歴史と本マニアのための部屋

歴史、政治、本、あと吹奏楽関連のつぶやきです

第14回「星落ちてなお」 第15回「おごれる者たち」 大河ドラマのlightな感想 光る君へ

 

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兼家の死

前回の13回と併せて14回では兼家の晩年と死が描写されている。

自分は個人的に、(現代の議会制民主主義に対して)真っ向から逆を行く平安時代の政治家としての兼家は評価はしたくない。

しかしそんな狭量な価値観はこの際横に置いておく。

 

当時の熾烈を極めた政争を見事に泳ぎ切り、藤原氏のさらなる繁栄するいしずえを築いた傑物として、このドラマでは兼家に最大限の敬意を払っているのだ。

藤原氏の間で、また兄弟間でも政治的には長い不遇の時を耐え、しかし将来を見据えてひそかに布石を固め、伏線を盤石にして虎視眈々とその時を待った。

一族の人間を束ねて手綱を執り、時代の流れを読む目の確かさがある。

道綱は下にも上にも置かない扱いで不興を買わないよう気遣う。

また、為時のように去るものは放逐し決して追わない。

そして寛和の変など、好機と見るや隙を逃さず一気に攻勢に撃って出る豪胆さ。

何かそこには一貫して不変にして普遍の政治哲学がある。

 

13話ごろから認知機能にかげりが見られていたが、それを自覚するやすぐさま道隆に後継を譲り、すべてを捨てて出家する兼家。

娘詮子を入内させて生まれた懐仁親王を帝位に就け、外戚として権威を揺るぎないものにした兼家は、ここが潮時だと自ら悟ったのだろう。

第一線における判断が鈍った時が自らの人生の幕を下ろすときという真実をわかっているのだ、おそらく。

あまりにも鮮やかな引き際である。

 

ここから隠居生活に入るという前に、間もなく兼家はその生涯を閉じる。

満ちることのない三日月に照らされて。

そして夜明け、なぜか寝殿造りの庭の池にかかる橋のたもとで息を引き取っていた。

この最期の描写はまだ兼家にはやり残したことがある、というよりは、末法思想と浄土信仰による死後の世界への不安と阿弥陀如来による救済を願ったことを現わしているのだろう。

巨星、堕つ。

三日月を見つめる最期の兼家はしかし決して鋭い眼光を失うことはない。

ドラマが語る時代の目は、兼家に限りなく最上級の尊厳を払っている。

 

で、毎回書くが、威厳を失わずに且つかすかな徴候で老いを見事に感じさせる、段田安則さんの演技が鳥肌ものですごいです。

演技とはせりふだけではない、体全体というか目線ひとつ指先一本に至るまで隅々にまで魂が行きわたっているものなのだなあ、としみじみと感じ入る。

彼の出演がこれで最後というのは、このドラマにとっても大きすぎる痛手なのでは?

 

 

訃報を耳にした人々が見せたそれぞれの感情

偉大な影響力を及ぼしていた存在の兼家が亡くなり、ドラマの登場人物たちには激震が走った。

しかし、それぞれに反応が全く違うのでくわしく振り返ってみる。

為時

ひそかに哀悼の涙を流す。なぜ?兼家が実権を握ってから以後、除目から干され、官職に就けてないのに(この先さらに6年の間)?

それもこれも為時が花山天皇の漢文指南役という兼家が世話してくれたポストを辞去したからという、単なる兼家の嫌がらせだったから、なのに。

ここで「以前兼家様には大変お世話になったことを思い出すと……」と涙に暮れている様子をみると、つくづく為時の政治感覚が絶滅しすぎてて、見てて憂慮するというよりもはや呆れるというか失笑する。

 

まひろ

そんな為時の様子を横で見ながら、「うれしくても悲しくても人は泣く、涙は出る」とか語ってるまひろも、政治感覚は為時と同様です。この二人がこの家を差配してるうちは、一生ここの住人達は野菜を自ら耕して食べて行かなきゃならないのではないでしょうか。
 

いと

惟規の乳母いとだけは、経済的に常識人の感覚をお持ちのようである。家の経済状況がこれ以上ない位傾くという窮状を見かねて、使用人である自分を養うことももう不可能と悟ったのか為時に暇を願い出ている。

そして宣孝が持ち込んだ兼家の訃報にも「これで政治の風向きが変わるかも」と期待に胸を高鳴らせていたのも、いと一人である。

為時一家の台所事情を具体的に知っている身としては喜ばずにはいられなかったのだろう。気持ちはよくわかる。

 

宣孝

宣孝も、いと同様に兼家が世を去ったことで為時にも官職が期待できると喜ぶ。このドラマでは宣孝様が地位ある人の中では唯一の常識人かもしれない。

そして彼は国司として筑前に下向することとなったようだ。霊験あらたかなことで知られた御嶽詣りの御利益?そうかもしれないです。

国司(いわゆる受領)となれば官位は低いものの、決められた税収を国へ上納したらそれより多く入った税収は全て国司のポケットマネーであったので、その辺のちょっと位が高い貴族よりは桁違いに経済的に裕福だったりすることも多かった。

そのため宣孝様は国司としてこれから裕福におなりだろうから、為時一家のスポンサーとして援助してくださらないものだろうか。そうすれば、市で干し鮎が買えないといってひもじい思いをすることもなくなるだろうに。

でも貴族のメンツからそんなことは言えないのか、そもそも何も考えてないのか、宣孝が辞去するときにも為時は兼家の訃報のほうに心を痛めているようで、宣孝の言葉など半分頭に入っていないように見える。

そんなんだからいつまでたっても為時邸の築地塀は崩れたままなんですよ。

清貧?

竹林の七賢

そんな夢物語を追えるほど現実社会は甘くないと思いますが。

 

15回で擬文章生となった惟規を、一家を上げてお祝いし、いとはとっておきのお酒を開け、まひろは琵琶を弾いてはなむけとしているが、この昔は漢文が苦手だった惟規を一家の大黒柱に据えざるを得ないほど、為時一家の窮乏は限界に迫っているのだ。

為時が官職を得られるまでまだ数年。

息が詰まるような日々である。

 

道兼

彼は兼家の死後、奥さんの繁子も娘の尊子も顧みず、酒浸りのアルコール依存症におなりでした。この時代の酒は精製されてない純度の低い濁り酒みたいな感じだったと思いますが、それにしても限度を超すのはよくない。飲み過ぎはいつの時代も人生の破滅を招く。

自分を抑圧し嫡男の道隆と何かと差別していた父兼家の存在がなくなったのだから、これで胸を張って生きていけるのではないかと思うかもしれないが、兼家は死の直前まで道兼を洗脳していたというかあくまで道隆に従う格下の存在だという意識を明確に道兼に植え付けようとしていたので、その呪縛から逃れられないのも無理はない。

道長に「もう父上はおられないのですから」と諭されるまで、自暴自棄な生活を続ける兼家。15話の中盤、993年の描写に至ってようやく大納言に昇進した道兼の姿が見られてほっとするのだった。

 
道長の同僚たち

公任

10代のころはいち早く従四位に昇進した出世頭のエリートだったが、関白の父頼忠の死後は全く振るわない。出世の行く先を見失って、道兼に早くから取り入り、目をかけてもらおうとするがその読みは見事に外れた。

そして次に打つ手はというと「がんばって道隆様に取り入らないと」とのこと。公任も、そんなだから昇進のペースが振るわないのです。自分の手で自分の道は拓いていかないと、とは為時の言いそうなことだが、しかしあまりにも他力本願過ぎる。

このドラマの登場人物随一のイケメンであるが、イケメンであるからと言ってドラマの展開上好待遇であるとは限らない。

行成

そんな公任のなりふり構わない言動を行成は白々しく眺めて諫めている。

「道兼様は喪に服さないのはありえない。また、道兼様がやさぐれているといっても、道隆様のほうが嫡男であり定子様を入内させていたのですから関白の席を譲られたのも自然な流れ。なるようになったということでは?」

いちいちど正論過ぎてぐうの音も出ない。

彼はゆくゆくこれからも注目キャラであり、文人として、三蹟の一人として名を馳せただけではなく、存在を覚えておくべき一人である。

斉信

彼は花山天皇の女御忯子を妹に持つ。よって花山天皇の出家と共に、義懐らと一緒に政界から姿を消すのかと思いきや、斉信はちゃっかり引き続き官位を捨てていなかった。そして兼家の血筋でもないため今回の訃報により出世するわけでもないがかといって失脚もしていない。 

公任と行成にツッコミを入れつつ、彼はこの先もそつなく政界で生き残っていくことであろう。まひろとは絡みはないかもしれないが、ききょうとはのちに内裏でやりとりがあるかもしれない。

 

実資

彼は謹言実直な実務家である。いわゆる今でいう優秀な事務員なのである。参謀というよりは秘書タイプ?いや、有能な大臣ではなくて事務次官的な。

そのため曲がったことも嫌いだし忖度なしに発言する。兼家のことは性格的に全く毛嫌いしていたはずだがかといってたまに真っ当なことを兼家が発言した時にはその時限定で意見に賛同することもあった。

経済的に藤原氏小野の宮流を継承する大資産家であったので実資自身の官職への執着はなかったとはいえ、この誠実な言動は専ら彼の性格によるものだろう。

 

さて兼家の訃報に際しては、直接にというよりその後の道隆の政治・人事への介入の専横ぶりに対して苦言を呈している。

「関白殿は恥を知らない身内贔屓」

全くその通りでございます。第15回の除目では60人もの身内を昇進させたとかで、公卿たち全員の顰蹙をかっているがそれが道隆の権勢に陰りをおよぼしたとは史実は伝えてはいない。

実資ら実際に政治にかかわっていた貴族がこうやって裏で愚痴をこぼしていたに過ぎないのかもしれない。

 

《ドラマの台詞へのツッコミ》

今回だけ、脚本の台詞や視覚的な演出がいきなり短絡的になってないですか?

この場面に登場する実資の後妻の婉子の台詞。(ここには詳しくは書かない)

そして道長の側室、源明子が流産となった報告を受けて倫子の言葉。
「明子様はまだお若くこれから子もできましょう。わたくしもがんばらねば」

史実はその通りなのだがナレーションなどで仄めかしたり暗示的な小物を使ったり、

平安時代の貴族はそんなはっきり言葉にして言わなかったと思うのだ。

今回の彼らの言動はいかにもあけすけではすっぱ、奥ゆかしい上流階級の上品さはどこへ消えてしまったのか。

 

ただ史実としては平安時代はのちの江戸時代の儒教の倫理観に凝り固まった思想とは違い、おおらかでのびやかな時代だった。

確かに、当時は性に関しても開放的だったはず。

だけど、

しかし、

言葉にして昼間からそんな上位の貴族が言わないだろうと思う。

 

自分がこのドラマを見てるのはセリフが含蓄があって味わい深いからだ。

長い人生を経てきた登場人物も、若い者たちも、それぞれの立場で趣深い台詞で生き生きと演じ切っているところがとても魅力的なドラマなのだ。

撮影セットも本格的に感じるし、衣装の紋様も美しい。

登場人物たちが年齢を経て、社会的に地位を築いていく過程でこのような軽薄なセリフが出てくると物語の重厚さに水を差す。

 

以前、兼家に熱心に息子道綱の昇進を言い含めて約束を取り付けようとする寧子に、道綱が「いいんだよそんな一生懸命頼まなくても」とたしなめていたとき、寧子は

「仕事が男を育てるのです、立派な官職をいただいてこそ……」

というようなことを言っていた。

このようにちょっとした一場面、なにげないひとことにも深い意味を持たせている、このドラマの脚本。

それが楽しみで毎回見ているので、これからもドラマの展開で人生のいろんな場面をかいくぐり登場人物たちはさまざまな表情をみせていくことであろうが、それぞれの視点から丁寧に描かれたシーンひとつひとつを噛み締めて鑑賞していきたい。

 

中関白家

道隆

さてそんな兼家をめぐる人々の葛藤を巻き込みながら、強大な権力を掌握し独裁へ突き進む道隆。いえ、権力を握ってもそれを理性的かつ道徳的に運用できれば、古今東西独裁の権力というものはそこまで悪用されなかったのでは?と思う。

しかし現実は道隆のなりふり構わない専横ぶりに、ついてくる人は誰もいなくなるのではないかと思われる。

兼家も強引な権力の行使が目立ったが、少なくとも誹謗中傷の声は表向きには上がらなかった。

兼家に在って道隆に無いもの、それはやはり政治哲学なのではないかと思う。

外戚の座をかさに着た権力でもそれなりに、兼家には世の中を広く見渡す視野と度量の大きさみたいなものがあった。

藤原氏は大きく言えば世襲権力だが、しかし同族間での実力に基づいた純粋な競争原理が働いていたので自然と最も有能なものが常に氏の長者の地位を勝ち取り、そして無能なものは淘汰されていった(無情にも)からこそ、盤石な基盤と絶大な力を持ちえたのだ。

そこへくると、兼家の子女のなかで詮子は機知に富み政治的な才覚を顕わし、数多の妃が並ぶ後宮内で勝ち残り皇太后の座に就き、勢力を揺るぎないものにしている。

しかし道隆はどうだろう?

帝の皇子を産んだのは姉詮子であり、その皇子を帝位につけて一条天皇とし、外戚として摂政を勝ち取ったのは父兼家だ。道隆は兼家が一族の中では底辺の地位あたりに甘んじ、屈辱を忍び、文字通り泥水をすすって這うように苦難に耐えてきた年月、そこから得られる経験と人脈という目に見えない財産を持たないまま、白紙の状態で黙っていても最高権力がスマートに、スムーズに降りてきただけなのだ。

 

貴子

それに、道隆の宮廷での立ち回りは、妻の(高階氏の)貴子に牽引してもらっているようなもの。

実際、貴子は兼家が出家する前に道隆に「(いつ兼家からこちらに権力が継承されてきても)一向に構いませんよ?何なら明日にでも。」と満面の笑みで応えている。

このように、道隆は無意識に(嫡男だからか)兼家の権力を継承するのは自分だと鷹揚に構えていたふしがあるが、貴子は「こちらが権力の座(関白の地位)を継承するのはなるべくしてなった当たり前のこと」と見ている節がある。

なぜなら今まで貴子ができることは全てやって来たという自信と、定子は後宮で愛されるに足りるだけの教養を備えた立派な姫に育て上げたという自負が隠すことなくありありと表情に、確信を持った目線にあらわれていたからだ。

宮中に出仕し、その豊かな教養ゆえに高内侍と呼ばれて愛でられた高階氏の貴子。彼女は娘の定子、息子の伊周ほかの子女に、ありあまる文才を生かして高度な教育をほどこしてきた。

 

定子

そして後宮で定子が賜った登華殿は、知識人や若い公卿が集う華やかで知的なサロンとなっていく。(ドラマのナレーションから拝借)

一条天皇に定子が愛されたのは、(父道隆が定子以外の姫の入内を許さなかったという強引な政策があったにしても)このような文化的素養があったから、なのだろう。

その点は、ふたりで遊んでるのがすごろくに偏継ぎ(偏と旁を合わせるカードゲーム)というところに象徴的に現れている。

貴子に「後宮おさとして広い目で見て皆をまとめなければならない」と言われているけど、当時13才の入内したばかりの姫である定子にはいまいちピンときてないらしいが。

ただ新しい青磁香炉の調度品に素直に目を奪われているばかりの初々しさ。

当時の青磁(と白磁)といえば。

磁器は宋又は高麗からの輸入品で当時でも値段はつけられないほどの高価な舶来品であった。なぜなら磁器の焼成には1200℃を要し、日本の窯には到底その技術はなかったので。透き通る磁肌と高い空のような美しい水色に近い青。宋時代における茶の文化の隆盛と共に青磁の生産は最盛期を迎える。まさしく文芸を以て是となす定子のサロンを飾るにふさわしい調度品である。

※定子が持っていたものと同様なものの参考画像。これは龍泉窯の青磁香炉。実際には龍泉窯の最盛期は南宋時代のため、定子の生きた時代よりも約100年後のことなのだけど。まあ大体同時代の文化の輸入品を宮中に置いていた、という設定だと思えばいいだろう。

(画像引用:青磁袴腰香炉 文化遺産オンライン )

 

太后であられる東三条院詮子の憂鬱

定子のサロンは一条天皇の母、皇太后東三条院詮子からはよく思われていないようだ。なんでだ、定子の父道隆は詮子の兄なのに。とかいう現代的な感覚はこの時代にはない。

詮子には強引すぎる政略と陰謀を仕組んでいた父兼家(とその同類とみなしていた兄道隆)への確執は決して生涯消すことのできないものだし、道隆が送り込んできた女御定子など認められるものではない、詮子の大切な一人息子である一条天皇にはもっとふさわしい姫が女御として入内してほしいが、道隆の一方的な妨害によりどの姫の入内も許されないというジレンマをここで抱えていたのだろう。

ただ。この詮子の憂鬱はこの時だけのもののはずだ。

その悩みはもうすぐ解消されることだろう。

詮子自身の強固にして決然たる意志によって。

 

まひろとききょうの視点(庶民ではない下級貴族)

第14回では貴子が主催して伊周の婿入り先の姫探しに、和歌の会を自邸宅で開催している。

伊周は「和歌も漢詩も、笛も弓も」誰よりも秀でているらしく、宮中でも同僚の貴族からは羨望の的、女房などからは高嶺の花として何かにつけ話題の中心であったらしい。

そんな伊周が婿入り先の姫探しをするとあって我こそはと名乗りを上げ参加の申し入れをしてきた家の姫君たちの顔ぶれは、どの姫も容姿端麗、才色兼備の誉れ高い教養が垣間見え………

ん???容姿端麗でありどの姫も華麗な衣装で目を奪われるようではあるが……?

なんかこう、みんな良家の深窓の姫君ではあるが、それだけだという雰囲気がある。

場の空気を読んで自ら動こうということもなく、なにもかも用意されるのを待っているというか、与えられたことだけを凡庸にこなすだけの緊張感のない雰囲気………

俳優さんの演技もみな同一である。

それぞれの姫の描かれ方に、個性が持たされていない。

 

鋭い観察眼をもつ才気煥発のききょうには、そのようなぬるま湯に漬かったあいまいな空気は耐えられなかったようで。

まひろには後日、包み隠さず下記のように述べている。

「先日の和歌の会はつまらぬものでございましたわね。あのような姫たちがわたくしは1番嫌いでございます。より良い婿をとることしか考えられず、志を持たず、己を磨かず、退屈な暮らしもそうと気づく力もないような姫たち。」


 彼女らはのちの道隆邸における弓競べの観覧の席に座り、伊周に憧れの視線を向ける姫君たちとみな同一人物だと思われる。

(※しいていえばこの観覧席には本来御簾が下ろされているはずであり、姫君たちからのみ弓を引く公卿たちが見えるのであって、外からは姫君たちが見えるはずはないのだけど。人前で扇で隠しているとはいえ顔を、姿を晒すなど、当時で言えばストリップショーに等しい行為であり姫君たちにはありえない状態のはず)

 

まひろが提示した和歌:

秋風のうち吹くごとに高砂    尾上の鹿の鳴かぬ日ぞなき

さて、この拾遺抄巻第三  秋(読人不知)の歌であるが、ききょうは次のように評している。

威厳に満ちながら秋にふさわしい、涼やかな響きの歌でございます 

 

この和歌の会、名目は形だけとはいえ「和歌が詠める、才能ある姫君」を発掘することなのに特別ゲスト扱いで伊周の婿入り候補ではないまひろとききょうが和歌を披露するのはいいけど、肝心の参加してる姫君たちはどのような和歌をお詠みになったのだろうか。

知識と才能にあふれた姫君を見つけるのはそう簡単なことではないということだ。

 

そういえば土御門殿の倫子のサロンにまひろが伺候しなくなって久しく、倫子から直々に呼び出されて左大臣家に女房として仕える話も(恋の傷も癒えないのにできるわけないじゃん!と思ったのか)まひろはあっさり断るし、そうこうしてるうちに和歌が劇中で詠まれることも少なくなったので久しぶりな感じがした。

そういえば赤染衛門先生はお元気であろうか。またお顔を拝見したいものである。のちに、再開して消息をうかがえる時もめぐってくるだろう。

 

さてこの話題は、ききょう=清少納言中宮定子のもとへの出仕話につながってくる。

ききょうの志:宮中に出仕して広く世の中を知る

確かに気持ちはわかる。貴族の姫君はききょうのような受領階級の姫(父君が五位以上の階級)の身分だと、屋敷の外に一生出ることもなく、御簾の内側で和歌を詠んだり貝合わせやすごろくなどの遊戯に興じ、また琴や琵琶などの楽器を演奏したりして過ごすのだ。結婚も通い婚だから、恋愛時代から結婚後も貴族の女性は邸の自室から出ることはないのだ。

究極に深窓の令嬢で箱入り娘しか育たないこの環境で、何事にも興味と好奇心を持つききょうが満足できるだろうか、いや絶対にありえない。

さすが後代に遺る随筆「枕草紙」を書き記すことになる、清少納言

そもそもの心構えがまず違う。

 

ここでききょう先生の名演説が堂々と語られたので、上記の姫君評と共に、そのまま載せておく。当時夫も息子(10才ごろ)もいたがほんとに別れているようだ。志を語るにあたっての覚悟と決意が半端ない。

自分の志のために夫を捨てるつもりです

夫は「女房に出るなどという恥ずかしいことはやめてくれ、文章や和歌はいいから自分を慰めてくれる女でいろ」と言いますが、(そんな男は)下の下でございましょう?息子にはすまないことですが私は私のために生きたい。

広く世の中を知りそれが世の人のためになるような、そんな道を見つけたいのです。

ものごとへの好奇心。

繊細な分析力。

鋭い観察眼。

また、これらを簡潔にそして的確に、かつ格調高く文学的に綴る稀有な才能。

謎の多い当時の宮中女流作家たち、彼女らの人生の背景をこうして視覚的に追うことで、当時の文学作品の背景をより身近に感じられる気がする。

 

庶民の視点

さて、ききょうの一本筋の通った断固たる決意表明を聞いたまひろだが、ではまひろはどのような志を持っていたのだろう。

少なくとも、まひろは家でひたすら漢籍と和歌を習得し修めることに余念がないだけで、宮中へ女房として出仕するなどどはこの時つゆほども考えてもいないし語ってもいないように見受けられる。ききょうの決意をきいても他人事のようにお祝いを述べて終わるだけである。

確かに女房として出仕するのはすなわち宮中で公卿ら男性に顔を晒すことであり、それは同時に(下級とはいえ)貴族の女性としては恥と考えられていた側面があったことは否定しない。ききょうの夫が言ったことも現代の感覚でいうと差別になるだけであって、当時の貴族の感覚としては至極まっとうな意見だったにすぎない。

 

ドラマの中で語られるまひろの志はどうだったのか?

それは文字の読めない人を少しでも少なくする事。

そこにすかさずききょうがツッコミを入れる。さすが鋭い指摘。ぐうの音も出ない。

「でも、我々貴族の幾万倍もの民がおりますのよ?そのことはご存じ?」

 

その通り。まひろの志は、最も民主主義が芽生えるのが早かったヨーロッパでもルネサンス以降、18世紀とかである。600~700年は早い思想を語っているのだから、まひろの言葉は周囲の人に荒唐無稽、実現できる根拠のない戯言だとして、夢見る貴族のお姫様扱いされて終わるのも無理のないことである。日本で文字が一般民衆階級に普及するのも江戸時代以降(の町人階級)だから少なくとも600年後ということになる。ヨーロッパと同じじゃないか。

※登場人物たちの、まひろの行動を耳にしての反応

宣孝:平民に文字を教えて何か儲けがあるのか?ないだろうwww*1

いと:べつにお礼を頂いてないのですからどうでもいいじゃありませんか*2

さわ:一人に教えたところで、国の民皆は救えませんよ?(迫真)

ききょう:なんとまあ、もの好きな……(呆れ)

 

ここで、文字を教えている農民の子の親からまひろに直接言葉を頂いたので、そのまま載せます。

「子供は立派な労働力だ」

「文字なんか読めたって暮らしはよくならねえ」

「俺らはあんたらお偉方の慰みもんじゃねえんだ!」

つまり、

まひろの行動は単なる自己満足にすぎないのだとはっきり当事者から宣告されたのです。

 

学問の出来が悪かった弟の惟規が擬文章生に合格した祝いに、琵琶を弾くまひろ。しかしその表情はお祝いにしてはどことなくもの寂しい。惟規は琵琶の音を「哀しい音ですね」というが、まひろは自分が政治にかかわることができるでもなくただ貴族の邸で過ごすしかできない身の上を嘆いているように見える。

 

また、白居易の琵琶行という漢詩を書写しながらぼんやりつぶやく。

「私は一歩も前に進んでいない」

現実を憂いつつ、無力な自分。こうして学問を究めることしかできない……

そんな心の独白が静かに聞こえてくるようだ。

 

おまけコーナー:漢詩について

さてこの白居易だが、源氏物語にも多々引用されている。

第一巻の桐壺は題材として長恨歌の粗筋をそのまま踏襲していることは有名だ。また、

「天に在つては願はくは比翼の鳥と作らん、地に在つては願はくは連理の枝と為らん」

という長恨歌の一節を題材に取った「比翼連理ひよくれんり」というキーワードを引用して光源氏と紫の上の仲睦まじさを描いている。

李白杜甫と並び称される唐の詩人である白居易は通称を白楽天として奈良時代の当時から日本でも親しまれ、その著作はまとめられて「白氏文集」として広く知れ渡っていた。

 

白氏文集からは清少納言枕草子に引用している。というより定子様と清少納言による当意即妙のアイデアの応酬というところか。

いわゆる『枕草子』第二八〇段に見える「雪のいと高う降りたるを」の中で触れられている香炉峰の雪のことである。

枕草子のこの場面は有名で、古くから数多くの画家が描いている。


白居易の漢文と現代語訳

『香炉峰下新卜山居』白居易【原文・書き下し文・現代語訳・解説】

 

 

レジャーとしての寺社参詣

無力さをかみしめ、鬱々とした人生を嘆くまひろ。

さわも家では継子として父母につらくあたられているといい、気分転換を思いついたまひろは為時に願い出て、さわと2人で石山詣でに出かける。

 

石山寺は観音信仰の寺で創建は奈良時代にさかのぼるという。

懸造りで建てられた本殿は平安時代の建造でもちろん現在は国宝である。

(当時はこの柵はなかったけど)

 

琵琶湖から流れ出る瀬田川のほとりの山の裾、視界の開けた風光明媚な場所にある石山寺は都から近いこともあり、長谷寺参りと並んで貴族の(特に普段家から出られない女性の)参詣先として人気があった。参詣という名目で旅行できるから、という意味もあっただろう。

つまり当時の人たちには参詣=レジャーという意味が強かった。

交通手段もなく移動は女性は袿の被衣姿に掛け帯、笠に虫の垂れ衣をたらして足は足袋に草鞋という旅装でひたすら歩くのである。さらに寺へ参篭するのに一週間かけていたことをみると往復一か月?とかいう計算になってきて、確かに都を離れて自然豊かな地に物見遊山がてらリゾート地へ出かけるという目的のほうが多かったかもしれない。

 

さて従者を連れて徒歩で道をいく二人はすっかり意気投合したようで、紫式部の著作に実際に出てくる親友という人も、さわのことを指している、つまりさわは実在の人物なのではないかと思えたりする。

ここで兼家の妾であった寧子と道綱の一行に出会い交流を深めるのだが、そんな政治的背景はまひろにはどうでもいいらしく、昔から蜻蛉日記の作者として思慕と憧れの念をいだいていたであろうまひろは、童心に戻ったかのように無邪気に純粋に笑顔を見せる。今までの悩みなどどこかに吹き飛んだかのように。そういう意味では物見遊山より祈祷より、まひろにとっては石山寺にはるばるやってきたのは意味があったかもしれない。

大人になって実際に恋の喜びそして苦しみを身をもって知ったからこその、蜻蛉日記への理解がより深まったこともあるだろう。

まひろが、まるで推し作家の新作販売日に書店に一番乗りしたら偶然推し作家本人に出会えたときのマニアックなファンみたいな言動で、いかにも嬉しそうにソワソワしてて実にほほえましい光景だった。

 

さて。実際に石山寺に行ってみたので、梅の季節の雨の日であったが、現地の風景を貼っておく。

ちょっとしたこういう掲示板にすら素朴なわびしい雰囲気があって歴史を感じる。

 

石山寺の語源になった巨大な石を背景に、梅の盆栽が展示されていた。

寒い中可憐に咲く白梅。

 

 

ひろたちが参詣したであろう本殿脇の廂廊下。貴族の邸の廂もこういう廊下に同様に高欄がついていたのだと思う。

 

おまけ:大河ドラマの舞台という事でイメージイラストが掲げられていた。

素敵なアニメ風イラスト。

 

 

さらにおまけ:琵琶行の漢詩全文

※引用元:『琵琶行』白居易 【全文の原文・書き下し文・現代語訳・解説】 より

この冒頭の太字で書いてる部分が、まひろが書写していた部分です。

そのあとの、第一段おわりの色を黄緑に変えた部分を、まひろが声に出して静かに少しだけ朗読している。

そして「私はまだ一歩も前に進んでいない」というナレーションが入る……

 

原文

琵琶行 並序

元和十年、予左遷九江郡司馬。明年秋、送客湓浦口、聞舟中夜弾琵琶者。聴其音錚錚然有京都声、問其人、本長安倡女、嘗学琵琶於穆曹ニ善才。年長色衰委身為賈人婦。遂命酒使快弾数曲。曲罷憫然自叙少小時歓楽事、今漂淪憔悴、徒於江湖間。予出官二年恬然自安感斯人言是夕始覚有遷謫意。因為長歌以贈之。凡六百一十ニ言、命曰琵琶行。

 

(第1段)

潯陽江頭夜送客

楓葉荻花秋瑟瑟

主人下馬客在船

挙酒欲飲無管絃

酔不成歓惨将別

別時茫茫江浸月

忽聞水上琵琶声

主人忘帰客不発

尋声暗問弾者誰

琵琶声停欲語遅


(第2段)

移船相近邀相見

添酒迴燈重開宴

千呼万喚始出來

猶抱琵琶半遮面

転軸撥絃三両声

未成曲調先有情

絃絃掩抑声声思

似訴平生不得志

低眉信手続続弾

説尽心中無限事

軽攏慢撚抹復挑

初為霓裳後六玄

大絃嘈嘈如急雨

小絃切切如私語

嘈嘈切切錯雜弾

大珠小珠落玉盤

間関鶯語花底滑

幽咽泉流氷下難

氷泉冷渋絃凝絶

凝絶不通声暫歇

別有幽愁暗恨生

此時無声勝有声

銀瓶乍破水漿迸

鉄騎突出刀槍鳴

曲終収撥当心畫

四絃一声如裂帛

東船西舫悄無言

唯見江心秋月白


(第3段)

沈吟放撥插絃中

整頓衣裳起斂容

自言本是京城

家在蝦蟆陵下住

十三学得琵琶成

名屬教坊第一部

曲罷曾教善才伏

粧成毎被秋娘妬

五陵年少爭纏頭

一曲紅綃不知数

鈿頭銀篦撃節砕

血色羅裙翻酒汚

今年歓笑復明年

秋月春風等閑度

弟走従軍阿姨死

暮去朝來顏色故

門前冷落鞍馬稀

老大嫁作商人婦

商人重利軽別離

前月浮梁買茶去

去来江口守空船

遶船明月江水寒

夜深忽夢少年事

夢啼粧涙紅闌干


我聞琵琶已歎息

又聞此語重喞喞

同是天涯淪落人

相逢何必会相識

我従去年辞帝京

謫居臥病潯陽城

潯陽地僻無音楽

終歳不聞絲竹声

住近湓江地低湿

黄蘆苦竹繞宅生

其間旦暮聞何物

杜鵑啼血猿哀鳴

春江花朝秋月夜

往往取酒還独傾

豈無山歌与村笛

嘔唖嘲哳難為聴

今夜聞君琵琶語

如聴仙楽耳暫明

莫辞更坐弾一曲

為君翻作琵琶行

感我此言良久立

却坐促絃絃転急

淒淒不似向前声

満座重聞皆掩泣

座中泣下誰最多

江州司馬青衫湿

 

現代語訳

元和十年、私は九江郡の司馬に左遷された。翌年の秋、客を湓浦のほとりまで送っていく船の中で、夜琵琶の音(ね)を聞いた。その音色はみやこ風で、誰が弾いているのかを聞くと、元長安の名妓で、かつて琵琶を穆、曹という二大名人に習い、年を重ねて美貌が衰えると、商人に身請けされてその妻になったという。

その話を聞いて私は酒を持ってくるように命じ、いそいで彼女に何曲か琵琶を弾いてくれるよう頼んだ。彼女は弾き終えると悲し気に若かりし頃の楽しかった思い出を語り始めた。そして今はすっかり零落し憂き世をさすらっていると言う。

私もまた左遷されて2年の月日が経つ。自分の身の上には特に心患うこともなかったが、この人の話を聞いて感じるものがあり、この夜はじめて流謫(るたく)の身の悲しさを思った。そこで長歌を作って彼女に捧げようと思う。およそ612語、これに「琵琶行」と名付ける。


(第1段)

潯陽江のほとりで夜客を見送った。

楓葉に荻の花、秋は何とももの悲しい。

私は馬から下り、客は船に乗り込んだ。

杯を挙げ酒を飲んで別れの宴といきたいところだが、音曲がない。

酔って楽しく見送りたいのに、沈んだ気持ちで別れの時を迎えた。

別れる時どこまでも広がる川に月影が映る。

その時ふと川面に流れる琵琶の音に気づき

私は帰ることを忘れ、客は出発をやめた。

その琵琶の音のことをそっと聞いてみる、いったい誰が弾いているのかと。

琵琶の音はやみ、返事はなかなか戻ってこない。


(第2段)

船を移し、近づいて琵琶弾く人を迎え

酒を添え灯火を巡らせて再び宴会を開く。

何度も声をかけてやっと来てくれたが

顔を隠すかのように琵琶を胸に抱えている。

絃を巻いて音を整え、バチを払って二、三音。

まだ曲にはなっていないがすでに情緒が立ち昇る。

絃を低く抑えた音には思いがこもり

志を得られぬ身の上を訴えるかのよう。

眉を垂れ手に任せて琵琶の音を奏で

心中の無限の思いを語り尽くそうとするかのようだ。

軽く押さえ、ゆるく捻(ひね)り、撫でて又跳ね

最初は『霓裳羽衣の曲』を、次は『六玄』のしらべを。

太い絃はザワザワと激しく雨が降るごとく

細い絃はヒソヒソと内緒話をしているよう。

ザワザワとヒソヒソが交じり合えば、大小の真珠が玉の皿に落ちるかのよう。

のどかな鶯の鳴き声が花の下でなめらかに響き

むせび泣く泉の流れが氷に閉ざされて行く道を遮られる。

氷の下で泉は凍り付き、弦もまた凝結して流れは途絶え音はやむ。

ひそかな憂いと恨みが生まれ、この時音がやむのは音があるより良い。

しばらくすると銀の甕が破れて中から水がほとばしり

鉄の鎧をまとった騎兵が飛び出して、刀や槍を打ち鳴らす。

曲が終わるとバチを収めて弦の真ん中をザンと払う。

四つの弦が同時に鳴らす音は絹を引き裂くよう。

東の船も西の船も話し声が消えてしんと静まり返り

ただ川の真ん中に秋の月が白く光るのを見るばかり。


琵琶を弾く女は物思いにふけってバチを絃中にはさみ

身じまいを整えて立ち上がった。

そして自ら、かつて長安のみやこに住んでおりましたと語り始める。

家は蝦蟆陵下にあってそこで暮らしておりました。

十三の年には琵琶を習得し

天子様の教坊の一番の教室におりました。

私が弾き終えると、琵琶の名手たちはその素晴らしさに頭を垂れ

美しく化粧をすると、姐さんたちに妬まれました。

お金持ちの貴公子が争って私に心づけをよこし

一曲弾けば心づけの赤い絹は数知れないほど。

螺鈿(らでん)の櫛は拍子取りに使ううちに砕けてしまい

赤い薄絹の穿(は)きものは転がった酒器に汚れ

その年けらけら笑って暮らせば翌年もまた同じ。

秋の月も春の風も考えなしにのほほんとやり過ごし

そのうち弟はみやこを離れて従軍し

妓館のお母さんも亡くなりました。

夕暮れは去ってまた明日が来て、そうこうするうちに花のかんばせも色あせ

人気は衰え、馬に乗って通う客も稀になり

すっかり若さを失うと商人の妻となりました。

商人は儲けが大事で、妻と別れて暮らすことなど意に介さず

前の月に浮梁に茶の買い付けに出かけてしまいました。

夫が出かけた後は河のほとりで一人留守船を守り

船をめぐる明月も川の水も私には寒々しいばかり。

夜更けて思うことといえば若き歓楽の日々。

夢に泣くと化粧が溶けて赤く流れ、ぬぐってもぬぐっても涙があふれてくるのです。


(第4 段)

私は琵琶の音にすでにため息をついていたが

女が語る身の上にまたため息が出た。

琵琶を弾く女も私も共にみやこを放逐されて落ちぶれた者どうし。

人が出会うに古い知り合いである必要もない。

去年長安のみやこを離れ

流謫(るたく)の身となって潯陽の地で病に伏す。

潯陽は辺鄙な場所で音楽というものがない。

一年中笛の音も絃の音も聞かず

住まいはじめじめとした湓江の川べり。

黄色い葦や苦竹が家の周りをうっそうと取り囲み

朝から夕べまでいったい何を耳にするかといえば

血を吐いて鳴くというホトトギスと猿の哀しげな声。

春の川辺の花の朝と秋の月夜には

しばしば徳利を手に一人酒を傾ける。

山守の歌や村人の吹く笛があるではないか。

いやいやキーキーガーガーとあれは聞くに堪えぬ。

今夜あなたの琵琶が奏でる物語を聞いて

まるで仙界の音楽のごとく耳が清められました。

どうか断らないでほしい、もう一度座ってあと一曲の願いを。

私もあなたのために琵琶の音色を詩に変えて『琵琶行(びわうた)』を書いて進ぜよう。

琵琶女は私のこの言葉に感じてしばらく立っていたが

座って絃を絞るとにわかに急な調子が流れ

音色のうら悲しさは先ほどとは様変わり。

満座の者これを聞いてみな涙に濡れた顔を覆う。

座中最も涙を流したのは誰か。

それはこの私、江州の司馬だ。わが青衣はすっかり涙で濡れてしまった。

 

 

 

 

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