歴史と本マニアのための部屋

歴史、政治、本、あと吹奏楽関連のつぶやきです

第2回 めぐりあい 大河ドラマのlightな感想 光る君へ

 

※これ書いてる人は日本史も国文学も知らない単なる通りすがりの大河ファンです。この部屋の内容に深い意味はなく単なる思いつきとノリと勢いでやっています。なお、自分の覚書も兼ねてるので逐一資料を調べて解説リンクを貼ります。煩雑になりますがご了承ください。

 

だいたいの印象。

現代語のせりふが登場して、史実を正確に伝えてないのでは?と一瞬戸惑う。

しかし大河ドラマにはめずらしく、一般にあまり知られてない平安時代、しかも制約の多い貴族社会を描くならそのくらいくだけたシーンがあったほうがなじみやすいだろう。

時代考証も地道に誠実にされてる感じ。

そういうカジュアルなイメージづくりと衣装やセットなどの堅実な設定により、史実に描かれないフィクション部分と実際に記録に残ってる事件をもふくめて、丁寧に伏線を張りながら感情の機微も細やかに描いてる。

脚本も奇を衒わない展開、難解なせりふもなくわかりやすい。

役者さんも色んなキャラクターが配されていてそれぞれに持ち味がにじみ出た演技で、実際に身の回りにこういう性格の人いるなあと思わず感じるリアリティがある。

 

ではそれぞれの場面について細かく考えていくことにしよう。

 

 

目次:クリックで各項目へ飛べます

 

まひろの裳着の式(元服)と父との葛藤

第一回の子役さん時代は終わり、今回はまひろの元服の儀、つまり裳着の式の場面から始まった。

今回から吉高由里子さんに役が変わる。

これから一年間よろしくお願いいたします。

 

さて裳着の式とは当時で言う成人式みたいなもので、10代前半で執り行われる。

第2話は前回詮子が入内した天元元年(978年)から6年後、984年が舞台。

前回のまひろが7~8歳だったと仮定すると(道長は11歳、詮子は15歳だった)、今回ちょうどまひろは13~15歳ごろである。今の成人式が20歳なのからするとだいぶ早いけどそういう時代なので慣れるしかない。

これで結婚もできる年齢とされ、腰結をお願いした藤原宣孝おじさんもなにげなく「良い婿を迎えてこの家を盛り立てていかなくては!」とかサラッと身も蓋もないことをいうが、宣孝おじさんにしてみれば祝辞をはなむけに贈るというほどの意味合いだろう。

裳着の式:裳着 - Wikipedia

裳着(もぎ)は、平安時代から安土桃山時代にかけて、女子が成人したことを一族および他氏に対して示すことを目的として行われた通過儀礼。(中略)成人したものとして当該の女子に初めて裳を着せる式で、裳着を済ませることで結婚などが許可された。(中略)女子に裳を着せる役は腰結(こしゆい)と称され、徳望のある者から選ばれた。(中略)これ以降、裳着を済ませた者は、袴は緋を着ることとされた。

※ただ。この場にいるはずの親族はもっと多いはずだし、為時には妻ちやはの死後、通う妻もあったし子供も4人ほど生まれているはずだが、これ以上本編に関係の薄い登場人物が増えると物語の展開に焦点が合わなくなってくるので省かれたのだろうか?

 

でも前回兼家が為時に個人的な雇用として世話してくれた(それにはもちろん見返りを求められたが)春宮様の漢文指南役というやんごとない職のおかげで、第一回の目を覆うような窮乏振りから一転、為時の屋敷ではやっとのことで下級貴族としての体裁を保つことはできているようだ。

築地塀が崩れているのだけは如何ともしがたいようだけど。

使用人も第一回で二人も辞められたのに、それから6年の間に、いつの間にか増えている。みんなが身につけてる衣装にもゆとりが感じられる。母ちやはの衣装を物々交換に出してどうにか暮らしていた第一回の頃を思えば、今は明日の食べ物の心配をしないでいいだけでも安心だ。

 

そんな中ではあるけど、おめでたいことにまひろは裳着の式を迎えた。相変わらず質素なしつらえの邸であるが、まひろが着ている十二単だけは目を瞠るような贅を尽くした装いであることが見るからにわかるので、為時はどうやってこの衣装を工面したのか気になるところではある。このような零細な暮らしぶりのなかでも、娘の晴れの日になけなしの費用をはたいて都合したのだろうか?

白地に素晴らしい紋様が織り出され描かれている豪華な唐衣に、茜色から桜色に移ろう可憐で華やかな襲目の五つ衣、白絹に菱紋の生地の裳には家の名の藤が描かれている……

ため息が出そうなほど美しい晴れ姿。

 

この衣装にこめられた思いを深読みしてみる。

当時は婿取り婚。

幼少のころから長男惟規よりも漢籍に興味を持ってくれた聡明なこの長女つまり惣領姫によい縁で良い結婚をしてくれればいいのだがという、下級貴族ならではの親としての心懸かりが読み取れる。

当時、男性貴族は妻となる家の後ろ盾をたのみに出世していくものであり、また妻としてもよい縁があることで家を盛り立てていくことになるものだが………

ん??????

妻の実家の権勢を後ろ盾に出世していく婿……????

(設定では)為時は兼家に個人的に雇われてるだけで、ここ六年ほど除目でも官位をもらえてない、政治的には傍流中の傍流の家系、経済的にもわずかな使用人とともに今日を食いつなぐので精一杯ですが…????

大丈夫ですか為時さん、、、??????

致命的に観点がずれてませんか・・・?

為時は学者だし出世のためには学問を修めないと!という堅物。

和歌や漢籍の教養、また管弦の楽器の演奏などは貴族の最低マナーとして常備するべきものではあるが、だからといって立身出世の鍵はそこにはない。

摂関政治の流れを握るのは教養ではないのだ。

この、為時がいまいち世の中の流れに乗れず真っ向から逆らっているようすはこの後も克明に描かれることになるだろう。

 

乳母の「亡き北の方様が姫様の晴れ姿をご覧になったらどんなにかお喜びでございましょう」というお祝いの言葉もむなしく、全員視線がどこへともなく泳いでいてこの場の空気全てが空回りするなか、為時と宣孝はいたたまれないかのようにそそくさと別席の酒宴へと消えていくのであった。極めつけに宣孝はそれまでの晴れやかな笑顔から一変して、(母の死に関してとは触れずに)道兼のことを詮索し追及するまひろに対して冷徹に釘をさす。まるで言われんとしていることに対しはっきりと否定するかのように。

男って現実から目をそらすから嫌いなんですよね(ここで唐突な主観)。

 

まひろの教養の素地を育んだ環境

ついでにいえば、為時が本気で姫君のまひろに良縁をつなげたいのであれば、再婚した後妻を通い婚ではなくさっさと屋敷(の北の対)に迎え入れ、姫君に雅なしつけをほどこし教育させる事に余念がないはずだ。貴族の子女の養育には母親の存在は不可欠。

しかし後妻は屋敷には招かれずのまま。

まひろは琴のや琵琶の演奏にいそしんだり、そして美しく書をしたためることなどせず相変わらず漢籍を読み耽っている(それは史実だっただろう)。書、和歌、琴や筝の演奏、これらの教養は当時の婚期の姫君として必須科目であり美人としての評判が立つには不可欠であった。

当時は通い婚だから姫君は屋敷の深窓から出ることはない。そういったうわさがまず求婚を受けるきっかけとなるのだ。

いや?まひろは確かに書はたしなんでいるけど………

まひろの場合は、姫君がつけるべき一般教養としてではなく、姫君にしては賢すぎる(そして周りがもてあまして困る)ほどの知性をそなえていることを示唆していると思われる。

漢字が読める女性は奇特な存在だ。

このことは紫式部アイデンティティの根幹にかかわること。

どう養育されても結局彼女のあくなき探求心の芽をつむことはできなかったのだろうなと思う。

 

何度でも繰り返すが為時は学者肌。その家系は数々の学究の徒を輩出していることで知られており、屋敷には漢籍が山と積まれていて、研究と研鑽に余念がなかった……

※紙について。

紙は紀元100年ごろまでに漢で発明されたと考えられ、日本にも当時伝わってきていて記録は奈良時代の竹簡から進歩してはいたが、かといって貴族のみが扱える贅沢にして貴重な品だったことには変わりない。(正倉院には奈良時代の反故になった戸籍や計帳、正税帳などの公文書の裏に写経することで遺った膨大な紙背文書の史料があるが、再利用してたのも紙が貴重品だったからである。)

また漢籍自体も写本にて伝えられてきた中国から渡来の文化。

紙が貴重であり、また印刷と出版が一般的でなかった時代。

出版は江戸時代には版画と浮世絵という形で町人文化を席捲するが、その時代はまだ遠い。

 

※紙が貴重であり印刷ができなかった時代、知識の流布は写本に頼るつまり手書きで写すしかなかった。そのため古今東西、知識の蓄積は宗教施設(教会や寺など)に偏り、内容は宗教に関わる経典や宗教の学問関連がほとんどであった。そしてその高価な、いや値段などつけられない貴重な知的資産は中央集権化と共に権力者のものとへ集積していく。

近代市民革命によって主権が市民に遷る以前は、こうした知財は権力を誇示するために、その象徴として豪華な図書館に収蔵された。それは一般に広く供覧するためではなくあくまで権力を内外に広く知らしめることが目的であった。

 

こう考えると為時の邸はけっして裕福ではなかったにしても、まひろの知的欲求にじゅうぶん応えるにあまりあるだけの漢籍漢詩が備えられてあり、自由に閲覧できる環境だった。

裕福かどうかはともかく、まひろにとっては子供時代から青春時代は贅沢で幸せな時間をすごしていたといえるだろう。

 

まひろは幸せだった?それはドラマの筋書きとしてはそれぞれ思う所があるようだが。

 

ここで弟の惟規が為時からたたきこまれているところの、史記列伝を見てみよう。

史記(資料:史記 - Wikipedia )

史記』(しき)は、中国前漢武帝の時代に司馬遷によって編纂された歴史書である。二十四史の一つで、正史の第一に数えられる。計52万6千5百字。

史記の編纂は紀伝体による。

 本紀 - 帝王の記録で、主権者の交代を年代順に記したもの。
 表 - 歴史事実を簡略化し、表で示したもの。
 書 - 政治に関する特殊なテーマごとに、記事を整理したもの。
 世家 - 諸侯の記録をその一族ごとに記したもの。
 列伝 - 各分野に活躍した人物の行いを記したもの。

史記には武帝時代、ローマ帝国で言えば共和制ローマ時代までの中国の歴史が神話時代から系統的にまとめられている。中国の文化=東洋史の特徴はこの時代から紙が発明され、また文字も一貫してずっと持っていて、王朝ごとに民族は入り乱れたが甲骨文字の古代時代からずっと、天命が皇帝に下されたゆえに王朝を主宰する思想を頂いて歴史を途絶えることなく伝えていることにある。天命が失われたとき民衆が革命を起こし、次の皇帝が天から命を受けて世を修めるということだ。

 

惟規が間違えておぼえてたのは平原君。

→(平原君 - Wikipedia

為時が講義してたのは孟嘗君

鶏鳴狗盗、いまでも有名な語句ですね。

孟嘗君は名は文、姓は田氏である。リンク:孟嘗君 - Wikipedia

史記孟嘗君列伝より鶏鳴狗盗のあたりを引用】:

靖郭君田嬰者、斉宣王之庶弟也。封於薛。有子曰文。食客数千人。名声聞於諸侯。号為孟嘗君。秦昭王、聞其賢、乃先納質於斉、以求見。至則止、囚欲殺之。孟嘗君使人抵昭王幸姫求解。姫曰、「願得君狐白裘。」蓋孟嘗君、嘗以献昭王、無他裘矣。客有能為狗盗者。入秦蔵中、取裘以献姫。姫為言得釈。即馳去、変姓名、夜半至函谷関。関法、鶏鳴方出客。恐秦王後悔追之。客有能為鶏鳴者。鶏尽鳴。遂発伝。出食頃、追者果至、而不及。孟嘗君、帰怨秦、与韓魏伐之、入函谷関。秦割城以和。

 

【現代語訳】:

靖郭君 田嬰という人は、斉の宣王の異母弟である。薛に領地をもらって領主となった。子どもがいて(その名を)文という。食客は数千人いた。その名声は諸侯に伝わっていた。孟嘗君と呼ばれた。秦の昭王がその賢明さを聞いて、人質を入れて会見を求めた。(昭王は孟嘗君が)到着するとその地にとどめて、捕らえて殺そうとした。

孟嘗君は配下に命じて、昭王の寵愛している姫へ行かせて解放するように頼ませた。寵姫は「孟嘗君の狐白裘(こはくきゅう)がほしい」と言った。実は孟嘗君は狐白裘を昭王に献上していて、狐白裘はなかった。食客の中にこそ泥の上手い者がいた。秦の蔵の中に入って狐白裘を奪って寵姫に献上した。寵姫は(孟嘗君の)ために口ぞえをして釈放された。すぐに逃げ去って、氏名を変えて夜ふけに函谷関(かんこくかん)についた。

関所の法では、鶏が鳴いたら旅人を通すことになっていた。秦王が後で(孟嘗君を釈放したのを)後悔して追いかけてくることを恐れた。食客に鶏の鳴きまねの上手い者がいた。(彼が鶏の鳴きまねをすると)鶏はすべて鳴いた。とうとう旅客を出発させた。出てからまもなく、(孟嘗君が不安に思ってたとおりに)やはり追う者がやってきたが、追いつくことはできなかった。

孟嘗君は帰国すると秦をうらんで、韓・魏とともに秦を攻めて函谷関の内側に入った。秦は町を割譲して和平を結んだ。

(画像引用:戦国七雄 - Wikipedia )

 

史記列伝の部から、為時が講義してる孟嘗君列伝の原文と現代語訳を引用しておいた。

孟嘗君とは戦国四君の一人(戦国四君 - Wikipedia)であり、彼らはいずれも紀元前の春秋戦国時代、群雄割拠する中互いに国を背負って戦った宰領だ。史記のそれらの列伝にある有名な故事から、「鶏鳴狗盗」を伝授しようとするも惟規は「……ヘイゲンクン?」とのたまい、さわやかに「わからないのは仕方ありませぬ」と宣言する。さっぱり頭に入らないらしい。

一般市民としては非常に共感する場面である。

そこで部屋の脇の片隅でボソッと「……孟嘗君」とつぶやく姉君のまひろ。

惟規は転がりまわって

「あーねーうーえ~~~!さっきの答えなに~~?」

「モウショウクン~~?はあ~~~知らねぇ~~」

とわめく。

ものすごく親近感が湧くぞ、惟規。

父上が「大学に入らねば出世できんのだ!」といきまいているところが、すでに上流貴族ではない(ほんとうの貴族は勉強なんかしなくても元服時点ですでにエリート)。なので仕方ないが惟規も普通に一般的には優秀だったのでは?英才教育をほどこされてるのですし。

長男への、為時がかける期待があまりにも高すぎるだけなのでは?

孟嘗君列伝を明日までに一日で暗記とか無理ゲーである。ほんとに。手元にある岩波文庫の現代語訳にして15ページ分。無理である。惟規がかわいそうでしょ。

 

 

まひろの代筆

さてまひろは、猿楽のおこなわれていた市場で絵師の店に潜入し、ひそかに(男性にふんして?)和歌を代筆しているようだ。

 

これについてはNHKから、書かれていた歌が公開されていたようなので引用する。

この2首はスタッフの方の創作による和歌らしい。

最初の歌:

ちりゆきて またくる春はながけれど いとしき君に そわばまたなん

 

2番目の歌、これが内容を確認されてから突き返されたという問題の歌。
いまやはや 風にちりかふ 櫻花 たたずむ袖の ぬれもこそすれ

理由は単にまひろのリサーチ不足だ。ラブレター代わりに書くのだからそれなりにリアリティを持たせないとバレるのは必至だと思う。歌の出来がよければウケるわけではない。……当たり前かも。

 

最後に出てくる歌、これも受け入れられなかったようではあるが、この歌には出典がある。源氏物語第4帖「夕顔」で詠まれている光源氏の歌である。

たぶん、のちの伏線としてここで登場したのかもしれない。

寄りてこそ それかとも見め たそかれに ほのぼの見つる 花の夕顔
(現代語訳)近くによってはっきり御覧になったらどうですか。黄昏時にぼんやり見えた夕顔の花を

 

というわけで後に源氏物語の執筆の場面になったとき、この夕顔の歌を覚えておくと何かストーリーに絡みがあるはず。たぶん。

 

【引用サイト】


依頼してくる人によって貴族は料紙を持参するが、身分の低いものは貴重品であるご料紙を手に入れられず、木簡や土器片を文の代わりに用いている。

この点からも、漢籍の蔵書を豊富に所有する為時は、経済力はなくても身分は低くても、知識人階級なのだなということがなんとなく察せられる。

 

また、この男女間の文のやり取りは相聞つまりラブレターであり、男女が直接会うことのない身分において文は最初に男性から女性にアタック(死語)するきっかけになる大事な手段であった。(紙であれば)使ってるご料紙が何か、また文の筆跡は麗しい字か、和歌の出来はどうか、全てが相手の器量を判断する重要なファクターだった。

相聞歌を贈って来た相手に思いを馳せる。しかし女性はここですんなりと返す歌でOKしてはいけないという謎のルールがある。簡単になびいては、遊んでるはしたない女だと思われるため、女性側からは少し気を持たせつつ考えているような歌を返しながら何度かやりとりをして男性の熱意を試すのが通例だった。

 

これに対し源氏物語では、男性側からの恋愛観というか女性観が語られる場面もある。それもまたこうした男女間の相聞のやりとりにおける様々な意見が出されるがそれはドラマの中で取り上げられることはあるのだろうか。

 

さてまひろのお忍びでの代筆業は小遊三師匠ふんする絵師に、和歌を詠んだ料金を場所代?として上納している。

つまり収入目的でなくてまひろの目的はあくまで歌が詠めればそれでよかったようだ。

しかし乳母の密告から為時に簡単にバレてしまう。そらそうでしょ、いつかはバレますよ。乳母も大切に育てて来た姫君があんな場末の市場にでかけていって相聞歌の代筆業とか、露見したら「あばずれ女」って言われるかもしれないと思うといたたまれなかったんだと思うんですが。責めないでやってください乳母を。

 

・まず

  袴も履かず

  牛車にも乗らず

  扇で隠さずに顔をさらして

  袿をひっかけて

外出してる時点ではしたないおてんば娘の所業であり、露見すれば嫁の貰い手はない。

 

・市場などという使用人の身分の者が出入りする庶民の場へ出かけているのがさらにはしたない。

 

・やっていることが他人の歌の代筆。家庭内で代わりに文や和歌をしたためることはあっても見ず知らずの者に詠むとかいうことは、貴族の未婚の子女のすることではない。これも露見すればまず家の名を汚す。祐筆という家庭内では筆跡のうつくしい使用人が主人の文をかわりに書くことはあるが、他人の恋の歌を詠むとか、スキャンダルでしかない。

 

 ↓↓↓↓

ここでちょい疑問に思ったのですが。

市場にフラッと出かけるのがはしたないなら、小遊三師匠ふんする市場の絵師を介して、まひろが自分の従者か乳母にわいろでも掴ませて連絡係になってもらい、依頼者からの文のやり取りとして和歌を代筆すれば、こんなにあからさまにばれなかったし見張りも立てられることなくこっそりと謎の(女流)歌人として活躍できたかもしれないのにね?もうちょっとうまく立ち回れたはずだと思いますが。

まひろはなんであんなに弾丸のように度々市場に出かけて行ったのでしょう。もう子供の時とは違うのですけど。

 

ここで朴訥で温厚な学者肌であったはずの為時から雷の一撃が落ちた。初回の、兼家邸で時姫が道兼に放った「お黙りなさい!」の叱責かっていうくらいのすさまじい迫力。為時さん、黙って本読んで講義してるだけではなかったんだな。春宮様への漢文指南のときは何言われようが片時も動じなかったのに。(それは仕事だったからですね)

為時としては書くのは書くでも写本ならよいらしい。

それが当時一般社会の通常の認識だ。

古典を書写することが当時の教養を身につけるということだったので。(いいえ貴族の子女の教養はそっちだけじゃないが、為時が指導するとこういう男性向け教養になってしまうだけだ)

 

でもまひろは教養をつけ自我を獲得した当時には珍しい自立心のある女性なのでそういう頭ごなしの𠮟責は逆効果でしょうね……

物語の上で母の死が父親との確執に陰を落としている。

身の回りの誰もが口をつむぐ六年前のできごとなどまひろには到底納得できない。

一方的に頭ごなしに指示してくる父となんか意思疎通できるはずもない。

自分の気持ちなんか誰も分かってくれない。

なぜ和歌を詠んじゃいけないのか、色んな人の気持ちになって……(ええだから従者を通じて文でやりとりする代筆ならいいんじゃないかとあれほど(´・ω・`)

まひろはこのときおよそ15歳。

反抗期か???

 

何にしてもこの時期すでに何らかの形で文学的素養の芽生え、文豪としての片鱗をみせつけていたと考える。そういうエピソードだったのかな。

 

兼家と道兼

冒頭の裳着の式のあと、親戚()の藤原宣孝と最近の身辺の様子を語る為時。

兼家が世話した(ことにドラマではなってる)師貞親王、のちの花山天皇への漢文指南役はうまく続いているようだ。藤原宣孝親王が即位した折には為時の衣冠も昇進がかなうことだろうと目論むが、まあこのストーリーが物語前半の山場のひとつでしょう、遠からず訪れる山場。

親王が為時の漢文指導を理解してるのかどうかは、物語の流れには一番どうでもいい。

為時からの報告を聞いて、兼家は師貞親王にというより円融天皇に見切りをつけたようだ。自分の娘詮子に孫の皇子である懐仁親王ができたので、そっちをすぐに即位させたい方向にシフトしたらしい。大筋は史実だろう。事実、ここで実際に汚れ仕事に手を下す、陰で暗躍する役に道兼が兼家からじきじきに任命されている。

道兼にとっては因果応報、単に自業自得であり別に同情はしない。

兼家はこのドラマでいう黒幕、悪役ポジションとして描かれている。段田安則さん、為時役の岸谷五朗さんと並んで好きなんだが、眉ひとつ動かさずにサラッとひどいことを言う、冷酷な役に徹するあたりがプロである。言ってることがひどいって全く思ってないキャラづくり。衣装も黒地に金の紋様で渋いというかラスボスぽいなあ……

そういえばタイトルロールで兼家のところだけ一瞬、華やかな色彩が黒一色の墨を流したような不穏な画面に変わるんですよね、それはそういう黒幕の役どころだからですかね。これから以降、もっとひどい展開になるのでまあ仕方ないですね。

ヒントは、この時代の歴史書大鏡あたりか。いずれ遠くないところで道兼さんの真の役回りは明らかになるでしょう。

 

 

宮中の日常風景

その①藤原実資

公式サイトから解説が出ていたのでリンクを貼っておく。

宮中の紫宸殿、帝の御前での公卿の審議に陪席している貴族の中に一人だけ、あざやかな緑色をした縫腋の袍をまとう、体格のいい人物がいる。いやに日焼けしてるけど当時の貴族は(文官ならなおさら)ほとんど屋外に出ない筈、なぜ?

このひとは実在の人という設定で、宮中のできごとを小右記という日記にまとめている、蔵人頭(くろうどのとう)藤原実資という人物だ。

(関連資料:小右記 - Wikipedia )

と思ったら縫腋の袍は緑ではなく青だったという意味らしく、帝から信任厚い人物で特別に着用を許可された衣装ということだ。またその紋様は帝の衣装に使われる特別なものらしく、彼の特権的な立場がこの点からもうかがわれる。

蔵人頭という官職自体は源氏物語にも頻出(いわゆる光源氏のライバル頭の中将)するが実際の役職や内裏での職場が公式サイトに図解で示されているのでわかりやすい。

(以上、公式サイトの解説より引用)


ちなみに藤原実資の衣装に今回実際に使われている桐竹鳳凰麒麟という紋様を拡大してみるとこんな感じである。原則、天皇しか使えなかった紋様。

画像引用:桐竹鳳凰 | 日本服飾史

 

その②藤原道長

11歳の第一回放送から6年後のため17歳の設定の道長であるが、元服してまず就いた位が右兵衛権佐(うひょうえごんのすけ)、従五位下である。

(公式サイトを参照のこと)


まひろの父為時が任官を願い出ていた(が除目では指名されなかった)式部省の小丞は従六位なので、元服の時点で道長がすでに官位が上だ。家柄が出世を左右する上流貴族ではこのように厳然とした格差があった。

(だから息子を大学に行かせて出世を目指すとかいっている為時はだいぶ的外れであるが、下級貴族にはそれしか道がなかったともいう)

 

武官としてエリート街道を順調に走り出した道長、衣装を身につけた姿も凛々しく……はない気がする。彼はいつも癒し系らしい、今のところは。大内裏右兵衛府か、朝堂院か、朝廷に出仕し武官として訓練に励んではいるようだが雰囲気がふんわりしている、癒し系の存在。

このロケは第1回の陰陽寮に続いて、平安神宮で行ったと思われる。蒼龍楼・白虎楼あたりで撮影されたらしい。当時の記録をもとに再建された朱塗りの宮廷建築が、貴族の衣装に鮮やかに映える。

温厚な兼家の嫡男、道隆が衣冠束帯姿で部下を率いて粛々と職務にいそしんでいるさま、道兼もそつなく仕事をこなし、……

この場面の道長と姉の梅壺の女御様、詮子との会話がこの第二回での唯一の休憩ポイントである。ほかの場面がいくらなんでも殺伐としすぎである。ここでくらい現代語のタメ口で話してくれたほうが肩の力が抜けてちょうどいい。ストーリーの緩急のつけかたが秀逸。この直前の兼家と詮子との会話が血も涙もないだけに余計、癒し系の空気がきわだつ。

道長と詮子が恋の談義を繰り広げているが実際は後宮の駆け引きはこんな個人の感情では動かないはず。公卿の誰が娘を入内させ(その姫の母の実家の権勢も関係する)、どの女御様が先に皇子を産むか、それが政治の時流を一気に決定づけるからだ。誰が先に産むかが問題だ。一寸の時をも争うのだ。

現に為時が漢文指南をしていた師貞親王は生まれてすぐに立太子つまり春宮になっている。それは外戚つまり母の実家の藤原伊尹の権勢がものをいったからだ。彼が奇行を繰り返していたことはこの政治の流れには何ら関係はない。

ーーーしかし。彼が花山天皇として即位したときには外戚伊尹はすでに亡くなっていた。それが何を意味するかはもうすぐドラマの中で語られることだろう。

 

さて詮子はこれ以降、梅壺の女御様という肩書をつけて呼ぶ。梅壺とは後宮の殿舎のひとつ。女御とは妃の位をあらわす。(下位から順に更衣、女御、中宮、皇后となり、実際の最高位は中宮である。しかし実際には関白頼忠の娘、藤原遵子(のぶこ)が皇子を産まずに中宮となっている)

ほかの登場人物も皆当時はこのような肩書で呼ばれていたはず、藤原実資は頭の中将さまというふうに。なぜかみんな名前呼びなのは、初回から大人数が初登場なので混乱しないようにという意味だろう。そのうち登場人物が固定してきたら右大臣さま(兼家)とか左大臣さま(帝の御前で兼家の右側に伺候していた源雅信)とか、肩書で呼ぶようになりませんかね、ならないでしょうねこれからも初登場の人多すぎるから。

 

 

市と散楽

さてまひろが代筆の場としてもぐりこんでいた、小遊三師匠ふんする絵師が店を構える町の小路、そしてそのチマタに立つ市。

この市にならぶ店にはそれぞれに幟(のぼり)がかかげられている。店の構えは板葺きに石を載せただけの簡素な小屋が多いけれども。この幟、市女笠だったり、色とりどりの絹の房だったり、反物が翻っていたり……それぞれの店の実際の商品だ。ほかにも店はあったはずだけどテレビの解像度的に確認できなかった。

庶民は看板に店名を掲げられても文字が読めないから、このように商売道具のサンプルを掲げて看板とするのが常だった。サンプルが小さすぎる場合は手描きで大きく幟にして掲げたり。というところが丁寧に再現されていて、よく背景を作りこんでるなーと思った。

 

道行く人は貴族の家から使いに出て来たのであろう下男や下女らしきものが籠をかかえて行き交い、牛や鶏など家畜を売買に来た人もおり、またつづらを担いだ行商人みたいな人は郷里から都までまたは近郊から商売に出て来たのだろうか。

都の街角はそのような喧騒に包まれてにぎやかだ。

果てはこの場に不相応な絹の衣装をまとった公達(きんだち)(=貴族)がこっそりとお忍び?で店先にいたり……その店先がまひろが潜む絵師の店だろうか。その公達は恋の歌の代筆を依頼しにきた客だろうか?(そんな身分の者は自分で出向かず従者を差し向ける者だと思うけど)

 

また、散楽の見世物の背景には豪奢なしつらえの、身分卑しからぬ高貴な人が乗って来たのであろう牛車が停められているのが見える。

誰だ???

制作チームはこの散楽をワイドショーと割り切って楽しく使ってるふしがある。庶民は前述のとおり識字率は非常に低かったので、というか文字も当時は中国からの漢文文化をコピーしたものしか流布してなかった世の中、こうした時事問題をお題にした見世物は庶民の誰もが楽しめる唯一の娯楽だったといっても過言ではない。

じゃあなんで中国では漢字、漢文がそんなに普及してたのか。それは隋の時代以降制度として定着した科挙の影響が大きいです。四書五経の暗記というやつです。それにより儒教思想の固定化を招き、春秋戦国時代より隆盛をきわめ諸子百家ともうたわれた、自由な哲学的思想は抑圧されて陰を潜めてしまうわけですが。

でも庶民に共通して認識された自前の文字文化というのは自らの文化圏を強固なものにするツールとして自律的な役割を果たす。

 

で、そんな自前の文化を持たない東アジアの島国であるこの国では、庶民に直接訴える娯楽はこういった見世物だったわけで。

今回の散楽は出産を模している……どうやら外戚の横行とお妃の入内、春宮の地位を巡る争いを描いてるらしい。ただ庶民向けのワイドショー代わりだから知性も優雅さも何も感じられないけど。

この寸劇とリンクして兼家の娘詮子の苦悩が描かれる。散楽で天皇への貴族の子女の入内を揶揄するのはわかる。民衆にひろく知られてる話題だからですね。しかし物語のなかで、詮子がお妃として群を抜いてエリート街道を進むというか誰の追随も許さない今後の展開を思うに、ドラマとして実はそんなわけもなくというエピソードを付加したいのかもしれない。実際に今回兼家が提案したことはフィクションではない。そんなことを眉ひとつ動かさずサラーっと、しかも今となっては女御様の御殿で大勢女官たちが控えるであろう中、誰憚らず口にする兼家の大胆さには驚嘆するほかない。

この辺は史実として記録に残ってることであるので、今後絶対近いうちに物語に絡んでくるのでどういう描かれ方をするのか楽しみに待ちたい。

 

そして散楽を見物に来た水干姿の道長元服して間もない、官位もスタートしたばかりの貴族の子弟はというか男の子はこういう普段着で市中に出ることもあるあるパターンだ。

まひろがおてんばすぎるだけなのだ。

というわけでここで再会するくだりは全部、歴史上はフィクションなわけですが。

史実では、宮中に出仕するまで道長紫式部は出会ったこと無いはずです。

この場面は庶民の暮らしがよくわかる一場面としてとらえておきます。

 

 

かびくさい為時の衣装から考える、貴族のみだしなみ

第一回放送の後半で、兼家の仲介で春宮様に漢文指南に上がることになった為時はひさしぶりに宮中に出仕するため、縫腋の袍を身につけていた。

そこで妻のちやはが「衣装に香は焚いたのですが……ひさしぶりに出すと、かびの匂いがどうしても取れなくて……」と困っていた場面がある。

ここでまひろが身も蓋もなく「それは雨漏りのせいです!」と叫ぶがちやはにたしなめられている。(父上の面目を立ててあげて、まひろお願いだから)

 

ここでいう香に通ずることも、和歌や書を嗜み漢籍に通ずること、管弦の楽器を奏でることと並んで、貴族の教養のひとつ、大切な身だしなみであった。

めったにお風呂に入れなかったからというのもあるが、貴族は絹の衣装に香をたきしめるのがマナーだった。このへんは近世のヨーロッパの貴族が香水をふりかけたのと用途としては同じだ。

正倉院には奈良時代の銀の香炉が伝世品として遺されている。

※参照画像リンク:正倉院 - 正倉院

 

どのような薫りだったのか、実際に画面からは伝わってはこないけど、高貴な人の衣装には必ず香が焚かれていたことを想像しながら、それぞれの場面を見てみるといいかもしれない。

個人的な嗜好とか身分による違いも、衣装の紋様や襲の色目と共にその人自身を表すコンテンツとして全体をコーディネートする要素と認識すると、物語もまた違った色彩を伴って目の前に拡がることだろう。

 

以下、ネタとして。

香といえば数ある中でも最高のものは沈香だった。東南アジアにのみ産出する、樹脂が沈着した香木のことで、当時すでに南海からなんらかのルートで輸入されていたと考えられる。

しかし貴重なものに変わりなく、その高貴な薫りもあいまって貴族の垂涎の的であった。正倉院にはこの沈香の巨大な香木が納められていて、歴代の権力者が少しずつ切り取った跡が残っている。

去年正倉院展に合わせて、この沈香の香木がヌイグルミになってコラボグッズとして発売されていたので載せておく。

余りにも有名なこの香木には蘭奢待という雅号がついており、その漢字の中にそれぞれ隠し文字として東大寺の字が隠されていることでも知られる。

そのくらい沈香を焚くということは貴族にとって一種のステータスシンボルでもあったといえるだろう。