歴史と本マニアのための部屋

歴史、政治、本、あと吹奏楽関連のつぶやきです

シルクロードー後編:正倉院展

 

★★この記事は日本史はさっぱり分からない人の想像です。

★★単なる個人的な想像であり、根拠となる説や論文はとくにありません。

★★なんとなくで読んでください。

 

この記事は2022/10/29、正倉院展を見に行った感想です。

前編として、午前中に法隆寺を見に行った感想を書いたのでそっちを読んでからこの正倉院の感想を読むことをお勧めします。前後編で補完し合ってますので。

 

 

目次:クリックで各項目へ飛べます

 

 

 

東大寺周辺

午前中に法隆寺、午後に正倉院展と駆け足で観光したので、奈良公園とか東大寺周辺は回る元気がなく、合間にゆっくり喫茶店でお茶を飲んでおりました。というか東大寺には入らず帰ってきました。すいません。

申し訳ありませんが、コロナ流行前の2019年に正倉院展に行った時の東大寺の写真でお茶を濁しておきます。

 

この門は転害門(てがいもん)といって、三月堂(=法華堂)と共に東大寺に残る数少ない奈良時代の遺構。なぜなら12世紀の南都焼き討ちで、興福寺などと共に、東大寺の古くからの伽藍は大部分が焼失したからだ。

転害門は東大寺の敷地の西側に伸びる佐保路に面して建つ。8本の柱が支える堂々とした構えは、見る者に天平時代のおおらかな雰囲気を伝えてくれる。

 

大仏殿も撮ってみた。しかし大仏殿周辺の敷地には入らないという偏屈者なオタク。

だって大仏殿と大仏は後世の再建でしょ?

しかし昭和になって、大仏殿の台座から

「陽寶釼(陽宝剣 よう(の)ほうけん)」

「陰寶釼(陰宝剣 いん(の)ほうけん)」

が発見され、正倉院宝物の目録にはあるものの出庫の付箋がつけられたまま行方不明だったものだったとわかるなど、ドラマの舞台として話題には事欠かない場所である。(ニュース記事:東大寺大仏の足元の剣、正倉院の宝物と判明 )

 

あの時(2019年)は、紅葉がきれいでした。

 

 

 

正倉院とは

今回のお目当ては正倉院展だ。

(というか自分が奈良に行く目的は大体が正倉院メインだ。)

 

若草山のふもとに広がる広大な敷地に、東大寺興福寺春日大社などの大寺院や神社が甍を連ねる奈良公園

ご神獣とされる鹿がそこかしこでのどかに草を食む。無邪気にじゃれあう子鹿、切り落とされた角で闘っている(?)雄鹿。

その敷地の一角に静かにたたずむ奈良国立博物館

正倉院展は、国立博物館の新館で毎年2週間だけ10月下旬から開催されている。今年はコロナウイルスの影響で時間指定制になっていたせいか、いつも入場するときに長蛇の列に並んでいた行列が、三分の一くらいの長さになっていた。

渋滞とか行列は大っ嫌いな自分だが、ここだけは観念していつも並ぶ。並んででも入ってみたい博物館は正倉院展だけである。

 

惜しむらくは、単眼鏡を買い忘れていたことだ。宝物の精緻な文様をくまなく観察しようとすると、拡大して見れるグッズは必要不可欠。ほかの博物館でも言えるかもしれないけど。また今度Amazonで探してみようっと。

ちなみに、観覧しやすいように毎年工夫を凝らしてくれていて、3~5メートル四方はあろうかという巨大な紙?に宝物の写真が印刷されたものがあちこちの壁に大きく貼りだされ、ほんの指先程度の大きさしかない宝物も詳細な文様や色彩がはっきりわかるようになっていた。単眼鏡を忘れた自分みたいな人にもよくわかる、親切な仕様。

 

しかしなんで自分は毎年これだけのために奈良に行ってるのか(コロナ流行の間を除いて)。

国宝級の宝物なら、他の国立博物館宮内庁図書寮などの収蔵品、あと徳川美術館源氏物語絵巻とか、色々ある。

それらと正倉院宝物の違いは何なのか。

 

 

正倉院って、そもそも何なの?

というわけで基本的な事を書いておく。

知ってる人はスルーしてください。

正倉院というワード自体はかつては一般名詞であった。寺院や官庁に建てられた倉庫を正倉、それらがある一廓を正倉院と呼んでいたが、現存する正倉は東大寺のもののみとなり、ここにおさめられた文物を特に正倉院宝物と呼ぶようになったらしい。

 

唐招提寺に残る宝蔵と経蔵。奈良時代から残る校倉造の数少ない遺構のひとつ。

 

 

では東大寺正倉院宝物とは?

ざっくり言えば、奈良時代756年、聖武天皇77日忌の法要に際して、光明皇后が遺品を東大寺へ奉納したのが始まりということになっている。大筋は合っているだろう。

 

収蔵品はそのほかにも、来歴でいえば

東大寺大仏の開眼会に使われた品々

東大寺で普段から実際に使われていたもの

・あとの時代になってから追納されたもの

・その他来歴が分からないもの

と多種多様に分類することができる。

また、用途、材質、産地などと分類していけば収拾がつかなくなるほど宝物の性質はさまざまである。

 

江戸時代までは朝廷管轄のもとに東大寺が管理してきたが、現在は宮内庁所属の正倉院事務所の所管になっている。(公式サイト:正倉院 - 正倉院 )

(画像リンク:正倉院 - Wikipedia )

 

 

正倉院宝物の特徴とはなんだろうか。

・最初の奉納の際に東大寺献物帳という目録があり、また歴史書に記載があったりして宝物の由来がはっきりしているところ。収蔵品のプロフィールがこれほどの規模で公的に証明されている宝物群は他に類を見ない。

・また、奈良~平安時代のものでありながら、同時代のものには遺跡からの出土品が多い中、一貫して宝庫で厳重に保管された伝世品であり、非常に状態が良いこと。

・宝物の数は同種のものもカウントに入れると9000点を超えるが、このような来歴のものがそのスケールでまとまった形で保存されていることで、文化的にも歴史的にも重要な意味をもつ。

また正倉院文書の存在もこの宝物群を特徴づけている。

 

 

毎年この展覧会は非常に混雑するが、それは会期が非常に短いからだ。それは秋の宝物の点検、研究と曝涼にあわせて出展しているからであり、あくまで公開期間は宝物の管理保全過程の一環に過ぎない。

そもそも、織物や漆器、ガラスや工芸品など繊細な宝物が長い年月の保管に耐えたのは、高床式の建築物に勅封という厳重な管理体制のもと、辛櫃にきちんとおさめられ日光や外気、湿気の影響を受けにくい状態で保管されていたからだ。いまは空調設備のついた建物に移されているといっても、展示室で照明に当たると褪色や劣化の原因にもつながる。

博物館や美術館の収蔵品の、一般公開と保管という命題はずっと相容れないテーマだ。

 

宝物の劣化や紛失というリスクを冒しながら。

また文化財の調査・研究と並行して。

美術館・博物館が広く一般社会に向けて、平易な解説を加えて系統的に宝物を公開してくれる機会というのはありがたいチャンスなのだ。生涯学習とはよく聞くワードだが、こういったそれぞれの道の専門家が専門的な題材を用いて実際に解説してくれるという機会を逃す手はない。

正倉院の所蔵する宝物の数に対して、一年に1回の公開なのに展示数が少なすぎるという声を聞くが、それぞれの宝物、一つの文様取っても本が1冊書けるくらいなのに、自分としては宝物の展示数は今のでも多すぎるくらいである。解釈が追いつかない。

 

最近デジタル化が進み、博物館で毎年買える図録以外にも、出展される宝物は公式サイトで解説とともに主なものの画像が公開され、また図録は民間の出版社から抄録という形で出版されている。(また収蔵品は全て正倉院公式サイトに解説が載り、文化庁のサイトでも国宝については解説と写真が見れる。)

そういったかたちでも楽しめるのだが、前編でも述べた通り、現地に行って現物を見るという体験はこれ以上ない感動を与えてくれる。時間と交通費を割いてでも、本物の存在に触れるということには価値があると考える。

 

目の前で見る宝物は、画面越しで見るよりもよりいっそう質感、色彩、感触が感じられる。

刻まれ織り込まれた文様は、まるで呼吸し生きているかのような躍動感に満ちている。

 

 

 

中華世界と、唐の国際性

前編で獅子狩文、つまり狩猟文の伝来についてちょっと書いた。その背景について述べておく。

中華の世界観

日本を含む東アジアは、清の時代つまり1911年の辛亥革命までは中華帝国を中心とした世界だった。天命を受けた皇帝が世界を支配するとされ、今の北京郊外には、実際に皇帝が祭祀を行った場所:天壇が残る。つまり周囲には臣下となる契約を結んだ国家=朝貢国が並び、その範囲の外は蛮族の住む地と認識されていた。これを冊封体制という。

周辺民族の呼び方は蔑称で「狄」「夷」「戎」「蛮」などと呼ばれた。

 

※周辺異民族の例:どこまでが朝貢国でどこからが夷狄かは時代により諸説ある。

北狄ーー匈奴鮮卑突厥柔然など、万里の長城以北の遊牧騎馬民族を指す。北魏、元、金、清など、強大な軍事力を背景として中華帝国を支配する国もあった。

東夷ーー朝鮮半島高句麗百済新羅加羅、倭など

南蛮ーー南越(広州)、南詔(雲南省)、扶南(タイ)、林邑(ベトナム)、真臘(カンボジア)

西戎ーー氐(四川省の山岳地帯)、羌(青海省)、月氏(後に中央アジアへ移動)、吐谷渾

化外の地ーー長安以西、または敦煌以西の、主にタクラマカン砂漠周辺の都市国家

画像引用:中華思従 - Wikipedia

 

※周辺諸民族の例:紀元前、前漢時代の冊封体制

画像引用:冊封 - Wikipedia

 

中華圏(東アジア)の物流と文化

このように、中華世界は元来朝貢品を納められる側であり、また時代が下って唐以降は長江以南も蛮族の地ではなくなって、広大且つ多様な国土を背景に、基本的に自給自足できる経済体制を持っていた。つまり、中華世界では文化的にも世界最高水準を持っていて、かつ輸入に頼らなくてい良かったのだ。その交易は主として周辺民族との朝貢品のやり取りによる朝貢貿易がメインだった。

このことからシルクロードにおいては中国は独自の製法を持っていた絹を売ればよく、貿易は圧倒的に黒字だったと思われる。

ただ北方遊牧騎馬民族は常に軍事的脅威であり、万里の長城をはじめとする軍事費は常に国家財政を圧迫した。朝貢貿易というより中国が弱体化したときは侵入され、莫大な保証金代わりの金や絹織物と引き換えに和平を得たりした

それを除けば中華圏の周辺諸民族は、朝貢と引き換えにした民間レベルの交易により絹以外にもさまざまな文化的恩恵を享受した。字(漢字)と紙、貨幣経済(銅銭)、鉄や銅等の金属や織物など美術工芸技術、稲作や灌漑など農耕技術、政治や法律制度、仏教や道教などの宗教、例を挙げればきりがない。

 

 

交易の担い手としての胡人とオアシス都市国家

また西方のタクラマカン砂漠以西の諸国家、そして北方遊牧騎馬民族の諸国家は中間貿易により空前の利益を上げるのである。今でいう商社の役割というか、末端の需要・利用者へ届ける過程で仲介業者の役割を果たし、そして運送業としても機能した。末端の購入者は古くは東ローマ帝国ビザンツ帝国、そして地中海を経てヨーロッパ世界へつながっていたのだ。

 

例:代表的な仲介業者的民族といえば、ソグド人がいる。( ソグド人 - Wikipedia )

下の地図のイランの上あたりのサマルカンドが彼らの本拠地ソグディアナ。パミール高原から流れ出すシルダリヤ川とアムダリヤ川に挟まれたこの地は古くから交易路の要として隊商が行き交い、また幾多の国家が興亡したまさに文明の十字路、のちにイスラム国家が支配するに及んでサマルカンドは「世界の中心」とも呼ばれた。

(地図は拡大できます、PCはクリックしてください)

 

ソグド人は高い鼻と彫りの深い顔貌を持ったペルシア系民族で、特に中国では胡人と呼ばれた。彼らは隊商を組んでインド、バビロニア、アラビア、ペルシアなどから東は中国まで往来して広く交易に従事した。中国では、それらの胡人がもたらすものには全て胡の字がつけられた。胡桃(くるみ)、胡瓜(キュウリ)、胡麻(ゴマ)、胡椒(コショウ)など。また中国に帰化したものも多く、唐の玄宗皇帝時代に反乱を起こした安禄山はソグド人と突厥人の混血である。

 

シルクロードの隊商路を通した中継貿易は莫大な利益を生み、砂漠と南はヒマラヤとパミール高原に挟まれた狭隘なオアシスルートには古来から都市国家が興亡した。また、北の遊牧騎馬民族からの侵略に絶えずさらされた地域でもあった。

それらの地帯は唐以降の時代にトルコ系民族テュルク族が進出したことからトルキスタンと呼ばれる。オアシス国家が興亡した東トルキスタンの概観を貼っておく。

 

 

5世紀にオアシスの道からインドへ渡った僧・法顕の「仏国記」はこう語る。

沙河中多有惡鬼熱風。遇則皆死無一全者。上無飛鳥下無走獸。遍望極目欲求度處則莫
知所擬。唯以死人枯骨爲幖幟耳。

 

沙河中に悪鬼多くあり。

熱風に遭えばすなわち皆死して一つとして全き者無し。

上に飛ぶ鳥無く下に走獣無し。

遍望極目、度るところを求めんと欲して、則ち擬する所を知るなし。

唯死人の枯骨を以て幖幟となすのみ。

北宋本「法顕伝・宋雲行記」長澤和俊訳注 東洋文庫194 より)

 

この沙河とは敦煌から楼蘭王国間の白竜堆を指す。( 白竜堆砂漠とは - コトバンク ) 強烈な風に浸食されたヤルダン地形とよばれる砂漠が広がり、まさに、当時は見渡す限り人影も目指すべき道しるべもなかっただろう。

画像引用:敦煌ヤルダン国家地質公園 - Wikipedia

(位置参照:敦煌雅丹国家地質公園  https://goo.gl/maps/MibhLAD4z5S9X7Co7 ) 

 

陸のシルクロードタクラマカン砂漠で南北に分かれ、また天山山脈の北に広がる遊牧民の国を行く草原の道もあったが、いずれにしても長安から敦煌まで点在するオアシス都市を過ぎたあとは、その後は「生きては帰れない」という意味のタクラマカン砂漠が茫漠と広がるのみだった。

砂漠に点在するオアシス都市の間を、盗賊や戦乱の危険に脅かされながら水や食料、そして交易品を満載して隊商が行き交った光景は、遠い歴史の砂の中に今も埋もれたままである。

画像引用:タクラマカン砂漠 - Wikipedia

 

正倉院にのこる宝物群は、時代が降るものもあるが、奈良時代のものに関しては多くが西方の彼方から、西域のオアシスを経て遥々招来されてきた背景を持つ。

 

では具体的に、どういったものが伝来されて正倉院に遺されているのか考えてみよう。

※正確にいうと草原の道、そして海のシルクロードはオアシスの道とは歴史、交易品を異にする。ここでは主にオアシスの道にそって触れていくことにする。

 

 

文様の伝来ーー唐草文様

たとえば。法隆寺の瓦には、丸瓦の間の横長いほうに唐草文様が見える。白鳳時代のおおらかで古風な文様。

さらに、時代が古い若草伽藍の瓦の破片も法隆寺には展示されていて、文様を見ればその文物の来歴、時代がおおよそ比定できるという意味で文様の解析は重要だ。

 

 

 

東大寺三月堂の瓦。たぶん天平時代かもっと後かも。

 

 

 

唐草文様はツタ、スイカズラ(忍冬文)、パルメット(ナツメヤシ)などの文様を組み合わせた文様で特定の植物を指すわけではない。

さらに花鳥文、鳥獣や海獣文を配したり、下記の文様に見られるような唐花文と組み合わされたりした。

 

 

たとえば今年出展の漆背金銀平脱八角鏡。

技法は文様をかたどった金銀板を置きその上に漆塗りした後、文様の形に漆を剥ぐという凝った造りである。周囲に鳳凰などを配しながら、優雅に唐草文が散らされている。

 

ほかにも正倉院にある鏡の装飾は端正華麗で見事なものが多い。

 

この鏡は背に銀を貼り花鳥文が入った宝相華唐草が彫り込まれ、地紋は魚々子文様という粟粒をまいたような点描で埋め尽くされている。

この鏡の周囲には下記のような五言律詩が刻まれていて、その内容から、また鏡の装飾技術からも唐製ではないかと言われている。

 隻影嗟為客  隻影客たるを嗟(なげ)き
 孤鳴復幾春  孤鳴復(また)幾春ぞ
 初成照瞻鏡  初(は)じめて照瞻の鏡を成し
 遙憶晝眉人  遙かに晝眉(がび)の人を憶う
 舞鳳歸林近  舞鳳は歸林近く
 盤龍渡海新  盤龍は渡海新たなり
 緘封待還日  緘封して還日を待ち
 披拂鑒情親  披拂して情親を鑒(うつしみ)ん

【大意:長く異郷の客となり、額を奏でても孤独なまま幾年が過ぎたことか。初めて鏡を作り、故郷の佳人を遥かに思う。鳳凰は近しい林に帰りゆき、龍は今や海を渡る。鏡を封じて私も帰る日を待ち、再会の日には開いて二人の思いを映しだそう。】

 

 

歴史を振り返ると、鏡は古代中国で作られたものが早く漢時代には日本に伝わっていた。

例えば宗像神社の沖津宮、京都は天橋立のたもとの籠神社には、それぞれに宗像氏、海部氏が伝世してきた漢鏡が残っている。

沖ノ島の奉献品|世界遺産「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群デジタルアーカイブ

宝物|丹後一宮 元伊勢 籠神社(このじんじゃ) 奥宮 真名井神社(まないじんじゃ)

 

鏡は姿を写すという性質上、祭祀や魔除けとしての役割からか、権威の象徴か、漢鏡は古墳からも数多く出土しているのは周知のとおりだ。

また貴人の姿見として、奈良時代にあっては寺院の装飾・鎮壇具として用いられ、正倉院宝物にも多くの鏡の名品がある。由緒から見ても正倉院に遺っている鏡は、どれも宮中で用いられ、また聖武天皇の遺品として納められたものとしてふさわしい威容をを誇る。

 

正倉院の宝物に見られる唐草文様は例を挙げればきりがないが、代表的なものとしては銀薫爐(ぎんくんろ)がある。銀をろくろによって球形に成型し透かし彫りするという技法も素晴らしく、またのびやかな唐草文と鳳凰・獅子が躍動する、古代のおおらかな作風を今に伝える名品だ。
※公式HPの解説:https://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures?id=0000010552&index=22

 

・銀の工芸品とそれに見られる意匠

唐草文ではないが銀細工で今年出展されていたものに、銀壺がある。花鳥文の合間は魚々子文様の点描がびっしり打たれていて、その中に大きく動物と狩猟する貴族が描かれる。貴族はここでも騎馬に乗り、後ろを向いて矢を射るパルティアンショットのポーズを取っていて、そのためこれも唐製かなあと思ったりする。パルティア=安息国から受け継ぐサーサーン朝の流行はここでも色濃くみられるのである。

※公式HPの解説https://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures?id=0000014204&index=51

 

 

このように唐草文様はあらゆる宝物にほどこされているので具体的に挙げるのはここまでにとどめたい。

 

 

正倉院宝物の目録として今に伝わる「東大寺献物帳

正倉院宝物は今に伝わるものだけでも9000点にのぼるが、ルーツは冒頭にも書いた通り聖武天皇の遺品を77日忌の法要の際、光明皇后東大寺へ一括奉献したのが始まりである。

その献納宝物には、願文とともに目録がつけられた。筆頭が「国家珍宝帳」である。性質上、目録自体が宝物である。欧陽詢の書風を伝える文体は当代随一の名蹟、天皇印がくまなく押され、朝廷の権力者たちのサインもある公式文書だ。

画像引用:東大寺献物帳 - Wikipedia

 

また現代の文化財分類・保護の視点から見ても、宝物ひとつずつに詳細な記載があり、

・当初納められていた品

・出庫されて所在がわからないもの

・後世追納された品

これら全部の品のプロフィールが途中まで部分的にでもわかっている点が、この正倉院の宝物群をして名品たらしめていると言っても過言ではない。宝物は沈黙のうちに多くを語るが、その正当性はこうしたプロフィールがいかにはっきりしているかにかかっているからだ。

《 ただし。仏教をあつく信仰していた聖武天皇の法要で献納されたにしては、目録の中に大量の武器(刀、弓矢、かぶとなど100人分)がまざっているのは不自然かもしれないが。実際これらの実戦用武器は、その後、恵美押勝の乱で反乱鎮圧のために使われたと考えられる。》

この例外を除くと当初からの宝物の動静は逐一目録によってわかるのであり、近代になって分類・管理されるようになった故宮博物館とか大英博物館とはその点で大きく異なるといえるだろう。

 

東大寺への宝物奉納がどういう意味を持っていたにせよ、それらは国の権力を司る性質を持った宝物ばかりであったことは間違いない。

 

 

種々薬帳と、屏風花氈帳

目録は国家珍宝帳のほかにもある。その中の種々薬帳は献納された薬物の目録である。献納した光明皇后はまた、民衆に向け施薬院悲田院を創設して病人を治療、また孤児の保護を行ったとされる。なるほど、東大寺にも薬物を献納して仏の加護を祈ったんですね……?

いや自分は日本史は素人なのでそんな素直にはとらえられない。都はのちの時代にもこのように歌に詠みこまれるほど華やかだったのかもしれないけど。

いにしへの奈良の都の八重桜 けふ九重ににほひぬるかな(伊勢大輔『詞花集』春29)
いにしえの昔の、奈良の都の八重桜が、今日は九重の宮中で、ひときわ美しく咲き誇っております。

民衆の暮らしはというと(前編でも書いたな…?)飢饉や天災、河川の氾濫、疫病の流行などが蔓延するなか人々は重税にあえぎ、また徭役や防人なども働き盛りの世代を労力として取られるため農民の暮らしはますます困窮していたと思われる。

そんな中、舶来のものを多く含む世にも珍しい貴重な薬物の数々を全て法要で献納してしまうとは、とても庶民の救済が目的とは思えない。

国家珍宝帳と種々薬帳、また屏風花氈帳にあるものを一括して奉献することで、権力を誇示したかったのではないだろうか?

誰が?

という疑問は残るけど。

宝物を献納したのは聖武天皇に先立たれた光明皇后であり、そこに権力を誇示する意味は無いようにも思えるが、少なくとも民衆に手厚く施しを与えた慈愛にあふれる光明皇后、というイメージはあまりにも事実とかけ離れているのでは、とチラッと思ったのだった。

 

宗教の伝来ーー仏教について

繰り返し書くけど、飛鳥~奈良時代の遺品は

★唐・長安の国際性

★仏教の伝来

を軸に考えると、それらの時代の文化財にはにはおのずと一貫性というかテーマが見えてくる。

ここでついでに仏教伝来についてもうちょっと書いておく。

(前編に貼っていた地図をもう一回貼っておく)

中国に仏教が伝来したのは後漢時代の紀元一世紀。

それは上記の通り砂漠の道を通じてだった。しかし仏教が生まれたインドではサンスクリット語で経典が書かれており、正確に中国に伝わったわけではない。

そこで本来の仏教経典を求めて、また教義の研究を極めるために、中国や朝鮮半島からは何人もの僧がインドへ渡っている。彼らを入竺僧と呼び、一説には1000人を超えるとされるが、旅行記などその詳細を記録にのこしているのはわずかである。下記に例を挙げる。()内は往復にかかった年月。

東晋・法顕 337年生-422年没(15年)往路ー砂漠の道・帰りー南海路
著書:法顕伝=仏国記

★唐・玄奘 602年生-664年没(17年)往復ー砂漠の道
著書:大唐西域記(地理書)、大慈恩寺三蔵法師伝(弟子の記した伝記、法隆寺に写本がある)

★唐・義浄 635年生ー713年没(24年)往復ー南海路
著書:大唐南海寄帰内法伝

 

長安から以西は砂漠の中に点在するオアシス都市つまり隊商都市をたどっていく旅であり、特に敦煌よりあとはタクラマカン砂漠ウイグル語で生きて出られない砂漠を意味するが、文字通り道に迷ったら終わりの死の旅であった。

砂漠をたどったその先は、最高峰7000m超、平均標高5000mの峰々が連なるパミール高原を越えなければならない。ゆく先々での盗賊による被害も多かった。

画像引用:パミール高原 - Wikipedia

 

いずれにしても、死と隣り合わせ、命がけで彼らは経典を求めてインドを目指した。

特に唐の玄宗皇帝の時代に玄奘が持ち帰り、漢典に翻訳した経典は膨大な量にのぼる。それらは朝鮮半島海印寺(ヘインサ)に版木が残る高麗八万大蔵経のもとであり、また日本の大正新脩大蔵経の底本となった。

(画像引用:海印寺 (陜川郡) - Wikipedia )

これらの経典が東アジア世界の仏教教義の研究に与えた影響ははかりしれない。

 

奈良時代には

華厳宗東大寺・新薬師寺

法相宗薬師寺興福寺

三論宗元興寺・大安寺)

成実宗

倶舎宗

律宗

といった南都六宗と呼ばれた宗派を通して仏教教義は大いに広められた。

正倉院には東大寺で写経された、唐伝来の教義や仏典をもとにした膨大な数の経典が納められている。国家事業として仏教を布教することで天皇の、また朝廷の威信を高めようとしていたことがうかがえる。

 

 

74回正倉院展の印象

このように東西の交易を行き交ったのは文化の意匠、また宗教など多様な分野にわたっている。それらを踏まえて正倉院展を振り返ってみる。

★★注:単なるミーハー観光客の視点です★★

また来歴、製法、材質などからまず産地がどこなのかを考えながら見ていくのも、新しい見方ができて面白い。

※公式アカウントからの解説

 

白石鎮子のウサギと虎、竜と蛇

https://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures?id=0000010060&index=3

https://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures?id=0000010061&index=4

動物が闘うという意匠は西方遊牧民のスキタイぽいけど十二支のモチーフは中国風。大理石製なのに使い込まれたような傷と摩耗のあとがあるような…?用途不明とあるが、そんなに深く考えず、宮中の毛氈や花氈の重しとしてそのまま使ったのではないのかなあ。東大寺での法要など、屋外で行った行事になると重しは必要だっただけなのでは。

単なる道具にしてはさすが、造形はみごとで動物が互いに絡みすぎてわからない…という所で横に色分け解説したでっかいグラビア図解を掲示してた。

親切設計だ。

巨大なグラビア図解はその後いたるところで掲示されてて、繊細な文様もはっきりわかって見やすくてよかった。3~5m四方?みたいなでっかいグラビア印刷。あんまりにも綺麗に文様が見えて、ふつうに図録が欲しくなってくる(←まあ絶対買うんだけど)。

 

 

全浅香

https://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures?id=0000010092&index=0

沈香は東南アジアに産する香木に樹脂が沈着したもの。全浅香は雅名を紅塵といい、種々薬帳ではなく国家珍宝帳に記載がある宝物である。黄熟香=雅名/蘭奢待と共に「両御香」と呼ばれた名品。蘭奢待は中世、将軍や武将などの権力者が代々切り取った跡がある。正倉院宝物は、この香木によって権力の象徴と認識されていたのかもしれない。

「沈すなわち香」と呼ばれ古来珍重されてきた沈香

香木は熱帯にしか産出しないものであり、伝来は仏教と同じころ?の6~7世紀ごろといわれ、古来から貴族の装いには欠かせないものであった。正倉院にも衣装を掛けて香を焚きしめたと思われる香炉がいくつか現存する。貴族は嗜みとして、好みによって香をブレンドして使い分け、後世には香道として発展した。

そのほかにも正倉院には多様な香木、薬物が納められている。東南アジア産出のものもあるが、流通ルートは遣唐使などを通じて唐から入ってきたと考えるのが自然だろう。

 

《おまけ:また、今回出展してない薬物に関して》

※どうでもいいツッコミーー種々薬帳には「薫陸」が見える。薫陸香は中国名であり、乳香を指す。産地は今のイエメンで、その海岸沿いのドゥファール地方に生える乳香樹の樹脂である。古代エジプトメソポタミアにおいて乳香は神へ捧げる聖なる香りであり、防腐剤としてミイラに使われた没薬、また黄金と共に東方三博士の贈り物として旧約聖書にも登場する。しかし、正倉院にある「薫陸」は「胡桃律」という別の薬物
https://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures?id=0000010323&index=1
であり本物の乳香ではない。実際に胡桃律に薬効はあったようではあるが。

アラビア半島に産する乳香の実物が実際に一般貿易レベルで中国に流通するのは宋の時代(12世紀)になるのを待たなければならなかった。つまり南海貿易によって大量に広州その他の港に輸入されるようになる時代になるまで。

 

※さらにどうでもいいツッコミーー冶葛(やかつ)という薬物も納められているが、成分としては毒である。上記の武器や弓矢が、奉納後の戦乱に際し出庫されて実際に戦闘に用いられたと書いたが、この治葛も記録によれば奉納後大幅に減っている。誰が何のために出庫したのか、謎は深まるばかりである。
https://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures?id=0000010326&index=1

 

その後日本では、平安時代には花の香と掛けて風流な趣味として、香を焚きしめる習慣は貴族の間に広く行きわたった。

五月待つ花橘の香をかげば 昔の人の袖の香ぞする古今和歌集 読み人知らず)

 

 

裛衣香(えび香)

防虫剤としていくつかの香を調合し、麻の袋に入れて宝物の櫃に入れていたらしい。宝物や織物に香りはついたかもしれないが、しかし防虫効果はあまり意味なかったようだ。効果あれば、織物もあれだけ虫害に遭っていないだろう。

効能としては現代でいえばパラゾールというが、全く安心できないということかも…しかしえび香は多くのものが調合されている貴重な品である。

 

 

﨟纈(ろうけち)屏風

https://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures?id=0000020050&index=4

https://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures?id=0000020049&index=3

ロウを使って染める技術を使ったもの。しかし現在にはその技法は伝わらず、何点かの染め織品や屏風にその技法をとどめるのみである。

他の現在は失われた技法としては夾纈(きょうけち)がある。どちらも平安時代以降の製品は存在しない。

今回公開されていた屏風には象、サル、オウムなどが描かれている。これらの動物は南方から中国に知識として伝わったか、陸路で伝えられたかのどちらかである。日本人は情報を中国から仕入れたため知っていたのか?

正倉院の時代には唐の支配は遠くインドシナ半島まで及んでいた。しかし象は、ラクダと共に西域から伝えられたらしい。運搬用家畜として使われ、また象牙を取る目的で知っていたのだろう。

 

様々な象牙細工

象牙の白は、紫檀琥珀などと共に装飾の一部として多用された。

沈香木画双六局

https://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures?id=0000012218&index=5

ヒノキの地板に天板として沈香を互違いの木目に貼り、側面と脚に黒柿を貼る。双六の碁盤目の筋や、四隅の細工は象牙で装飾する。象牙のほのかにクリームがかった柔らかい白が木目の中に映える優雅な品だ。

双六じたいは今のゲームとは違うルールで行われた遊びと考えられる。他にも正倉院には碁盤なども残り、碁は平安時代になっても貴族の遊びとして流行した。

 

紫檀画箱
 

https://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures?id=0000012180&index=8

こちらは素地に紫檀が使われており、そこに木画で唐草文が描かれる。この箱は伝世品は蓋のみであり、本体は明治時代の補作で色合いが蓋とはくっきりと違う。

※宝物は厳重に保管されていたとはいえ織物や本品のような木工品は繊細なものも多く、螺鈿細工などは後世に脱落部分を補作されている。(※螺鈿紫檀五弦琵琶、螺鈿紫檀阮咸など)

※(今年は出展してない)紫檀木画槽琵琶にも象牙と木画は多用されている。
https://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures?id=0000014804&index=7

 

 

 

奈良時代のアクセサリー

紐類 残欠

https://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures?id=0000021013&index=0

いわゆる帯に下げるストラップ。そこに今風にいえばアクセサリーを結んでコーディネート。古代の貴族のおしゃれ感覚がよくわかる。ここから下はアクセサリーショップと思えばいいでしょう。今でいうかわいい系。キレイ系ではない。

しかし素材は天然の貴重なものばかりである。ストラップも全部染めた絹である。

 

貝玦、牙玦

https://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures?id=0000012096&index=0

https://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures?id=0000012098&index=0

螺鈿の材料でもあるヤコウガイや、象牙でもストラップにつけるアクセサリーが作られた。貴人の装いに輝きを添える可憐な印象の宝物。

ヤコウガイは日本付近では奄美大島屋久島付近までを北限とし、また西大西洋、インド洋のサンゴ礁に生育する巻貝である。(ヤコウガイ - Wikipedia )その貝殻は真珠のような輝きをもち螺鈿細工の材料として使われ、また玳瑁やメノウ、トルコ石ラピスラズリ、また紫檀象牙などと共に宝物を華麗に飾った。

 

玦(けつ)とは、古代中国で用いられた佩玉(はいぎょく)の一種。ランドルト環みたいな円の一角を欠いた形をしていて、紐を結び付けて帯に下げる。

玉とは中国では翡翠(ヒスイ)のことを指す。美しい半透明の石で、古来から宝石として、神へ捧げる神聖なものとして、また装飾品として古代中国では古く紀元前、殷周の時代から珍重されてきた。帯から下げる装飾品としての佩玉には、玉玦(けつ)のほかにも玉壁(へき)、玉璜(こう)、幅の広い環状の玉環(かん)、幅の狭い環状の玉瑗(えん)などがある。

(※故事成語ー完璧の語源となった玉壁 解説ー和氏の璧 - Wikipedia )

産地はタクラマカン砂漠崑崙山脈のふもとホータンであり、古代中国王朝へはもともと四川省青海省(たぶん)あたりに居住していた民族の月氏によりもたらされた。そのため中国では「禺氏の玉」とも呼ばれた。

このように、美しい玉は中国では皇帝や貴人の身につける装飾品であり、遣唐使によって日本に伝えられたそれらの習慣は、奈良時代の朝廷でも広まったと考える。
※画像参考リンク:玉璧 - 故宫博物院

 

※ホータンの位置(前出の図)  和田玉 - Wikipedia

 

 

犀角魚形

https://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures?id=0000012066&index=0

犀の角で作られた、紐から下げて使われたと思われるチャーム。正倉院にはほかにも緑色、黄色、青などの色ガラスの魚形が残る。

魚をアクセサリーにつけるのは唐では高貴な身分にのみ許された慣習で、日本でもそれに倣ったのではないかと思われる。

 

犀角を使った宝物は他にもたくさん残っている。

斑犀如意(はんさいのにょい)※如意とは、僧侶が座して威儀を正すために用いた。https://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures?id=0000014559&index=6

犀角は象牙、玳瑁などと共に日本では産出しない。輸入ルートは奈良時代は唐を通じてであっただろう。それらの独特な文様は様々な細工に取り入れられ、愛玩された。(世界的にも珍重されたこれらの素材は乱獲・密漁・密猟のもととなり、現代においてはワシントン条約により取引は禁止されている)

 

 

彩絵水鳥形

https://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures?id=0000012089&index=2

ヒノキでかたどった水鳥を色とりどりに彩色し、本物の水鳥の羽根を貼り付けたもの(今は羽根は失われている)。実物はほんの指先ほどで、胸につけたブローチとかの装飾品なのだろうか。

これも大きなグラビア印刷で引き延ばされて横に掲示されていたが、大きく伸ばしてもなおその精緻な細工が目を引く。

※鳥の羽毛をはりつける細工は、ほかに屏風にもほどこされている。(しかし本品と同様羽根は脱落してわずかしか残っていない)

・鳥毛立女屏風(6曲1双)
https://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures?id=0000020020&index=6

・鳥毛帖成文書屏風(6曲1双)
https://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures?id=0000020026&index=12

 

 

黒柿把鞘金銀荘刀子

https://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures?id=0000012138&index=1

斑犀把緑牙撥鏤鞘金銀荘刀子

https://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures?id=0000012125&index=2

これらストラップのアクセサリーの中でも実用品にして工芸品としても群を抜いた技巧を誇る品である。材質も黒柿に金銀の装飾、またあるいは犀角の柄に撥鏤(染色した象牙に線刻で文様を彫る)細工の鞘をかぶせたミニサイズの刃物。木簡や、紙を切ったり削ったりするのにも実際に使える便利グッズでもある。

目を引くのは象牙の鞘に施された花鳥文。今回出展の品でいえば銀壺、ほかの宝物では漆胡瓶にみられるような文様が小さな鞘に刻まれている。

 

 

ガラス器

今年は展示されてない宝物であるがこれもシルクロードを経て伝えられた、伝世品としては他に世界には例がないもののためちょっと書いておく。

そもそも数としては装飾品としてのガラス玉は正倉院に何十万個も伝わっているが、ここではガラス器(食器等)で伝わっているものについて考える。

有名なものについてちょっとだけ。

白瑠璃椀

https://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures?id=0000011989&index=0

緑瑠璃十二曲長坏(みどりるりじゅうにきょくのながつき)

https://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures?id=0000011994&index=0

瑠璃杯

https://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures?id=0000011991&index=12

 

これらのガラス器は意匠としてはペルシア伝来のもので、製法もまた同型のものは今のイランから多数出土している。

また、白瑠璃椀は安閑天皇陵の古墳から酷似したものが出土したことが知られている。

しかし正倉院に伝わるものは出土品とは別の美しさを保つ。また十二曲長杯はペルシア製か唐製か、生産地も結論は出ていない。

 

(あんまりこの項は深く考えてません、シルクロードを隊商によって割れずに唐まで持ち込まれ、またそれが遣唐使船によってなのか日本まで運ばれたということだけでも奇跡的な事という点に思いを馳せてるだけです)

 

 

正倉院文書

正倉院文書 - Wikipedia

最後に正倉院宝物をして、当時の歴史を鮮やかに蘇らせるものとしては正倉院文書がある。5つの目録からなる東大寺献物帳も文書には違いないがその分類は宝物の目録である。それとは違って正倉院文書は納められた目的からさらに発展…ではなく歪曲……でもなく、いわば偶然発見された存在ともいえるだろう。

 

………どうゆうこと?

という問いに簡潔に応えると、正倉院文書はすなわち紙背(しはい)文書であるからだ。

紙背文書 - Wikipedia

正倉院の所属していた東大寺聖武天皇ゆかりの寺であり、また仏教をもって国家の威信とした奈良時代にあっては仏教研究の一大拠点だった。遣唐使により伝えられた膨大な経典はその東大寺ほか、奈良の他の大寺院でも写経・研究され、そのため膨大な量の紙、墨が必要だった。

しかし当時記録具として主流だったのは木簡であり、紙は貴重なもの。そこで公文書や戸籍などにまず紙は使用され、写経にはそれらの公文書が反故(ほご)になったものを再利用して使った。当時の紙は一度使って捨てるという発想はほぼ無かったと言っていい。

その結果、東大寺にのこる経典の裏には奈良時代の戸籍、また役所の発行した公文書がそのままの姿で見られる。紙に記載された本来の用途の裏面に遺された文書を特に紙背文書という。

幕末にこの事実に気づいた国学者、穂井田忠友が写経の裏を見て文書を抜粋・分類して整理した。

その後も文書の分類・整理は続々と続けられていたが、しかしその結果資料としては分断される結果となり、現在は元の体系に復元する作業が行われている。

データベースとしてオンライン上でも閲覧できるようになっているが、しかし正倉院展に行くと戸籍として展示されている文書の裏には写経の墨が映り、また紙を継いだ跡など、それらは現物でしか見られない。

 

日本最古の戸籍や当時の納税帳など、貴重な社会経済史の史料として奈良時代の研究に寄与している文書群である。

 

 

 

正倉院宝物と正倉院展

以上の通り、正倉院宝物は当時の時代をそのまま、しかも国際色ゆたかにあらゆる分野にわたって丸ごと残している、世界的にも稀有なコレクションである。

これらの貴重な品、しかも発掘品ではなく伝世品に展示を通して出会える機会、それが正倉院展だ。

 

奈良時代以降は遣唐使の廃止と共に日本では大陸文化の影響は受けながらも、そのままコピーするのではなく独自の発展を遂げていく。

それに従って今は見られなくなった習俗や技法を目の当たりにできるのが正倉院展

展示される宝物は全体の数に比して毎年少ないという声もあるけど、これだけの複雑な背景をもつ宝物群は、そんなに一度に展示されても把握しきれたものではないので、毎年これだけ展示してくれるだけでも、素人としてはかみ砕くのに精いっぱいである。

毎年展示物は図録にまとめてくれてミュージアムショップで販売してくれるし、自分は毎回楽しみにしている展示会である。