を、藤壺で執筆させるということだ。狙いはもちろん藤壺でまひろが物語の新作を書いていれば、帝も気になって藤壺へお渡りになるやもしれぬ」からである。賢子の身柄は女童として一緒に藤壺で養育すればよいという。

思いつきにしてあまりにも道長に都合の良すぎる身勝手な案にそう簡単にうなずけるわけもなく、まひろは頭にきて思わず呻くのであった。

「囮でございますか?💢💢」

「そうだ!」

と、道長は罵られようが一歩も引かない覚悟らしい。決してあきらめない決意を表明して道長は意気揚々と為時邸を去るのだった。

 

しかし道長はここで突如、「なんで道長とまひろは、いきなり名指しで物語を書かせるような具体的知り合いだったのか」ということを世の中に説明しなければならないお題が持ち上がるという窮地に陥ったのだが、さすが政界の駆け引きの世界を泳ぎ切っている左大臣様、これしきのことではもはや眉ひとつ動かさない。

この件で最大の問題は正妻の倫子にどうやって説明するかだ。そもそも、倫子は若い頃の勉強会でまひろとも知り合いだったからだ。

そこで、表向きには「公任の屋敷で開かれている和歌を学ぶ会で、面白い物語を書いてきて読んで聞かせる女子おなごがおると聞いたゆえ、その者に改めて物語を作らせ帝へ献上したところお気に召したようである、ありがたいことだ」ということにしておき、その説に倫子はまんまと騙されるのだった。物語の作者、まひろを藤壺に召抱えていれば帝のお渡りがあるかもしれないといういわばできすぎている案に倫子は全く疑義を示すことなく、めっぽう乗り気である。

あまりにも簡単すぎやしませんか、倫子様?ちょろすぎます。騙されないでください。

道長はあくまで倫子に伺い許可を得たという体裁をとり、何事もなかったかのように「倫子がよいと言うなら、そうしようか」とまるでひとごとである。

演技がうますぎる男にろくなものはないものだ。

でもこれまで決死の覚悟で帝へ直訴してでも中宮彰子ご自身のことを母として心底案じていた倫子としては、長い年月を経てようやく一筋の光明が見えてきたから素直に嬉しかったのだと思う。

倫子の表情には素直にほっとしたような喜びがあらわれていて、勘繰るようなそぶりは微塵も感じられない。

道長は幸いなことに、命拾いしたようだ。

 

まひろは最後の決断の前に為時と相談していた。為時はまひろと左大臣のひそかな恋に勘づいていたようで、そのうえで「帝と左大臣様、そして中宮様の覚えめでたく文才を重用されるのは名誉なこと、周りの女房も一目置くだろう」と為時は静かにまひろを諭す。

為時の判断はあくまで学者としての名誉を重んじたもの。

でもまひろが逡巡して決めきれないのは、賢子を置いていかなければならないからだった。いまでいう小学一年生くらいの年齢の賢子、まひろが指導するかぎりではまだまだ学問に興味を示すでもなく遊びたい盛りの子供であり、親としてまひろは賢子を置いていくにしのびなかったのだと思われる。

しかし為時の言葉に最後の背中を押されたのか、まひろは賢子のことを為時と(惟規の乳母でもあった)いとに託すことにしたようだ。親として断腸の思いだったのだと思うと見ている視聴者としても身につまされる思いである。

でもまひろは迷いも懸念も心の奥に呑み込んで、決心した様子ですがすがしい表情で宮中へと旅立つのだった。

 

雪の降る日に、為時にむかって正式に別れを告げるまひろ。幼い日にまひろの聡明さに舌を巻いた為時は、まひろが女に生まれたことを悔やんでいたが、しかし事ここに至って宮中の女房職は女にしか務まらないことから、「お前が女であってよかった」といってまひろへのはなむけの言葉とするのだった。

学者の家系として、文才を請われて宮中へ仕えるのは一族きっての誉れ。

同席する惟規、賢子にいと、そして乙丸ときぬも、まるで今生の別れであるかのようにある者はしみじみとした表情で、いとは賢子を抱きしめて泣き崩れながらまひろを送り出す。

まひろは「宿下がりできるのだから、たまには帰ってくるのよ」と言いつつも、万感胸に迫る思いで生まれ育った屋敷を去っていく。

 

 

 

第27回「宿縁の命」 第28回「一帝二后」 第29回「母として」  大河ドラマのlightな感想 光る君へ

 

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儒教に縛られる前の時代の自由な恋愛

平安時代を描くドラマにおいて、摂関政治後宮を舞台に駆け引きが行われるからというのもあるが、恋愛がテーマとして扱われてるのがほかの大河ドラマとか歴史ドラマと大きく違う点だと思う。今回がはじめて平安中期を扱っているほかは、古くても鎌倉殿の13人とかにみられる鎌倉時代以降、戦国時代~幕末にかけてのいわゆる武家政権がほとんどだからだ。

本格的に政権の推し進める思想として儒教が採用されるのは江戸幕府なので、戦国時代までは女性もおおらかに振舞っていて開放的で自由だった気風が残っていた。

とりわけやはり今回のドラマで見る平安時代は、いまだ奈良時代以来の古代の風習が色濃く残る。夜の闇におびえ、病気や天災、異常気象は物の怪のしわざとか祟りと信じて仏教の僧に祈祷させて解決しようとする。

そして男女関係は通い婚だったからというのもあるからか、一夫多妻制だったから再婚は普通に行われていたし、浮気という概念も今とは違っていた。

江戸時代以降よりも、平安時代は人生の選択がずっとバラエティに富んでいたということもできるだろう。(身分による差別は厳然としてあったとしても)

 

儒教では「貞女は二夫に見えず」と、女性の生き方は極端に制限されてきた。

※出典:史記の田単伝から「忠臣は二君に事えず、貞女は二夫を更えず」

現代語訳「忠臣は二人の君主に仕えない、貞淑な女性は夫の死後に他の男性と再婚しない」

この儒教の教えの根拠というか、儒教孔子や弟子の言動や教えをまとめた四書つまり『論語』『大学』『中庸』『孟子』と、五経易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』からなる古代から伝わる思想である。上記の「貞女は……」の句が載る史記の田単伝はじつに紀元前の戦国時代B.C.284年ごろのことが題材であって、日本の江戸幕府が教義を政治的に採用した時点ですでに1800年以上経過していたのだから、国も経済や政治の背景も全く違う。よって全く過去の遺物である思想をA.D.1600年すぎてから採用したことが間違いである。

つまりこの思想に縛られない平安時代の女性は(今現代からみれば常識が色々違っていたとしても、)各々が個性に富んでいて、そしてその個性を存分に生かし発揮することで、豊かな文化を形成していた。

それが貴族社会の中だけであったとしても。これを社会のすべての層に満遍なく行きわたらせるには社会福祉と民主主義の概念の普及が必要であり、明治維新ひいては第二次世界大戦後を待たなければなければならなかった。

 

日常生活の身近にあった生と死

このように、平安時代は分類上は古代である。中世とは鎌倉時代以降を指す。農業、経済、物流と貿易、政治、思想と文化、どれをとっても平安時代はまだ古代の気風を濃厚に残している。インフラに至ってはまだ存在しない。

ずっと回を追うごとにコンスタントにこのお題は登場しているが、登場人物の身分だとストーリーに関わってこないので庶民生活のストーリーテラーとして主人公のまひろに語らせているようだ。鴨川の氾濫でまひろの屋敷も浸水したり地震で被害を受ける中、孤児たちを家に呼び集め、おにぎりをボランティアで振舞うまひろ。

「あのこどもたちは鴨川の氾濫で親を失った子ばかり、ほうっておけば間違いなく飢えて死にます。」

そこで(身分的に夫宣孝と矛盾が生じるため)宣孝からは言下に諫められている。

例①:

「親がない子供たちを家に入れるなど汚らわしい。飢えて死ぬなら子供とはそういうものだ」

光明皇后を始祖とする悲田院とか施薬院は継続して平安京にも設置され、孤児も救済していたようだが、あくまで都の範囲内で貴族の手の届く範囲内でという意味だろう。それにこの事業がまじめに稼働していれば都の乳児と子供の死亡率は下がってただろうし、そんな記録は残ってないと思うので、ここは宣孝様のいう通り、庶民への社会福祉システムは機能してなかったといっていい。

むしろ病気を治すという概念に乏しく、死は物の怪によるもので穢れに直結するとして忌み嫌われていた当時、平民でしかも親が死んだ子などは行き倒れになって道端に転がっていたのが普通かもしれない。

貴族の中でも官位によって衣装で区別され、また書や和歌に秀でていたり、管弦や弓などの芸に通じていたりするかどうかで明確なランクづけがあったはず。

まして平民など貴族からは人間と思われてなかった扱いだし、貴族の家でも使用人と主人とには厳格な身分の区分がはっきり見て取れる。

 

例②:

「まひろへ土産にと思うて丹波の栗を持って参った。皆へではない、まひろお前にじゃ」(越前から戻ったばかりのまひろに向けて)

貴族などの邸では、主人に仕える女房や乳母(まひろ邸でいえば、いと)を除いて下人など使用人は完全に生活エリアが分けられていた。当然食事とか口にするものも全く別で、みんなで分けようとするまひろのほうが事実に反する。

でもこのあと、まひろの越前からの帰還を祝って宴会が開かれ、宣孝とまひろは意味深な視線を送り会って愛を確かめ合ってて惟規が戸惑ってるのはいいが、しかしこの宴席に乙丸ときぬ、いとと福丸が同席してるのは身分的におかしい。

宣孝様がこどもは飢えて死ぬのが当たり前と言ってるのならここで使用人は母屋には上がれないのだ。でも主人のまひろが一年ぶりに帰還したから特別のはからいだったのだろうか。

 

さて、ここで語られたのは庶民の生活だったが、ここからは高貴な身分の方々について3つの時間軸が並行して語られる。それぞれに身分も立場も全く違う3人の女性。

定子と、まひろと、そして彰子である。

彼女ら3人をして主人公ともいうべきドラマであり、今回はそれぞれに人生の転換点を迎えるところが描かれている。政治に、身分に翻弄されながら生きる彼女らのほんとうの思いはなんだったのかに焦点が当てられているように思う。

平民には人権がなかったこの時代、身分ある高貴な人々にもそれぞれの葛藤があって、生きるとはなんなのだろうという哲学的な思索に耽ってしまう。

 

中宮定子

(ただし定子は1000年2月以降は皇后となる。その経緯についてはあとで述べる)

定子の御座所は以前に藤原行成が提案した職御曹司であり、正確には内裏ではないが一条天皇は変わらず定子を寵愛していたようだ。ほかの女御様、元子や義子のもとにも通っていたようではあるが。

中宮の御座所には御帳台みちょうだいが設けられ、暈繝縁うんげんえんの畳2畳の四方に柱を立て、几帳のとばりを垂らすことで中宮としての格式がよりいっそう感じられるようになっている。

天皇の寵愛を一身に受ける、押しも押されぬ正妃としての格式である。

 

 ↓ちょっとだけ横道に外れる

暈繝縁うんげんえんとは何か

雛人形でお雛様とお内裏様が座ってる畳の縁の紋様のことである。ここでいう暈繝とは織物における境目をぼかさないで同系色で遷り変っていくにしき(絹織物)のことをさす。

この畳縁は帝やその妃、上皇や皇太后など限られた高貴な人たちにのみ使用が許された最高格式の紋様で、装束と同様に、貴族社会では官位によって畳縁に使用できる紋が細かく定められていた。

ルーツは中国のさらに西方、ペルシャやシリアに求められる説もある異国情緒豊かな紋様である。

 

暈繝紋が日本へ伝来した当時の伝世品として、正倉院に残る紋様がある。パターンのサンプル画像を引用してみよう。

七曜四菱紋暈繝錦ななようよつびしもんうんげんにしき

この紋様は正倉院に伝わる螺鈿箱の内張りに使用されているが密閉された状態だったためか、色彩があざやかに残る。

螺鈿箱 リンク:正倉院 - 正倉院

 

花紋暈繝錦かもんうんげんにしき

暈繝紋は織物以外にも仏教的紋の法相華だったり寺の軒下の塗装であったり、様々なところで用いられていた。この花紋の錦も正倉院紋様として伝えられているもので、このような様々な紋が変遷し平安時代には畳縁を飾るための由緒ある織物として伝えられるようになったのではないか。

 

画像リンク:

http://www.kariginu.jp/sozai/ungen-7you.gif
http://www.kariginu.jp/sozai/ungen-tenpyou2.gif

引用サイト:  有職装束【綺陽装束研究所】

 

 

さて題名にある宿縁の命とは、まひろと定子の懐妊を指すと思われる。それぞれに運命というか宿命を背負って産まれてくる子たち。

 

時はだいたい999年4月末山桜のころから新緑の5月にかけて。

定子は二人目を懐妊し、子の性別はまだわからないながらも、出家した身で懐妊など許されないことだと自己嫌悪にさいなまれている。

伊周があんな事件を起こさなければ、道隆が若くして糖尿病で亡くならなければ。今更蒸し返したところでどうにもならないが……

しかし定子は憔悴したようすにさえ、凛としたおごそかな威容が感じられる。

溌溂とした天真爛漫な少女のころ、女御から中宮のころ梅壺で輝いていた定子とはまた違って陰翳が人生に影を落とし、そのことがよりいっそう怜悧な美貌を際立たせている。

何がすごいって13歳の入内したばかりの女御の定子とこの皇子出産前の苦悩する定子を見事に演じ分けられてる高畑充希さんがすごい。表情ひとつ、憂いを帯びた視線ひとつにまで台詞はなくともありありと定子の心情がみごとに表現されている。

この定子の窮状は帝にもどうにも介入できない問題であり、宮中の女官から、公卿たちからあらゆるところで蔑まれ中傷されるさまを黙って見ているほかない。

「産まれる子はきっと皇子だ、きっと中宮を守って見せるぞ」と帝は強気に中宮を励ましているが、歴史上の結末を知っている視聴者からは、帝の励ましも空回りにしか見えない。

 

敦康親王の誕生と登場人物それぞれの立場

そして999年11月7日定子に第二子、待望の皇子が誕生する。このことは帝と定子、そして清少納言ほかお付きの女房達を大いに鼓舞したことであろうが、しかしそんな雰囲気になっているのは関係者の周辺だけだったようだ。

なぜならこの11月はじめには道長の長女、彰子が入内したからだ。中宮の産み月はわかっていただろうにほぼダブルブッキング状態なんてあんまりだと思われるかもしれないが、道長の事だから当然わざとぶつけているのである。

 

さて定子の周辺の方々の反応がそれぞれにあからさまに自己中なのでまとめてみた。

帝だけは自己中ではない。帝だけはほんとうに出産にあたって定子の無事を懇願していたし、中宮が父道隆という後ろ盾を失うなか、中傷に堪え、重圧を背負いながら皇子を産んだという偉業を涙ながらに讃えている。帝でも神に祈るしかない状況だったことがうかがえて、痛ましすぎる。

この場面以降、帝と定子の登場する場面はすべて涙なしには見られない。

運命の歯車はもう動き出していて誰にも止めることはできないのだ。

あまりに悲運なふたり。

 

居貞親王(春宮)

道長の報告を聞いて、心底から悔しがっている。「皇子か~~………(´;ω;`)」と、あからさまに失望した様子。そりゃそうでしょうね。ただし現春宮さまは次の帝位が決まってるから心配いりません。ここの場面の登場人物がみな懸念しているのは、現春宮の居貞親王さまの次の春宮様に誰が選ばれるかという問題です。まだ今の帝、一条天皇がご健在であられるのにまだ決まってない次の春宮様の候補を考えるとか不敬では?と普通の人はお考えでしょうが、このことによって一族郎党の運命がみな変わってきかねないのだから神経をとがらせるのは当然。現に定子様に皇子(次の春宮候補)が産まれないうちに政治的後ろ盾の道隆が亡くなったことが、中関白家の衰亡の遠因を招いたのは明白な事実。(重ねて言うがそれは誰のせいでもない)

さて。展開は180° 変わり、中宮定子様という帝の正妃(たとえ出家していても)に皇子が産まれたとなれば次の春宮様の座は確定も同然。

そこで居貞親王が懸念してるのは、自分と正室の藤原娍子との間に生まれた敦明親王あつあきらしんのうが次の春宮になれる可能性がほぼ消滅しそうなことだ。

帝の地位は世襲ではなかったから自分が将来の帝になるからといってその子が将来どういう道をたどるかは全く分からない。政治的後盾がなければ、もし帝になれたとしても花山天皇のように時の権力者(=兼家)に無理やり退位させられることもあるからだ。

これでは敦明親王どころか現春宮、居貞親王自身の将来も危うくなってきたところである。

道長

上記のように現春宮でさえ眉を曇らせる不利な状況で、後から長女彰子を入内させたばかりの道長などはこれで窮地に立たされたかと思われた。崖っぷちにして風前の灯火。血統からいえば、現在の中宮が第一皇子を産んだのだからもうその地位は覆らないと思われるからだ。

春宮の居貞親王にも「さぞや残念にお思いでしょうな、叔父上」と面と向かってはっきりと皮肉を言われる道長だが、ここで弱音を吐いては左大臣の名折れと思ったのか、謎の強気発言を放つ。

「皇子様ご誕生でますます帝のお心が中宮定子様のもとに傾かれるのを引き留めるためにも、私どもの長女彰子が入内したのには意味がございます」

とかなんとか、苦し紛れの屁理屈をこねている。

さっぱり意味が分からない。

帝の眼中には中宮定子しか見えていないことは誰の目にも明らかだし、新たに入内させた元子と義子らの女御様もあまり帝の心をとらえられているようには見えない。

ここで絶体絶命の窮地に立たされる道長だが、転んでもただでは起きない肝の据わり方なのか、これから後の巻き返し振りがすごい。どういう経緯をたどるのかは、歴史書にも詳しいことなので省く。

そのうち登場する場面も多いだろう。

伊周

この時点で群を抜いてリードの位置を取ったのは、父道隆亡きいま敦康親王外戚として後見人の立場にある伊周だ。その浮かれようは有頂天というにふさわしく、まるで突然この世の春が訪れ覇権を謳歌しているような口ぶり。定子には焦らないでと優しく釘を刺されている。

確かに定子は出家の身で皇子を産んだが、伊周も宮中へ官位が復権したいま、政治的後ろ盾も盤石に見える。

しかし伊周がまったく忘れていることがある。それは世論だ。

そもそも定子が剃髪する原因となった長徳の変は伊周(と隆家)が故意ではないにしても直接の原因となり捕縛にも従わず逃亡したからさらに罪は重くなったのに、自分の過去と責任は放棄して定子の産んだ皇子を足掛かりに、外戚として政治的覇権を狙うのはいかがなものか。

中宮定子でさえ内裏へ上がれず縁者の屋敷を転々として暮らしている日陰の身だというのに。

伊周の主張には一番肝心な点が抜け落ちているのだ。

隆家

伊周とは正反対に、弟の隆家は冷静だ。だいたい、長徳の変後、流罪が赦されて出雲国から帰京し挨拶に行った先は道長の所だった。隆家は自分たちの手ではもはやどうすることもできない時代の流れの変化を読んでいたのかもしれない。いや、伊周もそんな時流の変化は百も承知だっただろうが、そこに正面から対抗していただけだ。隆家のほうが事実にきちんと向き合っている。

中宮様に皇子が産まれたとなれば、次の春宮様として全力でお支えすることでわれらの世が来るだろう!」

と気勢を荒げる伊周に対して、醒めた視線を向ける隆家。

「兄上~、皇子様が春宮になられるということはすなわち、今の帝がご退位なされるということですよ!?そうなれば中宮様である姉上の地位も傾く……焦っても、いい芽は出ないと思うがなぁ~~」

そうだ。皇子様誕生!春宮様へ!という展開は即ち一条天皇の退位を意味する。

 

定子が自ら剃髪したとはいえ、伊周と隆家は政治的に復帰しているというのにこの中関白家の兄弟への世間の風当たりの強さはなんなのだ。父道隆からすべてを受け継いだ気鋭の若手貴族ではなかったのか、伊周は?

歴史にもしもはないけど、定子の苦悩、そして残された定子の皇子と内親王の今後たどる運命は、すべて伊周そして隆家にもっと人望があり、かつ有能であれば回避しえた結末なのかもしれない。

【※もっとあとの場面になるが、長男道雅に舞(雅楽?)を目を血走らせて教えたあげく気に入らずに怒鳴り散らして正室が取りなす場面があった。いうまでもなく権力を手にした道長の二人の嫡男が晴れ舞台で披露する舞と比較している。伊周邸の調度類も閑散としたものにすることで、一族の凋落を無残にというか露骨に描いていて見るに堪えない。】

女院様(東三条院詮子)

(詮子は先々帝の円融院の女御であった。ただ、ほかの女御に皇子がなく、詮子の皇子懐仁親王が春宮に、そして一条天皇として即位したため母后として女院の称号を授けられたのだ。円融院が在位だったころは関白藤原頼忠を父に持ち、公任の姉上でもある遵子が中宮として後宮に君臨して帝の寵愛を一身にうけていた)

そんな中、帝を第一にとひたすらお守りしてきたのですから………

もはや中宮定子は剃髪しており妃とは呼べない身、定子を第一に大切に扱えば宮中の反感を招き、帝にもよくない影響がありましょう………

いい加減、演説が長いですね。

ここまですべて帝に切々と訴える女院様の語りである。

この親子、帝から見てのマザコンではないが、女院様が病的なまでに子離れできてない気がする。いつまでも親の権威をふりかざして言いなりに動かそうとする傲慢さがありありと見て取れる。女院様がおっしゃられる通り、妃としての人生は恵まれたものではなかったけどその気持ちをぜんぶ子の一条天皇にぶつけるのはなんか違うのでは…?

そういえば道隆亡きあと、関白の座はともかく、内覧を誰にするかを巡って、順当に伊周に決まったと思われた矢先に帝の寝所へ(蔵人頭の俊賢が制止するのを振り切り)単身で乗り込んでいって、涙ながらに道長を内覧に抜擢するよう切々と訴える場面がありましたね…?

あの直訴事件(ドラマオリジナルかもだが)がなければ、道長は確か権大納言中宮大夫兼任で正二位止まり、よくて右近大将までだったのですよ?そうなれば後の展開はいわずもがな、伊周が天下を取って丸く収まっていたはずです。

恐るべし、女院様の影の権力。

今回も女院様は情に訴えて帝を意のままに操られるのでしょうか。

 

しかし帝もいつまでも操り人形のままではない。

いい加減ここまでくると人格を無視されていることに気づくだろう。政治的権力の座につくことは往々にして他者の介入を招き事実上の権力を骨抜きにされるのは、古今東西どこでも見られることだ。

一条天皇は絞り出すように、そして吐き捨てるように女院様へ向かって言い放つ。

「私は定子ひとり幸せにはできないのです。女院さまの強引な意見を避けるために定子に逃げたのです。そのことをわかっていただきたい」

 

ここで女院様が訴えていたのは定子の勢力を削ぐためだけのようで、何か決定的な隠し玉をもっていたわけではなさそうなので、当面は定子の身柄は安堵されたようだ。

 

太陽と月

(これより少し前の時期のことだが)伊周が大宰府から恩赦で帰還後、職御曹司に出入りを許された時期のころ。清少納言は宮中で定子への誹謗中傷の噂が渦巻く中、そんな話などなかったかのように明るく振舞う。

「唐の国では皇帝は太陽、皇后は月と申します。ですがわたくしにとって中宮様は太陽でございます。 近寄ると火傷されますわよ」

と、中宮に辛辣な目を向ける伊周を軽く鼻であしらいつつ、清少納言中宮定子と軽く目配せして、お互いに微笑むのだ。

「さすが少納言、洒落た皮肉を思いつくこと」

中宮様にはおわかりいただけたようで光栄に存じます」

などとふたりだけにしかわからない心の会話が、二人の目配せから読み取れるような軽妙なやりとりに、すっかり伊周は蚊帳の外で仲間外れにされている。定子のサロンには機知に富み文芸に秀でた聡明な知識人しか出入りを許されないのだ、政治的出世ばかり考えている伊周のような無粋者、ウイットに富んだ会話のひとつもできない者が来る場所ではない、といわんばかりだ。

わたくしにとって)世界は太陽すなわち中宮様を中心に回っているのですから、何人たりとも否定は許しませんし邪魔もさせません

と、つまりこういう意味か。

中国では古来、天命をうけた統治者が皇帝として天下を治める資格をもつと考えられた。そして皇帝は太陽をつかさどり祭祀する立場であったところから、皇帝は太陽、皇后は月という中国古代の思想を引用しつつ、そこにちゃっかりと清少納言の主張をいれたものだろう。清少納言の中では中宮は輝きを失わない太陽で、その主観は枕草子にそのまま取り入れられていると思う。

 

このころ定子の運命は傾きつつあったが、清少納言を見ているかぎりその周辺はかぎりなく明るく華やいでいて昔と変わらない後宮の雰囲気を演出しているように見える。それが清少納言から主人である中宮定子への精一杯の心づくしだったのだろう。

 

まひろの結婚生活

男の不治の病、それは浮気(病ではなく確信犯)

さて、一般の平民ではないが春宮様や左大臣のお屋敷などあたりからは身分もしつらえも程遠い、まひろの為時邸における結婚生活が始まっている。

最初は宣孝はまひろに惚れ込んでいてお通いも頻繁にあり、睦まじく暮らしていたようであったが、でも忘れてはならない。まひろは宣孝の五人目の妻つまりなのであって、すでに他の妻との間に計6人の子もいる。

以前、為時が越前にてまひろから宣孝からの求婚の話を打ち明けられたとき、

「宣孝殿には何人も妻も子もいる。まひろのこともいつくしむであろうが、他の妻のことも同じようにいつくしむであろう。潔癖なおまえがそのことを気に病まなければよいのだが」

という意味のことを指摘して、まひろの性格を心配する場面があった。

まさしくそのような展開を迎えつつあり、まさに想像通りテンプレでしかなく、視聴者としてはものすごく予想できた筋書きで、意表を突くわけでもなく面白くもなんともない。しかしこの展開はたぶん史実なので抜かすわけにはいかないのだろう。

通い婚の時代の平安京において貴族の男の浮気なんてせいぜい甲斐性くらいにしか思われてないし、それに出世をもくろむ貴族には(平均寿命も短い中)たくさん妻と子、特に入内させることのできる姫をもつことは政治戦略的にも重要な事だったから、一概に責めることはできない。

しかし具体的に聞いてるととても見過ごすことはできない浮気ぶりであった。

宣孝いわく

「まひろからの文を他の女に見せびらかしているのだ。学のある妻を持ったと皆に自慢したいのだ。なに、文の内容をみんなに褒めちぎっておいたのだからいいだろう?」

そしてもうひとつ、惟規からの密告(タレコミ)によると、「他の女と清水の市に行っていた」らしい。そこで買った反物をまひろへ贈ってきて思わずまひろはそのことに対しツッコミを入れてしまう。あんなに触れないでおこうと惟規と約束してたくせに。

惟規は「宣孝様のことひっぱたいてやりなよ!それでもあの方は、姉上を絶対手放さないから!」などと根拠もなしに断言する。

 

そして清水の市でのことをまひろに指摘されても宣孝は軽々しく頭を下げ、謝れば何も無かったことにできると思っている。そしてダメ押しに

「お前の可愛げのない所に左大臣様も嫌気がさしたのであろう」

なんでここで(このドラマではふたりの三角関係の一角である)左大臣が出てくるんだ、宣孝は左大臣に身分でも教養でも敵わないから嫉妬したのか、大人げないことだ。

堪忍袋の緒が切れ、宣孝に火鉢の灰を投げつけて去る。

まひろ、いいぞよくやった。

ひっぱたくよりよっぽど効果がある。

しかしその後宣孝の通う足は遠のいた(当たり前)。

まるでコントのような展開。

いとは頭を下げて自己を曲げ寄り添えと忠告するがなんでそうなる?江戸時代からの回し者か、いとは。女ならまひろの味方して宣孝にきつくひとこと言ってもいいだろう、このドラマの身分の曖昧ぐあいからいって。

この辺の史料は遺ってないだろうからオリジナルストーリーだと思うが、自分は「浮気するなら別れてからにしろ派」なので、こういう場面を「あるあるパターン」としてスルーはできなかったので逐一台詞をメモさせていただきました。

平安時代のことであり貴族なら妻は何人いても当たり前だったとしても、です。ひとりの妻のもとにいるときに他の女の名前を出す必要は無かろうと思うからです。どっちの妻の人権も侵害してると思います。

火鉢の灰を投げつけるのは、源氏物語でいえば黒ひげの右大将と正妻が玉鬘を巡っていさかいになり、(いまでいう精神疾患を病んでいた)正妻が右大将に灰を火鉢ごと?投げつける場面がありましたので、当時全くない事というわけではなかったと思う。ただし灰で火傷したり衣装が燃えたりする危険があったと思いますが。

 

ここでどん底まで、落ちるところまで落ちるまひろと宣孝との夫婦仲ですが、なぜかここで「気分転換しましょう」と称して、まひろは使用人を引き連れて石山寺へ参詣に出かける。

なぜか。(為時はまだ越前で国守任官中)

これが999年2月ごろ。

 

その後、999年5月ごろのこと。

さてまひろの石山寺行きのことも知らずに宣孝はまひろのもとに喧嘩以来ひさしぶりに訪れた。たぶん顔を合わせづらかっただけで、まひろのことが嫌いになったわけでは決してないようだ。

とにかく宣孝はまひろに首ったけのようで色々と貴重な土産の品を買い込んでくる。大和の墨と伊勢の紅、都の女なら誰でも喜びそうな一級品。大和の墨は現代でも当時の手作りの工程を守っていて、今なお名品として誉れ高いのは有名だ。

「どこへ行ってもおまえのことしか考えておらずつい色々買い込んでしまったのじゃ」

こういわれると浮気ぐせも許せる(……?)というかまひろの所に来る=他の妻からは足が遠のいているわけで、持ちつ持たれつという気もするが。

まひろの所へやってきたのは賀茂の臨時祭で神楽の人長に任ぜられたからであり、さらに宇佐八幡宮へ奉幣使として999年11月に派遣されるという。これらの人事もすべて左大臣様のお計らい、まさに持ちつ持たれつ。

いいのだろうか?こんな乱れた男女関係で。

 

大弐三位の本当の父(というドラマオリジナル設定)

さて999年の2月ごろにまひろが石山寺に参篭しているときになぜか偶然参詣しにきた道長に遭遇して昔を懐かしみ、ついでになぜか一夜を共にする展開になっている。

なんですかこのありがちな少女漫画の妄想みたいなストーリーは。

自分は軽くスルーしたい。

だってこの説を認めると

紫式部道長のW不倫になってしまう。いくら性に開放的であり寛大な平安時代においてもそれはさすがに常識として無理がある

・なんと大弐三位の父上が道長になってしまう

紫式部に宣孝以外の夫がいたことになってしまう。それは史料が少なすぎて否定もできないのだけど。

(ヾノ・ω・`)ムリムリいやいやいや……なんでやねん!!!

というふうに、あらゆる諸説が根底から覆ってしまうので個人的にはスルーしたい。

しかしドラマ公式はこの説で行くようなので、仕方なく大弐三位の父上が道長説だけは採用してみることにする。

まあ否定する材料もありませんので。(もう苦し紛れのやけっぱち)

 

そしてまひろのご懐妊が家族と使用人全員にバレるわけだが、まあ隠してもいずれバレるけど、計算上ご懐妊の時期は2月であり宣孝様と絶賛喧嘩中の時期である。なんでそんなときにまひろは浮気しちゃったんだろうほんとの事がバレてしまうじゃないかと呆れるほかない。(というかこの設定が色々ザルのような穴だらけ)

宣孝は高齢になってきたという設定か、いびきがすごい。これは高齢であるだけじゃなく睡眠時無呼吸症候群ていう病気なのでは?もしそうなら極度の睡眠不足で日中起きてられないし、寝てる間に呼吸が止まって危険である。現代なら寝てる間限定の人工呼吸器を装着して対処するところだけど当時はたぶん「いびきがすごいなあ」で終わってたと思うので視聴者としてはこれ以上ツッコミはしない。

そんなすごいいびきをよそに、まひろはそれなりにこれからの人生について思いを巡らす。

いやいや、浮気しなかったらいいだけだから!

そんな人生最大の危機みたいな顔して思いつめられても!

しかし人生最大の危機としてまひろは真摯にこの事態を受け止め、宣孝に相談する。

このくだりが宣孝の神対応により名場面になっているので、せりふをそのまま載せる。

 

ーまひろー

(月明りの夜、外に出て思いにふける)

よく気の回るあの人が気づいてないはずは無い

気づいていて敢えて黙っている夫に正直に言うのは無礼すぎる

さりとてこのまま黙っているのはさらに罪深い

そこで宣孝に別れを告げ、この子は一人で育てますと宣言しようとするまひろに……

 

ー宣孝ー

そなたの産んだ子は誰の子でもわしの子だ

一緒に育てよう!

それでよいではないか

わしの気持ちはそのようなことで揺るぎはせぬ

何があろうともそなたを失うよりはよい

 

一緒になるとき

”私は不実な女である”とお前は言った

”お互い様ゆえそれでよい”とわしは答えた

それはこういう事でもあったのだ

別れるなどと、二度と申すな

 

至言、名言です。

もうこのドラマの筋書きがフィクションとかどうでもよくなりました。

宣孝様のしょうもない浮気如きでつらつらと愚痴を書いていたのもどうでもいいです。

宣孝様のまひろへの無償の愛に、涙なしでは見られません。

夫婦とはこうして色々なことをお互いに乗り越えながら経験を積んでいくものなのでしょうか。

その後999年の暮れ、(中宮定子の皇子出産とほぼ同時期に)まひろの産んだ子は姫であった。

名を藤原賢子、のちの大弐三位、またの名を藤三位(とうのさんみ)、越後弁(えちごのべん)、弁乳母(べんのめのと)とも呼ばれ、宮中女官として活躍することになる。

また、母の血を受け継ぎ宮中歌人としても名を馳せる。

まひろは乳飲み子のころから為時の漢籍を横で聴き、また読み親しんで育ったからか、賢子にも「蒙求」を子守唄がわりに聞かせていた。

王戎簡要おうじゅうかんよう    裴楷清通はいかいせいつう

孔明臥龍こうめいがりゅう    呂望非熊りょぼうひゆう

楊震関西ようしんかんせい    丁寬易東ていかんえきとう

謝安高潔しゃあんこうけつ    王導公忠おうどうこうちゅう

といった具合に。

がんばれ姫さま!

道長の妻、明子の三人の息子は3人ともちゃんと暗唱できてましたので、負けないでください!(別に勝負ではない)第一回の幼少時代のまひろ登場回から一貫してドラマの中で漢籍の定番として蒙求が繰り返し登場するのは、箇条書きの語句がドラマの中で短いフレーズで印象に残るからだろうか?

繰り返し聞いているうちに視聴者側もなんとなく「ああアレだな」とピンとくるようになった。

そして明子の三人の息子が漢籍に通じるのはわかるが、まひろの娘に対しては「姫様なのだから(仮名文学と和歌に親しめばよいのでは?)」と、乳母として雇われているあさがボソッと横でツッコミを入れる。ごもっともな意見でございます。でもまひろは越前で、宣孝が土産に持参してくれた、都で人気の肌油(乳液?白粉?)などはポイっと放り投げて漢籍の土産のほうに飛びつくくらいなので、乳母の意見はスルーされると思います(´・ω・`)

まひろ曰く「学問の面白さをわかる姫になってほしい」

のちにまひろが女房として出仕する中宮彰子の後宮には、ほかにも才媛の女房がずらりと名を連ね、まひろと大弐三位同様に親子で彰子に仕えることになる者も出てくるので、後の展開を考えると、ここで子守唄代わりに蒙求をまひろがそらんじているのはなんの不思議でもないしさすがの英才教育だと思う。

 

そして年が明けて西暦999年から1000年の正月を迎え、宇佐八幡宮の奉幣使から宣孝が帰ってきて姫に名前がつけられた。

宣孝いわく「賢子(かたこ)」と、賢い子になるようにと願ってつけたようだ。

これからドラマの展開は重要なターニングポイントを迎えるが、賢子は明るく開放的な為時邸ですくすくと、のびのびと育っていく。

 

道長

定子が敦康親王を懐妊したころ、道長安倍晴明の占いから生まれるのは皇子とみて、対抗して彰子の入内の用意を万全にする。安倍晴明の占いはともかく、性別はわからなくても皇子の可能性はあったわけだから、対策は講じておくに越したことはないという設定なのかもしれない。そして果たして生まれたのは敦康親王であったから道長の気苦労も無駄ではなかった。

宮中は厳しい世界とはいえ妻倫子の協力はとりつけていたので鬼に金棒である。

道長は倫子を妻としたことで多々のアドバンテージを得た。

例えば ↓↓↓

・倫子は左大臣源雅信を父に持ち、曾祖父は宇多天皇という高貴な血筋

・同時に左大臣家の惣領姫でもあった倫子は父から広大で壮麗な土御門殿をそのまま相続することで、のちに公卿を招いて様々な行事を自邸主催で開催できた

保有財産も妻と夫で別々に所有する時代であり、倫子のほうが道長よりも多くの財産をもっていて道長はその援助を一身に受けたため、財政的に道長は何の懸念もなく政治活動を展開できた。彰子の入内にも財政的に悩むことはなかった

道長の姉である東三条院詮子を土御門殿へ迎え庇護していたため、宮中つまり帝へのコネがあった

道長の実家は右大臣兼家の邸宅だが、この「右大臣家の三男坊」というある意味正嫡でもなくさりとて下位貴族でもない生まれが、ある程度の自由の効く人生を道長に与えてくれたのかもしれない。さようなら遥かなる少年の日々、そしてさようなら四条の宮で公任や斉信等ライバルの有力貴族たちと互いに研鑽し合った青年の日々。

今後、政治家としてトップに立つからには手を汚さずに居る事はできない、それは姉詮子の言った通り。

彰子を入内させることに決めた以降の道長はすべて政治的打算のもとに動いている。

自分の勢力を広げるためには手段を選ばず、

友人や姉の女院などのコネは全て最大限活用し、

極めつけに政敵はことごとく全力で妨害し完膚なきまでに叩きのめし蹴落としていく。

そこには温情とか慈悲とかいう人間らしい心の機微はもはや存在しない。

前の回で女院に言われた通り、一族の中でひとりだけ綺麗な立ち位置にいるのはやめたようだ。というわけで今までの良い人ぶった風な

「しょうがないから行動し、なんとなく周りに流されてきれいごとを言っている道長

とは別人格の道長になるので、もう視聴者ももとの明るく気さくで朗らかな道長には会えないだろう。

 

道長が持てる財力のすべてを注いで政治の前面に出てくるのはここからだ。

彰子の裳着の式の腰結役を東三条院詮子に依頼することで儀式に最高の格式をもたせる。

そしてこの儀式を自らの住む壮麗で広大な土御門殿にすべて(といっていい)公卿たちを集めることで権威を広く世の中に誇示する。

(腰結の役は、身内で社会的地位のある人に依頼することが多い。まひろの裳着で腰結役は宣孝だった)

道長本人は単に長女の裳着の式を執り行っただけだが、状況があまねく道長を政治的に支援する方向になびいている今、この裳着の式への招待を断る勇気のある貴族はいなかったのではないか。それはすなわち最高権力者への反逆ですらあるからだ。

はたして彰子の裳着にはいつも内裏に参内する高位の貴族がほぼ全員顔を出したようで、つまり今の朝廷には道長に反旗を翻すものはおらず、道長の独裁体制に入ったといっていいだろう。

この後の酒宴で公任と斉信と行成はいつものように酒を酌み交わすが、公任の言う

左大臣は自己の利益のためには動いてない、それが出世一辺倒の俺らとは違う所さ」

とかいうせりふが歯が浮くような白々しさで、とても本心から言ってるとは思えないがしかし発言した公任の表情に偽りはみられない。行成は道長ファンなのでいつも通り賛同の意を示しているだけ。そして斉信は「そんなん興味ないけど」とでもいうようにあくびをしている。斉信はあくまで我が道を行き、道長の傘下に降る気はないようだ。

 

彰子

道長後宮政策の要として画策された、一条天皇後宮への彰子の入内。

それでは彰子の人間性、そして彰子自身の意志はどうだったのかと考えてみる。

定子が入内したとき13才、帝はまだ10才だったこともあって当初は遊び相手のような感覚だったが、彰子入内時は一条天皇はもう20才であり、正妃の中宮定子との間に内親王皇子がひとりずつ産まれている。

ここで、長徳の変後の登場人物の官位と年齢の推移をメモしておこう。

左が長徳の変の前、

右は彰子の入内後の1000年の時点。

彰子は一族の命運を背負った存在だったと言っていい。

道長が関白の座を断っているのは、内覧と左大臣にとどまっていたほうが会議(陣の定め)にも出席できて政策決定の場に関われるから、とドラマでは語られていたがほんとうのところは分からない)

定子の父道隆は、兼家から家督、政治権力、経済基盤全てを受け継いだ嫡男であり、定子はその盤石の後見を受けて満を持して一条帝の後宮へ入った。誰もが納得する、後宮における后の要といっていい存在、それが定子だったと思う。

定子自身の性格が明朗活発、朗らかで聡明であり、そのサロンは宮中の文化人があまねく集う場として知られていた。

皇子を産むという后としての宿命を背負ってはいたが、定子のもつ本来の人間性そのものが尊重されたのびやかなサロンであったと思う(長徳の変さえなければ)。

 

彰子の入内には逆に、道長の政治的期待がすべてかけられていた。

入内して彰子が日の目を見なければ後がない、背水の陣を敷いたのだ。

どういうことか?

定子の懐妊(999年暮れに出産の見込みの)がもし皇子だったら、伊周の復権は必至。

そして現春宮の居貞親王には敦明親王という次代の春宮候補となる長男がいて、傍から見れば次の春宮はこの敦明親王と、定子の産むかもしれない皇子(のちの敦康親王)との一騎打ちの様相であり、そこに外戚として道長が入り込む隙間は1ミリたりともなかった。

はっきりいって道長は絶体絶命。

この事態を打開するためには、道長自身が外戚となれるように自分の姫つまり彰子を入内させる以外になかった。

一条天皇はその意図を分かったうえでの入内であったという点で、当初の帝と女御としての立場は、仲睦まじく寵愛を受けるという関係にはほど遠かったと見える。

ここまであからさまに権力をかさにきたやり方をまのあたりにして、辟易せずに居られるだろうか。

 

そこで、彰子の性格としてはどのような姫だったのかというと。

視線が定まらない。

発言がない。

表情もぼんやりとしていて喜怒哀楽もない。

弟の田鶴(のちの頼道)にも、姉上はなーんにもしてませんでしたって言われる始末。

要するに個人としての知見がない。

自発的な意見をもたない、周りに流されるまま。

でもよく考えてみよう、入内前の彰子はまだ満年齢でいうと11~12才。

小学5~6年生ごろ。

定子の入内より1才くらい早い。

この年齢なんて現代でいえば、人によっては引っ込み思案の静かな子、いつも部屋の中で遊ぶのが好きな、ちょっと運動の苦手な子とかいう性格に分類されて、それだけの話である。むしろ現代だと部屋の中でゲームとかネットとかITに通じてたりして、引っ込み思案とは限らない説まである。

まわりの大人たちは(定子に対抗しようとして)彰子が魅力ある女御様になれるように、華やかな後宮になるようにと知恵を絞るが、やり過ぎである。

そっとしといてあげれば、そのうち成長とともに性格もだんだん社交的に変わっていくかもしれないのに。

 

ソフト面での対策 担当:倫子

道長から説得されて彰子を入内させると決心した倫子は、持てるだけの人脈と財力を背景に名門左大臣家の姫君として恥ずかしくないだけの支度をさせようと躍起になる。

しかしどうみても空振りしているようにしか見えない。

本人にどれだけ響いているか、さっぱり実感がわかない。

たとえば後宮の注目を一身に集めるようなアイデアがないか、女院へ帝の好みをリサーチしにかかったりする。しかし手掛かりは全く得られなかった。女院様は自分の手で育てたことがないからか、母としての自負と気品にあふれた倫子をみて寂しそうに静かに笑うだけである。

せめて赤染衛門をして和歌と漢文の指導をさせ、知性においても彰子への教育は万全と思われたが、しかし肝心の明るく笑うという意味での華やかさに欠けるところが倫子には心配でならないらしい。でもこればかりは性格であって、外部の圧力でどうなるものでもない。

 

ハード面での対策 担当:道長

入内には彰子自身の性格以外にも、持参する調度類や衣装、連れていく女房など、後ろ盾となる公卿の財力次第となる要素が多い。

この頃の工芸品は唐や宋から輸入したものが優品とされた。しかし越前で宋人との取引を拒絶していたことからもわかるように、正式に国交も開かれてない関係で貿易額もわずかな取引であった中で輸入された品というのは天文学的な値段で、ごく限られた貴族しか手にすることができなかったはずだ。青磁白磁などの花瓶や香炉、八稜鏡、螺鈿や蒔絵の贅沢な装飾がほどこされた経箱や二階厨子、筝の琴や琵琶などの楽器、そういう品が彰子の入内に際して揃えられただろうと思われる。

要するに道長と倫子のもてる経済力をもってすれば解決できそうだが(逆にそれほどの経済力がなければ入内のバックアップは難しかったともいえそうだ)、屏風が象徴的な道具として扱われていたようだ。このへんのことは当時の記録にもはっきりと出てくる。貴族の日記に出てくるので創作ではないらしい。

ドラマでは、一条帝時代に活躍した四納言を、公卿たちに歌を詠むことを依頼して回る源俊賢、詠まれた歌を清書する担当として三蹟の一人である藤原行成に加え、下記の二人を登場させることで、これからの道長の政権を支える有能なブレーンとして描いている。

藤原斉信
笛竹の 夜深き声ぞ 聞こゆなる 峰の松風吹きや添ふらん

藤原公任
紫の 雲とぞ見ゆる藤の花 いかなる宿のしるしなるらむ

さらに(ダメもとで依頼したのであろう)花山院からも歌が届けられ、一同がどよめいていた。在位わずか二年で道長の父兼家に退位させられてから、政界には関われないため詩歌や管弦の風流な世界に生きがいを見出していた花山院は、道長に今更おもねるというよりは純粋に得意な歌の腕を競う歌合せみたいなノリで参加したのかもしれない。それはともかく彼の歌は屏風に権威と格式を見えない形で付与したのは間違いない。

花山院
ひな鶏を 養ひたてゝ 松が枝の 影に住ませむことをしぞ思ふ

いずれ勝るとも劣らない見事な歌が揃い、ほかにも藤原道綱(道長の兄)、藤原高遠(左兵衛督)など名だたる公卿が歌を詠んで提出した=道長の絶大な権力を表している。

 

ただ、藤原実資だけは辞退したようだ。彼の性格からしてもっともなことである。政略として誰かの傘下に下るとか彼には考えもつかないことのようだ。

左大臣さまは公と私事とを混同されておる」

ごもっともなことです。

このとき倫子は懐妊しているようで、いつも懐妊しているともいえそうだが、おなかにいたのはたぶん威子のことだろう。彼女の将来を考えても、道長が自分で明子に言っているが「入内なんてさせてもろくなことはない」その通りである。なのに道長、将来やってることは真逆なのはなぜなんだ。

 

入内したあとの彰子

こうした父道長の権威をバックに入内後わずか七日で女御宣下、順風満帆なすべりだしに見えた彰子だが、しかしお金と権力では人の心は動かせない。

賄賂でなびく上司もいるかもしれないが、そんなので操れる人心はすぐ裏切るのは歴史が全て証明している。

少なくともそんな嫌がらせにも近い道長の圧力には、一条天皇は全く屈していない。

つまり彰子には見向きもせず、中宮定子への寵愛は変わることがなかった。

そうでしょうね、ここで一条天皇の態度がガラッと変われば、ここでこのドラマ見るのをやめます。

 

入内に際して何十人も女房や従者を引き連れ、後宮藤壺へ入内した彰子だが、当初のようすは調度品も少なく、がらんとした寒々しいなかにひとり赤染衛門が控えている。

ただ道長が苦心して仕上げた公卿の歌を貼った屏風が堂々と飾られているが、帝が彰子のもとを訪れてもその屏風に忖度する様子もない。まるで最初から見えなかったかのように。

一条天皇が御自ら笛を演奏してくださるという光栄に際しても彰子は謝意を述べるどころかツッコミを入れる始末で、赤染衛門がさっと顔色を変えていて、視聴者としても胃が痛い。テレビの録画機能で早送りがこんなに有難いと思ったことはない。

(帝がそもそも御簾を隔てずに后や女官の並ぶ中でしかも下座につき、座所の畳もないところで柱を背に笛を吹くという、宮中にあるまじき設定なのはどうかと思うが)

彰子いわく。

「笛は聞くもので、見るものではございませぬ」

と主張しているところを見ると、意外と自分の主張があるようにも見えるが、それは気のせいだったのかもしれない。どっちにしても師匠の赤染衛門は顔色を真っ青にしたり真っ赤にしたり、寿命が縮んでそうではあった。

何事にも彰子本人の意見はなく、ぼんやりとしているだけ。まるで操り人形のようで、一条天皇から見ると昔の自分に見えていて同情を誘うようだ。かわいそうになってきたと、ちょっと彰子に興味が向いてきたのはいいが、それは愛情ではなく単なる慈悲と憐みの視線にすぎない。まるで捨てられた子猫を拾うような。

「形の上で彰子を后にしてやってもよいのかも。左大臣と争うのもつらい。」

こんな理由で仕方なく中宮にしてもらってはたしていい結果になるのだろうか、そんなわけがない、と歴史を知らなければそう思うのだろうけど、しかし結末を知っていても、ここから彰子と道長陣営がどう挽回するのか見ものである。

枕草子は、清少納言が不遇な中宮定子をお慰めし、幸せだった宮中の時代の面影を残すために書かれたものだとすれば。

源氏物語の成立の要因もまた、ここに来ておぼろげに見えてきた気がしてきた。

 

安倍晴明道長の策略としての中宮立后

さて道長は目に見える効果がすぐに現れないことに焦っている。

でも目に見える効果ってなんだ、まだ入内したばかりの12歳の彰子に20才の一条天皇がどのような態度をとると思っていたのだろうか、道長は。彰子を入内させる話が出て怒り心頭だった倫子に母の穆子がなだめて説くには「中宮定子様へのご寵愛は篤くとも、わからないわよ、そのうち飽きられるかもしれないじゃない?」とのことであったが、失礼な。一条天皇と定子の心の絆をみんな何だと思っているのか。

 

安倍晴明の占いにより道長に語るところは、こうである。

1000年1月、冷泉天皇太皇太后である昌子内親王様がお隠れになった。(敬称がおかしいけどよくわからないのでまあいっか)

そこで円融天皇の皇后遵子様を皇太后へ繰り上げ、皇后位が空くところへ定子を昇格すれば中宮の席が空くため、彰子様を中宮に就ければよい。

つまり当時の皇后と中宮という后の概念を覆す破天荒な案であった。

有職故実に則り、何事も先例を重んずる平安貴族には考えられないことといっていいが、実際に当時の状況として中宮の座にあった定子は出家剃髪しており、宮中祭祀を行える立場にはない。かといって元子と義子の二人の女御様が中宮になる見込みはさらにない。この不安定な状況、そして中宮になれる后といえば道長の娘、彰子しかいなかったことは事実である。

 

とにかく中宮にしてしまえばよいのであるという安倍晴明の強引な助言により、占いで中宮立后の日取りは1000/2/25と定められた。

入内直前の裳着の式に続き、彰子立后の儀式は土御門殿で大々的に公卿たちを招いて催された。この彰子立后への反対派の公卿がほぼおらず、朝廷に伺候する貴族がこぞって道長の屋敷に招かれていたことが、道長の絶大な権力を無言のうちに示している。

彰子の前に置かれた儀式用の絹の沓、魔除けを表す二頭の獅子も、宮中で使われているのと同様のもの。

このような絢爛豪華な儀式であったが、当の彰子本人の表情はいまひとつはっきりしない。帝の指摘の通り、中宮になってからの展望とかが何もないからこのような空虚な表情になるのかもしれない。帝はこのような彰子を形の上だけでも中宮にしてもいいかもとおっしゃったが、それは果たして彰子のためになっているのだろうか。帝の良心が痛まないのだろうか。

 

さてこの儀式のために彰子が里帰りした翌日、帝は定子を内裏へ召喚している。

定子は内侍ら宮中女官たちの陰口と非難の的になっていた。そもそも剃髪した身で、内裏へ上がれないから内裏の隣の職御曹司へという発想自体が世の中の顰蹙を招いているところなのに、(職御曹司から中宮御所は転々と変わっているとはいえ)皇子や内親王を連れて内裏へ上がるとはどのような神経をしているのだろう。それは、帝がこの間お生まれになった敦康親王様をご覧になりたかったからなのではという女官たちの想像も当たらずとも遠からずかもしれない。

しかし、定子を内裏へ招待したのは帝なりのけじめのつけかただったのかもと思う。

新しく入内した女御の彰子を中宮にすること、そのことだけでも帝にとって定子への裏切りなのに、定子に直接伝えないまま看過することは帝には耐えられなかったのだろう。彰子を中宮に立てることは政治のうえで避けられない事態だったとしても、帝の中宮への寵愛は変わらないということを、自ら伝えたかったのかもしれない。

それを聞いて帝とのお互いの気持ちを改めて確かめ合うと、定子も覚悟を決めて

「彰子様の元へお渡りの時はわたくしのことはお考えになりませぬように」

と涙をこらえて悲痛な表情で……

と、ここのシーンは何十回見返しても涙なしには見られない。

どうしてこういう結果になってしまったのか、誰のせいなのか。

ほかでもない、道長だ。道長が勢力を伸長してこなければ定子は幸せな妃でいられたし産まれてきた皇子は伊周が後見人としてバックアップし、洋々たる未来が待っていたことだろう。

帝に后は何人もいるのが通常といっても、寵愛している定子の存在を否定することはだれにもできないはずだ。

道長の子女はどうすればいいって?それなりに自力で出世すればよかったのだし姫は身分相応の貴族と結婚して幸せに暮らしてもよかっただろう。倫子は現にはじめから「彰子には良い殿方を迎えて、この土御門殿で幸せに穏やかな暮らしをさせたい」と言っていたのだから。

何の歯車が狂ってこうなったのか。

後味が悪すぎる。

 

道長と糖尿病

道長は明子(高松殿)の屋敷で子供らと面会していた。さすがの教育の賜物、彼らはすでに蒙求を暗唱できている。道長の素朴でのびのびしていた子供時代とは雲泥の差の英才教育である。

そんな話をよそに、道長はここで突然倒れて危篤の床に就く。

道長の病名は、兄の道隆と同様にどうやら飲水病=糖尿病であったらしい(たぶん)。

平民の栄養失調になりそうな食事内容に比して、彼らトップ貴族の食事は明らかにカロリーオーバーの豪華な内容。

それから運動不足。

加えて連日の宴での過度な飲酒。

どれをとっても病気になりそうな要因だらけで、わずか30才過ぎで重症になるのもうなずける。道隆は失明のきざしや手足のしびれなど、致命的な合併症をともなっていたが、さて道長の症状はどこまで進んでいたのか。

どのみち、今の生活が続く限り改善には向かわないだろうし、遠からず道隆と同じ道を歩むだろうと考えると暗澹たる気持ちになる。

(……いや、ごり押しコネ頼りばかりの政治が終焉を迎えるのならそれでいいのだが)

そして当時の貴族の診察はあいかわらず多分ちょっと脈を取ってみる程度で「心の臓が悪い」とかいう的外れ、治療もあってないようなもの。糖尿病という病名が確実かどうかもわからないが、何にも根拠がない中心臓の病気というのも断定できないはずなのに。

ここで生死の境を彷徨う中、まひろの幻の声に呼び戻されて意識が戻る辺りも生粋の浮気者の性分というか正体をあらわしていてまったく同意できない。身分の高い正妻が二人もいてそれぞれに四人ずつ子供がいるというのに、今の道長の地位も彼ら正妻と子供たちに支えられているというのに、他に本命の謎の女がいるとかいうこの設定、まったくもって許しがたい。明子は持っている檜扇で浮気者道長の頭をしばきたおしてもう一回意識不明にしてしまえばいいのにと思う。

 

道長は病気が全快したのち、土御門殿へ帰還するが倫子は家族ほか邸の一同を揃えて出迎える。ほんとうに、道長のこれまでの順調な出世は彼ら無くしてはありえないのだから、もっと大切にするべきだ。

ここでよく見ると、倫子と子供らの家族一同の後ろに百舌彦が控えている。この席にいるということは、百舌彦は右大臣家の三男坊だった若君こと道長付きの従者という身分から、土御門殿の家司に出世したのだろうか(前にも書いたかもしれないけど)。家司は家令ともいい、何十人といたであろう女房や乳母、下人たちを束ね、さらに家計の切り盛りや訪問客の接待から主人の文の使い、邸で行う宴やイベントの企画運営まで全てを指図する使用人のトップである。西洋貴族でいう所の執事みたいなものである。身分も単なる若様の付き人とは段違いにアップしているはずで、よく見るとそれなりに衣装の生地がいいものになっている。

第一回から若様こと三郎に付き従って仕えてきたのを見てきた身としては、彼の苦労がようやく報われた気がして感慨深い。

 

定子の死と清少納言

職御曹司を出て転々としていたころだろうか、どこかの定子の御所が写される。時は1000年の5月から夏にかけて、定子は敦康親王につづいて3人目の子をみごもっていた(のちの媄子内親王)。

この年の2月に彰子が中宮立后して事実上の一条天皇の正妃となった今、宮中の人々の関心は皆彰子のもとへ、公卿の心は道長へなびいていき、定子の周辺は閑散としたものである。伺候する公卿もいなくなり敦康親王と脩子内親王が乳母と遊んでいるだけの御所の廂には物寂しさが漂う。内親王たちの面倒を見ているのは定子の下の妹(道隆の四女)の御匣殿だろうか。華やかで明るく訪れる貴族がひきもきらなかった梅壺の時代は遠い昔のようだ。

このドラマのシーンは枕草子にも出てくる。ただしこのような物悲しい時勢は感じさせない、あくまで清少納言と定子の軽妙で繊細な感性にあふれた場面として描写されている。

お産が徐々に近づきつつある定子の体調を気遣って清少納言はかいがいしく世話をする場面。そんなころ、端午の節句の際に定子へ献上された品の中に、麦で作られた青ざしというお菓子があった。懐妊で体調が思わしくない定子へ、口に合えばと勧める清少納言。そこでお菓子が置かれていた青い紙をさっと切って書きつけられた定子の和歌。

このやりとりがいかにも当意即妙で、聡明で怜悧であった定子と清少納言との即興という感じがして時代背景など忘れて惚れ惚れするばかり。

みな人の花や蝶やといそぐ日も わか心をば君ぞ知りける

思い出してみよう、枕草子はあくまで中宮定子の輝いていた時代を書き残すためのもの。政治の趨勢が道長になびいていきつつある背景など、よく考えると清少納言がそんな意味を込めるわけがない。

ここの場面で定子が体調がよくない中、細かいことに気がついてくれる清少納言に感謝の意を込めて詠まれた歌、ただそういう解釈をしてほしくてこの場面を枕草子に入れたのかなあと作者の意図を考えてみる。

 

その後、1000年の暮れのこと。

定子は媄子内親王を出産するとともに亡くなった。享年24才。

現代の用語でいえば出産後の胎盤の娩出(いわゆる後産)がうまくいかなかったためらしく、今でいえば救急搬送されて手術とかになるところだろうが、そういう知識と技術がなかったころはこうしたお産に伴う死はかなり確率が高かった。安産で母子ともに健康に何人も生んだ道長のふたりの妻のほうが珍しいといっていいだろう。

魔除けに弦打ちといって物の怪などを退散させるまじないとして、矢をつがえずに弓の弦を引き鳴らしたり、また僧などに読経や祈祷をさせたりしたのも、出産時の死亡率の高さや乳幼児死亡率の高さを物語る。

神仏に祈るしかなかった時代。

しかし伊周は何もかも道長のせいだと断言する。

それも一理あるかもしれない。直接の死因は出産時のトラブルだが、しかし道長に端を発する一連のできごとで事実定子の居場所は内裏から奪われ、中宮の座さえ取り上げられて形式的な皇后という名に祀り上げられたのだから。心身を病んで弱ったせいで出産時における体力の消耗に耐え切れなかったということもできそうだ。

隆家は魔除の弦打ちの途中で寝ている。そして伊周の叫びにも無言で去る 賛同も否定もせずに。彼はどちらかといえば中立、もしくは道長寄りの発言を以前から繰り返していたのでこのことを機に道長へ接近する算段なのかもしれない。

 

定子が亡くなるにあたってこの三首の歌が遺されていた。

夜もすがら 契りしことを忘れずは 恋ひむ涙の 色ぞゆかしき

知る人も なき別れ路に 今はとて 心ぼそくも 急ぎたつかな

煙とも 雲ともならぬ 身なれども 草葉の露を それとながめよ

 

※しかし、武士が切腹の際に辞世の句として詠むことは多くあるが、定子の場合は不慮の事故的に亡くなったのだと思うが、これらの三首の歌が定子が詠んだのだとしたら、お産の前にあらかじめ辞世の句として詠んでいたという意味だろうか?

そんな詮索はさておき、今はただ突然の定子の崩御に追悼の意を表したい。

 

自分は学生時代の記憶で、ただ枕草子はをかしの文学とだけ認識していたに過ぎない。をかしの表現にどれだけの清少納言の願いと祈りが込められていたのか、そして定子の崩御と共に清少納言は宮中を去りその行方は晩年に至るまで杳として知れないのはなぜなのか。

こうした背景を自分は全く分かってなかったので、それを意識しながら読むと枕草子の簡潔で軽妙な表現も全く別の意味を帯びてくる。

 

後日譚

年明けて1001年の正月のこと、清少納言がまひろのもとを訪ねていた。

枕草子の全編が完成したためまずまひろに持ってきたとのこと。

伊周が「このような面白い文章を書く女房がいることを宮中へ広めて、定子のサロンの評判を上げる材料にしよう」と枕草子を宣伝すると言い出したときには、驚き眉をひそめて難色を示していた清少納言だったが、中関白家没落ののち定子が亡くなるに及んで清少納言の意識ははっきりと決意に変わったらしい。

このままでは勝者が歴史を作るという慣例のごとく、道長が語り叙述することによって中関白家、そして定子の存在は悪いように書かれるどころか後世には記録もろくに残らない可能性もでてきた。

その闇に差す一筋の光陰の矢のように、枕草子をして定子の後宮を燦然と輝くものたらしめるのだ。

中宮の影の部分はあっても書かない、あくまで華やかで輝かしかった定子の後宮の姿だけを後世へ遺すのだ、と清少納言はまひろに断固たる決意を語っていた。

 

しかし、人間は影も裏の面もあってこそ人間としての存在に、その心理に深みと色彩とあたえるのだとまひろは主張していたのだけど。この持論はそのまま源氏物語の全編をつらぬくあはれの観念に代表されるおくゆかしい情趣としてのちに表現されることだろう。

そして定子を追い詰めた道長つまり左大臣さまは恐ろしい方だと、清少納言はまひろに釘をさす。あのような方を決して信用してはいけない、と。道長の政治的策略に定子は追い込まれ精神的に殺されたようなものだと語る。

朝廷の公卿や女官たちすべてが道長へなびきおもねる中、清少納言だけはその鋭い観察眼で道長の本性を見抜いていたといっていい。

 

そして枕草子は三巻に仕立てられ、伊周の手によって帝へ献上された。

帝はひとり、清少納言が生涯を賭して綴った定子の形見を手に、ひそかに哀悼の涙を流す。輝かしく、世の流れが変わっても明るく生き生きとしたさまが描かれている定子の思い出。バックグラウンドに流れる音楽は、枕草子成立時のテーマ音楽。

お産による死は当時の医療技術では避けられないものだったとはいえ、帝の位をもってしても止められず、そして表立って供養することも許されない帝のせめてもの償いの涙…

政治に翻弄され続けた帝と一人の妃の物語には、ここで一旦終止符が打たれた。

しかしこの物語は千年経った今でも、誰もが手に取り読み親しむことができる。

誰もが輝いていたころの定子とその後宮の様をつぶさに知ることができる。

ここに描写されているのは歴史ではなく、ただひとりの后にささげられた物語。

文学の分類上は随筆とされているようだが、そしてそれも事実ではあるが、内容の性質上は大筋で言えば断片的ではあるが物語だと思う。定子の生涯を美しいままに描写した物語。

 

宣孝の死

そして平安時代は誰しもが生と死が身近な存在であった。

まひろの夫、宣孝が亡くなったのだ。年齢は不詳だが、まひろと10~20才の年齢の差があったことから、享年は50才近かったのではないかと思われる。50才まで生きれば当時としては十分平均年齢に達していてもはや大往生であったともいえる。

宣孝は北の方邸にて急病で亡くなったとのこと、死因はついに明かされなかった。北の方からの使者は「豪放で快活だった様子だけを想いに留めるように」とだけ他人事のような伝言を置いて去る。

あくまでまひろは妾であったことを今更のように思い知らされた。宣孝にとってまひろは単に6人目の妻、サイドのサブのサブにいる存在にすぎなかったのだ。

 

為時は越前における交易を求めてきた宋人を追い払うこともなく四年がすぎたので、公務を執行していないとみなされ国司の任は解かれ、次の除目でも何の官位も得られず無位無官で家に帰ってくることになった。

為時の無位無官、このドラマでは三度繰り返されたまひろ一家の窮地である。

ドラマ冒頭の雨漏り事件に象徴されるまひろが幼少時の10年にわたる無位無官時代、そして兼家の差配で花山天皇への漢文指南役を辞退した後の無位無官時代には娘のまひろが働こうとして貴族の大きな屋敷を訪ねて回るも「せめてお父様の地位が五位の受領くらいにはないと」と難色を示されてまひろは軒並み門前払いをくらっていた。

あのときの閉塞感、明日の食料も心配という経済的な無力感は、視聴者としてはもう味わいたくないのだが、為時は何度同じ轍を踏めば気が済むのだろう。貧困っていう言葉、ご存じだろうか。書物を読むだけでは食べてはいけないのだが。

 

そこで今回も屋敷中にただよう暗雲の気配を察知したのか、乳母のあさは一番に夜逃げ同然に(昼間にだけど)逃亡している。これが一番まともな反応なのかもしれない。そして、きぬはふるさとの越前へ乙丸を誘う。 戻れば海女として食べていけるかららしい。手に職があるというのはいいことで、乙丸も連れて行かれそうだがどうなるのか。

 

ここで、道長と共に左大臣家の従者となりその後家司に昇進した(らしい)百舌彦が突如登場し、無位無官の為時に、道長の嫡男である田鶴(のちの頼道)への指南役を依頼する。左大臣家で開催される漢詩や和歌の会も主宰していただきたいという、これ以上ないくらいありがたい話であった。

百舌彦は初回登場時を思うと衣装も別人のように立派になり、もう乙丸と「ワン!」とか犬の真似をして密使のようにコソコソ立ち回る必要もなく、左大臣家からの使者として堂々と正面から客間に通されていて、ほんとうに成長したなあというか年月の経過を感じて感無量だ。

この話を受ければまひろ一家は生涯安泰である。このとき彰子は中宮へ冊立されていたので、そのあとにも道長には入内させられる姫も控えていたし、どちらにしても左大臣家の覇権は揺るがなかったからだ。

しかしなんと為時はこの申し出をも断った。

報酬は十分にはずむ、という左大臣家の財力に目を向けないのは為時のいつものパターンだとしても、嫡男に指南するなど畏れ多いとかいう謎の謙遜を言っている場合ではないのだが。

とことん時勢が読めない為時。

一家の命運を背負っているという気概も全くない。

きぬとか使用人でさえ(上記に述べた通り)飢えるのはいやだと的確に状況を把握しているというのに。

竹林の七清とかの聖者の清貧を理想として追っている場合だろうか。付き合わされる家族と使用人のことをわずかでも考えたことはあるのだろうか、いや無いに違いない。

 

はからずもまひろは賢子を1人で育てることになった。しかし蒙求を子守唄代わりに、何かの巻物の漢文を読んで聞かせたり、教育には余念がない。

ここで、もうひとつの稼ぎ口が現実味をおびてくる。

つまりまひろがどこかの屋敷へ女房として出仕するという方法が。

しかし、前回の為時が無位無官の時に、どこの屋敷でも「お父様が受領の五位以上でないと女房としての採用は難しく……下女としてなら雇いますが……」と言われていたのは記憶に新しい。下女はきぬや乙丸のように炊事、掃除や市への買い出しなどの雑事を担当する使用人のことで、女房とは身分が厳格に区別されていた下人は原則、屋敷の局に上がることも許されていなかった。

 

ここからまひろが左大臣家または中宮彰子の女房として応募し、採用されて就職するという可能性がでてきたが今の所何の接点もないので、中宮彰子の周辺で語られる物語をもうすこし追ってみることにしよう。

 

気苦労が絶えない倫子

彰子が連れてきた女房は入内の時に40人を数えたはずだが、有能な女房が少ないのか、藤壺の簀子縁に出てひとり貝覆いをして遊ぶ彰子。倫子は彰子が入内して数年の間はたびたび藤壺を訪れていたようだ。今考えればやっと中学校に上がったばかりの長女を宮中という場所に預けただけで、母の倫子としてはまだまだ養育途中の姫でありそばについていて差し上げなければという危機感が強かったのかもしれない。

しかし道長は倫子に、そんなに藤壺へ通わないように諌める。この辺が「入内させて豪華な装飾品や調度を贈り、中宮の座につければ政治的には勝ち」とかいう政治家としての意識しかない道長の浅はかで短絡的な発想がはっきりでている。

入内させて中宮にすれば勝ち?

そんなわけがない。

当事者の帝の苦悩、12歳で入内させられて右も左も分からない彰子の当惑ぶり。

これらを考えれば囲碁の石を動かすようにパズルみたいに人間の心が思い通りに動くわけはない事はわかりそうなもの、政治家にはそのような人間らしい心がないのだろう。

倫子はそんな彰子のために、入内後も藤壺を華やかで格調高いきらびやかな空間にしようと、藤壺へ献上する調度品や道具類の選定に余念がない。

道具類なんてお金を払えば誰が選ぼうとなんでもいいだろうという道長の発想もまた短絡的で、倫子のもとに集められた献上品となる候補の品々は、いわば百貨店の外商部門。ただ高価な代金を払えばいいのではなく、真にセンスの良い優品を選ぶにはバイヤーの目利きが欠かせない。

ここで購入主は左大臣家の倫子だが、倫子は同時に宇多天皇の血を引く高貴な家柄、洗練された調度品のみに囲まれて育てられた生粋の姫君でもあるので、この場では倫子が最も優秀な目利きバイヤーでもある。女官が差し出す道具類をさらに倫子の鋭い観察眼でこれはよい品、それは少し劣るから外すように、と選別する倫子。指示を受ける左大臣家の女房達も統率されていて一糸乱れぬチームワークを見せる。

※倫子が持っていた銀の八稜鏡も大ぶりの見事なもので、唐からの舶来の品かもしれない。こうした由緒ある名品の鏡にはまた由緒ある箱がついており、この鏡の箱は黒い漆塗りのようだ。

例:正倉院の金銀山水八卦八角鏡は唐から伝来したと考えられ、付属する箱にはみごとな紋様の錦が貼り付けられている。この鏡が、ドラマに出てきた形とよく似る。

イメージ画像引用:正倉院 - 正倉院

 

これらの品々ははたして一条天皇の心をとらえるのだろうか。

しかし定子を失った一条天皇の心は簡単に癒されるわけもなく、彰子やほかの女御へそう簡単に気持ちが遷るわけがない。

そこは時間が解決するしかなかったと考える。

 

乾坤一擲の勝負に打って出た道長

さて彰子の入内と中宮冊立も即席の効果があったわけではない。

定子を亡くしてもなお一条天皇の思いは変わらず、

そして次の春宮位は現春宮の居貞親王の皇子である敦明親王か、定子の産んだ一条天皇の第一皇子敦康親王か、どちらかになるであろうという事態にも変わりはない。

道長がこの閉塞感を打開すべく彰子を入内させるも、当面のところ何の変りもないように見えた。要するに一条天皇に彰子のもとへお渡りいただく何か決め手というか鍵が欲しかったのだろうか、道長がひねり出した奇策は

「定子の産んだ皇子である敦康親王を彰子が引き取り養育する」

というものである。

敦康親王はわずか一歳で母定子に死別したあとは、定子の末妹である御匣殿によって養育されていた。その皇子を彰子がひきとることで、一条天皇は会いたければ藤壺の彰子のところへ来ればいつでも会えるというわけである。

清少納言のいう通り左大臣道長様は恐ろしい方です。

定子が亡くなるとみるや、早速その皇子を人質に取るという専横ぶり。

手段を選ばない下品さというか、

一条天皇も人間であるという人の情けにつけこんだ野蛮な所業というか。

目の前にぶら下げた人参をつかって獲物をおびき寄せる腕の悪い猟師というか。

 

道長一条天皇に奏上することには

「これで帝も敦康様にいつでも会えるようになります」

と眉ひとつ動かさず堂々とのたまっていて、この場にもし清少納言がいたら、檜扇でしばかれるとかいう蛮行には走らないかもしれないけど、無言の視線で暗殺されるかもと思った。

しかし、内裏にはもう定子も清少納言もいない。このことが敦康親王、そして定子の産んだふたりの内親王のこれからの運命を早々に暗示していている。

 

 

 

第24回「忘れえぬ人(から後半部分抜粋)」 第25回「決意」 第26回「いけにえの姫」 大河ドラマのlightな感想 光る君へ

 

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996年5月の長徳の変で、伊周と隆家はそれぞれ大宰府と出雲に左遷されていった。

その後道長左大臣となり政権の頂に立ち、

またまひろは父為時の国司就任と共に越前へ旅立つ。

そして中宮の定子はその年の暮れに一条天皇の第一皇女、脩子内親王を産むなど、

物語はひとつの大きな転換点を迎えた。

 

どのように転換点かというと、越前から(父の任期満了を待たずに)京へ帰ってきたまひろは間もなく宣孝のプロポーズを受けて結婚する。

そして中宮の産んだ脩子内親王がたどる道のりは、後に生まれる弟の敦康親王とともにこのドラマの今後のみどころのひとつとなるだろう。

 

 

さて一条天皇の母君である東三条院詮子が病の床に伏していた。

詮子はこのとき34才。

大病を患っていたわけではなく、当時としては寿命まではいかずとも老年の域にさしかかっていただけだ。当時の寿命は女性なら長く見ても40才。男性ならもう少し長い程度。

平安時代の女性は出産前後の死亡率が高かったことや、医療技術や知識の未発達だったことも平均寿命を短くしていた。それに加えて特に貴族は食事も新鮮なものは少なく、また女性は長い髪や重い衣装に妨げられて極度な運動不足だったから、こういう生活習慣が体にいいわけもなく、物語の中でもまた実際の歴史上でも短命の人物が多かったのは偶然ではないだろう。

なにしろ出産に際し穢れを防ぐために僧侶が読経し、物の怪を恐れて病気平癒を祈願し、また安部晴明に代表される陰陽道によって重要な政治問題に対する政策に至るまで占いに頼っていた時代である。

そもそも健康とは何かという概念、健康を保つためには何をすればいいかという視点とか全てが現代と違うから、ここは大まじめに僧侶に祈祷を依頼し病気平癒を願う人々を笑うことはできない。

 

東三条院詮子の病に対して、一条天皇は回復を祈願して恩赦を発表している。

恩赦とは罪人として獄に囚われたり都を追放されたりした人を赦免することで、本来の刑期を終えずに一般社会に復帰させることを意味する。

この赦免の恩恵にあずかったのが伊周と隆家兄弟で、それぞれ大宰府と出雲から戻ってくることになった。(※隆家は体調不良を口実に丹波(兵庫県北部)あたりで留まっていた説もある)

隆家は伊周のように恨みを根に持つタイプではないらしく、都に戻ってきて、彼らを断罪した本人である道長のもとへ伺候するもあっけらんかんとしていて悪びれるふうもない。

「だって矢が花山院の牛車に当たったのは偶然だし、矢を射たのも出来心でしたし、大ごとになって思っても見ない事で驚きました」

という具合である。

この証言がでてきてそもそも長徳の変における処分は適切であったのかという疑惑が浮上した。そしてこの期に及んで道長自分は主としては関与していないとか、往生際の悪い言い訳を述べている。この言い訳を第二夫人の明子との寝所でくどくどと並べ立てているさまはまるで明子に慰めてほしいとでも言わんばかりだ。

斉信の証言にしてやられたとか、わしも辛い立場なのだとかなんとか。

左大臣様、寝言は寝てから言ってください。

何においても道長には悪気はなく何事も偶然で、裏のないクリーンな政治家だと言いたいのだろうか?このドラマでは。

そんなわけもなく。

少なくとも長徳の変の結果、中宮定子は尼削ぎの姿となり出家してしまったのだし、伊周の左遷も本当にその必要性があったのか?疑わしい。はっきりした法律もなくきちんと裁判で裁かれたわけでもない罪など、服役するに足らないのでは。

道長は何事もあくまで偶然だと主張したいようだが、散り散りになった中関白家の面々はもう元の栄華を取り戻せない。削いでしまった中宮定子の髪は文字通り女の命だったのであり、今更出家した事実を覆すことはできないのだ。

他人の人生をこうも簡単に狂わせてしまったことについて道長はどう責任をとるつもりなのだろう。勘違いだったとかおっしゃられているがまさかそれでごまかした気になっているのだろうか。

いずれにしても、道長は政治の行く末の鍵を握ることになるのだし、政治家としての正体は遠くない将来に必然的に暴かれることになるだろう。

 

恩赦による伊周らの復権と、中宮定子の内裏(付近)への召喚への流れ。

これらはドラマの筋書きでは一見道長が贖罪の意識を感じるのとセットの流れで描かれているが、道長はほんとうに贖罪が必要と考えているのだろうか?? いや、一見そう見えても、表面だけであり真意は全く別の所にあると考えられる。

 

政治と恋愛

中宮の立場と意味

一条天皇中宮定子を内裏へ呼び戻そうとした動機については至極人間的かつ当然なこととして万人の心に響くものがあるだろう。愛する妻の定子と、長女の脩子内親王に会ってまた一緒に暮らしたい、ただそれだけだ。この状況だけ見れば何の障害があるのだろう、一刻も早く会わせて差し上げなければと思うだけだ。

 

※個人的には帝が10才(元服する前)のとき、13歳で入内した定子は(父道隆が牽制していたとはいえ)ほかの姫が入内することもなく帝とふたり仲睦まじく成長し、夫婦のきずなを築いてきたのであって、伊周の不祥事があったとはいえども内裏へ呼び戻されたのであれば、ふたたび帝と中宮定子には仲睦まじく、内親王と共におだやかな日々を過ごしてほしいと思うのだけど。

 

しかしこう思っているのは(見てる自分と)一条天皇だけで、宮中の他のメンバーは全員反対しているようだ。なぜなら帝の後宮に娘を入内させることで政権の運営を後見してくれる有力な貴族が居ないと、帝自身の政治的立場が危うくなるからだ。

貴族たちが口をそろえて言う

後宮を安定したものにしていただくためにも、どなたかしっかりした後見のある女御様が入内されるのがよろしいかと」

というのは、つまり父の道隆も母の貴子も亡くした定子では帝の政権が心もとないという意味だ。

後宮は単に妃が住まう殿舎が立ち並ぶところではなく、後宮そのものが政治の場であった。当時の貴族のたしなみとして詩歌管弦に代表される文学的・音楽的素養が求められ、このような雅やかな文化は政治の場で必須のものとされたことから、妃を後見する有力貴族の存在は帝、また春宮にとって死活問題ともいえた。

無尽蔵ともいえる財力をもって知的で華やかな後宮のしつらえを用意し、才能ある女房を揃えることのできる有力貴族、それが帝の地位を安泰に導くのである。

それがわかっているから、現在一条天皇後宮に帝が寵愛する妃が定子しかいないのは、朝廷に仕える貴族としても心もとないということだ。

 

では有力貴族の姫で入内するにふさわしいのは誰のことを指すのか。

言うまでもなく当時の最高権力者は左大臣道長であり、入内するにふさわしい姫とはその長女の彰子のことだ。

このことは安倍晴明が暗示的に占いの結果として道長にはっきりほのめかしている。

ただし彰子はこのときまだ11才であり、裳着も迎えていない少女であって個人的にはそんな姫が入内させるという話題に引き合いに出されるのは児童虐待でしかないと思うが、古今東西、政略結婚の話には子供の頃から、果ては産まれる前から計画が練られたりするのが常なので、もうすぐ裳着の式を迎える年齢なのであればなんら不思議なことではない。

 

さてこの動きに対し定子とその周囲が手をこまねいて見ていたわけではなかった。

職御曹司

一条天皇の一途な中宮への思いが、落飾し出家していた定子を内裏へと呼び戻すことになった。正確には内裏のもとの梅壺ではなく、内裏に隣接した官庁の殿舎へ。

いわゆる職御曹司しきのみぞうしであるがその場所はどこだったかというと。

 

下記に平安京の見取り図を貼る。真ん中の一番北に位置したのが大内裏

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この大内裏(大極殿を中心とした政治の空間)の中にある内裏(=天皇の私的生活の場と後宮)のすぐ東北側に隣接していたのが職御曹司しきのみぞうしである。

いわゆる中宮大夫とか春宮大夫の職以下、中宮職(妃の世話や事務処理を担当する官庁)をつとめる役人たちが詰める殿舎であったが、そこであれば内裏の門を東に出てすぐのため、帝が通うのに距離的には支障がないだろうというのが蔵人頭である行成の事務的判断であった。

(画像引用:大内裏 - Wikipedia )

 

一条天皇の一途な定子への思いが、この前例にない待遇を作り出すがしかし周囲からは一斉に批判されている。

(政治的に:前述の通り、一条天皇自身の立場を不安定にし危うさを招くもとになる)

後宮での噂:尚侍等の女官の間でも、定子は自分の意志で一度落飾しているのに、もう一度妃として(内裏の中へではなくても)帝の寵愛を受けるなどありえない)

 

このような声をかわすために?再び表立って動いていたのは恩赦により大宰府から呼び戻された伊周だ。

(※隆家の姿が職御曹司には見えないが、道長にそういえば接近していたし恐らくもう定子のもとには近寄らないつもりなのだろう。)

そもそも花山院誤射事件に始まり、定子が落飾する直接の原因をつくってなおかつ検非違使の追っ手から最後まで逃げていた伊周が、どのような顔で定子の前に姿を見せているというのか自分には全く理解できないが、この時期政界に復帰していたことは事実のようだから仕方がない。

宮中の女官が定子に対して言う「どの面さげて(帝の前に)戻ってきたの~??」とは、自分は伊周に対して「どの面下げて(定子の前に)現れることができるというのか?」と言ってやりたくなる。ほんと伊周の姿を(しかももっともらしく束帯など着込んで)定子の前に伺候しているのを見るだけでも気分が悪くなって、チャンネルを思わず変えそうになるが思いとどまって物語の行く末を見届けなければならない。なんといってもこのあらすじは大体史実のようだから。

 

しかも絶望の淵にいた定子を救う清少納言の心づくしの著作(と言っていい分量がこのときすでに書き溜められていたようだ)である枕草子を、こともあろうに伊周が耳にしたようでいくつか手に取って読んでいるようだ。

このとき視聴している皆様の胸に静かにしかしはっきりとした思いが去来したことでしょう(違う???)

「伊周、その汚らわしい手から枕草子を戻し、定子様の御前に献上するがいい」

手に持って読んでいたのが枕草子とわかって、自分は画面の中に入ることができたなら飛んで行って伊周の手から御料紙の束を奪い取っていたところだが、残念ながら現在の技術では不可能なことで、TV画面の前で歯を食いしばって耐えるというより、歯ぎしりをして悔しがっていた。

 

枕草子での表現

個人的な心の叫びは横に置いておいて、

伊周はふたたび定子の周囲に文人や詩歌の心得のある貴族を集めて華やかな後宮を再現しようとしていたようだ。

そのためには枕草子は(発端は個人的なやりとりにせよ)格好の宣伝材料であり広告塔となりえたのであり、当時としても斬新な様式で、また後世にもこのような文学作品はなかなか類を見ないことから、伊周の目のつけ所としては面白い案ではある。

しかし定子が内裏から退出させられたのは伊周らの不祥事が原因なのであり、母貴子の死、邸の二条第も焼け落ちて誰にも顧みられなかった不遇の時代は定子、また清少納言双方にとって生きる望みが断ち切られ未来の展望は暗黒であった。そんなときひっそりと仕えていた清少納言と定子だけのひそやかな楽しみであり心の交流の拠り所であった枕草子、定子をして「これがなければお腹の子は育たなかった」と言わしめた枕草子を、一方的に伊周の政治的思惑により公に公開されるのは清少納言には心外であり大切なものを持ち去られ傷つけられるに等しかったであろう。

しかし定子のサロンを文化的交流の拠点として再び華やかな場にするのだと言われると清少納言は仕方なく従うしかない立場であるところに、視聴者としては居たたまれないものを感じる。

 

さて、定子のサロンの文化的復権の例として、公任が職御曹司を訪れているようだ。

ここで枕草子に書かれているエピソードが織り込まれてくるが、微妙にシチュエーションが違うので出典と現代語訳を引用しておく。

 

原文:枕草子 百三段「二月つごもりごろに」

二月つごもりごろに、風いたう吹きて、空いみじう黒きに、雪少しうち散りたるほど、黒戸に主殿司とのもづかさ来て、「かうてさぶらふ。」と言へば、寄りたるに、「これ、公任きんたふの宰相殿さいしやうどのの。」とてあるを見れば、懐紙ふところがみに、

少し春ある 心地こそすれ

とあるは、「げに今日の気色にいとようあひたる、これが本はいかでかつくべからむ。」と思ひわづらひぬ。

「誰誰か。」と問へば、「それそれ。」と言ふ。みないとはづかしき中に、宰相の御いらへを、いかでかことなしびに言ひ出でむと、心一つに苦しきを、御前に御覧ぜさせむとすれど、上うへのおはしまして大殿籠おほとのごもりたり。主殿司は、「とくとく。」と言ふ。げに遅うさへあらむは、いと取りどころなければ、さはれとて、

空寒み 花にまがへて ちる雪に

と、わななくわななく書きて、取らせて、「いかに思ふらむ。」とわびし。

「これがことを聞かばや。」と思ふに、「そしられたらば聞かじ。」とおぼゆるを、「俊賢の宰相など、『なほ内侍に奏してなさむ。』となむ定めたまひし。」とばかりぞ、左兵衛督さひやうゑのかみの中将ちゆうじやうにおはせし、語りたまひし。

(角川文庫版「枕草子」より)

 

現代語訳:

(陰暦)二月の月末ごろに、風がひどく吹いて空は真っ黒で、雪が少し降っている頃、黒戸に主殿寮が来て、「こうしてお伺いする。(ごめんください)」と言うので、近寄ったところ、「これは、公任の宰相殿の(遣わした手紙です)」と言って差し出したのを見ると、懐紙に

少し春を感じる心持ちがする

と書いてあるのは、なるほど今日の情景にとてもよくあっている。「この上の句は、どうやってつけたらよいだろうか。」と思い悩んでしまう。

「(同席者は)誰と誰か。」と尋ねると、「誰それ」と言う。みんなとても気後れする方々の中で、宰相殿へのお答えをどうして平然と言い出せようか(いや、できない)と、自分ひとり胸が苦しいので、中宮様にご覧に入れようするが、主上がいらっしゃってお休みになってしまった。主殿寮は、「早く早く」と言う。なるほど、(出来が悪いのみならず)遅れでもしたら取柄がないので、ままよと思って、

空が寒いので、花と見間違えるばかりに散る雪に

と、震えながら書いて渡して、(先方では)「どのように思っているのだろう」とやりきれない。

「この反応を聞きたい」と思うが、「けなされているなら聞くまい」という気がしていると、「俊賢の宰相などが、『やはり(清少納言を)内侍にと、天皇に申し上げて任命しよう。』とお定めになった。」とだけ、左兵衛督の、(その時は)中将でいらっしゃった方が、語ってくださった。

さてこのふたりのやりとりにみえる和歌は、さらに引用元がある。ドラマでは帝が指摘したことになっているが、白氏文集からの引用である。

つまり実際のやりとりでも、白氏文集をお互いが自然と和歌に引用できるほどには十分習熟し理解していたことは少なくとも事実だし、また周囲の貴族や枕草子の読者(という存在は後付けだとしても)にもそういった教養があったということを意味する。

まひろは貧しい農民の子に文字を教えていたし(天然痘の流行で死んでしまったが)、現実としては識字率が高い階級は貴族(やその使用人)のみにとどまっていたとしても、文字の普及はこのようにして精神的豊かさを醸成するベースとなっていたのだなあということがよくわかる。

 

よく考えると為政者たちが政治的に有能かどうかをこうした教養の有無で測っていた点は、政治にも実務にもなんの関係もないではないかと思うが、貴族社会であったから判断基準も漢籍の知識や和歌のセンス、管弦の演奏や舞の優雅さなどに偏るのは仕方ないことだ。

それに貴族の政治で平安時代は戦乱もなく長く続いたではないかと言われるかもしれないがそれは平民に文字が普及してなくて政治の腐敗(摂関政治の身内偏向の登用)や搾取などを指摘することができなかったし、情報不足で今でいうニュースのような媒体もなかったからに過ぎない。

 

それはともかく、明るく知的で聡明な定子のまわりには再び貴族が集うようになっていった。このことには内裏の中ではない中途半端な位置づけの定子の御在所に対し、正式な妃の御殿ではないことから貴族たちからの批判も強かったようだ。

しかし枕草子のこのころの記事にはあくまで貴族たちが集まって賑やかな様子は描かれていても、批判があって心を痛めたりとかいうくらい記述はどうやらないらしい。

なぜ?

それは枕草子を書き始めたころから変わらず、中宮定子をお慰めし寂しさを紛らわせていただくための著作だったからなのだろう。

帝のお渡りも足しげくなって、定子に待望の皇子が産まれたことは前の回の感想に書いたかもしれないが、定子の皇子と内親王については彼らの成長と共にまたそのうち触れる。

 

中宮定子に対しての女御彰子

一条天皇の言い分

さて一条天皇には定子のほかに妃として道長の長女、彰子が入内することは周知の事実である。当時の摂関政治のセオリーとして、娘を入内させて(のちに帝となる)皇子を後見する名目で摂政として政治の実権を握るという定番ルートがあった。そのため当時の左大臣という最高権力者であった道長が長女を入内させるのは自然な流れではある。

でもドラマをご覧の視聴者さま、そして当事者である一条天皇と定子にとっては受け入れがたい現実だ。だってそれは当然で、一条天皇が10才、定子が13才(裳着を終えてすぐ)のときから彼らは共に成長しふたりで愛と絆を育んできたのに、新しい妃など受け入れられないだろう。

いや、すでにこのとき義子と元子さまという二人の女御が入内していたが彼女らは寵愛を受けられず実家に帰されている。彼女らとは違って左大臣の長女である彰子のことは無視も出来ず捨てておけないという意味で、一条天皇は拒否反応を示していたのだと思われる。

 

でも事実、妃の実家の政治的有力者から後見してもらわないと帝の政治的基盤は危うくなり、政策の混乱やひいてはクーデターや謀反を企むもととなる政治的空白を招くからという理由で、父母が亡くなった定子のほかに有力な実家を持つ妃の入内は喫緊の課題であった。後宮には数多の女御や更衣などの妃が並び姸を競ってこそだ。でも帝は政治的要因という無味乾燥で感情を挟まない理由で、大切な定子をないがしろにしたくなかったのだろう。

夫婦がおたがい仲睦まじく相手のことを想い、姫に皇子も産まれて慈しみ育てる……

帝と中宮という立場でさえなければ平民であれば理想の夫婦になれたのに、一条天皇と定子を見ているとこのような思いが胸を去来する。でもそれは二人にはどうすることもできない運命の枷だった。

 

道長の建前

さてこのような背景から彰子が入内することはすでに公然の事実となったわけだが、一条天皇が拒否している以上、公的にして誰もを納得させるだけの理由が必要になった。

そこで安倍晴明が何もかも分かっているふうに、事実全てお見通しだったのだろうが、これはもう決まったことだと宣言する。

しかし行成は実際に一条天皇を説得する役目をいいつけられ困惑しているふうである。いますよねいつの世でも、言いにくい事、無理難題を体よく部下に丸投げして解決したことにする無能な上司。「行成が言えば帝も心を動かされるだろう」って、そう思うなら行成の補助とか補佐とか、根回しとか道長があらかじめできることはあるんじゃないですか?

ちょっとは仕事したらどうですか道長さん?

ここで安倍清明の預言どおり?天災がふりかかり、世の中にというか朝廷の貴族の間には、とにかく政治的に一刻も早く安定を求める雰囲気が醸成された。

大雨による鴨川の氾濫しかり、それにともなう飢饉や病気、日食とか地震とか、いろいろが一気に襲ってきたらしい。

ここで(安倍晴明というよりは)行成が打ち出した公的な案:

大原野神社での中宮の責務である祭祀を執り行えない定子に代わり、彰子をいけにえに入内させる

というのが取りざたされる。中宮定子は出家しているから祭祀を行える立場にないというのが理由のようだ。そんな取ってつけたみたいな思いつきの理由見え見えで却下されるかと思いきや、公的な理由として採用されたらしい。

これ見ていると、つくづく政治家の発言は信用ならないというか、目的のためにはみんな手段を選ばないのだなあと痛感するというか。誰が信用するんですかそんな白々しい理由。

 

とにかく書類に記載する名目がほしかっただけといわんばかりに、朝廷の意見は一気に彰子入内に理解を示す方向に傾いていく。

なにせあの曲がったことが嫌いな藤原実資でさえ彰子の入内に賛成なのだから、彼がそう言えば他の誰もさからわないだろう。

 

女性たちのもっともな意見ーー①詮子の場合

さて、ここで思い出してみよう。入内とは天皇の妃になること、つまり入内する姫にしてみれば結婚を意味する。現代の恋愛結婚とは事情が違うとはいえ、身分の高い姫には政略結婚がつきものだったとはいえ、とにかく姫にとっては一生がこれで決まる一大事なのである。

それを名目とか建前とか口実とか説得とか、どう考えても聞こえてくる単語が結婚とは程遠い。道長も、安倍晴明からうさんくさい占いと共に提案された彰子入内の話を聞いた当初は娘は入内させないと断言していたし、それほど後宮に入るのは厳しく辛いことだという認識はしていたようだ。それにしては周りから説得された体で仕方なく入内させることにしたと装っているが、本性は道長は彰子を出世の足掛かりにしたかっただけのはずだ。

 

この本性を姉である東三条院詮子からはっきり指摘されている。

目的の為に自分の身を切れ、血を流せと。

道長左大臣という今の地位も気がついたら手に入ったもの、身を削り汗を流して、策を弄して掴んだものではない。いつもきれいな所にいて自らの手は汚さない。(このドラマでは手を汚す役は道兼であったが)とにかく道長はいい人のふりをして何かあった時は被害者ぶっていただけである。

「姉上が自分をそんなふうに見ていたとは知りませんでした」

と苦し紛れに道長がシラを切ると、詮子はとどめを刺すように言う。

「大好きな弟ゆえ、よく見ておっただけよ♬」

つまりよく見ていれば隠し切れずに道長の本性は一目瞭然であったことを意味する。

道長の口当たりのいい表面上の性格に騙されないように、視聴者はこの事実を忘れないようにしっかりと心に刻んでおこう。

 

 

②鷹司殿(正妻であり彰子の母倫子)の場合

彼女が一番人間らしい。

当時は婿取り婚であり、倫子は先の左大臣源雅信の長女で、広大な屋敷(土御門殿)と莫大な財産や多くの家財、それに恐らく多くの荘園を相続している。

倫子いわく

「自分がそれらの財産を受け継ぎ道長と睦まじく暮らして沢山の子に恵まれたように、立場からすれば長女の彰子にもその権利があるわけだから、彰子にも幸せな将来と幸福な結婚という親としてできる最大の贈り物を用意していたつもりだった。

それを道長の出世のための踏み台というか道具にさせられて入内させるなんて、親というか人間のすることとは思えない。

一条天皇には10年来連れ添った最愛の妃、中宮定子がおられるのに新たに入内したからとて妃として寵愛を得られるはずもなく幸せになれるはずがない」

と、ここまでで登場した人々のなかで最も人間らしい説を展開してくださった。

いや?それなら定子以外に義子と元子を女御として入内させる際に最大限バックアップして応援していたのはどうなったのだろうか?土御門殿に帝と女御様を招いて管弦の宴を開き、交流の場を提供していたけど。

みんな自分の娘となると必死で守りたくなるものなのですね。まあそれはもっともな感情なので異論は挟みませんが。

とにかく道長の建前が白々しすぎる。

「詮子の入内は出世のためではなく、朝廷と帝をお清めするいけにえだ」

この言い分もまた本音なら親としてひどすぎるが、しかし建前にすぎないという根拠がある。朝廷にはそういう祭祀をつかさどる、身分の高い内親王などが就く役職があるでございましょう?

賀茂の斎院と、伊勢の斎宮が。

道長様があくまで「朝廷をお清めする」などという口実をお使いになるのなら。

あの青春の年月をすべて未婚のまま神に捧げて祭祀をおこなう皇女さまたちの立場はどうなるのでございましょう、ねえ道長様??

とにかく倫子は宣言する。

「入内させるなら自分を殺してからにしてくださいませ」

そしてこの相談が平行線をたどるのを見て

「殿、ご相談ではございませんでしたの!??私の生きているうちは彰子を政治の道具になどさせませんから!」

とあくまで徹底抗戦の構えをみせていた。

 

③倫子の母で出家している穆子様の場合

のんびりと中立というより道長の肩を持つ。こういうところが、道長はどこまでも運がいいというかついてるなあと思う。

中宮様は帝より4つもお年が上でございましょう?今はご寵愛されていても、そのうちお飽きになるんじゃない?」

登場人物で最も楽観的な、しかし意外と的を得ているともいう。

 

とにかく倫子も最後には説得されたようだ。

彰子のためにあでやかな後宮を築きましょう、気弱なあの子が力強き妃となれるようこの身を賭けますと宣言する。

入内にむけて調度品や衣装を選定するのもすべて母親の役目であったから倫子が同意しない事にはこの話は進まなかった。道長が口を出したところで品のある雅やかな道具類などを選ぶ目ききなどではないのだから。

 

④彰子本人

まだ彼女は11才。

自分の意見などない、土御門殿の深窓ふかく大切に箱に入れられて育てられた姫は、いきなりそんな見当もつかない選択を迫られて途方に暮れているだけのように見える。

演じている役者さんの演技がほんとうに11歳の世の中を知らない素朴な姫のようで、あどけない表情がほんとうにそれらしい。

 

かくして自分の意見がないときは周りが決めてしまうという古今東西の掟通り、彰子は結局入内する方針で話が進む。

でも左大臣という大きな後見を得て、立場は安定することになるが、実際妃として見れるのかという一条天皇の意見をまだ聞いていない。

実際のところは入内してからすべては明らかになるだろう。

 

※そして一条天皇に(と彰子の間に皇子が産まれたとしたら)左大臣という後見がついたが、さて。今の春宮(のちの三条天皇)の妃の親は誰だったのかと考えてみると。

春宮妃は娍子(すけこ)、父は藤原済時、位は大納言と左近大将、正二位。うーん?なんか弱いですね?御父上の官位、もうひと声ほしいですね?

この春宮妃の御父上の官位がこの後の展開に影響を与えることになる、といっても過言ではないと思う。

 

 

庶民の人生と恋愛

さて政治の権力者たちの朝廷での駆け引きをずっと見ていて疲れましたね。

ドラマでは彼ら権力者以外の恋愛も描かれているのでこの記事の後半は彼らの恋について振り返る。

この庶民には主人公であるまひろの恋愛も含むことにする。

なぜなら、まひろみたいな貴族だけどでも中流下流の恋愛というのは、形式はややこしいけど、庶民に通じるおおらかさというか屈託のなさが感じられて、まだ儒教思想が行きわたる前の自由な恋愛観が見られるからだ。

政権も担っていなければ家の運命も関係ないおおらかな雰囲気、

お見合いという意味で御簾を隔てて和歌の会とか管弦の会とか開いていたのかもしれないが、そういう形式は最低限貴族の娘は結婚まで相手に顔を見せないという習慣からくるものだから。

 

平安時代そのものが、恋愛というものに対してオープンな気質であったと思う。

女性は父と夫と息子に仕えるべきとか、自分の意見をいうなんて出しゃばっているから夫の後ろに黙ってついてくのがよいとか、結婚こそが女の幸せとか、再婚なんてはしたないとか、…………

という儒教的思想はすべて江戸時代に儒教が幕府の政策に取り入れられて普及してからあとの考えであり、平安時代はこういうものの見方は皆無だったということを念頭に置いてドラマを見ないと色々と意識が食い違ってくる。

本家中国では儒教前漢の途中で国を挙げて広められた。つまり紀元前後くらいの時期より前、だから春秋戦国時代が中国で思想的に一番自由だった時代だったと考える。諸子百家が活躍したそれらの時代で、逆にのちの時代に政権に利用されたのが儒教だっただけであって。

 

平安時代は部屋の仕切りも几帳とか御簾しかない。空間を緩く仕切るがあくまで一部分だけで、大まかに言えば全部繋がっているのだ。

また女性は結婚しても通い婚だったし夫が通ってこなければ関係はそれで途切れた。というふうに結婚は一生に一度の一大イベントでもなかったはずで、このように簡単に男女の仲は別れと別の出会いを繰り返した。なんていうかカジュアルな意識で結婚していたと思う。離婚しても再婚も多かったという意味である。清少納言に至っては、憧れの定子のもとへ女房として出仕するにあたって、なんと夫と別れてしかも息子は夫側が引き取っている。(なにも別れる必要は無かったと思うが。赤染衛門は倫子の女房として長く仕えるが結婚していて、夫と仲の良い夫婦として有名だったのだし)

 

さて、庶民のカップルはまひろを含めて三組出てきたので彼らのなれそめをそれぞれに振り返ってみる。

まひろと宣孝

まひろを庶民に含めていいのか問題があるかもしれないけど、道長らが政略に固執して策を弄しているのを見れば、ずっと身分が気楽で自由な意思で結婚できたと考えるとまひろは庶民に含めていいのではないでしょうか。

ドラマでは家族や使用人、客人とも気楽に立ち話で顔を合わせて直接会話するというカジュアルな暮らしぶりのようだし。これらの会話は本来、まひろなら全て御簾越しにセッティングされてるはずだけど、ドラマでの進行の都合上、御簾越しとかいちいち文のやり取りをしてとかやってると話数が足りなくなるのだろう。

やむをえないことである。

 

①さわとの別れと人生の転機

まひろが為時の赴任に伴って越前に滞在していたのはおよそ一年間くらいだったぽいが、この間に筑紫からきた文で親友のさわの死を知ることになる。ほんとはどういうタイミングだったのか、そもそもさわの死はいつごろだったのか、正確な記録がなくあいまいのようだけど。

でもこの正式な名前が不明のままの紫式部の親友は、記録には遺っていて文でやりとりしていたことがわかる。紫式部が和歌にして残しているからだ。

 

あと、平安時代日記文学ですが、ドラマに登場するひとたちが書いていたものだけでもいくつも実在し現代まで伝えられている。行成の権記、実資の小右記道長御堂関白記道綱母蜻蛉日記菅原孝標娘の更級日記紫式部日記、これから登場するであろう和泉式部日記など枚挙に暇がない。

1000年以上前のできごとをまるで目の前で見ているように、ほんの昨日起こったばかりのことのように事細かに衣装から何から何まで再現できるのは、彼らが日記に逐一書いてくれているおかげだ。ほかに、中宮定子のサロンの華やかな様子がわかるのも、枕草子に詳細に記録が残っているからである。

 

さわ(仮名)と交わされた和歌は紫式部集に収録されているので、引用しておく。

 筑紫にある肥前という所から、友が手紙を送ってきたのを、私は大そう遠い越前の国で見たことだった。その返事に
あなたに逢いたいと思っている、この私の心情こそは、御地の松浦の鏡明神も、きっと大空から照覧していらっしゃることでしょうよ。(紫式部から友へ)

友からの返しは次の通りでした。それは翌年に使いの者が持ってきました。
行きめぐり、またあなたに逢える日を待っている私が、あなたの御歌に詠まれている、“待つ”の御名を待たれる松浦の鏡明神に対して、誰を終始心にかけて祈っていると思われますか。もちろん、あなた以外の誰でもありませんわよ。(友から紫式部へ)
笠間書院紫式部集全評釈」から)

寿命が短かった平安時代とはいえまだ20代、病気だったのかもしれないが(どちらにしても死因ははっきりしてないはず)まひろは突然の訃報に衝撃をうけて、人生を考え直す転機になったことだろう。

なにせ病気になれば物の怪のしわざとして祈祷を大々的にやっていた時代なのだから。まことに人の世とは儚いもの、文字通り明日をも知れぬ命なのだから悔いなく今を精一杯生きなければならない、とあらためて決意を新たにした様子が見て取れる。

※こに登場する鏡神社というのは今も筑紫国に実在して残るそうで、神社の由来はともかく高麗(918年 - 1392年)の観音像の絵が奉納されていることや、ほかにも史料から奈良時代に存在したことは確実のようだ。場所柄、朝鮮半島や中国からの人や物の流れとか往来が活発だった地域であり、またまひろの夫となる宣孝もこの地域に国司として赴任し、個人的に貿易で利益をあげていたことがドラマで語られていた。

越前が日本海側の重要な交易拠点として機能していたとともに、筑紫もまた平安時代は大陸文化を受容する最前線であったことがわかる。

 

②為時の腰痛と結婚適齢期

まひろの決意はまず父為時に「この辺で都へ帰り、宣孝様と結婚しようと思います」と打ち明けるところから始まるが、しかしまひろの胸中であたためられてきた思いも為時には突然のことで、

「宣孝殿と結婚…?なぜそうなるのだ?結婚?ええっ?

と驚きのあまり振り返るもそこで何か不吉なというか不自然な関節の音がして、為時は寝込んでしまったのだった。つまりぎっくり腰という意味か。というかもう年なのです為時様、ご養生なさってください。

こういう描写が、戦乱も身内同士の暗殺も無い中、ほのぼのとドラマのゆくすえを楽しめる大きな要素かもしれない。(なにせ鎌倉時代とか南北朝時代とか、一族郎党ことごとく女子供ふくめて誅殺とか、ざらにありましたからねえ。)今回のドラマはテンポよく明るく朗らかに進む。

 

さわの死と宣孝からの求婚をうけて結婚を考える気になった、もうわたしもいい年ですし、子供も産んでみとうございますし……と気軽にではないが決意に至った心境を吐露するまひろ。それを聞いて言下に否定するわけではないが為時は釘をさす。

「宣孝殿にはすでに妻も子供も何人もおる。(妻が四人、子供は七人)まひろを慈しむであろうが他の妻も同様に慈しむであろう。潔癖なお前がそのことで気に病んだりすることがないとよいが。このことだけは、心に留めておくように」

という意味のことをまひろに穏やかな口調で、しかし半ばいさめるように語りかけるのだ。為時は親としては当然このような結婚は本意ではないという意味だろう。当然である。為時の官位がもっと高ければ、婿取り婚の時代だから出世を目論んでもっと若くて有望な貴族から求婚があった可能性は否定できないからだ。

でも手段を選ばない出世をよしとしない為時は国司になれたのも何かの偶然に過ぎず(ドラマでは道長のコネのおかげとして描かれるが)、まひろは宣孝から求婚があったのも何かの縁として受け入れる気になっている。そういう生き方を選ぶのもまたまひろらしいといえるかもしれない。

いま宣孝の妻になるということは正妻扱いではないという意味で、妾になるということを意味するのだが、何が何でも正妻じゃないと駄目というわけではない。まひろは二十代後半にさしかかり、こういう人生における機微を悟り始めた年齢だったのかもしれない。

 

まひろは正確には二つ返事で宣孝のプロポーズを受けたわけではない。そのようにすぐ返事を返す女性ははしたないとされ、何度も求愛の文を贈っていただいて、ころあいをみてOKという意味の返歌をかえすのがしきたりとされていた。結婚に至る不文律というか、作法に近いのかもしれない。

越前から帰って来たまひろへの挨拶に宣孝が大急ぎでかけつけるようすに、弟の惟規は何のことやらわからず面食らっているようではあったが。だっていつも宣孝おじさんがやってきては陽気にふざけて悪ノリの冗談を言い、それにまひろが呆れてそっけなくツッコむという定番の漫才が繰り広げられていたのに、いつのまにかまひろと宣孝の間には割り込むことのできない熱い視線が交わされていたからだ。

まひろを迎えてその夜は宴会となり、宣孝は今様(流行りの歌)みたいな歌を披露するが、その間にまひろとひそかに交わす視線が意味深すぎて、弟の惟規はまたしても事態が全く呑み込めてないふうである。

 

はたしてまひろはOKという意味を、文を結んだ青い桔梗の花(?)に託して乙丸を使いに出す。

(個人的なつぶやき:うーんこれでほんとに良かったのか、まひろに求婚するなんてイケオジの佐々木蔵之介さん演ずる宣孝だから許されるのであり、現実問題、妾としての扱いでこの年の差はどうなのよと自分の中の何かが受け入れられない宣言をする……)

 

道長からの贈り物

まひろの結婚(正確にはまだ婚約というかOKの返事をかえしてない時期なのになぜか)にあたって道長からは豪華な贈り物が次々と届けられた。

道長なりのまひろへの心づくしというか、はなむけのつもりだったのだろう。

お互いもう大人、道長は正妻がふたりもいてどちらにも子供が3~4人ずつできている。もう昔の気軽に声をかけあえる立場ではない。(いいえまだ13、4才であった初期の場面で市場で顔を見知っていたという設定がありましたが、本来、下級貴族であってもまひろは素顔で市などという下人が出かける場所に市女笠もかぶらず供の乙丸も連れずに遊びに行っていた=正確には和歌の代筆に行っていたということ自体がありえませんけど!)

 

傍から見れば一介の越前の国司、官位は五位の貴族の娘にすぎないまひろに左大臣道長様から結婚にあたって贈り物がくるなんてどう考えてもおかしい。というか怪しい。

そんな「何かあるんじゃないか」という周りの疑惑の視線(実際何かあったことにこのドラマではなってるが)はともかく家司に昇進したのだろうか、立派な装束に立て烏帽子というすっきりした身なりの百舌彦がこれらの贈り物をたずさえて為時邸にやってきた。

「出世したのね百舌彦・・・!」

「長い年月が経ちましたので・・・」

という会話から、道長とまひろが出会ってからもう何年?裳着を迎えてからでももう10年以上たつという設定だったことを思い出した。

食事の用意とか市への買い出し、山で薪の収集とかいう下男下女の仕事は別として、家計の切り盛りや客人の取次や接待、贈答品の手配などといった家の運営一切をとりしきるのが家司で、近代ヨーロッパでいう執事みたいなものかもしれない。

百舌彦のまとう装束にはそういう意味で出世が感じられる。まひろが感嘆の意を表したのもそういう変化だろう。

(まひろが百舌彦と喋っている設定というか顔見知りな設定が、なんか鎌倉時代~戦国時代で色々と平安時代のドラマじゃないなと思うが、しかし伏線を回収したりまたキャラ同士の絡みという意味で顔見知りじゃないと色々話が食い違うので、細かい事にはツッコまないことにしよう)

 

乙丸ときぬ

出世と言えば。

乙丸の衣装も、単なる麻の質素で素朴でなかばすりきれてた気がするが、いつからか豪華な生地の、簡素だが亀甲紋が所々に配された狩衣に変わっている。まひろの衣装が絹の豪華な刺繍入りのものに変わったように、為時が国司に任ぜられたタイミングで、いとも含めて使用人全体の衣装がランクアップしていた。

明日の食料もままならない、雨漏りしても修理もできなかったまひろの子供時代を想えば、感無量である。

百舌彦はもともと右大臣兼家が存命だった時代から道長に仕えていたのでそういうひもじい目にはあってないが、しかし主人が出世したという意味で、視聴者としても感無量だ。

そして越前から乙丸もまた結婚相手を連れて帰ってきていた。名前をきぬという。越前の海女である。ようするに素潜りできる健康な労働者、という貴重な人材を気軽に下女として連れて帰ってきてもいいのか、現地の反応が気になるが、まあ細かいことは気にしない。

裏を返せばきぬを新たな下女として雇うだけの財力は為時邸にある、ということ自体が最大の変化だ。ドラマの初回、あんなに使用人への給料(現物支給)の支払いもとどこおりがちで、下人は次々といなくなっていたのに。もう過去のことなのだなあ、と懐かしい。

 

素朴で駆け引きも裏も何もない、乙丸ときぬの会話をきいていると心がほっこりする。

 

いとと福丸

そしてまひろが越前から帰ると、いとにも恋人が現れていた。

そう、あくまで恋人である。ほかにも妻がいて、たまーーに通ってくるだけの男と解説されている。名前は福丸。身なりも悪くなく下級貴族なのだろうか、如才なく立ち振る舞う。大地震がきたときはさっさと遁走し、あとできぬに連れ戻されている。

惟規いわく

「いとには俺がいればいいのかと思ってたけど、違ったんだなーこれが。」

だそうで、確かに惟規の乳母だったいとはずっと若様の成長が楽しみで…!とそれを恃みに生きてきたところがあるけど、何の弾みかで恋がめばえることもあるのだろう。

ほかにも妻がいるという設定から福丸には正妻がいていとは妾という立ち位置になる。

しかしいとが語る福丸のいいところは

「見目麗しくなくても財産や地位がなくても、また衣装がセンスがよかったりしなくても、私のことを大切にしてくれたらそれでいいのです」

と恋愛の本質みたいなことを言っていて、案外当時の庶民の恋愛はそういうものだったのかもしれないし、それが本来大切にすべき気持ちかもしれないなと思う。

政治の駆け引きにばかり娘の結婚を利用しようとしている上流貴族のみなさまに聴かせてあげたいものである。