歴史と本マニアのための部屋

歴史、政治、本、あと吹奏楽関連のつぶやきです

第24回「忘れえぬ人(から後半部分抜粋)」 第25回「決意」 第26回「いけにえの姫」 大河ドラマのlightな感想 光る君へ

 

目次:クリックで各項目へ飛べます

 

 

996年5月の長徳の変で、伊周と隆家はそれぞれ大宰府と出雲に左遷されていった。

その後道長左大臣となり政権の頂に立ち、

またまひろは父為時の国司就任と共に越前へ旅立つ。

そして中宮の定子はその年の暮れに一条天皇の第一皇女、脩子内親王を産むなど、

物語はひとつの大きな転換点を迎えた。

 

どのように転換点かというと、越前から(父の任期満了を待たずに)京へ帰ってきたまひろは間もなく宣孝のプロポーズを受けて結婚する。

そして中宮の産んだ脩子内親王がたどる道のりは、後に生まれる弟の敦康親王とともにこのドラマの今後のみどころのひとつとなるだろう。

 

 

さて一条天皇の母君である東三条院詮子が病の床に伏していた。

詮子はこのとき34才。

大病を患っていたわけではなく、当時としては寿命まではいかずとも老年の域にさしかかっていただけだ。当時の寿命は女性なら長く見ても40才。男性ならもう少し長い程度。

平安時代の女性は出産前後の死亡率が高かったことや、医療技術や知識の未発達だったことも平均寿命を短くしていた。それに加えて特に貴族は食事も新鮮なものは少なく、また女性は長い髪や重い衣装に妨げられて極度な運動不足だったから、こういう生活習慣が体にいいわけもなく、物語の中でもまた実際の歴史上でも短命の人物が多かったのは偶然ではないだろう。

なにしろ出産に際し穢れを防ぐために僧侶が読経し、物の怪を恐れて病気平癒を祈願し、また安部晴明に代表される陰陽道によって重要な政治問題に対する政策に至るまで占いに頼っていた時代である。

そもそも健康とは何かという概念、健康を保つためには何をすればいいかという視点とか全てが現代と違うから、ここは大まじめに僧侶に祈祷を依頼し病気平癒を願う人々を笑うことはできない。

 

東三条院詮子の病に対して、一条天皇は回復を祈願して恩赦を発表している。

恩赦とは罪人として獄に囚われたり都を追放されたりした人を赦免することで、本来の刑期を終えずに一般社会に復帰させることを意味する。

この赦免の恩恵にあずかったのが伊周と隆家兄弟で、それぞれ大宰府と出雲から戻ってくることになった。(※隆家は体調不良を口実に丹波(兵庫県北部)あたりで留まっていた説もある)

隆家は伊周のように恨みを根に持つタイプではないらしく、都に戻ってきて、彼らを断罪した本人である道長のもとへ伺候するもあっけらんかんとしていて悪びれるふうもない。

「だって矢が花山院の牛車に当たったのは偶然だし、矢を射たのも出来心でしたし、大ごとになって思っても見ない事で驚きました」

という具合である。

この証言がでてきてそもそも長徳の変における処分は適切であったのかという疑惑が浮上した。そしてこの期に及んで道長自分は主としては関与していないとか、往生際の悪い言い訳を述べている。この言い訳を第二夫人の明子との寝所でくどくどと並べ立てているさまはまるで明子に慰めてほしいとでも言わんばかりだ。

斉信の証言にしてやられたとか、わしも辛い立場なのだとかなんとか。

左大臣様、寝言は寝てから言ってください。

何においても道長には悪気はなく何事も偶然で、裏のないクリーンな政治家だと言いたいのだろうか?このドラマでは。

そんなわけもなく。

少なくとも長徳の変の結果、中宮定子は尼削ぎの姿となり出家してしまったのだし、伊周の左遷も本当にその必要性があったのか?疑わしい。はっきりした法律もなくきちんと裁判で裁かれたわけでもない罪など、服役するに足らないのでは。

道長は何事もあくまで偶然だと主張したいようだが、散り散りになった中関白家の面々はもう元の栄華を取り戻せない。削いでしまった中宮定子の髪は文字通り女の命だったのであり、今更出家した事実を覆すことはできないのだ。

他人の人生をこうも簡単に狂わせてしまったことについて道長はどう責任をとるつもりなのだろう。勘違いだったとかおっしゃられているがまさかそれでごまかした気になっているのだろうか。

いずれにしても、道長は政治の行く末の鍵を握ることになるのだし、政治家としての正体は遠くない将来に必然的に暴かれることになるだろう。

 

恩赦による伊周らの復権と、中宮定子の内裏(付近)への召喚への流れ。

これらはドラマの筋書きでは一見道長が贖罪の意識を感じるのとセットの流れで描かれているが、道長はほんとうに贖罪が必要と考えているのだろうか?? いや、一見そう見えても、表面だけであり真意は全く別の所にあると考えられる。

 

政治と恋愛

中宮の立場と意味

一条天皇中宮定子を内裏へ呼び戻そうとした動機については至極人間的かつ当然なこととして万人の心に響くものがあるだろう。愛する妻の定子と、長女の脩子内親王に会ってまた一緒に暮らしたい、ただそれだけだ。この状況だけ見れば何の障害があるのだろう、一刻も早く会わせて差し上げなければと思うだけだ。

 

※個人的には帝が10才(元服する前)のとき、13歳で入内した定子は(父道隆が牽制していたとはいえ)ほかの姫が入内することもなく帝とふたり仲睦まじく成長し、夫婦のきずなを築いてきたのであって、伊周の不祥事があったとはいえども内裏へ呼び戻されたのであれば、ふたたび帝と中宮定子には仲睦まじく、内親王と共におだやかな日々を過ごしてほしいと思うのだけど。

 

しかしこう思っているのは(見てる自分と)一条天皇だけで、宮中の他のメンバーは全員反対しているようだ。なぜなら帝の後宮に娘を入内させることで政権の運営を後見してくれる有力な貴族が居ないと、帝自身の政治的立場が危うくなるからだ。

貴族たちが口をそろえて言う

後宮を安定したものにしていただくためにも、どなたかしっかりした後見のある女御様が入内されるのがよろしいかと」

というのは、つまり父の道隆も母の貴子も亡くした定子では帝の政権が心もとないという意味だ。

後宮は単に妃が住まう殿舎が立ち並ぶところではなく、後宮そのものが政治の場であった。当時の貴族のたしなみとして詩歌管弦に代表される文学的・音楽的素養が求められ、このような雅やかな文化は政治の場で必須のものとされたことから、妃を後見する有力貴族の存在は帝、また春宮にとって死活問題ともいえた。

無尽蔵ともいえる財力をもって知的で華やかな後宮のしつらえを用意し、才能ある女房を揃えることのできる有力貴族、それが帝の地位を安泰に導くのである。

それがわかっているから、現在一条天皇後宮に帝が寵愛する妃が定子しかいないのは、朝廷に仕える貴族としても心もとないということだ。

 

では有力貴族の姫で入内するにふさわしいのは誰のことを指すのか。

言うまでもなく当時の最高権力者は左大臣道長であり、入内するにふさわしい姫とはその長女の彰子のことだ。

このことは安倍晴明が暗示的に占いの結果として道長にはっきりほのめかしている。

ただし彰子はこのときまだ11才であり、裳着も迎えていない少女であって個人的にはそんな姫が入内させるという話題に引き合いに出されるのは児童虐待でしかないと思うが、古今東西、政略結婚の話には子供の頃から、果ては産まれる前から計画が練られたりするのが常なので、もうすぐ裳着の式を迎える年齢なのであればなんら不思議なことではない。

 

さてこの動きに対し定子とその周囲が手をこまねいて見ていたわけではなかった。

職御曹司

一条天皇の一途な中宮への思いが、落飾し出家していた定子を内裏へと呼び戻すことになった。正確には内裏のもとの梅壺ではなく、内裏に隣接した官庁の殿舎へ。

いわゆる職御曹司しきのみぞうしであるがその場所はどこだったかというと。

 

下記に平安京の見取り図を貼る。真ん中の一番北に位置したのが大内裏

undefined

 

この大内裏(大極殿を中心とした政治の空間)の中にある内裏(=天皇の私的生活の場と後宮)のすぐ東北側に隣接していたのが職御曹司しきのみぞうしである。

いわゆる中宮大夫とか春宮大夫の職以下、中宮職(妃の世話や事務処理を担当する官庁)をつとめる役人たちが詰める殿舎であったが、そこであれば内裏の門を東に出てすぐのため、帝が通うのに距離的には支障がないだろうというのが蔵人頭である行成の事務的判断であった。

(画像引用:大内裏 - Wikipedia )

 

一条天皇の一途な定子への思いが、この前例にない待遇を作り出すがしかし周囲からは一斉に批判されている。

(政治的に:前述の通り、一条天皇自身の立場を不安定にし危うさを招くもとになる)

後宮での噂:尚侍等の女官の間でも、定子は自分の意志で一度落飾しているのに、もう一度妃として(内裏の中へではなくても)帝の寵愛を受けるなどありえない)

 

このような声をかわすために?再び表立って動いていたのは恩赦により大宰府から呼び戻された伊周だ。

(※隆家の姿が職御曹司には見えないが、道長にそういえば接近していたし恐らくもう定子のもとには近寄らないつもりなのだろう。)

そもそも花山院誤射事件に始まり、定子が落飾する直接の原因をつくってなおかつ検非違使の追っ手から最後まで逃げていた伊周が、どのような顔で定子の前に姿を見せているというのか自分には全く理解できないが、この時期政界に復帰していたことは事実のようだから仕方がない。

宮中の女官が定子に対して言う「どの面さげて(帝の前に)戻ってきたの~??」とは、自分は伊周に対して「どの面下げて(定子の前に)現れることができるというのか?」と言ってやりたくなる。ほんと伊周の姿を(しかももっともらしく束帯など着込んで)定子の前に伺候しているのを見るだけでも気分が悪くなって、チャンネルを思わず変えそうになるが思いとどまって物語の行く末を見届けなければならない。なんといってもこのあらすじは大体史実のようだから。

 

しかも絶望の淵にいた定子を救う清少納言の心づくしの著作(と言っていい分量がこのときすでに書き溜められていたようだ)である枕草子を、こともあろうに伊周が耳にしたようでいくつか手に取って読んでいるようだ。

このとき視聴している皆様の胸に静かにしかしはっきりとした思いが去来したことでしょう(違う???)

「伊周、その汚らわしい手から枕草子を戻し、定子様の御前に献上するがいい」

手に持って読んでいたのが枕草子とわかって、自分は画面の中に入ることができたなら飛んで行って伊周の手から御料紙の束を奪い取っていたところだが、残念ながら現在の技術では不可能なことで、TV画面の前で歯を食いしばって耐えるというより、歯ぎしりをして悔しがっていた。

 

枕草子での表現

個人的な心の叫びは横に置いておいて、

伊周はふたたび定子の周囲に文人や詩歌の心得のある貴族を集めて華やかな後宮を再現しようとしていたようだ。

そのためには枕草子は(発端は個人的なやりとりにせよ)格好の宣伝材料であり広告塔となりえたのであり、当時としても斬新な様式で、また後世にもこのような文学作品はなかなか類を見ないことから、伊周の目のつけ所としては面白い案ではある。

しかし定子が内裏から退出させられたのは伊周らの不祥事が原因なのであり、母貴子の死、邸の二条第も焼け落ちて誰にも顧みられなかった不遇の時代は定子、また清少納言双方にとって生きる望みが断ち切られ未来の展望は暗黒であった。そんなときひっそりと仕えていた清少納言と定子だけのひそやかな楽しみであり心の交流の拠り所であった枕草子、定子をして「これがなければお腹の子は育たなかった」と言わしめた枕草子を、一方的に伊周の政治的思惑により公に公開されるのは清少納言には心外であり大切なものを持ち去られ傷つけられるに等しかったであろう。

しかし定子のサロンを文化的交流の拠点として再び華やかな場にするのだと言われると清少納言は仕方なく従うしかない立場であるところに、視聴者としては居たたまれないものを感じる。

 

さて、定子のサロンの文化的復権の例として、公任が職御曹司を訪れているようだ。

ここで枕草子に書かれているエピソードが織り込まれてくるが、微妙にシチュエーションが違うので出典と現代語訳を引用しておく。

 

原文:枕草子 百三段「二月つごもりごろに」

二月つごもりごろに、風いたう吹きて、空いみじう黒きに、雪少しうち散りたるほど、黒戸に主殿司とのもづかさ来て、「かうてさぶらふ。」と言へば、寄りたるに、「これ、公任きんたふの宰相殿さいしやうどのの。」とてあるを見れば、懐紙ふところがみに、

少し春ある 心地こそすれ

とあるは、「げに今日の気色にいとようあひたる、これが本はいかでかつくべからむ。」と思ひわづらひぬ。

「誰誰か。」と問へば、「それそれ。」と言ふ。みないとはづかしき中に、宰相の御いらへを、いかでかことなしびに言ひ出でむと、心一つに苦しきを、御前に御覧ぜさせむとすれど、上うへのおはしまして大殿籠おほとのごもりたり。主殿司は、「とくとく。」と言ふ。げに遅うさへあらむは、いと取りどころなければ、さはれとて、

空寒み 花にまがへて ちる雪に

と、わななくわななく書きて、取らせて、「いかに思ふらむ。」とわびし。

「これがことを聞かばや。」と思ふに、「そしられたらば聞かじ。」とおぼゆるを、「俊賢の宰相など、『なほ内侍に奏してなさむ。』となむ定めたまひし。」とばかりぞ、左兵衛督さひやうゑのかみの中将ちゆうじやうにおはせし、語りたまひし。

(角川文庫版「枕草子」より)

 

現代語訳:

(陰暦)二月の月末ごろに、風がひどく吹いて空は真っ黒で、雪が少し降っている頃、黒戸に主殿寮が来て、「こうしてお伺いする。(ごめんください)」と言うので、近寄ったところ、「これは、公任の宰相殿の(遣わした手紙です)」と言って差し出したのを見ると、懐紙に

少し春を感じる心持ちがする

と書いてあるのは、なるほど今日の情景にとてもよくあっている。「この上の句は、どうやってつけたらよいだろうか。」と思い悩んでしまう。

「(同席者は)誰と誰か。」と尋ねると、「誰それ」と言う。みんなとても気後れする方々の中で、宰相殿へのお答えをどうして平然と言い出せようか(いや、できない)と、自分ひとり胸が苦しいので、中宮様にご覧に入れようするが、主上がいらっしゃってお休みになってしまった。主殿寮は、「早く早く」と言う。なるほど、(出来が悪いのみならず)遅れでもしたら取柄がないので、ままよと思って、

空が寒いので、花と見間違えるばかりに散る雪に

と、震えながら書いて渡して、(先方では)「どのように思っているのだろう」とやりきれない。

「この反応を聞きたい」と思うが、「けなされているなら聞くまい」という気がしていると、「俊賢の宰相などが、『やはり(清少納言を)内侍にと、天皇に申し上げて任命しよう。』とお定めになった。」とだけ、左兵衛督の、(その時は)中将でいらっしゃった方が、語ってくださった。

さてこのふたりのやりとりにみえる和歌は、さらに引用元がある。ドラマでは帝が指摘したことになっているが、白氏文集からの引用である。

つまり実際のやりとりでも、白氏文集をお互いが自然と和歌に引用できるほどには十分習熟し理解していたことは少なくとも事実だし、また周囲の貴族や枕草子の読者(という存在は後付けだとしても)にもそういった教養があったということを意味する。

まひろは貧しい農民の子に文字を教えていたし(天然痘の流行で死んでしまったが)、現実としては識字率が高い階級は貴族(やその使用人)のみにとどまっていたとしても、文字の普及はこのようにして精神的豊かさを醸成するベースとなっていたのだなあということがよくわかる。

 

よく考えると為政者たちが政治的に有能かどうかをこうした教養の有無で測っていた点は、政治にも実務にもなんの関係もないではないかと思うが、貴族社会であったから判断基準も漢籍の知識や和歌のセンス、管弦の演奏や舞の優雅さなどに偏るのは仕方ないことだ。

それに貴族の政治で平安時代は戦乱もなく長く続いたではないかと言われるかもしれないがそれは平民に文字が普及してなくて政治の腐敗(摂関政治の身内偏向の登用)や搾取などを指摘することができなかったし、情報不足で今でいうニュースのような媒体もなかったからに過ぎない。

 

それはともかく、明るく知的で聡明な定子のまわりには再び貴族が集うようになっていった。このことには内裏の中ではない中途半端な位置づけの定子の御在所に対し、正式な妃の御殿ではないことから貴族たちからの批判も強かったようだ。

しかし枕草子のこのころの記事にはあくまで貴族たちが集まって賑やかな様子は描かれていても、批判があって心を痛めたりとかいうくらい記述はどうやらないらしい。

なぜ?

それは枕草子を書き始めたころから変わらず、中宮定子をお慰めし寂しさを紛らわせていただくための著作だったからなのだろう。

帝のお渡りも足しげくなって、定子に待望の皇子が産まれたことは前の回の感想に書いたかもしれないが、定子の皇子と内親王については彼らの成長と共にまたそのうち触れる。

 

中宮定子に対しての女御彰子

一条天皇の言い分

さて一条天皇には定子のほかに妃として道長の長女、彰子が入内することは周知の事実である。当時の摂関政治のセオリーとして、娘を入内させて(のちに帝となる)皇子を後見する名目で摂政として政治の実権を握るという定番ルートがあった。そのため当時の左大臣という最高権力者であった道長が長女を入内させるのは自然な流れではある。

でもドラマをご覧の視聴者さま、そして当事者である一条天皇と定子にとっては受け入れがたい現実だ。だってそれは当然で、一条天皇が10才、定子が13才(裳着を終えてすぐ)のときから彼らは共に成長しふたりで愛と絆を育んできたのに、新しい妃など受け入れられないだろう。

いや、すでにこのとき義子と元子さまという二人の女御が入内していたが彼女らは寵愛を受けられず実家に帰されている。彼女らとは違って左大臣の長女である彰子のことは無視も出来ず捨てておけないという意味で、一条天皇は拒否反応を示していたのだと思われる。

 

でも事実、妃の実家の政治的有力者から後見してもらわないと帝の政治的基盤は危うくなり、政策の混乱やひいてはクーデターや謀反を企むもととなる政治的空白を招くからという理由で、父母が亡くなった定子のほかに有力な実家を持つ妃の入内は喫緊の課題であった。後宮には数多の女御や更衣などの妃が並び姸を競ってこそだ。でも帝は政治的要因という無味乾燥で感情を挟まない理由で、大切な定子をないがしろにしたくなかったのだろう。

夫婦がおたがい仲睦まじく相手のことを想い、姫に皇子も産まれて慈しみ育てる……

帝と中宮という立場でさえなければ平民であれば理想の夫婦になれたのに、一条天皇と定子を見ているとこのような思いが胸を去来する。でもそれは二人にはどうすることもできない運命の枷だった。

 

道長の建前

さてこのような背景から彰子が入内することはすでに公然の事実となったわけだが、一条天皇が拒否している以上、公的にして誰もを納得させるだけの理由が必要になった。

そこで安倍晴明が何もかも分かっているふうに、事実全てお見通しだったのだろうが、これはもう決まったことだと宣言する。

しかし行成は実際に一条天皇を説得する役目をいいつけられ困惑しているふうである。いますよねいつの世でも、言いにくい事、無理難題を体よく部下に丸投げして解決したことにする無能な上司。「行成が言えば帝も心を動かされるだろう」って、そう思うなら行成の補助とか補佐とか、根回しとか道長があらかじめできることはあるんじゃないですか?

ちょっとは仕事したらどうですか道長さん?

ここで安倍清明の預言どおり?天災がふりかかり、世の中にというか朝廷の貴族の間には、とにかく政治的に一刻も早く安定を求める雰囲気が醸成された。

大雨による鴨川の氾濫しかり、それにともなう飢饉や病気、日食とか地震とか、いろいろが一気に襲ってきたらしい。

ここで(安倍晴明というよりは)行成が打ち出した公的な案:

大原野神社での中宮の責務である祭祀を執り行えない定子に代わり、彰子をいけにえに入内させる

というのが取りざたされる。中宮定子は出家しているから祭祀を行える立場にないというのが理由のようだ。そんな取ってつけたみたいな思いつきの理由見え見えで却下されるかと思いきや、公的な理由として採用されたらしい。

これ見ていると、つくづく政治家の発言は信用ならないというか、目的のためにはみんな手段を選ばないのだなあと痛感するというか。誰が信用するんですかそんな白々しい理由。

 

とにかく書類に記載する名目がほしかっただけといわんばかりに、朝廷の意見は一気に彰子入内に理解を示す方向に傾いていく。

なにせあの曲がったことが嫌いな藤原実資でさえ彰子の入内に賛成なのだから、彼がそう言えば他の誰もさからわないだろう。

 

女性たちのもっともな意見ーー①詮子の場合

さて、ここで思い出してみよう。入内とは天皇の妃になること、つまり入内する姫にしてみれば結婚を意味する。現代の恋愛結婚とは事情が違うとはいえ、身分の高い姫には政略結婚がつきものだったとはいえ、とにかく姫にとっては一生がこれで決まる一大事なのである。

それを名目とか建前とか口実とか説得とか、どう考えても聞こえてくる単語が結婚とは程遠い。道長も、安倍晴明からうさんくさい占いと共に提案された彰子入内の話を聞いた当初は娘は入内させないと断言していたし、それほど後宮に入るのは厳しく辛いことだという認識はしていたようだ。それにしては周りから説得された体で仕方なく入内させることにしたと装っているが、本性は道長は彰子を出世の足掛かりにしたかっただけのはずだ。

 

この本性を姉である東三条院詮子からはっきり指摘されている。

目的の為に自分の身を切れ、血を流せと。

道長左大臣という今の地位も気がついたら手に入ったもの、身を削り汗を流して、策を弄して掴んだものではない。いつもきれいな所にいて自らの手は汚さない。(このドラマでは手を汚す役は道兼であったが)とにかく道長はいい人のふりをして何かあった時は被害者ぶっていただけである。

「姉上が自分をそんなふうに見ていたとは知りませんでした」

と苦し紛れに道長がシラを切ると、詮子はとどめを刺すように言う。

「大好きな弟ゆえ、よく見ておっただけよ♬」

つまりよく見ていれば隠し切れずに道長の本性は一目瞭然であったことを意味する。

道長の口当たりのいい表面上の性格に騙されないように、視聴者はこの事実を忘れないようにしっかりと心に刻んでおこう。

 

 

②鷹司殿(正妻であり彰子の母倫子)の場合

彼女が一番人間らしい。

当時は婿取り婚であり、倫子は先の左大臣源雅信の長女で、広大な屋敷(土御門殿)と莫大な財産や多くの家財、それに恐らく多くの荘園を相続している。

倫子いわく

「自分がそれらの財産を受け継ぎ道長と睦まじく暮らして沢山の子に恵まれたように、立場からすれば長女の彰子にもその権利があるわけだから、彰子にも幸せな将来と幸福な結婚という親としてできる最大の贈り物を用意していたつもりだった。

それを道長の出世のための踏み台というか道具にさせられて入内させるなんて、親というか人間のすることとは思えない。

一条天皇には10年来連れ添った最愛の妃、中宮定子がおられるのに新たに入内したからとて妃として寵愛を得られるはずもなく幸せになれるはずがない」

と、ここまでで登場した人々のなかで最も人間らしい説を展開してくださった。

いや?それなら定子以外に義子と元子を女御として入内させる際に最大限バックアップして応援していたのはどうなったのだろうか?土御門殿に帝と女御様を招いて管弦の宴を開き、交流の場を提供していたけど。

みんな自分の娘となると必死で守りたくなるものなのですね。まあそれはもっともな感情なので異論は挟みませんが。

とにかく道長の建前が白々しすぎる。

「詮子の入内は出世のためではなく、朝廷と帝をお清めするいけにえだ」

この言い分もまた本音なら親としてひどすぎるが、しかし建前にすぎないという根拠がある。朝廷にはそういう祭祀をつかさどる、身分の高い内親王などが就く役職があるでございましょう?

賀茂の斎院と、伊勢の斎宮が。

道長様があくまで「朝廷をお清めする」などという口実をお使いになるのなら。

あの青春の年月をすべて未婚のまま神に捧げて祭祀をおこなう皇女さまたちの立場はどうなるのでございましょう、ねえ道長様??

とにかく倫子は宣言する。

「入内させるなら自分を殺してからにしてくださいませ」

そしてこの相談が平行線をたどるのを見て

「殿、ご相談ではございませんでしたの!??私の生きているうちは彰子を政治の道具になどさせませんから!」

とあくまで徹底抗戦の構えをみせていた。

 

③倫子の母で出家している穆子様の場合

のんびりと中立というより道長の肩を持つ。こういうところが、道長はどこまでも運がいいというかついてるなあと思う。

中宮様は帝より4つもお年が上でございましょう?今はご寵愛されていても、そのうちお飽きになるんじゃない?」

登場人物で最も楽観的な、しかし意外と的を得ているともいう。

 

とにかく倫子も最後には説得されたようだ。

彰子のためにあでやかな後宮を築きましょう、気弱なあの子が力強き妃となれるようこの身を賭けますと宣言する。

入内にむけて調度品や衣装を選定するのもすべて母親の役目であったから倫子が同意しない事にはこの話は進まなかった。道長が口を出したところで品のある雅やかな道具類などを選ぶ目ききなどではないのだから。

 

④彰子本人

まだ彼女は11才。

自分の意見などない、土御門殿の深窓ふかく大切に箱に入れられて育てられた姫は、いきなりそんな見当もつかない選択を迫られて途方に暮れているだけのように見える。

演じている役者さんの演技がほんとうに11歳の世の中を知らない素朴な姫のようで、あどけない表情がほんとうにそれらしい。

 

かくして自分の意見がないときは周りが決めてしまうという古今東西の掟通り、彰子は結局入内する方針で話が進む。

でも左大臣という大きな後見を得て、立場は安定することになるが、実際妃として見れるのかという一条天皇の意見をまだ聞いていない。

実際のところは入内してからすべては明らかになるだろう。

 

※そして一条天皇に(と彰子の間に皇子が産まれたとしたら)左大臣という後見がついたが、さて。今の春宮(のちの三条天皇)の妃の親は誰だったのかと考えてみると。

春宮妃は娍子(すけこ)、父は藤原済時、位は大納言と左近大将、正二位。うーん?なんか弱いですね?御父上の官位、もうひと声ほしいですね?

この春宮妃の御父上の官位がこの後の展開に影響を与えることになる、といっても過言ではないと思う。

 

 

庶民の人生と恋愛

さて政治の権力者たちの朝廷での駆け引きをずっと見ていて疲れましたね。

ドラマでは彼ら権力者以外の恋愛も描かれているのでこの記事の後半は彼らの恋について振り返る。

この庶民には主人公であるまひろの恋愛も含むことにする。

なぜなら、まひろみたいな貴族だけどでも中流下流の恋愛というのは、形式はややこしいけど、庶民に通じるおおらかさというか屈託のなさが感じられて、まだ儒教思想が行きわたる前の自由な恋愛観が見られるからだ。

政権も担っていなければ家の運命も関係ないおおらかな雰囲気、

お見合いという意味で御簾を隔てて和歌の会とか管弦の会とか開いていたのかもしれないが、そういう形式は最低限貴族の娘は結婚まで相手に顔を見せないという習慣からくるものだから。

 

平安時代そのものが、恋愛というものに対してオープンな気質であったと思う。

女性は父と夫と息子に仕えるべきとか、自分の意見をいうなんて出しゃばっているから夫の後ろに黙ってついてくのがよいとか、結婚こそが女の幸せとか、再婚なんてはしたないとか、…………

という儒教的思想はすべて江戸時代に儒教が幕府の政策に取り入れられて普及してからあとの考えであり、平安時代はこういうものの見方は皆無だったということを念頭に置いてドラマを見ないと色々と意識が食い違ってくる。

本家中国では儒教前漢の途中で国を挙げて広められた。つまり紀元前後くらいの時期より前、だから春秋戦国時代が中国で思想的に一番自由だった時代だったと考える。諸子百家が活躍したそれらの時代で、逆にのちの時代に政権に利用されたのが儒教だっただけであって。

 

平安時代は部屋の仕切りも几帳とか御簾しかない。空間を緩く仕切るがあくまで一部分だけで、大まかに言えば全部繋がっているのだ。

また女性は結婚しても通い婚だったし夫が通ってこなければ関係はそれで途切れた。というふうに結婚は一生に一度の一大イベントでもなかったはずで、このように簡単に男女の仲は別れと別の出会いを繰り返した。なんていうかカジュアルな意識で結婚していたと思う。離婚しても再婚も多かったという意味である。清少納言に至っては、憧れの定子のもとへ女房として出仕するにあたって、なんと夫と別れてしかも息子は夫側が引き取っている。(なにも別れる必要は無かったと思うが。赤染衛門は倫子の女房として長く仕えるが結婚していて、夫と仲の良い夫婦として有名だったのだし)

 

さて、庶民のカップルはまひろを含めて三組出てきたので彼らのなれそめをそれぞれに振り返ってみる。

まひろと宣孝

まひろを庶民に含めていいのか問題があるかもしれないけど、道長らが政略に固執して策を弄しているのを見れば、ずっと身分が気楽で自由な意思で結婚できたと考えるとまひろは庶民に含めていいのではないでしょうか。

ドラマでは家族や使用人、客人とも気楽に立ち話で顔を合わせて直接会話するというカジュアルな暮らしぶりのようだし。これらの会話は本来、まひろなら全て御簾越しにセッティングされてるはずだけど、ドラマでの進行の都合上、御簾越しとかいちいち文のやり取りをしてとかやってると話数が足りなくなるのだろう。

やむをえないことである。

 

①さわとの別れと人生の転機

まひろが為時の赴任に伴って越前に滞在していたのはおよそ一年間くらいだったぽいが、この間に筑紫からきた文で親友のさわの死を知ることになる。ほんとはどういうタイミングだったのか、そもそもさわの死はいつごろだったのか、正確な記録がなくあいまいのようだけど。

でもこの正式な名前が不明のままの紫式部の親友は、記録には遺っていて文でやりとりしていたことがわかる。紫式部が和歌にして残しているからだ。

 

あと、平安時代日記文学ですが、ドラマに登場するひとたちが書いていたものだけでもいくつも実在し現代まで伝えられている。行成の権記、実資の小右記道長御堂関白記道綱母蜻蛉日記菅原孝標娘の更級日記紫式部日記、これから登場するであろう和泉式部日記など枚挙に暇がない。

1000年以上前のできごとをまるで目の前で見ているように、ほんの昨日起こったばかりのことのように事細かに衣装から何から何まで再現できるのは、彼らが日記に逐一書いてくれているおかげだ。ほかに、中宮定子のサロンの華やかな様子がわかるのも、枕草子に詳細に記録が残っているからである。

 

さわ(仮名)と交わされた和歌は紫式部集に収録されているので、引用しておく。

 筑紫にある肥前という所から、友が手紙を送ってきたのを、私は大そう遠い越前の国で見たことだった。その返事に
あなたに逢いたいと思っている、この私の心情こそは、御地の松浦の鏡明神も、きっと大空から照覧していらっしゃることでしょうよ。(紫式部から友へ)

友からの返しは次の通りでした。それは翌年に使いの者が持ってきました。
行きめぐり、またあなたに逢える日を待っている私が、あなたの御歌に詠まれている、“待つ”の御名を待たれる松浦の鏡明神に対して、誰を終始心にかけて祈っていると思われますか。もちろん、あなた以外の誰でもありませんわよ。(友から紫式部へ)
笠間書院紫式部集全評釈」から)

寿命が短かった平安時代とはいえまだ20代、病気だったのかもしれないが(どちらにしても死因ははっきりしてないはず)まひろは突然の訃報に衝撃をうけて、人生を考え直す転機になったことだろう。

なにせ病気になれば物の怪のしわざとして祈祷を大々的にやっていた時代なのだから。まことに人の世とは儚いもの、文字通り明日をも知れぬ命なのだから悔いなく今を精一杯生きなければならない、とあらためて決意を新たにした様子が見て取れる。

※こに登場する鏡神社というのは今も筑紫国に実在して残るそうで、神社の由来はともかく高麗(918年 - 1392年)の観音像の絵が奉納されていることや、ほかにも史料から奈良時代に存在したことは確実のようだ。場所柄、朝鮮半島や中国からの人や物の流れとか往来が活発だった地域であり、またまひろの夫となる宣孝もこの地域に国司として赴任し、個人的に貿易で利益をあげていたことがドラマで語られていた。

越前が日本海側の重要な交易拠点として機能していたとともに、筑紫もまた平安時代は大陸文化を受容する最前線であったことがわかる。

 

②為時の腰痛と結婚適齢期

まひろの決意はまず父為時に「この辺で都へ帰り、宣孝様と結婚しようと思います」と打ち明けるところから始まるが、しかしまひろの胸中であたためられてきた思いも為時には突然のことで、

「宣孝殿と結婚…?なぜそうなるのだ?結婚?ええっ?

と驚きのあまり振り返るもそこで何か不吉なというか不自然な関節の音がして、為時は寝込んでしまったのだった。つまりぎっくり腰という意味か。というかもう年なのです為時様、ご養生なさってください。

こういう描写が、戦乱も身内同士の暗殺も無い中、ほのぼのとドラマのゆくすえを楽しめる大きな要素かもしれない。(なにせ鎌倉時代とか南北朝時代とか、一族郎党ことごとく女子供ふくめて誅殺とか、ざらにありましたからねえ。)今回のドラマはテンポよく明るく朗らかに進む。

 

さわの死と宣孝からの求婚をうけて結婚を考える気になった、もうわたしもいい年ですし、子供も産んでみとうございますし……と気軽にではないが決意に至った心境を吐露するまひろ。それを聞いて言下に否定するわけではないが為時は釘をさす。

「宣孝殿にはすでに妻も子供も何人もおる。(妻が四人、子供は七人)まひろを慈しむであろうが他の妻も同様に慈しむであろう。潔癖なお前がそのことで気に病んだりすることがないとよいが。このことだけは、心に留めておくように」

という意味のことをまひろに穏やかな口調で、しかし半ばいさめるように語りかけるのだ。為時は親としては当然このような結婚は本意ではないという意味だろう。当然である。為時の官位がもっと高ければ、婿取り婚の時代だから出世を目論んでもっと若くて有望な貴族から求婚があった可能性は否定できないからだ。

でも手段を選ばない出世をよしとしない為時は国司になれたのも何かの偶然に過ぎず(ドラマでは道長のコネのおかげとして描かれるが)、まひろは宣孝から求婚があったのも何かの縁として受け入れる気になっている。そういう生き方を選ぶのもまたまひろらしいといえるかもしれない。

いま宣孝の妻になるということは正妻扱いではないという意味で、妾になるということを意味するのだが、何が何でも正妻じゃないと駄目というわけではない。まひろは二十代後半にさしかかり、こういう人生における機微を悟り始めた年齢だったのかもしれない。

 

まひろは正確には二つ返事で宣孝のプロポーズを受けたわけではない。そのようにすぐ返事を返す女性ははしたないとされ、何度も求愛の文を贈っていただいて、ころあいをみてOKという意味の返歌をかえすのがしきたりとされていた。結婚に至る不文律というか、作法に近いのかもしれない。

越前から帰って来たまひろへの挨拶に宣孝が大急ぎでかけつけるようすに、弟の惟規は何のことやらわからず面食らっているようではあったが。だっていつも宣孝おじさんがやってきては陽気にふざけて悪ノリの冗談を言い、それにまひろが呆れてそっけなくツッコむという定番の漫才が繰り広げられていたのに、いつのまにかまひろと宣孝の間には割り込むことのできない熱い視線が交わされていたからだ。

まひろを迎えてその夜は宴会となり、宣孝は今様(流行りの歌)みたいな歌を披露するが、その間にまひろとひそかに交わす視線が意味深すぎて、弟の惟規はまたしても事態が全く呑み込めてないふうである。

 

はたしてまひろはOKという意味を、文を結んだ青い桔梗の花(?)に託して乙丸を使いに出す。

(個人的なつぶやき:うーんこれでほんとに良かったのか、まひろに求婚するなんてイケオジの佐々木蔵之介さん演ずる宣孝だから許されるのであり、現実問題、妾としての扱いでこの年の差はどうなのよと自分の中の何かが受け入れられない宣言をする……)

 

道長からの贈り物

まひろの結婚(正確にはまだ婚約というかOKの返事をかえしてない時期なのになぜか)にあたって道長からは豪華な贈り物が次々と届けられた。

道長なりのまひろへの心づくしというか、はなむけのつもりだったのだろう。

お互いもう大人、道長は正妻がふたりもいてどちらにも子供が3~4人ずつできている。もう昔の気軽に声をかけあえる立場ではない。(いいえまだ13、4才であった初期の場面で市場で顔を見知っていたという設定がありましたが、本来、下級貴族であってもまひろは素顔で市などという下人が出かける場所に市女笠もかぶらず供の乙丸も連れずに遊びに行っていた=正確には和歌の代筆に行っていたということ自体がありえませんけど!)

 

傍から見れば一介の越前の国司、官位は五位の貴族の娘にすぎないまひろに左大臣道長様から結婚にあたって贈り物がくるなんてどう考えてもおかしい。というか怪しい。

そんな「何かあるんじゃないか」という周りの疑惑の視線(実際何かあったことにこのドラマではなってるが)はともかく家司に昇進したのだろうか、立派な装束に立て烏帽子というすっきりした身なりの百舌彦がこれらの贈り物をたずさえて為時邸にやってきた。

「出世したのね百舌彦・・・!」

「長い年月が経ちましたので・・・」

という会話から、道長とまひろが出会ってからもう何年?裳着を迎えてからでももう10年以上たつという設定だったことを思い出した。

食事の用意とか市への買い出し、山で薪の収集とかいう下男下女の仕事は別として、家計の切り盛りや客人の取次や接待、贈答品の手配などといった家の運営一切をとりしきるのが家司で、近代ヨーロッパでいう執事みたいなものかもしれない。

百舌彦のまとう装束にはそういう意味で出世が感じられる。まひろが感嘆の意を表したのもそういう変化だろう。

(まひろが百舌彦と喋っている設定というか顔見知りな設定が、なんか鎌倉時代~戦国時代で色々と平安時代のドラマじゃないなと思うが、しかし伏線を回収したりまたキャラ同士の絡みという意味で顔見知りじゃないと色々話が食い違うので、細かい事にはツッコまないことにしよう)

 

乙丸ときぬ

出世と言えば。

乙丸の衣装も、単なる麻の質素で素朴でなかばすりきれてた気がするが、いつからか豪華な生地の、簡素だが亀甲紋が所々に配された狩衣に変わっている。まひろの衣装が絹の豪華な刺繍入りのものに変わったように、為時が国司に任ぜられたタイミングで、いとも含めて使用人全体の衣装がランクアップしていた。

明日の食料もままならない、雨漏りしても修理もできなかったまひろの子供時代を想えば、感無量である。

百舌彦はもともと右大臣兼家が存命だった時代から道長に仕えていたのでそういうひもじい目にはあってないが、しかし主人が出世したという意味で、視聴者としても感無量だ。

そして越前から乙丸もまた結婚相手を連れて帰ってきていた。名前をきぬという。越前の海女である。ようするに素潜りできる健康な労働者、という貴重な人材を気軽に下女として連れて帰ってきてもいいのか、現地の反応が気になるが、まあ細かいことは気にしない。

裏を返せばきぬを新たな下女として雇うだけの財力は為時邸にある、ということ自体が最大の変化だ。ドラマの初回、あんなに使用人への給料(現物支給)の支払いもとどこおりがちで、下人は次々といなくなっていたのに。もう過去のことなのだなあ、と懐かしい。

 

素朴で駆け引きも裏も何もない、乙丸ときぬの会話をきいていると心がほっこりする。

 

いとと福丸

そしてまひろが越前から帰ると、いとにも恋人が現れていた。

そう、あくまで恋人である。ほかにも妻がいて、たまーーに通ってくるだけの男と解説されている。名前は福丸。身なりも悪くなく下級貴族なのだろうか、如才なく立ち振る舞う。大地震がきたときはさっさと遁走し、あとできぬに連れ戻されている。

惟規いわく

「いとには俺がいればいいのかと思ってたけど、違ったんだなーこれが。」

だそうで、確かに惟規の乳母だったいとはずっと若様の成長が楽しみで…!とそれを恃みに生きてきたところがあるけど、何の弾みかで恋がめばえることもあるのだろう。

ほかにも妻がいるという設定から福丸には正妻がいていとは妾という立ち位置になる。

しかしいとが語る福丸のいいところは

「見目麗しくなくても財産や地位がなくても、また衣装がセンスがよかったりしなくても、私のことを大切にしてくれたらそれでいいのです」

と恋愛の本質みたいなことを言っていて、案外当時の庶民の恋愛はそういうものだったのかもしれないし、それが本来大切にすべき気持ちかもしれないなと思う。

政治の駆け引きにばかり娘の結婚を利用しようとしている上流貴族のみなさまに聴かせてあげたいものである。