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- 儒教に縛られる前の時代の自由な恋愛
- 日常生活の身近にあった生と死
- 中宮定子
- 敦康親王の誕生と登場人物それぞれの立場
- 太陽と月
- まひろの結婚生活
- 道長
- 彰子
- 道長と糖尿病
- 定子の死と清少納言
- 後日譚
- 宣孝の死
- 気苦労が絶えない倫子
- 乾坤一擲の勝負に打って出た道長
儒教に縛られる前の時代の自由な恋愛
平安時代を描くドラマにおいて、摂関政治が後宮を舞台に駆け引きが行われるからというのもあるが、恋愛がテーマとして扱われてるのがほかの大河ドラマとか歴史ドラマと大きく違う点だと思う。今回がはじめて平安中期を扱っているほかは、古くても鎌倉殿の13人とかにみられる鎌倉時代以降、戦国時代~幕末にかけてのいわゆる武家政権がほとんどだからだ。
本格的に政権の推し進める思想として儒教が採用されるのは江戸幕府なので、戦国時代までは女性もおおらかに振舞っていて開放的で自由だった気風が残っていた。
とりわけやはり今回のドラマで見る平安時代は、いまだ奈良時代以来の古代の風習が色濃く残る。夜の闇におびえ、病気や天災、異常気象は物の怪のしわざとか祟りと信じて仏教の僧に祈祷させて解決しようとする。
そして男女関係は通い婚だったからというのもあるからか、一夫多妻制だったから再婚は普通に行われていたし、浮気という概念も今とは違っていた。
江戸時代以降よりも、平安時代は人生の選択がずっとバラエティに富んでいたということもできるだろう。(身分による差別は厳然としてあったとしても)
儒教では「貞女は二夫に見えず」と、女性の生き方は極端に制限されてきた。
※出典:史記の田単伝から「忠臣は二君に事えず、貞女は二夫を更えず」
現代語訳「忠臣は二人の君主に仕えない、貞淑な女性は夫の死後に他の男性と再婚しない」
この儒教の教えの根拠というか、儒教は孔子や弟子の言動や教えをまとめた四書つまり『論語』『大学』『中庸』『孟子』と、五経『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』からなる古代から伝わる思想である。上記の「貞女は……」の句が載る史記の田単伝はじつに紀元前の戦国時代B.C.284年ごろのことが題材であって、日本の江戸幕府が教義を政治的に採用した時点ですでに1800年以上経過していたのだから、国も経済や政治の背景も全く違う。よって全く過去の遺物である思想をA.D.1600年すぎてから採用したことが間違いである。
つまりこの思想に縛られない平安時代の女性は(今現代からみれば常識が色々違っていたとしても、)各々が個性に富んでいて、そしてその個性を存分に生かし発揮することで、豊かな文化を形成していた。
それが貴族社会の中だけであったとしても。これを社会のすべての層に満遍なく行きわたらせるには社会福祉と民主主義の概念の普及が必要であり、明治維新ひいては第二次世界大戦後を待たなければなければならなかった。
日常生活の身近にあった生と死
このように、平安時代は分類上は古代である。中世とは鎌倉時代以降を指す。農業、経済、物流と貿易、政治、思想と文化、どれをとっても平安時代はまだ古代の気風を濃厚に残している。インフラに至ってはまだ存在しない。
ずっと回を追うごとにコンスタントにこのお題は登場しているが、登場人物の身分だとストーリーに関わってこないので庶民生活のストーリーテラーとして主人公のまひろに語らせているようだ。鴨川の氾濫でまひろの屋敷も浸水したり地震で被害を受ける中、孤児たちを家に呼び集め、おにぎりをボランティアで振舞うまひろ。
「あのこどもたちは鴨川の氾濫で親を失った子ばかり、ほうっておけば間違いなく飢えて死にます。」
そこで(身分的に夫宣孝と矛盾が生じるため)宣孝からは言下に諫められている。
例①:
「親がない子供たちを家に入れるなど汚らわしい。飢えて死ぬなら子供とはそういうものだ」
光明皇后を始祖とする悲田院とか施薬院は継続して平安京にも設置され、孤児も救済していたようだが、あくまで都の範囲内で貴族の手の届く範囲内でという意味だろう。それにこの事業がまじめに稼働していれば都の乳児と子供の死亡率は下がってただろうし、そんな記録は残ってないと思うので、ここは宣孝様のいう通り、庶民への社会福祉システムは機能してなかったといっていい。
むしろ病気を治すという概念に乏しく、死は物の怪によるもので穢れに直結するとして忌み嫌われていた当時、平民でしかも親が死んだ子などは行き倒れになって道端に転がっていたのが普通かもしれない。
貴族の中でも官位によって衣装で区別され、また書や和歌に秀でていたり、管弦や弓などの芸に通じていたりするかどうかで明確なランクづけがあったはず。
まして平民など貴族からは人間と思われてなかった扱いだし、貴族の家でも使用人と主人とには厳格な身分の区分がはっきり見て取れる。
例②:
「まひろへ土産にと思うて丹波の栗を持って参った。皆へではない、まひろお前にじゃ」(越前から戻ったばかりのまひろに向けて)
貴族などの邸では、主人に仕える女房や乳母(まひろ邸でいえば、いと)を除いて下人など使用人は完全に生活エリアが分けられていた。当然食事とか口にするものも全く別で、みんなで分けようとするまひろのほうが事実に反する。
でもこのあと、まひろの越前からの帰還を祝って宴会が開かれ、宣孝とまひろは意味深な視線を送り会って愛を確かめ合ってて惟規が戸惑ってるのはいいが、しかしこの宴席に乙丸ときぬ、いとと福丸が同席してるのは身分的におかしい。
宣孝様がこどもは飢えて死ぬのが当たり前と言ってるのならここで使用人は母屋には上がれないのだ。でも主人のまひろが一年ぶりに帰還したから特別のはからいだったのだろうか。
さて、ここで語られたのは庶民の生活だったが、ここからは高貴な身分の方々について3つの時間軸が並行して語られる。それぞれに身分も立場も全く違う3人の女性。
定子と、まひろと、そして彰子である。
彼女ら3人をして主人公ともいうべきドラマであり、今回はそれぞれに人生の転換点を迎えるところが描かれている。政治に、身分に翻弄されながら生きる彼女らのほんとうの思いはなんだったのかに焦点が当てられているように思う。
平民には人権がなかったこの時代、身分ある高貴な人々にもそれぞれの葛藤があって、生きるとはなんなのだろうという哲学的な思索に耽ってしまう。
中宮定子
(ただし定子は1000年2月以降は皇后となる。その経緯についてはあとで述べる)
定子の御座所は以前に藤原行成が提案した職御曹司であり、正確には内裏ではないが一条天皇は変わらず定子を寵愛していたようだ。ほかの女御様、元子や義子のもとにも通っていたようではあるが。
中宮の御座所には御帳台が設けられ、暈繝縁の畳2畳の四方に柱を立て、几帳のとばりを垂らすことで中宮としての格式がよりいっそう感じられるようになっている。
天皇の寵愛を一身に受ける、押しも押されぬ正妃としての格式である。
↓ちょっとだけ横道に外れる
※暈繝縁とは何か
雛人形でお雛様とお内裏様が座ってる畳の縁の紋様のことである。ここでいう暈繝とは織物における境目をぼかさないで同系色で遷り変っていく錦(絹織物)のことをさす。
この畳縁は帝やその妃、上皇や皇太后など限られた高貴な人たちにのみ使用が許された最高格式の紋様で、装束と同様に、貴族社会では官位によって畳縁に使用できる紋が細かく定められていた。
ルーツは中国のさらに西方、ペルシャやシリアに求められる説もある異国情緒豊かな紋様である。
暈繝紋が日本へ伝来した当時の伝世品として、正倉院に残る紋様がある。パターンのサンプル画像を引用してみよう。
七曜四菱紋暈繝錦
この紋様は正倉院に伝わる螺鈿箱の内張りに使用されているが密閉された状態だったためか、色彩があざやかに残る。
花紋暈繝錦
暈繝紋は織物以外にも仏教的紋の法相華だったり寺の軒下の塗装であったり、様々なところで用いられていた。この花紋の錦も正倉院紋様として伝えられているもので、このような様々な紋が変遷し平安時代には畳縁を飾るための由緒ある織物として伝えられるようになったのではないか。
画像リンク:
http://www.kariginu.jp/sozai/ungen-7you.gif
http://www.kariginu.jp/sozai/ungen-tenpyou2.gif引用サイト: 有職装束【綺陽装束研究所】
さて題名にある宿縁の命とは、まひろと定子の懐妊を指すと思われる。それぞれに運命というか宿命を背負って産まれてくる子たち。
時はだいたい999年4月末山桜のころから新緑の5月にかけて。
定子は二人目を懐妊し、子の性別はまだわからないながらも、出家した身で懐妊など許されないことだと自己嫌悪にさいなまれている。
伊周があんな事件を起こさなければ、道隆が若くして糖尿病で亡くならなければ。今更蒸し返したところでどうにもならないが……
しかし定子は憔悴したようすにさえ、凛としたおごそかな威容が感じられる。
溌溂とした天真爛漫な少女のころ、女御から中宮のころ梅壺で輝いていた定子とはまた違って陰翳が人生に影を落とし、そのことがよりいっそう怜悧な美貌を際立たせている。
何がすごいって13歳の入内したばかりの女御の定子とこの皇子出産前の苦悩する定子を見事に演じ分けられてる高畑充希さんがすごい。表情ひとつ、憂いを帯びた視線ひとつにまで台詞はなくともありありと定子の心情がみごとに表現されている。
この定子の窮状は帝にもどうにも介入できない問題であり、宮中の女官から、公卿たちからあらゆるところで蔑まれ中傷されるさまを黙って見ているほかない。
「産まれる子はきっと皇子だ、きっと中宮を守って見せるぞ」と帝は強気に中宮を励ましているが、歴史上の結末を知っている視聴者からは、帝の励ましも空回りにしか見えない。
敦康親王の誕生と登場人物それぞれの立場
そして999年11月7日定子に第二子、待望の皇子が誕生する。このことは帝と定子、そして清少納言ほかお付きの女房達を大いに鼓舞したことであろうが、しかしそんな雰囲気になっているのは関係者の周辺だけだったようだ。
なぜならこの11月はじめには道長の長女、彰子が入内したからだ。中宮の産み月はわかっていただろうにほぼダブルブッキング状態なんてあんまりだと思われるかもしれないが、道長の事だから当然わざとぶつけているのである。
さて定子の周辺の方々の反応がそれぞれにあからさまに自己中なのでまとめてみた。
帝
帝だけは自己中ではない。帝だけはほんとうに出産にあたって定子の無事を懇願していたし、中宮が父道隆という後ろ盾を失うなか、中傷に堪え、重圧を背負いながら皇子を産んだという偉業を涙ながらに讃えている。帝でも神に祈るしかない状況だったことがうかがえて、痛ましすぎる。
この場面以降、帝と定子の登場する場面はすべて涙なしには見られない。
運命の歯車はもう動き出していて誰にも止めることはできないのだ。
あまりに悲運なふたり。
居貞親王(春宮)
道長の報告を聞いて、心底から悔しがっている。「皇子か~~………(´;ω;`)」と、あからさまに失望した様子。そりゃそうでしょうね。ただし現春宮さまは次の帝位が決まってるから心配いりません。ここの場面の登場人物がみな懸念しているのは、現春宮の居貞親王さまの次の春宮様に誰が選ばれるかという問題です。まだ今の帝、一条天皇がご健在であられるのにまだ決まってない次の春宮様の候補を考えるとか不敬では?と普通の人はお考えでしょうが、このことによって一族郎党の運命がみな変わってきかねないのだから神経をとがらせるのは当然。現に定子様に皇子(次の春宮候補)が産まれないうちに政治的後ろ盾の道隆が亡くなったことが、中関白家の衰亡の遠因を招いたのは明白な事実。(重ねて言うがそれは誰のせいでもない)
さて。展開は180° 変わり、中宮定子様という帝の正妃(たとえ出家していても)に皇子が産まれたとなれば次の春宮様の座は確定も同然。
そこで居貞親王が懸念してるのは、自分と正室の藤原娍子との間に生まれた敦明親王が次の春宮になれる可能性がほぼ消滅しそうなことだ。
帝の地位は世襲ではなかったから自分が将来の帝になるからといってその子が将来どういう道をたどるかは全く分からない。政治的後盾がなければ、もし帝になれたとしても花山天皇のように時の権力者(=兼家)に無理やり退位させられることもあるからだ。
これでは敦明親王どころか現春宮、居貞親王自身の将来も危うくなってきたところである。
道長
上記のように現春宮でさえ眉を曇らせる不利な状況で、後から長女彰子を入内させたばかりの道長などはこれで窮地に立たされたかと思われた。崖っぷちにして風前の灯火。血統からいえば、現在の中宮が第一皇子を産んだのだからもうその地位は覆らないと思われるからだ。
春宮の居貞親王にも「さぞや残念にお思いでしょうな、叔父上」と面と向かってはっきりと皮肉を言われる道長だが、ここで弱音を吐いては左大臣の名折れと思ったのか、謎の強気発言を放つ。
「皇子様ご誕生でますます帝のお心が中宮定子様のもとに傾かれるのを引き留めるためにも、私どもの長女彰子が入内したのには意味がございます」
とかなんとか、苦し紛れの屁理屈をこねている。
さっぱり意味が分からない。
帝の眼中には中宮定子しか見えていないことは誰の目にも明らかだし、新たに入内させた元子と義子らの女御様もあまり帝の心をとらえられているようには見えない。
ここで絶体絶命の窮地に立たされる道長だが、転んでもただでは起きない肝の据わり方なのか、これから後の巻き返し振りがすごい。どういう経緯をたどるのかは、歴史書にも詳しいことなので省く。
そのうち登場する場面も多いだろう。
伊周
この時点で群を抜いてリードの位置を取ったのは、父道隆亡きいま敦康親王の外戚として後見人の立場にある伊周だ。その浮かれようは有頂天というにふさわしく、まるで突然この世の春が訪れ覇権を謳歌しているような口ぶり。定子には焦らないでと優しく釘を刺されている。
確かに定子は出家の身で皇子を産んだが、伊周も宮中へ官位が復権したいま、政治的後ろ盾も盤石に見える。
しかし伊周がまったく忘れていることがある。それは世論だ。
そもそも定子が剃髪する原因となった長徳の変は伊周(と隆家)が故意ではないにしても直接の原因となり捕縛にも従わず逃亡したからさらに罪は重くなったのに、自分の過去と責任は放棄して定子の産んだ皇子を足掛かりに、外戚として政治的覇権を狙うのはいかがなものか。
中宮定子でさえ内裏へ上がれず縁者の屋敷を転々として暮らしている日陰の身だというのに。
伊周の主張には一番肝心な点が抜け落ちているのだ。
隆家
伊周とは正反対に、弟の隆家は冷静だ。だいたい、長徳の変後、流罪が赦されて出雲国から帰京し挨拶に行った先は道長の所だった。隆家は自分たちの手ではもはやどうすることもできない時代の流れの変化を読んでいたのかもしれない。いや、伊周もそんな時流の変化は百も承知だっただろうが、そこに正面から対抗していただけだ。隆家のほうが事実にきちんと向き合っている。
「中宮様に皇子が産まれたとなれば、次の春宮様として全力でお支えすることでわれらの世が来るだろう!」
と気勢を荒げる伊周に対して、醒めた視線を向ける隆家。
「兄上~、皇子様が春宮になられるということはすなわち、今の帝がご退位なされるということですよ!?そうなれば中宮様である姉上の地位も傾く……焦っても、いい芽は出ないと思うがなぁ~~」
そうだ。皇子様誕生!春宮様へ!という展開は即ち一条天皇の退位を意味する。
定子が自ら剃髪したとはいえ、伊周と隆家は政治的に復帰しているというのにこの中関白家の兄弟への世間の風当たりの強さはなんなのだ。父道隆からすべてを受け継いだ気鋭の若手貴族ではなかったのか、伊周は?
歴史にもしもはないけど、定子の苦悩、そして残された定子の皇子と内親王の今後たどる運命は、すべて伊周そして隆家にもっと人望があり、かつ有能であれば回避しえた結末なのかもしれない。
【※もっとあとの場面になるが、長男道雅に舞(雅楽?)を目を血走らせて教えたあげく気に入らずに怒鳴り散らして正室が取りなす場面があった。いうまでもなく権力を手にした道長の二人の嫡男が晴れ舞台で披露する舞と比較している。伊周邸の調度類も閑散としたものにすることで、一族の凋落を無残にというか露骨に描いていて見るに堪えない。】
女院様(東三条院詮子)
(詮子は先々帝の円融院の女御であった。ただ、ほかの女御に皇子がなく、詮子の皇子懐仁親王が春宮に、そして一条天皇として即位したため母后として女院の称号を授けられたのだ。円融院が在位だったころは関白藤原頼忠を父に持ち、公任の姉上でもある遵子が中宮として後宮に君臨して帝の寵愛を一身にうけていた)
そんな中、帝を第一にとひたすらお守りしてきたのですから………
もはや中宮定子は剃髪しており妃とは呼べない身、定子を第一に大切に扱えば宮中の反感を招き、帝にもよくない影響がありましょう………
いい加減、演説が長いですね。
ここまですべて帝に切々と訴える女院様の語りである。
この親子、帝から見てのマザコンではないが、女院様が病的なまでに子離れできてない気がする。いつまでも親の権威をふりかざして言いなりに動かそうとする傲慢さがありありと見て取れる。女院様がおっしゃられる通り、妃としての人生は恵まれたものではなかったけどその気持ちをぜんぶ子の一条天皇にぶつけるのはなんか違うのでは…?
そういえば道隆亡きあと、関白の座はともかく、内覧を誰にするかを巡って、順当に伊周に決まったと思われた矢先に帝の寝所へ(蔵人頭の俊賢が制止するのを振り切り)単身で乗り込んでいって、涙ながらに道長を内覧に抜擢するよう切々と訴える場面がありましたね…?
あの直訴事件(ドラマオリジナルかもだが)がなければ、道長は確か権大納言・中宮大夫兼任で正二位止まり、よくて右近大将までだったのですよ?そうなれば後の展開はいわずもがな、伊周が天下を取って丸く収まっていたはずです。
恐るべし、女院様の影の権力。
今回も女院様は情に訴えて帝を意のままに操られるのでしょうか。
しかし帝もいつまでも操り人形のままではない。
いい加減ここまでくると人格を無視されていることに気づくだろう。政治的権力の座につくことは往々にして他者の介入を招き事実上の権力を骨抜きにされるのは、古今東西どこでも見られることだ。
一条天皇は絞り出すように、そして吐き捨てるように女院様へ向かって言い放つ。
「私は定子ひとり幸せにはできないのです。女院さまの強引な意見を避けるために定子に逃げたのです。そのことをわかっていただきたい」
ここで女院様が訴えていたのは定子の勢力を削ぐためだけのようで、何か決定的な隠し玉をもっていたわけではなさそうなので、当面は定子の身柄は安堵されたようだ。
太陽と月
(これより少し前の時期のことだが)伊周が大宰府から恩赦で帰還後、職御曹司に出入りを許された時期のころ。清少納言は宮中で定子への誹謗中傷の噂が渦巻く中、そんな話などなかったかのように明るく振舞う。
「唐の国では皇帝は太陽、皇后は月と申します。ですがわたくしにとって中宮様は太陽でございます。 近寄ると火傷されますわよ」
と、中宮に辛辣な目を向ける伊周を軽く鼻であしらいつつ、清少納言は中宮定子と軽く目配せして、お互いに微笑むのだ。
「さすが少納言、洒落た皮肉を思いつくこと」
「中宮様にはおわかりいただけたようで光栄に存じます」
などとふたりだけにしかわからない心の会話が、二人の目配せから読み取れるような軽妙なやりとりに、すっかり伊周は蚊帳の外で仲間外れにされている。定子のサロンには機知に富み文芸に秀でた聡明な知識人しか出入りを許されないのだ、政治的出世ばかり考えている伊周のような無粋者、ウイットに富んだ会話のひとつもできない者が来る場所ではない、といわんばかりだ。
(わたくしにとって)世界は太陽すなわち中宮様を中心に回っているのですから、何人たりとも否定は許しませんし邪魔もさせません
と、つまりこういう意味か。
中国では古来、天命をうけた統治者が皇帝として天下を治める資格をもつと考えられた。そして皇帝は太陽をつかさどり祭祀する立場であったところから、皇帝は太陽、皇后は月という中国古代の思想を引用しつつ、そこにちゃっかりと清少納言の主張をいれたものだろう。清少納言の中では中宮は輝きを失わない太陽で、その主観は枕草子にそのまま取り入れられていると思う。
このころ定子の運命は傾きつつあったが、清少納言を見ているかぎりその周辺はかぎりなく明るく華やいでいて昔と変わらない後宮の雰囲気を演出しているように見える。それが清少納言から主人である中宮定子への精一杯の心づくしだったのだろう。
まひろの結婚生活
男の不治の病、それは浮気(病ではなく確信犯)
さて、一般の平民ではないが春宮様や左大臣のお屋敷などあたりからは身分もしつらえも程遠い、まひろの為時邸における結婚生活が始まっている。
最初は宣孝はまひろに惚れ込んでいてお通いも頻繁にあり、睦まじく暮らしていたようであったが、でも忘れてはならない。まひろは宣孝の五人目の妻つまり妾なのであって、すでに他の妻との間に計6人の子もいる。
以前、為時が越前にてまひろから宣孝からの求婚の話を打ち明けられたとき、
「宣孝殿には何人も妻も子もいる。まひろのこともいつくしむであろうが、他の妻のことも同じようにいつくしむであろう。潔癖なおまえがそのことを気に病まなければよいのだが」
という意味のことを指摘して、まひろの性格を心配する場面があった。
まさしくそのような展開を迎えつつあり、まさに想像通りテンプレでしかなく、視聴者としてはものすごく予想できた筋書きで、意表を突くわけでもなく面白くもなんともない。しかしこの展開はたぶん史実なので抜かすわけにはいかないのだろう。
通い婚の時代の平安京において貴族の男の浮気なんてせいぜい甲斐性くらいにしか思われてないし、それに出世をもくろむ貴族には(平均寿命も短い中)たくさん妻と子、特に入内させることのできる姫をもつことは政治戦略的にも重要な事だったから、一概に責めることはできない。
しかし具体的に聞いてるととても見過ごすことはできない浮気ぶりであった。
宣孝いわく
「まひろからの文を他の女に見せびらかしているのだ。学のある妻を持ったと皆に自慢したいのだ。なに、文の内容をみんなに褒めちぎっておいたのだからいいだろう?」
そしてもうひとつ、惟規からの密告(タレコミ)によると、「他の女と清水の市に行っていた」らしい。そこで買った反物をまひろへ贈ってきて思わずまひろはそのことに対しツッコミを入れてしまう。あんなに触れないでおこうと惟規と約束してたくせに。
惟規は「宣孝様のことひっぱたいてやりなよ!それでもあの方は、姉上を絶対手放さないから!」などと根拠もなしに断言する。
そして清水の市でのことをまひろに指摘されても宣孝は軽々しく頭を下げ、謝れば何も無かったことにできると思っている。そしてダメ押しに
「お前の可愛げのない所に左大臣様も嫌気がさしたのであろう」
なんでここで(このドラマではふたりの三角関係の一角である)左大臣が出てくるんだ、宣孝は左大臣に身分でも教養でも敵わないから嫉妬したのか、大人げないことだ。
↓
堪忍袋の緒が切れ、宣孝に火鉢の灰を投げつけて去る。
まひろ、いいぞよくやった。
ひっぱたくよりよっぽど効果がある。
しかしその後宣孝の通う足は遠のいた(当たり前)。
まるでコントのような展開。
いとは頭を下げて自己を曲げ寄り添えと忠告するがなんでそうなる?江戸時代からの回し者か、いとは。女ならまひろの味方して宣孝にきつくひとこと言ってもいいだろう、このドラマの身分の曖昧ぐあいからいって。
この辺の史料は遺ってないだろうからオリジナルストーリーだと思うが、自分は「浮気するなら別れてからにしろ派」なので、こういう場面を「あるあるパターン」としてスルーはできなかったので逐一台詞をメモさせていただきました。
平安時代のことであり貴族なら妻は何人いても当たり前だったとしても、です。ひとりの妻のもとにいるときに他の女の名前を出す必要は無かろうと思うからです。どっちの妻の人権も侵害してると思います。
火鉢の灰を投げつけるのは、源氏物語でいえば黒ひげの右大将と正妻が玉鬘を巡っていさかいになり、(いまでいう精神疾患を病んでいた)正妻が右大将に灰を火鉢ごと?投げつける場面がありましたので、当時全くない事というわけではなかったと思う。ただし灰で火傷したり衣装が燃えたりする危険があったと思いますが。
ここでどん底まで、落ちるところまで落ちるまひろと宣孝との夫婦仲ですが、なぜかここで「気分転換しましょう」と称して、まひろは使用人を引き連れて石山寺へ参詣に出かける。
なぜか。(為時はまだ越前で国守任官中)
これが999年2月ごろ。
その後、999年5月ごろのこと。
さてまひろの石山寺行きのことも知らずに宣孝はまひろのもとに喧嘩以来ひさしぶりに訪れた。たぶん顔を合わせづらかっただけで、まひろのことが嫌いになったわけでは決してないようだ。
とにかく宣孝はまひろに首ったけのようで色々と貴重な土産の品を買い込んでくる。大和の墨と伊勢の紅、都の女なら誰でも喜びそうな一級品。大和の墨は現代でも当時の手作りの工程を守っていて、今なお名品として誉れ高いのは有名だ。
「どこへ行ってもおまえのことしか考えておらずつい色々買い込んでしまったのじゃ」
こういわれると浮気ぐせも許せる(……?)というかまひろの所に来る=他の妻からは足が遠のいているわけで、持ちつ持たれつという気もするが。
まひろの所へやってきたのは賀茂の臨時祭で神楽の人長に任ぜられたからであり、さらに宇佐八幡宮へ奉幣使として999年11月に派遣されるという。これらの人事もすべて左大臣様のお計らい、まさに持ちつ持たれつ。
いいのだろうか?こんな乱れた男女関係で。
大弐三位の本当の父(というドラマオリジナル設定)
さて999年の2月ごろにまひろが石山寺に参篭しているときになぜか偶然参詣しにきた道長に遭遇して昔を懐かしみ、ついでになぜか一夜を共にする展開になっている。
なんですかこのありがちな少女漫画の妄想みたいなストーリーは。
自分は軽くスルーしたい。
だってこの説を認めると
・紫式部と道長のW不倫になってしまう。いくら性に開放的であり寛大な平安時代においてもそれはさすがに常識として無理がある
・紫式部に宣孝以外の夫がいたことになってしまう。それは史料が少なすぎて否定もできないのだけど。
…(ヾノ・ω・`)ムリムリいやいやいや……なんでやねん!!!
というふうに、あらゆる諸説が根底から覆ってしまうので個人的にはスルーしたい。
しかしドラマ公式はこの説で行くようなので、仕方なく大弐三位の父上が道長説だけは採用してみることにする。
まあ否定する材料もありませんので。(もう苦し紛れのやけっぱち)
そしてまひろのご懐妊が家族と使用人全員にバレるわけだが、まあ隠してもいずれバレるけど、計算上ご懐妊の時期は2月であり宣孝様と絶賛喧嘩中の時期である。なんでそんなときにまひろは浮気しちゃったんだろうほんとの事がバレてしまうじゃないかと呆れるほかない。(というかこの設定が色々ザルのような穴だらけ)
宣孝は高齢になってきたという設定か、いびきがすごい。これは高齢であるだけじゃなく睡眠時無呼吸症候群ていう病気なのでは?もしそうなら極度の睡眠不足で日中起きてられないし、寝てる間に呼吸が止まって危険である。現代なら寝てる間限定の人工呼吸器を装着して対処するところだけど当時はたぶん「いびきがすごいなあ」で終わってたと思うので視聴者としてはこれ以上ツッコミはしない。
そんなすごいいびきをよそに、まひろはそれなりにこれからの人生について思いを巡らす。
いやいや、浮気しなかったらいいだけだから!
そんな人生最大の危機みたいな顔して思いつめられても!
しかし人生最大の危機としてまひろは真摯にこの事態を受け止め、宣孝に相談する。
このくだりが宣孝の神対応により名場面になっているので、せりふをそのまま載せる。
ーまひろー
(月明りの夜、外に出て思いにふける)
よく気の回るあの人が気づいてないはずは無い
気づいていて敢えて黙っている夫に正直に言うのは無礼すぎる
さりとてこのまま黙っているのはさらに罪深い
そこで宣孝に別れを告げ、この子は一人で育てますと宣言しようとするまひろに……
ー宣孝ー
そなたの産んだ子は誰の子でもわしの子だ
一緒に育てよう!
それでよいではないか
わしの気持ちはそのようなことで揺るぎはせぬ
何があろうともそなたを失うよりはよい
一緒になるとき
”私は不実な女である”とお前は言った
”お互い様ゆえそれでよい”とわしは答えた
それはこういう事でもあったのだ
別れるなどと、二度と申すな
至言、名言です。
もうこのドラマの筋書きがフィクションとかどうでもよくなりました。
宣孝様のしょうもない浮気如きでつらつらと愚痴を書いていたのもどうでもいいです。
宣孝様のまひろへの無償の愛に、涙なしでは見られません。
夫婦とはこうして色々なことをお互いに乗り越えながら経験を積んでいくものなのでしょうか。
その後999年の暮れ、(中宮定子の皇子出産とほぼ同時期に)まひろの産んだ子は姫であった。
名を藤原賢子、のちの大弐三位、またの名を藤三位(とうのさんみ)、越後弁(えちごのべん)、弁乳母(べんのめのと)とも呼ばれ、宮中女官として活躍することになる。
また、母の血を受け継ぎ宮中歌人としても名を馳せる。
まひろは乳飲み子のころから為時の漢籍を横で聴き、また読み親しんで育ったからか、賢子にも「蒙求」を子守唄がわりに聞かせていた。
王戎簡要 裴楷清通
楊震関西 丁寬易東
謝安高潔 王導公忠
といった具合に。
がんばれ姫さま!
道長の妻、明子の三人の息子は3人ともちゃんと暗唱できてましたので、負けないでください!(別に勝負ではない)第一回の幼少時代のまひろ登場回から一貫してドラマの中で漢籍の定番として蒙求が繰り返し登場するのは、箇条書きの語句がドラマの中で短いフレーズで印象に残るからだろうか?
繰り返し聞いているうちに視聴者側もなんとなく「ああアレだな」とピンとくるようになった。
そして明子の三人の息子が漢籍に通じるのはわかるが、まひろの娘に対しては「姫様なのだから(仮名文学と和歌に親しめばよいのでは?)」と、乳母として雇われているあさがボソッと横でツッコミを入れる。ごもっともな意見でございます。でもまひろは越前で、宣孝が土産に持参してくれた、都で人気の肌油(乳液?白粉?)などはポイっと放り投げて漢籍の土産のほうに飛びつくくらいなので、乳母の意見はスルーされると思います(´・ω・`)
まひろ曰く「学問の面白さをわかる姫になってほしい」
のちにまひろが女房として出仕する中宮彰子の後宮には、ほかにも才媛の女房がずらりと名を連ね、まひろと大弐三位同様に親子で彰子に仕えることになる者も出てくるので、後の展開を考えると、ここで子守唄代わりに蒙求をまひろがそらんじているのはなんの不思議でもないしさすがの英才教育だと思う。
そして年が明けて西暦999年から1000年の正月を迎え、宇佐八幡宮の奉幣使から宣孝が帰ってきて姫に名前がつけられた。
宣孝いわく「賢子(かたこ)」と、賢い子になるようにと願ってつけたようだ。
これからドラマの展開は重要なターニングポイントを迎えるが、賢子は明るく開放的な為時邸ですくすくと、のびのびと育っていく。
道長
定子が敦康親王を懐妊したころ、道長は安倍晴明の占いから生まれるのは皇子とみて、対抗して彰子の入内の用意を万全にする。安倍晴明の占いはともかく、性別はわからなくても皇子の可能性はあったわけだから、対策は講じておくに越したことはないという設定なのかもしれない。そして果たして生まれたのは敦康親王であったから道長の気苦労も無駄ではなかった。
宮中は厳しい世界とはいえ妻倫子の協力はとりつけていたので鬼に金棒である。
道長は倫子を妻としたことで多々のアドバンテージを得た。
例えば ↓↓↓
・倫子は左大臣源雅信を父に持ち、曾祖父は宇多天皇という高貴な血筋
・同時に左大臣家の惣領姫でもあった倫子は父から広大で壮麗な土御門殿をそのまま相続することで、のちに公卿を招いて様々な行事を自邸主催で開催できた
・保有財産も妻と夫で別々に所有する時代であり、倫子のほうが道長よりも多くの財産をもっていて道長はその援助を一身に受けたため、財政的に道長は何の懸念もなく政治活動を展開できた。彰子の入内にも財政的に悩むことはなかった
道長の実家は右大臣兼家の邸宅だが、この「右大臣家の三男坊」というある意味正嫡でもなくさりとて下位貴族でもない生まれが、ある程度の自由の効く人生を道長に与えてくれたのかもしれない。さようなら遥かなる少年の日々、そしてさようなら四条の宮で公任や斉信等ライバルの有力貴族たちと互いに研鑽し合った青年の日々。
今後、政治家としてトップに立つからには手を汚さずに居る事はできない、それは姉詮子の言った通り。
彰子を入内させることに決めた以降の道長はすべて政治的打算のもとに動いている。
自分の勢力を広げるためには手段を選ばず、
友人や姉の女院などのコネは全て最大限活用し、
極めつけに政敵はことごとく全力で妨害し完膚なきまでに叩きのめし蹴落としていく。
そこには温情とか慈悲とかいう人間らしい心の機微はもはや存在しない。
前の回で女院に言われた通り、一族の中でひとりだけ綺麗な立ち位置にいるのはやめたようだ。というわけで今までの良い人ぶった風な
「しょうがないから行動し、なんとなく周りに流されてきれいごとを言っている道長」
とは別人格の道長になるので、もう視聴者ももとの明るく気さくで朗らかな道長には会えないだろう。
道長が持てる財力のすべてを注いで政治の前面に出てくるのはここからだ。
彰子の裳着の式の腰結役を東三条院詮子に依頼することで儀式に最高の格式をもたせる。
そしてこの儀式を自らの住む壮麗で広大な土御門殿にすべて(といっていい)公卿たちを集めることで権威を広く世の中に誇示する。
(腰結の役は、身内で社会的地位のある人に依頼することが多い。まひろの裳着で腰結役は宣孝だった)
道長本人は単に長女の裳着の式を執り行っただけだが、状況があまねく道長を政治的に支援する方向になびいている今、この裳着の式への招待を断る勇気のある貴族はいなかったのではないか。それはすなわち最高権力者への反逆ですらあるからだ。
はたして彰子の裳着にはいつも内裏に参内する高位の貴族がほぼ全員顔を出したようで、つまり今の朝廷には道長に反旗を翻すものはおらず、道長の独裁体制に入ったといっていいだろう。
この後の酒宴で公任と斉信と行成はいつものように酒を酌み交わすが、公任の言う
「左大臣は自己の利益のためには動いてない、それが出世一辺倒の俺らとは違う所さ」
とかいうせりふが歯が浮くような白々しさで、とても本心から言ってるとは思えないがしかし発言した公任の表情に偽りはみられない。行成は道長ファンなのでいつも通り賛同の意を示しているだけ。そして斉信は「そんなん興味ないけど」とでもいうようにあくびをしている。斉信はあくまで我が道を行き、道長の傘下に降る気はないようだ。
彰子
道長の後宮政策の要として画策された、一条天皇の後宮への彰子の入内。
それでは彰子の人間性、そして彰子自身の意志はどうだったのかと考えてみる。
定子が入内したとき13才、帝はまだ10才だったこともあって当初は遊び相手のような感覚だったが、彰子入内時は一条天皇はもう20才であり、正妃の中宮定子との間に内親王皇子がひとりずつ産まれている。
ここで、長徳の変後の登場人物の官位と年齢の推移をメモしておこう。
左が長徳の変の前、
右は彰子の入内後の1000年の時点。
彰子は一族の命運を背負った存在だったと言っていい。
(道長が関白の座を断っているのは、内覧と左大臣にとどまっていたほうが会議(陣の定め)にも出席できて政策決定の場に関われるから、とドラマでは語られていたがほんとうのところは分からない)
定子の父道隆は、兼家から家督、政治権力、経済基盤全てを受け継いだ嫡男であり、定子はその盤石の後見を受けて満を持して一条帝の後宮へ入った。誰もが納得する、後宮における后の要といっていい存在、それが定子だったと思う。
定子自身の性格が明朗活発、朗らかで聡明であり、そのサロンは宮中の文化人があまねく集う場として知られていた。
皇子を産むという后としての宿命を背負ってはいたが、定子のもつ本来の人間性そのものが尊重されたのびやかなサロンであったと思う(長徳の変さえなければ)。
彰子の入内には逆に、道長の政治的期待がすべてかけられていた。
入内して彰子が日の目を見なければ後がない、背水の陣を敷いたのだ。
どういうことか?
定子の懐妊(999年暮れに出産の見込みの)がもし皇子だったら、伊周の復権は必至。
そして現春宮の居貞親王には敦明親王という次代の春宮候補となる長男がいて、傍から見れば次の春宮はこの敦明親王と、定子の産むかもしれない皇子(のちの敦康親王)との一騎打ちの様相であり、そこに外戚として道長が入り込む隙間は1ミリたりともなかった。
はっきりいって道長は絶体絶命。
この事態を打開するためには、道長自身が外戚となれるように自分の姫つまり彰子を入内させる以外になかった。
一条天皇はその意図を分かったうえでの入内であったという点で、当初の帝と女御としての立場は、仲睦まじく寵愛を受けるという関係にはほど遠かったと見える。
ここまであからさまに権力をかさにきたやり方をまのあたりにして、辟易せずに居られるだろうか。
そこで、彰子の性格としてはどのような姫だったのかというと。
視線が定まらない。
発言がない。
表情もぼんやりとしていて喜怒哀楽もない。
弟の田鶴(のちの頼道)にも、姉上はなーんにもしてませんでしたって言われる始末。
要するに個人としての知見がない。
自発的な意見をもたない、周りに流されるまま。
でもよく考えてみよう、入内前の彰子はまだ満年齢でいうと11~12才。
小学5~6年生ごろ。
定子の入内より1才くらい早い。
この年齢なんて現代でいえば、人によっては引っ込み思案の静かな子、いつも部屋の中で遊ぶのが好きな、ちょっと運動の苦手な子とかいう性格に分類されて、それだけの話である。むしろ現代だと部屋の中でゲームとかネットとかITに通じてたりして、引っ込み思案とは限らない説まである。
まわりの大人たちは(定子に対抗しようとして)彰子が魅力ある女御様になれるように、華やかな後宮になるようにと知恵を絞るが、やり過ぎである。
そっとしといてあげれば、そのうち成長とともに性格もだんだん社交的に変わっていくかもしれないのに。
ソフト面での対策 担当:倫子
道長から説得されて彰子を入内させると決心した倫子は、持てるだけの人脈と財力を背景に名門左大臣家の姫君として恥ずかしくないだけの支度をさせようと躍起になる。
しかしどうみても空振りしているようにしか見えない。
本人にどれだけ響いているか、さっぱり実感がわかない。
たとえば後宮の注目を一身に集めるようなアイデアがないか、女院へ帝の好みをリサーチしにかかったりする。しかし手掛かりは全く得られなかった。女院様は自分の手で育てたことがないからか、母としての自負と気品にあふれた倫子をみて寂しそうに静かに笑うだけである。
せめて赤染衛門をして和歌と漢文の指導をさせ、知性においても彰子への教育は万全と思われたが、しかし肝心の明るく笑うという意味での華やかさに欠けるところが倫子には心配でならないらしい。でもこればかりは性格であって、外部の圧力でどうなるものでもない。
ハード面での対策 担当:道長
入内には彰子自身の性格以外にも、持参する調度類や衣装、連れていく女房など、後ろ盾となる公卿の財力次第となる要素が多い。
この頃の工芸品は唐や宋から輸入したものが優品とされた。しかし越前で宋人との取引を拒絶していたことからもわかるように、正式に国交も開かれてない関係で貿易額もわずかな取引であった中で輸入された品というのは天文学的な値段で、ごく限られた貴族しか手にすることができなかったはずだ。青磁や白磁などの花瓶や香炉、八稜鏡、螺鈿や蒔絵の贅沢な装飾がほどこされた経箱や二階厨子、筝の琴や琵琶などの楽器、そういう品が彰子の入内に際して揃えられただろうと思われる。
要するに道長と倫子のもてる経済力をもってすれば解決できそうだが(逆にそれほどの経済力がなければ入内のバックアップは難しかったともいえそうだ)、屏風が象徴的な道具として扱われていたようだ。このへんのことは当時の記録にもはっきりと出てくる。貴族の日記に出てくるので創作ではないらしい。
ドラマでは、一条帝時代に活躍した四納言を、公卿たちに歌を詠むことを依頼して回る源俊賢、詠まれた歌を清書する担当として三蹟の一人である藤原行成に加え、下記の二人を登場させることで、これからの道長の政権を支える有能なブレーンとして描いている。
藤原斉信
笛竹の 夜深き声ぞ 聞こゆなる 峰の松風吹きや添ふらん
藤原公任
紫の 雲とぞ見ゆる藤の花 いかなる宿のしるしなるらむ
さらに(ダメもとで依頼したのであろう)花山院からも歌が届けられ、一同がどよめいていた。在位わずか二年で道長の父兼家に退位させられてから、政界には関われないため詩歌や管弦の風流な世界に生きがいを見出していた花山院は、道長に今更おもねるというよりは純粋に得意な歌の腕を競う歌合せみたいなノリで参加したのかもしれない。それはともかく彼の歌は屏風に権威と格式を見えない形で付与したのは間違いない。
花山院
ひな鶏を 養ひたてゝ 松が枝の 影に住ませむことをしぞ思ふ
いずれ勝るとも劣らない見事な歌が揃い、ほかにも藤原道綱(道長の兄)、藤原高遠(左兵衛督)など名だたる公卿が歌を詠んで提出した=道長の絶大な権力を表している。
ただ、藤原実資だけは辞退したようだ。彼の性格からしてもっともなことである。政略として誰かの傘下に下るとか彼には考えもつかないことのようだ。
「左大臣さまは公と私事とを混同されておる」
ごもっともなことです。
このとき倫子は懐妊しているようで、いつも懐妊しているともいえそうだが、おなかにいたのはたぶん威子のことだろう。彼女の将来を考えても、道長が自分で明子に言っているが「入内なんてさせてもろくなことはない」その通りである。なのに道長、将来やってることは真逆なのはなぜなんだ。
入内したあとの彰子
こうした父道長の権威をバックに入内後わずか七日で女御宣下、順風満帆なすべりだしに見えた彰子だが、しかしお金と権力では人の心は動かせない。
賄賂でなびく上司もいるかもしれないが、そんなので操れる人心はすぐ裏切るのは歴史が全て証明している。
少なくともそんな嫌がらせにも近い道長の圧力には、一条天皇は全く屈していない。
つまり彰子には見向きもせず、中宮定子への寵愛は変わることがなかった。
そうでしょうね、ここで一条天皇の態度がガラッと変われば、ここでこのドラマ見るのをやめます。
入内に際して何十人も女房や従者を引き連れ、後宮の藤壺へ入内した彰子だが、当初のようすは調度品も少なく、がらんとした寒々しいなかにひとり赤染衛門が控えている。
ただ道長が苦心して仕上げた公卿の歌を貼った屏風が堂々と飾られているが、帝が彰子のもとを訪れてもその屏風に忖度する様子もない。まるで最初から見えなかったかのように。
一条天皇が御自ら笛を演奏してくださるという光栄に際しても彰子は謝意を述べるどころかツッコミを入れる始末で、赤染衛門がさっと顔色を変えていて、視聴者としても胃が痛い。テレビの録画機能で早送りがこんなに有難いと思ったことはない。
(帝がそもそも御簾を隔てずに后や女官の並ぶ中でしかも下座につき、座所の畳もないところで柱を背に笛を吹くという、宮中にあるまじき設定なのはどうかと思うが)
彰子いわく。
「笛は聞くもので、見るものではございませぬ」
と主張しているところを見ると、意外と自分の主張があるようにも見えるが、それは気のせいだったのかもしれない。どっちにしても師匠の赤染衛門は顔色を真っ青にしたり真っ赤にしたり、寿命が縮んでそうではあった。
何事にも彰子本人の意見はなく、ぼんやりとしているだけ。まるで操り人形のようで、一条天皇から見ると昔の自分に見えていて同情を誘うようだ。かわいそうになってきたと、ちょっと彰子に興味が向いてきたのはいいが、それは愛情ではなく単なる慈悲と憐みの視線にすぎない。まるで捨てられた子猫を拾うような。
「形の上で彰子を后にしてやってもよいのかも。左大臣と争うのもつらい。」
こんな理由で仕方なく中宮にしてもらってはたしていい結果になるのだろうか、そんなわけがない、と歴史を知らなければそう思うのだろうけど、しかし結末を知っていても、ここから彰子と道長陣営がどう挽回するのか見ものである。
枕草子は、清少納言が不遇な中宮定子をお慰めし、幸せだった宮中の時代の面影を残すために書かれたものだとすれば。
源氏物語の成立の要因もまた、ここに来ておぼろげに見えてきた気がしてきた。
安倍晴明と道長の策略としての中宮立后
さて道長は目に見える効果がすぐに現れないことに焦っている。
でも目に見える効果ってなんだ、まだ入内したばかりの12歳の彰子に20才の一条天皇がどのような態度をとると思っていたのだろうか、道長は。彰子を入内させる話が出て怒り心頭だった倫子に母の穆子がなだめて説くには「中宮定子様へのご寵愛は篤くとも、わからないわよ、そのうち飽きられるかもしれないじゃない?」とのことであったが、失礼な。一条天皇と定子の心の絆をみんな何だと思っているのか。
1000年1月、冷泉天皇の太皇太后である昌子内親王様がお隠れになった。(敬称がおかしいけどよくわからないのでまあいっか)
そこで円融天皇の皇后遵子様を皇太后へ繰り上げ、皇后位が空くところへ定子を昇格すれば中宮の席が空くため、彰子様を中宮に就ければよい。
つまり当時の皇后と中宮という后の概念を覆す破天荒な案であった。
有職故実に則り、何事も先例を重んずる平安貴族には考えられないことといっていいが、実際に当時の状況として中宮の座にあった定子は出家剃髪しており、宮中祭祀を行える立場にはない。かといって元子と義子の二人の女御様が中宮になる見込みはさらにない。この不安定な状況、そして中宮になれる后といえば道長の娘、彰子しかいなかったことは事実である。
とにかく中宮にしてしまえばよいのであるという安倍晴明の強引な助言により、占いで中宮立后の日取りは1000/2/25と定められた。
入内直前の裳着の式に続き、彰子立后の儀式は土御門殿で大々的に公卿たちを招いて催された。この彰子立后への反対派の公卿がほぼおらず、朝廷に伺候する貴族がこぞって道長の屋敷に招かれていたことが、道長の絶大な権力を無言のうちに示している。
彰子の前に置かれた儀式用の絹の沓、魔除けを表す二頭の獅子も、宮中で使われているのと同様のもの。
このような絢爛豪華な儀式であったが、当の彰子本人の表情はいまひとつはっきりしない。帝の指摘の通り、中宮になってからの展望とかが何もないからこのような空虚な表情になるのかもしれない。帝はこのような彰子を形の上だけでも中宮にしてもいいかもとおっしゃったが、それは果たして彰子のためになっているのだろうか。帝の良心が痛まないのだろうか。
さてこの儀式のために彰子が里帰りした翌日、帝は定子を内裏へ召喚している。
定子は内侍ら宮中女官たちの陰口と非難の的になっていた。そもそも剃髪した身で、内裏へ上がれないから内裏の隣の職御曹司へという発想自体が世の中の顰蹙を招いているところなのに、(職御曹司から中宮御所は転々と変わっているとはいえ)皇子や内親王を連れて内裏へ上がるとはどのような神経をしているのだろう。それは、帝がこの間お生まれになった敦康親王様をご覧になりたかったからなのではという女官たちの想像も当たらずとも遠からずかもしれない。
しかし、定子を内裏へ招待したのは帝なりのけじめのつけかただったのかもと思う。
新しく入内した女御の彰子を中宮にすること、そのことだけでも帝にとって定子への裏切りなのに、定子に直接伝えないまま看過することは帝には耐えられなかったのだろう。彰子を中宮に立てることは政治のうえで避けられない事態だったとしても、帝の中宮への寵愛は変わらないということを、自ら伝えたかったのかもしれない。
それを聞いて帝とのお互いの気持ちを改めて確かめ合うと、定子も覚悟を決めて
「彰子様の元へお渡りの時はわたくしのことはお考えになりませぬように」
と涙をこらえて悲痛な表情で……
と、ここのシーンは何十回見返しても涙なしには見られない。
どうしてこういう結果になってしまったのか、誰のせいなのか。
ほかでもない、道長だ。道長が勢力を伸長してこなければ定子は幸せな妃でいられたし産まれてきた皇子は伊周が後見人としてバックアップし、洋々たる未来が待っていたことだろう。
帝に后は何人もいるのが通常といっても、寵愛している定子の存在を否定することはだれにもできないはずだ。
道長の子女はどうすればいいって?それなりに自力で出世すればよかったのだし姫は身分相応の貴族と結婚して幸せに暮らしてもよかっただろう。倫子は現にはじめから「彰子には良い殿方を迎えて、この土御門殿で幸せに穏やかな暮らしをさせたい」と言っていたのだから。
何の歯車が狂ってこうなったのか。
後味が悪すぎる。
道長と糖尿病
道長は明子(高松殿)の屋敷で子供らと面会していた。さすがの教育の賜物、彼らはすでに蒙求を暗唱できている。道長の素朴でのびのびしていた子供時代とは雲泥の差の英才教育である。
そんな話をよそに、道長はここで突然倒れて危篤の床に就く。
道長の病名は、兄の道隆と同様にどうやら飲水病=糖尿病であったらしい(たぶん)。
平民の栄養失調になりそうな食事内容に比して、彼らトップ貴族の食事は明らかにカロリーオーバーの豪華な内容。
それから運動不足。
加えて連日の宴での過度な飲酒。
どれをとっても病気になりそうな要因だらけで、わずか30才過ぎで重症になるのもうなずける。道隆は失明のきざしや手足のしびれなど、致命的な合併症をともなっていたが、さて道長の症状はどこまで進んでいたのか。
どのみち、今の生活が続く限り改善には向かわないだろうし、遠からず道隆と同じ道を歩むだろうと考えると暗澹たる気持ちになる。
(……いや、ごり押しコネ頼りばかりの政治が終焉を迎えるのならそれでいいのだが)
そして当時の貴族の診察はあいかわらず多分ちょっと脈を取ってみる程度で「心の臓が悪い」とかいう的外れ、治療もあってないようなもの。糖尿病という病名が確実かどうかもわからないが、何にも根拠がない中心臓の病気というのも断定できないはずなのに。
ここで生死の境を彷徨う中、まひろの幻の声に呼び戻されて意識が戻る辺りも生粋の浮気者の性分というか正体をあらわしていてまったく同意できない。身分の高い正妻が二人もいてそれぞれに四人ずつ子供がいるというのに、今の道長の地位も彼ら正妻と子供たちに支えられているというのに、他に本命の謎の女がいるとかいうこの設定、まったくもって許しがたい。明子は持っている檜扇で浮気者の道長の頭をしばきたおしてもう一回意識不明にしてしまえばいいのにと思う。
道長は病気が全快したのち、土御門殿へ帰還するが倫子は家族ほか邸の一同を揃えて出迎える。ほんとうに、道長のこれまでの順調な出世は彼ら無くしてはありえないのだから、もっと大切にするべきだ。
ここでよく見ると、倫子と子供らの家族一同の後ろに百舌彦が控えている。この席にいるということは、百舌彦は右大臣家の三男坊だった若君こと道長付きの従者という身分から、土御門殿の家司に出世したのだろうか(前にも書いたかもしれないけど)。家司は家令ともいい、何十人といたであろう女房や乳母、下人たちを束ね、さらに家計の切り盛りや訪問客の接待から主人の文の使い、邸で行う宴やイベントの企画運営まで全てを指図する使用人のトップである。西洋貴族でいう所の執事みたいなものである。身分も単なる若様の付き人とは段違いにアップしているはずで、よく見るとそれなりに衣装の生地がいいものになっている。
第一回から若様こと三郎に付き従って仕えてきたのを見てきた身としては、彼の苦労がようやく報われた気がして感慨深い。
定子の死と清少納言
職御曹司を出て転々としていたころだろうか、どこかの定子の御所が写される。時は1000年の5月から夏にかけて、定子は敦康親王につづいて3人目の子をみごもっていた(のちの媄子内親王)。
この年の2月に彰子が中宮に立后して事実上の一条天皇の正妃となった今、宮中の人々の関心は皆彰子のもとへ、公卿の心は道長へなびいていき、定子の周辺は閑散としたものである。伺候する公卿もいなくなり敦康親王と脩子内親王が乳母と遊んでいるだけの御所の廂には物寂しさが漂う。内親王たちの面倒を見ているのは定子の下の妹(道隆の四女)の御匣殿だろうか。華やかで明るく訪れる貴族がひきもきらなかった梅壺の時代は遠い昔のようだ。
このドラマのシーンは枕草子にも出てくる。ただしこのような物悲しい時勢は感じさせない、あくまで清少納言と定子の軽妙で繊細な感性にあふれた場面として描写されている。
お産が徐々に近づきつつある定子の体調を気遣って清少納言はかいがいしく世話をする場面。そんなころ、端午の節句の際に定子へ献上された品の中に、麦で作られた青ざしというお菓子があった。懐妊で体調が思わしくない定子へ、口に合えばと勧める清少納言。そこでお菓子が置かれていた青い紙をさっと切って書きつけられた定子の和歌。
このやりとりがいかにも当意即妙で、聡明で怜悧であった定子と清少納言との即興という感じがして時代背景など忘れて惚れ惚れするばかり。
みな人の花や蝶やといそぐ日も わか心をば君ぞ知りける
思い出してみよう、枕草子はあくまで中宮定子の輝いていた時代を書き残すためのもの。政治の趨勢が道長になびいていきつつある背景など、よく考えると清少納言がそんな意味を込めるわけがない。
ここの場面で定子が体調がよくない中、細かいことに気がついてくれる清少納言に感謝の意を込めて詠まれた歌、ただそういう解釈をしてほしくてこの場面を枕草子に入れたのかなあと作者の意図を考えてみる。
その後、1000年の暮れのこと。
定子は媄子内親王を出産するとともに亡くなった。享年24才。
現代の用語でいえば出産後の胎盤の娩出(いわゆる後産)がうまくいかなかったためらしく、今でいえば救急搬送されて手術とかになるところだろうが、そういう知識と技術がなかったころはこうしたお産に伴う死はかなり確率が高かった。安産で母子ともに健康に何人も生んだ道長のふたりの妻のほうが珍しいといっていいだろう。
魔除けに弦打ちといって物の怪などを退散させるまじないとして、矢をつがえずに弓の弦を引き鳴らしたり、また僧などに読経や祈祷をさせたりしたのも、出産時の死亡率の高さや乳幼児死亡率の高さを物語る。
神仏に祈るしかなかった時代。
しかし伊周は何もかも道長のせいだと断言する。
それも一理あるかもしれない。直接の死因は出産時のトラブルだが、しかし道長に端を発する一連のできごとで事実定子の居場所は内裏から奪われ、中宮の座さえ取り上げられて形式的な皇后という名に祀り上げられたのだから。心身を病んで弱ったせいで出産時における体力の消耗に耐え切れなかったということもできそうだ。
隆家は魔除の弦打ちの途中で寝ている。そして伊周の叫びにも無言で去る 賛同も否定もせずに。彼はどちらかといえば中立、もしくは道長寄りの発言を以前から繰り返していたのでこのことを機に道長へ接近する算段なのかもしれない。
定子が亡くなるにあたってこの三首の歌が遺されていた。
夜もすがら 契りしことを忘れずは 恋ひむ涙の 色ぞゆかしき
知る人も なき別れ路に 今はとて 心ぼそくも 急ぎたつかな
煙とも 雲ともならぬ 身なれども 草葉の露を それとながめよ
※しかし、武士が切腹の際に辞世の句として詠むことは多くあるが、定子の場合は不慮の事故的に亡くなったのだと思うが、これらの三首の歌が定子が詠んだのだとしたら、お産の前にあらかじめ辞世の句として詠んでいたという意味だろうか?
そんな詮索はさておき、今はただ突然の定子の崩御に追悼の意を表したい。
自分は学生時代の記憶で、ただ枕草子はをかしの文学とだけ認識していたに過ぎない。をかしの表現にどれだけの清少納言の願いと祈りが込められていたのか、そして定子の崩御と共に清少納言は宮中を去りその行方は晩年に至るまで杳として知れないのはなぜなのか。
こうした背景を自分は全く分かってなかったので、それを意識しながら読むと枕草子の簡潔で軽妙な表現も全く別の意味を帯びてくる。
後日譚
年明けて1001年の正月のこと、清少納言がまひろのもとを訪ねていた。
枕草子の全編が完成したためまずまひろに持ってきたとのこと。
伊周が「このような面白い文章を書く女房がいることを宮中へ広めて、定子のサロンの評判を上げる材料にしよう」と枕草子を宣伝すると言い出したときには、驚き眉をひそめて難色を示していた清少納言だったが、中関白家没落ののち定子が亡くなるに及んで清少納言の意識ははっきりと決意に変わったらしい。
このままでは勝者が歴史を作るという慣例のごとく、道長が語り叙述することによって中関白家、そして定子の存在は悪いように書かれるどころか後世には記録もろくに残らない可能性もでてきた。
その闇に差す一筋の光陰の矢のように、枕草子をして定子の後宮を燦然と輝くものたらしめるのだ。
中宮の影の部分はあっても書かない、あくまで華やかで輝かしかった定子の後宮の姿だけを後世へ遺すのだ、と清少納言はまひろに断固たる決意を語っていた。
しかし、人間は影も裏の面もあってこそ人間としての存在に、その心理に深みと色彩とあたえるのだとまひろは主張していたのだけど。この持論はそのまま源氏物語の全編をつらぬくあはれの観念に代表されるおくゆかしい情趣としてのちに表現されることだろう。
そして定子を追い詰めた道長つまり左大臣さまは恐ろしい方だと、清少納言はまひろに釘をさす。あのような方を決して信用してはいけない、と。道長の政治的策略に定子は追い込まれ精神的に殺されたようなものだと語る。
朝廷の公卿や女官たちすべてが道長へなびきおもねる中、清少納言だけはその鋭い観察眼で道長の本性を見抜いていたといっていい。
そして枕草子は三巻に仕立てられ、伊周の手によって帝へ献上された。
帝はひとり、清少納言が生涯を賭して綴った定子の形見を手に、ひそかに哀悼の涙を流す。輝かしく、世の流れが変わっても明るく生き生きとしたさまが描かれている定子の思い出。バックグラウンドに流れる音楽は、枕草子成立時のテーマ音楽。
お産による死は当時の医療技術では避けられないものだったとはいえ、帝の位をもってしても止められず、そして表立って供養することも許されない帝のせめてもの償いの涙…
政治に翻弄され続けた帝と一人の妃の物語には、ここで一旦終止符が打たれた。
しかしこの物語は千年経った今でも、誰もが手に取り読み親しむことができる。
誰もが輝いていたころの定子とその後宮の様をつぶさに知ることができる。
ここに描写されているのは歴史ではなく、ただひとりの后にささげられた物語。
文学の分類上は随筆とされているようだが、そしてそれも事実ではあるが、内容の性質上は大筋で言えば断片的ではあるが物語だと思う。定子の生涯を美しいままに描写した物語。
宣孝の死
そして平安時代は誰しもが生と死が身近な存在であった。
まひろの夫、宣孝が亡くなったのだ。年齢は不詳だが、まひろと10~20才の年齢の差があったことから、享年は50才近かったのではないかと思われる。50才まで生きれば当時としては十分平均年齢に達していてもはや大往生であったともいえる。
宣孝は北の方邸にて急病で亡くなったとのこと、死因はついに明かされなかった。北の方からの使者は「豪放で快活だった様子だけを想いに留めるように」とだけ他人事のような伝言を置いて去る。
あくまでまひろは妾であったことを今更のように思い知らされた。宣孝にとってまひろは単に6人目の妻、サイドのサブのサブにいる存在にすぎなかったのだ。
為時は越前における交易を求めてきた宋人を追い払うこともなく四年がすぎたので、公務を執行していないとみなされ国司の任は解かれ、次の除目でも何の官位も得られず無位無官で家に帰ってくることになった。
為時の無位無官、このドラマでは三度繰り返されたまひろ一家の窮地である。
ドラマ冒頭の雨漏り事件に象徴されるまひろが幼少時の10年にわたる無位無官時代、そして兼家の差配で花山天皇への漢文指南役を辞退した後の無位無官時代には娘のまひろが働こうとして貴族の大きな屋敷を訪ねて回るも「せめてお父様の地位が五位の受領くらいにはないと」と難色を示されてまひろは軒並み門前払いをくらっていた。
あのときの閉塞感、明日の食料も心配という経済的な無力感は、視聴者としてはもう味わいたくないのだが、為時は何度同じ轍を踏めば気が済むのだろう。貧困っていう言葉、ご存じだろうか。書物を読むだけでは食べてはいけないのだが。
そこで今回も屋敷中にただよう暗雲の気配を察知したのか、乳母のあさは一番に夜逃げ同然に(昼間にだけど)逃亡している。これが一番まともな反応なのかもしれない。そして、きぬはふるさとの越前へ乙丸を誘う。 戻れば海女として食べていけるかららしい。手に職があるというのはいいことで、乙丸も連れて行かれそうだがどうなるのか。
ここで、道長と共に左大臣家の従者となりその後家司に昇進した(らしい)百舌彦が突如登場し、無位無官の為時に、道長の嫡男である田鶴(のちの頼道)への指南役を依頼する。左大臣家で開催される漢詩や和歌の会も主宰していただきたいという、これ以上ないくらいありがたい話であった。
百舌彦は初回登場時を思うと衣装も別人のように立派になり、もう乙丸と「ワン!」とか犬の真似をして密使のようにコソコソ立ち回る必要もなく、左大臣家からの使者として堂々と正面から客間に通されていて、ほんとうに成長したなあというか年月の経過を感じて感無量だ。
この話を受ければまひろ一家は生涯安泰である。このとき彰子は中宮へ冊立されていたので、そのあとにも道長には入内させられる姫も控えていたし、どちらにしても左大臣家の覇権は揺るがなかったからだ。
しかしなんと為時はこの申し出をも断った。
報酬は十分にはずむ、という左大臣家の財力に目を向けないのは為時のいつものパターンだとしても、嫡男に指南するなど畏れ多いとかいう謎の謙遜を言っている場合ではないのだが。
とことん時勢が読めない為時。
一家の命運を背負っているという気概も全くない。
きぬとか使用人でさえ(上記に述べた通り)飢えるのはいやだと的確に状況を把握しているというのに。
竹林の七清とかの聖者の清貧を理想として追っている場合だろうか。付き合わされる家族と使用人のことをわずかでも考えたことはあるのだろうか、いや無いに違いない。
はからずもまひろは賢子を1人で育てることになった。しかし蒙求を子守唄代わりに、何かの巻物の漢文を読んで聞かせたり、教育には余念がない。
ここで、もうひとつの稼ぎ口が現実味をおびてくる。
つまりまひろがどこかの屋敷へ女房として出仕するという方法が。
しかし、前回の為時が無位無官の時に、どこの屋敷でも「お父様が受領の五位以上でないと女房としての採用は難しく……下女としてなら雇いますが……」と言われていたのは記憶に新しい。下女はきぬや乙丸のように炊事、掃除や市への買い出しなどの雑事を担当する使用人のことで、女房とは身分が厳格に区別されていた下人は原則、屋敷の局に上がることも許されていなかった。
ここからまひろが左大臣家または中宮彰子の女房として応募し、採用されて就職するという可能性がでてきたが今の所何の接点もないので、中宮彰子の周辺で語られる物語をもうすこし追ってみることにしよう。
気苦労が絶えない倫子
彰子が連れてきた女房は入内の時に40人を数えたはずだが、有能な女房が少ないのか、藤壺の簀子縁に出てひとり貝覆いをして遊ぶ彰子。倫子は彰子が入内して数年の間はたびたび藤壺を訪れていたようだ。今考えればやっと中学校に上がったばかりの長女を宮中という場所に預けただけで、母の倫子としてはまだまだ養育途中の姫でありそばについていて差し上げなければという危機感が強かったのかもしれない。
しかし道長は倫子に、そんなに藤壺へ通わないように諌める。この辺が「入内させて豪華な装飾品や調度を贈り、中宮の座につければ政治的には勝ち」とかいう政治家としての意識しかない道長の浅はかで短絡的な発想がはっきりでている。
入内させて中宮にすれば勝ち?
そんなわけがない。
当事者の帝の苦悩、12歳で入内させられて右も左も分からない彰子の当惑ぶり。
これらを考えれば囲碁の石を動かすようにパズルみたいに人間の心が思い通りに動くわけはない事はわかりそうなもの、政治家にはそのような人間らしい心がないのだろう。
倫子はそんな彰子のために、入内後も藤壺を華やかで格調高いきらびやかな空間にしようと、藤壺へ献上する調度品や道具類の選定に余念がない。
道具類なんてお金を払えば誰が選ぼうとなんでもいいだろうという道長の発想もまた短絡的で、倫子のもとに集められた献上品となる候補の品々は、いわば百貨店の外商部門。ただ高価な代金を払えばいいのではなく、真にセンスの良い優品を選ぶにはバイヤーの目利きが欠かせない。
ここで購入主は左大臣家の倫子だが、倫子は同時に宇多天皇の血を引く高貴な家柄、洗練された調度品のみに囲まれて育てられた生粋の姫君でもあるので、この場では倫子が最も優秀な目利きバイヤーでもある。女官が差し出す道具類をさらに倫子の鋭い観察眼でこれはよい品、それは少し劣るから外すように、と選別する倫子。指示を受ける左大臣家の女房達も統率されていて一糸乱れぬチームワークを見せる。
※倫子が持っていた銀の八稜鏡も大ぶりの見事なもので、唐からの舶来の品かもしれない。こうした由緒ある名品の鏡にはまた由緒ある箱がついており、この鏡の箱は黒い漆塗りのようだ。
例:正倉院の金銀山水八卦背八角鏡は唐から伝来したと考えられ、付属する箱にはみごとな紋様の錦が貼り付けられている。この鏡が、ドラマに出てきた形とよく似る。
イメージ画像引用:正倉院 - 正倉院
これらの品々ははたして一条天皇の心をとらえるのだろうか。
しかし定子を失った一条天皇の心は簡単に癒されるわけもなく、彰子やほかの女御へそう簡単に気持ちが遷るわけがない。
そこは時間が解決するしかなかったと考える。
乾坤一擲の勝負に打って出た道長
さて彰子の入内と中宮冊立も即席の効果があったわけではない。
定子を亡くしてもなお一条天皇の思いは変わらず、
そして次の春宮位は現春宮の居貞親王の皇子である敦明親王か、定子の産んだ一条天皇の第一皇子敦康親王か、どちらかになるであろうという事態にも変わりはない。
道長がこの閉塞感を打開すべく彰子を入内させるも、当面のところ何の変りもないように見えた。要するに一条天皇に彰子のもとへお渡りいただく何か決め手というか鍵が欲しかったのだろうか、道長がひねり出した奇策は
「定子の産んだ皇子である敦康親王を彰子が引き取り養育する」
というものである。
敦康親王はわずか一歳で母定子に死別したあとは、定子の末妹である御匣殿によって養育されていた。その皇子を彰子がひきとることで、一条天皇は会いたければ藤壺の彰子のところへ来ればいつでも会えるというわけである。
定子が亡くなるとみるや、早速その皇子を人質に取るという専横ぶり。
手段を選ばない下品さというか、
一条天皇も人間であるという人の情けにつけこんだ野蛮な所業というか。
目の前にぶら下げた人参をつかって獲物をおびき寄せる腕の悪い猟師というか。
「これで帝も敦康様にいつでも会えるようになります」
と眉ひとつ動かさず堂々とのたまっていて、この場にもし清少納言がいたら、檜扇でしばかれるとかいう蛮行には走らないかもしれないけど、無言の視線で暗殺されるかもと思った。
しかし、内裏にはもう定子も清少納言もいない。このことが敦康親王、そして定子の産んだふたりの内親王のこれからの運命を早々に暗示していている。