歴史と本マニアのための部屋

歴史、政治、本、あと吹奏楽関連のつぶやきです

第5話「告白」 大河ドラマのlightな感想 光る君へ

 

さて、登場人物の年齢を整理してみよう。

物語の始まりのころは右大臣家から詮子さまが入内される前の年、977年。

第二話以降は984年の花山天皇即位の前後を軸に話が進む。

その間の経過、約7年。

この時間の過ぎゆく間に主人公は幼少から思春期を迎え、公達らはより高い位階を賜り、後宮そして政権は遷り変っていく。

(間違えました、主人公のまひろは984年時点でまだ14才です)

※太字は第二回以降の登場人物。

同一人物で右側に肩書が増えているのは、昇進した位階を示す。ただし現時点984年での肩書であり、将来の肩書はネタバレのため伏せる。

こうしてみると、主人公たちは初回から比べて元服・裳着の式を経て大人になったかのように見えるが、べつに元服したばかりというだけで、社会人としてスタートを切ったばかり、まだまだ青年期というか思春期の若者という時期である。

道長の同僚の4人のうち、藤原行成は後の三蹟のひとりとはいえまだ元服したばかりなので、物語の中でまだ自己主張がなく、先輩たちにあいづちを打つばかりなのもうなずける。

 

 

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※これ書いてる人は単なる大河ドラマファン。

国文学のことは知らない。「なんて素敵にジャパネスク」のコバルト文庫白泉社花ゆめコミック、あさきゆめみしの漫画を読んでみたことがあるだけの単なる通りすがり。

この記事の内容には思いつきとノリと勢いだけしかありませんのであしからず。

 

今回のテーマは怨霊

まひろの父藤原為時の邸は、源氏物語でいうところの末摘花の邸を模しているという点は、第三回の感想で書いた。

(※参照史料の過去記事)

※末摘花について

源氏物語、末摘花の帖に出てくるお姫さま。彼女は遠い昔の宮様の血筋でありながら、現在は身分ある方の後見や経済的に支援してもらえる縁戚もなく、さりとて高貴な殿方のお通いがあるわけでもなく……でも宮様の血を引く以上、身分だけは高い。

調度などのしつらえも雅やかであるべきところだがそうもいかず、経済的に困窮をきわめて衣装やその他父宮様からうけついだ由緒ある品々を食べ物と交換してその日を暮らすありさま。壁は朽ち、庭園は荒れ、築地塀は崩れ、………

でも自分たちで働く身分ではなく現金や物々交換での収入を得ることもできない。

え?

どこかで聞いた事あるな???

その窮乏ぶりは(父為時が師貞親王の漢文指南役に就くまでの)まひろの邸のようすそのものではないか。家柄が宮様の血を引いてるかいないかの違いだけで。

まひろの邸は風流に遣水など流しているが、あばら家の雨漏りはかろうじてなくなっただけの寂れた物悲しい雰囲気だ。質実剛健といえば聞こえはいいが単に必要最低限で暮らしていることには今も昔も変わらない。食べるものに困らなくなっただけの違いだ。

 

さて。

第五話にみられる源氏物語のモチーフは、怨霊物の怪もののである。

前回のラストシーンで道長と道兼の正体を知り気を失って倒れるまひろ。その後、家の自室でまひろが病に伏せっている。

そこへ僧を招いて加持祈祷かじきとうがおこなわれている。

陰陽道の占いについて

当時の貴族は陰陽道の占いに拠って国家の重大事から日常出かける方角まで何もかもが決まった。たとえば占いの方角と本来の目的地が違う場合、方違かたたがといって占いの示す方角の家に前泊し、翌日本来の目的地に向かう。また、陰陽道が示す凶日や悪い夢を見たとき、ケガレに触れた場合は物忌ものいとして一定期間、心身を浄めて外出を控えなければならない。それほど占いの結果は重要なものだった。

《※ケガレ、穢れとは女性の月経、出産に関わる血の穢れ、人の死などを指す》

※僧による祈祷について

安産祈願、また病気平癒の祈り、はては国家安泰まで、全て僧侶によって祈りを捧げ、ものごとの平穏を祈った。また悪霊を鎮め退散を念じたりもした。

たとえば、源氏物語の若紫の帖で、紫の上と光源氏が出会うきっかけとなったのも「北山の僧都」に病の祈祷を依頼しに出かけたからである。

※ついでに。僧侶の祈祷のところ、字幕に出てるのが「祈とう」だけなので漢字にしてみると「おん宮比羅くびら~(繰り返し)」。たぶん。古代インドのサンスクリットだから解説しなかったのか。宮比羅(くびら)は、仏教の水運の神で、天竺霊鷲山の鬼神で、薬師如来十二神将の筆頭である。宮毘羅、金毘羅、金比羅、禁毘羅とも書く。梵語ではクンビーラ(Kumbhīra)またはキンビーラ(Kimbhīra、「何を恐れることがあろう」の意)……中略…クンビーラは元来、ガンジス川に棲む鰐を神格化した水神で、日本では蛇型とされる。クンビーラはガンジス川を司る女神ガンガーのヴァーハナ(乗り物)でもある(引用:宮比羅 - Wikipedia

また、現代に伝わる祈祷としては不動明王に祈願する護摩行がある。

水垢離みずごりとは神仏に祈願し、冷水を浴びて身を浄めること。ドラマでは乳母が「外では凍えてしまいますので」と角盥を室内に持ち込み、真言宗の念仏を唱えだす。こんな寝殿造りで柱だけのつくりの部屋ではすでに外同然じゃん?と心の中でツッコむが、その前に惟規だけが僧侶に対し「死んじゃうよ冬だよー!?」と叫んでくれてて、そのコメントだけが視聴者の声すべてを代弁してくれててよかった。そして二人してもめた挙句水を頭からかぶっててコント全体のオチとしてはなかなか秀逸だったのでは(違)。

しかしあくまでこの加持祈祷はコントではない。

この祈禱でまひろの病を治そうとみんな大まじめである。

僧の念仏が胡散臭いかどうかは問題じゃない。

だいたい加持祈祷において病気平癒と悪霊退散は明確に分離していない。

医療の概念がそもそもなかったこの時代、病気は原因不明のものとされ恐れられた。夜になると暗闇が支配する(だから第一話でまひろ一家の夕食が午後五時と、日暮れ前に済ますことになってる)。夜は夜盗のほか物の怪とか怨霊など人外のものが跋扈する異世界であった。

それと同様、病、そして天変地異などは何かのたたりであるとも信じられていて、それを祓うためにも祈祷は幅広く行われていた。《高貴な身分になると医師は診察するにも御簾越しに脈を取る程度、使われていた薬と称するものも今でいう医薬品とはだいぶ成分が違うし、医療をほどこす意味じたいが現代とは全く違う》つまり科学的に病を診察し治療するのではなく、病気になったら僧に祈祷してもらい祈るのが一般的だったのだ。それがこの時代がまだ古代であり(貨幣経済が浸透してないことと共に)まだ中世ではないということの根拠でもある。

そして僧はまひろに取り憑いているのは悪霊ではなく、母ちやはの霊がまひろを気にかけて成仏できなくて彷徨っているからであり、このままでは怨霊となってまひろは呪われるとのこと(そして上記の水垢離を薦められる)。

さて。

都の外れのあばら家。(今回まひろの家は下級貴族であるけどあばら家に限りなく近いことには変わりない。)

原因不明の病に寝込む姫君。

加持の僧と憑依する謎の怨霊。

その霊は切々と訴えかける……もし成仏できなければ姫君を呪い殺すという……

 

つまりモチーフとして、夕顔に取り憑く六条の御息所が挙げられるわけです。

源氏物語で夕顔が光源氏と一夜を過ごすのはモデルとして源融の旧邸六条河原院が挙げられる(当時すでに荒れ果てていた)が、そのような屋敷で(嫉妬に狂った御息所の)悪霊に取りつかれ生死のはざまをさまよう姫君(源氏物語では夕顔は一夜で命を落とす)。

取り憑いてる霊が、ドラマでは娘まひろに無念をのこす母であり、子を思うあまりのこととなっていたのが唯一の救いです。

 

寄りてこそ それかとも見め たそかれに

ほのぼの見つる 花の夕顔

この夕顔と光源氏の歌の贈答における源氏の返歌が、ドラマ第二話でまひろが代筆業で書いていた和歌だったので、解説サイトを引用しておく。

 

 

この時代医療という概念がない以上、人は感染症や外傷で簡単に死んだ。実際に天然痘の流行で公卿もあっけなく次々と亡くなっていく。

夜の闇と並び、病気が物の怪のしわざとして恐れられていた当時は加持祈祷は重要なファクターのひとつであった。

 

 

不憫な子

今回初めて登場した、やや出発からして遅れた感のある道綱といわゆる道綱母(=藤原倫寧の娘)。つまり道綱母蜻蛉日記の作者であり、百人一首に名を遺す歌人でもあることは周知のとおりであるので詳しくは述べない。

ドラマでは道綱は朗らかではつらつとした陽気な性格として描かれている。が、兼家の

「お前は(兼家の本妻時姫の産んだ)三兄弟と同等には扱わぬ。しかし控えめにしておればいずれ良いこともあろう」

という言葉通り、身を立てていくにおいて父から目をかけられることはなく実際才能は凡庸だったともいう。

兼家のかけた言葉は決して非情でもなんでもなく、妥当なものだったのでは?女子は政略結婚として入内や将来有望な貴族と結婚させる道があったが、男子はこの時代、自分で道を開くしかなかったから、兼家が親として彼にしてやれることは「いずれ、良いこと」として昇進を多少手助けするくらいしか無かったのかも。

道綱母は受領階級の娘であり、父藤原倫寧は位階は低いが国司を歴任している。大貴族は地方に広大な荘園(私有地として年貢が上がる)を所有していたが、それに劣らず大金持ちだったのが国司、のちの受領で、領地から自分自身の懐に入る莫大な収入があったので、身分は低く(四~五位程度)ても経済的には非常に潤った。(それって現在でいえば横領なんだけど、当時は地方政治にそこまで厳しくなかったのでいくらでも抜け穴があったといった方が正しい)

※資料

………受領は一定額の租税の国庫納付を果たしさえすれば、朝廷の制限を受けることなく、それ以上の収入を私的に獲得・蓄積することができるようになった。

平安時代中期以降は開発領主による墾田開発が盛んになり、彼らは国衙から田地の私有が認められたが、その権利は危ういものであった。そこで彼らはその土地を荘園公領制により国司に任命された受領層である中級貴族に寄進することとなる。また、受領層の中級貴族は、私的に蓄積した富を摂関家などの有力貴族へ貢納することで生き残りを図り、国司に任命されることは富の蓄積へ直結したため、中級貴族は競って国司への任命を望み、重任を望んだ。………(引用: 国司 - Wikipedia )

 

ぶっちゃけ言うと道綱は母の身分からいって人身位をきわめることはできない。氏の長者にはなれない立場、それは道隆が負っているからだ(今のところ)。でも彼ら親子は全く経済的に困ってない、衣装も屋敷の構えも豪壮。そこが受領階級が中流たるゆえん。あっつまりドラマで登場する屋敷は道綱母つまり妾の邸に兼家が通ってるところ。本妻=北の方はあくまで時姫であったので他の妻のところへは通っていたという通い婚の構図。

受領の娘は経済的に困窮していなかったが、しかし生まれが地方の父の任地であり鄙びた地で、貴族の女子に欠かせない都の雅なしつけをほどこせなかったのでつてを頼って都の貴族の邸に女房(身分のある女官)として行儀見習いに出したりしていたらしい。

もうおわかりですね、当時の宮廷サロンを形成していた才媛の女房達はみな受領階級の出身。収入に余裕があったため潤沢な教育を受けており、彼女らの中から選り抜きの知識エリートたる子女が、大貴族の邸、そして後宮へ出仕して姫君に仕える構図です。

受領階級出身の女房(=女官)は、以前の身分も含めれば今ドラマに登場しているだけでも道綱母赤染衛門に道隆の妻の高階貴子(高内侍・儀同三司母)、まだまだ出てくるしそして主人公………おっと誰か来たようだ。

 

今の所、主役を張っている兼家

いまのところドラマは兼家を演じる段田安則さんの土壇場である。膨大なせりふとドラマの転換点のキーを握る場面での決定的な役割。それらすべてを不敵な笑みを浮かべながらすごみをきかせて演じられている。

どう考えても悪役ナンバーワンなのだけど一方の主人公の父なので、そうそう憎むわけにもいかないあたりに、視聴者としてはジレンマを抱えて苦しんでいる。

主人公たちが自分のルーツと生き方に心揺れ動く中、でもそれは個人的事情だ。

政治の世界は劇的に日々動きつつある。

それを兼家の視点から主観的かつ批判的に描いていて、物語は一貫してある方向にブレーキを壊しながら突き進んでいくことがますます克明になってきて、物語は最初の山場に差し掛かりつつあることを感じて緊張してきた。この山場を突破すればいよいよ物語は本題に入ることになる(まだ本題じゃなかったんか)。

 

花山天皇の断行した革新的な政治の数々。

蔵人頭藤原実資と、弘徽殿の女御の兄上藤原斉信がそれぞれ逆の立場から今の政治を語るところによれば。

荘園整理令の発布、貨幣流通の活性化、武装禁止令、物価統制令、地方の行政改革など、枚挙に暇がない。

でもたとえば貨幣流通の活性化を一つ見ても、時代的に時期尚早すぎたのだ。まだ民衆は物々交換やってて貨幣の流通量自体が絶対的に足りないし、だから貨幣価値が低いのに流通量を無理やり増やすとどうなるか…?余計インフレを起こすかといういと取引の現場で実際にそこまで流通しなかったため、結局この政策も不発に終わる。

外戚として政治の実権を握った藤原義懐と乳母子藤原惟成が、政策を専横して独断的に行う中、蔵人頭藤原実資はふたりを喝破し、彼らの権威などまるで最初から無いかのように実直に政治について語る。さすが物事の実を見て誠実に行動する人物なだけのことはある。

兼家は二人に盾突くとどうなるかわかっているので歯ぎしりしながらも刃を引っ込めているが。

 

ただし。

花山天皇の奇行ぶりや、政治の急速な改革による失政などはこののちに政権を握るものによって故意に事実を大幅に書き換えられている可能性もあり、今ある史書をそのまま信用はできない。

 

帝は弘徽殿こきでんの女御、忯子よしこさまをご寵愛されていてそれは目にもまぶしいほどである。

ご寵愛ぶりが過ぎて女御様は寝込むほどである。

めでたしめでたし。

とりあえず今は。

 

彼らの活躍を横目に兼家、関白頼忠(公任の父)らは地に這いつくばって辛酸を舐めており、左大臣源雅信はどこか明るい口調ではあるが、彼ら花山天皇の側近による、目に余る専横ぶりには手を焼いているふうである。

そこでまたしても女御様のご懐妊を呪詛せよと指示を出す兼家。

どこまで悪役なんだ、そこまで振り切るとある意味すがすがしい(いやちっともよくないが)。

そして脅迫に屈することなく陰陽寮安倍晴明は断固として断ろうとするが、その席に人の気配を鋭く感じ取る晴明。

なんでですか?

占いなどの超常能力により、彼は普通の人にはない触覚みたいなのを備えてるのでしょうか。

 

それはともかく、兼家以外の公卿が御簾越しに並んで脅迫に加わるのであった。

「この国の未来は我らが担うのだ」

なんという傲慢な物言い。

いや、自信と確信にみちあふれ、むしろ善政をおこなう賢君のような風格すら漂わせる兼家。うっかり今の摂政はこちらでしょうかと勘違いしそうになるくらいの堂々たるたたずまい。

なんとしてでも、どんな手を使ってでも、絶対に権力をわが掌中におさめるのだと高らかに宣言するかのような姿に、安倍晴明は消え入りそうになって退散したようだ。しかし兼家の脅迫条件をのんだのかどうかは判然としないが。

御簾の向こうに並んだ、無表情でマナーとか謙虚さとかは無縁の人々。これらの公卿の中にちゃっかりと兼家の嫡男、道隆も加わっている。そうか君は彼らと同じ道を行くのだな。いい人だと思ってたがそれは買いかぶりだったようだ。

そもそもマナーとか謙虚とか言ってるようでは出世街道から脱落するのは現代も一緒である。出世する=有能で人格もすばらしい人、とは限らないのである。むしろいい人はどんどん去って行ってなんなら悪い噂を広められるところまでも現代と同じだったりする。

御簾って、このドラマに登場するような身分の高い公卿たちはお互い対面にもっと多用してそうなものだが、なんでこういうイレギュラーな使われ方してるんでしょう。

第四回で典侍ら女官たちの局が御簾で廂側から隠されてるのはまあ分かるのですが。

 

隠し札のジョーカーを切るときはいつなのか

道隆と言えば。道隆が詮子さまと対面している、場所は梅壺だろうか。帝の御代が代わったのでそこは定かではないが宮中のどこかであろう。これこそ絶対御簾越しじゃないと対面できないはずなんだけど、なんでこう宮中の描写がいちいち開け放しなのか分からない。

詮子さまは春宮様の母上ですよ?

まあそれはいいですが。

その立場上、兼家・道隆親子としてはなんとしても詮子さまにご機嫌をそこねずに打ち解けてほしいところだが、いやいや君たちのやったことを考えればよくもまあ道隆が直接ご機嫌うかがいに上がっただけでも詮子さまとしては呆れるばかりであることだろう。

第四回の場面を皆さままさか忘れたわけではありますまい。

まさか道隆の意見に賛成なわけありませんよね?

上記の御簾の向こうに並んで脅迫する公卿たち然り、兼家の指図で円融天皇に毒を盛っていたこと然り。どれも史実であると確認はできないけど、しかし彼ら手段を選ばない公卿たちの面々を思い出せば、近からずとも遠からず、黒に近いグレー、多かれ少なかれ同様のことをやって出世してきたであろうことは容易に想像がつく。

詮子さまには同じ時姫を母に持つ超子さまという姉上がおり、円融帝の前の冷泉帝に入内して皇子を産んでいる。なのに花山天皇が即位した時、その皇子は次の春宮に名前すら上がらず全会一致も同然で詮子さまの皇子、懐仁親王が春宮におなりあそばしたでしょ?

なんで?

超子さまと冷泉帝の皇子はどこ行ったんですか?

このなりゆきからも、政治の向きはすべて政略結婚によって動いていて身分の高い姫は政治の流れにより入内させられ動かされていたことがわかる。

詮子さまがかたくなに心を開かなくなったのもむべなるかなである。

そして父兼家との和解を勧められるも冷たく断わる詮子さま。

道隆に高らかに「裏の手がありますので。兄上には申せません、裏の手ですから」と言い放つ。

 

よっぽどの重要なカードを握っているのか詮子さま?ここまで、一家の嫡男である道隆に堂々と対峙できるような決定的な何かを握っているらしい。

彼女のこれからの生きざまをちょっと調べると、この裏の手というのはわかりやすすぎるくらいはっきりと浮かび上がってくる。

ただ、彼女は期が熟するのを待っているだけだ。

父兼家と同様、詮子さまは周到に準備を重ね、肝心なところで乾坤一擲の決まり手を差すことだろう。

静かに無表情に見え淡々と道隆に語りかけるその鉄の仮面の下には、決して不条理に屈しないという燃え上がる炎のような決意を読み取ることができる。

 

 

青春と恋

今回のドラマ、ロミオとジュリエットふうではない。あれは同等の家格で対立している同士の物語で、道長とまひろはあくまで右大臣家の(少なくともこの時点で既に)将来の約束されてる貴公子と、まひろでは絶対に主人と妾以上の関係にはならないからだ。

しかし道長は五節の舞で倒れた姫がまひろだと聞いて、つたない字で文を書く。

和歌も入ってない文を。

ほんとにつたないな…

行成が「代筆してさしあげます」と申し出てくれたのにばっさり断る道長、いやいやそこは麗しい筆跡で代筆してもらえばよかったんだけどね?

そこで恋の歌と文について。

当時、男性は貴族でも出歩くが、姫君は屋敷の深窓にこもり絶対に顔を見せることはなく、偶然出会うことは絶対にないので、知り合うきっかけといえば楽器の名手だとか筆跡とか和歌がすばらしいとか、舞で評判だとかそういう噂を手掛かりに男女それぞれに気に掛ける相手を探るしかない。

そして声を掛ける初手としての文はイメージ優先なわけで、女性のほうも何度も文を受け取るなかで徐々に打ち解けていくのが慣例であった以上、文の筆跡は美しいのが定石であり大貴族なら邸宅のなかで書が美しい女房が代筆するのもセオリーだったくらいなのに。

まあ最初の文はあくまで声掛けであり、でもそれだからこそ美しい筆跡で文をしたため、相手に読んでもらって心に留めてもらわないと意味ないんじゃないのか。

何やってんの道長くん?

 

でも道長、父と食事する場面がたびたびあり、三兄弟のうち道兼はもう結婚して東三条邸にはいないという設定なのか?

父と差し向いで宮廷の仕事のこと、政治のことでさりげなく話を交わす道長は、ぼんやりしているようだがやはり父兼家には目をかけてもらっているのかもしれない。

「我々が政治の主流に立つのだ」という言説を畏まって拝聴する道長

 

道長がまひろに会いたいと文を書いたのは、やっぱり、自分の出自というか身分をまひろに伝えてないままだったという後ろめたさがあったからに過ぎないのだな、と思う。

 

【※ここで余計なツッコミを入れるとすれば。】

散楽の男直秀がまひろの邸に屋根伝いに夜あらわれてまひろと会話する時点で、というか夜に(しかも最初はまひろは寝間着姿という下着同然の衣装で)男女が顔をあわせて面会してる時点で、当時の感覚だといわゆる男女関係になっちゃうんですけど。

まひろはともかく、もっと上流の姫君は兄弟間でも男性には顔を出さないものなのに。

まして、六条の廃屋?でまひろと道長が家族にも秘密でこっそり会うなんて!?ほんと名実ともにふたりは男女関係ってことにされますよね当時だと。それでなくても、まひろは五節の舞で倒れてから以降、「物の怪憑きの姫君」っていう怪異な噂が都中に広まってるというのに(by直秀)。

 

そんな個人的な心のツッコミは置いといて。

ここでは初回からのまひろの心の葛藤を、父にも否定された心のわだかまりをありのまま受け入れてくれた道長の心の広さっていう物語として見ることにした。まひろは14才という思春期真っただ中、尊敬する父に正面からは言えないけどずっと憧れをいだいていたものの、人間として(まひろがスパイにされるなどの)受け入れがたい大人としての父の姿を認識しつつもずっと背中を追ってきた。

「わかることも、許すこともできません(第四話より)」

ちっとも素直になれないお年頃。

でも兼家のやり方に連座するかたちで犯罪に加担してしまった事が判明した父を、まひろはどう心の中で受け入れればいいのか……「お前は聡い」と父に的確に指摘され、その通りここで抗ったところで意味がないことは父以上にまひろがよくわかっているはずだ。愕然として返す言葉なくまひろは父から静かに視線をそらす。

ひとり母の形見の琵琶を抱えて掻き鳴らすも、答えは出ない。というか永遠にはっきりと答えなど出るものでもない。

第二回で裳着の式=成人の儀式を迎えたまひろ。あの時は正装の意味も重みもいまいち理解してないふうだったが、しかし世の中の現実を思い知ることで、真に大人へと脱皮する。まひろも、道長も。まひろは人知れずここでだけ泣くことで心の葛藤を無理やり洗い流したかのように見えたが、道長はやり場のない憤りをぶつけるため物理的方法に訴えるしかなかった。

 

7年前は道兼に一方的にやりこめられる立場でしかなかった力関係。

しかし今の道長は押しも押されぬ右兵衛権佐、立派な成人貴族である。

「弱きものに乱暴を働くは心小さきもののする事」という自分の中の(そして世の中一般の)正論を、はっきりと正面から言うだけの度量を兼ね備えて道兼に正面から対峙した。

ここでの道兼の外道な発言と、さらに暴力で言いたいことをわからせる道長のようすを見て、子供たちも頼もしく成長したものだと悦に入る兼家が輪をかけて一番外道だと思うけど。

視聴者としてはいつか道兼に制裁を与えてほしいと願ってたところだったので、これで溜飲下がったというものだ。

 

まひろと道長が出会う六条の廃屋もまた、源氏物語のモチーフだ。

この記事で前述したとおり、この廃屋の場所は父為時の邸ではなく、六条だ。

六条。

つまりここでも、紫式部が夕顔の邸のモデルとして設定したとされる、源融の別邸で当時すでに廃屋となって荒れていた六条河原院を模してるんじゃないですか?

というか、このドラマでいう六条ってそのまま六条の御息所から場所をイメージしてるとしか思えない。

直秀が道長を案内して連れてきてくれたことになってますが。

というか直秀、築地塀に忍者みたいなステップで華麗にひらりと馬に飛び乗るとかいう離れ業、盗賊っていう設定だからですか?

この築地塀が良い感じに雨で土が流れ落ちてて年季を感じますが、ロケではなくセットでこういう経年劣化した細工をしてるのだとしたら、やっぱ背景美術は手が込んでると思う。

直秀みたいな盗賊あがりの散楽に出る男が出没する六条のあたり。源氏物語の六条の御息所の邸は高貴な貴婦人の住まいだが、こういう廃屋があるところはなるほど治安が悪そうだ、そんなところにお忍びでとはいえ出入りするなんて、まひろ、さらに物の怪憑きの姫っていう噂が独り歩きするよ、大丈夫か……嫁のもらい手がなくなるぞ…おっと誰か来たようだ……

 

散楽の主宰である直秀一味は酒盛りのシーンでも分かる通り、身分は当時下賤のものなわけです。いや、身分というか身分がないわけです。農民とか一般町民などの平民ではない、日常とは違ったことを生業にするから。

彼らが散楽を開いていた街角も、(自分は)市だと思う。第一話の感想に書いた通り。市とは様々な遠隔地からも商人があつまり、様々な身分の人が交錯する非日常の場。

つまり「ハレ」の空間なわけです。(⇔日常の空間はケの空間という)

役人の広報も高札として掲げられ、また散楽のような見世物もひらかれ、また処刑場でもあったはずです。

そして散楽とは古代西アジア、そして中国を経て伝わった奇術師とも言われている。彼らは刀を呑み、火を吹き、手足をバラしてつなげるなどの芸を自在に操った。ドラマの散楽では座の一味がアクロバットショーのような動きを披露している。

そのような非現実の芸をなりわいにする直秀。

《歌舞伎も元々、河原(=つまり市と同様の非日常の空間)での芸能だったらしいし》

そして家族の目を忍んで、直秀に「道長とどうにか渡りをつけられないか?」と頼むまひろ。目通りだけならお互いの邸で御簾越しに対面すればすむ事だけど話の内容はどちらの家に広まってもまずいので。

………いやいやいや???やっと父為時が12年ぶりに式部丞という栄えある(?)官途に就けたのだから、そんなアングラな人物と関わってることがちょっとでも露見しようものなら、まひろ、もうそれはスキャンダルでしかないよ、やめときなよ…と老婆心から気になるわけですよ。いやほんと……

《心の声:いやいや、まひろにもパシリとして使われ、道長には泣いてるまひろのことを丸投げされ、直秀は憎めない面倒見のいいキャラと成り下がってる感があるけど彼の職掌上、本来アングラな世界の住民なはずですし……関わってはいけないのですよ…》

自分がついそんな事を思ってしまうのも、主人公側ではなく大人の都合でものをいう為時と兼家の側になってしまったからなのかもしれない。うーん、年取るってつまらないな…

慟哭するまひろと慰める道長の情景は、特に触れることはありません。完成された展開でありツッコミようがないからです。あそこはただまひろのようすに静かに耳を傾けるだけ。父上はわかってくださらなくても全視聴者はまひろの味方です(たぶん)。道長も黙って否定もせず聞いてくれている。

そこはなんか考えながら見るシーンじゃないんです。視聴者も共に感情に身を任せて月の冷たい光を眺めていればよろしいのです。

しいていえば……文のやり取りもおぼつかない、若いふたりの稚拙な恋ともいえないやりとりは……

(自分の中では)別冊マか別フレあたりの、無理に背伸びした青春まんが進行といった所です()

りぼんとなかよしほど対象年齢は低くない。

しかし花ゆめみたいな理知的な境界線上に浮遊するファンタジー系でもない。

フラワーコミックほど明るい学園ものでもない。

なんとなく日常を淡々と描きながら静かに展開する熱いドラマ的な…?(個人的偏見)