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まひろから藤式部へ
さて、この回からドラマの主な舞台は、まひろの家・為時邸から中宮彰子の住まう後宮の飛香舎、通称"藤壷"へと大きく転換していく。
まひろは、物語の続きを藤壷に女房として出仕し働きながら執筆するように、道長から要請されたからだ。
これまでドラマはまひろと為時邸の家族や下人の視点で、一人称として語っていた。帝や中宮定子や彰子は、カメラのレンズを通してあくまで異世界の住民として描かれていたのだが、このまひろの出仕により大内裏の公卿の様子や内裏の後宮でのできごとはいきなり近親感のある日常のできごととしてクローズアップされてくる。
この細かいディティールが外部からはわからなかったから、まひろは桐壺の帖を書き始めるにあたってまず道長に帝の生い立ちや中宮のこと、後宮や内裏のようすを仔細に取材して想像を膨らませて書いたようだ。
しかしこれ以後、後宮で繰り広げられるできごとはまひろを主語に置き当事者として語られるようになる。
道長の御堂関白記、実資の小右記、行成の権記に代表される貴族がつけていた日記の中で、藤壺で展開するストーリーが重きを置くようになってくるのも、これ以後のことである。
よって、主人公の三人称はこれ以後まひろではなく、これ以後は藤式部で統一する。
※内裏における藤壷の位置
清涼殿からすぐ隣にある。同様な位置の弘徽れ殿と共に、中宮や、また有力な貴族を後見(親)に持つ女御が賜った殿舎。

(画像引用:飛香舎 - Wikipedia)
職場としての藤壺
さて、まひろの生家である為時邸は小ぢんまりとしながらも(越前編を除き)ドラマのスタートから今日までの物語の展開を支えてきた背景であり、たぶん平面図も入り組んでいてあらゆる角度からの観察に耐え得る細かい設定を備えていた。
同様に、藤壺も物語の舞台としてクローズアップされるに及んで、ハレの日の舞台から日常の生活シーンへと解像度が上げられたために舞台裏も含めて仔細が語られる。
つまり中宮のお世話係やお話相手、宮中行事のスタッフとして働く女房達の日常生活にドラマの焦点が移っていく。それは、主人公藤式部の仕事でもあったからだ。
藤壷のしつらえ(注ここだけで15000字、長い\( 'ω' )/オワタ
参考サイト:公式で各部の拡大写真が見れる。道具類の名前だとイメージがわかないときにご参照ください。
【光る君へ絵巻】ドラマ美術の世界 ~内裏・藤壺「中宮彰子の住まい」 - 大河ドラマ「光る君へ」 - NHK
さて、この部屋に並んでいるのは、どれもなんとなく置いているものではない。ここの調度類が、大河ドラマ史上でも類を見ない豪華さなので、細部にわたるまで言及したい。
庭の藤
土御門殿にも映り込む庭はわずかながら、御所車などに藤や季節の花があしらわれていたが、藤壺では松の木に藤を這わせて大ぶりな花房が揺れている。(まだ当時は藤棚を作るという習慣はなかったらしい。)藤壷の名の由来である。また、中宮彰子の家系藤原家にも由来する藤の色は、室内調度に透かし模様の入った几帳として取り入れたり、また御簾を巻き上げている布にもグラデーションとして使われていた。
室内は几帳や御簾、また柱の間には透ける布の壁代を提げるといった調度で区切ることで厳密に空間を分けず、行事や用途によって柔軟に使い分けられるようになっていたらしい。この几帳や壁白がシースルーで狭さを感じさせず、涼やかな演出に一役買っているように見える。
繧繝縁の畳と脇息
※例:正倉院御物に残る繧繝紋


繧繝紋についてはいつかの回でもすでに述べたように様々な様式があるが、この紋様を縁にあしらった畳を使える人は帝や中宮、皇太后、上皇、(准三宮に叙せられた)親王など限られた高貴な身分のみであった。
たとえば、公任の屋敷・四条宮でまひろの和歌を学ぶ会を主宰していた公任の妻敏子は親王の娘であり高貴な身分であるが、あくまで使用していたのは高麗縁の畳である。
(そもそも畳自体が当時は非常に贅沢な調度品で、ふつうの貴族は日常、自邸では藁の円座などを使っていた。)
さて、上のふたつは中宮御所ならではの設備ともいえる。
和歌屏風
畳に座する彰子の背後に堂々と鎮座するのは、道長が彰子の入内に際して公卿たちに和歌を依頼し、そして当代随一の書家である行成に清書させたことで有名な和歌屏風である。
この屏風の話は様々な記録に見え、だいたいドラマで描かれた内容は史実であるといっていい。公任が歌の出来に悩んで提出がギリギリまでもつれこんだのも含めて。公任は若い頃出世頭であった過去は捨て、道長と政治の舞台で競うのは諦めて和歌と文芸に生きると決めたようなので、この記念すべき屏風に下手な歌を贈っては名折れだと相当に気負っていたのかもしれない。
そしてこの機に乗じたのか、花山院も歌を贈ってきてこれは道長の計算外だったようだが、結果的に屏風の権威を高めることになったのは間違いない。
この屏風が彰子と対面するすべての人に、無言のうちに後見である左大臣道長の権勢を見せつけ威圧するものとなった。
一条天皇は「中宮は朕のほうを見ようともしないではないか」と道長に苦言を呈していたが、しかしこの屏風がかもしだす無言の圧力が一条天皇をして藤壷を忌避させる遠因となったのでは?と想像する。
なぜならそこに道長の権勢をみることはできても、中宮彰子の意思は微塵も感じられないからだ。
帝は、中宮自身と対話してみたかったのではないだろうか?
この項目以下で語る通り、藤壺にはおそらく全て倫子が吟味し選りすぐった品々が並んでいたことがわかる。
【※他の屋敷(公任の四条の宮、伊周の屋敷、道綱や斉信の屋敷など)と比べても一目瞭然。ここと比肩できる調度を揃えていたのは、道長の父兼家の右大臣邸、また土御門殿に引き取られていた東三条院詮子の居室などくらいのものである。それらの室内の二階厨子には青磁の花入や香炉が飾られていたり、漆塗りに螺鈿の屏風や衝立が使われていたりしていた。このような唐や宋からの舶来品に見られる高度な細工の工芸品を並べることができる身分は、ごく一部に限られていた】
そこで藤壷で中宮のそばに並べられた調度品を見るにつけても、あらためて当時でも屈指のレベルだったのではと思われる精緻な細工のものが目白押しである。
まさに贅を尽くした空間というにふさわしい。
まず漆塗りの唐櫃には螺鈿と蒔絵によって、蝶と藤の花があしらわれている。
螺鈿とは、ヤコウガイを漆器等にあしらった工芸技法である。
※ヤコウガイは珊瑚の棲息する南方の海で採れる。貝殻の裏側に重厚な真珠様の層をもつ。これを使った螺鈿細工は南海貿易により古代中国へ伝わり、さらに奈良時代に遣唐使によって日本に伝えられるという由緒と伝統を備えた工芸品である。
↓↓↓ ※この聖武天皇由来の五弦琵琶は正倉院にのこされた伝世品で、起源はインドに求められる。

(画像引用:螺鈿紫檀五絃琵琶 - Wikipedia )
その後平安時代になり、国内でも螺鈿の技術が伝えられるようになったことを示唆しているのだろうか。
蒔絵は同様に漆器の地にえがいた紋様に金銀などの金属粉を定着させる技法でありこれもまた比類ない贅沢な装飾法である。(参考画像:たとえばこの手箱は蒔絵で文様がほどこされているうえ、車輪を螺鈿で表現するという絢爛豪華な品。)

(画像引用:蒔絵 - Wikipedia )
他のどの貴族の邸にも置かれてなくて、かつ中宮御所としての品位と格式を示す調度品として、ドラマに登場していたものの中では、まずは当時の工芸の粋を集めたともいえる螺鈿と蒔絵の唐櫃を挙げたい。
青磁の水差しと、打乱筥
上に挙げたが、これも普通の貴族の館にはない品。時代的に宋の青磁かもしれない。遣唐使の時代から青磁を輸入してきた日本だが、宋の時代に至って青磁は白磁とともに工芸品として完成の境地に至る。
この水差しと化粧道具を入れた箱は、中宮の御帳台つまり寝台の隣にある二階厨子に置かれており、朝起床した中宮はここで髪や身だしなみを整えたようだ。
青磁の水差しは宋の竜泉窯のものという設定だろうか(ちょっと時代が違うけど)、透明な空のごとく、澄み切った美しい碧色を呈している。この時代の青磁は全て唐か宋からの輸入品で、とても値段などつけられないほどの奢侈品であった。まさに道長と倫子の財力を持ってこそ手に入れられたもの。なぜなら国産はようやく陶器が生産の緒についたばかり、磁器は焼成温度が1200℃を超えるという高度な技術を要したため当時国内では生産不可だったからだ。(※ついでにいうとこの水差しの形式は胡瓶といって原型は遠く古代ペルシャに求められる)
その横には金細工をほどこされたハマグリの貝(紅か白粉?)、小さな銅の手鏡?、絹の巾着、櫛に筆に・・・と化粧用具が並べられた打乱筥が置かれている。筥には鮮やかな色とりどりの紋様で埋め尽くされた錦が内張りされ、そしてこれらが並んでいる二階厨子もまた美しい朱地に別の紋様の錦で飾られている。
まるで宝箱のよう、豪華すぎて眩しくて目を空けていられないほど(誇張ではない)。
なぜか御帳台の横の朝の身支度スペースの調度が一番贅沢に見えるのは気のせいか?
ここまでは朝のエリア、次に昼の生活スペースに置かれていた調度について考える。
朱塗りの棚と文箱
彰子から見て右側に配置されている朱塗りの棚。
(朱とは辰砂のことである(成分でいえば硫化第二水銀)。魔除けとして古墳時代から石室の内部に塗られていたことが知られている。また漆器の調度や食器類に使うことで鮮やかな差し色になるとして古来好まれてきた)
中宮の母倫子が(壮麗な土御門殿で生まれ育った左大臣家の姫ならではの)目利きで吟味した選りすぐりの品々ばかりなのだろう。金蒔絵で鶴や蝶を刻印した文箱や小物入れ、絞りの錦で縫ったお手玉、絵巻物か何かの巻物など、贅を尽くしたというか宮廷文化の粋を集めたようなものが並ぶ。
たとえば第29回「母として」の回では、倫子が年若くして中宮となった娘のために内裏の藤壺に通いつめ、話し相手になったり道具や調度を揃えるのに心を砕き、細心の注意を払っていた様子が描かれていた。(参照サイト:【光る君へ】第29回「母として」回想 “文芸ドラマ”の姿、いよいよ鮮明に 「枕草子」は政治の真っ只中へ 母子の心を動かした「竹取物語」のモダンな感覚 – 美術展ナビ )
※もっとも、中宮の御座所は倫子と道長が持てる財力とコネと知性とセンスのありったけをつぎ込んで創り上げたはずである。そこで藤壺の画面には映り込まないけど、実際に彰子が使ってたんじゃないかと思われる品はもっとあるはずだ!という個人的思い込みから、勝手に想像します。(これまでのストーリーから、また時代背景から想定されるもの)
たとえば。
・銀細工の八稜鏡(唐で流行した)
(参考画像:双獣双鳳紋八稜鏡 | 兵庫県立考古博物館加西分館 )
上記の第29回で藤壷に献上する品々を倫子が土御門殿で選定する場面で、手に持っていた鏡がこれ。隋や唐の時代に中国で流行した形式で、主に遣唐使によって奈良時代に日本に伝わったが、倫子が持っているのは平安時代に入って日本で作られたものだろうか。銀に唐草紋様や、花鳥や鳳凰などの瑞兆をあらわすモチーフが鋳出された八稜の鏡。
・瑠璃(ガラス)の器や高坏
(参考画像:正倉院 - 正倉院
白瑠璃高坏(中倉) | 主な出陳宝物 | 開催概要 | 正倉院展 )
金に糸目をつけないのであれば、当時随一高価であったと思われるのは瑠璃(ガラス器)である。平安時代であれば、ペルシャ帝国(今のイラン)などからイスラム商人を介して輸入されたと思われるが、大変繊細で壊れやすいことから非常に値の張る奢侈品であった。日本でも古墳の副葬品としてのガラス玉や、正倉院の伝世品である瑠璃椀などの例にみられるように、限られた権力者の手にしか渡らなかったと思われる。
芸術的価値はもちろん、かかっているコストを考えると藤壷にあってもおかしくない。
・宋伝来の青磁や白磁
青磁の例:参考サイト
白磁の例:参考画像 土の百変化 — 院藏陶磁コレクション_宋─元代
青磁や白磁は宋や高麗からの輸入品でガラスと同様壊れやすいが、その美しさから日本でも文人や権力者から引く手あまたの高い人気を誇り、これも値段などつけられない奢侈品。
上記の通り、彰子の御帳台の横には青磁の水差しが置かれている。さすが。
※まだ女御だったころの定子にも、母の貴子が青磁の香炉を献上していた。
・蒔絵の筝の琴や琵琶
(琴の参考画像:主な収蔵品 | 春日大社 )
(琵琶の参考資料:奈良を「伝える」活版工房 丹 TAN )
内裏の後宮で中宮と数多くの女房が控えるとなれば、管弦の合奏なども多く行われていたのではないか。この後に出てくる曲水の宴での雅楽もその一種である。そこで使われていた楽器はこのようなきらびやかで華やかなものだったと考える。琵琶も筝も中国伝来だが、このころには平安貴族の間には広まっていただろうしまひろの実家にも母譲りの琵琶があった。
帝はフラっと藤壷にやってきて得意の横笛を吹いて見せるが、ああいうのはイレギュラーで、あくまで先触れがあり日時も決められて管弦の催しとして大掛かりにイベントとして行われたのではないだろうか。
中宮はいまのところ敦康親王と帝が訪れてくる以外はひとりで寂しそうにしているが、もっとこのようなイベントをやったりして様々な人の訪れがあったと思うのだが。ドラマではひたすら母倫子がかいがいしく訪れてはお話相手になっていたのを見るばかり。
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ここまで、藤壺の調度を思い込みと妄想で補完するコーナーでした(*^▽^*)。
さてふたたび彰子の身の周りに並んだ実際のものに言及することにする。
紫檀や黒檀、象牙を使用した双六盤や囲碁盤
奈良時代の参考画像(模造複製):https://www.narahaku.go.jp/collection/500-0.html
(双六はまひろと為時も家で遊んでいた。)今でいう紙にコースが書かれたものとは当時はルールが違っていたが貴族の間では大流行して賭け事に使われ、禁令も出るほどだった。このルールは現代に伝わっていない。
そのほかに当時中国から伝来し貴族の間で流行していた遊びには囲碁がある。こちらは双六と違い、今でも同じルールで東アジアを中心に広く親しまれている。1000年もルールも用具も変わらないってすごくないですか、囲碁って。
さてちょっと話は飛んで第36話に彰子と敦康親王が差し向かいで双六で遊ぶシーンがある。使われてるのは上記の奈良時代風じゃなく箱型の江戸時代に近い形式みたいだが、どちらにしても双六台は紫檀か黒檀、双六石は象牙だろう。(黒色の双六石の材質がよくわからないが)なぜならどれも東南アジアやインドにしか産しないもので南海貿易によって輸入されたものであり、彰子の使う道具はこのように貴重にして最高級品ばかりだったと思われるからだ。
投壺や貝合わせなどの遊戯道具
投壺
第32話で道長が藤壺を訪れ、敦康親王にと遊び道具の投壺を一式プレゼントしていた。
※奈良国立博物館の収蔵品:https://www.narahaku.go.jp/collection/p-1317-256.html
※実際の遊び方:「投壺之禮」如何寓教於樂? | 中國文化研究院 - 燦爛的中國文明
※正倉院宝物:https://www.narahaku.go.jp/exhibition/special/201310_shoso/
正倉院に収蔵されているものが一番ドラマに出てきた形に近い。以下、正倉院の解説。
銅製、鍍金(ときん)の壺。下膨れの胴、両耳を付けた長い頸(くび)が特徴的。外面に線刻で唐草文や花、鳥、瑞雲、獅子などの様々な文様(もんよう)を表している。
投壺(とうこ)は古代中国において宴席の余興として行われたゲームで、離れた場所から壺に向かって矢を投げ入れ、その優劣を競ったという。
この贈り物には、現時点で次の春宮と目されている敦康親王に贈り物をする道長には政治的意図が見て取れるが、とにかくこの投壺は古代中国の西周(紀元前1027年~770年)ですでに遊戯具の青銅器として使われていた歴史あるもの。左大臣たる道長から親王様への贈り物としてふさわしい。
遊び方は付属の投壺矢を壺に投げ入れて入った本数を競う。(本来は宴会での遊戯。負けると酒杯を飲み干す決まりがあった)ただ、このときからわずか100年後に正倉院を開封したときにはすでにこの遊戯は廃れており、誰も遊び方を知らなかったという。
貝合わせ
【光る君へ】第29回「母として」回想 “文芸ドラマ”の姿、いよいよ鮮明に 「枕草子」は政治の真っ只中へ 母子の心を動かした「竹取物語」のモダンな感覚 – 美術展ナビ
上記解説サイトを参照のこと。彰子が誰も訪れない静かな藤壺でひっそりと一人貝合わせに興じるところに母の倫子がお話相手として現れる場面。
この遊戯はハマグリの貝が対の貝以外には絶対にぴったり合うものが無いところから生まれたもので、平安時代の当時は貝殻をトランプの神経衰弱のように合わせる遊びだったようだ。
だから高価で華麗な遊戯具というには彰子が持っているハマグリの貝はシンプルだからここに並べるのはちょっと趣旨が違うが、投壺と同様に藤壺で親しまれていた貴族の遊びという意味で一連の物として考えるといいだろう。
(金泥や絵付けで華やかに物語絵などが描かれ、蒔絵の漆器ケースとセットで普及するのは江戸時代に入って、大名家の嫁入り道具としてである。どちらにしても高貴な身分のための遊戯具であった)
金銀蒔絵の高燈台
燭台に光背のように蒔絵の円板をつけたもの。陶器に油を入れ灯芯を浸して灯をともす。ふつうは庶民の燭台にはこのような蒔絵の円板とかはつかない。
ここで蛾の紋様が採用されているのは、徐々に成長する生き物のため中宮の成長になぞらえて調度品にあしらわれているらしい。ほかにも蛾の紋様はこのような理由で、縁起物として当時は様々なところで使われた。
吊り燈籠
藤壷の廂には透かし彫りの見事な燈籠がずらっと提げられている。そういえば越前国府にも宋の様式の優美な塔籠があったことを思い出した。
藤壷のものは元々の備品なのか新しく道長が調達したのかわからないが、どちらにしても宮中ならではの装飾で、藤壺の優雅な雰囲気をいっそう引き立てている。
現存する平安時代の吊り灯籠を有する春日神社。参照サイトと動画を貼っておくので、こういうのが飾ってたんだなーと、ビジュアル的にご参照ください。
中元万燈籠|春日大社|奈良県観光[公式サイト] あをによし なら旅ネット|奈良市|奈良エリア|イベント・体験
吊香炉
衣装に香を焚きしめるのは貴族の嗜みであった。香の配合にもセンスが問われ、姿が見えなくてもあたりに漂う香りで誰が訪れたか当てられたくらい、衣服に焚きしめた香はその人を象徴するものであったといえる。
特に貴族の女性は近しい家族で会っても男性に顔を見せることはまれであったため、和歌の腕前、豊かな長い黒髪、衣装の襲の色目、文の筆跡、琴や琵琶などの楽器演奏、そして御簾越しにかけられる声やかすかに漂う衣装の香がその人となりを判断する重要な手段、手掛かりとなった。
衣裳の紋や襲と合わせてこうした香にもセンスがあらわれるからである。
香と言えば沈香などの香木がもとだが実際使われていたのはそうした数種類の香を配合した練香と呼ばれるものが使われていたらしい。
衣服に焚きしめるのは透かし彫りの香炉や竹かごに衣装を懸けるが、この彰子のサロンに置かれているのは空間に香をくゆらせる空薫物の香炉のようだ。置かれた場所は彰子の真後ろ、屏風の前に、背の低い衣桁のようなものに組紐で提げられた丸く小さな香炉が見える。
土御門殿では廂に香炉を吊っていたが、藤壺では趣向を変えて室内調度としていた。調度品や衣装でビジュアル的に高貴な演出をするだけではなく、空間をもトータルコーディネートするのが貴族の嗜みでもあったのだ。
さて、ここまで中宮の御座所である藤壷のしつらえを見てみた。
すごかったですね。
書いてて自分でもすごいなあと思いました(;'∀')汗
もう圧巻のひとことです。
名実ともに天皇の清涼殿の次に高貴で華麗な空間であったことを彷彿とさせる品揃え。
内気で口数の少ない彰子が寂しい思いをすることが無いように、倫子が華やかに盛り上げると誓った後宮。思えば入内の時満年齢でいえば11歳、数えでも12歳の彰子を内裏へ送り出した母倫子の胸中はいかばかりだったか。そして定子の面影を追う帝に全く顧みらることなく寂しい藤壺で過ごす彰子のことを、気にかけないときは一瞬たりとてなかっただろう。倫子の心中は察するに余りあるものがある。
並んだ調度品には、心づくしという言葉ひとつでは言い表すことのできない細やかな気配りが隅々まで感じられる。
(以下、視聴者としてのつぶやきーー)
為時邸は質素なつくりで下人も少なく見た目に素朴でしたよね、セットの規模としては邸内を遣水が流れてて本格的だったとも言いますが。しかし豪壮華麗なつくりというと兼家の右大臣家、そして土御門殿と内裏の清涼殿でしたが、細部まで本格的にクローズアップするに耐えるこだわりというと、断然この藤壷だと思うんですよね。
はっきり言おう。この藤壷編に大河ドラマの予算の大半をつぎ込んだのではないかと思うくらい。道具も衣装も。
並んでる調度品一つ一つが微に入り細を穿つ念の入れようです。どれ一つとしてまったく手を抜いてないばかりかカメラに大きく映らないところまで全てにおいて抜かり有りません。
衣装も当初主人公のまひろがいつまでも麻の衣装で素朴な印象でしたが、ここに至って舞台が内裏になるに及んで、まひろほか同僚もみんな女房装束の十二単、ほかの登場人物たちもみな高貴な身分に出世して華麗な金襴の袿や直衣を着込み、衣装の豪華さが半端ない。
今回の大河ドラマにおいて、ここに挙げた調度品もみどころですが、やはり毎回登場人物たちが出世していくにつれてどんどん豪華になっていく衣装が最大のキーポイントだと思う。戦国時代ものと違って王朝を舞台にした今回は、下剋上もなく血筋が人生を決める、すなわち着ている衣装=身分を表していたからだ。
登場人物たちの身分設定通りに惜しみなく予算を投入して再現された平安時代の衣装たち、有職故実に基づいて再現された織や紋様、豪華な刺繍の仕上げ、繊細な襲の色目など、今作でしか味わえないこだわりの演出を存分に楽しみたい。
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ここまで藤壷のセットについての考察でした。
お付き合いいただきありがとうございました。
以下、引き続きドラマの粗筋についての考察にうつります。
女房の局と、仕事内容
さて、まひろの同僚たちと彼女らの控室もクローズアップされていたので、併せてメモしてみたい。藤壷の女房の局は殿舎の北側に並んでいたようで、女房達は廂に面して基本的には二人一組の単位で空間を壁代=壁代わりに垂らされた布で区切って使っていたようだ。今でいう水回り共用のシェアハウスといったところか。
シェアハウスだから自分の局には最低限の個人所有の物を置いているだけで、あとは廂の廊下に必需品が並べられていた。朝起きて身だしなみを整える化粧道具、着替えの衣装、そして全部手縫いだったからか裁縫道具も常備されていた。なかでもお風呂に入れなかった当時、香を焚きしめるのも大切だったが長い髪は度々洗えないからきちんと手入れしていたようで、女房同士交代でお互いに髪を梳く様子が出てくる。
・早起き
・蔀戸を上げる
・寝巻の白い単衣から、緋の袴を履いて着替える。
・角盥で布(絹?)を濡らし顔を拭く。
・衣装を着たら交代で髪を櫛で梳く。
・次に化粧。
・最後に唐衣と裳をつけ扇を持って出勤準備完了。
上の項目で女房装束は豪華と書いたが、しかしこうして着付けの順番を見るにつけても、予算もそうだけど撮影にかかる俳優さんたちはいちいちこうして着付けているのかと実感して、あらためて大がかりだなあと思う。
撮影がクランクインするまでに、おそらく去年の夏ごろから衣装合わせ、所作の習得など、大変だったのではないかと思うわけです。男性は烏帽子や冠をかぶり公卿たちは束帯に刀を提げていて何かにぶつかったら大変だし。女性は長い垂髪をつけ、特に十二単は裳と唐衣をつけて袴を引きずって歩くだけでも大仕事だと思う。袴を履いて段差を上がる、何気ないこの動作、つまづかないのかいつも冷や冷やして見ている。袴をかろやかにさばいて演技されている倫子様や女房役の人々に脱帽です。さすがプロ。立ったり座ったりするだけでも、複雑な衣装を捌くしぐさが自然です。帝の直衣がいちばん裾も袴も引きずってて袖も長く動きにくそうではあるが。いかにも労働しない身分の服という感じで。
これまで宮中の女房で台詞と名前があったのは清少納言だけだったので、ストーリーに絡んでくる職業としての女房がクローズアップされてくるのはこれ以後だ。
いわば定子の後宮では正装した清少納言が主人の定子やほかの公卿たちと和歌や漢詩でやりとりしているところだけで、いまいち生活感に欠けた。でも高畑充希さんとファーストサマーウイカさんの惹きこまれる演技で、忘れることのできない輝く定子の後宮のイメージは持てました。
さて、ここにきてまひろこと藤式部は藤壷を舞台にお給料をもらって源氏物語を執筆することになったから、藤式部の仕事部屋である女房の局に焦点があてられるのも自然な流れではある。
同僚の登場と陰湿ないじめ
さて一日のルーティーンを見て回ったところで次は女房としての仕事を体験する藤式部。別に職場体験ではなく本採用の正社員なのだけど、藤壺に上がったばかりの藤式部は為時邸とちがって煌びやかな世界に気圧されて、まだどこかお客さん気分が抜けてないように見える。女房を志願して就職活動をしたのではなく、源氏物語を書くという文芸枠で要請されて就職したからかもしれない。まだ、職業として責務を果たして働くという意識が見えないように感じられる。
恐らく直属の上司になるのであろう、藤壺を取り仕切っているらしい宮の宣旨という女房に局を案内され、日ごろの仕事を教えてもらって藤式部ははりきっているつもりで「わたくしもお手伝いしとうございます!」と発言するものの、他の女房に思いっきり顰蹙を買っていた。
「お手伝い・・・??」
回りの女房が裁縫仕事しながら引きつった表情を浮かべているのが怖い。
彼女らの心の声をレポしてみよう(想像)。
・お手伝い感覚で出しゃばってこられても困る
・お手伝い感覚とかバイト感覚で仕事されても邪魔なだけ
・宮中の仕事をお手伝いなんて、勉強し直しておとといきやがれ((๑¯ω¯๑)あっ宮中が舞台なのに口が滑りました)
さらに、さっそく就職翌日に寝坊したまひろに対して(物語を執筆してたから本業のためなのだけど)イヤミの応酬が始まった。
新人への顔見世みたいなものか?
って昭和時代の部活の、先輩による圧力面接じゃあるまいし。
「夜遅くまで何をなさっていたのでしょう」
「誰ぞの足でもお揉みにいらしたのではないの?」
「まあ、藤式部ったら……おとぼけになってwwwww」
「(意訳=しらばっくれても無駄よwww)」
赤染衛門先生の解説によれば、足を揉む=夜伽に召されるという宮中用語らしい。
(定子の後宮でも定子の実家が没落していくにつれて内裏を退出し、職御曹司に戻り、再び内裏に召される過程での定子への陰口がすごかったですが)
相変わらず宮中の女房達の陰口というか質の悪いいじめは健在のようです。
人間、人数が集まると自然と上下関係ができて誰かを理由なくターゲットに決めていじめるようになる。なんでなんだろう、ほかに楽しい事ないのかしら?
さてまひろが初めて体験した大きな公式行事は中宮大饗だった。
まだ勝手がわからない藤式部はまごついて宮の宣旨に怒られている。めげるな藤式部。この通例正月2日に行われる行事で、ドラマが1007年に時間が進んでいることがわかる。
次々と中宮様に拝礼に参内する大臣以下公卿たち、それに下賜する錦などの録を次々と準備する女房達で藤壷は賑やかだ。行事の最後の録の下賜だけが再現されているが、饗応の宴、舞楽や鷹飼の参入、管弦などの芸能と続き一日を通しての行事であったから女房達は大忙しだったことだろう。
ひょっとしてこの晴れの日に、女房達は衣装や調度、お菓子などを下賜されることもあったのだろうかとも思う。女官が宮仕えしてお古をいただくことはままあることだしそれが楽しみで仕えていた面もあるのではないか。
中宮大饗の準備で、中宮大夫の職にあった斉信がもったいぶって藤壷の女房を指揮して取り締まりにくるが、女房達は気にも留めてない風で鼻であしらっている。宮の宣旨が扇で顔を隠し、どっちつかずの返事をして全く意図がわからないのが全てを物語る。
この一大プロモーションに向けて職場一丸となって残業するところ、上司からおひねりやお古をもらえるチャンスがあるところ、いじめがひどいところ、そしてなんといっても凡庸な上司の言う指示を気にも留めずに同僚との世間話に花が咲くところ…
もうこれ大企業のオフィスフロアの日常ですやん。
大河ドラマはこれ以後、腕一本で叩きあげてきた筋金入りの職人である藤式部が、オフィスを舞台にバリキャリとして目覚ましい出世を遂げていくストーリーになります。
皆さまよろしくどうぞ。
ちなみに藤式部の性格は冗談も通じず真面目一辺倒、男との浮ついた噂もなく道長様からの任務一筋に邁進する仕事人間です。
24時間闘えますかを地で行ってます。
いえ、無駄に残業するのが美徳なのではなく、筋金入りの叩き上げバリキャリなだけあって手加減しない、妥協を許さないという意味です。
どのくらい妥協を許さないのかというとこの後すぐ出てきますが、藤壺に上がってはうるさくて物語が書けないから道長の懇願もほったらかしてさっさと実家に引っ込むくらい、仕事に対して真摯です。
だから物語の仕上がりぶりは帝をも唸らせるものが上がってきますが。
さて部下に顧みられない凡庸な上司こと中宮大夫の斉信は、暇つぶし兼顔見せに公任と共に藤式部の局を訪れる。さっそく、全然指示を聴かない部下たちの愚痴を藤式部につらつらと述べる斉信。ここで愚痴ってもしょうがないじゃないですか、藤式部は新人なのに。
そんな無駄な愚痴に、藤式部の新人としての切り返しぶりが素晴らしい。
「わたくしのような地味でつまらぬ女は、己の才を頼みとするほか御座いませぬ。左大臣様のお心に叶うよう精一杯励みます」
地味に自分の腕をアピールしつつ、謙遜する神業。
すごい。
そしてさらにすごいのは、「地味でつまらぬ女」は、以前打球(いわゆるポロ競技)の会に貴族の令嬢としてまひろが末席に参加したときのこと、あの時の雨宿りで、まひろが斉信と公任の会話を隠れて聴いていたことを踏まえてという設定。
あれはいつのことでしたか、第7回放送のことでした。台詞をそのまま引用します。
斉信・公任のまひろ評「地味でつまらない」「あれは無いな」「女というのは本来、為時の娘(=まひろ)みたいに邪魔にならないのがいいのだけど、あれは身分が低いからダメ」
斉信「左大臣家の姫倫子は、もったりしていて好みではない」「ききょう(清少納言)のことは遊び相手としか考えていない」
公任「俺たちにとって大事なのは恋とか愛とかじゃない。いいところの姫の婿に入って、おなごを作って入内させて、家の繁栄を守って、次の代につなぐ。女こそ家柄が大事だ。そうでなければ意味がない」
そして第33回放送の今回に至って藤式部と道長は、斉信と公任にいまの時点で完全に勝利しているんですよね。ものごとは勝ち負けが全てじゃないにしても。
道長は、公任の言う「家柄がよい姫」つまり宇多天皇のひ孫である左大臣家の倫子に婿に入り、願い通り娘を入内させ中宮の座につけた。居並ぶ公達のライバルの中で群を抜く出世を果たしている。(今のところ中宮彰子と帝の関係が道長の懸念であるとしても)
そして、藤式部はその道長に雇われるという形ではあるが、物語を執筆するという才能のみで出世し、地味でつまらない家柄の低い女でも見どころはある事を証明した。
それをサラッと笑顔で嫌味なく返す藤式部、さすがです。
そして何を言われたのか真意を全く分かってない斉信と公任。
凡庸な上司で部下の女房にあなどられたままで、出世も大納言とか中納言止まりで大臣まで進めない原因はですね、君たちのそんな詰めが甘いところにあるのだと思うよ、視聴者の感想としては。
女房の名前というのは藤式部も通称であるように、父上の官名等をもとにつけられたものなので、ここで登場した同僚たちを彼女たちの本名とともに整理しておく。
まひろと将来いちばんの親友になる小少将の君は源時子。倫子の姪。ドラマでは薄い藍色?の唐衣をつけている。中宮大饗の支度をしながら、藤式部のことを赤染衛門からきいて「まあ、お方様(=倫子)の学びの会にお若い頃出ていらしたなんて、学がおありですのねえ」と、まだなじんでない藤式部にも好印象を持っててくれそうな素直そうな品のよい人。笑顔が素敵。
これ以外の人は藤式部に冷たい(今のところ)。
大納言の君は源廉子。この人も倫子の姪。女房名はたぶん父上が大納言だから。えんじ色の唐衣。
宰相の君は藤原豊子。道綱の娘。桃色の地に細かい紋の唐衣。……ん????ということは、道長の娘である中宮彰子にとってはいとこ???というわけで、父上の身分によって主人と女房という厳格な差ができてしまうところが身分が全ての貴族社会の実態であった。
左衛門の内侍は橘隆子。桃色地に雲立涌紋ふうな織の唐衣をつけている。この人が何かにつけて藤式部への当たりが強く率先していじめてる印象。理由もなく何を恨んでるのだ。のちに藤式部が中宮の信頼を得るに及んで、女房としての自分の役割を奪われたことを根に持っていると密かに赤染衛門と語っていたが、それは単に逆恨みだ。それぞれ自分なりに誇りを持って中宮にお仕えすればよいではないか。
さて、宮中に出仕してくる女房にはいくつかのパターンがある。そもそも良家の令嬢は結婚する相手以外には、家族にも顔は見せないのが通例であるが女房としての職務を遂行するとそうも言っていられない。ではどのような場合に出仕してくるのだろう。
・良家のお嬢様タイプーー収入には関係なく宮中の作法などを身につける目的の行儀見習い
・零落した貴族タイプーー昔は父上の身分など高かったが収入が途絶えて就職してくるタイプ
・文芸枠タイプーー中宮彰子への家庭教師役、貴族との応対など宮中文学の最先端を担う例:まひろ、赤染衛門、和泉式部、伊勢、小式部内侍、大弐三位
今のところ藤式部が出仕したときには全員一番上の良家のお嬢様タイプしかいない気がする。
確かに斉信の愚痴も、あながち嘘ではない。確かに能率も何もあったもんじゃない。だって、邸の奥で深窓の令嬢として数多くの女房と使用人にかしずかれて育てられた姫君たちが、いきなりオフィスに就職することを考えてみたらよろしい。
どう考えても矛盾してる。
だって出かけるにも牛車(=運転手と付き人が何人もいるハイヤー)で、広大な庭園が拡がる自宅で管弦の宴(=オーケストラ生演奏会を兼ねた晩餐パーティ)とかやってるような邸で育ったのにですよ。いきなり、女房=側仕えの使用人として宮中に出仕しろと言われるわけですよ。で、中宮の世話とか公卿との接待とかいう雑用を任されるわけですよ。
制度のバグでしかないでしょ。
こんなので現場が回ってたとはとても思えない。
ちょっと、心の隅で斉信に同情しようかな?という気持ちが無いわけではない……
結論:
このような仕事のおぼつかない女房達による効率の悪い職場。
横行する陰口。陰湿ないじめ。
廊下に面した開放的な局は間口が広く、一人用とはいえ全く静かじゃなくて落ち着かない。何しろ一文字書くごとに何か周囲でもめごとなり事件じゃないにしても始終騒がしくてうるさく、全然書き進まない。
というわけで藤式部は意を決して宿下がりを願い出る。
あの静かな為時邸で庭の遣水のせせらぎに耳をすませば、物語は文字通り秒で仕上がるように思われた。見てる視聴者としてもこの辺じれったすぎて胃が痛い。実家でスラスラ書き進めてたころがつい昨日のように思われるだけに余計に。
しかし藤式部の出仕は最後の切り札として道長が斡旋しただけに、そうは問屋が卸さないのだった。
藤式部が藤壺に上がって一週間で早々に見切りをつけ、さっさと退出しようと道長に願い出るが道長にも言い分がある。
・藤式部が藤壺に常駐しててくれないと帝は藤壷に興味も向けてくれない。
・一人用の局で他の女房の倍の広さなのだから書けるはず
・なんなら完全個室の局を用意する
・この物語の執筆が成功裏に終わらないと俺は身の破滅なのだ
・伊周に対抗できるたった一つの策が、お前の物語なのだ
いままではまるで人の好い年おいた好々爺のように近づいてきたのに、ひとたび藤式部が少しでも意見するとこの勢いで反論される。おもわず藤式部は、
「物語への帝からの反響が不発に終わった場合自分の身柄はどうなるのだろう、もしかして粛清されるんじゃないだろうか?」
と不安が胸をよぎったらしいが、それは道長によってはっきり否定された。
そこで安心した藤式部は何か確信を得るものがあったのか、必ず新しい帖を書いて戻ってくることを誓ってまひろは実家へ下がった。
確かに桐壺の巻は帝に「自分の事を難じているようで腹が立った」と言わしめつつも、長恨歌などの唐の故事や仏教の思想を物語に織り交ぜるなど、「書き手の博学ぶりは無双と思われる」という帝の本音をも引き出すほどの出来であったことは特筆すべき。
もう藤式部の中では各登場人物が個性を持って動き出し、はっきりと展開の道筋も見えていたのかもしれない。なぜなら源氏物語の設定は非常に時系列も何代もの長きにわたり、伏線の張り方も複雑で通り一遍の構想ではこうも人々の胸に響く展開にはならないだろうと思うからだ。
物語は思いついたときに書かないと勢いを失う。
その通り。
藤式部は宿下がりの前の挨拶に中宮の御前に伺候するが、挨拶もそこそこに他の女房によって中宮とは御簾で隔てられ、意思疎通は遮断されたまま実家に退出していく藤式部。
ただ、藤式部には好きな色は青、好きなのは冬の空と周りの誰にも言わない本音をわずかにのぞかせて、そこに藤式部は中宮への内面世界にアクセスする手がかりを咄嗟の所で掴んだという手ごたえを感じているようだ。
宿下がりと、中宮彰子についての世論
さて、唐突に先触れもなく為時邸に宿下がりしてきた藤式部ことまひろを前に、驚く家族の面々。
涙の別れからわずか8日で?と訝しむ惟規。
いじめられたのでございますね?と勘の良いいと。さすが、為時邸の現役女房。
姫様がご無事でよかったと泣く乙丸。
大切にされてるなあ、このメンバーの前ではいつまでもまひろでいられるんだなあとちょっとほっとする。宮中があまりにも殺伐としているだけに。娘の賢子も女童として召し抱えるとの道長の案に、為時は宮中など権謀術数が渦巻く恐ろしいところだから子供が行くところではないとばっさり切り捨てていたが、確かに。あんな敵意の目と陰口しかない所で賢子は育てられないだろう。
しかし心配して惟規はまひろの部屋までやってくるのだった(といっても庭から目の前だけど)。まひろは高貴な姫君ばかりのところでいじめなんかあるはずがないと言い訳するがあまりにも説得力がなさすぎて白々しい。藤壺へ戻るかどうかもわからないと思いを巡らせながら豪語するまひろに惟規は苦言を呈し、「めんどくさいなあ姉上は、俺はそんな面倒な女には惚れないけどー」と軽口をたたく。
まひろも負けずに、「私も惟規みたいな殿御には惚れないですっ」と応酬することを忘れない。
仲がいいなあ、この姉弟コントいつまでも聞いていられる(* ´ω` *)ダイスキ☆
さて道長に宣言したとおり為時邸に下がった途端に次の巻はスラスラと書き進み、帚木帖はほんとうに秒で出来上がった。よっぽど藤壷の環境が落ち着かなかったのだろう。ある意味道長に気に入られたのはいいが立場が縛られ過ぎてかわいそうでもある、まひろ。
そして出来上がった帚木を、いとと惟規に読んで聞かせている。有名な雨夜の品定めの一部分らしい。
原文:(佐馬頭)又なのめに移ろふ方あらむ人を恨みて気色ばみ背かん、はたをこがましかりなん。心は移ろふ方ありとも、見初めし志いとほしく思はば、さる方のよすがに思ひてもありぬべきに、さやうならむたぢろきに、絶えぬべきわざなり。
ーーーーーーーーー
現代語訳:(佐馬頭曰く)それにまた、本心からではないが心を動かされる相手の女のあるような男を恨んで、その気持ちをあらわにして仲違いをするとしたら、これまたばかげていることです。男の心の移っていく他の女があったとしても、初めて会った時の(妻に対する男の)気持ちを(妻が)大切に思うならば、(かつて妻である自分に愛情を持っていたという)その点においての頼り処に思ってでもいられるでしょうに、そういうちょっとしたもたつきが原因になってついに縁が切れてしまうに違いないものです。(清水書院の参考書「源氏物語評釈」から)
ドラマのまひろの台詞をそのまま引用するとこうである。
【たとえ今心がふらふらしていても見初めあった当初の愛情から相手にすまぬと思う気持ちが男にあれば、頼りがいのある夫だと女は思ってもよいはずなのに、そんな風に気持ちのたじろぎから縁は絶えてしまうものなのです。】
個人的には、源氏物語は一文が長く、主語や目的語も推測するしかなく、修飾語もどこからどこまでにかかるのか解釈も難しく、古文の時間でも一番苦手でした。そこでつまづいたのでそれから人生の中で古典の国文学にはあまり親しんでこなかった経緯があり、いまだに原作はよくわからない。(あさきゆめみしで読んだから粗筋は知ってるが)でも年月が過ぎて今改めて読んでみると、登場人物の思い悩むさまやあはれという表現のしみじみとした情趣というのが昔とは違った見え方として捉えられるようになった気がする。
この物語は(諸説あるが)おそらく宮中のことを詳しく知っている層を読者に想定しているから、いちいち詳しい解説とかを省いていてそのため現代人が読むと分かりにくく感じるのかもしれない。
つまり同時代人が読む限り、ものすごくツボを突いていて大流行となったのはわかる。
さて、ここで姉弟コント第二弾。
惟規が言うことに「《うんうんと深く感じ入ったようにうなずきながら》おもしろいよ、それ!!!!!!!!! 数多の男と睦んだわけでもないくせに、よく書けるねーそんなの!?」
まひろ「睦まなくても書けるのよー」
惟規、姉上に対してあまりにもストレート過ぎんですか?もうちょっとオブラートに包んでくださいませ。数多くの男と関係したわけでもないのにって姉上に向かってあけすけにも程がありますww曲がりなりにも貴族なんでしょ、もっと奥ゆかしくなさってください惟規様www
「中宮様って、みんなうつけだって言ってるけどほんとなの?定子様はお美しく聡明な方だったって聞くけど、中宮様ってどうなの?」とぶっちゃけ話を展開してくる惟規に、まひろはあわてて反論するがどうにも説得力がない。
「うつけじゃありません、ちゃんと御意思はおありになるわ、奥ゆかしいだけ」
気軽な気持ちできいてきた惟規はまひろの剣幕にたじろぐが、まひろは世間の中宮様への意識と評価はこんなものなのかと暗澹たる気持ちになってくる。
《まひろの心の声:ちゃんと御意思はおありになるって言っても、それをどれだけ理解してあげられているというのだろう?ほんとに自分は中宮様の全てを分かっているのか?そんなわけない。》
まひろでさえこれなのに、帝にそして世間に受け入れてもらうことなどできるのだろうか?と前途多難な道のりに思わず眉をひそめるまひろだった。
武士の由来、興福寺の僧兵
ここで武士の話が織り込まれてくる。これは当時の公卿たちの当事者が多く日記に記録を残しているからできることである。
つくづく凄いんですよねこの日記とかいう記録。できごとが日時に至るまで1000年経った今でも特定できるほどの精度を誇り、しかも後世に史官によって書き換えられていないそのままの一次史料だから内容にも信頼がおける。
無いですよ?そんな精度で政治から貴族の日常生活まで多岐に渡る記録がしかも複数残ってる歴史の国って、なかなか。
伊勢神宮の所領を統治する役目への任官で、平維衡と同じ平氏の平致頼が武力で争った経緯について、道長は帝へ直訴してでも任官を取り消そうとした。帝へ直訴とは、左大臣の地位剥奪も覚悟の上の決死の上訴だ。
当時政治主導による社会福祉や医療制度は全くなく、権力も後宮政策による藤原氏の摂関政治が幅を利かせていたことを考えると政治に透明性も公平性も無かったが、しかし戦乱で常に庶民の生活が脅かされることはなく、ある意味では平和だった。上記の社会福祉のインフラが無かったから極端に庶民の平均寿命が短かっただけで。(当時そんなに医療とか科学の研究が進んでいたのはイスラム世界くらいのものなので、日本が特に遅れていたという意味でもないし。)
道長いわく
「武力による権力奪取を許していたら世の中はあっという間に戦乱が支配することになるだろう」
このときは結果的に平維衡は謝罪して淡路の守に任官されることで罪を許され、また平致頼は隠岐に配流され決着をみるが、しかし道長のこの発言は将来の予言を含んでいる。
つまりこのとき武力衝突を起こした伊勢の平氏はのちの武家、平氏の棟梁である平清盛の祖先なのだ。このときの諍いをうやむやにしてしまったことが、院政の台頭を経て武家政権への橋渡しの先駆となった(ちょっと言い過ぎか。)
そう、伊勢平氏は伊勢南部に位置する熊野水軍、また同時期に治めていた播磨の国の瀬戸内水軍といった強大な水軍勢力(=海運や操船術に優れた氏族、海賊ではない)を従えて後に瀬戸内海一帯の制海権を握り、清盛の代に兵庫の福原(=今の神戸あたり)に都を移して港を構え日宋貿易で莫大な利益を上げ、ついに政権トップに立つあの平氏の祖先です。

この揚羽蝶の家紋に見覚えありますよね、壇ノ浦で滅ぼされたとされる平家一門の紋です。(画像引用:伊勢平氏 - Wikipedia )
時代が行き過ぎた。
そこで隆家がそんなに遠くない未来を予言してこのシーンは幕を閉じる。
「朝廷も武力を持つという選択肢もありではないか」と。
しかしこの提案は荒唐無稽すぎて誰からも賛同されなかった。
これは隆家がのちの太宰府に任官中に刀伊の入寇に対して九州土着の武士団を指揮し侵略軍を撃退するという武功を暗示しているものだろう。
刀伊の入寇とは中国東北部の遊牧民族(たぶん女真族)が対馬や壱岐を経て九州北部へ攻め込んできた事件を指す。鎌倉幕府の北条氏時代に起こった元寇よりもはるかに早いこの時代、この事件以外にもたびたび中国北方民族は海を渡って攻め込んできたらしい。それに対し何で朝廷はこんなにのんきなのか、残っている記録も大した事件に発展したと記してないのはなぜか。
それはもちろん間に日本海を隔てていたことで、大規模な軍勢が十分な軍備と糧食を携えて攻め込んでくることが難しかったからということに尽きる。現に中国と陸続きの朝鮮半島は常に中国の属国として支配される運命に遇ってきた。
日本の防衛戦略は海に隔てられているという好立地を受けて、代々全くおざなりにされてきたといっていい。(この好立地は空軍と空母・大規模戦艦という、海を越えて攻め込んでくる手段が開発された近代になるに及んで突如有利な立場を失うのだが、それはここでは関係ないので省く。)
どちらにしても、朝廷が常設の軍隊を持つという施策はのちに軍事政権としての源氏による幕府創設という形で実現をみるが、ドラマの時代からは200年くらいずれている。
ここで土着の武士団とは別の武力集団についても史実をもとに語られている。
興福寺の僧兵である。
大和守 源頼親と、右馬允 当麻為頼の屋敷を興福寺の僧が焼き払うという、このときは道長は仲裁というか直訴を聴き裁可を下すという裁判官に近いことをやっているが、この僧兵もまたのちに政権を脅かす存在に成長する。
今回の係争は民事裁判に近いものがあり、興福寺のほうが歩が悪かったのか、僧たちは「筆頭の僧 蓮聖が公の法会に参加するのを停止」という条項を反故にしてもらう事のみを目的に京へやってきたようだ。
ほかの請願は興福寺に有利すぎて道長ははなから聞く耳を持たなかったが、とにかくお互いに痛み分けとして妥協点を探り合い、一応問題は解決を見て僧たちは奈良への帰途へ就いた。
※この僧兵は後にさらに強大な勢力となり、平氏政権のときにはっきりと反意を示すことで平氏からの侵略をうけ、東大寺や興福寺にあった奈良時代以来の宝物や立ち並ぶ堂宇はほぼ全て焼失の憂き目にあった。ただ東大寺の正倉院、転害門や二月堂などのわずかな建築物、また春日大社や斑鳩の法隆寺は戦火を免れて奈良時代の姿を今に伝えるに至る。これを南都焼打ち事件という(1181年)。
ただ、道長がこの僧たちを追い返した祟りなのか、その後斉信、また道長の兄道綱の屋敷が相次いで火事に遇うという災厄に見舞われた。災いの原因を祟りに求めて恐れ、祈祷して災いを避けようとしていた当時、こうした説はまことしやかに囁かれていた。
ただしどちらも大納言という位で別邸もほかにあり、路頭に迷うようなことは無かったらしいが、何らかの関連を疑ってしまう。他の公卿たちも枕を高くしては眠れなかったことだろう。
道長の焦り②と遠大な策略
さて第二巻の帚木帖を秒で仕上げて、為時邸への宿下がりから藤壷へ再び参上した藤式部。道長の検閲(?)も通って早速写本が作られ帝へ献上されたようで、桐壺巻の続きを待っていた帝は作者の藤式部に目通りを許す。
(このへんの帝とか中宮との対面がことごとく御簾越しで無いのとか、女房達が全然檜扇で顔を隠さないのは、サクサク進むドラマでいちいち顔を隠してるといつまでも視聴者が俳優さんの顔と役名が一致しないからという便宜上の都合ではあるだろう。
しかし当時の貴族の大前提として女性は結婚相手以外には、特に身分ある女性は御簾越しに相手に声を掛けるだけで姿を見せないものだったということを考えると、ドラマの演出には時々無理なものがあると感じるが、まあしょうがないと思って目をつむってみることにする。)
帝はいちおう第一印象としてなのか「最初は読んでいて朕の事を難じているのかと思い腹が立った」と述べるも、しかし「物語が次第に心に染み入ってきた、不思議なことだ。朕一人が読むには惜しい。写本にして皆に読ませたい。」との有難いお言葉があり、つまり結論として
「物語はせっかくの良い出来だからもっと続きをどんどん書いて宮廷や貴族間で普及させよ」
ということらしい。
ここで帝は白居易の「新楽府」からの一節を引用する。(これはまだ定子存命のころに帝の元へ伺候したまひろが奏上したという過去の伏線がドラマではあったが、たぶん史実ではない)
高者 未だ必ずしも賢ならず、
下者 未だ必ずしも愚ならず。
現代語訳:身分の高い低いでは、賢者か愚者かは計れない
これを当世の為政者に面と向かってまひろが奏上したというドラマの設定はなかなか反骨精神に富んでいて、場合によってはその場で反体制勢力と目されて現行犯逮捕とかその場で死刑宣告、悪くするとその場で切り捨て御免とか禄でもない結末しか思い浮かばない。このドラマの一条天皇はそこまではいかない穏健派らしいがそれでもひとこと苦言は述べている。
しかしそれを差し引いても、文学として出色の出来だから自分が個人的に楽しむ範疇を超えている、このレベルだと一世を風靡するであろう文化資産であり、皇室とかいう閉じた世界よりもっと一般社会に広めたい、という評価になったようだ。
※帝のセリフの引用元は白居易の新楽府の一節
澗底の松
高さ31メートル、十抱えもあるような立派な松が、寂しく低い谷底に生えている。
谷は深く山は険しいので人の行く道も絶え、老衰して枯死しても良材を求める大工の見立てに逢うこともない。
天子は明堂を建てようとして不足する良質の梁材を探し求める一方、谷底には松の大木が見捨てられたまま、両者とも相知ることはない。
造物主たる天の意図は測り知れないもの、この大木の松に材質だけを与え、成長する適地を与えなかった。
人の世も同様、漢の金や張湯は代々俸禄を食む名族の家柄であったが、
後漢の黄憲は賢者の評を得ただけであった。
獣医の子の黄憲は卑賤のままであったが、貂尾や蝉羽で飾った冠を冠した金や張湯は高貴な身分であった。
貂尾や蝉羽で飾った冠と獣医、この両者の間には身分の高下の違いはあるが、
高い位の者が賢者であるとは限らないし身分の低いものが愚者であるとも限らない。
諸君、ご覧あれ、人の目が届かぬ深い海底にあの美しい珊瑚が生じ、
はっきり見える天上にも白楡のようなありふれた樹木が植わっているのだ。
結論:
道長の目論見通り。
そして倫子のいう「帝に、中宮のお目の向く先へお入りいただく」ことは一旦成功する。なぜならこれを機に帝はたびたび藤壺へおいでになるので。
褒美の扇
帝から思いがけないお言葉をいただき、道長は藤式部が任務を無事完了したことに対する褒美を持ってきた。
しかも藤式部の局へ、自分で。
漆塗りの箱に入った立派な仕立ての檜扇。
絹の糸で束ねられた扇を藤式部がそっと開くと、それは金粉で飾られ繊細な大和絵が描かれた素晴らしい品であった。
いつの間にこれを作らせていたのだろう。絵師に依頼した立派な品であることは見ればわかる。藤式部の腕を見込んで早くから褒美の品として準備していたのであろうか。そこに道長から藤式部への全幅の信頼が感じられる。
ここで描かれていた場面、
ひとりの元服するかしないかの年頃の若い公達と、桃色の衣装に振り分け髪の幼い姫が川のせせらぎに遊ぶ図。空には雀が一羽舞っている。
それはドラマの第一話で、幼い頃のまひろが逃げて行った雀を追って、まだ三郎と呼ばれていた右大臣家の若君こと道長と川原で出会う場面だ。
(そこで幼いまひろは蒙求を諳んじて見せてナチュラルに無邪気に三郎にも続きを諳んじよと誘うのだwwww無理があるwwww)
この二人はドラマでは不義の恋を成就させることなく心の交流を続けているのですが(それを世間では妾というのですが)、史実はともかく、相手は正妻のいる左大臣で藤式部の思いは決して表立って言うことはできない。
そんな中で左大臣道長から「これからも、よろしく頼む」とだけ短い謝辞とともに下賜された扇を前に、藤式部は言葉にならない感慨を胸に抱くのだった。
優美な扇を介して二人にしか分からないモチーフによって心を通わせる二人。
ここに至って物語は俄然、少女漫画の様相を呈してきた。
(バリキャリ藤式部の出世ストーリーだったはずですが、おかしいですね?)
藤式部の万感の思いを胸に秘めた表情に、あふれる思いがとめどなく流れ出るような感慨を目に浮かべるようすに、誰もが心打たれずにはいられない。
このシーンだけは、静寂の中、誰にも邪魔されずに、正座して画面の前に座りたい。
藤式部と共に無言のうちに心の中でだけそっと落涙するという繊細な感受性を共有したいのだ。
その後道長はまたしても焦り出す。(焦り②のターンである。)
道長の新たな心配というかお題は、帝が中宮へお手も触れられないことだ。帝から妻として扱われないことには皇子の誕生は望めない。
物語に帝が関心を持って下さり藤壺へお渡りいただいてもそれでは意味がない。
このへんを見ていると、人間の欲求というものは限りないものなのだなとあきれ果てるが、しかし自分も同じ人間のため人の事は言えない。
まひろは道長の自己中かつわがままな相談を受けるが当事者の藤式部に言ってどうするのだ。他に誰にも相談できるような信頼できる人物がいないからだとしても。
そこでまひろが助言することには、中宮の気持ちが帝へ向けて開かれてないからだというのが精いっぱいだったようだ。
確かに帝の気持ちをいくら藤壺へ向けさせても、肝心の中宮が心を開いていないのでは意味がない。
さて藤壷ではワイドショータブロイド版ともいうべき噂話が横行していた。
この藤式部による道長のお悩み相談室を、同僚の女房達は道長の浮気と捉えているようだ。
藤式部と左大臣様はお親しそう?
足を揉む仲?
そのまんま事実じゃないですか!?
あまりにも皆さま勘が鋭すぎて、その通りなだけに見てて背中を冷たい汗が流れるというか、道長ののんきさにあきれるほかない。
噂に早く気づいてください、道長と藤式部のどっちかが。
中宮の意思と戸惑い
このあたりで、帝の言葉にもひたすら「仰せのままに」と述べるだけだった中宮彰子が徐々にではあるが自分の言葉で喋り始める。
1007年当時、19歳ごろ。
確かに入内した当時は11歳~12歳ごろ、そんな小学校六年生くらいの年頃から中学生にかけての子に何かしっかりした見識を求めるのがそもそも間違ってるのだ。その年齢から徐々に思春期に入って世の中の色々なことを見分し、経験しながら、まさに自我を形成していく時期の真っ只中だからだ。
そして中宮が藤壺で年月をかけて(母倫子が足しげく通って見守りながら)成長していく中で、その人格形成に大きな影響を与えたと言って間違いないのは、定子の遺児である敦康親王の存在だろう。
(彰子が入内した翌年、まだ2歳だった敦康親王の養育を藤壷の彰子に委ねることは、定子の面影を忘れられない一条天皇の足を藤壷に向けるための道長の苦肉の策だったのだが、そんな醜い政治的策略をよそに、12才違いの彰子と敦康親王はときに姉弟のように、またときに母子のように仲睦まじく成長していく。)
豊かな内面を有しながらも自己をどう表現していいか、その術を知らなかった彰子に敦康親王は素顔で接することで、彰子は徐々に感情を獲得していったように見える。
お手玉の時にとっさに機転を利かせてあらぬ方向へ投げ飛ばし、女房達の視線をそらしたその隙に親王様へお菓子をこっそり渡して笑顔を見せる彰子。
女房達に向ける、冷たいというより感情の波風が立たない無機質な視線は、敦康親王と話している時だけは全く影を潜める。
一緒にお菓子を食べていても彰子の表情は心底明るく、にこやかに微笑む。
藤式部に語ったように、女房達は彰子が薄桃色を好んでいると思い込んでいるが、彰子が好きなのは澄み渡った冬の空、青い色。
このような繊細で複雑な感性を内包している彰子は、それをどう表出していいかわからないだけなのだろう。
この感情をもてあまして彰子と帝はお互い距離の詰め方が分からないのだ。おそらく。
そして手探りのように、藤式部にコミニュケーションの手ほどきを依頼しにわざわざ女房の局まで足を運ぶ彰子。
事実ではありえないけど、しかし彰子の行き詰まりようを鑑みるに、いやいやあり得るかもと思ってしまう。
彰子の思考回路を紐解くに、
帝が何を考えているのかわからない
↓
物語に興味をお示しになっている
↓
私も読んでみた
↓
帝が物語のどこに感銘を受けられたのか、主人公の光る君は何をしたいのかさっぱりわからないから教えてほしい←イマココ
そこで藤式部が言葉で説明できるわけもなく、それは彰子が時間をかけて自分の中で解釈し獲得していくほかなかったのだ。
物語で語られていく、しみじみと帝の心に染み入るのあはれの表現、それは人から聞いて理解できるものではないだろうから。
曲水の宴
正月から時は経ち、1007年の3月3日、桃の節句。
土御門殿では中宮の懐妊を祈願して曲水の宴が催されていた。
懐妊祈願というと身も蓋もないというか現代人としては聞いて赤面するのだけど、当時は帝の妃の誰が皇子を産むかは政権の行方に直結する重大事案だったので、無理もないことかもしれないが。
(彰子の母倫子は第6子かつ4女の嬉子を産んだ後で難産であり肥立ちも悪かったようで、未だ床に就いておりこの宴に同席することは叶わなかった)
※どうでもいいですが倫子様は当時44歳、現代でも高齢出産の部類なのですが、このお産も何とか乗り切り、その後も彰子以下ほかの息子や姫たちも育て上げて長生きします。倫子の母穆子様から伝授されていた「大臣の妻の心得」として健康で長生きするというのは地味なようで大事です。なにしろ、両親を病気で亡くした中宮定子は後ろ盾を失い(兄の不祥事もあって)あれほど帝の寵愛を受けていてもなお内裏を追われるのだから。
さて、曲水の宴とは中国から奈良時代に伝わった貴族の遊びで、寝殿造りの庭園にしつらえた遣水に盃を浮かべ、流れのほとりに思い思いに公達が座って自分の所に盃が流れてくるまでに漢詩を詠むという趣向。庭園には唐風の彩色が施されたテントが設営され、雅楽が優美な音色を奏でる中、盃がこれも唐風の彩色の鳥をかたどった模型にのせられて遣水を流れていく。
何と華やかで風流な催しなのでしょう。
観覧にお出ましになった中宮彰子も華やかな雰囲気に気分も浮き立つのか、いつも無表情なのにこの日は心なしか笑顔が見える。
このセットも当時そのものと思うくらいリアル。
また、雅楽の楽隊がすごい。楽器もさることながら衣装もまた宮内庁の雅楽部に出演依頼したのかと思うくらいリアル。そんな訳もなく衣装はドラマオリジナルなんだろうけど、この宴を再現するに係るコストを合計すると、あの豪華な中宮の御座所の調度にかかるコストをも凌駕するレベルだったのかもしれない。
(放送から日数が経っているので公式サイトの解説を貼っておく)
をしへて! 佐多芳彦さん ~藤原道長が主宰した「曲水の宴」って何? - 大河ドラマ「光る君へ」 - NHK
そこで孫廂の隅っこのほうに、公卿たちと席を隔てて少ないスペースを奪い合うように、彰子付きや土御門殿に仕える女房達が公達の姿を一目見ようと我も我もと押しかけている。男性貴族が高貴な女性を一目見ようと御簾が風に舞い上がった瞬間とかを狙うみたいに、女房や姫たちもまた公達を間近で拝見する数少ないチャンスだからだ。
赤染衛門の夫、大江匡房の漢詩が読み上げられる。
「時人処を得て青苔に座し
酒を清流に汎かべて取次に廻る
水は瀉ぐ右軍 三日の会
花は薫る 東閣 万年の杯
波月を巡行するは明府に応じ
沙風に斟酌するは是れ後来なればなり」
赤染衛門も扇の影から夫の誉れ高い晴れ姿を眺めて、心なしか微笑み照れているようでもある。いつも威厳のある風采で落ち着き払った赤染衛門には珍しい表情だ。
藤式部が藤壺へ出仕した当初、赤染衛門は夫の事を「外に女を作って遊び歩いては帰らない日々が続いた」とかなんとか言って憂えていた気がするが、別に赤染衛門はここで夫の浮気を案じて微妙な表情を扇で隠しているわけではない。史実では彼らは仲睦まじく、世にも名高い鴛鴦夫婦として知られていたから視聴者の皆様にはどうぞ安心されたい。
と、そこで突如にわか雨に降られてあわてて東の対に避難してくる公卿たち。
彼らは若い頃からの仲である道長と膝を割って話すのは久しぶりという風に、宮中とは違った雰囲気で打ち解けて談笑している。
尊敬語も謙譲語も身分の上下も抜きにして。
このときばかりは昔の三郎だったころの道長と、まだ元服して間もなく赤い袍が取ってつけたようで半ば衣装に着られていた感のあった頃の面々に戻ったかのようだ。
それぞれがこの時ばかりはお互いの政治的立場を忘れて楽しそうに笑い合う。
あの頃はしがらみも利害関係もなく、ただ若さを貪っていたなあと思うと懐かしい。
そんな道長と公卿たちを御簾越しに眺めている彰子は、政治の駆け引きの場を抜け目なく泳ぎ切っている左大臣の父道長という顔ではなく、若い頃を取り戻したように笑う父の顔を見てちょっと意外そうにしていた。
何が意外だったのか。
道長の普通の表情、砕けた感情を出して気さくに笑う道長を見て、意外だったのだと思う。
彰子から見た道長は彰子が物心ついた頃からたぶん入内させることしか頭になく、入内したらしたで自分を中宮の位におしこめて、帝のお渡りがないとか帝は彰子に興味を向けてくれないとかそんなことばかりに心を砕いていて、ちっとも人間らしく見えなかったのではないだろうか。
このとき普通に談笑している父を見て「ああ父上もまっとうな人間らしい所があるではないですか」と感じたのではないか。そんなの普通の親子なら当然すぎて何ていうこともないが、それだけ道長は傍目に見ても切羽詰まっていただろうし、政権のトップに居ると何かと言動は浮世離れしてくるものだ。
この当惑した気持ちをどこにやったらいいのか分からなかったらしく、彰子は側の藤式部になにげなくつぶやいた。
このとりとめもない感情を藤式部は受け止めて優しく包み込むように導いている。
藤式部の言葉が彰子には新鮮且つ思いもよらなかったようで、当惑しながらも一つ一つ言葉をかみしめるように聞いてはうなずく彰子。
殿方とはみなあのように可愛いものにございます。父上と同じように。
帝も先程の公卿とそうお変わりないように存じます。
帝のお顔をしっかりご覧になってお話申し上げたらよろしいかと存じます。
帝も、ひとりの人間なのです。
この視点が彰子には今まで決定的に欠けていたのではないでしょうか。
だから何を言われても「仰せのままに」というだけだったし、少なくとも自分から帝に意見を言うこともなく無表情のままだったのだろう。
一人の人間として、帝と(それにもちろん他の誰とも)精神的に対峙できてなかったのではないか。
でも彰子に言わせればこう返事が返ってくることだろう。
「だってどうすればいいのか分からなかったし、誰もそんなこと教えてくれなかったじゃない」
そうですよね、学問とか知識は赤染衛門が入内前に指南してくださったし、藤壺に上がってからは数十人の女房たちにかしずかれて何不自由ない生活を送ってはいたが、だからといって誰も彰子の気持ちに正面から向き合って忌憚なく意見してくれる人はいなかったということだ。
彰子自身がそれに気づかないと問題は解決しなかったし、ここに至るまでには必然的に時間が必要だったとも言えるだろう。
これで今まで全て噛み合わずに狂っていた歯車が噛み合い、ようやくゆっくりと回り出した気がした。
この様子を彰子の居る東の対から曲水の宴の会場を隔てて、反対側の寝殿から遠く見守っている人物がいた。
道長だ。
道長は財政的に、また政治的コネクションを駆使して藤壷での中宮彰子の立場を全面的にバックアップはできたが、しかし人間としての彰子の本音をフォローすることは父親にはできなかったことのようだ。
母親の倫子も足しげく藤壷に通い詰めて側に控え、お話相手に遊び相手にと心を砕いていたようではあったが、しかし倫子も親として彰子の気持ちに近づきすぎたのか、やはり本心を見抜けていなかった部分はあるだろう。
そういった親には決して分からない中宮の本音を藤式部が引き出してくれたともいえる。
あるいは時間が解決するしかなかったのかもしれないこの中宮彰子の変化を藤式部とのやり取りに遠目ながら感じている道長の表情には、万感こもったものがあって見ている視聴者としても涙がこみ上げてくるのを禁じ得ない。
苦笑しているような、嬉しいような、悔しいような、肩の荷が下りたかのような、すべてがない交ぜになった複雑な顔。
(想像上の道長の心の声:
藤式部、自分には逆立ちしてもわからなかった彰子の心を優しく導いてくれて受け止めてくれて、ありがとう……俺一人では絶対に無理だっただろうなあ……)
しかし自分はテレビ画面を見ながら心に言い聞かせる。
道長、焦っては駄目だ。
これで解決ではないからだ。
こうした小さな一歩にも見えないような進歩がやがて大きな一歩になるということを忘れるでないぞ……
しかし道長は焦るのであった。(たぶん宮中の誰の忠告も耳に届いてないぽいな)
中宮様の藤壺に帝はお渡りになるがいまだ中宮に手も触れられない。藤式部の物語には興味を持ってくださったが興味は中宮様に向けていただきたいのに。
そんなこといっても事態は動かないのだが、平安貴族は災害があったり、また行き詰ったりすると神仏に祈祷するという習慣になっていたようで、道長はここで一発逆転を狙ったのか金峯山寺に参詣することを思いつく。
一発逆転とかいう身も蓋もないワードは(懐妊祈願の曲水の宴に続いて)絶対に使いたくなかったですが、道長の行動がもう身も蓋もないのでこういった表現をせざるを得ない。
帝にとって最愛の后である定子を亡くした傷はそんなに短期間で癒えるものではない。
道長は彰子が入内すれば勝手に帝は興味を向けてくれて都合よく皇子を懐妊してくれるとでも思っていたのだろうか?そんな発想は短絡的過ぎるという事実に道長は気づいてきたらしいが、やはり帝のお渡りもない中宮なんて寂しすぎる。
人としてこの事態を放置しておけるわけがない。
道長はなんとか現状を打開したかったのではないか。
そして長男の頼通、妻の明子の兄俊賢らと多数の供人を同行させて金峯山寺に向かった。
これが(事前の100日の潔斎期間を経て)1007年8月の頃。
真夏の事で陽射しも厳しかっただろうし、さらにレインコート代わりの雨着、油単(ゆたん)のような上着はあったとはいえ悪天候でも足を止めずに進む道長の一行。
帝は藤式部の局を訪ねて、源氏物語を執筆したきっかけについて忌憚ないところを話し合うのだが、道長の御嶽詣での動機について疑念を持たれていた。
藤式部は
「道長様が願われているのは中宮様の女としての幸せなのではないかと存じます」
「親が子を思う気持ちに偽りはない、それだけでございましょう」
という趣旨の返答を以て解の一例を示す。
確かに子のためなら親は命をなげうっても惜しくない。
それだけ、わが身を犠牲にしてでも子のために尽力したいと思うのが親心。
身を粉にして働き、また神仏に祈ってでも親は子の幸せを願うものだ。
この道長の決意、帝には冗談にしかとらえられていないようで、御嵩詣でと聞いて帝は「まさか!???」と本気にしていないようだが、しかしそのような常識では考えられない行動力を発揮するのもまた、人の親ならではだ。
たとえば石山寺は貴族が数多く参詣し崇拝を集めた名刹で、琵琶湖のほとりに建つ風光明媚な立地から女性の貴族にも人気を集めていたようだ。
しかし御嵩詣では、同じ神仏に祈りを捧げる行為とはいえ、石山詣でや、また権力者としての左大臣道長が自邸で得を積んだ高僧に祈祷させたりするのとはわけが違った。
吉野山の金峯山寺は修験道の聖地であり、山岳信仰の中心地として有名だ。つまりわかりやすくいえば山伏などが修行を行う場である。特に金峯山寺は桜で有名な吉野山の中腹から山上にかけて多くの堂宇を構え、霊験あらたかな寺として有名だったようである。
自分が知っている貴族の寺社参詣といえば、石山詣でや長谷寺、室生寺などに物見遊山も兼ねて旅行がてら参篭に出かけるという意味か?と思ってドラマを見ていた。
だって、亡き宣孝様が金峯山寺に御嵩詣でから戻られた時は、地味な衣装で参詣するものというセオリーを破って奇抜で派手な色目の襲でウキウキしていたので、「テーマパークに出かけるみたいな楽しい旅だったのかなあ?」くらいにしか思っていなかった。
しかしここで道長の道程を実際に見て度肝を抜かれた。
道長の行程を見るに、この参詣を乗り越えれば、どんな願いも成就しようというものと思うくらい厳しいものであったことが見て取れる。
視聴者の誰もが息を呑んだであろう、空前絶後の断崖絶壁。
命綱(藁だけど)を頼みに、滑落寸前のなか、死中求活の覚悟を以て道長は一歩また一歩と道なき道を踏み越えていく。
嶮しい崖に穿たれたわずかな幅の獣道のような道。
土砂降りの雨の中をも油単の衣をまとって雨宿りもせずに道なき道をかきわけて進む。
仏のご加護があったのか、修験道の行者のような白装束の衣を身にまとった道長は、どうにか山頂へたどりついて経典を金峯山寺に納めていた。
この金峯山寺への道がどのくらい嶮しいものだったのかというと、現代は吉野山へ登るためとはいえロープウェイがあるくらいで、普通の人の足で登れるものではないらしい。しかもそこは山頂ではなく、修験道の行者はさらに上を目指したらしく、どういう行程での登山になるのか、まさに想像を絶する。
現在に至るまで修験道の道場として息長く信仰を集めている所以である。
人の足が立ち入るのを拒んでいるかのような深い森。
人智を超えた神仏が住まう空間で経験に祈りを捧げる道長の表情に、思わず見ていて画面のこちらでも僧の読経を一緒に口ずさんでしまうのだ……
伊周と隆家の和解そして訣別
中関白家は995年道隆が亡くなってからあと、加速度的に凋落していく。
この原因としては、伊周との熾烈な権力闘争の末に内覧の宣旨を得てついに頂点に立った道長の意思が、陰に陽に働いているというのが自分の持論だ。もはや道隆が居なくなった以上、庇護を手厚く受けていた中関白家という存在は淘汰され排除される運命にあるのだ。
このあと歴史は道長の思惑通りに回っていくことになる。
敗者は歴史の叙述すらも塗り替えられ、記憶と印象は意図的に操作され、勝者によって悲観的な観点から語られるのは古来のから代々語り継がれてきたことだ。
996年の長徳の変に始まる伊周と隆家の左遷に始まり、定子の落飾、二条宮の邸宅の全焼、道隆の妻貴子の死など、目に見える形でみるみるうちに没落していく中関白家。帝の肝入りで伊周は再び官位を取り戻し公卿の座への復帰を果たすが、元の栄華を手にすることはついになかった。
このような抗えない情勢の中で、なりふり構わず死に物狂いで復権を模索する伊周。
それに対し隆家はより冷静な視点で情勢を見極めているように見える。
道長の一行が御嶽詣でに出立することを見届けて、伊周の一党が良からぬ企ての打ち合わせに余念がないところに隆家が何気なく酒を持って立ち寄った。
伊周は我が身を滅ぼしてでも、差し違えてでも道長を破滅に追い込もうと執念を燃やしている。
隆家はそれをみて文字通り自らを犠牲にしてでも止めようとしているのが、酒を口実にしたさりげない声かけひとつにも感じられた。2人の心情はもう止められないとろこまで追い込まれているのかと思うと見ていて痛ましい。
そしてこの隆家が抱いていた懸念は実際に未遂事件に発展した。
金峯山寺に登頂を果たし険しい山上の堂宇に経典を納めて、無事祈祷を終えて下山する道長一行を狙って伊周と平致頼が崖から弓矢で狙う暗殺計画が遂行されようとしていた、まさにその瞬間を間一髪で隆家が妨害したのだ。
ただ従者たちから見れば、隆家は落石の危険を予見して道長に張り付き、無事に誘導したに過ぎないが。しかし隆家が邪魔で伊周一行は弓で狙うことができず、早々に撤退せざるを得なかった。
ーーーここで勝手に回想モードーーー
※道長暗殺計画を伊周から命じられ請け負った平致頼って、この記事のどっかで見ましたよね?どこでしたっけね?書いてて分かんなくなったので調べましたwwwww道長が伊勢平氏の武力衝突で両者を遠国配流にして断罪した事件で、平維衡(子孫に平清盛がいる)と共に名前だけ出てきてたんでしたね!そんなの覚えてませんでしたwwwww
つまり、隠岐に流罪になっていた平致頼が1001年に都に復帰してからあと、この暗殺計画要因として伊周は彼に接近したことになる。
目的の為なら手段を選ばない伊周。
劇中で伊周はたびたび道長を呪詛する場面が出てくるが安部晴明と違って彼にそんな霊力?があるとも思えず、必死に祈る様は滑稽ですらあるが、しかしこうして実際に道長に危害を加えようとするさまを見ると、俄然危機は現実味を帯びてくる。
伊周は嫡男の道雅に期待をかけるも、逆にうさんくさそうに、そして迷惑そうに白い目で見られる。伊周の北の方が道雅をたしなめるが道雅の意見がもっともだと思う。復讐に生きる人生は非生産的で虚しいものだよ、と言わんばかりの道雅の無言の視線が伊周に冷たく突き刺さる。
ーーー個人的な回想モード終わりーーー
ここにきて伊周は平致頼を実行犯として使ったとはいえ殺人という犯罪に手を染めようとしたことになるのだが、かくして隆家の尽力により伊周が罪人となることは免れた。
そして吉野山の沼のほとりでまるで身投げする前の独白かのごとく、兄弟は積年の胸の内を晒し合う。
理不尽な見えない権力の圧についに屈しようとする中関白家。
ふたりの台詞の端々に、しみじみと彼らの悲哀の運命を噛み締めるのだ。
《伊周》
あの花山院の誤射から何もかも狂い始めたのだ。
私はお前を恨んではいない。
しかしなぜ今なのだ。
ここまで邪魔をするとは隆家は俺の仇か?
《隆家》
兄上を大切に思うゆえ阻んだまで。
道長を亡きものにしたところで何も変わらぬ。
おとなしく定めを受けいれて、穏やかに生きるのが兄上のためだ。
(嫡男の)道雅も六位の蔵人になったばかりではないか。
俺が花山院の御車を射たことで兄上の行く末を阻んだことは、昔も今もすまなかったと思っている。
それゆえに 憎まれても兄上を止めねばならぬと思ったのだ。
これが俺にできる、あの過ちの詫びなのだ。
このドラマ、見どころが名言だらけで胸をえぐられる。伏線の張り方といい、脚本のすばらしさに脱帽する。
空蝉と夕顔の帖へのそれぞれの世論
さて、宮中では藤式部の書いた物語は第3帖のいわゆる空蝉までできあがり、内裏の女房や貴族たちの間に写本が広まってたいそうな評判となっていた。
この当時まだ日本では印刷技術はない。紙でさえ貴族にとっても貴重品だった時代である。そのため、枕草子やこの源氏物語、竹取物語や蜻蛉日記など人気の読み物は写本になって流布するのが常であった。つまりわかりやすく言えばクチコミです。マーケティングの基本として信頼できる人からの勧めは、購入したり読んだりして見たいと思う動機の有力な後押しです。その辺の看板とか広告よりも。当時写本しか手段がなかったとはいえ、出版物が広まる契機としてこの写本つまりクチコミはもっとも古典的かつ確実な拡散手段として(貴族の間だけではあるが)確立していたといえる。
この物語という手段を使って道長が藤式部に書かせ、帝の気持ちを振り向かせようと(そして世に広く評価されようと)したのは実に慧眼であった。
なぜなら藤式部の物語は(帚木の帖までの内容であったにも関わらず)帝をして「自分だけが読むには惜しい、皆に読ませたい」と仰せにならしめた傑作だったからだ。
このような作戦が奏功したのは当時の(貴族の間だけではあるが)識字率の高さも要因に挙げられるだろう。
以下、個人的なつぶやき……
貴族を含めても、同時代のヨーロッパでは識字率は10%以下だった。そのため式典とか儀礼は誰にでも視覚に訴えられるだけのインパクトある簡潔な形式が求められた。また唯一の文字媒体である聖書の写本は美麗な挿絵やフォントで装飾的に装丁され、しかも紙はまだ知られてなくて、羊皮紙に書かれた聖書や聖人の伝記はもはや高価な宝物として王侯貴族が所有するだけで人々に広く伝播させるのが目的ではなかった面もある。
対して同時代のイスラム世界は識字率ほぼ100%で、古代ギリシャ文化から古代ローマを経て古代の知識を受け継ぎ、また科学的な見識も非常に正確で現代にまで通じるものがあった。哲学、数学、医学、化学、天文学など幅広い分野で高い水準を誇った。彼らはアルカリを知っていて、また麻酔薬を操り外科手術を行い、火薬を開発し、そして天文学の研究から操船術に長けていて貿易商人は自由にインド洋を行き交った。
中国も古代から識字率は高く、科挙によって身分を問わず有能な者を登用する制度があったことはまひろも若い頃から憧れていた通りである。
これを踏まえれば当時日本でも(貴族だけとはいえ)識字率が高く和歌や漢詩、そして物語を通じて文化に親しむ気風があったのは特筆すべきことかもしれない。
さて、帝の仰せの通りに藤式部の手を離れ、意図とは別の所で(貴族が読むことだけを前提にだけど)広く普及した読み物としての物語は、読者がそれぞれの立場で登場人物に自らを投影してリアルに楽しむことのできる画期的な仕様であった。
そもそも当時の公的な文学としては漢文や漢詩が正式なものとされており、公文書も全部漢文で書かれていたなかで、仮名文字の和歌そして物語などは一段下のカジュアルな存在と目されていたらしいが、ここにきて藤式部は帝のお墨付きをもらったことで物語のそして仮名文学の新たな境地を開拓したと言えるだろう。
クチコミレポ
公任の場合
四条宮で妻の敏子と空蝉の帖を音読しながら、酒を飲み直衣の襟元をくつろげて談笑する公任。敏子は昭平親王の娘とあって高貴な姫であり、おっとりと奥ゆかしい言葉遣いにもどこか品が感じられる。ふたりが読んでいた空蝉の帖は、
『光る君が思いを寄せる受領の娘の空蝉のところに夜ひっそりと忍んでいくと、薄衣ひとつを残して逃げられていて、代わりの姫(軒端の萩)がそこに寝ているだけだった』
という部分であり、公任はこの浮気者の光る君の言動を妻に「あなたにそっくり…ww」と言われて開き直り、「俺はこのような間抜けな立ち回りはしない、もっとうまくやるものだ」と居直る。
(ヾノ•ω•`)イヤイヤイヤイヤ!
もっとうまく立ち回ればいいんですか、公任様?そういう問題ですか?公任様みたいな当代きっての秀才イケメン貴公子様に言われればそうなのかもしれませんが。お姿がまぶしすぎて正論に聞こえてきます……
というか当時の貴族は正妻に妾が4~5人とか普通でしたし、いいのか………?
いや、光る君には当時左大臣の姫である葵上という正妻がいたし、しかも葵上は妾であった六条の御息所の生霊が取り憑いて亡くなるし。
よくない。
やっぱりあっちこっちに気安く妾を作って気まぐれに手当たり次第通うのはよくないのだよ。
ねえ?
正妻の倫子がありながら、昔からのよしみとかいう言い訳でまひろと六条の廃邸で密会するという公開できない間柄だった道長様?なんか言い分ありますか?おおっぴらに妻として迎えればよかったのに、ねえ?え???まひろに拒否られた???知りませんし。この六条の廃邸って言う設定が六条の御息所の生霊をオーバーラップさせてきます。
行成
この空蝉の帖を順に音読していくという流れで登場する公任だが、彼は道長に終生ついていく竹馬の友というキャラからなのか、当時妻も子もいたと思うけど、その姿は思慮深く、すっきりした白地に金の紋様の直衣を着こなしてゆったりと邸内を歩くのみ。
当時すでに能書家として有名だった彼ならではの落ち着いたシーンであった。
斉信
打って変わってあちこちの女と浮名を流していたことで有名な斉信。
確か定子様ご存命のころは、宮中でききょうとあやしげな関係にあって言い寄っていたし。初めて登場したシーンで宮中の宿直の場面、公任と道長と3人でそれぞれ語っていたところで、
公任「姉上の女房と文をやり取りしているが、筆跡は麗しいのだが顔がダメ」
斉信「そうか~やっぱ顔は大事だよな~俺は、左大臣家の倫子様に文を贈ってるんだ」
公任&道長「おお~~、左大臣家の倫子様!」
って流れだったと思う。公任は相変わらず昔からイケメンにしてプレイボーイだったらしく、斉信も負けずに女君のところに通っていたらしいがちゃんと将来を見据えて結婚相手を模索していたらしく文を贈っていたのが、左大臣家の姫倫子。
この展開で、倫子に求婚してオッケーもらえたのが一番出世が遅くうだつの上がらない道長で、結果こんなに出世というか権力の頂点に立つとは誰が思っただろうか。
道長なんて倫子に求婚した時点でもう20才だったのにまだ正五位下、蔵人・右兵衛権佐だったんですよ?(この口調、当時の舅だった左大臣源雅信の台詞そのまんまです)
話がそれた。
そんな出世しようという意欲もありまた女好きであもあった斉信が、単衣=寝間着姿で女君の膝枕で物語を読む……誰だ、斉信に膝を貸し、同じ単衣姿で浅からぬ関係にありそうな、斉信にしなだれかかるこの女君は???
誰・・・???
中宮彰子の女房、小少将の君????顔が似てるけど…気のせい…じゃないな。
(ヾノ•ω•`)イヤイヤイヤイヤ!
斉信、あなた定子が栄華を誇ってたころはききょうに手を出して言い寄ってたのに、今度は中宮彰子の女房で藤壷きっての美人と呼び声高い小少将の君と関係を持ってるんですか?
どんだけ手が早いんですか?
後宮の女房はいずれも父が高い身分の生まれのお嬢様揃いで、言い寄れば妾として召し抱えれそうな身分ではあるかもしれませんけど…?
このへん、男女関係がフリーというか江戸時代みたいに儒教の教えから貞操を厳格に守るのが女の美徳とかいう概念がないので、とくに女性が自由に生きてて登場人物がみんな輝いてて面白い。
また話がそれた。
こうした日常のくだけた関係で一緒に楽しむ読み物、タブロイド紙とか今でいえば週刊少年誌とか、アニメを一緒に見て楽しむ感覚だろうか。それとかNetflixを家でホームシアターにして楽しむとか、そういう感じ?
それほど物語の筋、設定、登場人物、全てにリアリティがあって惹きこまれるものがあるのだろう。
いやまじで、斉信の相手の女君は誰なのでしょう。
こんな単衣で登場するからにはただの関係ではなく、しかも袿の装束ではないことからきちんとした正妻でもなさそう…?(正妻なら敏子みたいな昼のシーンで登場しそう)
ところで、空蝉の帖で今回読み上げられているシーンを原文と現代語訳で引用します。
いぎたなきさまなどぞ、あやしく変はりて、やうやう見あらはしたまひて、あさましく心やましけれど、「人違へとたどりて見えむも、をこがましく、あやしと思ふべし、本意の人を尋ね寄らむも、かばかり逃るる心あめれば、かひなう、をこにこそ思はめ」と思す。
かのをかしかりつる灯影ならば、いかがはせむに思しなるも、悪ろき御心浅さなめりかし。
やうやう目覚めて、いとおぼえずあさましきに、あきれたる気色にて、何の心深くいとほしき用意もなし。
世の中をまだ思ひ知らぬほどよりは、さればみたる方にて、あえかにも思ひまどはず。
我とも知らせじと思せど、いかにしてかかることぞと、後に思ひめぐらさむも、わがためには事にもあらねど、あのつらき人の、あながちに名をつつむも、さすがにいとほしければ、たびたびの御方違へにことつけたまひしさまを、いとよう言ひなしたまふ。
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衣を押しやってお寄り添いになると、この間よりは大柄のようにお感じになりましたけれども、お気づきなさらない。
目を覚まさない様子などが、妙に違っていて、どうやらそれとおわかりになって、意外の失錯に興もお醒めになりましたが、「人違いをしてまごまごしていると見られるのも愚かしく、この女が変だと思うだろう、今となっては本意の人を追い廻しても、こうまで逃げ歩く心でいるものを、望みが叶うはずもなく、さぞかし愚か者と思うであろう」とお思いになります。
「これがあの火影で見た可愛い人であるなら、ままよ、どうなるものか」とふとそんな気におなりになるのも、日ごろの悪い浮気心のお癖なのでしょう。
こちらはようよう目が覚めますと、思いもよらぬ有様に驚いた様子で、何の心構えも、しおらしい嗜みもありはしません。
でも、まだ男女の仲を知らないわりには、洒落っ気のある方なので、そう初々しくうろたえはしないのです。
光る君は自分だとは知らせまいとお思いになりましたけれども、どうしてこんなことになったのかと、もしこの女が後から静かに考えた場合、ご自分は差し支えないにしましても、あのつれない人がむやみに世間を恐れるのがさすがに可哀そうなので、度々の方違えもあなたに逢いたさの口実であったというように、うまい具合に取り繕ってお話しになります。(谷崎潤一郎訳 源氏物語一巻より 空蝉 中公文庫)
確かに読んでて、滑稽さに思わず笑いを誘わずにいられない場面。
内裏の女房達
宮中の廂に出てみんなで読み合ってる。写本もそうだが、このころの物語の流布としてはこうした回し読みが一般的だったかもしれない。
嫁入り道具として源氏物語一式が広まるのは江戸時代?ごろからで、当時リアルタイムで連載物語として読んでいたひとたちは、新刊が出るたびに、こうして読み合っていたのだろう。
貴族の中でも宮中の応対などで女房が一番世間を知っているし、実際の公卿の様子から、物語の中に理想の人を重ねたり、あるあるな場面を思い出して笑ったりということが一番ありそうな読者層である、後宮の女房は。
彼女らは出身こそいいところの深窓の姫君であるが、上記の藤式部の職場:藤壷の項で書いた通り、宮中の女房とはバリキャリであり当代きっての才媛が集まる所でもあったから、こういう最先端の文化にも当然敏感であったと思われる。
そして男たちの浮気癖も宮中でいれば嫌というほど見てきたであろうから、この帖の光る君の言動を一番身近に感じて笑ったのは彼女ら女房かもしれない。
この最後の一文を読んでいた女房が、見慣れない登場人物だなと思っていたら、Eテレの夕方幼児向けアニメでおなじみのおじゃる丸の声優さんだったらしい。おじゃる丸には長年お世話になったが、ここで女房装束で出てこられると全く分からなかった。女房としての役作りで喋るから当然なのだが。
だってあの声=幼児っぽい男の子、というイメージがあるから。
本当に役者さん、声優さんの仕事ぶりには驚くばかり。
若紫の帖と、不義の子というテーマ
金峯山寺から命からがら帰還した道長は、中宮彰子に祈祷の護符を献上した。
中宮さまをお守りくださいますようにとの願いをこめて。
これぞ藤式部が語ったところの「命に代えて子を守る気持ちこそ、親心」。
中宮もこの御嵩詣での道中は険しいものと知っていたのか、心からほっとした表情で「おつつがなく、何より」とあいさつを受け取るのだった。
そこへ乱入する敦康親王。5~6歳のころよりいつしか背も成長して表情も頼もしい。
「左大臣が留守の間、私が中宮様をお守り致したぞ」
この敦康親王を、中宮彰子も親王を目に入れても痛くない可愛がりぶり。それもそうだ、敦康親王が2歳ごろからずっと藤壺で養育してまるで姉弟のように育ってきたのだから。
道長も敦康親王の成長を目を細めて喜んでいるようであり、当初の「一条帝が定子から少しでも藤壷に興味をむけていただくように」との政治的思惑などとっくにお忘れになっているに違いない、お忘れになっているといいな……(願望)
そしてドラマは物語と同様に若紫の段に進む。
道長からの褒美の扇を眺めていて、そして廂の階に停まる雀を見て若紫の段を思いつく藤式部。この設定はドラマオリジナルだろうけど、とにかくこの段で後の光る君の妻、紫の上が登場する。
「雀の子を犬君が逃がしてしまったの、伏籠に入れておいたのに」と、大層悔しそうにしています。
と、有名な紫の上登場のシーンが藤式部の声で、ナレーションで流れる。
ドラマをご覧の方はお分かりですね、第一話見てご存じかと思いますがまひろが雀を逃がして追いかけるシーンはこの若紫が伏線です。
このあと紫の上を養育していた祖母の尼君が亡くなり、光る君の屋敷に誘拐同然にして引き取られる様子が若紫の帖では書かれる。
しかしそれと同時進行で光る君と藤壺女御の不義の関係もえがかれていれる。この関係の結果生まれる設定なのが後の冷泉帝という筋書きである。
この辺からドラマの伏線だろうなとしてはっきりわかるのが、上記の敦康親王の行く末と、この「不義の関係」というテーマである。この点を意識しているとこの先の展開がよりいっそう胸に迫ってくるのである。
源氏物語の伏線の入れ方も人間関係を現実の社会のように緻密に組んでいてリアリティに驚くが、このドラマもフィクションと分かっていてもなまじ否定できないグレーゾーンであるだけに「あったかもしれないなこういう事も」と思ってみると、より現実みが迫ってくる。
いいですか?
このドラマでは、藤式部と道長は単なる使用人(女房)と時の権力者左大臣という立場での不義の関係であり、産まれた子が賢子であるという設定です。
このあたりから、まず真っ先に同僚の女房に関係を気づかれます。というか疑われますが、事実なので気づかれるという表現が適切です。特に左衛門の内侍に気づかれていると思います。
出てくるシーンが、お互いの目線が、セリフ回しが、位置関係が、どこからどう見ても夫婦です。
道長に言わせれば中宮様をお支えする者同士、物語を武器に戦った歴戦の猛者同士で労い合っているのだとでもいうのでしょうが、誰がそんな綺麗ごとを信じるのでしょう。
ではふたりを夫婦という目線で今後見てみよう。
金峯山寺から帰還した道長が局へ挨拶に来る。その 帰還を心から労う藤式部。まず道長が下人の使者を立てるでもなく直接女房の局などという裏方に現れるはずがない。普通は女房たち皆に参詣の土産が一律に振舞われる程度のはず。その道長を心底心配したふうに藤式部が気遣うが、この金峯山寺から帰還して真っ先に登場するはずなのは土御門殿の倫子様です。道長を信じて一日千秋の思いで待っているであろう倫子様とのシーンはないんですか?
このドラマはどうやら不義の関係を公認して激推しする方向のようです。NHKとしてそれはいいんですか?当時が一夫多妻制だったからいいんですか?でも藤式部も当時夫がいたから賢子はW不倫の子という設定ですけどNHKとしてそれはいいんですか??
とにかく道長は物語の進捗状況を心配していたという設定のようだ、物語をオーダーしたマネージャーとして、またスポンサーとして。そういう事情にしたいようですから、一応視聴者として付き合うことにしましょう。
いやいや、藤式部を召して御簾越しにでも新しい帖を納めさせて作者からの口上を聴けばよかっただけなのですよ、道長様。
とにかく道長は帰るなり物語の新しい帖、(夕顔の帖から進んで)つまり若紫の帖を読む。
「逃がした小鳥を追いかけていた頃のお前はこのように健気ではなかったが?」
「うそはつくし?作り話はするし?」(まひろは出身を帝の姫といって偽っていた)
「とんだ跳ね返りものであった……」
などと軽口をたたくふたり。
そして不義の密会を描くにあたってビジュアル的に藤の花の開花のスローモーションが流れ、藤壺の宮を暗示していて趣深い。
「こうしてお会いしても、またお会いできるとは限りません。夢の中にこのまま消えてしまう我が身でありたいと咽び泣いている光君のお姿もさすがにいじらしく、世の語りぐさとして人は伝えるのではないでしょうか。類なく辛いこの身を覚めない夢の中のこととしても、と藤壺の宮が思い乱れている様もまことにもっともで恐れ多いことです。」
※原文から、この部分で詠まれた光る君と藤壺の宮の和歌を引用する。
見てもまた 逢ふ夜まれなる夢のうちに やがてまぎるるわが身ともがな
世がたりに人やつたえん たぐひなく 憂き身をさめぬ夢になしても
ここではっきり不義の関係が登場している。
脛に傷のありすぎる道長は、後ろめたいのを通り越してまるで藤式部が告発するスクープの発表会見でカメラのフラッシュを浴びてうなだれる芸能人のよう。そして追いつめられた罪人が観念したみたいな死んだ魚のような目を藤式部に向け、絞り出すような声で呻く。
「これはどういう心づもりで書いたのか?」
しかしここで追いつめられたと観念さえしてそうな道長だが妙に落ち着きがあって、そこがさすが左大臣、バレたとわかりきっていても顔色にも出さないところがさすが一流の政治家(別に褒めてない)。
ここで藤式部が本領を発揮するというか、罪人にしても脛に傷のある芸能人にしても藤式部のほうが役者として千枚上手であった。
罪であっても芸の肥やしにする。
さすが、あっぱれである。
肝の据わり方が尋常ではない。
「我が身に起きたことは全て物語の種にございますれば。
ひとたび物語になってしまえば我が身に起きた事など霧の彼方、まことのことかどうかも分からなくなってしまうのでございます。」
この藤式部の覚悟を前に圧倒される道長。
そこで道長はしばらく長考するも、ついに決心?納得?諦観の境地?に至ったのか、すぐ書写させるといって原稿を持ち出した。
肚を括っている藤式部に対し道長はあまりにも優柔不断なのですよね。こんなことじゃ事が露見したら文字通り遊んでいただけなのかと誹りは免れませんよ。
そして原稿を持ち出すもその場で束の間だが逡巡し足が止まる道長。
決断できない性格なのはいい加減にしてもらえますか?
(ふと我に返ると、こんな不義の物語は一般論として受け入れられるのか?という考えは頭をよぎりましたけど、そんな設定もまた物語の世界を奥深く味わい深いものにしているのではないだろうか)
あかねの嘆きーー敦道親王との思い出
時は1007年11月14日、秋も深まり紅葉も美しくなってきたころ、あかねの想い人の敦道親王が27才で亡くなった。
四条宮での学びの会に現れるも悲嘆に暮れるあかね。
「まるで私がお命を奪っているみたい…もう触れられないなんて…」
こういう嘆きから自ら命を絶とうとすらしそうな憂いを含んだ表情が、いつにもまして美しい。美貌とは悲しみの境地にあるときにより華を添えるとはなんという皮肉だろう。
とかいう普通なら歯が浮きそうな王道の表現がよく似合う、艶のある絵にかいたような美人、それがあかね。
ものをのみ 乱れてぞ思ふ たれかには 今は嘆かん むばたまの筋
どんなにあの世から私を見守って下さろうとも二度とお顔を見ることも出来ないなんて
と、あかねは悲しみの心境を歌に詠む。
そこで藤式部は励ましのつもりで日記を書くことをあかねに提案するのだった。
「かつて書くことで己の悲しみを救ったと仰ったひとがいました(蜻蛉日記の道綱の母?)。あかね様も親王様との日々をお書きになる事で親王さまのお姿を後々まで残せるのではないでしょうか」
ここで古今和歌集の仮名序を思い出してみよう。ほかでもない、あかね登場の回で四条宮での学びの会に藤式部がお題として用いた古今和歌集 仮名序である。
やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。
世の中にある人、事業(ことわざ)、繁きものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり。
心がこもった表現こそ命が吹き込まれ、生き生きと文字が動き出す。
あかねの敦道親王への激しい思いはどんなにか心を打つ作品となる事だろう。
藤式部さま、悲しんでいる人へのカウンセリングとしてはちょっと荒療治すぎる気がしますが……。しかし文筆家として、あかねのような情熱的で繊細な感性の持ち主にはぜひ何か執筆していただきたい、と横槍ながらも興味がわいたというか食指が動いたのだろうか。
もうひとつの身分を超えた恋ーー惟規の場合
学者の家系として為時は息子の惟規に期待をかけていた。そんな中教えてもいないまひろが横で全部漢文を覚えてしまって為時は当惑した事だろうが。
とにかく為時の期待を背負って惟規は元服後も大学(朝廷の)に通い、その後文章生としての試験に合格し、中務省で内記として勤務していた。
為時にまひろは「お前が男だったなら」と残念がられるが、それは逆に弟の惟規をナチュラルに卑下してるなと思うも本人は気さくな性格で深く考えてないように見える。
ドラマ中、公任様と1,2を争うイケメン公達だと思われるが、そんなことはおくびにも出さずに登場する回はすべて姉の藤式部とのコントに費やされるコント要員なのであった。もったいない。
さて惟規が六位の蔵人に推挙される。これは左大臣の配慮のようだが、史実はどうだかわからない。とにかく官位を得て朝廷に出入りを許された惟規は姉の女房の局に会いに来た。ここでイケメン弟、惟規の恋が明かされる。いつまでも子供だと思っていたのに、と乳母のいとに共感の情が湧く。
惟規から武勇談として語られたのは斎院の中将の君との恋だった。
斎院とはここでは賀茂の斎院を指し、伊勢の斎宮と共に未婚の女性皇族(つまり内親王)が祭祀を行う神聖な空間であった。当時は宮廷祭祀も皇族の重要な責務で、陰陽道による占いとか穢れを祓う祈祷などとともに宮中の、ひいては京の都の安寧を支えていたと言っていい。
ただし惟規の恋人は賀茂の斎院に仕える、中将の君という女房だったようだ。どちらにしてもそんな神聖な玉垣を超えて恋人に逢いに行くなどあってはならない不祥事で、しかも惟規の恋は事実らしい。
男女の出会いは当時は噂から、さらに文を贈り合ったり宴や葵祭などの際に垣間見たり、管弦の琴の音などを漏れ聞いたりなど、実際に遇うまでのやりとりから人柄を推察したりして思いを寄せるのが通常とはいえ、斎院の女房では会うこともかなわないはずなのに、どうして?
まさに事実は小説より奇なり。
さてこちら中継です。
スタジオ、音声通じてますか?
事件の渦中にある惟規氏へのインタビューに来ておりますが、実況を姉の藤式部さんにお願いしましたら、コントになってしまったのでそのまま掲載いたします。
ーー以下、ドラマの台詞そのままーー
男が超えてはならない斎院の塀を超えて女房と恋に落ちたの?それが露顕して捕まった???
禁忌を犯すからこそ燃え立つんでしょ🔥
なんてこと…(꒪д꒪IIガーン
姉上だって、そうだったもんね!!!!!!!!!
私は禁忌を犯してなんかいませんっ(いやダブル不倫は十分禁忌だろ)
身分の壁を越えようとしたくせにー
そんな昔のこと、もう忘れたわ!
昔のことなのかなぁーー?wwwww
浮かれるんじゃありません!
捕まった時、咄嗟に歌を詠んだんだ
「神垣は木の丸殿まろどのにあらねども 名乗りをせねば 人とがめけり」
ってね。
斎院の選子内親王様が俺の歌を見て良い歌だから許してやれって仰せくださったんだよ
ヾ(〃^∇^)ノわぁい♪
そんな良い歌とも思えないけれど(.ㅍ_ㅍ)
天智天皇の引き歌ゆえ内親王様のお心を掴んだのかもなー俺もなかなかのもんだよっ
そうゆうことやってると罰があたって早死するわよあなたも、想い人も!?
(しらじらしく)あっ仕事に戻らないとーーー
仕事中だったの!??
これから宿直なんだよ~~じゃっ!
父上に心配かけるような事だけはしないでよ?(←←人の事いえないだろ)
だぁーいじょうぶだって~~~
だめだこりゃ……
ここで藤式部は槿の斎院の段を思いついた気がする。
この後斎院とメモしていたがあれは構想を練っていたのかもしれない。
超えてはならない壁、神聖な女君。
光る君の物語に神の息吹が新たな色彩を添える。
中宮ーー帝の正妃としての自覚
藤壺で女房が若紫の帖を音読する場面が映る。
「女が賢ぶって嫉妬し何かと厄介な間柄になってしまうと、こちらの気持ちとしても少し違うところが出てくるのではないかと遠慮し、相手も恨みがちになって、思いがけないことなどが自ずから出てくるものですが、姫君はなんと可愛らしい遊び相手なのでしょう。」
しかし一様にみな批判的である。
紫の上を横川の僧都から引き取り、親の兵部卿宮にも無断で養女にしてしまう光る君の展開を巡り、女房らで批評が交わされる。みな身分の高い公卿の姫であるから、一定の教養を持つものばかりで議論も自然と熱を帯びてくる。
大納言の君ーーでも無理に連れ去って行くところは何だか…
小少将の君ーー実の親の兵部卿宮が薄情ゆえ、光る君が引き取ってよかったのではごさいません?
左衛門の内侍ーーでも強引すぎる まことの想い人は藤壺なのに、紫の上は光る君のおもちゃのよう
宰相の君ーー藤壺に再び忍んでいき子まで成しながら、幼子を引き取って育てる光る君は無分別の極み
中宮彰子にとっては幼いころに半ば強引に連れてこられ尊い身分として育てられる姫君とはまるで自分のようと感じたらしい。中宮も数えで12才で入内したから同じようなものだ。
ここで初めてといってもいいかもしれない、中宮彰子の本音が語られる。
紫の上には光る君の妻になるのがよい
妻になる、なれぬであろうか?妻になれるようにしておくれ、藤式部
なかばひとりごとのようにつぶやく中宮彰子。自問自答するように、あらぬ方を見て語りかけながら、同時に藤式部へすがるような目線を向ける。
ここまで父道長と母倫子による尽力をくまなくみてきた。
入内の際には公卿を招いて盛大な儀式を執り行い、
後宮には倫子が選んだ珠玉の品々が並ぶ華麗な空間で、
女房達も精鋭を揃え(?)斉信には疑問符がつけられていたがとにかく実力派を呼び寄せ、
藤式部へ物語を依頼して大流行となり、帝の御意向で続編も書かれ、
定子の皇子である敦康親王も藤壺へ引き取り立派に養育して、
国家安寧を祈願すると称して彰子の懐妊を祈って金峯山寺に参詣し護符をいただいた。
もうこれ以上できることはないというくらい道長そして倫子は万全のバックアップ体制を整えている。
あと足りないピースは、中宮彰子が帝へ向き合うことだ。
帝が物語に興味を抱いて藤壺へお運びいただく事はあっても、中宮彰子に、正面から人間として向き合ったことはないではないか。
でもこれだけは人の心の問題で、まわりがどんなに環境を整えても彰子の覚悟が決まらなければ解決しない。
そして彰子は藤式部に言わせれば「おくゆかしい姫君」であっただけに、世の中の事も知らないまま入内して、帝へ妃としてどう向き合ったらよいか、どのように振舞えばよいのか、わからなかっただけではないだろうか。
そこでドラマでは藤式部が中宮にアドバイスする。曲水の宴で華やかな雰囲気の中、途中の雨宿りで父道長の思いがけない素顔を御簾越しに垣間見て(当時は家族でも女性はめったに男性家族と顔は合わせなかったため)、中宮彰子の本音が引き出されたわずかな瞬間を逃さずに。
帝に、まことの妻になりたいと仰せになったらよろしいのではないでしょうか。
帝をお慕いしておられましょう?
また、藤壺で中宮彰子に言う事には、
中宮さまらしい中宮さまとは
青い空がお好きで冬の冷たい気配がお好きでございます
左大臣様の願いもご苦労もよくご存知でおられます
敦康親王さまにとっては唯一無二の女人でございます
色々なことにときめくお心もお持ちでございます
その息づくお心の内を、帝へお伝えなされませ
つまり帝にふさわしい妃とはどうあるべきかではなく、自分らしく振舞うとはどういうことかを考えろということか。自分らしく、彰子らしく振舞えば自然と彰子の人となりの魅力は帝に伝わる、そう藤式部は言いたかったのかもしれない。
と、これからの心構えくらいのつもりでまひろは漠然と提案したつもりだっただろうが、ちょうどその時帝が敦康親王を訪ねて藤壺へお渡りのところ、親王様は物忌みで不在のためすぐ帰ろうとされた(←←ひどい)。
そこで唐突に
「お慕いしております!」
と前置きもなく思いの丈を叫ぶ中宮。
溢れ出た気持ちが止まらず全て涙になってとめどなく流れ出る。
この涙に、入内してから今日まで7年間の気持ちが全て込められ、この涙が妃としての苦悩も悲しみもすべて洗い流してくれた気がした。
まひろは思いがけない中宮の感情の発露に取りつく島もなく、なすすべもなく見守るばかり。
そして帝は気圧されて帰ったのだった。
清涼殿に伺候した道長に向かって、帝は「金峯山寺のご利益はあったのか?」と問う。しかしこの問いは、帝自身への問答であっただろう。彰子のひとことで、いままで胸にわだかまっていた定子への思いに区切りをつけたのかもしれない。
そして道長からのどっちつかずの返事を聞いた帝は、ふっきれたように、藤壺への夜のお渡りを告げて去る。
鳩が豆鉄砲を食ったように、清涼殿の廂にぽかんと取り残される道長。
いやそこでぼんやり座っている場合ではないのだ。
藤壺はにわかに慌ただしくなった。
屏風を片付け、
御帳台のしわを伸ばして整え、
寝具を運び、
白絹の単衣(=下着)に香を焚きしめ、
彰子の髪を洗って丁寧に梳き、
手も足も体を清めて、
女房たちは水を得た魚のように立ち回る。これが本来の彼女らの仕事であるからだ。
中宮は狐につままれたような表情で現実かどうか信じられない様子。
藤壺への渡殿で帝は足を止め、灌木の梢に降り積もった雪を眺める。
雪の日に登華殿の庭に出て定子や伊周らと遊んだ在りし日の思い出。
それらに7年の時を経て、けじめをつけてから新しい妻、彰子の元へ向かったということだろうか。
そして入内した当時12歳だった中宮は20歳に、いつのまにか大人になっていた(計算がおかしいな)。
そこでまたしても彰子は「ずっと、大人でございました」と反論する。
入内の当時帝が笛を聞かせても見向きもしなかった彰子に帝が問うと、「笛は、見るものではなく聴くものでございます」と答えたように、彰子は今思えばいつでもはっきりと自分の意見を持っていた。
それを素直に前に出せればよかったかのかもしれないが、人間そう器用に自分の気持ちは操れない。
この自我を、自分の意見をはっきり持った彰子に帝もまた向き合えていなかったのかもしれない。
このすれ違いから生まれた7年間の空白だったのだろう、それは必要にして必然的な時間の空隙だったのかも。
彰子は自分を見つめるための、帝は定子の思い出から訣別するための。
帝は「長い間寂しい思いをさせてしまってすまなかったのう」と謝罪しているし、これでふたりは精神的にも正面から向き合うことができると思う。
藤式部と道長は内裏から見える月を眺めて、またしてもお互いを労い合う。
「帝のお心を掴まれたのは中宮自身です。きっと金峯山寺の霊験にございましょう」
その通り、中宮様ご自身が帝へ向き合ったからこその結果でございます。
道長一人が奮闘しても無理だったことなのですから、お気になさりませんように。
藤式部の表情には無言のうちに道長へのいたわりの気持ちさえ浮かんでいるように見える。
年若いというか幼い中宮を入内させて一番苦悩していたのは道長であっただろうから。(そして対策がわからずに倫子とも喧嘩を繰り返しつつ)
そんなふたりの年月を超えた感慨深い会話を陰から聴いている女房がいた。
左衛門の内侍である。
この二人の関係はたぶん今後はっきりとした伏線の素描としてこれから意味を持ってくるだろうから、忘れないでおこう。