歴史と本マニアのための部屋

歴史、政治、本、あと吹奏楽関連のつぶやきです

大山祇神社(後編)

 

※この記事は下記の2021年夏に書いてた記事の後編です。ずっと中断してました、すいません。

 

 ※参考資料:前編

 

え??

そんな前の話、忘れた?

 

ああっ、石をなげないで下さい。

 

…前置きはそのくらいにして本文に入ります。

(※日本史分野は素人のため、なんとなく思いついたイメージで記事は構成されている。根拠なし。)

 

 

瀬戸内海に源義経が鎧を奉納した神社があるそうな。

 

そう言えば一般的には通りがいいのかもしれない。

自分も最初はそういう認識だった。実際に行ってみるまでは。

しかし、百聞は一見に如かず。

やはり現地に行ってそこの立地を考えてみたり風土と気候を感じたり、博物館も図録で見るより生の実物をショーケース越しにでも見る方が、本質を感じられるというか原点に帰れる気がする。

 


左側は自分が撮影した神社の楼門。

右側の画像リンク。ほんとはもっと鮮やかな色彩の見事な伝世品(館内は撮影禁止のため引用):大山祇神社 - Wikipedia

【 国宝  赤糸威鎧(あかいとおどし よろい)(大袖付) 1領 ーーー伝源義経奉納。平安時代末期。大鎧と胴丸の特色を兼ね備えた稀有の遺例。昭和27年3月29日指定 】

 

目次:クリックで各項目へ飛べます。

 

 

 

愛媛県しまなみ海道の中心に位置する大三島。そこに祀られている大山祇神社のなりたちについて、前編で考えてみた。

 

そもそも、神社の背後に位置する鷲ヶ頭山をご神体として扱い、つまり聖なる山としてその一帯を祀ったのが始まりではないか。神社の成り立ちがいつなのかはともかく、境内にある楠の樹齢が2600年だそうで、有史以前からここが何らかの祭祀の場であったことは疑いないだろう。

神社のなりたちが信仰と民俗学に基づいているとするなら、中世においてはそこに政治勢力が関係してきてさらに独自の発展を遂げる。

 

海に生活する人々         

中華文化圏の東端、東シナ海日本海を隔てたところの島国である日本。

政治的には代々中華帝国朝貢貿易という形で安全保障契約を結ぶことと引き換えに、政治的・軍事的に他国からの支配を受けずに独立を保ってきた。朝貢貿易とは、天命を受けた中華皇帝へ周辺の異民族が献物によって主従関係を結ぶことを意味する。

※異民族……この呼び方はあくまで「天命を受けた正当な統治者」を名乗る中華皇帝からみた蔑称。それぞれの民族は固有の文化を持っていた。ただ、狄は北方騎馬民族のことで万里の長城を以ってしても度々中国に侵入した。

※参考地図…後漢時代の周辺民族。(※琉球、南西諸島も東夷の一部)

 

しかし朝貢貿易で外交関係にあっても、中国と周辺民族は度々戦火を交えてきたが、日本だけは例外だ。海を隔てていたことで領土問題からは一線を置いていた。ただ安全だからといって外交的に大陸から視線を外したことは一度も無い。例外的に日本が戦争に参加したこともある。(白村江の戦いなど)

むしろ経済・文化的に見てもどの時代でも圧倒的に世界トップレベルであった中華帝国から、交易によって一方的に恩恵を受けていたといった方が正しい。日本は常に異文化を吸収することに対して貪欲だったし、色々な意味で少しでも追いつこうと必死だったと言っていい。

 

このように有史以前から海を越えて大陸文明の影響を受けてきた日本では、九州、また山陰から北陸に至る日本海側、そして瀬戸内海エリアが物流、また文化圏の中心を担っていた。

その人・物の流れを掌握していたのが海人族である。

大山祇神社を取り巻く立地条件を考えるうえで、彼らの存在は切り離して考えることはできない。大山祇神社自体の祭神は海の神ではなかったとしても。

 

彼ら海を舞台とし海を信仰する豪族は、地方によりいくつかに分類される。

今に残る海人族

宗形(むなかた)氏

筑前の国(今の福岡県)の玄界灘に面した地にある宗像神社の辺津宮から、まっすぐ沖合に直線を描いて位置する中津宮沖津宮に祀られる3女神を奉斎する、海人の豪族である。沖津宮には6万点余の文物が残り(いまは辺津宮に移されている)、当時の交流の詳細を今に伝えている。

このルートは九州と朝鮮半島を結ぶ航路上にあり、対馬とならんでまさに朝貢貿易の舞台であった。また外交使節だけでなく幅広い貿易船、また軍隊もこの航路を往来した。海人族は実際に航路の運用・護衛を担っていて、彼らが祀る海の神が航海の安全を見守っていたといえる。危険な外洋の航海に神の加護は不可欠だ。このように、彼らの活躍の舞台は玄界灘から広く国外に向けられていたようで国際色豊かである。

 

海部(あまべ)氏

宗像氏が外洋へ向けた世界を拠点とするなら海部氏は大陸から影響を受けた日本海側に拠点を持っていた。丹後の国を拠点とし、日本海側に展開する出雲や越の国と共に、大和朝廷と対峙した一大勢力。

海部氏は丹後籠神社において彦火明命を祖神と祀っていた(宮津市天橋立のたもと)。また、現存するものでは日本最古の部類の系図を有する。

参考リンク:海部氏系図 - Wikipedia

参考リンク:籠神社 - Wikipedia

先進的な文化はいち早く大陸からその地域を経てもたらされた。同地域には製鉄施設や大規模な古墳や集落等、大きな権力の影響がみられる遺蹟が多数残る。

【海部氏の勢力範囲の遺蹟例】

網野銚子山古墳

日本海側最大、全長200mに迫るとされる。一帯の古墳群は浜辺ではないが海が見渡せる丘にあり、当時の航海路であった日本海を一望できる所にあることが丹後地方でも随一の権力者の墓であったことをうかがわせる。

引用:史跡網野銚子山古墳(国指定文化財)/京丹後市

網野銚子山古墳は、全長198メートル・後円部径115メートル・同高16メートル・前方部幅80メートルの日本海側最大の前方後円墳です。古墳の墳丘は三段築成で、それぞれの斜面には葺石(ふきいし)を配置し、各段のテラス上には丹後地方特有の丹後型円筒埴輪がめぐる、雄大で整美な古墳です。
 墳丘の南側には、幅17メートル~25メートルの周溝がめぐっていたことが発掘調査からわかっています。前後には、小銚子古墳と寛平法皇陵古墳の2基の古墳(いずれも国指定史跡)があり、陪塚と考えられています。古墳の造られた時期は4世紀末から5世紀初頭と推定され、古墳時代を前期・中期・後期・終末期に分けると、前期古墳の時期にあたります。
 丹後地方では、弥生時代後期から古墳時代前半に、大きな勢力をもった政治勢力があった可能性(いわゆる「丹後王国」)が指摘されています。埋葬施設は未調査ですが、この古墳に葬られている人物は、少なくとも大和政権と関係を持ち、大陸との交易等にも携わったこの地方の有力者であると考えられています。

網野銚子山古墳 遠景  国指定文化財(史跡)

 

引用:遺跡編(7)網野銚子山古墳(京丹後市) 屈指の規模「海の古墳」|文化・ライフ|地域のニュース|京都新聞

発掘調査によって、現在木が茂っている墳丘は、かつては葺石で覆われ、2千本にも及ぶ埴輪が並べられていたことが明らかになりました。この埴輪は「丹後型円筒埴輪」と呼ばれ、丹後地域を中心に存在する特徴的で独特な形を持つものです。その一方で、古墳の設計図は奈良県にある全長207メートルの大王墓、佐紀陵山(さきみささぎやま)古墳(日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)陵)と同じであるという研究もあり、ヤマト政権とも強いつながりを持った地域の実力者がいたことがうかがえます。現在、網野銚子山古墳の上に立つと1キロメートルほど向こうに日本海を望むことができますが、古墳時代には海岸線が現在の網野市街地まで入り込み、潟湖と呼ばれる天然の良港を形成していたと考えられています。当時の人々は、網野銚子山古墳の巨大な姿に驚いたことでしょう。網野銚子山古墳は日本海に面したまさに「海の古墳」でした。想像をたくましくするならば、網野銚子山古墳には、丹後地域を拠点として日本海を通じて活躍した人物が眠っているのかもしれません。

 

大成古墳群

リンク:大成古墳群 - 観光スポット - 「京丹後ナビ」京丹後市観光公社 公式サイト

京丹後市竹野川河口に位置する、溶岩が固まった大きな岩である立岩。この岩を見下ろすように、河口付近の丘に横穴式古墳群が点在する。日本海を見下ろす位置にある古墳という意味で、上の銚子山古墳と同様な意味を持つと考える。

 

神明山古墳

また、この川沿いのすぐ背後にも巨大な古墳(全長190m)があるため、この一帯もまた権力者の基盤だったと思われる。リンク:神明山古墳 - Wikipedia

 

蛭子山一号墳

海から離れたところの与謝野町にも145mの規模の巨大古墳がある。



 

製鉄施設:遠處遺跡製鉄工房跡

(撮影は自分、発掘後埋め戻したのか現地は草むら)

引用:デジタルミュージアムF38遠處遺跡製鉄工房跡/京丹後市

遠處遺跡製鉄工房跡(えんじょいせきせいてつこうぼうあと)は、丹後国営農地開発事業に伴い、発掘調査された。本遺跡の近くには、丹後では珍しい鉄製武具や、甲胃形埴輪(かっちゅうがたはにわ)・舟形埴輪など多くの形象埴輪が出土したことで著名なニゴレ古墳がある。遠處遺跡では、須恵器窯跡(すえきかまあと)のほか、木炭窯跡、製鉄炉跡、鍛冶炉跡(かじろあと)、竪穴住居跡、掘立柱建物跡、流路など古墳時代から平安時代に至る各種遺構が、造成予定の丘陵一帯から検出された。特に、古墳時代後期と奈良時代後半の製鉄炉跡、鍛冶炉跡、木炭窯跡等は、古墳時代及び奈良時代の製鉄関係遺跡であるとして注目された。鎌や、刀子、鍔(つば)、鋏具(かこ)、釘など、量的には多くないものの、鉄製品も出土している。「余戸郷□真成田租籾五斗」と記された荷札木簡が出土しており、この地の奈良時代後半の製鉄に関して、国衙等が関与していた可能性を示すものである。

 

浦嶋神社

舟屋で有名な伊根町の山中にある。祭神は浦嶋子(どういうことでしょう) 。相殿神の月讀神をまつる神社は福岡の壱岐にもあることからも、航海に携わる海人が祀る神であったことがわかる。

                                                                                                                                                                                                                                            

伊根町の新井崎神社から見て東方沖に沓島と冠島という無人島がある。

古くから海人の思想として海の向こうには(海の底ではないところに注意)常世の国・神の住処・蓬莱山・豊穣をもたらすところ、不老不死の世界があるとされた。そこから神が現世に寄り付くところとして人の住むところ(=山、陸地)との境目で祭祀を行うという思想があった。

浦島の伝説は丹後国風土記逸文にも浦嶋子の話として登場することから、そういった蓬莱思想、神仙思想と結びついていたと思われる。

(※この新井崎神社には地域住民によって徐福が祀られている。秦の始皇帝に不老不死の薬を探すよう言われ、3000人の人数を従えて大船団で出航し秦には帰らなかった徐福がこの地に漂着し、秦氏の起源となったとか大陸文化を色々伝えたなどの伝説がある。しかしこの伝説は眉唾ものなので根拠がないが、日本各地に同様の徐福伝説は数多く残っている。)

資料:新井崎神社から遥かに望む冠島と沓島。

 

ーーーここまで海部氏の解説。ーーーーー

 

尾張(おわり)氏

海部氏と同系統の丹後国造の一族。尾張国を本拠とし、天火明命(=彦火明命)を祖神とする。熱田神宮草薙剣を祀る。(その後大宮司藤原氏に移り尾張氏権宮司を称しているようだ)中世には足利氏や織田氏とも関わりを持ち、戦に参加するなど武家としての役割も担った。

 

阿曇(あずみ)氏

今の福岡市にある志賀海神社にて、海神である綿津見神を奉祭する氏族。また穂高見命の後裔を称する。安曇氏とも書く。海人族としては最も有力な勢力をもち、西日本を中心に広く分布した。(参考リンク:阿曇氏 - Wikipedia

穂高神社という所が長野県安曇野市穂高町にあり(穂高岳の嶺宮に祭神を置く)、その祭りでは船のだんじりが登場する。

公式HP引用:歳時記 穗髙神社

御船祭(御船神事)は、毎年9月26日・27日に斎行されます。 27日には船型の山車に穂高人形を飾った大小5艘のお船が笛や太鼓の囃子(はやし)にのり、氏子衆によって神社へと曳き入れられます。勢揃いした御船のきらびやかな様子は、歴史絵巻を見るかの様です。境内を練り神前を曳き廻るうちにお船が激しくぶつかりあうその壮大な迫力に時のたつのも忘れてしまいます。 御船祭のお船は、子供船と大人船とがあり、なるの新木を用いて毎年組み立てられます。 男腹(おばら)、女腹(めばら)には着物が何十枚も掛けられ船上には毎年ことなった穂高人形が飾られます。着物の持ち主は、一年間健康で過ごせると言う信仰も息づいています。 お船の起源は穗髙神社の祭神が安曇族の祖神(おやがみ)であり安曇族は海洋に親しみ海運を司っていたこと、大将軍安曇比羅夫の船師を率いての百済救援、又氏族の朝廷での活躍などで、平安時代の標山や室町時代の神座の山車等に原形を見ることができます。

このことは海岸部だけではなく海人族が内陸にもひろく分布していたことをうかがわせる。安曇野市付近に分布しているのは、弥生時代に今の糸魚川市付近から姫川を遡上して、その付近に産出するヒスイ(勾玉の原料)を求めて定住するようになった説を推したい(←定説とはされてない)。

参考リンク:宝石「ヒスイ」拾いに行ってみた。/糸魚川市|新潟県観光協会公式ブログ たびきち|【公式】新潟県のおすすめ観光・旅行情報!にいがた観光ナビ

 

その他海人系の豪族としては和邇氏、海犬養氏、諏訪氏などが挙げられる。また、南方系から海を渡って来た氏族としては現在の九州南部に定住した隼人族がいる。

 

また、海を渡って来た起源をたどると、中国の江南地方との関係も見られる。

俗説によれば(古代中国の)戦国時代に滅んだの国から渡来民が漂着し、彼らが稲作を伝えたという。それが紀元前、弥生時代という説。ただしこれには根拠がない。

しかし古代に早くから稲作農業をおこなって大規模集落を展開し、青銅器をもたらして当時の文化をリードしていた地域の一つとして九州が挙げられるわけで、時代的には一致する事から何らかの関係があると言わざるをえないだろう。

(画像リンク:呉 (春秋) - Wikipedia

南方、長江の河口付近が。そこから外洋を経て日本に渡ったとするには航海技術など疑問はのこる。

 

住吉大社

リンク:住吉大社 - Wikipedia
海の神を祀る神社として大阪湾に面して建つ。奈良から流れる大和川の河口(昔は神社は突出した岬部分にあったらしい)に位置し、瀬戸内海とつながる海運の要衝にあった。他の神社と違うのは奉斎する豪族はなく、おそらく大和朝廷の直轄施設として国家祭祀を担ったのではないか。大和川沿いには百舌鳥古墳群古市古墳群など、大和川と石川の海運能力を背景に、当時の政権に関わる権力者の基盤があったことがうかがわれる。百舌鳥・古市古墳群とは|世界遺産 百舌鳥・古市古墳群(もず・ふるいちこふんぐん)古市古墳群だけでも200m以上のものが7つある、百舌鳥古墳群のものはさらに大規模)

※ただし住吉神社としては最古のものは長崎県壱岐島のほうである。
 リンク: 住吉神社 (壱岐市) - Wikipedia
 →→ やっぱり朝鮮半島との航路上。古代の航海術は拙かったと思われるので、海の神に祈る信仰も篤かったのではないだろうか。 

 

 

海人族の生業

海人族は海に生活する人々を掌握する権力をもった豪族であった。

では実際に海人族はどのように生計をたてていたのだろうか。

 

漁業、漁撈と採取

外洋に出られる大規模な船はまだ無かったと考えられるので、沿海漁業が中心だったと考える。

・わなによる漁

 航海術が未熟だった時代、罠にかかる魚介類は重要な食糧である。たとえば川を遡上するサケ。ほかにも簀の子によるダムみたいな罠を流域にしかけて魚を採っていた。また、たこつぼによるタコ漁は素焼きの壺を使って弥生時代から行われていたが、これも代表的な罠による漁である。

・採取漁、海人(アマ)による漁

 砂浜や磯などでの貝や甲殻類の採取。またワカメやノリなどの海藻も貴重な食糧だった。海人の素潜りによって採られたサザエ・アワビなどは乾物として朝廷へ献上された。

・奉納品としての海産物

このように律令時代には海産物は重要な現物納付の税として全国から納められていた。

 

 

航海と護衛、軍事行動

・物資の海運・・・体積が大きく重いものほど船舶での運搬に向いているため、産業革命で鉄道が発明されるまで、古来物流は海運が主体であった。その運搬は河川を通じても活発に行われた。運ばれたものは、コメやムギなどの穀物、陶器や磁器、刀剣や武具、建築資材としての木材や石材から、中世までは大陸から輸入していた貨幣など多岐に渡る。

・航海路としての海・・・上記のように陸路よりも往来としての役割を果たしたのは海路や河川で、そのルートは島国である日本にとっては同時に貿易路も意味していた。それらの商船を襲って略奪するというよりは、権力者の手の届かないところでの自治を展開し、海上に関所を設けて通行料を徴収していた。また護衛として海人族が船団を動かすこともあった。

・海軍と水軍、水主としての海人族・・・大規模な輸送が可能にしたのは貿易や旅客運搬だけではなく軍隊もそうである。権力者から独立した集団として成り立っていたのは経済力だけではなく軍事力があったからである。

例えば中世、西日本を中心に瀬戸内海を舞台にした水軍を掌握していたのは平氏であり、彼らと源氏との戦いは福原の都を追われて以降は瀬戸内海で繰り広げられている。

彼らは水軍と称して幕府や大名といった権力者と対峙した。例としては紀州熊野水軍志摩国の九鬼水軍、伊予の村上水軍、大阪湾の渡辺氏や肥前の松浦氏などがある。塩飽諸島の場合は例外で、それぞれの時代で自治領を安堵され政権の直轄地として生き残った。

 

 

文明が行き交う瀬戸内海

さて、大山祇神社が位置する大三島は瀬戸内海のほぼ中心、海路の要衝にある。

古代から聖なる島として崇められてきた大三島だが、中世にはその祭神は戦いの神としても信仰を集め、新しく興って来た武士階級によって武具・刀剣などが多数奉納されることになる。

 

交易の場としての瀬戸内海、実際に行き交ったものは何か

陶磁器

焼成に高い温度が必要になるなど技術力が必要とされた。中国では紀元前から質の高い土器が作られ兵馬俑にもみられるように技術は高かったが、日本で産業として成立するのは平安時代末期から中世にかけてである。

その生産には原料となる陶土が産出することが前提だったが、体積も重量もある陶器を流通させるには出荷に適した港が不可欠だったから、波の穏やかな瀬戸内海はそれに適していたといえるだろう。代表的な産地としては備前が挙げられる。中世以降(大航海時代以降)は輸出用の磁器の産地として有田が広く知られるようになった。

 

通貨

日本では寛永通宝が作られるまで貨幣の鋳造能力が無く、流通する通貨は大陸からの渡来銭だった。(中国では紀元前の戦国時代には通貨が作られていた。)中国は唐の時代に国際的に多様な民族が往来し領土も最大となったが、その後の宋時代にはさらに経済が発展し、貨幣経済も発達して当時平安時代だった日本はそこから貨幣(宋銭)を本格的に輸入し始める。室町時代にはさらに明銭、特に永楽通宝が大量に持ち込まれた。

※商人でにぎわう北宋の首都・開封 (画像引用:清明上河図 - Wikipedia

 

この時代(宋以降)の流通・貿易に使われたのはやはり船であり、沈没した貿易船からはこれらの交易品が(破損しているにせよ)特に陶磁器は当時のままの姿で引き上げられることも多く、その調査結果は貿易の実態を知るうえで重要である。

画像引用:新安沈船 - Wikipedia 韓国で引き揚げられた貿易船、そこから出た元代の中国磁器

 

中国の陶磁器は(宋以降)日本と共に世界中に輸出され、インドのコーチンイスタンブールトプカプ宮殿そしてアフリカ大陸東岸では貿易商の富の象徴として中国の陶磁器(主に青・色染付)がそのまま飾られていたりする。またアラビア半島から紅海を抜けた地中海沿岸のエジプト・カイロ郊外のフスタート(フスタート | カイロ歴史地区 | 世界遺産オンラインガイド)からは大量に陶磁器の破片が出土していて、推測される流通量からは、中国の陶磁器は世界中の憧れの的であったことがうかがえる。(そのうち大航海時代以降、ヨーロッパでは製法や文様を模倣して自ら陶磁器を作り始めるのだった。)

 

交易品としては古来からこれを外すことはできないだろう。万葉集には既に製塩のようすが歌われ、また海の無い内陸地方にとっては欠かすことのできない物資だったからである。

 

刀剣

ここでは長刀やその他武具全般を指して考える。

鉄はすでに中東地方をルーツに5000年前には生産されていたことが確認できる。農具としてもその鋭い刃は大いに生産性を上げる原動力となり、収穫量の飛躍的な増加、さらに人口増加につながっていくのは古代中国(紀元前)の戦国時代をみても明らかだ。

しかし鉄の需要はなんといっても軍事目的に集約されるだろう。

日本刀の原料は鉄であり鋼、原料としては主に中国山地(他にもあるが)から算出する砂鉄が使われた。それから製鉄の過程で欠かせない火力のもととなる木材、製品を運び出すいかだや船とそのルートとなる河川、それらを兼ね備えている中国山地では古来から(たたらによる)製鉄が盛んであった。

「たたら」の発祥と発展 - 「たたら」とは - 鉄の道文化圏

他にも砂鉄の産地として琵琶湖畔北部も同様に製鉄業が盛んなところとして知られている。

 

日本刀だけではなく、鎧や兜、ひいては火縄銃渡来後は銃の材料として、鉄は加工されそのまま軍事力に直結する。

その鉄の供給を受けて刀剣鍛冶を多数輩出し古来から生産が盛んだったのは備前長船である。この至近に備前焼の産地があるのは偶然ではない。製品を搬出するうえでも瀬戸内海に面していたのはあらゆる意味でアドバンテージだっただろう。

こうして刀剣、鎧兜は平安末期以降武士階級の隆盛と共に全国へ需要が拡がっていった。武器としてだけではなく、その刃は美術工芸品として鑑賞に堪える仕上がりであるのは論を俟たない。

 

 

 

海賊と武士

瀬戸内海はこうした物流の拠点だったが、交通の要衝だったためその制海権を握るのは軍事的にも重要だった。こうして権力者の争いに常に巻き込まれていた地帯であると言ってもいい。

 

戦乱の舞台でもあった瀬戸内海であったが、そこで活躍したのは大名ではなく海賊である。

海賊は略奪者というより通行料を初穂料と称して徴収し、また航海における警護などの役割を担う事で海域の治安の維持にもつとめていた。

武士階級の台頭により彼ら海賊も武装し一定の軍事力をもつことで、政権側とは別の自治権を得て後の大名とは別の勢力として海域を掌握していた。

 

大山祇神社は中世以降、彼ら武士の信仰を集め、戦いの神として奉られることになる。

神社への寄付金は初穂料としておさめられるが、武士たちは自分たちの宝ともいえる武器を奉納して戦勝を祈願した。

宝物として現在残っているのは地元の水軍を掌握していた河野氏のものが多くみられたが、しかし平安末期以降、武将たちからの寄進を受けて武具がおさめられ、現在残存している武器刀剣のうち重要文化財以上のものは大部分がここの物らしい。

※それにしては、多数保管されている刀剣を実際に見たところでは保管状態にものすごく疑問を感じた。充分な管理体制には財源が必要とはいえ、あれだと刀剣を保管しているだけであり、仮にも宝物館といって学芸員を置いているのなら収蔵品の調査研究も事業のうちに入ると思うけど、どう見ても保管してるだけっているのはどういうことだ。

 

話がそれた。

刀剣の詳細な説明とか、鎧兜のくわしい分類はここでは省略する。あんまりにもオタク分野に走りすぎるので、又自分もその方面の専門家ではないからだ。ただ調べたかったので現地で売っていた図録を宝物の分類ごとに全部買っていたら、巫女さんに非常に不審な視線で見られた。当たり前である。でも変態ではない。

 

神社に現存する武具を見る限り、当代随一の工芸品が納められたのは間違いない。

国宝めぐり | 大山祇神社

宝剣は鞘が螺鈿細工、持ち手は鮫革の拵えなど、正倉院に伝来する唐太刀に匹敵するつくりである。

夥しい刀、太刀、なぎなた脇差に小刀、鎧や兜に鏡(祈りの意味が込められていると思う)の数々。国宝指定されているものも多く、重要文化財も入れると一体いくつあるのか数え切れない。(あまりにも大量の武器が奉納されているため第二次世界大戦GHQに廃棄を命じられたくらい、しかし神社側は土に埋めて隠した)

 

航海は主要な交通、流通手段であったがそれには沈没や難破、襲撃の被害というリスクが常に伴っていた。瀬戸内海は潮の流れが速く、海峡部は航海の難所であったから、航海術に長けていた水軍は常に必要とされていた存在であったが、彼らも航海の安全を祈りたかったのは同じである。

農業が豊作を神に祈り、神に感謝していたように、航海においても古代の原始的な信仰の影は薄れたとはいえ海を行くものには神の加護は不可欠のものだったようだ。

また中世の水軍の歴史はそのまま戦いの歴史といえるだろう。

南北朝時代から室町時代、さらに中央政権によって戦略的に水軍が使われるようになる戦国時代にかけて、平和な時代は無かった。普段漁民として生計を立てていた者も、船団の操船の担い手、また漕ぎ手や兵士として戦いが起これば招集されたのは、戦国時代の大名麾下の武士と何ら変わらない。

 

また外国の使節団もここを通り、造船技術が上がるにつれて大型船が外洋に向けて貿易に出るようになってもその拠点は瀬戸内海(中世は機内が拠点であった)、また南蛮貿易が盛んになった頃は九州のキリシタン大名もその一翼を担っていた。様々な人や物が行き交う中、もはや宗教的加護を願うのは形式的になっていたのかもしれないが、それにしても神社の背後にそびえる山と共に、祀られている神は船団の往来を古来からずっと眺めていたことだろう。

今も漁船、貿易船や旅客船がひっきりなしに行き交う海。そこでの営みも古来ずっと変わらないとも言える。日本は海に囲まれている島国という点でも古来変わることはなく、海から離れては生きていけないのだ。もう一度海とのかかわりについて考え直してみよう。