歴史と本マニアのための部屋

歴史、政治、本、あと吹奏楽関連のつぶやきです

第8話「招かれざる者」、第9話「遠くの国」 大河ドラマのlightな感想 光る君へ

 

※個人的事情で、感想は今回2回分まとめて考えます。

 

 

 

目次:クリックで各項目へ飛べます。

 

 

直秀という存在を考える

さて、この時点で第9話の結末までを知ってる前提で書きますが、直秀および散楽の一座は、源氏物語紫式部を主人公に据えるこのドラマでは、オリジナルキャラとして描かれている。

ここまでは大河ドラマとしてはよくある設定です。史実だけを追いがちな歴史物で、より身近に感じられる存在としてオリジナルキャラはよく重要な役割で登場したりする。

さて直秀は他の大河ドラマと同様、貴族や権力者としては描かれず、主人公たちの物語を第三者の立場で俯瞰するという位置づけを取る。というより特殊な職業として当時の社会を構成する枠から一歩離れて、その矛盾点を鋭く指摘するという役割を担っている。

身分が流動的で平民と権力者の立場が頻繁に入れ替わっていた戦国時代の大河ドラマとは違い、平安時代は完全に各層が固定化されてて、お互い他の身分の社会は伺い知ることができなかった。そのためドラマ化にあたり、社会全体のようすを(わかりやすく)アナウンスしてくれる直秀の存在は、ドラマのスタートにあたって必要不可欠な存在だったと言えるだろう。

 

さてドラマの主人公の貴族身分は下級の貴族である。下級だからまだ下から上の身分を見上げて客観的に語ってくれる立ち位置ではある。

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この下にどのような身分があったのかというと。

まず貴族の邸宅において、女房は主人の身の周りに仕え衣装を季節に応じて用意し   たり年中行事を司ったり、また主人の文や和歌を代筆したり、他家との折衝を家司が行ったりする。ここまでが大まかな貴族の身分と言えるだろう。彼らの生活レベルは衣装、生活習慣、食生活ともに他身分とは一線を画す。

邸においてそれ以外のことを行うのが下男・下女で、彼らは薪割り、物資の運搬、炊事、洗濯、屋敷の補修や維持管理、市場で日常物品の購入や物々交換、他家への文の使いなど……彼らは身分的に主人の家には上がれないしお目見えも許されない。

また彼らが行きかう市やチマタには商工業者が集っていたりするが、あまりにも関連人口が少なすぎてこの時代まだ産業として成立してないのでそこはスルーする。

ではこういった平民身分として他に挙げられるとすれば地方の農民、漁民、海人だ。彼らが住む地は地方の国司が治め、また寺社や貴族の荘園として私的な領地に組み込まれているところも多かった。

平安時代前期、まだ一日二食、砂糖などは上流貴族しか手に入らず、経済は物々交換という原始的システム。農民の衣服は麻の貫頭衣に住居は竪穴式という奈良時代と大して変わらないレベル。医療の概念はなく権力者ですら呪術的にとらえて祈祷に頼り、社会福祉の発想もないので自然災害とか感染症の流行、貧困の問題もほったらかし。働けなくなったら行き倒れになるしかなかった時代。

識字率は言うまでもなく0%に限りなく近い。字が読めた知識人は寺院の僧くらいのもの。

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もうお分かりですね?これら平民身分のようすは貴族にはまったく情報が入ってこない。

直秀はこの二つの世界をつなぐジャンクション、接点であったようだ。この分岐点を通じてお互いの世界にお互いの情報が流れる。あくまでドラマの中の抽象的な立ち位置にすぎないが、固定された身分社会をはっきり描き出すうえで彼は重要な役割を果たしていたと思う。

都の人々が行き交う市、チマタ、河原において上演されていた彼らの散楽。

それを目にするのは都に住まう人々のほんの一握りにすぎなかったにしても、でも世の中の事を散楽というワイドショーで単純明快に演出してみせていた。今でいう新聞タブロイド版、または週刊誌。面白く娯楽にのせてニュースを提供するのが身上。

直秀曰く「民衆はみんなカツカツの中を日々精一杯生きてる。彼らはそんな重苦しい日常を跳ね飛ばして心の底から笑いたいんだ。(まひろの考えた五節の舞姫ストーリー案は)所詮貴族の戯言だ。ちっとも笑えやしない」

平民、使用人や農民や商人でなく、直秀らは芸人一座。彼らはまた盗賊として、義賊としても活躍していた。上記の通り社会福祉のバックネットが無かった時代、野垂れ死にする運命だった貧民たちに盗んだ高価な戦利品をすべて分け与える……

しかしあちこちで盗賊として窃盗をはたらいたことに変わりはなく、検非違使が捕らえたこと自体は、貴族から見れば正当な業務にすぎないのだ。

しかし彼らは捕らえられてもなお歌い舞い踊り、わずかな時間でも芸を楽しむ生粋のエンターテイナーぶりであった。

身分制度外の者、一般社会から人間と認識されてない彼らは転じて裏社会のルールで生きていたという設定も、たしかに当時実際に在りえた設定で、脚本の妙に思わず唸る。

 

散楽について(第一回の感想から)

結局彼ら散楽の一座が上演していた芸能とはどのようなものだったのだろうか?

ドラマでは政治のものまねを上演していたが。

ここで散楽について、第一回感想の記述から加筆訂正して引用する。

 

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【以下、第一回感想から引用します】

散楽と市、チマタと辻

 この市で行われていた散楽とは一種の芸能だ。

日本の奈良時代に大陸から移入された、物真似や軽業・曲芸、奇術、幻術、人形まわし、踊りなど、娯楽的要素の濃い芸能の総称。

引用:散楽 - Wikipedia

起源は西域。つまり今のシリアからイラン、中央アジアからタクラマカン砂漠あたりをシルクロードを経由して古代に中国へ伝わったらしい。つまり中国での宮廷芸能である雅楽に対して、庶民の芸能という意味で散楽と呼ばれたそうだ。

中国に西域から伝わった奇術、幻術……

それって唐の都長安で大流行りした幻人を指すのでは??

(参考地図)

※中国より右の青字は大河ドラマ平安時代と同時代10世紀の国名です。
※中国より左は散楽の起源となった古代ローマ時代の地図です。
※散楽に関係あるルートの国名と都市名しか載せてません。

 

ちょうど唐の時代にイランでは、安息国の後継として栄えたササン朝ペルシアがイスラムの攻撃を受け崩壊し、多数の文化人が都の長安へ亡命してきた。後ろ向きに馬上からの騎射の構えを描くいわゆるパルティアンショットもこの時期、工芸品の紋様として伝えられた。ほかにも宗教(ネストリウス派キリスト教景教イスラム教=回教・清真教)や様々な文物がこの時期イランから往来したが、その中に幻人も含まれていたと考えられる。

幻人は古く漢書西域伝や史記で、條支(シリア)や黎軒(アレキサンドリア)から献上されたとして登場する。それらの地では、燃えあがる炎や刀を飲み込んだり蛇を操ったりと、路上で奇術を操り大衆の見物するところで芸を披露したという。

それが唐に伝わり、イラン伝来のガラス器や西方の葡萄などの果物とともに異国情緒を伝える芸能として、幻術は長安の都で見物することができた。当時の長安イスラム帝国バグダードと共に人口百万人を超える大都市で文字通り世界の文化の中心の一端を担っていたことから、当時遣唐使としてやってきた日本の官僚がほかの文化と共にこれらの芸能を持ち帰り伝えたと考えられる。

その後日本では猿楽、そして能楽へと姿を変えて後世へと伝えられた。

正倉院に伝わる伎楽の面(散楽ではないが)。鼻が高くイラン系のソグド人の風貌を伝えるといわれる。この面の役名は酔胡王といい、胡は中国から見て西方つまり中央アジアとその文化を指す。参照:正倉院 - 正倉院

 

※散楽の衣装。短い胴着で裾に花鳥文の染め抜きがある。右端は袴の裾カバーで、ここに見える騎乗で後ろ向きに動物を射る紋様がいわゆるペルシャ起源のパルティアンショット。参照:正倉院 - 正倉院

 

※下記貼り付けの記事より引用ーー

また、正倉院宝物の弾弓(だんぐう)に描かれた「散楽図」(下記画像引用:正倉院 - 正倉院)や『信西古楽図』『新猿楽記』などによると軽業、曲芸、奇術、幻術、物真似などの雑戯であって、乱舞(らっぷ)、俳優(わざおぎ)、百戯(ひゃくぎ)とも記されており、日本に入ってきたものも中国大陸のものと同じような内容であったと思われる。

正倉院宝物の弾弓に描かれた「散楽図」

(※参考資料)

 

さてドラマの舞台は平安時代

このころには、散楽は奈良時代のような朝廷の庇護を受けた官設の楽団ではなく、場所も寺社における国家行事ではなく、平安時代には散楽が上演されたのは市の一角の路上だったりする。つまり大道芸人の性質を帯びてくる。

市とは庶民が交易に集う場所。まだ貨幣経済でなく庶民の間では物々交換だったことから、市には各地の物産が集積しそれを求めて庶民が集まった。

こうしたは普段の生活の場とは一線を画したハレの空間と考える。そこでは役所の役人からのお触れが高札に書かれて掲げられ、また処刑が行われていた場所でもあっただろう。処刑はまた河原でも行われた。ほかに古代には歌垣(つまり平安時代で言う歌合せ)が市で行われたり、また夕占などの祭祀も広い意味では市でのイベントに含まれるかもしれない。

(中略)では官設のもの以外に自然と市が立つ場所とはどういうところだろうか。

物産の集散地にして市が開かれる所、役所からのお触れが高札で立つ、処刑(=見世物)が行われるところ、それは地元住民が行きかう所、つまり交差点だ。街道が交差する場所ともいう。それをチマタと呼ぶ。

飛鳥時代にはすでに市があったことが史料に見える。代表的なものでは、藤原京の古道、下ツ道と山田道の交差点は軽市かるいちまたは軽のチマタ(今の樫原市橿原神宮前の丈六交差点)と呼ばれ、また山辺の道と大和川が交わる所には海石榴市つばいち(今の桜井市金谷付近)が立ち、ほかにも石上のチマタや当麻のチマタがあった。

京の都に建てられた東西の市はあくまで官営であり、それより古代から人々の営みの中では、普段の空間(ケ)に対して市つまりハレの空間が存在していたということだ。

 

第一回感想の散楽についての記事引用は、ここまで。

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直秀のこれからの身の振り方

居住地も職業も固定しない流浪の彼らの自由さに比べれば、確かに都の貴族は立場と身分に一生縛られる鳥かごの鳥。

この第8~9話ではやたら鳥かごの鳥が強調されるし実際鳥かごが頻繁に画面に登場する。それはしがらみから抜けられない紫式部と貴族たちを暗喩するモチーフなのかなあ。

 

直秀は丹後、播磨、筑紫の国にも行ったことがあるという、それらの国には海がある。というか播磨と筑紫は瀬戸内海の海運により行く場所といえるだろう。

そして海の向こうには彼の国の陸地が遥かに見えるという。

……………え???(白目)

海の向こうに外国の陸地が見える??隠岐対馬でさえ本州からは見えないのに???

このへんは大河ドラマならではのファンタジーというかフィクションですね。

なんで日本から外国の陸地が見えるんだ。この外国というのが京の都以外の地というなら筑紫も外国じゃないかとなるし。おかしいでしょ。

ではこのへんは中世キリスト教世界でいう、地球は平らなのだという古代ならではの概念ってことで片づけといて(いいんかい)、

直秀の言う「彼の国」とはどこかを考えよう。

ここで散楽の項で貼った地図の東アジア部分を思い出してください。この東アジア部分は平安時代当時の国名と都市名で書いています(だいたい)。

 

普通に考えて日本から見た海の向こうは当時の高麗なわけですね。その向こうには宋がある。

唐の国際交流が隆盛を極めた広範囲多民族国家の繁栄を経て、宋になると経済が爛熟期を迎える。「江浙熟すれば天下足る」と謳われたように江南の長江流域の農業生産力向上を背景に、また隋の大運河の水運を地の利にとり、商品経済市場が活性化しまた貨幣経済も宋全土にひろく浸透していく。また海路を整備し杭州以南の港に市舶司が置かれ、南海貿易(イスラム世界と)によって莫大な利益が上がっていた。これらの宋銭が日本へ大量に輸入され漸く日本でも貨幣経済が動き始めるのはもうすこし後で、平清盛の時代を待たなければならない………

そういや兼家の東三条殿には調度品として高麗か宋の青磁が並んでましたね、この時代の舶来品は権力と財力の象徴として、値段はつけられない的な存在で。

直秀の目は、どうやらそっちに向いていそうです。

世界はもっと広いんだと直秀の目が静かに物語っている。

つまり彼の国とは、のことだろうか。

ちっぽけな貴族社会で縛られているまひろを横に見やりながら。そこでまひろに「一緒に行くか!?」と声を掛けますがここで一緒に行くほど大河ドラマアヴァンギャルドではなかった。というかテーマが源氏物語という、読者を貴族社会に設定した読み物をベースにしたドラマではそこまで破天荒な展開にはできなかったのでしょう。

いいえまひろの行動が既にもう十分破天荒なので、ドラマチックな展開はしばらくおなかいっぱいです。

 

ーーもうちょいおまけーー

そして古代は日本海側の地が政治の舞台でもあった。平安時代もまだ政治経済的に古代の域を出てないのでこの記事でもこのまま論ずる。

出雲の国がどこにあったかはご存じですね、今の島根県です。

それから丹後の国にも大規模な古墳が多数遺っていて、また古代の良港もあり、丹後の天橋立のたもとの籠神社には日本で最古の系図海部氏系図 - Wikipedia )がある。

また、越前(福井県北部)の敦賀氣比神宮から越後国弥彦山付近を範囲として越、古志の国越国 - Wikipedia )が栄えていた。越国(の越後と越中の境)の、糸魚川市にある姫川では上流から翡翠を産出し、古代の重要な交易品のひとつとなっていた。(※同様に川の流れに乗って上流から翡翠が流れて来る川には中国ウイグル地区の于闐ホータン川(散楽の地図の、楼蘭の左側)があり、有史以前の古代から玉の産地として有名である)

越の国出身の天皇もおり(継体天皇 - Wikipedia )、前代の天皇と時代が空くため大和の政権に対し王朝が入れ替わっているという説もある。

これらの日本海側の地はすべて港を有し沿海航法ではあるが海運で繋がっている。つまり彼らの職掌は部民でいうところの海部氏や安曇氏(姫川の上流にある穂高神社祭礼の山車は船である)に代表される海の民と思われる。また九州を拠点とする海人である宗像氏、山陽は備前地方に本居地をおいた吉備氏(大船団を有した)、のなどと共に、海を拠点とする勢力があったと思われる。

政権はその後奈良時代に至って大和政権がいちおう掌握するに至るが、日本海側が経済の主なステージであることは変わらず、これらの港はのちに北前舩の寄港地としてふたたび栄えることになる。

それらをふまえると、「海の向こうにあるものを目指して、海を越えていく」という直秀の言葉には現実味があるというか、当時盛んだった海上交易を彷彿とさせるものがある。

 

左大臣家の一の姫、倫子の縁談を巡る人々の思惑

もうこの項目は史実にもある通り有名ですが、ドラマの展開で台詞にでてきてるわけではないので、いちおうその過程で登場人物かどういう意思で動いていたのかを、この辺で一度整理したい。

いま8~9話あたりでは、左大臣家の倫子と道長の縁談がそれぞれの両親によって話が持ち上がっている段階でしたね。

右大臣藤原兼家の場合

今の時点で春宮懐仁親王を陣営に抱えているから安泰、というわけではなく、味方の足場を少しでも盤石にしたいという思惑からか?宇多天皇の系譜である源氏、左大臣家と政略結婚できないかと画策しているようだ。そこで年齢的に倫子と道長がちょうど似合うことに気づいたのかもしれない。

兼家の目的は孫の懐仁親王をどうしても天皇位につける、ただそれだけに集約しているようだ。

大臣家藤原詮子の場合

父兼家はあてにならない。円融天皇に退位を迫る目的で毒を盛っているようでは、春宮懐仁親王の身もいつどうなるか、兼家の毒牙が伸びてくるかもわからない。

そこで詮子は考えた。父兼家があてにならないなら、右大臣家がダメなら左大臣家を味方につければいいじゃない、と。そんなパンがなければお菓子を食べればいいじゃない的な発想も強引すぎてドン引きだが、詮子はいたって本気である。内裏の梅壺に左大臣源雅信を呼びつけ、ほんと強引に自分の陣営、春宮懐仁親王側につけと一方的に迫る様は傍から見ると恐怖でしかない。兄道隆に語った「奥の手」とは左大臣家とのつながりを持つことだったのか。

したたかとは、この様子をいうのだろう。

吉田羊さんの演技が光る。

以前、父兼家に、円融天皇に毒を盛ったことを直接問い詰めに直談判しに現れた場面も手に汗握る緊迫のシーンでしたが、この左大臣に決断を一方的に問い詰めるさまも、はりつめた空気に鬼気迫るものがある。

吉田羊さんの衣装が入内当初から、若い15歳で春宮も生まれたばかりの女御様にしては袿が妙に渋いなと当時は思っていた。しかしこういう展開にはまさにぴったり、落ち着きと風格を兼ね備えた演技に寄り添う衣装で、厳格なドラマの雰囲気を否が応でも盛り立てている。

左大臣源雅信の場合

彼は倫子と右大臣家の縁談自体に反対の様子。なぜなら右大臣兼家が生理的に受け付けないらしい。右大臣家の血筋だけはお断りのようだ。それに、左大臣家としては結婚相手は選ぶ立場であり、べつに右大臣家と手を組まなくても政治の立場的にも何ら困らないからというのもあるだろう。さりとて宇多天皇の血筋である源氏、そうそう身分の低い貴族を相手にもできず、のんびり構えていたら倫子が20を過ぎていたというところか。なんとものどかな状況である。

藤原穆子むつこ左大臣家北の方、正室)の場合

左大臣雅信が薦める藤原公任に対しては、「公任様は見目麗しく、その賢さは目から鼻に抜けるような方ですが、女子おなごにも大層マメに文を贈っているとのこと、倫子が寂しい思いをするのではと心配で……」と、このひとの意見が一番地についていてまともだ。ちゃんと倫子のことを気にかけているのはこの北の方だけだ。がんばれ北の方。絶対左大臣なんかの意見に流されちゃいけないぞ。右大臣の思惑も、倫子を思う気持ちとは到底かけ離れているし。その点道長様は右大臣家の御子息なのですから偉くおなりになるのは間違いございませんわ」と言われているが(;'∀')(;'∀')(;'∀')、右大臣家には道綱とか道義とかがおりましてね???北の方は内裏に出仕しないから外のことはご存じないですかね(;'∀')(;'∀')

北の方、道長を右大臣家の息子というだけで信用するのは早計かと………(結果を知ってるから視聴者は安心だけど)

倫子本人の気持ち

打毬の会で道長が競技に参加する様子を見て以後、倫子としては道長に一応「まんざらでもない」(by左大臣雅信)(しかしこの表現は貴族らしくない)という気持ちを抱いているようです。ここだけは完全にドラマ上の想像の世界ですけど、あの場で誰もが公任様に目を奪われているのかと思いきや、そうでもなかったということでしょうか。

左大臣家の姫君のサロンで、まひろとは別の意味で道長様にうっとりと思いを馳せる倫子様。そうそう、姫君の恋はこうやって始まるのです。どこかのまひろみたいに一緒に馬に乗ったりしないのです。倫子様に「ええ~馬にも乗るの??盗賊みた~~いwwwwワラww」と揶揄されてもしょうがないですよ、まひろさん??

 

 

兼家の陰謀と詮子の謀略が雌雄決着をつけんと火花を散らす

正面から公卿の集まる政治の場で議論し、正攻法で花山天皇とその一派から懐仁親王になんとか流れを持ってこようと苦心する兼家。

花山天皇の側近の立場である中納言藤原義懐と、乳母子の藤原惟成。彼らについては史書には良く書かれてないが、実際はどういう人柄だったのかはわからない。史書は後の権力者が書いたものであり、筆者にとって邪魔な立場の者は良いふうに書かれないのは世の常だ。

彼らについては先帝から蔵人頭を務める有能な官吏、藤原実資もドラマの中で散々にこき下ろしている。彼の記述は実際に日記「小右記」に残っているから、事実の面もあるかもしれないが。

だってね?花山天皇最愛の女御様、忯子様がご逝去されたからといって、蔵人頭実資に向かって「帝のおそばに新たに女子を送り込め」とはあんまりの言いようですよね。仮にも参議にして従二位中納言の義懐様ともあろうお方が、女子を送り込むなどとあからさまな……(以下妄想の世界)「忯子様亡きいま帝をお慰めするために、どなたか心映えのすぐれた姫君を探しておる所だが、実資、そなたには心当たりの姫はおらぬだろうか」とかね、なんとでも言いようがあるでしょうよ。まして、一つの発言の言葉尻が思わぬ政争の発端ともなりえる内裏の世界で、義懐様はなんというあけすけな……

そこに実資は冷ややかにツッコミを入れる。当然である。花山天皇には今も

姚子(ようこ)様
諟子(ただこ)様
婉子女王(つやこ)様

という女御様たちが控えておいでなのですよ?彼らをを差し置いて、なんという無遠慮な。まあ、女御様たちも花山天皇の心を癒せてないというのは事実としても。

このうち婉子(つやこ)様はまたのちほどドラマの中で名前を見ることができるだろう。ネタバレになるのでこの辺にとどめておく。

 

が、そういう丁々発止の鍔迫り合いのさなか、兼家が病に倒れた。(この一瞬倒れるも後に意識を取り戻しているところを見ると、一過性の脳梗塞だったのかなあ?と色々原因を考えてみるが、しかし推測にすぎない。)

ここで、8~9話の感想のため、もうネタバレしてもいいと思いますけど、兼家はこの病気をつかって策略を立てた。正確には安部晴明と共に。

ええっ????

ここで兼家倒れるの??

あなたにはまだこれから〇〇とか△△とか重大な歴史的事件が関わってくるはずなのに???

どうゆうこと????

って最初は思いましたが、ただ倒れただけのようであり、医師の見立てでも命に別状はないらしい・・・しかし治療と言っても医師の指示は「お名前を呼んでこの現世に魂を呼び戻すのがよろしいかと」って、それじゃ呪いで人を病気にさせるのと逆なだけで、やってること変わらないじゃないですか???

ああ、これは平安時代前期、まだ古代の続きで医療というより病気自体が呪いとか祭祀、呪術と密接に結びついてる時代なのでした‥‥

 

しかしそんなお祈りは見た目にやってるだけなのであった。

祈祷師をよび安部晴明とともに祈り、忯子様の怨念が成仏できずに彷徨うとかいうこともみんな周りの目を逸らすたくらみにすぎなかったのだ。

兼家の上を行く最大の策士はなんといっても安部晴明ですけど。兼家に、政略が正直に手の打ちようがないことを打ち明けられた晴明は

「私の秘策、お買いになりますか」

と、含み笑いを浮かべながら不敵にいう。

ほんとの黒幕はお前だったのか!もうこのドラマは誰も信用できない……(今更)

 

兼家の目的は春宮懐仁親王さまを帝の位につけること、そして外戚の座につき政権を掌握することだ。

そのためには今帝位についている花山天皇が邪魔なのだ、はっきりいって。

ああなんと不敬なのでしょう、自分で書いてても畏れ多いことです。

 

藤原詮子が決死の思いで左大臣との強制的な共謀を組み、自ら動いてセーフティネットを盤石なものに整えたというのに。

兼家が倒れ、兄弟みな右往左往してなすすべなくうなだれていた中、詮子だけはそんな醜態をさらす兄弟を見下し蔑むかのように(父兼家と一括りに見られてるからやむをえない)、自らの打った策を披露し、慌てふためいて青ざめる兄弟たちを叱咤激励してなだめていたというのに。そして道長はいつも詮子の味方(問答無用で)。

8話から以降、視聴者も丸々1週間、話の行く末に気を揉み、夜も寝られないほどだったというのに。

兼家が起きた時の詮子様の驚きようも取り乱し方も、ほんと同情しかありません。

 

倒れて以降、周りの人たちの様々な思惑すべてを、突然仮病であったと明かした兼家が陰謀の全容を明かすことで、右大臣家全員の立場というかメンツというか全部を持って行ってしまった。

ここで兼家を演じる段田安則さんの表情が決まりすぎてて8話以降気落ちしていた自分は溜飲が下がったというものだ(右往左往してたのは気のせいだ)。

一番の決め所に向けて周到に伏線を張り、驚く面々を一喝のもとに説き伏せる。

ここへもってくる展開も、兼家がここぞとばかりに述べ立てるせりふも、どれもかっこよすぎる。

やっぱり今の所の暫定的主役は、断然兼家ですね。

皆さま異論はありませんね。

 

そして仮病で臥せってたのも全部春宮懐仁親王さまを帝位につけるため、忯子さまの怨霊がさまよってることにして今から、次回何が起こるかは史実に詳しいのでネタバレでもないけどいちおう伏せておく。

ただひとつ、左大臣家との独自の動きなぞお見通しというわけで(なんでバレてたんだろう)、詮子にだけは春宮懐仁親王の将来をちらつかせて一撃に釘をさすことも忘れない。さすがの詮子もここは不本意ながら反論せず黙るしかないところだ。

 

直秀のその後

さて猿楽一座の直秀は盗賊業で検非違使に捕らえられてましたね。

9話の前半で道長検非違使庁の役人に賄賂をわたし、「人を傷つけてもないし何も盗ってないし、手荒なことはしないでもらいたい」と伝えた。

そしてその場面の直後、誤って捕らえられたまひろと従者の乙丸は放免されている。

 

そして検非違使庁の役人いわく「盗賊は腕を折るのがセオリー」といい、道長の同僚である右衛門の武官たちも「鞭打ちの刑がせいぜいかと」というなか、盗賊たちは流罪が決まったようだが、実際に検非違使庁の門番が告げた彼らの行き先は鳥辺野であり、はたして直秀たちは森の中に遺体となって打ち捨てられていた……

 

これがまずドラマ上の事実でした。

ではなぜ道長検非違使庁の役人に「手荒なことはしないでくれ」と賄賂を渡し取引は成立したかのように見えたのに、盗賊たちは殺されたのか。

いくつか仮説は立てられる。

道長の同僚の指摘する通り、7人もの盗賊を流罪の手続きにするにはものすごく(役人の)手間がかかるから面倒だとなり、流罪に旅立つふりをして門番にはほんとの行き先である鳥辺野と告げた

・この賄賂を、直後に放免したまひろと乙丸への謝礼と受け取り、盗賊の処置への賄賂だとは思わなかった(だったら鞭打ちにしとけばよくない…?)

・役人たちの誰も盗賊如きの処分などどうでもよく、担当役人のその時の気分によって偶然に処刑となった。

 

ここで七人の処刑とはおおごとな気もするが、上の散楽のくだりで説明したように、当時は医療と言っても祈祷と結びついた呪術的、祭祀的な面が強く、まして社会福祉など概念すら存在しない時代。

つまり人の命は怪我や病気、天災などで簡単に奪われていた時代ということだ。特に出産前後の死は多く、生まれた児も無事に育つ子は少なかった。

当時を生きていた人はそういった様々な生き残りの機会を潜り抜けて来た心身ともにかなり頑丈な人、ということになる。

 

そして直秀らが打ち捨てられていた鳥辺野は都人の葬送の地であり、このような地は各地人の住むところの身近に設けられていたと考えられる。鳥葬というか。まだこの時代埋葬ではなかったようだ。

貴族は火葬つまり荼毘に付されていたようだが、彼ら盗賊は罪人であり、それも含めて庶民は鳥葬にまかせるのが通例だったようです。鳥葬とは遺体を自然に鳥がついばむにまかせる葬送のやりかたです。えええでもその現場は見たくないです(書いてても怖い)、だから都を離れた深い森の中と決められていたのでしょう。このような葬送の場は、北の化野とかほかにも都にはいくつか場所が決められていたようです。

 

では葬送の方法はそれとして。

道長が、直秀らの行き先が鳥辺野ときいてまひろと共に騎馬でかけつける(なんか何度目かのタンデムですがもう何も言うまい)。

ここで打ち捨てられている直秀一味の亡骸をみんな埋葬するわけですが。

ええ、ドラマだからツッコミは無し???

いやこれだけは言わせてもらう。

 

葬送の地が何のために都から離れた森の中なのか。

死は、血(を伴う女性の月経や出産)と共に当時最も恐れられ遠ざけられてきた穢れの対象だよ。

なぜって?

上にも書いたでしょ、病気は原因がわからないから祈祷するくらいしか対処できなかったんだよ。死は避けられない、誰しも身近に訪れうる恐るべき闇だ。

そのような穢れにあたったものは、屋敷内で死人が出た場合も含め喪に服し、忌を結んで外出や公務を控えるんだよ。もし動物が迷い込んできて死骸になってた場合も一緒だよ。

今でも、お葬式が出た家は喪服を着るでしょ。喪服は喪に服すと書くんだよ。

それをですよ、なんでそれらの死をもっとも忌み嫌うはずの貴族がふたりしてしかも手で掘って(道具無いからな)、埋葬してるんですか。

 

って、ここまでは当時の通常概念を書いておこう。

そういう前置きがあったうえで、厳然と守るべき、穢れを避けるというセオリーを冒してでも、二人は直秀らの一味を埋葬したかった。

と、こういうふうに解釈します。

 

まひろにとっても、道長にとっても、身分としきたり、政治抗争に縛られた自分たちの立場とは違い自由に活きる直秀。

もしかしたら直秀がそれらの縛りから解き放ってくれるかもしれない。

ありえないとわかっていてもそういう幻想を抱かせてくれるだけの奔放な魅力が直秀にはあった。

夢を見させてくれる、不思議な懐の深さ。

身分とは関係ない、人間としての直秀の魅力。

そう、直秀は最初から相手を身分で測ったりしなかった。

 

出世の駆け引きとは無縁の学問に生きるまひろ。

泥沼の政略の駆け引きから抜けられない道長

どちらも立場は違えど、息詰まるような毎日を過ごしているという点では変わらない。

ドラマの中でふたりが成長していくうえで、やさしくその行く末を見守ってくれるかのような直秀の存在でしたが、このような不意の退場により、ドラマの展開自体も急転直下の結末によって序章を終えるのかもしれない。そう、まひろが少女時代を過ごしたこの都が序章の舞台だったのかもしれない。

 

ではこの第三者の立場から物語を見つめるストーリーテラーのような役割は、今後誰が務めるというのだろうか。

とりあえず第10話で大きく前半の山場を迎えるはずなので、物語の展開を見守ることにしたい。

 

 

余談:女房とは

貴族の身の周りに仕える教養の高い女官。受領の娘などの階級が多かった。高位の貴族の邸になると、それぞれに仕える専任の女房がいた。赤染衛門は倫子付きというように。ほかにも台詞はないけど、恭しく仕える女房は多くのシーンで登場する。

(力仕事や炊事、買い出しなどは下男・下女の仕事で、彼らは屋敷には上がれない、主人にお目見えできない身分なのでまた別の話)

その一方で、女房たちは屋敷の主人の側室つまり妾となる事も多かった。

後宮における尚侍、典侍、更衣なども天皇の衣装を司る女官だが、帝の寵愛を受けて後宮に入ることもあった。つまり源氏物語桐壺の更衣など。

左大臣家の北の方が、主人源雅信赤染衛門から聞いた情報を北の方は知らなかったのをいぶかしみ、気にしていたように。

藤原為時が「高倉の女」のもとへ通っていることをなぜかこれのりの乳母いとが知っていて恨めしそうにしていたことからも分かる通り。

女房は裏を返せばそういう対象になりうる存在であった。

 


今の感覚からいうとあり得ないですけど。だって広大な庭を擁し、いくつもの殿舎・対屋が軒を連ねる邸宅とはいえ、女房が妾になれば同じ邸に側室がいるってことですよ?

正室を亡くして女のもとに通う為時のほうが、家族としては単に通い婚だから女の存在を意識せずに済むからいいんじゃないですか?(いいいのか?)乳母いとは為時の動向を大層気にかけていたようですけど。すごい嫉妬ぶりでしたけど。