歴史と本マニアのための部屋

歴史、政治、本、あと吹奏楽関連のつぶやきです

第10話「月夜の陰謀」 大河ドラマのlightな感想 光る君へ

 

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今回は大きくストーリーの流れが二つに分かれる。政変と、恋だ。では政変のほうから見ていくことにする。

寛和の変

………自分は日本史については素人なので史実といっても何も知らないのですけど。少なくともWikiに見える内容通りではあるようだ。

一年に渡って語られる大河ドラマ

そのプロローグの終章を飾る、天地を揺るがす大事件。

序章は終わったのだと高らかに告げる。

ここを分水嶺として、政治的にも、また関わる人々の人生そのものも大きく動いていく事件。

 

自分はこの感想部屋で、この事件を軸として山場へ持ってこれるように、この政変そのものについては言及を避けてきた。また、この事件への伏線や今後の展開についても明言しないことにしていた。藤原義懐一派の専横ぶりが際立ち、「このようなことはおかしい」という実資の憤りがより鮮明に感じられる筋書きだったため、自分も感想を考えながらこの政変まではじっと息を潜めて耐えようと思ったので。

これまで9回にわたって語られてきた喜怒哀楽の物語はすべてこの政変へ収束するように、ドラマの脚本もそこへ一気にスポットライトを当てるように語られてきている。

 

だが長年与えられた位階に甘んじて、誰よりも耐え忍んできたのは他でもない兼家だ。

安部晴明と謀って花山天皇を陥れ、失脚の憂き目に遇わせて力づくで自分の血筋の孫である懐仁親王を帝位につけようとする兼家。

このなりふり構わぬ振舞に顔色も変えず淡々と従う安部晴明に品格が感じられないのはいうまでもないが。そもそも貴族の生活から行動まで全て陰陽の占いにより決まっていた時代、陰陽師が意図的に政治に関わっていたのではあまりにも不公平、かつ政治にクリーンさがなくなるではないか???

……クリーンな政治?

そのような単語はこの時代の辞書には存在しない。

生き馬の目を抜くような政争の世界で、一瞬でも気を抜けば、誰かに心を許せば出し抜かれて葬られる過酷な時代。

友情とか協調とかいう概念はないのだ。

兼家がどんなに苦難の道を歩んできたか家系図を見ればわかろうというものだ。

 

 

兼家はそもそも三男坊であった。長兄の伊尹、兼通を長い政争の末に打ち破り(という表現が一番しっくりくる)、やっとのことで右大臣の座に就いた。

その様はまさに臥薪嘗胆がしんしょうたん

参照:臥薪嘗胆 - Wikipedia 
屈辱を忘れないようにする、復讐を成功するために苦労に耐えること。仇を報いたり、目的を成し遂げたりするために、艱難辛苦をすること。

これ以前にも藤原氏はかりごとにより、政敵である源氏を追い落とした過去もある。

安和の変だ。(参照:安和の変 - Wikipedia )このときは左大臣源高明大宰府へ実質左遷させている。兼家ら三兄弟がこれに関わったかどうかはっきりとはしないが、結果としてこののち藤原氏が政権を握る転換点となった事件である。

この源高明の娘が源明子で、安和の変ののち東三条院詮子(道長の姉)の庇護を受けているシーンが今回一瞬見えた。明子はこののちストーリーに関わってくるという意味だけど今回は名前を確認するにとどめておく。

 

その伝統を受け継いだのか(?)文字通り手段を選ばない藤原氏の兼家。

しかしこの陰謀が露見すれば、失脚するのは兼家の方だ。この時点で57歳(下記参照)、兼家の年齢で失脚すればもう人生において政争に復帰できる見込みはなく文字通り終わりなのだ。

 

兼家にとってはいわゆる背水の陣。

一世一代の大博打というやつだ。

 

失敗した時の想定として、道長に対し関与してないと通すように厳に言いつけ、政治的に無傷のまま残しておく算段をも顔色も変えず語っている。

その際に、政変が成功すれば兼家の権力の跡継ぎは長兄道隆であると言及することも忘れていなかったが。あくまでこの時点では道長はもしものときの保険でしかなかった。

 

ともかく三兄弟+道綱、そして政変の鍵を握る詮子(と懐仁親王)を前に兼家は陣頭指揮を執る。前回「帝を御位から下ろし奉る」などと敬語なのか不敬なのかわからない論理をまくしたてていた兼家だが、根回しを重ねたうえで、ここにきて冷静沈着に寸分の隙も無い計画を立ててきた。しかしどこかで歯車が狂えばもう頓挫するともいえる。

安部晴明の占いに拠り丑の刻(AM1:00~3:00)から虎の刻(AM3:00~5:00)までに決行することとなり、人目につかない時間帯になったのはよかったが、これで占いの結果日中の時間になればどうするつもりだったのだろう。

それに帝を内裏の門に連れ出した姿を実際に確認することなく、門番の時の声が上がると同時に内裏の門を閉じるてしまうのもまた賭けである。

裏門につけた道隆の用意するという女車も、誰に見咎められないとも限らない。ここで目撃者が出ないとも限らないのだ。

そんな些細な齟齬からも崩れるこの計画。

なんとしても成功させて花山天皇には落飾(=剃髪、出家)してもらわなければならない。

 

これで計画が成功するかどうか、皆の顔に緊張が走る中、道綱には清涼殿の典侍から三種の神器のうちふたつを道隆と共に受け取り、梅壺の春宮(と詮子)のもとに運ぶという、計画の要ともいえる大役が仰せ付けられた。しかし目撃者がいれば始末せよとの厳命に戸惑う道綱。

この、三兄弟+ 詮子の肚の座り方とくらべて道綱は非常に人間味があって現実的だ。他の三人と詮子が激烈な政争の中を泳ぎ切っていてちょっと冷酷過ぎるだけなのだ。

道綱役の上地雄輔さん、自分は大好きなんですけど。このドラマでは他の錚々たる顔ぶれの中でよく言えば一般人、言い方を変えると度胸がすこし足りない人物として描かれている。いやいやその見てて共感できる感情の揺れとか、ほんと自分は一番親身になれて大好きな役柄ですけどね……

 

さて運命の時はきた。

寛和2年6月23日(986年7月31日)。

安部晴明の占いによれば、歳星が二十八宿の氐宿を犯す日。この日を逃せば兼家には災いが降りかかり、花山天皇は長く帝位に留まることになるだろう……

失敗は許されない。かくて兼家の立てた緻密な計画は完璧なまでに成功裏に終わる。最後のシーンで剃髪した花山天皇(もう上皇だけど)が、道兼に裏切られたことを知って悲痛な叫びをあげているところが居たたまれません。見るに堪えない。なんてことをしてくれたんだ兼家(今更)。

 

政変の後のことは史実にあるとおり。

懐仁親王践祚して一条天皇となり、いままで政権を我が物顔に操っていた藤原義懐と乳母子の藤原惟成は失脚し(史実に拠れば花山天皇と同じ寺で出家している)、以下同様に蔵人として務めていた面々は罷免となる。(蔵人頭藤原実資も役を解かれるが余りの実務の有能さに?彼だけは翌年復帰している)

大事なことなので2回言います。

それまでの蔵人は全員罷免されたのです。

六位蔵人として務めていた藤原為時さんもお辞めになられるという意味です。これでまひろの家はまた衣冠なしの貧困家庭に逆戻りです。

どうするのでしょう、また昔のように築地塀の崩れも放置し、雨漏りが滝のように降り、さらにお給料の減少に耐え切れず使用人が辞めていって限りなく0に近づいていく無限ループに逆戻りですか!?

 

さらに花山天皇は世を儚んでか、自害するということはなかったけれども、寺を巡礼する旅にでたという。また、和歌や芸能に秀でており、風流な余生を送った。余生と言っても出家したのはまだ19歳だったが。上皇となってからも妻妾を持ち、女好きだったが、それは性格だから変えられるものでもない。繰り返すが19歳の若さで政略に嵌められ、引退を余儀なくされたのだから破滅的な行動に走ってもおかしくないなか、仏の路に入り自分を見つめ直す姿勢は、見ていてハッと胸に手を当てさせられる……

奇行が多かったとかの伝説は、別の政治派閥による創作の可能性もあるし。

なぜなら歴史の叙述は常に勝者の立場から語られるからだ。歴史を残せるのは勝者のみともいう。

大阪城を思い出してください。秀吉の築いた大阪城は基礎に至るまで徹底的に破壊され、家康により上から(今現存する)新しい大阪城が建てられましたでしょう?あれと同じことです。

今見える、手に取る事のできる歴史はすなわち正しい、とは限らないのです。

 

ドラマのテーマは源氏物語であり紫式部が生きた時代を描くというものですが、その本編に入る前の序章の終わりを告げる時がきたとは言える。

これから政治的に兼家が主役の時代になり、道長にもスポットライトが当たる時がくるだろう。

 

 

さて、今回のストーリーのもうひとつの焦点、恋について考えてみる。

まひろと道長の恋

2人の恋は一見成就したかのように見えるが決してそうではない。

現実に男女の関係になっても。思いが通じて満足で幸せそうな道長に対し、まひろは涙しながら「人間は幸せでも泣くし、悲しくても泣くのよ」と述べる。

まひろはこのどちらの感情もあるから道長のように一概に喜べないのだろう。

単刀直入に言えば、二人の関係の障壁になっているのは身分だ。兼家の口添えあってもなお六位蔵人の官位でしかない学問一辺倒の為時の娘では、道長の妻になってもよくて妾、側室にしかなれないし結婚して幸せかというと「何番目かの妻」では素直に喜べないのは当然。

婿入り婚であった当時、男性貴族の出世の鍵を握るのは婿入り先の政治・経済的権勢であったので、まひろは絶対に正妻にはなれない。妻妾の立場がどんなに辛く心細く寂しいものであるかは、道綱の母が記した蜻蛉日記にまざまざとその現状が書かれているのを見ても一目瞭然だ。

 

詩歌をよくし文筆の才が冴えわたるまひろ。

普段のようすは冷静沈着、世俗の出世や儲け話とは無縁で、親子ともども純朴に学問を愛する。機械みたいに、AIのようにただデータベースからはじき出すような思考回路?父の英才教育あってのもの?

いや、感情の奥底にほとばしるような情熱を隠しているからこその、味わい深い表現になるのだろう。

 

このまひろの繊細に揺れ動く女心というのか、言葉で表すことのできない心情の機微を、吉高由里子さんが無言のうちに表情で見事に語る。

父が通う妾宅へ真相究明に潜入するも、その妾は病で明日をも知れぬ命であるという重い事実を受け止め、男女の仲とは一筋縄では説明できない奥深さがあるのだとまひろなりに理解しようとかみしめていたところだが……………

(※このくだりや色々な男女関係がこのドラマでは描かれているが、そのどれもが源氏物語のしみじみとした情趣、人の心を強く打つ感動などの「あはれ」に集約されていく伏線なのではと思わせる節がある)

その後、道長からの文を従者の百舌彦が届けに来るが(この文をまひろが直接受け取っているシーンは断じて貴族の姫としてありえない行動だとしても)その文を食い入るように見つめ思いを馳せるまひろの表情が実に美しい。

それまでとは打って変わって、みるみるうちに恋する乙女の如くかわいらしく艶やかになり、透き通るような色白の肌は心なしかほんのり色づいているかのよう。

感情の昂ぶりのあまり目までうるんでいるかに見える。

 

貴族の文のやり取りって本来こうですよね。何回も熱烈な歌を贈られ、しかし女性側はすぐに靡くのははしたないとされて何度か返歌をするうちに次第に打ち解けていく……

ただしまひろがただの姫でないところは、返歌を昔の有名な漢詩から引用している点だ。なんと(5世紀の)東晋陶淵明から取っている。そりゃ道長も戸惑って行成に相談するわけです。なぜなら漢籍は男性が朝廷での仕事で扱うもの、女性は関わるべきものではなかったからで。

 

行成も行成で、(道長が実際に引用したのが古今和歌集からというのを関連させてるのもあるだろうが)古今和歌集 仮名序冒頭を踏まえて、まひろとの文のやりとりを解析して見せた。実にお見事。このふたりの関係は今後も政治的に重要な意味を持つことを暗示しているのだろうか。

行成が引用した仮名序冒頭:
和歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。
世の中にある人、事業(ことわざ)、繁きものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり。

現代語訳:
和歌は、人の心をもとにして、いろいろな言葉になったものである。
世の中に行きている人は、関わり合う色々な事がたくさんあるので、心に思うことを、見るもの聞くものに託して、言葉に表わしているのである。

 

まひろはもらった文の和歌を通して道長に思いを馳せる。

しかし返歌に託した漢詩で、また直接道長に伝えたところでも、単純に自分の思いに溺れてないところが、やはり何か筋が通った意志の強さを感じる。

源氏物語のような長大で複雑な構成のものを執筆するだけの胆力がこの辺にも垣間見える気がする。

 

上記の仮名序に見える「心で思うことを見るもの聞くものに託して和歌に詠む」ことに対し、漢詩は「志を託している」と解析する行成。

 

実際の道長が文に託した和歌は、熱烈な恋の歌だ。いずれも古今和歌集から。

思ふには 忍ぶることぞ 負けにける 色には出でじと 思ひしものを
(巻第十一   恋歌一 503番 よみ人しらず)

現代語訳:強い恋心に、忍ぶ心が負けてしまいました。決して誰にも知られないようにと思っていたのですが。

※恋が思いがけず露見してしまったという歌は他にも数多く残っている。次の二つの歌は「ちはやふる」で自分は知った(国文学は初心者勢)。人に言えない恋心を抱えて思い煩うのは今の世にも言えることかもしれない。

しのぶれど 色に出にけり 我が恋は ものや思ふと 人のとふまで
拾遺集恋一 平兼盛
現代語訳:心に隠していたけれど、顔色に表れてしまっていたのだなあ、私の恋心は。「何か物思いをしているのですか」と人が尋ねるほどに。

恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思ひそめしか
壬生忠見
現代訳: 恋をしているという私のうわさが、広まってしまった。誰にも知られないよう に、心の中で思っていたのに。

 

死ぬる命 生きもやすると こころみに 玉の緒ばかり 逢はむと言はなむ
(巻第十二恋歌二568 藤原興風

 恋しさで死んでしまいそうな命が救われるかもしれないので、試しにほんの少しでも逢おうと言ってみてください

 

命やは なにぞは露の あだものを 逢ふにしかへば 惜しからなくに
(巻第十二 恋歌二 紀友則

 命、それが何だというのか、所詮、露のようにはかないものであるのだから、逢うことに替えられるなら惜しくはないのに

 

どれも熱烈な恋の歌、古今和歌集に載っている。ではこれをプロポーズととるのかというとどうなのでしょう。一夜の関係、ゆきずりの関係を前提としているのでしょうか。いや、当時は男女が顔を合わせるというのは「相まみえる」=結婚すると同義語であったくらいだったので当然プロポーズという意味だろう。

 

この求愛の歌に対し、まひろの答えは漢詩の引用であった。陶淵明の「帰去来辞」である。

※官を辞して帰郷する決意と喜び、自然を友とする田園生活の自由な心境がうたわれている。江南の田園風景を背景に、官吏としての世俗の生活に背を向け、いわゆる晴耕雨読の生活を主題とする(引用:陶淵明 - Wikipedia )


歸去來兮 田園將蕪胡不歸
既自以心爲形役 奚惆悵而獨悲
悟已往之不諫 知來者之可追
實迷途其未遠 覺今是而昨非

(現代語訳)

さあ故郷へ帰ろう。
故郷の田園は今や荒れ果てようとしている。
どうして帰らずにいられよう。

今までは生活のために心を押し殺してきたが、
もうくよくよしていられない。

今までが間違いだったのだ。
これから正しい道に戻ればいい。

まだ取り返しのつかないほど大きく道をはずれたわけではない。
やり直せる。

 

まひろは「自分の心に正直になればいい」というふうにこの漢詩を解釈しているように見える。そして、まだやりなおせる、とも。

 

田園へ帰ろうという趣旨からか、道長はまひろに

「遠くへ駆け落ちして官位と家を捨て、お互い身一つで暮らそう」

と持ち掛けるがまひろはここで漢詩を引用している。

この恋文のやりとりのベースには前回の直秀の詩が色濃く影響しているわけです。あの事件から立ち直れずにいる道長に、「やり直せるからまた立ち上がろう」というふうに説いている。元の「田園に還り晴耕雨読を生活の糧に生きよう」とは真逆になっている気もするけど。

 

まひろは、行成の言葉を借りれば

「志を詩に託した」

のだ。

でも、ここでまひろに漢詩を引用してまで激烈な熱情と向こう見ずな行動を諭されるような立ち位置でしたっけ。

大臣家のご子息様ですよね?

もっと御身を大事に慎重に行動なさるべきなのでは?

 

しかしこれは二人とも歴史に名前が本格的に登場するまでの無名の時代にすぎない。

若さならではの感情の奔流がなせるできごとだったのだろうか。

 

※ドラマで詠まれた和歌と漢詩のテキストはこのサイトから引用:
【光る君へ】第10回「月夜の陰謀」回想 陶淵明と古今和歌集が象徴した2人の違い 「志」を説くまひろと「心」を訴えた道長 紀貫之「仮名序」の影響力とは – 美術展ナビ