★★この記事の中の季節は 2021年5月初旬、GWです。★★
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初夏の頃
それは目にも若葉が眩しい5月1日のことだった。
五月こば鳴きもふりなん 郭公(ほととぎす) まだしき程のこゑをきかばや
(古今和歌集 夏歌138 伊勢)
【現代語訳】五月がくれば泣くことも珍しくなくなるであろう、ほととぎすよ。まだその時季にもならないころの初々しい鳴き声が聴きたいものだ。
もうすぐござさんのソロライブも間近という頃、ブログに書きたいと思うとなぜか筆が止まってしまったので、ライブの必勝祈願(なんか違うな)に行くことにした。
そこに収められている歴代の奉納品、つまり武器を見に行こうと思ったのだ。神社の隣の大三島藤公園も有名なので写真撮ってみました。(混雑避けようと朝8時に着いたのだが、本当に誰もいなくてほっとしました)
※神社の境内は鳥居をくぐったところから神様の領域なので、自分は境内では写真を撮らなかった。お寺では撮るが。
大三島
立地は瀬戸内海に位置する。そこは芸予諸島の真っ只中。伯方島や生口島との間、いわゆるしまなみ海道の中間地点。
海に囲まれた日本列島の沿岸でも比較的波も穏やか、気候も温暖、潮待ちの港も多く、漁撈、航海、海運に適している瀬戸内海。その中心部ともいえる芸予諸島に位置するこの島は、当然海に関連が深いのだろうし祭っている神様も海の神様なのだろう、と思いきや。そこでさっそく壁にぶち当たる。この記事がなかなか進まなかったのは、そこが引っかかっていたからだ。
神社の名前は、
山って?海じゃないの?
自分はまず、そこでつまづいた。
画像出典及び参考リンク:芸予諸島 - Wikipedia
神社のリンク:
・【公式】大山祇神社|大三島宮 ・大山祇神社 - Wikipedia
このリンクによれば、昔から武器が奉納されているのは、大山祇神社が 山の神、水の神、海の神、ひいては戦いの神として信仰を集めていたため、武士から武器が各時代ごとに寄進されたらしい。
こう書くと、何のことやら???結局、何の神様なの?
祭神は何なのか考えた
・古事記から
大山祇神社はかつては社名を大山積神社と言い、主祭神を大山積神とする。古事記の伊邪那岐命と伊邪那美命の段の神生みのところでは、大綿津見神と共に(その他大勢の神も一緒に)生まれたことになっている。※天照大御神、月読命、須佐之男命が生まれる伊邪那岐命の禊祓の段は古事記の中でももう少し後。
ここまで書いたところで、漢字が当て字(日本書紀でも表記が違う)なので発音のカナ標記にしてみよう。
大山積神ーーオホヤマツミノ神
大綿津見神ーーオオワタツミノ神(一般的にワタツミノ神とする)
つまり神話では山の神と海の神は一緒に生まれた設定になっているのだ。
・風土記から
【そこに書かれた神社の成り立ち】
もうひとつの一次史料、それは古事記の成立した712年の翌年に編纂された日本最古の地誌。この記述から、神社の成り立ちを考えてみた。
大山積神・御島
伊予の国の風土記に曰はく、――乎知(をち)の郡。御島においでになる神の御名は大山積の神、またの名は和多志(渡海)の大神である。この神は難波の高津の宮に天の下をお治めになった天皇(仁徳天皇)の御世に顕現なされた。この神は百済の国から渡っておいでになりまして、摂津の国の御島においでになった。云々。御島というのは津の国の御島の名である。(「釈日本紀」六)
こう考えると「和多志(ワタシ)の大神」とされているところから、航海の神という信仰がその頃既にあったと思われる。つまり海の神=ワタツミの神としては祀られてはいなかった。
意外だ。なんでこんな島国日本の中でも瀬戸内海の真ん中という、漁業、海運、航海にいかにも関係している立地でワタツミの神がからんでないんだ?
※ワタツミノ神は海人族が祀る神である。
福岡県の宗像神社(宗形氏)、志賀島の志加海神社(阿曇氏)、熱田神宮(尾張氏)、丹後の籠神社(海部氏)という風にそれぞれ氏族の祭神は違うが信仰としてはワタツミノ神につながっている。
これらの海人族の信仰とは大山祇神社は祀る対象が違うということだ。
では何を祀っているのだろう?
神社の鳥居の前に立つと鷲ヶ頭山という山がちょうど神社の背部に来る。つまり山が御神体というか、元々の信仰は山そのものに向けられていたのではないか。そもそも大三島自体が神聖な島として認識されていて、漁業は禁止されているそうだ。(wikipediaより)
山をご神体として祀るのは、最古の祭祀の形をとどめていると言っていい。
実際に、奈良県桜井市三輪にある大神神社はご神体を神社のすぐ後ろにある三輪山としているので、社殿には拝殿はあっても本殿がない。まさに山がご神体である。
風土記に描かれた交流の背景を考える
また、「この神は百済から渡っておいでになった」とあるがその時代の天皇=仁徳天皇は史上初めて大和の国から抜け出て難波の国に都を定めたと思われる。
4世紀末から5世紀前半というその時代は、まだヤマトの国以外に出雲、丹後、吉備、北陸の越、そして筑紫と南九州の隼人族といった具合に違った文化圏が存在した。それらに共通するのは中国大陸そして朝鮮半島からの人と文化が行き来するに十分な地理的な要因、つまり海に面していたということだ。特に九州は朝鮮半島と目と鼻の先、出雲と丹後も日本海側で距離的に近接している。吉備も瀬戸内海沿岸という海上交通の要衝だ。
そこで中華を中心とした文化圏に、朝貢貿易という形でその一角を形成していた(というより一方的に恩恵を受けていた)日本だが、逆にいえば常に軍事的脅威に晒されていたとも言える。軍勢の襲来に備えて難波の国に都を定めたともいえるだろう。実際、ヤマトの国へは難波の津から大和川を遡上する交通路が存在した。(大和川水系沿いに、おびただしい古墳群が残っている)そして、「神は百済からおいでになった」のではなく百済へ朝貢し帰還した使節がもたらした大陸文化を意味するのでは?また、その文化は中国大陸と朝鮮から航海によってもたらされたという点。
現に彼ら渡来人は、その頃の日本では想像もつかないような高度な文化をもたらした。まず弥生時代に稲作が持ち込まれ、それから製鉄技術、養蚕と絹織物、陶器、漢字といった具合に。貨幣に基づく経済や、仏教とその経典といった宗教も例外ではない。
交流の実例としての奉納品
そこで、大山祇神社に伝世する(出土品ではない所がポイント) 禽獣葡萄鏡について考えてみる。(以前もブログで書いたがまた解説を書く)
まずそのサイズ。直径26.8センチ、重量3キロ超。上記に書いた通り、この白銅で出来た鏡も例にもれず唐製である。この鋳造の精巧さ、そしてびっしりと表面を埋め尽くす唐草葡萄紋と対象に配された動物紋。それはいずれも唐の工芸水準の高さ、またその支配地域の広さゆえに盛んに西方との貿易が行われていた唐の国際性を色濃く示している。この禽獣葡萄鏡が、東アジアでも有数の優品であることは論を俟たない。
※画像リンク: 大山祇神社 - Wikipedia
これが実物だがなぜか背面、裏側からの画像しかなかった。そのため同様の種類の銅鏡の画像を貼っておく。
なぜこの禽獣葡萄鏡(上側の写真)が大山祇神社に伝来するのかというと、斉明天皇が白村江の戦い(663年)に際して勅願奉納したからである。唐と朝鮮半島の新羅という当時の東アジア最強コンビに百済が滅ぼされたため、日本は百済の皇太子扶余豊璋(ふよほうしょう)を人質として預かっていた事もあり、再起を期す百済へ援軍を差しのべたのだ。
熟田津に舟乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな(万葉集)
※【熟田津に関連した万葉集の歌】
山部宿禰赤人、伊予の温泉に至りて作る歌
すめろきの 神の命の 敷きいます 国のことごと 湯はしも さにあれども 島山の 宜しき国と こごしかも 伊予の高嶺の 射狭庭の 岡に立たして 歌思ひ 辞思ほしし み湯の上の 木群を見れば 臣の木も 生ひ継ぎにけり 鳴く鳥の 声も変わらず 遠き代に 神さびゆかむ 幸しところ
ももしきの 大宮人の熟田津に船乗りしけむ 年の知らなく
その出征の途中で軍勢が目にしたであろう、大三島からながめた多島海の風景。
このように島陰、入り江、深い湾などが行き交う船に格好の碇泊地を提供し、また同時にそれは海賊が潜伏するのにも格好の地理条件だった。
(海賊については後述する)
大三島の南東には甘崎城=アマノサキという要塞の遺構がある。天智天皇が造らせたもので、言うまでもなく、白村江で惨敗した日本へ唐の軍勢が侵攻してきた場合を想定した防御施設である。よって、それらは朝鮮半島からの航海ルート上に造られた。即ち対馬の金田城=カネタノキなど。香川県高松市の屋島城=ヤシマノキもその一つ、これは瀬戸内海に突き出た島であって制海権を握るのに重要な位置を占めていた。
文化交流の十字路かつ終着点
また行き来していたのは軍隊や海賊だけではない。
下の余談コーナーに書いた通り、ざっと振り返っても、中国の歴代王朝はその同時代での文化を世界的にけん引するレベルであった(哲学的には古代インドがそれに比肩する。また科学でいえば中世イスラムの後塵を拝していたが。イスラム世界は麻酔を知っていて外科的手術も行うことができた)
日本は外交的にも東アジアの国々の動向から片時も目を離したことはなかったが(王朝が交代するたびに、さっそく朝貢使節を派遣している)、同時に海を隔てた隣国の歴代王朝から文化を学ぼうと留学生も派遣した(遣隋使以降)。日本で同様の物を生産できるようになるまでにはさらに数百年の歳月を要するものがほとんどだったが、文化的にはお手本として何もかもまず中国から輸入したと言っても過言ではない。
漁業だけではなく様々なものが往来した海、瀬戸内海。それらの中心にあって、変遷をずっと見てきた大三島の神様。
中世以降は戦いの神として祀られて武器が多数奉納されることになる。それについては後編で書く。
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※資料部屋ーー特に中国について
既に(紀元前5~3世紀の)古代戦国時代には鉄器での農耕により食糧の生産性が飛躍的にあがり、また貨幣が流通するようになり物々交換から貨幣経済への脱却が見られる。
左……布銭(かせん)。晋・斉・韓・魏・趙・燕などで使用された。
右……刀銭(とうせん)。斉・燕・趙などで使用された。
このころ激動の世相を反映して、諸子百家と言われる多様な思想家が論を戦わせた(儒教が主流を占める漢代以降は影を潜めるが)
漢代には紙も発明され、それまでの竹簡史料とあわせて、政治経済思想文学の各分野において膨大な史料・記録が残されている。
また芸術工芸の面でも同時代において世界有数のレベルであった。例えば秦の始皇帝陵の兵馬俑から唐三彩に至るまでその写実性は他に類を見ない。(宋以降は白磁や青磁、色絵付に代表される磁器が西洋の宮殿から日本の大名の城など至る所で愛用され、人気を博した)
祭祀や装飾品としては于闐(ホータン王国 - Wikipedia)特産の玉(=ヒスイ)が"禺氏の玉"として王侯貴族の装飾品、特に佩玉(はいぎょく)として使われていた。(佩玉とは - コトバンク)
また絹は製法が長く門外不出とされ、古来絹織物は他国の垂涎の的であった。
※絹織物が出土または発掘された例
・シリアのパルミラ遺蹟
・中国新疆ウイグル自治区トゥルファン近郊のアスターナ古墳群
・中国馬王堆漢墓(画像リンク:馬王堆漢墓 - Wikipedia)
また、絹織物伝世品が残ってる例は正倉院宝物をおいて他にないだろう。その精巧な紋様と織物技術は、現代の技術を以ってしても複製は困難を極めたらしい。
琵琶袋残欠(2009年出陳)
— 【非公式】正倉院bot (@shosoin_bot) 2018年7月28日
四絃琵琶の袋である。表裂は縹地錦、裏裂は白絁、白毛氈の芯などに分かれて伝わる(一部は北倉182に整理される)。表の縹地錦は緯錦で、9色の色糸を用いて大唐花文が織り出されている。正倉院に残る他の錦裂に比… https://t.co/OJesmxvVFp pic.twitter.com/7GNwejcLrL
禽獣葡萄鏡と同じ、金属工芸品の一例を挙げてみると。
後漢時代の馬蹄飛燕が有名だろうか。(出土は甘粛省武威市の雷祖廟雷台漢墓)
馬は古来より軍事力の象徴であり、特に匈奴などの北方騎馬民族による度々の侵略に歴代中華帝国の皇帝は頭を悩ませてきた。よっていかに優秀な馬を揃えるかが国家の浮沈にかかわってくるわけで、漢の武帝が張騫を派遣して手に入れたと伝えられているのが汗血馬である。この銅像は駿馬が駆ける様、燕とその速さを競うかのような姿を生き生きと描いている。像を正面から見ると首をひねって疾走するさまが表現され、もし自分がそこにいたら思わず避けてしまいそうだ。
参考リンク:汗血馬 - Wikipedia