歴史と本マニアのための部屋

歴史、政治、本、あと吹奏楽関連のつぶやきです

シルクロードー前編:法隆寺編

 

★★この記事は日本史はさっぱり分からない人の想像です。

★★単なる個人的な想像であり、根拠となる説や論文はとくにありません。

★★なんとなくで読んでください。

★★正倉院展の感想は後編で書きます。

 

目次:クリックで各項目へ飛べます

 

 

 

天高く馬肥ゆる秋。

2022年10月の末、正倉院展へ行ってきた。

東大寺の一角に眠る天平の至宝。

その顛末を思い出す前に、今年はもう一か所、斑鳩法隆寺も訪ねたのでそのことも書く。

 

コロナウイルスの影響があったから正倉院展に行くのは3年ぶりだ。いつもはうどん県から電車で、大阪環状線の鶴橋まで出て近鉄奈良線へ乗り換えて行く。

しかし今回は斑鳩へ行く都合上、大阪環状線から天王寺経由奈良行き、JRで乗り換えなしの大和路快速ってやつに乗ってみた。斑鳩の里の最寄り駅は王子駅という。法隆寺ゆかりの厩戸皇子にちなんだのかな、ふうん。(単なる妄想)

 

快速電車の車窓は大阪のビル街からどんどん町はずれになり、やがて生駒の山並みが近づいてくるにしたがって一本の川が見えてきた。奈良盆地に端を発し大阪湾にそそぐ大和川だ。生駒の山あいを線路と並行するように、都会にしては清冽な川面が見え隠れしては過ぎていく。

線路の鉄橋越しに広がる河原を眺めながらぼんやり考えた。

 

大和川流域には時系列に従って遺跡がならぶ。河口には百舌古墳群、そして生駒山地の手前で支流の石川が合流する地点に古市古墳群、さらに石川の上流側、二上山の東西のふもとにはおびただしい古墳が眠る。

そして、生駒山地を超えたあたりに法隆寺がある。そこは大和盆地における舟運、また街道が交錯する要衝であり、その流域を望む高台にかつての斑鳩宮が築かれたのは偶然ではないだろう。

瀬戸内海から大和川を通じての交易は、中国や朝鮮半島、南海から様々な文化や国際情勢の見聞をもたらした。この時代、政治権力は大和川流域沿いに興亡を繰り返していく。

(※念のため位置関係を貼る。)

 

 

いつも行く正倉院展、その周りの奈良公園の寺社では天平文化に触れることができるわけだけど。

法隆寺、自分は行ったことないし、たしか東大寺より古かったよね?と思って、今回見に行くことにした。

 

東大寺正倉院には伝世品の宝物が数多く眠る。

それに比して法隆寺は所有する宝物とともに寺院建築そのものが当時のまま残っているので、現地で見てみたかったからという理由もある。

 

 

法隆寺

正倉院展では当然写真が撮れない。

というわけで、法隆寺の代表的な建築物を撮ってきたので貼ってみる。これらを見に行くことがある意味今回のメインだったので。たくさん貼っときますがすいません。

初めて見に行ったので、単なるウキウキミーハーな観光客がパンフレット読んでるふうに書きます(*^▽^*)

 

西院伽藍

創建縁起からすると、法隆寺厩戸皇子菩提寺として建てられたらしい。法隆寺の夢殿があった場所は斑鳩宮の故地でもあった。そして法隆寺の創建時の場所は今の若草伽藍。南大門を入って右側に広く開けた場所に比定されており、創建時の塔の礎石も…………見えなかった。跡地には現在いくつもの塔頭寺院が門をならべていて、観光客は入れない。この中には空き地が広がってるはずだけど今回はスルーです。

 

南大門、若草伽藍の土塀を過ぎると、どっしりとした構えの中門が見えてくる。国宝だからか柵があって通れなかったけど。

 

中門の柱にも共通するが、伽藍を囲む回廊は吹き放しになっていて、エンタシスふうの膨らんだ柱が整然と並ぶ。外側には連子窓が嵌められていて、古代の開放的な雰囲気が漂う。

軒下には今は見られない雲肘木の細工があり、飛鳥様式を偲ばせる。



ここの金堂と五重塔は世界最古の木造建築。

ただ金堂の屋根四方についている装飾された柱は、後世付け加えられたものらしい。

五重塔とともに、石の基壇に建てられていて、下の屋根には裳階がつく。

 

法隆寺回廊のエンタシスふうの列柱ギリシャ神殿の影響だという説は教科書にも書かれてる。

唐招提寺金堂の列柱もまたエンタシス様式である。

 

 

 

法隆寺金堂の本尊、釈迦三尊像飛鳥時代の作。

(画像引用:法隆寺 - Wikipedia )

 

この釈迦如来像は厩戸皇子の肖像を写しているらしいが、アルカイックスマイル、衣装のひだ、仏像の光背に見える古風な唐草文様などがギリシャや西方の影響を思わせる。

※公式サイト 聖徳宗総本山 法隆寺

 

法隆寺金堂壁画は、インドのアジャンターとエローラの石窟、中国の敦煌莫高窟やキジル千仏洞等の仏教美術様式を伝える壁画として世界的に知られている。

第6壁が特に有名。仏の脇に侍した菩薩は顔の輪郭や指先まで紅色の鉄線描でまっすぐに力強く書かれている。背景に配された唐草文様などの精緻な描写も見事である。

※壁画の参考サイト 法隆寺金堂壁画 - Wikipedia 

※しかし法隆寺金堂は昭和24年の火災で損傷してるので、実際に自分が見たのはレプリカなのだと思う。火災前の写真データが見れるサイトを下に貼りましたので、ぜひご参照ください。パソコン、タブレット推奨。めっちゃきれいに見えます。
法隆寺金堂壁画ガラス原板 デジタルビューア|Glass Photographic Plates of the Murals in the Kondō Hall of Hōryūji Temple―Digital Viewer―

 

※鉄線描:鉄線描 - てっせんびょう | 武蔵野美術大学 造形ファイル

 

 

それから法隆寺五重塔、これについては特に書くまでもないか…?

日本史のことはわからない人が書いてるのでパンフレット丸写し的。

金堂、五重塔に共通してみられる建築様式は飛鳥様式と呼ばれ、2階(以上)にめぐらされた手すり(高欄)は卍崩しと呼ばれる紋様が、軒には雲肘木という曲線を用いた細工がみられる。この様式は中門も同様である。

仏教寺院において塔はもともと仏舎利塔ストゥーパ)であり、仏舎利(釈迦の遺骨)を収めたとされる塔で、寺院の中核をなしていた。

法隆寺五重塔は世界最古の木造の塔であり、基壇上から上段になるに従って細くなっていく様式、心柱が最上階までは固定されてない耐震設計(?)、そして大修理の際に心柱の年代を解析したところ伐採年は592年と推定され、しかし五重塔が建てられたのは711年ごろと考えられるそうで、心柱は他の建物から流用されたのだろうか?と思ったり…

 

法隆寺は周辺の回廊や土塀も含めて飛鳥時代の伽藍をそのまま現代も見ることができる。また、法隆寺を含めた斑鳩の里は周辺の寺院や条里制がのこる田畑もあって、地域一帯が飛鳥時代の空気を残している。大きな道路や住宅も開発されているけど、平城京跡周辺の中世の戦乱や、第二次世界大戦の空襲にもあうことなく現代に伝えられているのは奇跡といっていいだろう。

 

 

見物してて思ったことといえば?

10月の下旬だから絶好の修学旅行日和で、そこらじゅう学生だらけで写真撮るのに苦労したけど、あーいう若い年代で素晴らしい文化遺産に触れることはいい事だと勝手に納得してみたり。

また、壁画を火災で損傷させるという痛恨の文化史的事件を経ているだけにそこらじゅうに消火栓、消火器その他防火設備が整えられていて、なるほどと安心した。

(※回廊の列柱は、風雨が当たる所には余材で丁寧に補修された跡がある)

文化史的に貴重なのは金堂壁画だけじゃない。宝物館のものはどれも国宝、重要文化財ばかりである。

また五重塔修復のときのTV番組か何かで言われてたが、こういった寺院建築に携わる技術をもった宮大工はもう数少ないそうで、また使われている木材も相当な樹齢の大木ばかり、一度焼失すればもう再建はできないだろう。

 

修学旅行生たちの喧騒が遠ざかっていったあと、静かになった伽藍を見渡して自分はもう一度、ゆっくりと見て回るのだった。

 

 

宝物館(大宝蔵院)

法隆寺は、建築もここでしか見られない(他には法起寺くらいの)様式であり見どころなのだが、その白眉は所有する宝物にあるだろう。

本尊の裏側にある銘文から、法隆寺が建立されたのは厩戸皇子が死去した翌年、つまり623年ごろとされている。当初建てられたのはいわゆる若草伽藍であり、その後日本書紀によれば670年に全焼したが再建された(711年ごろまでに)。

つまり納められている宝物はおよそ白鳳時代のものと考えられ、正倉院宝物よりも様式は古いものが多いようだ。それに正倉院展よりも断然観光客が少ないし、収蔵品も違った由緒から伝来しているものである。ミーハー観光客な自分としては、正倉院展法隆寺、両方見ることで違った切り口から奈良時代の文化を俯瞰でき、またそこを窓口として当時の国際交流を概観することができてよかったと思う。

(ほんとなら隣の中宮寺、近隣の法起寺法輪寺といった斑鳩宮ゆかりの寺院をまわったり、近くの藤ノ木古墳龍田神社も見てみたいところだったが時間がなかったので行けてない)

 

法隆寺宝物でお目当てにしてたのは四騎獅子狩文錦だったのだけど、褪色・劣化を防ぐため?か展示されていなかったので、図録を買ってそっちで見ることにした。

e国宝 - 狩猟文錦褥(狩猟文の参考に、東京国立博物館の錦のリンクを貼っておく。)

でも蜀江錦(しょくこうきん)が展示されてたので、そっちに自分は沸き立った。ガイドブックによると中国の蜀(=三国志でいう蜀の国。今の四川省。)で織られた錦を指すらしい。鮮やかな深い色の赤で織り出された繊細な文様に思わず見入る。よく考えるとレアだよねこれ……!色も赤が綺麗に残ってて、シレっとこういうの置いてるの、さすが……!と心の中でオタクなことをつぶやいていた。

 

ここでついでに、獅子狩文錦(ししかりもんきん)について語りたい。(しつこいな)

え?何が言いたいかって?

これを語らずには正倉院展も語れないからです。

 

文様の伝来

(地図リンク:唐 - Wikipedia )

 

法隆寺の獅子狩文錦は唐からもたらされたもので、国産ではない。それを前提に書く。

 

唐(618~907)の都、長安は歴代でも最大の領土をバックにした国際都市だった。

狩猟文は西方から伝わった意匠のひとつだが起源はペルシアではなく北方(上の地図で言う緑色部分、いわゆるユーラシアステップと呼ばれる草原)のロシア南部に紀元前栄えたスキタイ民族が発祥だという。(スキタイ - Wikipedia ) 後にモンゴル帝国が支配することになるこの草原地帯には騎馬民族が古くから往来し、その起源となったスキタイ民族は伝統的に動物をモチーフとした金銀製品を多く残している(今はエルミタージュ美術館に所蔵)。

ペルシアは、

BC247ーAD224 パルティア(中国名:安息)

AD224ーAD651 サーサーン朝ペルシャ

というふうに支配王朝が変わっている。

パルティア時代は西の古代ローマ帝国、東の前漢後漢とほぼ支配した年代が重なっており、それぞれの安定した政治を背景に交流がさかんに行われた。

唐と交易があったのはサーサーン朝だが、古来ペルシアでは騎馬民族が支配していた影響で、狩猟文は伝統的にペルシアで独自に発達した。特に彼らが得意とした騎馬上から後ろ向きに射る戦法はパルティアが得意としたものであり、のちにサーサーン朝に至ってその意匠が取り入れられるようになった。

サーサーン朝滅亡(651)後、大挙してペルシアから王族、技術者、学者などが唐へ亡命してきたこともあり、長安はさらに西方文化の影響ゆたかな都市になっていく。

 

この「騎馬上から後ろ向きに射る戦法」はパルティアンショットと呼ばれ、奈良時代のものには各所でその意匠が使われている。(パルティアンショット - Wikipedia )

法隆寺の四騎獅子狩文錦はそのスケール、意匠、織りの技術的にも唐の工芸の水準が高かった事を物語る。完全な状態で保管されている世界的にも珍しい例である。

パルティアンショットは様々な文様に組み込まれ、正倉院宝物にもいたるところでその意匠を確認することができる。

 

………なんか難しそうですね。要するに当時の長安は7世紀にして人口100万人を数える世界有数の都市。文化、流行共に最先端かつ世界有数の水準を誇り、要するに19世紀のパリと考えてもらえれば分かりやすいでしょうか。

そこではあらゆる民族が街を行き交い、あらゆる言語が話される国際都市でした。ペルシア・シリア伝来の眩術師が街頭で刀を呑んで火を吹いたり、西方の楽器の音色にのって踊り子が舞い、また乗馬も人気で、西方騎馬民族(=ペルシア)から伝わった打毬(ポロ)が盛んにおこなわれていた。

(ポロを楽しむ唐の女性:ポロ - Wikipedia )

 

日本から派遣された遣隋使や遣唐使は政治・経済・仏教について唐に倣うとともに、こういった最先端の文化を日本に持ち帰り学んだのだった。

 

※参考地図 ただし時代は紀元前の漢~唐まで色々地名が混じってます

 

唐の文化ーー伝来した宗教

サーサーン朝からもたらされたものは、ペルシアの文化だけではなく、様々な宗教も流入した。唐代三夷教が代表的なものとして挙げられる。

景教ーーいわゆるネストリウス派キリスト教。431年、エフェソス公会議で異端として排斥されることになり、シリア、ペルシア、アラビアなど東方で布教活動を行っていた。唐の長安でも布教が許され教会は「波斯(ペルシア)寺」、「大秦寺」と呼ばれた。大秦景教流行中国碑という石碑が今も長安に残っている。

祆教ーーゾロアスター教。紀元前6世紀以前にはペルシアで成立していた古代宗教。サーサーン朝では国教とされて広く信仰された。火を崇めるところから拝火教ともいう。寺院は祆祠と呼ばれ、長安では薩保や薩甫という教団の取締役が定められた。

明教ーーマニ教摩尼教ないし末尼教ともいう。3世紀ごろペルシアで始まった宗教。ギリシャ・ローマ、ペルシア、インドから中央アジアに広く伝播した。

また、のちにイスラム教も伝えられ、清真教、回教と呼ばれて広まった。今では東トルキスタン、いわゆる新疆ウイグル自治区に信者が多い。

 

 

仏教については正倉院展の記事に書くので省略するが、法隆寺では金堂壁画の実物を現場では見れなかったけど、火災の前にとり外されていた壁画を部分的に現物を見れた。

 

(画像リンク:法隆寺金堂壁画 - Wikipedia )

 

 

これは飛天図で、敦煌壁画などで仏の周囲を飾っている飛天の描写そのまますぎて、小さいけど鉄線描で書かれているものを現物で見れたので、自分はここで満足してうっかりJRに乗って家に帰りそうになった。じゃなくて正倉院展はまだ見ていないんだ。

 

ということで、博物館も美術館も、生で見ると圧倒的な迫力なので、なんでもどこでもいいからまず足を運んで自分の目で実際に見ることを勧める。

いくらデジタル放送が4Kになったとはいえ、実際にそこに存在する宝物が放つ質感、色彩、長い年月をて伝来した時空の重みは画面越しには味わえない。TVとか本はいつでも見れるので便利だが、機会があれば実物にぜひ出会って見てほしいと思う。

 

修学旅行生が、お昼ごはん何かなーと友達としゃべりながらでも、こういったものを見て回ってくれてて、[なんか得るもの、感じてくれるものがあるといいなあ、、、]とやっぱりオタクとしては心の中でつぶやかざるをえないのであった。

 

この飛天は法隆寺金堂の天蓋装飾(暗くて見えなかったけど)にも、また、薬師寺だったっけ?五重塔の頂の水煙の金属細工にも、至る所で登場する宗教的なキャラクターとして覚えていれば、正倉院宝物ももっと楽しめるだろう。(と思って行ったら、今年は装飾関係の出展が中心で、ちょっとコケた)

 

 

仏教美術の故郷としての壁画群

 

 

唐に流入した宗教だけではなく、シルクロードを紀元前から行き来した宗教がある。それが仏教で、その過程でシルクロードの各地に仏教寺院が石窟という形で残されている。この地図は砂漠ルートをたどった遺跡にかぎり、南海ルートの海のシルクロードを見ると、ヒンドゥー教と混ざって伝来しているのでここでは省く。

難点と言えば、どこも現在政治的に不安定で、現地を訪れて実際の壁画を見ることは難しいということだろうか。

 

これらアジャンターやエローラから、敦煌、キジル千仏洞やベゼクリク千仏洞に共通しているのが鉄線描による壁画である。

バーミアン、雲崗や龍門石窟は仏像が石の岸壁に多く彫られている。

紀元前、パルティアが興る前にギリシャからインドガンダーラ地方に至るまで広く遠征してきたアレクサンドロス大王の影響により、いわゆるギリシャ風なヘレニズム文化が広まった。要するにこうした仏教美術にも仏像のまとう衣、また髪型や表情にギリシャ彫刻ふうな影響が残る。日本に伝来した仏像にも飛鳥、奈良時代までのものにはこういったギリシャふうな意匠が見られるという説もある。

 

キジル千仏洞には、主に今でいうアフガニスタン付近で産出するラピスラズリを用いた、鮮やかな青色で彩られた壁画が残る。その青はウルトラマリンブルーといって、エジプトや古代バビロニアでも珍重されてきた。ヨーロッパでも金の倍の価値で取引される高価な顔料として有名で、特にフェルメールが多く用いた。(ラピスラズリ - Wikipedia )

(当時のフェルメールが活躍したオランダは、毛織物産業を背景として早くから市民が主権を握り、また東インド会社を通じて得た富によってフランドル派が活躍した時代だった)

 

 

(画像引用:キジル石窟 - Wikipedia )

 

敦煌やトゥルファンなどの壁画に唐の影響が強くみられるのに対し、キジル千仏洞の絵は表情の堀りが深く、ペルシアやインドからの文化が多く流入していたことをうかがわせる。今も新疆ウイグル自治区の中でも亀茲(クチャ)に住む人たちの顔立ちは、漢民族ともウイグル人とも違う。

 

仏教はこれらのルートを辿り、外交使節の往来や交易商人の手を渡りながらはるばる中国に伝わったのであろう。

ただ中国からは、長い時代にわたって徒歩で僧が仏教経典を求めて陸路、海路でインドを目指した。有名なところでいう玄奘三蔵である。彼の将来した数多くの経典は漢字に翻訳され、唐、ひいては日本や周辺諸民族への布教に大きく貢献した。

 

飛鳥~奈良時代の歴史を振り返るとき、唐という国家の国際性、また仏教の伝播を念頭においてみていくと、宝物は俄然、糸でつながったような一体感を持ち、別の輝きをもって見る人に訴えてくる。

 

 

ー--正倉院展の感想に続くー--