歴史と本マニアのための部屋

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第6話「二人の才女」 大河ドラマのlightな感想 光る君へ

 

この記事は自分の覚書なので、登場人物の年齢を書いておく。

 

第六話では花山天皇の女御藤原忯子様がお隠れになったとのことなので、即位から二年後の986年のことだから、登場人物も2年づつ年をとっている計算である。

※ただしこれは各人の生年からの単純計算であり、当時は新年を迎えるごとに年齢を重ねていた数え年なので史料に見える年齢とは若干ずれているのかもしれないが、自分はたんなる通りすがりのドラマ視聴者なのでその点はご容赦ください。

 

 

目次:クリックで各項目へ飛べます

 

 

 

まひろの教養を育てた左大臣

父との共謀により、まひろは政治的な情報を得る場として(いわばスパイとして)左大臣家の一の姫倫子のもとに伺候する。

 

《ドラマの筋書きでは》当時は姫を入内させるかどうか、どの公卿と娶わせるかで政治が動いた摂関政治の時代。左大臣家の一の姫ともなれば、その動向は殿上人すべて衆目の注視するところだったがいっこうに左大臣は動く気配がない。一の姫以外の子女についても同様に縁談の音沙汰はなく、右大臣兼家もその黙して動かない存在に脅威を感じていたのだろう、(ドラマ上のフィクションだろうけど)為時を通じて左大臣家の動向を探ろうとする。そのあおりで左大臣家の姫のお話相手として上がることになったまひろ。

また、今回はじめて右大臣兼家は三男道長左大臣家の倫子との縁談をもちかけている。三男の結婚相手としてはもったいなく十分すぎるくらいである。

※ちなみに次男道兼の奥さんは実際には誰なのか:最初の登場人物紹介で藤原繁子の名が見え、誰だっけと思って調べると藤原師輔の娘で道兼室だった。それって伯母と甥じゃんという関係はともかく、どこに登場したのかと思って録画を見返すと、詮子さまと懐仁親王の場面で乳母として登場していた気がする。つまり女御様付きの高位の女官だっだわけですね。ほかにも道兼室は多数いたはずだが名前がついて登場する役は今の所この人藤原繁子だけ。

 

この左大臣家でまひろは赤染衛門先生の指導のもと、その教養に磨きをかけ、ますます和歌などについて研鑽を積む。

竹取物語」「蜻蛉日記」「古今和歌集等、古典文学から当時話題であった日記文学まで、和歌の教養も交え、先生の赤染衛門の講話に対し一歩もひるまずむしろ新しい独自の意見を述べ、その前衛的解釈が冴えわたる。(父為時でなくても)確かに貴族の姫として屋敷の深窓で人生を送るには惜しいと誰もが思うだろう。

まるで水を得た魚である。

父に左大臣家の様子を探れと指示され、その使命は重々承知していたはずだが、それ以前に、まひろは純粋に知的なやりとりを楽しみ、この空間で享受する刺激を存分に堪能しているようである。

当初は自分の邸と比べても場違いな雰囲気に呑まれて絶句していたまひろだが、後の宮中で彰子のサロンに出仕する女房紫式部として、(公卿たちが駆使する漢詩などの)教養を嗜み、場の空気を読んで言葉の駆け引きに長ずる土壌はこの土御門殿で養われたのかもしれない。そして源氏物語の著者としての土壌も。

倫子様からは「もっと楽になさいましよ」ともったいなくもお声かけをいただき、まひろはとりあえず場の空気に合わせ愛想笑いをする術を身につける……

その正直さでは貴族社会ではやっていけないのだと、ホクロと虫を間違える父の粗相を引き合いに出して笑いをさそいながら、まひろに優しく社交界のマナーを諭す。

「苦手は苦手、ということで参りましょうか」

後の(間接的な)上司としての倫子様の人柄が上品に描かれていて、視聴者としては安堵するところ。

父為時は「出世のためには大学を出ないと!」と息巻き、息子惟規(その他大勢いたであろう息子)の出世にも学問がなくては!と、勉学一辺倒の人物。宮中の動向と政治の流れは学問とは全く関係ないところで動いているのがドラマでも描かれているのに、いまだに為時がまひろを見ては

「お前が男であったらのう……(どんなにか出世できたことだろう………)」

と嘆息するのも時代遅れもはなはだしい。

そんな男たちの政治的思惑とはうらはらに、まひろは知的な刺激を求めてのびのびと学術サロンを楽しんでいるようで、少しでも悲しい過去の境遇が報われているなら視聴者としては救われる思いである。

 

このサロンのみどころ:

赤染衛門先生のよく通る声で詠まれる和歌を、それぞれの解釈と共に堪能する

・土御門殿の瑞々しく華麗な装飾:御所車にかざられた季節の草花

・赤い飾り紐がかわいい香箱座りのネコ

土御門殿は宇多天皇の血筋を引く源氏みなもとしに受け継がれた屋敷であり、ドラマの基調方針としては宮中の雅やかな雰囲気を残した奥ゆかしい装飾である、とされている。

 

大臣家が権勢と財力を前面に出した調度で統一されているのとは対照的だ。

舶来という言葉が現在に伝わるように、右大臣家の邸は(当時は唐物という言葉で表されていた)唐から将来された文物の数々でいろどられている。唐風な蒔絵がほどこされた屏風、高麗青磁もしくは宋の官窯の青磁の香炉、豪奢な装飾の厨子……

 

さて今回は漢詩の会として道隆の邸で貴族たちが顔を合わせている。

その清原元輔の背に見える屏風にも、馬に乗った西方風または蒙古風の人物が描かれ、右大臣家の次代領袖としての道隆にもまた権勢と財力が受け継がれていることを静かに物語っているようだ。

 

凋落の予感

さて花山天皇外戚で政治の実権を握った藤原義懐と乳母子藤原惟成は、今回滑稽な演出でその将来は悲観的に描かれている。終盤で明らかになった女御忯子様の死去を予感させる演出だ。

歴史の描写は常に後世の権力者の意向により脚色されるが、彼らの動向については花山天皇の積極的な政治への姿勢も含め、不当に評価されるには当たらないと考える。ただ彼ら外戚は、時勢が読めていなかった点は否めない。なぜなら花山天皇の父母冷泉天皇と女御藤原懐子は即位当時すでに死去しており、後ろ盾のない花山天皇を盛り立てようと野心をもって藤原義懐が名乗りを上げたのだろうと思われるし、革新性を持った政策を打ち出していて批判ばかりされるところではないはずだ。

しかしこのような描かれ方をして、それもやむを得ないという後世の評価であるのはひとえに政敵のほうが一枚上手だったに過ぎない。

政敵とは誰か、それはドラマでは藤原義懐以外の藤原氏(と源氏みなもとし)全部であると描かれているが、要するに大臣家の兼家である。兼家は政敵としての兄弟は全員追い落としてきたので、孫である親王が春宮となった今、ターゲットに絞るべきは花山天皇ただひとりとなったからだ。

 

藤原義懐の動きに対して、同様に若い公達を集めて開催された道隆主催の漢詩の会。

両方に招待された藤原公任藤原斉信からの評価は当然道隆のほうが政略において上手と述べられていた。彼らの時勢を読む機敏さは今後も注目すべきところだ。

 

氏の長者としての振舞い

道隆主催の漢詩の会を振り返ってみると多くの事が示唆されている。

貴族たちは公務の合間で(行事によい吉日を占いながら)様々な催しを行った。ほかにも紅葉や桜を愛でる宴、管弦の宴など……大納言以上の家格になると自家の姫君の婿を探すにもこういう催しはうってつけで、そこで姫君は御簾越しに楽器を奏でたり、和歌を詠んだりしてそれを手掛かりに公達は意中の姫を見定める。

左大臣家の倫子の婿探しにこういった宴が催されるのかなと思っていたら、偶然左大臣家で飲んでた折に、右大臣兼家がネコとの絡みで倫子の姿を見かけるという設定のようだ。なーんだ、てっきり大がかりな婿探しの宴で公達ら(斉信など)が倫子を目当てにしのぎを削るのかと思いきや、婿探しはどうやら水面下で進むらしい。

この漢詩の会はどうやら純粋に漢詩を愛でる会らしい。ってそんなわけあるわけもなく、道隆が自らの派閥に若者がついてくるか見極める、というか若者を自らの派閥に取り込む意図で開いた会らしい。

漢詩の会のお題として元輔が掲げたのは「酒」であり、藤原義懐らの開いた女房を侍らせた品の無い酒宴と対比されている。

そうとは露知らず、というか為時だけが漢詩を愛でる会なのだと純粋に信じ切って参加されているのが最早おいたわしくすらある。まひろも純粋に漢詩の会なのだと思ってついていくのが同様に政治が読めていない。

いや。同様に漢詩の会だといって盛り上がっている人たちが居た、それが清原元輔清少納言親子である。彼らと紫式部が実際に知り合いだったかとか史実はともかく。同時代を生きた宮中の文学人として少なくともお互い存在は知っていたようなので、実際それぞれどんなキャラだったのか見ててわかりやすくはあった。

まひろー紫式部
控えめで地味な陰キャなオタク。クラスの隅っこで黙って本読んでるタイプ。倫子様に自分の推し作家と著作(蜻蛉日記)を布教しようとするもはっきり断られ、傷つく。漢詩の会で講評を求められて指名されるも当たり障りなく空気を読む優等生な答え。

ききょうー清少納言
みんなのリーダー。自分のありあまる才能に疑いすら持たず、裏表なく人に接する自信あふれる陽キャ。ほっといても人が集まってくる。漢詩の会でも才気あふれる様を隠そうともせず、結果として周囲に煙たがられ疎まれるがそこのとについて気にもせず全く問題だと思ってない。

このききょうのはっきりと自分の意見を述べるさまは、のちの著作「枕草子」に見えるはっきりと主観でものごとを見るようすに通じるものがある。

(そういえばききょうと清原元輔の衣装は、当時国司を歴任していた元輔の財力を反映してだろうか、豪華なものが用いられていた。元輔の衣装の紋様は有職故実による伝統的なものというより、学者という職掌上、幾何学的というか孔雀?をモチーフにした珍しい衣装。)

ききょうの才気煥発なさまを高階貴子さまが興味深く眺めている。要するにここは、有能な女房候補を探している面接と考えたらいいのでは?入内を想定されて育てられている定子様付きに、有能な女房はいないか探している目。家庭教師候補というより、宮廷でのサロンを運営するために才能ある若手を発掘しなければ……という意図が裏に見え隠れする。

(それは後の結果を知っているので言えることだけど)

 

まひろと道長は静かに恋を育んでいるというふうに描かれているが、貴族の姫が意中の公達と御簾も隔てずに対面するなんて結婚してるんじゃあるまいし、そのいきさつはここでは触れない。嫁入り前の姫がこんな大人数の前にお出ましになってるような描かれ方だと、まひろが誰の声掛けにも応じるはしたない姫になってしまうじゃないか(ききょうも同じだけど)。

 

しかしここで詠まれる漢詩がこの架空の恋に絡んでいるので、どういう内容か一応振り返ってみる。

(下記の記事を参照)

 

賜酒盈杯誰共持
宮花滿把獨相思
相思只傍花邊立
盡日吟君詠菊詩

重陽節句に賜った菊花酒は杯に満ちているが、一体誰と一緒にこれを飲むというのか。
宮廷に生える菊花を掌にいっぱいつかんで、一人ぽつねんと君を偲ぶ。
君を偲びつつじっと菊花のそばに立ち、
日なが一日、君の「菊花」詩を口ずさんでいる。

この詩が道長からの恋を詠みこんでいるという。

まあそうなんでしょうけど、実際二人の身分の差では、まひろは妾つまり側室の下の方にしかなれず、幸せな結婚にはならないことが容易にわかるので、まひろの親世代の年齢の自分としては、そんな破滅的な恋は自ら身を引いておしまい、と言いたくなり気が気ではない。

ふたりの人目をはばからないただ事ではない様子は傍目に見ても明らかだがなぜかその場の人たちは気にも留めない。それぞれに思惑として抱えているものが違うからだろうか。

 

この場面での他の三人の公達が挙げた漢詩と、この場面を踏まえてラストで道長がまひろに贈った和歌も上記の記事に引用されているのでご覧ください。

伊勢物語からとられた恋の歌のようです。

 

ネタバレ(でもないか)ですが紫式部の結婚はもっと遅いので、こういう10代のときに人知れず恋をしていたかどうかは分からないので特にこの展開に言及もしない。

 

ただ、身分違いすぎるので。

藤原宣孝様と同様、まひろを娘同然に見てしまって、そんな大切な家族同然の娘と思っているのに身分がはるか上の貴族に遊ばれて捨てられるなんて、と親なら思いますよね。(まひろは、右大臣家にはそれ以上の因縁があるからなおさら)

そんな視点から見てしまうので、この破滅的な未来の無い恋には断じて同情できない。

光源氏が正妻の葵上との行き詰まる関係に嫌気がさして、町の小路の女である夕顔のもとに通うようになったけど周りには存在すら認知されず捨てておかれたように。

 

そのことを気にかけなければ、この場面の他の三人の公達は水も滴る貴公子揃いで筆跡もそれぞれに麗しく、若手では当代きっての文人として名高い公任は自作の詩を、他の2人も有名な漢詩を引用してお題の「酒」を見事に詠みこんでいる。

行成は後世その書は三蹟の一人とうたわれるみずみずしい筆跡。

公任はこの場で横笛の腕も披露していて、こういった芸能も貴族の能力のひとつと評価された。当時出世も他の若手より頭一つ抜きんでていて関白を父に持ち、誰もがうらやむ貴公子ぶりであった……

ここに登場する公達のそれぞれの出世街道については、後々語られることだろう。

筆跡と言えば道長の筆はまひろに贈った和歌の文も含めて謹厳実直な風があり、その書を見る限り、流麗とはいえないが真面目一辺倒な性格のようだ。

そこからどういう展開で史実に残る道長像につながっていくのだろう?

 

身分制度の外の者

左大臣家への往来の途上、散楽を主宰する直秀と都のはずれでまた出会ったまひろは、自分の複雑な立場と心境を反映させて散楽のお題を提示するも、直秀に言下に断られる。

※何度も言うようですけど従者の乙丸に市女笠を持たせて素顔のまま都路を闊歩するまひろは、その所業が道を行き交うどこかの邸の下女と同じになってて、貴族の姫じゃないんですよね……平安時代じゃなくても身分ある家の子女は虫の垂れ衣か被衣姿で外出したと思うんですよね、中世になっても。牛車に乗るまではいかない身分だとしても。

身分に縛られ出口の見えない境遇に悩むまひろ。

でもその思考する世界は所詮貴族の身分制度の中(当時貴族の人口はせいぜい1000人程度)でしかなく、その中でいくら葛藤しようが、一般民衆には何の情緒ももたらさないし利害関係もわからない。

一般民衆は(前回までの感想に書いた通り)医療の概念もなく福祉どころか義務教育もなく識字率もゼロ同然。唯一の知識層としては寺院の僧であった点は近代までの各国と共通するものがある。盗賊の被害、また異常気象や災害によって簡単に人の命や財産が奪われていた、明日の命も知れない時代。

だからこそ民衆は笑いたい。字が読めない民衆に笑いを、娯楽を提供したい。散楽とはそうした意義をもって運営されていたようだ。

「をかしきことこそ、めでたけれ。」

ここでいう「をかし」とは、直接的には滑稽な、笑いを誘うという意味で直秀は使っている。シビアな、過酷な日常を生き抜く民衆に少しでも辛さを忘れて癒しを与えられればという直秀らの心づくしが感じられる。ただこのような知識人のような言い回しをする直秀は、一概に身分制度外の者とはいえない何かの出自の謎があるような気もするが。

※ほかには「をかし」の意味として挙げられるものに
・おもしろい、趣がある、風情がある
・賞賛すべき、みごどな、優れている
・かわいらしい
があり、枕草子がをかしを基調として書かれた文学というのは周知のとおり。

前回までの感想で述べたとおり、散楽が行われているのは「辻」でありチマタ、人々が行きかう交差点という意味を超えて(たぶん官公庁のお触れが高札で掲げられたり)こうした芸能をなりわいにする人々があらわれる公共の場、ハレの場であった。

直秀が自ら名乗ったとおり彼ら芸能を主として人前で披露する人々は、当時も身分制度から外れていた層なのだと思う。農民や、身分の高い層の家人・従者たちとも違う。(当時商業、工業はそこまで産業として発達してなかったしそれらに従事する人の人口も多くなかったという意味でここでは述べない)

「俺たちは人間として扱われていないんだ」

つまり商売の取引相手とか日常の付き合いから結婚相手まで、そういう一般世間のやりとりから全く隔絶されている、「身分制度の外の者」なのだろう。

《当時の価値観で記述します。ご了承ください》その中には農地を捨ててきた農民、犯罪の履歴のあるもの、感染症の後遺症のある者、(今でいう)肢体不自由者なども混ざっていると考える。様々な意味で社会制度の網の目から外れた者たち。

彼らは全国を流浪してきて、その結果、民衆の日常空間ではない「都の市」つまりそれが定期的に開かれる「辻」に集まり芸能を披露することで日銭を稼いでいたのだろう。

決して表の歴史に残らず史料には姿を見せない人々。

彼らを物語の文脈の中で実際に見ることで、史料の中だけではなく、当時の庶民の生活に息づいた芸能だったと感じられて新鮮な体験だった。

散楽は後の民衆芸能、猿楽と狂言・能、歌舞伎、また手品師など、今に伝わる全ての芸の源流ともいえる存在でもあるので。

 

おかしきことーー

それを後に源氏物語の滑稽譚としてストーリーに組み込ませるきっかけとなったのだろうか。人の興味をひくのは身分にかかわらず面白さだということを、ここでまひろは肌で感じたのかもしれない。