歴史と本マニアのための部屋

歴史、政治、本、あと吹奏楽関連のつぶやきです

シルクロードー後編:正倉院展

 

★★この記事は日本史はさっぱり分からない人の想像です。

★★単なる個人的な想像であり、根拠となる説や論文はとくにありません。

★★なんとなくで読んでください。

 

この記事は2022/10/29、正倉院展を見に行った感想です。

前編として、午前中に法隆寺を見に行った感想を書いたのでそっちを読んでからこの正倉院の感想を読むことをお勧めします。前後編で補完し合ってますので。

 

 

目次:クリックで各項目へ飛べます

 

 

 

東大寺周辺

午前中に法隆寺、午後に正倉院展と駆け足で観光したので、奈良公園とか東大寺周辺は回る元気がなく、合間にゆっくり喫茶店でお茶を飲んでおりました。というか東大寺には入らず帰ってきました。すいません。

申し訳ありませんが、コロナ流行前の2019年に正倉院展に行った時の東大寺の写真でお茶を濁しておきます。

 

この門は転害門(てがいもん)といって、三月堂(=法華堂)と共に東大寺に残る数少ない奈良時代の遺構。なぜなら12世紀の南都焼き討ちで、興福寺などと共に、東大寺の古くからの伽藍は大部分が焼失したからだ。

転害門は東大寺の敷地の西側に伸びる佐保路に面して建つ。8本の柱が支える堂々とした構えは、見る者に天平時代のおおらかな雰囲気を伝えてくれる。

 

大仏殿も撮ってみた。しかし大仏殿周辺の敷地には入らないという偏屈者なオタク。

だって大仏殿と大仏は後世の再建でしょ?

しかし昭和になって、大仏殿の台座から

「陽寶釼(陽宝剣 よう(の)ほうけん)」

「陰寶釼(陰宝剣 いん(の)ほうけん)」

が発見され、正倉院宝物の目録にはあるものの出庫の付箋がつけられたまま行方不明だったものだったとわかるなど、ドラマの舞台として話題には事欠かない場所である。(ニュース記事:東大寺大仏の足元の剣、正倉院の宝物と判明 )

 

あの時(2019年)は、紅葉がきれいでした。

 

 

 

正倉院とは

今回のお目当ては正倉院展だ。

(というか自分が奈良に行く目的は大体が正倉院メインだ。)

 

若草山のふもとに広がる広大な敷地に、東大寺興福寺春日大社などの大寺院や神社が甍を連ねる奈良公園

ご神獣とされる鹿がそこかしこでのどかに草を食む。無邪気にじゃれあう子鹿、切り落とされた角で闘っている(?)雄鹿。

その敷地の一角に静かにたたずむ奈良国立博物館

正倉院展は、国立博物館の新館で毎年2週間だけ10月下旬から開催されている。今年はコロナウイルスの影響で時間指定制になっていたせいか、いつも入場するときに長蛇の列に並んでいた行列が、三分の一くらいの長さになっていた。

渋滞とか行列は大っ嫌いな自分だが、ここだけは観念していつも並ぶ。並んででも入ってみたい博物館は正倉院展だけである。

 

惜しむらくは、単眼鏡を買い忘れていたことだ。宝物の精緻な文様をくまなく観察しようとすると、拡大して見れるグッズは必要不可欠。ほかの博物館でも言えるかもしれないけど。また今度Amazonで探してみようっと。

ちなみに、観覧しやすいように毎年工夫を凝らしてくれていて、3~5メートル四方はあろうかという巨大な紙?に宝物の写真が印刷されたものがあちこちの壁に大きく貼りだされ、ほんの指先程度の大きさしかない宝物も詳細な文様や色彩がはっきりわかるようになっていた。単眼鏡を忘れた自分みたいな人にもよくわかる、親切な仕様。

 

しかしなんで自分は毎年これだけのために奈良に行ってるのか(コロナ流行の間を除いて)。

国宝級の宝物なら、他の国立博物館宮内庁図書寮などの収蔵品、あと徳川美術館源氏物語絵巻とか、色々ある。

それらと正倉院宝物の違いは何なのか。

 

 

正倉院って、そもそも何なの?

というわけで基本的な事を書いておく。

知ってる人はスルーしてください。

正倉院というワード自体はかつては一般名詞であった。寺院や官庁に建てられた倉庫を正倉、それらがある一廓を正倉院と呼んでいたが、現存する正倉は東大寺のもののみとなり、ここにおさめられた文物を特に正倉院宝物と呼ぶようになったらしい。

 

唐招提寺に残る宝蔵と経蔵。奈良時代から残る校倉造の数少ない遺構のひとつ。

 

 

では東大寺正倉院宝物とは?

ざっくり言えば、奈良時代756年、聖武天皇77日忌の法要に際して、光明皇后が遺品を東大寺へ奉納したのが始まりということになっている。大筋は合っているだろう。

 

収蔵品はそのほかにも、来歴でいえば

東大寺大仏の開眼会に使われた品々

東大寺で普段から実際に使われていたもの

・あとの時代になってから追納されたもの

・その他来歴が分からないもの

と多種多様に分類することができる。

また、用途、材質、産地などと分類していけば収拾がつかなくなるほど宝物の性質はさまざまである。

 

江戸時代までは朝廷管轄のもとに東大寺が管理してきたが、現在は宮内庁所属の正倉院事務所の所管になっている。(公式サイト:正倉院 - 正倉院 )

(画像リンク:正倉院 - Wikipedia )

 

 

正倉院宝物の特徴とはなんだろうか。

・最初の奉納の際に東大寺献物帳という目録があり、また歴史書に記載があったりして宝物の由来がはっきりしているところ。収蔵品のプロフィールがこれほどの規模で公的に証明されている宝物群は他に類を見ない。

・また、奈良~平安時代のものでありながら、同時代のものには遺跡からの出土品が多い中、一貫して宝庫で厳重に保管された伝世品であり、非常に状態が良いこと。

・宝物の数は同種のものもカウントに入れると9000点を超えるが、このような来歴のものがそのスケールでまとまった形で保存されていることで、文化的にも歴史的にも重要な意味をもつ。

また正倉院文書の存在もこの宝物群を特徴づけている。

 

 

毎年この展覧会は非常に混雑するが、それは会期が非常に短いからだ。それは秋の宝物の点検、研究と曝涼にあわせて出展しているからであり、あくまで公開期間は宝物の管理保全過程の一環に過ぎない。

そもそも、織物や漆器、ガラスや工芸品など繊細な宝物が長い年月の保管に耐えたのは、高床式の建築物に勅封という厳重な管理体制のもと、辛櫃にきちんとおさめられ日光や外気、湿気の影響を受けにくい状態で保管されていたからだ。いまは空調設備のついた建物に移されているといっても、展示室で照明に当たると褪色や劣化の原因にもつながる。

博物館や美術館の収蔵品の、一般公開と保管という命題はずっと相容れないテーマだ。

 

宝物の劣化や紛失というリスクを冒しながら。

また文化財の調査・研究と並行して。

美術館・博物館が広く一般社会に向けて、平易な解説を加えて系統的に宝物を公開してくれる機会というのはありがたいチャンスなのだ。生涯学習とはよく聞くワードだが、こういったそれぞれの道の専門家が専門的な題材を用いて実際に解説してくれるという機会を逃す手はない。

正倉院の所蔵する宝物の数に対して、一年に1回の公開なのに展示数が少なすぎるという声を聞くが、それぞれの宝物、一つの文様取っても本が1冊書けるくらいなのに、自分としては宝物の展示数は今のでも多すぎるくらいである。解釈が追いつかない。

 

最近デジタル化が進み、博物館で毎年買える図録以外にも、出展される宝物は公式サイトで解説とともに主なものの画像が公開され、また図録は民間の出版社から抄録という形で出版されている。(また収蔵品は全て正倉院公式サイトに解説が載り、文化庁のサイトでも国宝については解説と写真が見れる。)

そういったかたちでも楽しめるのだが、前編でも述べた通り、現地に行って現物を見るという体験はこれ以上ない感動を与えてくれる。時間と交通費を割いてでも、本物の存在に触れるということには価値があると考える。

 

目の前で見る宝物は、画面越しで見るよりもよりいっそう質感、色彩、感触が感じられる。

刻まれ織り込まれた文様は、まるで呼吸し生きているかのような躍動感に満ちている。

 

 

 

中華世界と、唐の国際性

前編で獅子狩文、つまり狩猟文の伝来についてちょっと書いた。その背景について述べておく。

中華の世界観

日本を含む東アジアは、清の時代つまり1911年の辛亥革命までは中華帝国を中心とした世界だった。天命を受けた皇帝が世界を支配するとされ、今の北京郊外には、実際に皇帝が祭祀を行った場所:天壇が残る。つまり周囲には臣下となる契約を結んだ国家=朝貢国が並び、その範囲の外は蛮族の住む地と認識されていた。これを冊封体制という。

周辺民族の呼び方は蔑称で「狄」「夷」「戎」「蛮」などと呼ばれた。

 

※周辺異民族の例:どこまでが朝貢国でどこからが夷狄かは時代により諸説ある。

北狄ーー匈奴鮮卑突厥柔然など、万里の長城以北の遊牧騎馬民族を指す。北魏、元、金、清など、強大な軍事力を背景として中華帝国を支配する国もあった。

東夷ーー朝鮮半島高句麗百済新羅加羅、倭など

南蛮ーー南越(広州)、南詔(雲南省)、扶南(タイ)、林邑(ベトナム)、真臘(カンボジア)

西戎ーー氐(四川省の山岳地帯)、羌(青海省)、月氏(後に中央アジアへ移動)、吐谷渾

化外の地ーー長安以西、または敦煌以西の、主にタクラマカン砂漠周辺の都市国家

画像引用:中華思従 - Wikipedia

 

※周辺諸民族の例:紀元前、前漢時代の冊封体制

画像引用:冊封 - Wikipedia

 

中華圏(東アジア)の物流と文化

このように、中華世界は元来朝貢品を納められる側であり、また時代が下って唐以降は長江以南も蛮族の地ではなくなって、広大且つ多様な国土を背景に、基本的に自給自足できる経済体制を持っていた。つまり、中華世界では文化的にも世界最高水準を持っていて、かつ輸入に頼らなくてい良かったのだ。その交易は主として周辺民族との朝貢品のやり取りによる朝貢貿易がメインだった。

このことからシルクロードにおいては中国は独自の製法を持っていた絹を売ればよく、貿易は圧倒的に黒字だったと思われる。

ただ北方遊牧騎馬民族は常に軍事的脅威であり、万里の長城をはじめとする軍事費は常に国家財政を圧迫した。朝貢貿易というより中国が弱体化したときは侵入され、莫大な保証金代わりの金や絹織物と引き換えに和平を得たりした

それを除けば中華圏の周辺諸民族は、朝貢と引き換えにした民間レベルの交易により絹以外にもさまざまな文化的恩恵を享受した。字(漢字)と紙、貨幣経済(銅銭)、鉄や銅等の金属や織物など美術工芸技術、稲作や灌漑など農耕技術、政治や法律制度、仏教や道教などの宗教、例を挙げればきりがない。

 

 

交易の担い手としての胡人とオアシス都市国家

また西方のタクラマカン砂漠以西の諸国家、そして北方遊牧騎馬民族の諸国家は中間貿易により空前の利益を上げるのである。今でいう商社の役割というか、末端の需要・利用者へ届ける過程で仲介業者の役割を果たし、そして運送業としても機能した。末端の購入者は古くは東ローマ帝国ビザンツ帝国、そして地中海を経てヨーロッパ世界へつながっていたのだ。

 

例:代表的な仲介業者的民族といえば、ソグド人がいる。( ソグド人 - Wikipedia )

下の地図のイランの上あたりのサマルカンドが彼らの本拠地ソグディアナ。パミール高原から流れ出すシルダリヤ川とアムダリヤ川に挟まれたこの地は古くから交易路の要として隊商が行き交い、また幾多の国家が興亡したまさに文明の十字路、のちにイスラム国家が支配するに及んでサマルカンドは「世界の中心」とも呼ばれた。

(地図は拡大できます、PCはクリックしてください)

 

ソグド人は高い鼻と彫りの深い顔貌を持ったペルシア系民族で、特に中国では胡人と呼ばれた。彼らは隊商を組んでインド、バビロニア、アラビア、ペルシアなどから東は中国まで往来して広く交易に従事した。中国では、それらの胡人がもたらすものには全て胡の字がつけられた。胡桃(くるみ)、胡瓜(キュウリ)、胡麻(ゴマ)、胡椒(コショウ)など。また中国に帰化したものも多く、唐の玄宗皇帝時代に反乱を起こした安禄山はソグド人と突厥人の混血である。

 

シルクロードの隊商路を通した中継貿易は莫大な利益を生み、砂漠と南はヒマラヤとパミール高原に挟まれた狭隘なオアシスルートには古来から都市国家が興亡した。また、北の遊牧騎馬民族からの侵略に絶えずさらされた地域でもあった。

それらの地帯は唐以降の時代にトルコ系民族テュルク族が進出したことからトルキスタンと呼ばれる。オアシス国家が興亡した東トルキスタンの概観を貼っておく。

 

 

5世紀にオアシスの道からインドへ渡った僧・法顕の「仏国記」はこう語る。

沙河中多有惡鬼熱風。遇則皆死無一全者。上無飛鳥下無走獸。遍望極目欲求度處則莫
知所擬。唯以死人枯骨爲幖幟耳。

 

沙河中に悪鬼多くあり。

熱風に遭えばすなわち皆死して一つとして全き者無し。

上に飛ぶ鳥無く下に走獣無し。

遍望極目、度るところを求めんと欲して、則ち擬する所を知るなし。

唯死人の枯骨を以て幖幟となすのみ。

北宋本「法顕伝・宋雲行記」長澤和俊訳注 東洋文庫194 より)

 

この沙河とは敦煌から楼蘭王国間の白竜堆を指す。( 白竜堆砂漠とは - コトバンク ) 強烈な風に浸食されたヤルダン地形とよばれる砂漠が広がり、まさに、当時は見渡す限り人影も目指すべき道しるべもなかっただろう。

画像引用:敦煌ヤルダン国家地質公園 - Wikipedia

(位置参照:敦煌雅丹国家地質公園  https://goo.gl/maps/MibhLAD4z5S9X7Co7 ) 

 

陸のシルクロードタクラマカン砂漠で南北に分かれ、また天山山脈の北に広がる遊牧民の国を行く草原の道もあったが、いずれにしても長安から敦煌まで点在するオアシス都市を過ぎたあとは、その後は「生きては帰れない」という意味のタクラマカン砂漠が茫漠と広がるのみだった。

砂漠に点在するオアシス都市の間を、盗賊や戦乱の危険に脅かされながら水や食料、そして交易品を満載して隊商が行き交った光景は、遠い歴史の砂の中に今も埋もれたままである。

画像引用:タクラマカン砂漠 - Wikipedia

 

正倉院にのこる宝物群は、時代が降るものもあるが、奈良時代のものに関しては多くが西方の彼方から、西域のオアシスを経て遥々招来されてきた背景を持つ。

 

では具体的に、どういったものが伝来されて正倉院に遺されているのか考えてみよう。

※正確にいうと草原の道、そして海のシルクロードはオアシスの道とは歴史、交易品を異にする。ここでは主にオアシスの道にそって触れていくことにする。

 

 

文様の伝来ーー唐草文様

たとえば。法隆寺の瓦には、丸瓦の間の横長いほうに唐草文様が見える。白鳳時代のおおらかで古風な文様。

さらに、時代が古い若草伽藍の瓦の破片も法隆寺には展示されていて、文様を見ればその文物の来歴、時代がおおよそ比定できるという意味で文様の解析は重要だ。

 

 

 

東大寺三月堂の瓦。たぶん天平時代かもっと後かも。

 

 

 

唐草文様はツタ、スイカズラ(忍冬文)、パルメット(ナツメヤシ)などの文様を組み合わせた文様で特定の植物を指すわけではない。

さらに花鳥文、鳥獣や海獣文を配したり、下記の文様に見られるような唐花文と組み合わされたりした。

 

 

たとえば今年出展の漆背金銀平脱八角鏡。

技法は文様をかたどった金銀板を置きその上に漆塗りした後、文様の形に漆を剥ぐという凝った造りである。周囲に鳳凰などを配しながら、優雅に唐草文が散らされている。

 

ほかにも正倉院にある鏡の装飾は端正華麗で見事なものが多い。

 

この鏡は背に銀を貼り花鳥文が入った宝相華唐草が彫り込まれ、地紋は魚々子文様という粟粒をまいたような点描で埋め尽くされている。

この鏡の周囲には下記のような五言律詩が刻まれていて、その内容から、また鏡の装飾技術からも唐製ではないかと言われている。

 隻影嗟為客  隻影客たるを嗟(なげ)き
 孤鳴復幾春  孤鳴復(また)幾春ぞ
 初成照瞻鏡  初(は)じめて照瞻の鏡を成し
 遙憶晝眉人  遙かに晝眉(がび)の人を憶う
 舞鳳歸林近  舞鳳は歸林近く
 盤龍渡海新  盤龍は渡海新たなり
 緘封待還日  緘封して還日を待ち
 披拂鑒情親  披拂して情親を鑒(うつしみ)ん

【大意:長く異郷の客となり、額を奏でても孤独なまま幾年が過ぎたことか。初めて鏡を作り、故郷の佳人を遥かに思う。鳳凰は近しい林に帰りゆき、龍は今や海を渡る。鏡を封じて私も帰る日を待ち、再会の日には開いて二人の思いを映しだそう。】

 

 

歴史を振り返ると、鏡は古代中国で作られたものが早く漢時代には日本に伝わっていた。

例えば宗像神社の沖津宮、京都は天橋立のたもとの籠神社には、それぞれに宗像氏、海部氏が伝世してきた漢鏡が残っている。

沖ノ島の奉献品|世界遺産「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群デジタルアーカイブ

宝物|丹後一宮 元伊勢 籠神社(このじんじゃ) 奥宮 真名井神社(まないじんじゃ)

 

鏡は姿を写すという性質上、祭祀や魔除けとしての役割からか、権威の象徴か、漢鏡は古墳からも数多く出土しているのは周知のとおりだ。

また貴人の姿見として、奈良時代にあっては寺院の装飾・鎮壇具として用いられ、正倉院宝物にも多くの鏡の名品がある。由緒から見ても正倉院に遺っている鏡は、どれも宮中で用いられ、また聖武天皇の遺品として納められたものとしてふさわしい威容をを誇る。

 

正倉院の宝物に見られる唐草文様は例を挙げればきりがないが、代表的なものとしては銀薫爐(ぎんくんろ)がある。銀をろくろによって球形に成型し透かし彫りするという技法も素晴らしく、またのびやかな唐草文と鳳凰・獅子が躍動する、古代のおおらかな作風を今に伝える名品だ。
※公式HPの解説:https://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures?id=0000010552&index=22

 

・銀の工芸品とそれに見られる意匠

唐草文ではないが銀細工で今年出展されていたものに、銀壺がある。花鳥文の合間は魚々子文様の点描がびっしり打たれていて、その中に大きく動物と狩猟する貴族が描かれる。貴族はここでも騎馬に乗り、後ろを向いて矢を射るパルティアンショットのポーズを取っていて、そのためこれも唐製かなあと思ったりする。パルティア=安息国から受け継ぐサーサーン朝の流行はここでも色濃くみられるのである。

※公式HPの解説https://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures?id=0000014204&index=51

 

 

このように唐草文様はあらゆる宝物にほどこされているので具体的に挙げるのはここまでにとどめたい。

 

 

正倉院宝物の目録として今に伝わる「東大寺献物帳

正倉院宝物は今に伝わるものだけでも9000点にのぼるが、ルーツは冒頭にも書いた通り聖武天皇の遺品を77日忌の法要の際、光明皇后東大寺へ一括奉献したのが始まりである。

その献納宝物には、願文とともに目録がつけられた。筆頭が「国家珍宝帳」である。性質上、目録自体が宝物である。欧陽詢の書風を伝える文体は当代随一の名蹟、天皇印がくまなく押され、朝廷の権力者たちのサインもある公式文書だ。

画像引用:東大寺献物帳 - Wikipedia

 

また現代の文化財分類・保護の視点から見ても、宝物ひとつずつに詳細な記載があり、

・当初納められていた品

・出庫されて所在がわからないもの

・後世追納された品

これら全部の品のプロフィールが途中まで部分的にでもわかっている点が、この正倉院の宝物群をして名品たらしめていると言っても過言ではない。宝物は沈黙のうちに多くを語るが、その正当性はこうしたプロフィールがいかにはっきりしているかにかかっているからだ。

《 ただし。仏教をあつく信仰していた聖武天皇の法要で献納されたにしては、目録の中に大量の武器(刀、弓矢、かぶとなど100人分)がまざっているのは不自然かもしれないが。実際これらの実戦用武器は、その後、恵美押勝の乱で反乱鎮圧のために使われたと考えられる。》

この例外を除くと当初からの宝物の動静は逐一目録によってわかるのであり、近代になって分類・管理されるようになった故宮博物館とか大英博物館とはその点で大きく異なるといえるだろう。

 

東大寺への宝物奉納がどういう意味を持っていたにせよ、それらは国の権力を司る性質を持った宝物ばかりであったことは間違いない。

 

 

種々薬帳と、屏風花氈帳

目録は国家珍宝帳のほかにもある。その中の種々薬帳は献納された薬物の目録である。献納した光明皇后はまた、民衆に向け施薬院悲田院を創設して病人を治療、また孤児の保護を行ったとされる。なるほど、東大寺にも薬物を献納して仏の加護を祈ったんですね……?

いや自分は日本史は素人なのでそんな素直にはとらえられない。都はのちの時代にもこのように歌に詠みこまれるほど華やかだったのかもしれないけど。

いにしへの奈良の都の八重桜 けふ九重ににほひぬるかな(伊勢大輔『詞花集』春29)
いにしえの昔の、奈良の都の八重桜が、今日は九重の宮中で、ひときわ美しく咲き誇っております。

民衆の暮らしはというと(前編でも書いたな…?)飢饉や天災、河川の氾濫、疫病の流行などが蔓延するなか人々は重税にあえぎ、また徭役や防人なども働き盛りの世代を労力として取られるため農民の暮らしはますます困窮していたと思われる。

そんな中、舶来のものを多く含む世にも珍しい貴重な薬物の数々を全て法要で献納してしまうとは、とても庶民の救済が目的とは思えない。

国家珍宝帳と種々薬帳、また屏風花氈帳にあるものを一括して奉献することで、権力を誇示したかったのではないだろうか?

誰が?

という疑問は残るけど。

宝物を献納したのは聖武天皇に先立たれた光明皇后であり、そこに権力を誇示する意味は無いようにも思えるが、少なくとも民衆に手厚く施しを与えた慈愛にあふれる光明皇后、というイメージはあまりにも事実とかけ離れているのでは、とチラッと思ったのだった。

 

宗教の伝来ーー仏教について

繰り返し書くけど、飛鳥~奈良時代の遺品は

★唐・長安の国際性

★仏教の伝来

を軸に考えると、それらの時代の文化財にはにはおのずと一貫性というかテーマが見えてくる。

ここでついでに仏教伝来についてもうちょっと書いておく。

(前編に貼っていた地図をもう一回貼っておく)

中国に仏教が伝来したのは後漢時代の紀元一世紀。

それは上記の通り砂漠の道を通じてだった。しかし仏教が生まれたインドではサンスクリット語で経典が書かれており、正確に中国に伝わったわけではない。

そこで本来の仏教経典を求めて、また教義の研究を極めるために、中国や朝鮮半島からは何人もの僧がインドへ渡っている。彼らを入竺僧と呼び、一説には1000人を超えるとされるが、旅行記などその詳細を記録にのこしているのはわずかである。下記に例を挙げる。()内は往復にかかった年月。

東晋・法顕 337年生-422年没(15年)往路ー砂漠の道・帰りー南海路
著書:法顕伝=仏国記

★唐・玄奘 602年生-664年没(17年)往復ー砂漠の道
著書:大唐西域記(地理書)、大慈恩寺三蔵法師伝(弟子の記した伝記、法隆寺に写本がある)

★唐・義浄 635年生ー713年没(24年)往復ー南海路
著書:大唐南海寄帰内法伝

 

長安から以西は砂漠の中に点在するオアシス都市つまり隊商都市をたどっていく旅であり、特に敦煌よりあとはタクラマカン砂漠ウイグル語で生きて出られない砂漠を意味するが、文字通り道に迷ったら終わりの死の旅であった。

砂漠をたどったその先は、最高峰7000m超、平均標高5000mの峰々が連なるパミール高原を越えなければならない。ゆく先々での盗賊による被害も多かった。

画像引用:パミール高原 - Wikipedia

 

いずれにしても、死と隣り合わせ、命がけで彼らは経典を求めてインドを目指した。

特に唐の玄宗皇帝の時代に玄奘が持ち帰り、漢典に翻訳した経典は膨大な量にのぼる。それらは朝鮮半島海印寺(ヘインサ)に版木が残る高麗八万大蔵経のもとであり、また日本の大正新脩大蔵経の底本となった。

(画像引用:海印寺 (陜川郡) - Wikipedia )

これらの経典が東アジア世界の仏教教義の研究に与えた影響ははかりしれない。

 

奈良時代には

華厳宗東大寺・新薬師寺

法相宗薬師寺興福寺

三論宗元興寺・大安寺)

成実宗

倶舎宗

律宗

といった南都六宗と呼ばれた宗派を通して仏教教義は大いに広められた。

正倉院には東大寺で写経された、唐伝来の教義や仏典をもとにした膨大な数の経典が納められている。国家事業として仏教を布教することで天皇の、また朝廷の威信を高めようとしていたことがうかがえる。

 

 

74回正倉院展の印象

このように東西の交易を行き交ったのは文化の意匠、また宗教など多様な分野にわたっている。それらを踏まえて正倉院展を振り返ってみる。

★★注:単なるミーハー観光客の視点です★★

また来歴、製法、材質などからまず産地がどこなのかを考えながら見ていくのも、新しい見方ができて面白い。

※公式アカウントからの解説

 

白石鎮子のウサギと虎、竜と蛇

https://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures?id=0000010060&index=3

https://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures?id=0000010061&index=4

動物が闘うという意匠は西方遊牧民のスキタイぽいけど十二支のモチーフは中国風。大理石製なのに使い込まれたような傷と摩耗のあとがあるような…?用途不明とあるが、そんなに深く考えず、宮中の毛氈や花氈の重しとしてそのまま使ったのではないのかなあ。東大寺での法要など、屋外で行った行事になると重しは必要だっただけなのでは。

単なる道具にしてはさすが、造形はみごとで動物が互いに絡みすぎてわからない…という所で横に色分け解説したでっかいグラビア図解を掲示してた。

親切設計だ。

巨大なグラビア図解はその後いたるところで掲示されてて、繊細な文様もはっきりわかって見やすくてよかった。3~5m四方?みたいなでっかいグラビア印刷。あんまりにも綺麗に文様が見えて、ふつうに図録が欲しくなってくる(←まあ絶対買うんだけど)。

 

 

全浅香

https://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures?id=0000010092&index=0

沈香は東南アジアに産する香木に樹脂が沈着したもの。全浅香は雅名を紅塵といい、種々薬帳ではなく国家珍宝帳に記載がある宝物である。黄熟香=雅名/蘭奢待と共に「両御香」と呼ばれた名品。蘭奢待は中世、将軍や武将などの権力者が代々切り取った跡がある。正倉院宝物は、この香木によって権力の象徴と認識されていたのかもしれない。

「沈すなわち香」と呼ばれ古来珍重されてきた沈香

香木は熱帯にしか産出しないものであり、伝来は仏教と同じころ?の6~7世紀ごろといわれ、古来から貴族の装いには欠かせないものであった。正倉院にも衣装を掛けて香を焚きしめたと思われる香炉がいくつか現存する。貴族は嗜みとして、好みによって香をブレンドして使い分け、後世には香道として発展した。

そのほかにも正倉院には多様な香木、薬物が納められている。東南アジア産出のものもあるが、流通ルートは遣唐使などを通じて唐から入ってきたと考えるのが自然だろう。

 

《おまけ:また、今回出展してない薬物に関して》

※どうでもいいツッコミーー種々薬帳には「薫陸」が見える。薫陸香は中国名であり、乳香を指す。産地は今のイエメンで、その海岸沿いのドゥファール地方に生える乳香樹の樹脂である。古代エジプトメソポタミアにおいて乳香は神へ捧げる聖なる香りであり、防腐剤としてミイラに使われた没薬、また黄金と共に東方三博士の贈り物として旧約聖書にも登場する。しかし、正倉院にある「薫陸」は「胡桃律」という別の薬物
https://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures?id=0000010323&index=1
であり本物の乳香ではない。実際に胡桃律に薬効はあったようではあるが。

アラビア半島に産する乳香の実物が実際に一般貿易レベルで中国に流通するのは宋の時代(12世紀)になるのを待たなければならなかった。つまり南海貿易によって大量に広州その他の港に輸入されるようになる時代になるまで。

 

※さらにどうでもいいツッコミーー冶葛(やかつ)という薬物も納められているが、成分としては毒である。上記の武器や弓矢が、奉納後の戦乱に際し出庫されて実際に戦闘に用いられたと書いたが、この治葛も記録によれば奉納後大幅に減っている。誰が何のために出庫したのか、謎は深まるばかりである。
https://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures?id=0000010326&index=1

 

その後日本では、平安時代には花の香と掛けて風流な趣味として、香を焚きしめる習慣は貴族の間に広く行きわたった。

五月待つ花橘の香をかげば 昔の人の袖の香ぞする古今和歌集 読み人知らず)

 

 

裛衣香(えび香)

防虫剤としていくつかの香を調合し、麻の袋に入れて宝物の櫃に入れていたらしい。宝物や織物に香りはついたかもしれないが、しかし防虫効果はあまり意味なかったようだ。効果あれば、織物もあれだけ虫害に遭っていないだろう。

効能としては現代でいえばパラゾールというが、全く安心できないということかも…しかしえび香は多くのものが調合されている貴重な品である。

 

 

﨟纈(ろうけち)屏風

https://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures?id=0000020050&index=4

https://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures?id=0000020049&index=3

ロウを使って染める技術を使ったもの。しかし現在にはその技法は伝わらず、何点かの染め織品や屏風にその技法をとどめるのみである。

他の現在は失われた技法としては夾纈(きょうけち)がある。どちらも平安時代以降の製品は存在しない。

今回公開されていた屏風には象、サル、オウムなどが描かれている。これらの動物は南方から中国に知識として伝わったか、陸路で伝えられたかのどちらかである。日本人は情報を中国から仕入れたため知っていたのか?

正倉院の時代には唐の支配は遠くインドシナ半島まで及んでいた。しかし象は、ラクダと共に西域から伝えられたらしい。運搬用家畜として使われ、また象牙を取る目的で知っていたのだろう。

 

様々な象牙細工

象牙の白は、紫檀琥珀などと共に装飾の一部として多用された。

沈香木画双六局

https://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures?id=0000012218&index=5

ヒノキの地板に天板として沈香を互違いの木目に貼り、側面と脚に黒柿を貼る。双六の碁盤目の筋や、四隅の細工は象牙で装飾する。象牙のほのかにクリームがかった柔らかい白が木目の中に映える優雅な品だ。

双六じたいは今のゲームとは違うルールで行われた遊びと考えられる。他にも正倉院には碁盤なども残り、碁は平安時代になっても貴族の遊びとして流行した。

 

紫檀画箱
 

https://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures?id=0000012180&index=8

こちらは素地に紫檀が使われており、そこに木画で唐草文が描かれる。この箱は伝世品は蓋のみであり、本体は明治時代の補作で色合いが蓋とはくっきりと違う。

※宝物は厳重に保管されていたとはいえ織物や本品のような木工品は繊細なものも多く、螺鈿細工などは後世に脱落部分を補作されている。(※螺鈿紫檀五弦琵琶、螺鈿紫檀阮咸など)

※(今年は出展してない)紫檀木画槽琵琶にも象牙と木画は多用されている。
https://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures?id=0000014804&index=7

 

 

 

奈良時代のアクセサリー

紐類 残欠

https://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures?id=0000021013&index=0

いわゆる帯に下げるストラップ。そこに今風にいえばアクセサリーを結んでコーディネート。古代の貴族のおしゃれ感覚がよくわかる。ここから下はアクセサリーショップと思えばいいでしょう。今でいうかわいい系。キレイ系ではない。

しかし素材は天然の貴重なものばかりである。ストラップも全部染めた絹である。

 

貝玦、牙玦

https://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures?id=0000012096&index=0

https://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures?id=0000012098&index=0

螺鈿の材料でもあるヤコウガイや、象牙でもストラップにつけるアクセサリーが作られた。貴人の装いに輝きを添える可憐な印象の宝物。

ヤコウガイは日本付近では奄美大島屋久島付近までを北限とし、また西大西洋、インド洋のサンゴ礁に生育する巻貝である。(ヤコウガイ - Wikipedia )その貝殻は真珠のような輝きをもち螺鈿細工の材料として使われ、また玳瑁やメノウ、トルコ石ラピスラズリ、また紫檀象牙などと共に宝物を華麗に飾った。

 

玦(けつ)とは、古代中国で用いられた佩玉(はいぎょく)の一種。ランドルト環みたいな円の一角を欠いた形をしていて、紐を結び付けて帯に下げる。

玉とは中国では翡翠(ヒスイ)のことを指す。美しい半透明の石で、古来から宝石として、神へ捧げる神聖なものとして、また装飾品として古代中国では古く紀元前、殷周の時代から珍重されてきた。帯から下げる装飾品としての佩玉には、玉玦(けつ)のほかにも玉壁(へき)、玉璜(こう)、幅の広い環状の玉環(かん)、幅の狭い環状の玉瑗(えん)などがある。

(※故事成語ー完璧の語源となった玉壁 解説ー和氏の璧 - Wikipedia )

産地はタクラマカン砂漠崑崙山脈のふもとホータンであり、古代中国王朝へはもともと四川省青海省(たぶん)あたりに居住していた民族の月氏によりもたらされた。そのため中国では「禺氏の玉」とも呼ばれた。

このように、美しい玉は中国では皇帝や貴人の身につける装飾品であり、遣唐使によって日本に伝えられたそれらの習慣は、奈良時代の朝廷でも広まったと考える。
※画像参考リンク:玉璧 - 故宫博物院

 

※ホータンの位置(前出の図)  和田玉 - Wikipedia

 

 

犀角魚形

https://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures?id=0000012066&index=0

犀の角で作られた、紐から下げて使われたと思われるチャーム。正倉院にはほかにも緑色、黄色、青などの色ガラスの魚形が残る。

魚をアクセサリーにつけるのは唐では高貴な身分にのみ許された慣習で、日本でもそれに倣ったのではないかと思われる。

 

犀角を使った宝物は他にもたくさん残っている。

斑犀如意(はんさいのにょい)※如意とは、僧侶が座して威儀を正すために用いた。https://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures?id=0000014559&index=6

犀角は象牙、玳瑁などと共に日本では産出しない。輸入ルートは奈良時代は唐を通じてであっただろう。それらの独特な文様は様々な細工に取り入れられ、愛玩された。(世界的にも珍重されたこれらの素材は乱獲・密漁・密猟のもととなり、現代においてはワシントン条約により取引は禁止されている)

 

 

彩絵水鳥形

https://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures?id=0000012089&index=2

ヒノキでかたどった水鳥を色とりどりに彩色し、本物の水鳥の羽根を貼り付けたもの(今は羽根は失われている)。実物はほんの指先ほどで、胸につけたブローチとかの装飾品なのだろうか。

これも大きなグラビア印刷で引き延ばされて横に掲示されていたが、大きく伸ばしてもなおその精緻な細工が目を引く。

※鳥の羽毛をはりつける細工は、ほかに屏風にもほどこされている。(しかし本品と同様羽根は脱落してわずかしか残っていない)

・鳥毛立女屏風(6曲1双)
https://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures?id=0000020020&index=6

・鳥毛帖成文書屏風(6曲1双)
https://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures?id=0000020026&index=12

 

 

黒柿把鞘金銀荘刀子

https://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures?id=0000012138&index=1

斑犀把緑牙撥鏤鞘金銀荘刀子

https://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures?id=0000012125&index=2

これらストラップのアクセサリーの中でも実用品にして工芸品としても群を抜いた技巧を誇る品である。材質も黒柿に金銀の装飾、またあるいは犀角の柄に撥鏤(染色した象牙に線刻で文様を彫る)細工の鞘をかぶせたミニサイズの刃物。木簡や、紙を切ったり削ったりするのにも実際に使える便利グッズでもある。

目を引くのは象牙の鞘に施された花鳥文。今回出展の品でいえば銀壺、ほかの宝物では漆胡瓶にみられるような文様が小さな鞘に刻まれている。

 

 

ガラス器

今年は展示されてない宝物であるがこれもシルクロードを経て伝えられた、伝世品としては他に世界には例がないもののためちょっと書いておく。

そもそも数としては装飾品としてのガラス玉は正倉院に何十万個も伝わっているが、ここではガラス器(食器等)で伝わっているものについて考える。

有名なものについてちょっとだけ。

白瑠璃椀

https://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures?id=0000011989&index=0

緑瑠璃十二曲長坏(みどりるりじゅうにきょくのながつき)

https://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures?id=0000011994&index=0

瑠璃杯

https://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures?id=0000011991&index=12

 

これらのガラス器は意匠としてはペルシア伝来のもので、製法もまた同型のものは今のイランから多数出土している。

また、白瑠璃椀は安閑天皇陵の古墳から酷似したものが出土したことが知られている。

しかし正倉院に伝わるものは出土品とは別の美しさを保つ。また十二曲長杯はペルシア製か唐製か、生産地も結論は出ていない。

 

(あんまりこの項は深く考えてません、シルクロードを隊商によって割れずに唐まで持ち込まれ、またそれが遣唐使船によってなのか日本まで運ばれたということだけでも奇跡的な事という点に思いを馳せてるだけです)

 

 

正倉院文書

正倉院文書 - Wikipedia

最後に正倉院宝物をして、当時の歴史を鮮やかに蘇らせるものとしては正倉院文書がある。5つの目録からなる東大寺献物帳も文書には違いないがその分類は宝物の目録である。それとは違って正倉院文書は納められた目的からさらに発展…ではなく歪曲……でもなく、いわば偶然発見された存在ともいえるだろう。

 

………どうゆうこと?

という問いに簡潔に応えると、正倉院文書はすなわち紙背(しはい)文書であるからだ。

紙背文書 - Wikipedia

正倉院の所属していた東大寺聖武天皇ゆかりの寺であり、また仏教をもって国家の威信とした奈良時代にあっては仏教研究の一大拠点だった。遣唐使により伝えられた膨大な経典はその東大寺ほか、奈良の他の大寺院でも写経・研究され、そのため膨大な量の紙、墨が必要だった。

しかし当時記録具として主流だったのは木簡であり、紙は貴重なもの。そこで公文書や戸籍などにまず紙は使用され、写経にはそれらの公文書が反故(ほご)になったものを再利用して使った。当時の紙は一度使って捨てるという発想はほぼ無かったと言っていい。

その結果、東大寺にのこる経典の裏には奈良時代の戸籍、また役所の発行した公文書がそのままの姿で見られる。紙に記載された本来の用途の裏面に遺された文書を特に紙背文書という。

幕末にこの事実に気づいた国学者、穂井田忠友が写経の裏を見て文書を抜粋・分類して整理した。

その後も文書の分類・整理は続々と続けられていたが、しかしその結果資料としては分断される結果となり、現在は元の体系に復元する作業が行われている。

データベースとしてオンライン上でも閲覧できるようになっているが、しかし正倉院展に行くと戸籍として展示されている文書の裏には写経の墨が映り、また紙を継いだ跡など、それらは現物でしか見られない。

 

日本最古の戸籍や当時の納税帳など、貴重な社会経済史の史料として奈良時代の研究に寄与している文書群である。

 

 

 

正倉院宝物と正倉院展

以上の通り、正倉院宝物は当時の時代をそのまま、しかも国際色ゆたかにあらゆる分野にわたって丸ごと残している、世界的にも稀有なコレクションである。

これらの貴重な品、しかも発掘品ではなく伝世品に展示を通して出会える機会、それが正倉院展だ。

 

奈良時代以降は遣唐使の廃止と共に日本では大陸文化の影響は受けながらも、そのままコピーするのではなく独自の発展を遂げていく。

それに従って今は見られなくなった習俗や技法を目の当たりにできるのが正倉院展

展示される宝物は全体の数に比して毎年少ないという声もあるけど、これだけの複雑な背景をもつ宝物群は、そんなに一度に展示されても把握しきれたものではないので、毎年これだけ展示してくれるだけでも、素人としてはかみ砕くのに精いっぱいである。

毎年展示物は図録にまとめてくれてミュージアムショップで販売してくれるし、自分は毎回楽しみにしている展示会である。

 

 

 

 

 

 

シルクロードー前編:法隆寺編

 

★★この記事は日本史はさっぱり分からない人の想像です。

★★単なる個人的な想像であり、根拠となる説や論文はとくにありません。

★★なんとなくで読んでください。

★★正倉院展の感想は後編で書きます。

 

目次:クリックで各項目へ飛べます

 

 

 

天高く馬肥ゆる秋。

2022年10月の末、正倉院展へ行ってきた。

東大寺の一角に眠る天平の至宝。

その顛末を思い出す前に、今年はもう一か所、斑鳩法隆寺も訪ねたのでそのことも書く。

 

コロナウイルスの影響があったから正倉院展に行くのは3年ぶりだ。いつもはうどん県から電車で、大阪環状線の鶴橋まで出て近鉄奈良線へ乗り換えて行く。

しかし今回は斑鳩へ行く都合上、大阪環状線から天王寺経由奈良行き、JRで乗り換えなしの大和路快速ってやつに乗ってみた。斑鳩の里の最寄り駅は王子駅という。法隆寺ゆかりの厩戸皇子にちなんだのかな、ふうん。(単なる妄想)

 

快速電車の車窓は大阪のビル街からどんどん町はずれになり、やがて生駒の山並みが近づいてくるにしたがって一本の川が見えてきた。奈良盆地に端を発し大阪湾にそそぐ大和川だ。生駒の山あいを線路と並行するように、都会にしては清冽な川面が見え隠れしては過ぎていく。

線路の鉄橋越しに広がる河原を眺めながらぼんやり考えた。

 

大和川流域には時系列に従って遺跡がならぶ。河口には百舌古墳群、そして生駒山地の手前で支流の石川が合流する地点に古市古墳群、さらに石川の上流側、二上山の東西のふもとにはおびただしい古墳が眠る。

そして、生駒山地を超えたあたりに法隆寺がある。そこは大和盆地における舟運、また街道が交錯する要衝であり、その流域を望む高台にかつての斑鳩宮が築かれたのは偶然ではないだろう。

瀬戸内海から大和川を通じての交易は、中国や朝鮮半島、南海から様々な文化や国際情勢の見聞をもたらした。この時代、政治権力は大和川流域沿いに興亡を繰り返していく。

(※念のため位置関係を貼る。)

 

 

いつも行く正倉院展、その周りの奈良公園の寺社では天平文化に触れることができるわけだけど。

法隆寺、自分は行ったことないし、たしか東大寺より古かったよね?と思って、今回見に行くことにした。

 

東大寺正倉院には伝世品の宝物が数多く眠る。

それに比して法隆寺は所有する宝物とともに寺院建築そのものが当時のまま残っているので、現地で見てみたかったからという理由もある。

 

 

法隆寺

正倉院展では当然写真が撮れない。

というわけで、法隆寺の代表的な建築物を撮ってきたので貼ってみる。これらを見に行くことがある意味今回のメインだったので。たくさん貼っときますがすいません。

初めて見に行ったので、単なるウキウキミーハーな観光客がパンフレット読んでるふうに書きます(*^▽^*)

 

西院伽藍

創建縁起からすると、法隆寺厩戸皇子菩提寺として建てられたらしい。法隆寺の夢殿があった場所は斑鳩宮の故地でもあった。そして法隆寺の創建時の場所は今の若草伽藍。南大門を入って右側に広く開けた場所に比定されており、創建時の塔の礎石も…………見えなかった。跡地には現在いくつもの塔頭寺院が門をならべていて、観光客は入れない。この中には空き地が広がってるはずだけど今回はスルーです。

 

南大門、若草伽藍の土塀を過ぎると、どっしりとした構えの中門が見えてくる。国宝だからか柵があって通れなかったけど。

 

中門の柱にも共通するが、伽藍を囲む回廊は吹き放しになっていて、エンタシスふうの膨らんだ柱が整然と並ぶ。外側には連子窓が嵌められていて、古代の開放的な雰囲気が漂う。

軒下には今は見られない雲肘木の細工があり、飛鳥様式を偲ばせる。



ここの金堂と五重塔は世界最古の木造建築。

ただ金堂の屋根四方についている装飾された柱は、後世付け加えられたものらしい。

五重塔とともに、石の基壇に建てられていて、下の屋根には裳階がつく。

 

法隆寺回廊のエンタシスふうの列柱ギリシャ神殿の影響だという説は教科書にも書かれてる。

唐招提寺金堂の列柱もまたエンタシス様式である。

 

 

 

法隆寺金堂の本尊、釈迦三尊像飛鳥時代の作。

(画像引用:法隆寺 - Wikipedia )

 

この釈迦如来像は厩戸皇子の肖像を写しているらしいが、アルカイックスマイル、衣装のひだ、仏像の光背に見える古風な唐草文様などがギリシャや西方の影響を思わせる。

※公式サイト 聖徳宗総本山 法隆寺

 

法隆寺金堂壁画は、インドのアジャンターとエローラの石窟、中国の敦煌莫高窟やキジル千仏洞等の仏教美術様式を伝える壁画として世界的に知られている。

第6壁が特に有名。仏の脇に侍した菩薩は顔の輪郭や指先まで紅色の鉄線描でまっすぐに力強く書かれている。背景に配された唐草文様などの精緻な描写も見事である。

※壁画の参考サイト 法隆寺金堂壁画 - Wikipedia 

※しかし法隆寺金堂は昭和24年の火災で損傷してるので、実際に自分が見たのはレプリカなのだと思う。火災前の写真データが見れるサイトを下に貼りましたので、ぜひご参照ください。パソコン、タブレット推奨。めっちゃきれいに見えます。
法隆寺金堂壁画ガラス原板 デジタルビューア|Glass Photographic Plates of the Murals in the Kondō Hall of Hōryūji Temple―Digital Viewer―

 

※鉄線描:鉄線描 - てっせんびょう | 武蔵野美術大学 造形ファイル

 

 

それから法隆寺五重塔、これについては特に書くまでもないか…?

日本史のことはわからない人が書いてるのでパンフレット丸写し的。

金堂、五重塔に共通してみられる建築様式は飛鳥様式と呼ばれ、2階(以上)にめぐらされた手すり(高欄)は卍崩しと呼ばれる紋様が、軒には雲肘木という曲線を用いた細工がみられる。この様式は中門も同様である。

仏教寺院において塔はもともと仏舎利塔ストゥーパ)であり、仏舎利(釈迦の遺骨)を収めたとされる塔で、寺院の中核をなしていた。

法隆寺五重塔は世界最古の木造の塔であり、基壇上から上段になるに従って細くなっていく様式、心柱が最上階までは固定されてない耐震設計(?)、そして大修理の際に心柱の年代を解析したところ伐採年は592年と推定され、しかし五重塔が建てられたのは711年ごろと考えられるそうで、心柱は他の建物から流用されたのだろうか?と思ったり…

 

法隆寺は周辺の回廊や土塀も含めて飛鳥時代の伽藍をそのまま現代も見ることができる。また、法隆寺を含めた斑鳩の里は周辺の寺院や条里制がのこる田畑もあって、地域一帯が飛鳥時代の空気を残している。大きな道路や住宅も開発されているけど、平城京跡周辺の中世の戦乱や、第二次世界大戦の空襲にもあうことなく現代に伝えられているのは奇跡といっていいだろう。

 

 

見物してて思ったことといえば?

10月の下旬だから絶好の修学旅行日和で、そこらじゅう学生だらけで写真撮るのに苦労したけど、あーいう若い年代で素晴らしい文化遺産に触れることはいい事だと勝手に納得してみたり。

また、壁画を火災で損傷させるという痛恨の文化史的事件を経ているだけにそこらじゅうに消火栓、消火器その他防火設備が整えられていて、なるほどと安心した。

(※回廊の列柱は、風雨が当たる所には余材で丁寧に補修された跡がある)

文化史的に貴重なのは金堂壁画だけじゃない。宝物館のものはどれも国宝、重要文化財ばかりである。

また五重塔修復のときのTV番組か何かで言われてたが、こういった寺院建築に携わる技術をもった宮大工はもう数少ないそうで、また使われている木材も相当な樹齢の大木ばかり、一度焼失すればもう再建はできないだろう。

 

修学旅行生たちの喧騒が遠ざかっていったあと、静かになった伽藍を見渡して自分はもう一度、ゆっくりと見て回るのだった。

 

 

宝物館(大宝蔵院)

法隆寺は、建築もここでしか見られない(他には法起寺くらいの)様式であり見どころなのだが、その白眉は所有する宝物にあるだろう。

本尊の裏側にある銘文から、法隆寺が建立されたのは厩戸皇子が死去した翌年、つまり623年ごろとされている。当初建てられたのはいわゆる若草伽藍であり、その後日本書紀によれば670年に全焼したが再建された(711年ごろまでに)。

つまり納められている宝物はおよそ白鳳時代のものと考えられ、正倉院宝物よりも様式は古いものが多いようだ。それに正倉院展よりも断然観光客が少ないし、収蔵品も違った由緒から伝来しているものである。ミーハー観光客な自分としては、正倉院展法隆寺、両方見ることで違った切り口から奈良時代の文化を俯瞰でき、またそこを窓口として当時の国際交流を概観することができてよかったと思う。

(ほんとなら隣の中宮寺、近隣の法起寺法輪寺といった斑鳩宮ゆかりの寺院をまわったり、近くの藤ノ木古墳龍田神社も見てみたいところだったが時間がなかったので行けてない)

 

法隆寺宝物でお目当てにしてたのは四騎獅子狩文錦だったのだけど、褪色・劣化を防ぐため?か展示されていなかったので、図録を買ってそっちで見ることにした。

e国宝 - 狩猟文錦褥(狩猟文の参考に、東京国立博物館の錦のリンクを貼っておく。)

でも蜀江錦(しょくこうきん)が展示されてたので、そっちに自分は沸き立った。ガイドブックによると中国の蜀(=三国志でいう蜀の国。今の四川省。)で織られた錦を指すらしい。鮮やかな深い色の赤で織り出された繊細な文様に思わず見入る。よく考えるとレアだよねこれ……!色も赤が綺麗に残ってて、シレっとこういうの置いてるの、さすが……!と心の中でオタクなことをつぶやいていた。

 

ここでついでに、獅子狩文錦(ししかりもんきん)について語りたい。(しつこいな)

え?何が言いたいかって?

これを語らずには正倉院展も語れないからです。

 

文様の伝来

(地図リンク:唐 - Wikipedia )

 

法隆寺の獅子狩文錦は唐からもたらされたもので、国産ではない。それを前提に書く。

 

唐(618~907)の都、長安は歴代でも最大の領土をバックにした国際都市だった。

狩猟文は西方から伝わった意匠のひとつだが起源はペルシアではなく北方(上の地図で言う緑色部分、いわゆるユーラシアステップと呼ばれる草原)のロシア南部に紀元前栄えたスキタイ民族が発祥だという。(スキタイ - Wikipedia ) 後にモンゴル帝国が支配することになるこの草原地帯には騎馬民族が古くから往来し、その起源となったスキタイ民族は伝統的に動物をモチーフとした金銀製品を多く残している(今はエルミタージュ美術館に所蔵)。

ペルシアは、

BC247ーAD224 パルティア(中国名:安息)

AD224ーAD651 サーサーン朝ペルシャ

というふうに支配王朝が変わっている。

パルティア時代は西の古代ローマ帝国、東の前漢後漢とほぼ支配した年代が重なっており、それぞれの安定した政治を背景に交流がさかんに行われた。

唐と交易があったのはサーサーン朝だが、古来ペルシアでは騎馬民族が支配していた影響で、狩猟文は伝統的にペルシアで独自に発達した。特に彼らが得意とした騎馬上から後ろ向きに射る戦法はパルティアが得意としたものであり、のちにサーサーン朝に至ってその意匠が取り入れられるようになった。

サーサーン朝滅亡(651)後、大挙してペルシアから王族、技術者、学者などが唐へ亡命してきたこともあり、長安はさらに西方文化の影響ゆたかな都市になっていく。

 

この「騎馬上から後ろ向きに射る戦法」はパルティアンショットと呼ばれ、奈良時代のものには各所でその意匠が使われている。(パルティアンショット - Wikipedia )

法隆寺の四騎獅子狩文錦はそのスケール、意匠、織りの技術的にも唐の工芸の水準が高かった事を物語る。完全な状態で保管されている世界的にも珍しい例である。

パルティアンショットは様々な文様に組み込まれ、正倉院宝物にもいたるところでその意匠を確認することができる。

 

………なんか難しそうですね。要するに当時の長安は7世紀にして人口100万人を数える世界有数の都市。文化、流行共に最先端かつ世界有数の水準を誇り、要するに19世紀のパリと考えてもらえれば分かりやすいでしょうか。

そこではあらゆる民族が街を行き交い、あらゆる言語が話される国際都市でした。ペルシア・シリア伝来の眩術師が街頭で刀を呑んで火を吹いたり、西方の楽器の音色にのって踊り子が舞い、また乗馬も人気で、西方騎馬民族(=ペルシア)から伝わった打毬(ポロ)が盛んにおこなわれていた。

(ポロを楽しむ唐の女性:ポロ - Wikipedia )

 

日本から派遣された遣隋使や遣唐使は政治・経済・仏教について唐に倣うとともに、こういった最先端の文化を日本に持ち帰り学んだのだった。

 

※参考地図 ただし時代は紀元前の漢~唐まで色々地名が混じってます

 

唐の文化ーー伝来した宗教

サーサーン朝からもたらされたものは、ペルシアの文化だけではなく、様々な宗教も流入した。唐代三夷教が代表的なものとして挙げられる。

景教ーーいわゆるネストリウス派キリスト教。431年、エフェソス公会議で異端として排斥されることになり、シリア、ペルシア、アラビアなど東方で布教活動を行っていた。唐の長安でも布教が許され教会は「波斯(ペルシア)寺」、「大秦寺」と呼ばれた。大秦景教流行中国碑という石碑が今も長安に残っている。

祆教ーーゾロアスター教。紀元前6世紀以前にはペルシアで成立していた古代宗教。サーサーン朝では国教とされて広く信仰された。火を崇めるところから拝火教ともいう。寺院は祆祠と呼ばれ、長安では薩保や薩甫という教団の取締役が定められた。

明教ーーマニ教摩尼教ないし末尼教ともいう。3世紀ごろペルシアで始まった宗教。ギリシャ・ローマ、ペルシア、インドから中央アジアに広く伝播した。

また、のちにイスラム教も伝えられ、清真教、回教と呼ばれて広まった。今では東トルキスタン、いわゆる新疆ウイグル自治区に信者が多い。

 

 

仏教については正倉院展の記事に書くので省略するが、法隆寺では金堂壁画の実物を現場では見れなかったけど、火災の前にとり外されていた壁画を部分的に現物を見れた。

 

(画像リンク:法隆寺金堂壁画 - Wikipedia )

 

 

これは飛天図で、敦煌壁画などで仏の周囲を飾っている飛天の描写そのまますぎて、小さいけど鉄線描で書かれているものを現物で見れたので、自分はここで満足してうっかりJRに乗って家に帰りそうになった。じゃなくて正倉院展はまだ見ていないんだ。

 

ということで、博物館も美術館も、生で見ると圧倒的な迫力なので、なんでもどこでもいいからまず足を運んで自分の目で実際に見ることを勧める。

いくらデジタル放送が4Kになったとはいえ、実際にそこに存在する宝物が放つ質感、色彩、長い年月をて伝来した時空の重みは画面越しには味わえない。TVとか本はいつでも見れるので便利だが、機会があれば実物にぜひ出会って見てほしいと思う。

 

修学旅行生が、お昼ごはん何かなーと友達としゃべりながらでも、こういったものを見て回ってくれてて、[なんか得るもの、感じてくれるものがあるといいなあ、、、]とやっぱりオタクとしては心の中でつぶやかざるをえないのであった。

 

この飛天は法隆寺金堂の天蓋装飾(暗くて見えなかったけど)にも、また、薬師寺だったっけ?五重塔の頂の水煙の金属細工にも、至る所で登場する宗教的なキャラクターとして覚えていれば、正倉院宝物ももっと楽しめるだろう。(と思って行ったら、今年は装飾関係の出展が中心で、ちょっとコケた)

 

 

仏教美術の故郷としての壁画群

 

 

唐に流入した宗教だけではなく、シルクロードを紀元前から行き来した宗教がある。それが仏教で、その過程でシルクロードの各地に仏教寺院が石窟という形で残されている。この地図は砂漠ルートをたどった遺跡にかぎり、南海ルートの海のシルクロードを見ると、ヒンドゥー教と混ざって伝来しているのでここでは省く。

難点と言えば、どこも現在政治的に不安定で、現地を訪れて実際の壁画を見ることは難しいということだろうか。

 

これらアジャンターやエローラから、敦煌、キジル千仏洞やベゼクリク千仏洞に共通しているのが鉄線描による壁画である。

バーミアン、雲崗や龍門石窟は仏像が石の岸壁に多く彫られている。

紀元前、パルティアが興る前にギリシャからインドガンダーラ地方に至るまで広く遠征してきたアレクサンドロス大王の影響により、いわゆるギリシャ風なヘレニズム文化が広まった。要するにこうした仏教美術にも仏像のまとう衣、また髪型や表情にギリシャ彫刻ふうな影響が残る。日本に伝来した仏像にも飛鳥、奈良時代までのものにはこういったギリシャふうな意匠が見られるという説もある。

 

キジル千仏洞には、主に今でいうアフガニスタン付近で産出するラピスラズリを用いた、鮮やかな青色で彩られた壁画が残る。その青はウルトラマリンブルーといって、エジプトや古代バビロニアでも珍重されてきた。ヨーロッパでも金の倍の価値で取引される高価な顔料として有名で、特にフェルメールが多く用いた。(ラピスラズリ - Wikipedia )

(当時のフェルメールが活躍したオランダは、毛織物産業を背景として早くから市民が主権を握り、また東インド会社を通じて得た富によってフランドル派が活躍した時代だった)

 

 

(画像引用:キジル石窟 - Wikipedia )

 

敦煌やトゥルファンなどの壁画に唐の影響が強くみられるのに対し、キジル千仏洞の絵は表情の堀りが深く、ペルシアやインドからの文化が多く流入していたことをうかがわせる。今も新疆ウイグル自治区の中でも亀茲(クチャ)に住む人たちの顔立ちは、漢民族ともウイグル人とも違う。

 

仏教はこれらのルートを辿り、外交使節の往来や交易商人の手を渡りながらはるばる中国に伝わったのであろう。

ただ中国からは、長い時代にわたって徒歩で僧が仏教経典を求めて陸路、海路でインドを目指した。有名なところでいう玄奘三蔵である。彼の将来した数多くの経典は漢字に翻訳され、唐、ひいては日本や周辺諸民族への布教に大きく貢献した。

 

飛鳥~奈良時代の歴史を振り返るとき、唐という国家の国際性、また仏教の伝播を念頭においてみていくと、宝物は俄然、糸でつながったような一体感を持ち、別の輝きをもって見る人に訴えてくる。

 

 

ー--正倉院展の感想に続くー--

 

 

 

 

 

 

 

 

 

アカデミズムとエンタテイメント

★★このブログは、普段はネットピアニスト「ござ」さん単推しとなっています

★★よって今回の記事は番外編です

★★クラシックに全く知識のない人が書いています

★★ご了承ください

 

 

目次:クリックで各項目へ飛べます

 

 

きっかけ

先日9月14日のこと。

自分は岡山にコンサートに行っていた。

 

聞きに行こうと思ったのは、Twitterで見かけたこのお知らせから。

一瞬思った。

「まだチケットあるんや!?」

 

 

自分は普段、ネット上でピアノ動画を聴いているのだが、その中で噂に上っていたかてぃんさんが今回の公演のソリストだった。

というより自分がチケットを買った決め手は、交響曲が「新世界より」だったからと言った方が正しい。

さらに。

うどん県の片田舎在住の自分でも、岡山シンフォニーホールなら日帰りで行ける。

海外オーケストラの地方公演でこの値段、S席でなければ格安チケットといえる。

その日は偶然有給を取っていた。

と思ってチケット状況を見ると、隅っこの席がまだ残ってた。

クラシックのピアノ曲はあんまり知らない。小さいころエリーゼのためにが弾けたくらいでよくわからない。

 

とはいえ、行くと決まれば前もって予習?したいというものだ。普段聞かない奏者だからよけいに。予習というか自分の認識の振り返り。


細かい事は抜きだ。

とにかく生演奏の迫力と臨場感は画面、スピーカーを通して聴くのとは全く別物だからだ。

 

そう思って、近所の自衛隊駐屯地で年に一回の一般開放日には必ず吹奏楽団が演奏するので聞きに行っているし(最近コロナで行けてないけど)。チャイコフスキーの序曲1812年が生で聴けるレアなチャンスだから。しかも曲の中で使われる大砲は、実物の空砲が鳴るという迫力。

母校の高校の文化祭も要チェック。今年、コロナ流行後ひさしぶりに聴く機会があった。彼らはあくまで部活動の範疇だけど、日々練習を積んでステージに立つというプロセスは楽器の演奏に携わるシーンではみんな同じことをやってるわけで。プロのステージと違って合間の漫才MCから衣装やダンスの演出から全部生徒たちで作る舞台は手作り感があるなか、演奏はさすが本格的、圧倒される。

 

 

何の楽器のどこの演奏でも、生演奏というのは理屈抜きで人々に訴える問答無用の説得力を持っている。同じ空間で響く音というのは、何らかの説明しがたい目に見えない力がある。CDの売り上げやTVでの歌番組が低迷していると言われてから久しいが、歌手やロックバンドのライブはコンスタントに盛況な業績をキープというかさらに盛り上がりを見せている。音楽を聴く者は皆、生演奏の魅力、それを体感して知っているからなのだろう。

 

プロのコンサートは自分も久しぶり。今回偶然からの思いつきだけど、生演奏、しかもプロの管弦楽団を聴けるという、もうあるかないかわからないチャンス、とにかく楽しんだもの勝ち。

海外の楽団なんて、学生時代に倉敷市民会館ギャルド・レピュブリケーヌ吹奏楽団聴いて以来。というか岡山へは通学してたので電車の車窓も別段珍しくない。シンフォニーホールも、地下の書店の丸善も懐かしい。目にする景色は当時と変わらない。

 

有給取ってたから早めに出発。

 

って到着早すぎる問題。

近隣の後楽園もよく知ってるというか講義で勉強したくらいなのでそっちの観光はせず、ここの正面階段の裏のベンチエリアで延々と上記の予習記事をスマホとキーボードで書いていた。どこから見ても怪しい人。服装も垢抜けなくてまさに不審者。(夕方になりぼちぼちお客さんが集まり始めたため怪しまれる前に撤退)

 

 

娯楽としての音楽

世代を超えた文化

このコンサートにソリストとして招聘されているのはピアニストのかてぃんさん。

ポスターには本名の角野隼斗で記載されている。

しかし予習記事に続き、自分はかてぃんさんとして聴いた。

 

上記の予習記事をホール正面階段裏のベンチで書いていると、公演時間が近づくにつれてお客さん、というかおしゃれに着飾った学生が保護者と一緒に集まってきていた。

小学校高学年?中学生?の子が、学生らしくもちょっとフォーマルなお洒落な服にアクセサリーとかつけて、保護者とかピアノ教室の先生?に連れられて来ている。みんな、今日だけ少し背伸びしているような、どこか緊張を浮かべた表情で落ち着かない感じ。

 

今回、コンサートのチケットはまともに買うと安くても9000円はする。

(学校に文化普及事業とかでプロの演奏家が招かれ、演奏が無料で聴けるていうのはしかし子供にとっては受け身の鑑賞機会になる。)

それにひきかえ、今回のコンサートには学生の無料シート枠が抽選で募集されていたので、ここに集まってるのは応募した子、つまり「音楽に興味のある10代」ってことだ。

生で感じる演奏って、音そのもののの豊かさだけではなく演奏家の息遣い、間合いの取り方、お互いのコミュニケーション、舞台の雰囲気、いろいろなものを肌で直接感じられるので、家のTVで通りすがりに聴くよりも絶対に心に残る何かを持って帰ってくれると思うし、印象に残ったシーンや音は、まるでフィルムの焼き付けのように一生忘れないと思う。その後の人生にも少なからず影響を与えると思うから、なにも構えないで聴けるあの年代の子たちがたくさん(確か招待枠は300人)来てたってことは素直に喜ぶべきこと。

若い世代が親しんでくれるというのは、広く音楽界にとってかけがえのない財産だ。

安く気軽に本格的な芸術を楽しむということは、欧米では広く庶民に普及してることだと思うので、日本でもどんどんこういう事をやってほしい。(うどん県では一般民の興味はまだまだ少ないといわざるを得ないけど)

 

 

かてぃんさんとクラシック

彼ら若い世代は、コンサートの触れ込みが何であったにしろ、その自由な感性で本能的に吸収するものがあったはずだ。

そちらではなく。

かてぃんさんが今回のツアーに協奏曲のソリストとして招聘され、全国を巡業する目的とは。

クラシックというか、ピアノ曲にさしてそれほど知識も興味もない層に、訴えかけることではなかったか。

 

実際は、ツアーのチケットが軒並み売り切れなのも、毎日ネット上で キーワードの # がトレンドに上がるのも、かてぃんさんの影響なのかもしれないけど。

シンフォニーホールの座席が上階までびっしり埋まるさま、自分は生まれて初めて見たので(クラシックだと滅多に無いと思う)。壮観というか圧倒的というか。

クラシックコンサートでここまでの集客力ある公演は、自分は実際には見たこと無い。いや人気のある奏者の公演ならクラシックでも満席になるのだろうけど、そういうステージとは今回の客層は決定的に違う。

 

なぜなら自分みたいな

「ちょっとクラシック興味あるけどピアノ曲は全然知らないし普段聞かない」

ていうヤツが、

「かてぃんさんって、最近よく聞くよねー」

程度の認識で

「なんとなく席空いてたから」

という理由で来てた人も多いのではないかと思われるからだ(実際に統計取ったわけじゃないけど)。

ここからは、そんなクラシックの解釈とか知らない一般市民の自分の基準で書く。

 

クラシック音楽って利益を追求しちゃだめみたいな風潮があるじゃないですか?

売るのが目的じゃない、

芸術を研究し、極めるのが本懐だからという風潮。

CDとか音源の売り上げに至ってはPOPS等の人気曲のほんの足元にも及ばないけど、クラシック演奏家は販促のための営業したりしない。

 

でもその芸術を極めるスタンスから、一般市民に一向に寄ってこないので世界が広がらない面はあるだろう。

それにクラシック音楽は減点するしかない世界観を持っている気がする。(あくまで自分の先入観だけど)

 

クラシック音楽にそういう疑義を抱いていたからか?自分が小さいころに苦手で辞めて以来、ピアノ鑑賞をふたたび始めたのはYouTube動画がきっかけだった。そこには評価基準もない、聴くのに教養も必要ない、好きな演奏家を好きなように感じればいい自由な世界が広がっていた。

そんな中、自分の推しではないがyoutube動画を聴く中でかてぃんさんのことを知った。クラシックの華麗な技術を擁し、そのレパートリーを踏襲しながらもアレンジ曲の作風は自由奔放。肩書から印象を受ける、既成概念にもとづく格式張ったピアノっていう自分の先入観はどこかに飛んで行った。

 

クラシック出身でありながらその演奏に全く新しいベクトルを感じていたところで、耳に入ったのが2021年夏のショパンコンクール予選へのかてぃんさんの参加だった。

そこで自分は盛大に路傍の見えない石につまづいてコケた。

「なんで今さらクラシックコンクールなんですか」

って思った。

今までにないフィールドで音楽のジャンルという垣根を越えて自由に表現するのはかてぃんさんならでは、他の人にはできないことだったんじゃないのか?

なんで、他者から評価されて順位を付けられるコンクールっていう舞台に回帰したのか?わかりやすい指標としてコンクールの順位は有用だけど、自分はそれ以後かてぃんさんの演奏を追うのはしばらくやめた。

そんな画一的かつ杓子定規な金太郎あめのような世界に嵌ってほしくなかったので。自分の中で描いていたかてぃんさんの未来像は、もっと流暢に自己主張していたから。いつから指示されるのを待つようになったんですか、かてぃんさん。

 

ただ。クラシック音楽の表現も追求すれば素晴らしい。

結局題材は何にしても、魂の入った演奏というのは観客の心を掴むものだ。

このコンクールの演奏なんか途中で観客が熱狂のあまり拍手している(が、その場の誰も咎めずに演奏は再開されているのもまたすごい)

Chopin Bunin - YouTube

 

その後、今年の夏にフジロックフェスへ出演しているところを生配信で見かけたが、自分の余計な横槍は単なる杞憂だったというか、かてぃんさんの独特の世界はしっかり領域を展開していて、自分は思わず心のどこかで「お帰りなさい」とつぶやいた。

 

 

クラシックをかてぃんさんが演奏すると

前置き長すぎ問題だが、そういうわけで自分は角野隼斗とクレジットされているコンサートのポスターを見た時点ではチケットに興味は無かった。

ネット上のどこかで耳にしたが、「クラシックも聴いてほしい」との発言もあったとのこと。しかし上記の通り、クラシック音楽の世界では評価するのはそれなりの教養と経験を持った知識豊かな聴衆であり、自分はクラシック奏者としてはかてぃんさんを見ていない。クラシックも演奏できるエンターテイナーという存在だろう。

 

エンターテイナー?

そう、音楽というのは評価されたり順番をつけたりするものではなく、聴いてる人が楽しいかどうかだ。上記のブーニンのコンクール動画を見る限り、コンクールなのに観客を巻き込んでリサイタルのオンステージと化している、そんな表現をしているかどうか?というところに自分は主眼を置きたい。

教科書通りに上手にできているか。

ではなくどれだけかてぃんさんらしいか?

っていうところに期待して自分はコンサートに出かけた。

つまりショパンの協奏曲がどういう構成で過去にはどういう解釈の演奏がなされ、今回はポーランド交響楽団とのマッチングで理想とされる表現は、云々………

そこは問題じゃない。

 

そういう知識がないので自分の感想は簡潔に終わるのだが(それにしては前置き長すぎ問題)。

かてぃんさんの音は、ねぴらぼ(2020/7/24)で配信で聴いたのが初めてだった。その時なんておしゃれな音で演奏するんだろう!って思ったのが第一印象、その知性と品性を失わないってところがルノワールの「可愛いイレーヌ」っぽい、と書いたのが最初。

(画像リンク:イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢 - Wikipedia )

 

(※おまけ:ねぴらぼ感想記事)

 

 

今回はショパンのピアノ協奏曲。

構成は3楽章だった(初めて知った)。詳細についてはいちいち書きませんけど。

 

おしゃれな音ってつくづく今考えると語彙力無いな…?

軽やか…

繊細でしなやか…

弾むような…

 

なんか違うぞ。

しいて言えば鈴を振るような音色ってところだろうか。

 

弱音が美しい……?

それはクラシック奏者全員に言える、最低限の装備というか技法みたいなものでしょ。

自分みたいな素人にはそれくらいしか演奏を理解するものさしは無いともいうけど、それ以外に決定的な特徴がある。

力強いオケとシンクロするフォルテのとこでも、穏やかに語るようなところでも、弱音だろうがどんな音だろうが、何?真珠みたいな小さくて綺麗な粒が空間を舞ってたという感じだ。そういう角の取れ具合がかてぃんさんにしか出せない音だなあ、と思いながら聞いていた。絶対に力で表現しない、その華奢な腕からは想像もつかないような意志のある音が、しかし爽やかな足跡を残して美しい軌跡を描く。

 

自分はぎりぎりでチケットを取ったので座っていた席はいわゆる壁から張り出したバルコニー席の奥まったところ。つまり背中は壁で少々ひとりごとを言おうがリズム取ろうが目立たない。その客席の奥まで、水滴のような瑞々しい陰影が漂ってきて優しく耳元で囁くのだ。

 

曲の構成とかは知りませんけど。

クラシック音楽の表現は与えられたものを鑑賞してる感じで堅苦しい

しかし、グランドピアノで、コンサートホールで、協奏曲とか聞いた事無い身としては、ピアノでここまで多彩な音出せるんだなあ!と素人らしく感動してて、ふと最近再開したのはいいがちっとも進まない自分のピアノ練習を振り返って、なるほどピアノってひたすら練習しなきゃならないんだな、とひそかに思った。

今回聞きに行って得たものはそれかなあ。1日空くだけでも、練習の進み具合は正直に元の状態にリセットするから。

 

かてぃんさんのピアノは練習したからといってどうなるという世界ではなく、かてぃんさんの描く世界を具現化したらそうなったという自然現象みたいなものだろうか。

知識がなくても伝わってくる、ピアノの魅力。

クラシックを知らない人にも遍く感動を伝えるかてぃんさんのピアノの世界。

わかりやすい表現、言い換えれば娯楽である。

かてぃんさんはクラシックピアニスト、だけではなく、エンターテイナー。

かてぃんさんの最大の売りはそこじゃないのかなあ?

クラシック曲の、教養を前提として鑑賞するという風習を根底から覆す自由な表現、それがかてぃんさんの真骨頂だ。(まあ楽譜通り演奏しているという点では、曲の知識があったほうがより楽しめるが。)

ピアノの音には、必ずはっきりと人柄が出る。

かてぃんさんのピアノにはユーモアという、理屈抜きに楽しめる要素がちりばめられているのだ。

 

自分はクラシックのピアノ演奏は聞かないけど、かてぃんさんのピアノにはクラシック曲の目に見えない敷居の高さが存在しない。今回のコンサート行こうかなと思ったのも「どうなるか分からないぞ!???」と期待したからというか、おもしろそうだ!と思ったからだ。

勧められたからじゃなくて、かてぃんさんのピアノに興味があって聴いてみた。それだけだ。

 

コンサートの評価は半ば出ているといってもいいだろう。

クラシックコンサートなのに、2000席あるのに満員。

その事実が全てを物語る。

 

 

戦略にして最大のサービス

かてぃんさんの強み?はSNSの効果的な活用だろう。

いちいちツイートが話題にのぼる。

本人は無意識な節すらある。そこが自然体でまた独特の魅力を醸し出す。

 

 

これの前後とかね。この間ドイツで急なコンサートを挟んでおられたはずなんですけどね?どういうこと?ってなる。

 

それで帰国したからってこれ。カップ麺に6000いいねって、ねえ?どういうこと?

 

かてぃんさん本人がこの調子、この合間にインスタライブを挟んできて、それが海外公演の前の現地練習とか、ほんと本人は自然体でやってそうだがその言動はファンにしてみれば嬉しいものばかり、自分は部外者ながら、楽しそうだなあと見ていた。

ファンが楽しそうなのである。ほんと、本人も誰も音頭取ってない(たぶん)のに、自然と盛り上がってて、あっちこっち忙しそうでほんとうらやましい。

 

今回のコンサートも、協奏曲のソリストとしての地方公演巡りだから演目はわかりきっているのだが、ネット上を見ると毎日 # つけて盛り上がってる話題がある。

それはアンコール曲らしい。

毎日違う曲をやってるらしい。

ファンの方々は曲目の予想を立てたりして、ネットでは大喜利大会が繰り広げられていた。

自分はかてぃんさんのレパートリーを知らないが、それまでの経緯からどうやら岡山公演ではトッカティーナかきらきら星なのではないか、という意見を見かけ、果たして当日のアンコール曲はトッカティーナだった。

【8つの演奏会用エチュードより  トッカティーナ Op.40-3】

 

ひょっとしてコンサートのメインはこっちじゃないのか。

というくらい、迫真の空気に包まれた演奏。

上に貼った、ショパンコンクールの途中で観客が拍手してしまうブーニンの動画、あれの勢いだ。2000席のシンフォニーホール、満場の観客を巻き込んで変拍子カプースチンのリズムが小気味よく響く。客席は皆誰一人として身じろぎもせず、固唾を呑んで見守るだけ。オーケストラメンバーまでニコニコしながら?(のように見えたのは気のせいか)、心なしかリズム取ってそのリズムの流れの行く末を見守っているようだ。

ひょっとしてお客だけじゃなくオケメンバーも、毎日日替わりのアンコール演奏を心待ちにして楽しんでる説?

なんかこう生粋のエンターテイナーだなあ、と見ていて感じた。

合間に指パッチンまで入ってませんでしたか?遠くの席ではっきりわからなかったけど。

 

客観的に言えば、毎日違うアンコールナンバーとか、しかも難曲ぞろい、これを難なくというかそつなくこなしてるように見えるがはっきり言って十分凄い事やってると思う。聴いててファンは楽しいのだが、そこにはかてぃんさんの鉄壁の演奏技術に裏付けられたものがあるからということを忘れてはならない。

 

普通はね?

演奏家というのはコンサートのプログラム自体に心血を注ぐ。その演奏の出来、評価の行方が今後の演奏家活動の趨勢を握っているようなもの。

アンコールというのは余興、プログラムの興奮と熱狂醒めやらぬ観客のリクエストに応えて有名な小品を演奏するというのがセオリー。

のはずなんですよね。

そこに全力で次々と難曲(よく知らないけど自分的に十分難曲でしょって思う)を放り込んでくるかてぃんさん。

 

なんというか、キャラは分かっていたけどそれを軽く凌駕してくる、凄みさえ感じるアンコール。

もうただただ圧巻である。

 

 

 

伝統を誇るオーケストラーーポーランド国立放送交響楽団

よし!ここからはピアノ関連じゃないので好き勝手に書きます。公的情報もなにも、私見盛り込み放題です。ご了承くださいませ。

 

でも一応公式情報は貼っておきましょうか。

ポーランド国立放送交響楽団 - Wikipedia

(※公式サイトー日本語じゃありません: NOSPR )

 

上のピアノ演奏の感想部分で、クラシックコンサートなのに満席のチケット完売状態と書いたが、この後半の交響曲のプログラム部分は従来のクラシックコンサートの体裁だったと言っていいだろう。

自分のお目当てはこっちだった。(最初は。)

チケットを買ったきっかけは、岡山公演の曲目が、ドヴォルザーク新世界よりになっていたからだ。それは個人的に、学生時代文化祭でやった曲だったからだ。正確には2,4楽章を。

色々思い出すのだ、必死でクラリネットやってたけど難しかったなあとか、練習よりもランニングと腹筋がしんどかったなあとか、がっつりみんな練習してんのにダントツサボってるトランペットの子がなぜか頭3つ抜けてうまくて、新世界よりとか目立つ曲も一人だけポーンと遠くに音飛ばしてたなー、等々……

 

そんな個人のつぶやきはさておき。

交響曲という演目、伝統的な交響楽団の編成。聴いてて落ち着くというか、どこからかフェイントでドッキリ演奏を仕掛けられることもないと分かってるので、和やかな気分で聴けるというか。ホームグラウンドに帰ってきたような安心感。

自分が部活でクラリネットやってたからか、オーケストラでまず聴くのもクラリネットの音。ベテラン奏者になればなるほど、芯がぴんと通ってるのに丸く溶けていくようなやわらかな音を出す。ピアノの弱音は美しいというけど、管楽器の弱音にこそ奏者のすべてがあらわれている。と思う。

ここのオケのクラリネットの音も、素晴らしく透明感がありその響きにうっとり陶酔しそう。やっぱり海外のオケはどの奏者もレベルがただただすごい(語彙力)。

この遠くまで飛んでくる弱音の味わい、

またオーケストラのtuttiの響きが一体となっている様、

それらをじっくり聴きたいので、こういう大編成の演奏会では自分は真ん中の列より後ろの席に座る。かつ席が中央あたりであれば文句なしだが、今回は右端のバルコニー席だった。(それはチケを取ったのが3日前だからであり今回はやむをえない)

 

簡潔に感想を述べると。

 

個人の予想(というか期待というか先入観):

チェコポーランドは隣同士。同じ旧ソ連の文化圏。ドヴォルザークアメリカで作曲したこの曲に、チェコの民謡要素をふんだんに盛り込んでて、きっとポーランドでもなじみがあるに違いない(っていう勝手な憶測)。だからガッツガツにチェコ節満載のベッタベタな土俗的演奏になってるんじゃないか。そこに東欧要素の渋い音色がかぶってきて、かっこよー!となるにちがいない。

 

 

ドヴォルザークの音には通奏低音のようにひっそりと哀愁のあるメロディが混ざっている。

この曲もテーマはアメリカだが、がっつりチェコ民謡ふうである。

ドヴォルザーク 弦楽四重奏曲 第12番 ヘ長調 作品96≪アメリカ≫ スメタナsq. Dvořák String Quartet "Amerikan” F-major - YouTube

 

楽団はポーランドからだし…そういう渋くて重厚な音作りしてくるのかなあ…(妄想)

 

というオタクじみた妄想は見事に反映されなかった。

当たり前である。

 

コンサート前半は協奏曲だからオケは裏方に徹し、かてぃんさんの煌びやかな音色がいっそう輝くように、でもオケと指揮とピアノで呼吸しながらやっていた。

この伴奏的なオケのバックが弱音続きで、逆にオケの腕の見せ所じゃないのと勝手に思ってる。

 

新世界よりも結論を言えばあっさりとスマートかつオーソドックスな演奏。

そういや当然か、こういう地方ツアーでは一見さんがほぼ全員なのだから、初対面の観客にはまずプレーンな印象を持ってもらわないといけないのだし。

 

チェコ風?な民謡風にノリノリで羽目を外すというか。

ここっていう聴かせ処で法外にパンチを効かせすぎ、道を踏み外してえらい事になってるところは取材できませんでした。

小声:(なあんだ・・・ふうん・・・)

現場からは以上です。

 

 

ただ(個人的には)第2楽章のソロのイングリッシュホルンです。ここがばっちり決まってるかどうかにこの曲のすべてがかかってます(単なる個人的見解)。

ホルンって名前ですがオーボエの仲間、ダブルリード楽器の一種です。これらの仲間は

(参考リンク: コーラングレ - Wikipedia )吹き口がダブルリードっていって葦の茎を二重にかさねたものを使うんだけど、このダブルリードの扱いというか調整が無茶苦茶に難しいのだ。湿気、リードの削り具合、息の通し方、諸々にものすごく繊細なコントロールを要求される。

プロの演奏でハラハラしたことは無いとはいえ。この曲のカギを握る第二楽章が来ると意味なく緊張してしまう。

という素人の余計なつぶやきは横に置き、静かな和音を背景にヴィブラートのかかった旋律が聞こえてくると、あとはただプロ奏者の醸し出す味わい深さにただ声もなく聞き入るのだった。

 

あとのなりゆきは皆さまご存じの通り。有名な新世界よりの第3楽章の軽快な舞踏のリズム?にのって所々でメインテーマがホルンのあたりから聞こえつつ、第4楽章になだれ込んでゆく。個人的に大好きなホルンとトロンボーンが大活躍するところも聴きどころ。

ホルンが要所要所で弱音を挟みながら、終盤で4管のピッチがバシッと合っててさらに盛り上がる。

 

後半のプログラムは伝統的な解釈に則った円熟の演奏といえるだろう。

いつもCDで聴いていた曲が現実に目の前で聴けて、それだけで感無量です。

同じ空間で奏でられるしかもプロの演奏、その音色は何物にも代えがたい。

 

 

結果論

新世界よりがお目当てだった自分も、結局かてぃんさんのピアノ聴いてすごーって思って、定番オケ曲を海外オケの盤石の演奏で聴けてこのチケ代はお得以外の何物でもない。

何度も行けるわけじゃない本格オケの公演。それだけに当たりチケット引いた感が半端なかった。

 

自分はうどん県の辺境住みなのでリアルコンサートはコスト的に半ばあきらめ気味、普段推してるネットピアノ配信は家のパソコンやスマホで聴けるから通常はそれで楽しむとして。

 

やっぱ生演奏っていうのは、人生の栄養として定期的に摂取していくべきだなあ、精神的QOL爆上げだよなあと思うのだった。

 

QOLとはーーー本来医療用語だけど、音楽は心を癒してくれるセラピーであるという視点で使ってみた。

QOL=Quality of life(クオリティ オブ ライフ)は「生活の質」「生命の質」などと訳され、患者様の身体的な苦痛の軽減、精神的、社会的活動を含めた総合的な活力、生きがい、満足度という意味が含まれます。

 

 

 

 

 

 

先入観ーーかてぃんさんとポーランドの交響楽団

★★この記事は、ポーランド国立放送交響楽団の岡山公演に際しての、先入観です。★★

 

★★演奏聞いたら、感想をまた書くかもしれません★★

 

 

9月14日、水曜日。

今日は瀬戸大橋を渡って岡山にコンサートに来た。

コロナウイルス流行もあり、生でクラシックのコンサート聞くのは久しぶり。

クラシックに限って言えば、10年くらい行っていないかもしれない。

 

今日の公演は岡山シンフォニーホール

座席数2000を数え、3階席までの大きな吹き抜けの客席を持つ、豊かな響きのホールだ。

オーケストラピットをもち、クラシックからオペラやバレエなど数々の公演の実績を持つ。

 

今日聴きに行くのはポーランド国立放送交響楽団のジャパンツアーの一角、ソリストYoutubeでも人気のかてぃんさんを迎えてショパンのピアノ協奏曲1番、それにドヴォルザーク交響曲新世界より」全曲(?)。

 

このコンサートの出演者クレジットでは、かてぃんさんではなく本名の角野隼斗で広報されている。 

しかしこの記事の中では自分はかてぃんさんと呼ばせてもらう。

 

自分はピアノは小学生の頃苦手でやめたが、今ネットでピアノを聞いてるのも、このブログを始めたのも、

「ござ」さん

というピアニストの動画がきっかけだ。

そこから色々なピアノ動画を聴く中でかてぃんさんを知った。その頃自分の印象に残った人はほかにもけいちゃんさん、菊池亮太さんがいる。要するに、「ねぴらぼ」(かてぃんさんファンはご存じの事と思うが)のメンバーとしてである。

自分はクラシックピアノはいい思い出がなく、そっちは聞く気にならなかったというか、アプローチできない。

 

ねぴらぼには今までのピアノっていう既成概念を超える存在があったから、自分はその幻影を追っているのかもしれない。求めてる音楽像はそこが完成型なのかもしれないが、しかしねぴらぼを理想とするからには終着点は存在しない。

 

メンバーはみんなそれぞれに活躍の場を広げたことで、もうあの形式でのねぴらぼの開催は難しくなったのかもしれないが、自分の中で大切にしたい印象として残っている。

 

4人のメンバーにはそれぞれ強烈な個性がある。

(自分としては、理由はわからないけどあの音が好きという理由で、ござさんを追ってずっとここに記事を書いているが。)

他の人を追えないのは単に時間(とお金)がないからである。

 

しかし今回、(あくまで偶然に)かてぃんさんのことについて書く機会を得たので試しに綴ってみたい。

 

 

かてぃんさんの第一印象は、自分としては昔Youtubeに上がってた

・ヤンキーの格好したドッキリ動画

・オタクの格好したドッキリ動画

が挙げられる。

このお茶目な行動にして、そのピアノがとんでもなく衝撃だった。キャッチーな絵面に対して演奏がすごすぎた。

世間的には東大卒(しかも理系)、クラシックの全国コンクールで優勝っていう肩書きがあれば、社会人として生きていくのには何一つ不自由しないはずだ。でも大学院を出てからも、サラリーマンや起業の道は歩まなかったらしい。

当たり前か。

 

第一回ねぴらぼで、それまでのピアノの演奏、というか「クラシックの楽器としてのピアノ」という既成概念、そういった従来の障壁は物理的に一気に取り払われたと思う。

 

かてぃんさんの本領もそこだと自分は思ってる。

 

クラシックピアノの盤石な基礎技術を武器にしているからこその可能な変幻自在な表現。クラシック奏者だったのは、それへの手段つまりアドバンテージだ。

 

世の中の一般論として。

クラシック曲は伝統に基づいた解釈に則って演奏される。その解釈は目に見えない生垣で囲まれていて、そこから決して逸脱してはいけない。

 

かてぃんさんはその解釈に第3の方向から柔らかく切り込んでいる。

クラシックの語法を操りながらも、ピアノという楽器そのものに全く新しい印象を盛り込んでいる。

 

………いや正統派のクラシック奏者でもあると思いますけどね。

音楽とは世界共通の文化です。

うーん語弊があるな、ピアノは西洋文化をもとにした楽器であり本場は欧米ですが、しかし国際コンクールには世界中から参加者が集まります。歴史もルネサンス以来と非常に長い。

CDのヒットチャートやニュースといった流行・話題にのぼることはほとんどありませんけど、クラシック音楽の世界というのは奏者も聴衆も、深い教養に基づいた非常に厚い層を持っている。簡単に切り込める世界では無い。

彼らはクラシック音楽の解釈・研究と演奏に生涯を捧げている。

 

かてぃんさんのピアノにはそういう拘束がない。

こうあるべきという縛りがないから、いかようにもなれるという限りない可能性を感じる。

 

発想の自由さ、それがかてぃんさんの演奏の生命線、それこそが魅力。

クラシックの楽譜というあたえられたツールを飛び越えて自らの言葉で語る、独創性。

 

あと、ピアノ演奏以外、演奏家としての姿勢。

それこそが、いちピアノ奏者からかてぃんさんが国境を越えた人気を獲得した要素。

それは一言で言い換えられる。

ホスピタリティ、だ。

日本語で言えばおもてなしの精神だ。

 

商業的成功を目的とするなら、サービス精神というのは最低限の前提だ。(しかしそこには利益が出てこそのサービスしか普通は存在しない。利益を目的としないサービスはボランティアというのだ。)

 

いわく多種多様なコンサートの出演。(その過密スケジュールを支える、徹底した体調管理があると思う)

 

しかしかてぃんさん自身の人柄と多様な表現力、柔軟な顧客サービス…そのどれもが自然とファンのみならず、ピアノに待ったっく興味なかった人までも惹きつけるのかもしれない。

 

魅力があるから仕事が来るのか、多様な演奏活動がさらにファンを虜にするのか?

ファンクラブでも何でもない自分でも、風に聞く噂だけでもその活動の幅広さには舌を巻く。

 

いわく、TV、CM、ラジオ番組といった、ホームグラウンドのネットを飛び出したメディア戦略。

いわく、過密な公演を縫ってでも提供されるインスタライブなどの、かてぃんさんを身近に感じられる配信。

さらに、安価で敷居の低い、ファンクラブとメンバーシップ=ラボの会費設定。それにしては豪華すぎる特典ラインナップ。ラボの配信内容も充実、有料サービスに入ってみようかな?という魅力に満ちている。

 

本格的クラシックとは言わない。あくまで。演奏の内容についてはその道の専門家が批評することだ。

あくまでファンの意識の外からの意見、だけど。

 

かてぃんさんにはクラシックの枠にこもってほしくない。クラシックはコンクールの評定を活動の基準としている。かてぃんさんの演奏はそういう相対的な、というか一方的な基準で測れるものじゃない。

 

それは、Youtubeや各種snsアカウントの登録者数、各公演の評判(ファンからだけではなく)、次々と依頼されてる演奏や公演の多様さが、無言かつ雄弁に物語っている。

 

ねぴらぼinvention以来、かてぃんさんについて全く書いてなかった、というか動きが活発すぎて追えなかったので、偶然演奏を聴きにきたので書いてみた。

 

これは予習、というかコンサートまでの先入観だ。(長いな)また演奏を聞いたら感想書くかもしれない。

 

 

 

ポーランド国立放送交響楽団

新世界より

 

自分がこの公演のチケを買ったのは、オケ曲のプログラムが岡山では新世界よりになっていたからだ。そういう気軽な気持ちでネットで申し込んだ。

高校の時に吹部で、文化祭でアイーダ凱旋行進曲と共にやった曲。自分はクラリネットで、4楽章の中間部が大変だった思い出。同級生の上手い子がトランペットの音をカーーーーンと飛ばしててすごかった記憶。

 

今日のそもそもの動機はそこだ。自分は吹部繋がりで管弦楽もCDとかYoutubeでよく聞いていた。新世界も大好き。

どちらかというと東欧の作曲家が好き。

ショパンポーランドの作曲家だがピアノが主なので自分には縁がない。

 

この楽団もワルシャワフィルと同様、第二次世界大戦を経験し、その後本拠地を移して再建を果たしている。その間、楽団は想像を絶する歴史を経験しているはずだ。

ポーランドはドイツや西欧と、ロシアの中間という国際政治上の要衝にあり、絶えず領土を目的とする戦争・紛争の舞台となってきた。

エカテリーナ2世の時代のポーランド分割など。

ショパンエチュードの革命を作曲したのも、ロシアに対するワルシャワの革命とその失敗に対する激情からくるものだ。

 

2度の世界大戦、その後のソ連の支配を経て祖国の自由を勝ち取ったポーランドの楽団の演奏に自分は注目したい。

曲目は上述のショパンと、ドヴォルザーク新世界より

ポーランドと同様、数々の戦乱により国土が蹂躙された歴史をたどってきたチェコの作曲家の曲。アメリカからという標題音楽ではあるが、使われている旋律は土俗的なまでのチェコ民謡が多様され、よりドヴォルザークの祖国愛をひしひしと感じる作品となっている。

 

チェコもまた、ポーランド同様にソ連による支配下において辛酸を舐めてきた歴史を持つ。

 

東欧諸国はどの国も事情は違えどこのような歴史背景をもち、そのためか、作曲家に取り上げられることの多い各地の民謡にも天真爛漫な南欧のラテンの明るさとは違った風合いを感じる。

 

曲目もだけど、こういう海外のオケという、わがうどん県の高松には絶対に来なさそうな楽団が来るっていうのもチケ買った動機だ。

海外の楽団は日本の楽団とは音が明確に違う。

とくに決定的なのが弦楽器。

日本の楽団は全否定とかいうわけではない。

ただそのアンサンブル力、個々の技術力が段違いなのだといいたい。

それはスポーツにおける競技人口と同じで弦楽器を嗜む文化的土壌の層の違いといったらいいのか。ヨーロッパではお祭りでも、大道芸人も身近なところに弦楽器の演奏が存在する。演奏者の層の厚さも全く違うはず。音楽の教育機関の数も違うと思う。そのような文化的背景をもとに育まれた音楽性の違いというか。

 

ソリストとしてのバイオリン奏者は別問題。

楽団としての弦楽アンサンブルは、欧米の楽団の右に出るものはない。

それがCDじゃなくて身近なところに来ているというので、そのチケは買いでしょうというわけだ。

 

ここまで予習。

 

あとは公演を聞いてから。もうすぐ開場なので行ってきます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

映画「ニューヨーク公共図書館 Ex Libris」を見て

きっかけ

発端は、先月Twitterで見かけたあるWeb記事だった。

 

しかし実は書いてたのは知ってるネットピアニストの方だった。

 

この記事におおよそのいきさつをまとめられている。

 

 

レファレンス・・・?

知ってるけど、何か・・・?

と思って自分は発作的に感想書いた。

 

 

そこからの流れで教えてもらったこの映画。2019年公開らしいが、ちっとも知らなかった。何やってたんだろ、自分……?

映画『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』公式サイト

エクス・リブリス Ex Libris =蔵書票( 蔵書票 - Wikipedia)とは、日本で言うと本の奥付のところに捺してある各図書館の印のことだ。本の奥付に書誌情報を載せるのが日本独特の文化だ。

 

調べてみるとこの「公共図書館」ていうのは市立とか公立って意味じゃなくて、大衆に広く開かれたというほどの意味らしい。

ニューヨーク公共図書館 - Wikipedia

て言われてもどういうこと……ピンとこないなあ?

 

しかししばらくウチのパソコン壊れててネットも見れず、色々調べることもできなかったので、遅ればせながら映画見た感想でも書こうと思う。

Amazon.co.jp: ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス(字幕版)を観る | Prime Video

(登録してすぐなら無料で見れた)

 

 

 

目次:クリックで各項目へ飛べます

 

 

先入観

ニューヨークってどんなところ?

自由の女神アメリカ横断ウルトラクイズの決勝戦の場所!

映画でオードリー・ヘップバーンが5番街のティファニーの前歩いてた!

ー--観光客目線ですね!

 

危ない街。犯罪の街。スプレーの落書きだらけの地下鉄、銃撃戦。漫画BANANA FISHとか、ミュージカルのウェストサイドストーリーに出てくる感じ。

ー--今は都市改造計画でだいぶ改善されたらしい。

 

人種のるつぼ。国際都市。国連本部。

ー--アメリカンドリームを体感できる街かも。

 

金融と経済の中心地。タイムズスクエアウォール街

ー--物価もその分高い。

 

 

芸術、文化の中心地。アメリカンバレエシアター(バレエ団)、ニューヨークフィル、カーネギーホールMoMA……あとメトロポリタン美術館とか?オペラハウスにブロードウェイもあるよね。ジュリアード音楽院では五嶋みどりが学んでいた。

五嶋みどりの16歳当時の動画:
Sarasate: Carmen fantasy - Midori & Seiji from Leonard Bernstein 70th Birthday Concert 1988 - YouTube

 

それから、JAZZの本場でもある。ブルーノートにコットンクラブにアポロシアター

 

あと、著名なマスコミもここに集まる。ウォールストリートジャーナルにニューヨークタイムスに…

ニューヨークヤンキースの本拠地でプロスポーツも盛ん。

有名な建物は、ロックフェラーセンターエンパイアステートビル、……

 

 

ー----自分のイメージはこんな感じだった。

 

政治的首都のワシントンに対して、経済・文化的中心地のニューヨーク。エンタテイメントの中心ロサンゼルスや新興経済地域のシリコンバレーとともにアメリカを牽引する都市。

みたいな感じー-?

 

自由の国アメリカ。

 

 

………この記事は、この程度の知識の自分が書いてます。

悪い事言わん、やめとけ!!とツッコミたい人はこの辺で引き返してください。

 

 

何でこの程度の知識しか無いのかというと、(洋楽とかロックとかもなーんも分からない)自分の個人的な思想の問題で。

 

欧米の白人が苦手というか?…………キリスト教を布教する名目で、植民地によって豊かさを維持してた歴史があるから。隣人愛を説くんじゃなかったんですか?おかしいでしょ。(自分が欧米について考えるとき、絶対この考えがベースに来てフラットな思考ができなくなる)

 

そんな白人社会がリードしてる、キリスト教国のアメリカ。

建国の歴史からして、元々ネイティブアメリカンが先住してた国を一方的に「発見」して「開拓」しただけなので、あんまり理念というか存在を認めたくない。

ワシントンとかジェファーソン率いるアメリカが独立戦争で勝ったというと、英雄みたいに聞こえるがなんのことはない、植民地目的にやってきた侵入者同士が戦争してただけである、先住民にしてみれば。

さらに建国以来の国の発展には黒人奴隷制度が大いに寄与してたところも、自分がどうにも好きになれない点。黒人奴隷制度は、南アフリカアパルトヘイトとロシアの革命前の農奴と並んで、自分的に人類の3大汚点だから。

(それと比べれば清の纏足なんて人権侵害でも何でもない可愛らしいものだ!?)

・・・好き嫌い激しすぎる問題。どうにかしなきゃ。

 

という個人の好みによる感情から、アメリカのことは興味を持ちたくなかったのであんまり知らない。見聞きするものは全て白人社会優位、JAZZの成り立ちも虐げられてきた黒人から生まれたものと考えると、(頭のどこかで)受け入れたくないと思うというか、素直に楽しめない。

 

以上の経緯はあるが、現代のアメリカは政治・文化・経済・軍事すべてにおいて世界をリードする存在なので、そんな個人の好き嫌いは一旦棚の上にあげておく。

 

まあ一般常識的に冒頭の項目くらいは知ってるって感じです。

 

 

公共という意味

まず概要を調べてみた。

ニューヨーク公共図書館 - Wikipedia

 

創立は1895年。今年で127周年を迎える、世界屈指の規模を持つ公共図書館

マンハッタンの本館は大理石でできた壮麗なヨーロッパ風建築で、玄関ホールの装飾や細工も美しい。

(画像引用:上記wikipediaから)

 

所有資料 約5,300万点

年間予算 約340億円

職員 3,000人以上

年間貸出人数 340万人

年間来館者数 1,700万人(観光客を含むのかどうかはわからない)。

サービス対象:ニューヨーク市の住民や勤め人約800万人

本館のほかに92の分館3つの研究目的のリサーチ・ライブラリーを擁する。

(以上、Wikipediaから引用)

もちろん、膨大な資料は全部オンラインでリストが公開され、そのままオンラインで予約・近隣分館で受け取れるシステムがあるはずだ。と思う。貸出・返却の配送システムも確立されてるに違いない。

うーん、こうやって調べてみるとすごいですねえ。さすが図書館という組織の生みの親、アメリカ。黎明期からその思想は受け継がれてるのですね。

(単なる受け売り)

 

 

 

では我らが日本で一番大きな図書館、つまり国立国会図書館の規模を調べてみよう。

所有資料約4,400万点

年間予算186億円

職員約880人

年間貸出数 16,700点

来館者数約79万人

 

アカン。………比べようと思った自分が浅はかだった。比べ物にならない。

日本の国立国会図書館の方が、利用実績に比べて所有資料だけが明らかに多いっていうツッコミはあるかもしれない。それは国立図書館という性質上、新刊本は国会図書館へ原則納本するっていう制度があるからだ。自動的に日本で出版された資料は全部ここへ集まってくる仕組みになっている。

それにサービス対象も一般図書館への資料・情報提供、また国会議員の政策研究・立法のための調査などに寄与するのが目的だから、利用者数や貸出数が少ないのはそれもあるだろう。(と心の中で言い訳する。)

 

 

納本制度といえばアメリカにもその役割を果たす国立図書館があるじゃないか。

(リンク:アメリカ議会図書館 - Wikipedia )

所有資料  約1億点以上(書籍だけで数千万点)

年間予算  約610億円

職員約 3500人以上

【利用者 国会議員及びスタッフ 】

 

…………さすが民主主義の国。今も昔も図書館界の雄です。すごー。

コンピュータが生まれたのがそもそもアメリカ、World Wide Web(ワールド・ワイド・ウェブ、略名:WWW)が生まれたのもアメリカなら、図書館という組織というか理念が生まれたのがアメリカですからねえ。そういう、資料は国民のものっていう思想が根付いてるんですねえ。(他人事みたいだな)

 

昔は利用者への貸し出し処理、蔵書管理などを紙カードでやっていた。その書誌情報を納本制度をもとに一律デジタル化してデータベースにし(=MARC)、データベースを一般図書館に配布することで蔵書目録もデジタル・オンライン化(=OPACできるようにしたという功績は大きい。

このデジタル化された各図書館の蔵書目録は一般市民にオンライン公開されて、今在庫があるか、なければ貸出予約したり他館から取り寄せてもらえたりもできる(場所によるが)。

日本の図書館組織は、資料は公共のものであるという理念からしアメリカからの受け売りなのであるが、このシステムのデジタル化ひとつとっても、アメリカに感謝してもしきれないのだ。

いわばこのシステムが司書の事務作業を軽減し、そのぶんレファレンスや各種イベントなどのサービスに人材を注力できるようになるという恩恵にあずかっているのだから。

 

 

 

ー--話が横道にそれた。

 

 

ニューヨークの公共図書館のことを考えてるんだった、そういえば。

えーと、なになに?

wikipediaをもう一回見る)

設置主体は財団法人の運営するNPO

予算の一部は民間からの寄付で賄う。

 

えぇ?……なんですって?

もう一回言ってください?

 

ニューヨーク市立じゃなかったの?

事業主はNPO

資料を5000万冊以上抱えて?

予算を340億円も捌きながら?

その予算は税金じゃないなら、どこから出てくるの?

 

色々なんのこっちゃ分からないんですけど。

というわけで。

映画の冒頭のあたりで、館長らしき人が図書館について利用者への講演という形で語っていたので引用してみる。

というかこの冒頭の話に映画のテーマは全部詰まってる。

 

 

館長による講演ー公共図書館の概要 現状と課題

現実のプレゼン企画として積極的に事業展開することで民間の寄付が呼び込める。

さらに市の公的資金にも予算拠出の根拠としてよい提案ができる。

 

この話から、館長さん有能だわと思ったのは自分だけか。

管理職というのは現場が目的の事業を遂行できるように外部と折衝して資金を調達するのが仕事。そして現場の事業の内容には口を挟まない。

この館長さんは後で出てくるミーティングでも司会役をしたりして中心的存在だが、ディスカッション自体はあくまで職員同士に進行を任せ、議論の行方を誘導したりはしていないように見える。

 

理想や情熱、職員の力量も大事ですけど何もかも資金あってのことです。

世の中お金がないと始まらない。

経済大国アメリカだけあって(?)、そこはきっちり押さえてきてる。

 

・本って結構値段が高いですので。(大学の時、教科書だけでも年度ごとに数万円かかった)図書館の責務として資料収集と調査、且つよりよい蔵書の構築がある。その図書館ごとに収集の方向性は違うけど、資金がないと満足な資料は購入できない。

職員にも給与を支払わないといけない。日本だと図書館での色々なサービスはボランティアがやってるイメージがある(絵本読み聞かせや各種イベント)。しかしここでは司書がより専門性を発揮した業務をこなし、また各サービスにも職員が関わっている。予算がないと、そういった様々なイベントや講演会、放課後学童クラブなどのサービスは維持できない。

・資料以外にも、図書館の施設・設備の更新や増改築などのメンテナンスには巨額の資金が必要。施設の老朽化は利用者の満足度に直結するからここも削れない。

 

これらの予算というのが税金からの使い道が決まってるお金ではなく。

使い道つまり事業内容は職員主体で、それから寄付・出資する市民とのディスカッションにより決まっていく。

図書館のサービスは市民が決めているという意味だ。

つまり利用者が自分たちの利用するサービスを取捨選択してる感がある。

なんか似てませんか。

何にって?

アレですよ、民主主義の象徴。かつて一般市民権を長い闘争の末勝ち取った……

選挙権です。

 

自分たちの社会を構築するものは自分たちが決める。

主権は国民にあるってことです。

 

与えられる本、与えられるサービスを受け身になって享受するのとは違う。

 

これはニューヨークという立地あってのこと、ともいえるだろう。

何十万人という大学生をはじめとする知識人が住む都市。

あらゆる国から集まってくる人々が作る、ものの見方も価値観も違う、多様性をもつ社会。芸術・文化の点でも色々な人が集まることで新たな表現、新たな作品が生まれている気がする。

彼ら独自の創造的活動に、図書館も持てる全能力を傾注することで、相互に作用が循環するっていう化学反応が生まれてるような?

 

また図書館に寄付してくれる裕福な市民や団体の存在も、この都市ならではかもしれない。立ち並ぶ大企業の本社、世界でも高水準の所得レベル。彼らには寄付する余裕があるし、何よりも文化的活動に貢献することの意義を分かっているからなのだろう。

 

 

《 映画の途中で、たぶん民間の寄付出資者が対象なのか?司書によるプレゼンがある》

ゲストとして呼ばれた、委嘱されたオランダ人建築家(国際的だなあ)がそこで図書館の理念を語っている。

図書館の主役は「知識を得たいと思うあらゆる人」である。

本(その他資料)、施設、組織は、道具つまりツール。

ある分館のリニューアルに向けて、建築家は設計するにあたって多様性を感じられるようにと志しているらしい。あらゆる人の要求にこたえるためには、組織や道具はユニバーサルなものでないといけないからだ。

 

 

また横道にそれた。

ー----館長さんの講演に戻る。

 

図書館員はこれらをどう使いこなしてどのように利用者に提供するか。利用者の求める需要をどのように把握・分析するか、そこから得られる対策は何か。

 

どのような手法なら市民にサービスが行き届くのか?

その答えは一つではない。

しかし市民が必要としているところには遍く滞りなくサービスがいきわたらなければならない。

手段が本であれネットであれ、

「知る権利」

は市民は平等に持っているはずだ、と館長はいう。

 

 

充実の施設群と資料

この映画はドキュメンタリーだ。

図書館の何気ない日常、観光客の表情、分館周辺のさまざまな街と住民の日常を所々に挟みながら、ナレーションを一切入れずに淡々と映像は繋がっていく。

あんまり解説が無さ過ぎて、土地勘がまったくない自分は色々調べた。

 

冒頭にも書いたように全資料あわせて約5300万点。

書籍以外にもどのようなものがあるのかが、克明に映像に映し出されていく。

 

92も分館があるのだから、それぞれの施設は地域に根差し、利用者はごく身近に住んでいる人々。

 

本館があるのはマンハッタンのセントラルパークのそば、いわゆる5番街タイムズスクエアなども近い中心部。そこは人文系の研究図書館となっているようだ。

 

・地図の専門資料室。

・開館以来のニューヨークの各社新聞アーカイブ室(マイクロフィルム

 

・本館の斜め向かいの建物にある、ピクチャーコレクション。 創設は1915年と、100年以上の歴史をもつ。

え?今何か言いました?絵や写真なんてGoogle先生に聞けばいくらでも探せるし、絵なんて今やAIが作ってるじゃないかって?イラストレーターが分厚い資料集片手に仕事してたのはもう過去の時代だって?

甘いですね。

ネット上に流れてる資料は、世の中に存在するもののほんの氷山の一角にもならない。

ニューヨークの、アメリカの激動の歴史をじっと見てきたここのコレクションは、その時々の風俗、世情、政治経済から流行まであらゆる情報を写真やイラストっていうリアル媒体で伝えてくれるのだ。

はっきり言ってここに来ないと無い資料も多いだろう。

こういうコレクションがあるのはまさにニューヨークという都市を象徴している。

分類の仕方がまた芸術家向き。物ではなく事象ごとに分けている。

芸術家のイマジネーションを呼び込む資料群。

創造的な発想に応える、アナログアーカイブの圧巻のクオリティ。

 

はあ、何?この膨大ではあるが写真やイラストの資料群はスキャンしてデジタル化すれば事足りる?わざわざここに来なくてもよくなるって?

でもデジタルアクセスは、調べてて偶然他の資料も見つけるっていう出会いもなくすっていうリスクを孕んでる。電子辞書引いてるとほかのページに面白い項目見つけるっていう紙辞書時代のようなことがなくなるのと一緒。

だいたいコレクションの点数が膨大すぎてスキャンしきれるとは思えません。

 

さらにほかのシーンでは、いわゆる史料室?歴史的1次史料や、古い写真のプリントを調べたり、古地図などの原資料を写真撮影・デジタル加工できる分館も出てきた。

これら文字化・データベース化できない資料たちはデジタル化したとしても検索しきれないのではないかと予想する。

ニューヨークに存在する文化・芸術・エンタテイメント関連の施設とそれにかかわる人たち、またマスコミ関係者にとって、このピクチャーコレクションに限らず図書館の存在は、彼らの活動にとってなくてはならないものだと容易に想像がつく。

 

 

 

本館は人文系の研究図書館。

ほかにも特徴的な研究図書館を有する。

ていうか研究図書館って、ある専門性を有する資料に特化して収集・調査研究してる機関のことですよね、それって大学とか博物館・美術館などが付属図書館として併設してる機能じゃないんでしょうか。それぞれに専門的に特化した司書を揃えてることになるんですけど?

その機能まで担ってることにまずびっくりした。

 

舞台芸術図書館 New York Public Library for the Performing Arts

もはやイベントホールである。自分は映画見てて、「ん?これ、図書館の映画だよね?」って最初は色々混乱した。

設立の意義として、リンカーンセンター(ニューヨークフィルやオペラハウス、隣接するジュリアード音楽院を含む夢の施設群、ああ素敵……)の一角を形成する施設(そうだったの!??)として市民に芸術を提供する義務があるらしい。

この理念がねえ、日本じゃ考えられませんよね。

(コンサートは大枚はたいて聴きに行く、解釈にも教養が必要な敷居の高い高尚な場)

無料なんですけど?ここのプログラムは。まじですか?

スタインウェイのピアノでのリサイタルコンサート

クラシックピアニストの演奏を聴く、優雅な時間。

 

あらゆる芸術家が集まる都市ニューヨークの一角を形成する施設として、ここも有機的に機能しているといっていいだろう。

クラシックの資料だけではない。ここの近くにはブロードウェイもある。さらにJAZZも盛ん。そういう関連資料も世界でも類を見ない規模。

需要があってこそ資料が生きるってここのことかもしれない?

 

 

・ションバーグ黒人文化研究センター

ここは世界中の、アフリカ系の人々に関するあらゆる資料を有する。

Harlem地区に建つ黒人コミュニティの中心地。

映画では美術展の企画が映し出されて、またしても自分は混乱した。「え?ここ、図書館じゃなかったけ?」ってなった。壁には黒人に焦点を当てた作品が並ぶ。

 

これがアメリカに、ニューヨークにある意味を考えてみる。

黒人人口がアメリカに多いのは、奴隷貿易の「商品」としてアフリカから「売られて」きたから。要するに人身売買だ。その由来も悲惨ならアメリカのコミュニティで奴隷として扱われてきた歴史も悲惨。特に南部では大農場の労働者として働かされる(この辺の描写は南北戦争時代の「風と共に去りぬ」にくわしい)。

つまり南部では奴隷制度は根強く意識として残っていて、リベラルな北部にこういった黒人の人権について考える施設ができた、ということか。

ちなみにアフリカにはこういう施設は無いのか?ないかも。特に奴隷貿易の舞台となったギニア湾沿岸諸国は歴史、文化、経済すべてが破壊されて、こういう歴史を振り返り人権について考えるという施設なんかないはず・・・(調査不足)。

 

とにかく黒人文化、BLAK Cultureはアメリカ社会に根差して発展していった。その例としてJAZZがある。この研究図書館以外にも、国立JAZZ博物館とか、あとJAZZクラブも彼らのBLAKC lutureの殿堂として親しまれているようだ。

 

黒人コミュニティを取り巻く現実は厳しいわけですけど。この何百年にもわたって世代を超えて根付いている人種差別の意識は一朝一夕に解決できる問題ではない。

 

ここで五嶋みどりがNYでやってた慈善訪問と演奏会を思い出す。

「五嶋みどりの世界」 (アバド・BPOとのリハーサルを含む。) - YouTube

ドキュメンタリーの途中に、Harlem地区の小学校に演奏に来た時の様子が入ってる。

音楽の授業も予算不足でやってないらしい小学校にやってきて、元気よく子供たちに話しかけるようす。この動画が1995年当時らしいので、現在はこのHarlem地区には植樹も進んで環境は改善されてるようだが。(そしてこの環境改善と植樹にも図書館は提言か要望か、何らかの形で関わっているらしい。ほんと守備範囲半端なさすぎる)

 

創設が1905年、現存する建物も1973年築と老朽化が進んでいたところを最近リニューアル・増改築したらしい。

ニューヨーク公共図書館(NYPL)が、ションバーグ黒人文化研究センターを改修 | カレントアウェアネス・ポータル

総費用は2200万ドル、つまり110円/$としても約24億円。

図書館全体の年間総予算が約340億円。

何にしても桁が違う。日本人の感覚では想像もつかない。

 

 

図書館の各サービスという意味でも色々な場面でドキュメンタリーに黒人コミュニティの地域が登場する。

・いわく、日本で言う放課後児童クラブ的な集まり。職員たちが子供たちを前に、マンツーマンで勉強を教える……というより、一緒に話を聞いて考えている。というか考えさせている。またパソコンの教育向けソフトも活用されているようだ。ここでもデジタル技術が大活躍。

 

・子供というより中高生向け?の教室も写されていた。いわゆるティーン向け?ロボット模型と独自のプログラムを使ってみよう的な教室。(その前のミーティングで10代の子は図書館に来てくれないという会話の続きだと思う。)

しかし、やってることが高専の体験入学そのまんまなんだよね・・・?

ほんと現場では誰が指導してるんでしょうね・・・

 

 

演奏会 これはブロンクス区分館のようです。

ダブルリード楽器4重奏によるルーマニア民俗舞曲が上演されていた。

※参考動画(頭出し済み):Muzsikás: Bartók: Romanian Folk Dances / with Danubia Orchestra - YouTube

日本人にはこの曲、TV番組の引っ越しの場面でおなじみだけどそんな番組は米国にはない。はずだ。観客席には黒人が多い。空席が目立ち、たまに寝てる人がいる。

コンサートとして上演を斡旋し無料で観客に公開(上記のリンカーンセンターで)するだけではなく、利用者のコミュニティまで出て行って演奏会を開いてるってことだ。

 

図書館の仕事は知る機会を平等に利用者に提供すること。

そう講演で語っていた館長さんの言葉を思い出した。

 

 

 

図書館サービスとは何なのか、どうあるべきか

以下、これらの施設と資料を生かして図書館が展開するサービスがまた圧巻。

モットーはあくまで市民のニーズに根差したものという意味で究極に敷居が低い。

どういう需要があるのか、潜在的なところまで調査し、近づいて行って提案する徹底ぶり。

すごい。

 

専門性を高めたところで利用されなくては図書館資料の意味がないからだ。

来てくれるのを待ってても意味がない。

じゃあどうやったら使ってくれるのか、こっちで考えよう。

そういう意識で思う存分資料たちは活用され尽くしてる感があって、見てて妙に満足感まで覚える。

レファレンス

圧巻の資料を誇るニューヨーク公共図書館。

しかし真のメインコーナーは冒頭の何気ない電話のシーンであった。

オペレーターらしき人が利用者に事務的なことを応えている。

いわく今の貸し出し冊数(50冊までOKだそうで、期間が気になる)、いわく何を借りたか、……そんな誰もが思い浮かべる図書館司書のイメージそのままの会話。

それと交互に差し込まれてるもう一つの電話の会話がさりげなさ過ぎて、自分はえーと5回くらい見直した。

あれ?……と思って。

インカムマイクつけてる人は3人登場する。

そのうちの1人が、……あれ会話内容が違うぞ?ん???

ていうまるでサブリミナルみたいなさりげなさ過ぎてわかりにくい演出が実はレファレンスの問い合わせ電話だった(と思う)。

 

レファレンスとは?

この記事の冒頭に貼った事務員Gさんのツイートにあるように、図書館の各専門分野の司書さんが何日もかけてあらゆる資料、他館、他機関も併せて調査研究して結果を報告書にしてくれるものなんですけどね。

なんかこの冒頭のインカムマイクつけてる人、電話でそのまま問い合わせに答えてるんですよね。あんまりナチュラルすぎて見落としていた。

これがいわゆる人力Googleと揶揄される、電話によるレファレンスサービス、らしい。

調べると言えばgoogle、略してググると言われるくらい親しまれ信頼されているgoogle検索エンジン。その正確さ、情報量、またマルチメディアで検索できるなどの使い勝手の良さ……

ここの電話でのレファレンスはそのネット検索エンジンに比肩しても人気があるようで問い合わせは絶えないらしいってことだ。そりゃそうだろうなあ、レファレンスの最初の問い合わせの聞き取りから結果まで電話で済むなんて便利すぎて夢みたいですよ。

何度も言いますがね、このサービス無料なんですよね。

え?google先生も無料で使える?

いや、調査結果、つまり内容の充実ぶりを比べてみてください………google先生で事足りれば図書館はなくなってるはずですよね)

 

 

イベントホールとしての役割

上記でコンサート会場の役割も担ってると書いたが、図書館が企画提案するイベントはそれにはとどまらない。

 

講演会、対談、トークショー……これらは音楽とは違う形で芸術・思想を伝えている。

 

登場する有名人らしき人が自分には知識なくてあんまりわかってませんけど。

分かる分だけでも拾ってみた。

ホールみたいなところでやってるのもあったが。

図書館の玄関入ったところでやってる対談は、何気なく通りすがりにでも話を聞いてもらえて、より「偶然の文化との出会い」みたいなNYを象徴する空間になってるなあと思って興味深い。

講演の内容も多種多様にわたっていて、図書館が企画するというよりTV番組くらい内容がそれぞれ濃い。

ほんとに全部無料なんだよね(しつこいな)

 

・講演ー-本館ロビー 自然科学者 リチャード・ドーキンス

 

・講演 作家  歴史ノンフィクション?  
 国家建国黎明期の奴隷制度の歴史  アフリカ現地からの奴隷貿易の歴史  

 

・講演 移民2世?による19世紀の様子 ユダヤ人の迫害の歴史

 

・講演 エルビス・コステロ(1950年代生まれのロックミュージシャン)が民主主義を語る

 

・講演:詩人 コマンヤーカ アフリカ系の黒人
ブルースが作品の本質だという。人種差別からくる哀しみを表現してるって事だろうか 

 

 

市民の社会的インフラ、セーフティネット、最後の砦

 

役割がサービスを市民に平等に届けることなので社会的弱者、情報弱者といわれる人たちへのサービスは蟻も通さないようなきめ細かなサービス網が貼られている。

とりこぼしは許されない、という自負が合間のミーティングでも語られていた。

ここまでくるとますます図書館とは思えない!?

 

・就職フェア ブロンクス区分館にて。実際の各職種の人の体験談と、ロビーでの資料配布 面接の指導から履歴書の書き方まで。

まんまハローワークですね。

でもここまで住民に密着したネットワークを駆使して身近な所で就職フェアとか、ハローワークはやらないですよね。日本では。自分の施設にこもって、訪れた人にサービスを提供してる感じ。次の障害者向けもそうだけど、尋ねられないと答えない。就職に、その他いろいろな暮らしに、どういった公的サービスがあるのか聞かれるまで黙ってる。

何度も言いますけどこっちは図書館です。比べる機関からして違うのにこの充実度。

 

・子供とお母さんたちの集まりの中で、絵本の読み聞かせ(これは日本でもよく見る)

 

視覚障害者を対象に、住宅関係の公的補助制度の紹介

 

・チャイナタウンでの中国系市民向けにマンツーマンのパソコン講座

 

舞台芸術図書館にて

美術館や劇場を訪れる視覚障碍者のために、手話通訳者の養成講座

 

この辺がいわゆる社会的弱者の立場といわれる人たちに対するサービス。

ほかにも担当する専門公的機関あるだろとも思う。

でもこれらの利用者たちは、利用窓口が図書館に一本化されていれば使いやすいというか、図書館に行けばどういうサービスがあるか教えてくれるというシステムはまさにセーフティネットだ。

この利用率の高さを見る限り、そういった情報を必要とする人たちからも頼りにされてるなあと思う。

サラッと書いたけど、とりあえず図書館に行けば何でも教えてくれるって懐広いなあ…

 

 

《課題》

・ホームレスに対してどこまでサービスを提供すべきか

しかし前向きなことだけではない。議論して結論の出ないテーマも登場する。社会的弱者の最たるものであるホームレス、日本にはそういう人たちのための生活保護っていうシステムがあるがアメリカにはそんなのはない。こればっかりは図書館ではカバーしきれないし、制度が無いにしても、最低限は公的機関つまり市が税金を使う場面かもしれない。

でも図書館もできる限りはこの層に協力したいっていう姿勢が感じられてちょっと安心する。(確かに本来の利用者層がはじき出されては元も子もないが)

 

 

 

所々に顔を出す、図書館の普段の風景。

利用する人々の何気ない表情。

みんな自由に正面階段に座り、各々の閲覧室で真剣に調べものをし、玄関ホールでポーズをとって記念撮影。

隣接するカフェで思い思いにくつろぎ、思索する人々。

噴水のある公園の芝生で本を読み、パートナーとゆったり時間を過ごす。

 

BGMに流れるのはエンターテイナー。このちょっと古風な録音のピアノで演奏されているラグタイムが、図書館が創設された19世紀末を彷彿とさせる。

 

 

 

 

さらに課題:資料は紙を取るかデジタルか

これはすでに電子図書が出てきた時から言われ続けている。

 

紙媒体の長所:

・長編も読みやすい 

・図書館の資料に加えればずっと残る

短所:

・重い、保管場所の問題。貸し借りに図書館まで行く必要がある。

・また古くなると紙が劣化する。

・ベストセラーの場合大量に購入するとその後需要がなくなる問題

 

デジタル本の長所:

・手軽に扱える、子供にも簡単、ものを持ち運ばなくてい

短所:

・デジタルデータが消されると資料として図書館に残らない

・ベストセラーで大量購入後の問題はデジタルも一緒

 

この辺は永遠の課題であり、議論の結論は簡単には出ないはずだ。

しかし上記の理由から、全資料がデジタル化することはありえないといえる。

辞典類の検索目的の書籍は電子化にも利点があり、最新版が随時配布されるけど、一般の書籍はそうではないからだ。

 

 

音楽の世界ではサブスクが全盛期だ。

 

でも図書館資料としてはアナログ媒体ならではの存在意義があり、それが図書館へ足を運ぶ理由になっている。

 

ここではニューヨーク公共図書館の映画から感想を書いたけど、実際の身近な図書館においても問題の本質は変わらなかったりする。

 

これ書いてる自分は日本人なわけですが。

 

とりあえず足が遠のいている人も、行ってみよう身近な図書館。

意外になにかいい事があるかもしれない。

 

 

 

 

大山祇神社(後編)

 

※この記事は下記の2021年夏に書いてた記事の後編です。ずっと中断してました、すいません。

 

 ※参考資料:前編

 

え??

そんな前の話、忘れた?

 

ああっ、石をなげないで下さい。

 

…前置きはそのくらいにして本文に入ります。

(※日本史分野は素人のため、なんとなく思いついたイメージで記事は構成されている。根拠なし。)

 

 

瀬戸内海に源義経が鎧を奉納した神社があるそうな。

 

そう言えば一般的には通りがいいのかもしれない。

自分も最初はそういう認識だった。実際に行ってみるまでは。

しかし、百聞は一見に如かず。

やはり現地に行ってそこの立地を考えてみたり風土と気候を感じたり、博物館も図録で見るより生の実物をショーケース越しにでも見る方が、本質を感じられるというか原点に帰れる気がする。

 


左側は自分が撮影した神社の楼門。

右側の画像リンク。ほんとはもっと鮮やかな色彩の見事な伝世品(館内は撮影禁止のため引用):大山祇神社 - Wikipedia

【 国宝  赤糸威鎧(あかいとおどし よろい)(大袖付) 1領 ーーー伝源義経奉納。平安時代末期。大鎧と胴丸の特色を兼ね備えた稀有の遺例。昭和27年3月29日指定 】

 

目次:クリックで各項目へ飛べます。

 

 

 

愛媛県しまなみ海道の中心に位置する大三島。そこに祀られている大山祇神社のなりたちについて、前編で考えてみた。

 

そもそも、神社の背後に位置する鷲ヶ頭山をご神体として扱い、つまり聖なる山としてその一帯を祀ったのが始まりではないか。神社の成り立ちがいつなのかはともかく、境内にある楠の樹齢が2600年だそうで、有史以前からここが何らかの祭祀の場であったことは疑いないだろう。

神社のなりたちが信仰と民俗学に基づいているとするなら、中世においてはそこに政治勢力が関係してきてさらに独自の発展を遂げる。

 

海に生活する人々         

中華文化圏の東端、東シナ海日本海を隔てたところの島国である日本。

政治的には代々中華帝国朝貢貿易という形で安全保障契約を結ぶことと引き換えに、政治的・軍事的に他国からの支配を受けずに独立を保ってきた。朝貢貿易とは、天命を受けた中華皇帝へ周辺の異民族が献物によって主従関係を結ぶことを意味する。

※異民族……この呼び方はあくまで「天命を受けた正当な統治者」を名乗る中華皇帝からみた蔑称。それぞれの民族は固有の文化を持っていた。ただ、狄は北方騎馬民族のことで万里の長城を以ってしても度々中国に侵入した。

※参考地図…後漢時代の周辺民族。(※琉球、南西諸島も東夷の一部)

 

しかし朝貢貿易で外交関係にあっても、中国と周辺民族は度々戦火を交えてきたが、日本だけは例外だ。海を隔てていたことで領土問題からは一線を置いていた。ただ安全だからといって外交的に大陸から視線を外したことは一度も無い。例外的に日本が戦争に参加したこともある。(白村江の戦いなど)

むしろ経済・文化的に見てもどの時代でも圧倒的に世界トップレベルであった中華帝国から、交易によって一方的に恩恵を受けていたといった方が正しい。日本は常に異文化を吸収することに対して貪欲だったし、色々な意味で少しでも追いつこうと必死だったと言っていい。

 

このように有史以前から海を越えて大陸文明の影響を受けてきた日本では、九州、また山陰から北陸に至る日本海側、そして瀬戸内海エリアが物流、また文化圏の中心を担っていた。

その人・物の流れを掌握していたのが海人族である。

大山祇神社を取り巻く立地条件を考えるうえで、彼らの存在は切り離して考えることはできない。大山祇神社自体の祭神は海の神ではなかったとしても。

 

彼ら海を舞台とし海を信仰する豪族は、地方によりいくつかに分類される。

今に残る海人族

宗形(むなかた)氏

筑前の国(今の福岡県)の玄界灘に面した地にある宗像神社の辺津宮から、まっすぐ沖合に直線を描いて位置する中津宮沖津宮に祀られる3女神を奉斎する、海人の豪族である。沖津宮には6万点余の文物が残り(いまは辺津宮に移されている)、当時の交流の詳細を今に伝えている。

このルートは九州と朝鮮半島を結ぶ航路上にあり、対馬とならんでまさに朝貢貿易の舞台であった。また外交使節だけでなく幅広い貿易船、また軍隊もこの航路を往来した。海人族は実際に航路の運用・護衛を担っていて、彼らが祀る海の神が航海の安全を見守っていたといえる。危険な外洋の航海に神の加護は不可欠だ。このように、彼らの活躍の舞台は玄界灘から広く国外に向けられていたようで国際色豊かである。

 

海部(あまべ)氏

宗像氏が外洋へ向けた世界を拠点とするなら海部氏は大陸から影響を受けた日本海側に拠点を持っていた。丹後の国を拠点とし、日本海側に展開する出雲や越の国と共に、大和朝廷と対峙した一大勢力。

海部氏は丹後籠神社において彦火明命を祖神と祀っていた(宮津市天橋立のたもと)。また、現存するものでは日本最古の部類の系図を有する。

参考リンク:海部氏系図 - Wikipedia

参考リンク:籠神社 - Wikipedia

先進的な文化はいち早く大陸からその地域を経てもたらされた。同地域には製鉄施設や大規模な古墳や集落等、大きな権力の影響がみられる遺蹟が多数残る。

【海部氏の勢力範囲の遺蹟例】

網野銚子山古墳

日本海側最大、全長200mに迫るとされる。一帯の古墳群は浜辺ではないが海が見渡せる丘にあり、当時の航海路であった日本海を一望できる所にあることが丹後地方でも随一の権力者の墓であったことをうかがわせる。

引用:史跡網野銚子山古墳(国指定文化財)/京丹後市

網野銚子山古墳は、全長198メートル・後円部径115メートル・同高16メートル・前方部幅80メートルの日本海側最大の前方後円墳です。古墳の墳丘は三段築成で、それぞれの斜面には葺石(ふきいし)を配置し、各段のテラス上には丹後地方特有の丹後型円筒埴輪がめぐる、雄大で整美な古墳です。
 墳丘の南側には、幅17メートル~25メートルの周溝がめぐっていたことが発掘調査からわかっています。前後には、小銚子古墳と寛平法皇陵古墳の2基の古墳(いずれも国指定史跡)があり、陪塚と考えられています。古墳の造られた時期は4世紀末から5世紀初頭と推定され、古墳時代を前期・中期・後期・終末期に分けると、前期古墳の時期にあたります。
 丹後地方では、弥生時代後期から古墳時代前半に、大きな勢力をもった政治勢力があった可能性(いわゆる「丹後王国」)が指摘されています。埋葬施設は未調査ですが、この古墳に葬られている人物は、少なくとも大和政権と関係を持ち、大陸との交易等にも携わったこの地方の有力者であると考えられています。

網野銚子山古墳 遠景  国指定文化財(史跡)

 

引用:遺跡編(7)網野銚子山古墳(京丹後市) 屈指の規模「海の古墳」|文化・ライフ|地域のニュース|京都新聞

発掘調査によって、現在木が茂っている墳丘は、かつては葺石で覆われ、2千本にも及ぶ埴輪が並べられていたことが明らかになりました。この埴輪は「丹後型円筒埴輪」と呼ばれ、丹後地域を中心に存在する特徴的で独特な形を持つものです。その一方で、古墳の設計図は奈良県にある全長207メートルの大王墓、佐紀陵山(さきみささぎやま)古墳(日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)陵)と同じであるという研究もあり、ヤマト政権とも強いつながりを持った地域の実力者がいたことがうかがえます。現在、網野銚子山古墳の上に立つと1キロメートルほど向こうに日本海を望むことができますが、古墳時代には海岸線が現在の網野市街地まで入り込み、潟湖と呼ばれる天然の良港を形成していたと考えられています。当時の人々は、網野銚子山古墳の巨大な姿に驚いたことでしょう。網野銚子山古墳は日本海に面したまさに「海の古墳」でした。想像をたくましくするならば、網野銚子山古墳には、丹後地域を拠点として日本海を通じて活躍した人物が眠っているのかもしれません。

 

大成古墳群

リンク:大成古墳群 - 観光スポット - 「京丹後ナビ」京丹後市観光公社 公式サイト

京丹後市竹野川河口に位置する、溶岩が固まった大きな岩である立岩。この岩を見下ろすように、河口付近の丘に横穴式古墳群が点在する。日本海を見下ろす位置にある古墳という意味で、上の銚子山古墳と同様な意味を持つと考える。

 

神明山古墳

また、この川沿いのすぐ背後にも巨大な古墳(全長190m)があるため、この一帯もまた権力者の基盤だったと思われる。リンク:神明山古墳 - Wikipedia

 

蛭子山一号墳

海から離れたところの与謝野町にも145mの規模の巨大古墳がある。



 

製鉄施設:遠處遺跡製鉄工房跡

(撮影は自分、発掘後埋め戻したのか現地は草むら)

引用:デジタルミュージアムF38遠處遺跡製鉄工房跡/京丹後市

遠處遺跡製鉄工房跡(えんじょいせきせいてつこうぼうあと)は、丹後国営農地開発事業に伴い、発掘調査された。本遺跡の近くには、丹後では珍しい鉄製武具や、甲胃形埴輪(かっちゅうがたはにわ)・舟形埴輪など多くの形象埴輪が出土したことで著名なニゴレ古墳がある。遠處遺跡では、須恵器窯跡(すえきかまあと)のほか、木炭窯跡、製鉄炉跡、鍛冶炉跡(かじろあと)、竪穴住居跡、掘立柱建物跡、流路など古墳時代から平安時代に至る各種遺構が、造成予定の丘陵一帯から検出された。特に、古墳時代後期と奈良時代後半の製鉄炉跡、鍛冶炉跡、木炭窯跡等は、古墳時代及び奈良時代の製鉄関係遺跡であるとして注目された。鎌や、刀子、鍔(つば)、鋏具(かこ)、釘など、量的には多くないものの、鉄製品も出土している。「余戸郷□真成田租籾五斗」と記された荷札木簡が出土しており、この地の奈良時代後半の製鉄に関して、国衙等が関与していた可能性を示すものである。

 

浦嶋神社

舟屋で有名な伊根町の山中にある。祭神は浦嶋子(どういうことでしょう) 。相殿神の月讀神をまつる神社は福岡の壱岐にもあることからも、航海に携わる海人が祀る神であったことがわかる。

                                                                                                                                                                                                                                            

伊根町の新井崎神社から見て東方沖に沓島と冠島という無人島がある。

古くから海人の思想として海の向こうには(海の底ではないところに注意)常世の国・神の住処・蓬莱山・豊穣をもたらすところ、不老不死の世界があるとされた。そこから神が現世に寄り付くところとして人の住むところ(=山、陸地)との境目で祭祀を行うという思想があった。

浦島の伝説は丹後国風土記逸文にも浦嶋子の話として登場することから、そういった蓬莱思想、神仙思想と結びついていたと思われる。

(※この新井崎神社には地域住民によって徐福が祀られている。秦の始皇帝に不老不死の薬を探すよう言われ、3000人の人数を従えて大船団で出航し秦には帰らなかった徐福がこの地に漂着し、秦氏の起源となったとか大陸文化を色々伝えたなどの伝説がある。しかしこの伝説は眉唾ものなので根拠がないが、日本各地に同様の徐福伝説は数多く残っている。)

資料:新井崎神社から遥かに望む冠島と沓島。

 

ーーーここまで海部氏の解説。ーーーーー

 

尾張(おわり)氏

海部氏と同系統の丹後国造の一族。尾張国を本拠とし、天火明命(=彦火明命)を祖神とする。熱田神宮草薙剣を祀る。(その後大宮司藤原氏に移り尾張氏権宮司を称しているようだ)中世には足利氏や織田氏とも関わりを持ち、戦に参加するなど武家としての役割も担った。

 

阿曇(あずみ)氏

今の福岡市にある志賀海神社にて、海神である綿津見神を奉祭する氏族。また穂高見命の後裔を称する。安曇氏とも書く。海人族としては最も有力な勢力をもち、西日本を中心に広く分布した。(参考リンク:阿曇氏 - Wikipedia

穂高神社という所が長野県安曇野市穂高町にあり(穂高岳の嶺宮に祭神を置く)、その祭りでは船のだんじりが登場する。

公式HP引用:歳時記 穗髙神社

御船祭(御船神事)は、毎年9月26日・27日に斎行されます。 27日には船型の山車に穂高人形を飾った大小5艘のお船が笛や太鼓の囃子(はやし)にのり、氏子衆によって神社へと曳き入れられます。勢揃いした御船のきらびやかな様子は、歴史絵巻を見るかの様です。境内を練り神前を曳き廻るうちにお船が激しくぶつかりあうその壮大な迫力に時のたつのも忘れてしまいます。 御船祭のお船は、子供船と大人船とがあり、なるの新木を用いて毎年組み立てられます。 男腹(おばら)、女腹(めばら)には着物が何十枚も掛けられ船上には毎年ことなった穂高人形が飾られます。着物の持ち主は、一年間健康で過ごせると言う信仰も息づいています。 お船の起源は穗髙神社の祭神が安曇族の祖神(おやがみ)であり安曇族は海洋に親しみ海運を司っていたこと、大将軍安曇比羅夫の船師を率いての百済救援、又氏族の朝廷での活躍などで、平安時代の標山や室町時代の神座の山車等に原形を見ることができます。

このことは海岸部だけではなく海人族が内陸にもひろく分布していたことをうかがわせる。安曇野市付近に分布しているのは、弥生時代に今の糸魚川市付近から姫川を遡上して、その付近に産出するヒスイ(勾玉の原料)を求めて定住するようになった説を推したい(←定説とはされてない)。

参考リンク:宝石「ヒスイ」拾いに行ってみた。/糸魚川市|新潟県観光協会公式ブログ たびきち|【公式】新潟県のおすすめ観光・旅行情報!にいがた観光ナビ

 

その他海人系の豪族としては和邇氏、海犬養氏、諏訪氏などが挙げられる。また、南方系から海を渡って来た氏族としては現在の九州南部に定住した隼人族がいる。

 

また、海を渡って来た起源をたどると、中国の江南地方との関係も見られる。

俗説によれば(古代中国の)戦国時代に滅んだの国から渡来民が漂着し、彼らが稲作を伝えたという。それが紀元前、弥生時代という説。ただしこれには根拠がない。

しかし古代に早くから稲作農業をおこなって大規模集落を展開し、青銅器をもたらして当時の文化をリードしていた地域の一つとして九州が挙げられるわけで、時代的には一致する事から何らかの関係があると言わざるをえないだろう。

(画像リンク:呉 (春秋) - Wikipedia

南方、長江の河口付近が。そこから外洋を経て日本に渡ったとするには航海技術など疑問はのこる。

 

住吉大社

リンク:住吉大社 - Wikipedia
海の神を祀る神社として大阪湾に面して建つ。奈良から流れる大和川の河口(昔は神社は突出した岬部分にあったらしい)に位置し、瀬戸内海とつながる海運の要衝にあった。他の神社と違うのは奉斎する豪族はなく、おそらく大和朝廷の直轄施設として国家祭祀を担ったのではないか。大和川沿いには百舌鳥古墳群古市古墳群など、大和川と石川の海運能力を背景に、当時の政権に関わる権力者の基盤があったことがうかがわれる。百舌鳥・古市古墳群とは|世界遺産 百舌鳥・古市古墳群(もず・ふるいちこふんぐん)古市古墳群だけでも200m以上のものが7つある、百舌鳥古墳群のものはさらに大規模)

※ただし住吉神社としては最古のものは長崎県壱岐島のほうである。
 リンク: 住吉神社 (壱岐市) - Wikipedia
 →→ やっぱり朝鮮半島との航路上。古代の航海術は拙かったと思われるので、海の神に祈る信仰も篤かったのではないだろうか。 

 

 

海人族の生業

海人族は海に生活する人々を掌握する権力をもった豪族であった。

では実際に海人族はどのように生計をたてていたのだろうか。

 

漁業、漁撈と採取

外洋に出られる大規模な船はまだ無かったと考えられるので、沿海漁業が中心だったと考える。

・わなによる漁

 航海術が未熟だった時代、罠にかかる魚介類は重要な食糧である。たとえば川を遡上するサケ。ほかにも簀の子によるダムみたいな罠を流域にしかけて魚を採っていた。また、たこつぼによるタコ漁は素焼きの壺を使って弥生時代から行われていたが、これも代表的な罠による漁である。

・採取漁、海人(アマ)による漁

 砂浜や磯などでの貝や甲殻類の採取。またワカメやノリなどの海藻も貴重な食糧だった。海人の素潜りによって採られたサザエ・アワビなどは乾物として朝廷へ献上された。

・奉納品としての海産物

このように律令時代には海産物は重要な現物納付の税として全国から納められていた。

 

 

航海と護衛、軍事行動

・物資の海運・・・体積が大きく重いものほど船舶での運搬に向いているため、産業革命で鉄道が発明されるまで、古来物流は海運が主体であった。その運搬は河川を通じても活発に行われた。運ばれたものは、コメやムギなどの穀物、陶器や磁器、刀剣や武具、建築資材としての木材や石材から、中世までは大陸から輸入していた貨幣など多岐に渡る。

・航海路としての海・・・上記のように陸路よりも往来としての役割を果たしたのは海路や河川で、そのルートは島国である日本にとっては同時に貿易路も意味していた。それらの商船を襲って略奪するというよりは、権力者の手の届かないところでの自治を展開し、海上に関所を設けて通行料を徴収していた。また護衛として海人族が船団を動かすこともあった。

・海軍と水軍、水主としての海人族・・・大規模な輸送が可能にしたのは貿易や旅客運搬だけではなく軍隊もそうである。権力者から独立した集団として成り立っていたのは経済力だけではなく軍事力があったからである。

例えば中世、西日本を中心に瀬戸内海を舞台にした水軍を掌握していたのは平氏であり、彼らと源氏との戦いは福原の都を追われて以降は瀬戸内海で繰り広げられている。

彼らは水軍と称して幕府や大名といった権力者と対峙した。例としては紀州熊野水軍志摩国の九鬼水軍、伊予の村上水軍、大阪湾の渡辺氏や肥前の松浦氏などがある。塩飽諸島の場合は例外で、それぞれの時代で自治領を安堵され政権の直轄地として生き残った。

 

 

文明が行き交う瀬戸内海

さて、大山祇神社が位置する大三島は瀬戸内海のほぼ中心、海路の要衝にある。

古代から聖なる島として崇められてきた大三島だが、中世にはその祭神は戦いの神としても信仰を集め、新しく興って来た武士階級によって武具・刀剣などが多数奉納されることになる。

 

交易の場としての瀬戸内海、実際に行き交ったものは何か

陶磁器

焼成に高い温度が必要になるなど技術力が必要とされた。中国では紀元前から質の高い土器が作られ兵馬俑にもみられるように技術は高かったが、日本で産業として成立するのは平安時代末期から中世にかけてである。

その生産には原料となる陶土が産出することが前提だったが、体積も重量もある陶器を流通させるには出荷に適した港が不可欠だったから、波の穏やかな瀬戸内海はそれに適していたといえるだろう。代表的な産地としては備前が挙げられる。中世以降(大航海時代以降)は輸出用の磁器の産地として有田が広く知られるようになった。

 

通貨

日本では寛永通宝が作られるまで貨幣の鋳造能力が無く、流通する通貨は大陸からの渡来銭だった。(中国では紀元前の戦国時代には通貨が作られていた。)中国は唐の時代に国際的に多様な民族が往来し領土も最大となったが、その後の宋時代にはさらに経済が発展し、貨幣経済も発達して当時平安時代だった日本はそこから貨幣(宋銭)を本格的に輸入し始める。室町時代にはさらに明銭、特に永楽通宝が大量に持ち込まれた。

※商人でにぎわう北宋の首都・開封 (画像引用:清明上河図 - Wikipedia

 

この時代(宋以降)の流通・貿易に使われたのはやはり船であり、沈没した貿易船からはこれらの交易品が(破損しているにせよ)特に陶磁器は当時のままの姿で引き上げられることも多く、その調査結果は貿易の実態を知るうえで重要である。

画像引用:新安沈船 - Wikipedia 韓国で引き揚げられた貿易船、そこから出た元代の中国磁器

 

中国の陶磁器は(宋以降)日本と共に世界中に輸出され、インドのコーチンイスタンブールトプカプ宮殿そしてアフリカ大陸東岸では貿易商の富の象徴として中国の陶磁器(主に青・色染付)がそのまま飾られていたりする。またアラビア半島から紅海を抜けた地中海沿岸のエジプト・カイロ郊外のフスタート(フスタート | カイロ歴史地区 | 世界遺産オンラインガイド)からは大量に陶磁器の破片が出土していて、推測される流通量からは、中国の陶磁器は世界中の憧れの的であったことがうかがえる。(そのうち大航海時代以降、ヨーロッパでは製法や文様を模倣して自ら陶磁器を作り始めるのだった。)

 

交易品としては古来からこれを外すことはできないだろう。万葉集には既に製塩のようすが歌われ、また海の無い内陸地方にとっては欠かすことのできない物資だったからである。

 

刀剣

ここでは長刀やその他武具全般を指して考える。

鉄はすでに中東地方をルーツに5000年前には生産されていたことが確認できる。農具としてもその鋭い刃は大いに生産性を上げる原動力となり、収穫量の飛躍的な増加、さらに人口増加につながっていくのは古代中国(紀元前)の戦国時代をみても明らかだ。

しかし鉄の需要はなんといっても軍事目的に集約されるだろう。

日本刀の原料は鉄であり鋼、原料としては主に中国山地(他にもあるが)から算出する砂鉄が使われた。それから製鉄の過程で欠かせない火力のもととなる木材、製品を運び出すいかだや船とそのルートとなる河川、それらを兼ね備えている中国山地では古来から(たたらによる)製鉄が盛んであった。

「たたら」の発祥と発展 - 「たたら」とは - 鉄の道文化圏

他にも砂鉄の産地として琵琶湖畔北部も同様に製鉄業が盛んなところとして知られている。

 

日本刀だけではなく、鎧や兜、ひいては火縄銃渡来後は銃の材料として、鉄は加工されそのまま軍事力に直結する。

その鉄の供給を受けて刀剣鍛冶を多数輩出し古来から生産が盛んだったのは備前長船である。この至近に備前焼の産地があるのは偶然ではない。製品を搬出するうえでも瀬戸内海に面していたのはあらゆる意味でアドバンテージだっただろう。

こうして刀剣、鎧兜は平安末期以降武士階級の隆盛と共に全国へ需要が拡がっていった。武器としてだけではなく、その刃は美術工芸品として鑑賞に堪える仕上がりであるのは論を俟たない。

 

 

 

海賊と武士

瀬戸内海はこうした物流の拠点だったが、交通の要衝だったためその制海権を握るのは軍事的にも重要だった。こうして権力者の争いに常に巻き込まれていた地帯であると言ってもいい。

 

戦乱の舞台でもあった瀬戸内海であったが、そこで活躍したのは大名ではなく海賊である。

海賊は略奪者というより通行料を初穂料と称して徴収し、また航海における警護などの役割を担う事で海域の治安の維持にもつとめていた。

武士階級の台頭により彼ら海賊も武装し一定の軍事力をもつことで、政権側とは別の自治権を得て後の大名とは別の勢力として海域を掌握していた。

 

大山祇神社は中世以降、彼ら武士の信仰を集め、戦いの神として奉られることになる。

神社への寄付金は初穂料としておさめられるが、武士たちは自分たちの宝ともいえる武器を奉納して戦勝を祈願した。

宝物として現在残っているのは地元の水軍を掌握していた河野氏のものが多くみられたが、しかし平安末期以降、武将たちからの寄進を受けて武具がおさめられ、現在残存している武器刀剣のうち重要文化財以上のものは大部分がここの物らしい。

※それにしては、多数保管されている刀剣を実際に見たところでは保管状態にものすごく疑問を感じた。充分な管理体制には財源が必要とはいえ、あれだと刀剣を保管しているだけであり、仮にも宝物館といって学芸員を置いているのなら収蔵品の調査研究も事業のうちに入ると思うけど、どう見ても保管してるだけっているのはどういうことだ。

 

話がそれた。

刀剣の詳細な説明とか、鎧兜のくわしい分類はここでは省略する。あんまりにもオタク分野に走りすぎるので、又自分もその方面の専門家ではないからだ。ただ調べたかったので現地で売っていた図録を宝物の分類ごとに全部買っていたら、巫女さんに非常に不審な視線で見られた。当たり前である。でも変態ではない。

 

神社に現存する武具を見る限り、当代随一の工芸品が納められたのは間違いない。

国宝めぐり | 大山祇神社

宝剣は鞘が螺鈿細工、持ち手は鮫革の拵えなど、正倉院に伝来する唐太刀に匹敵するつくりである。

夥しい刀、太刀、なぎなた脇差に小刀、鎧や兜に鏡(祈りの意味が込められていると思う)の数々。国宝指定されているものも多く、重要文化財も入れると一体いくつあるのか数え切れない。(あまりにも大量の武器が奉納されているため第二次世界大戦GHQに廃棄を命じられたくらい、しかし神社側は土に埋めて隠した)

 

航海は主要な交通、流通手段であったがそれには沈没や難破、襲撃の被害というリスクが常に伴っていた。瀬戸内海は潮の流れが速く、海峡部は航海の難所であったから、航海術に長けていた水軍は常に必要とされていた存在であったが、彼らも航海の安全を祈りたかったのは同じである。

農業が豊作を神に祈り、神に感謝していたように、航海においても古代の原始的な信仰の影は薄れたとはいえ海を行くものには神の加護は不可欠のものだったようだ。

また中世の水軍の歴史はそのまま戦いの歴史といえるだろう。

南北朝時代から室町時代、さらに中央政権によって戦略的に水軍が使われるようになる戦国時代にかけて、平和な時代は無かった。普段漁民として生計を立てていた者も、船団の操船の担い手、また漕ぎ手や兵士として戦いが起これば招集されたのは、戦国時代の大名麾下の武士と何ら変わらない。

 

また外国の使節団もここを通り、造船技術が上がるにつれて大型船が外洋に向けて貿易に出るようになってもその拠点は瀬戸内海(中世は機内が拠点であった)、また南蛮貿易が盛んになった頃は九州のキリシタン大名もその一翼を担っていた。様々な人や物が行き交う中、もはや宗教的加護を願うのは形式的になっていたのかもしれないが、それにしても神社の背後にそびえる山と共に、祀られている神は船団の往来を古来からずっと眺めていたことだろう。

今も漁船、貿易船や旅客船がひっきりなしに行き交う海。そこでの営みも古来ずっと変わらないとも言える。日本は海に囲まれている島国という点でも古来変わることはなく、海から離れては生きていけないのだ。もう一度海とのかかわりについて考え直してみよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

音楽史と世界史

 

 ★★JAZZが抜けてる・・・!暇があったら追加するけど素人なので大した事書きません。

 

 

注:この記事はござさんのブログの資料として書いてます

 

調べてみたら、音楽はどの時代でも政治、思想、宗教と切っても切れない関係があるようだ。音楽はいつも何かの影響の上に成り立っている。

言い換えれば、音楽なしには人間は生きられないとも言えるのでは。

目次:リンクで各項目へ飛べます。

 

 

 

古代ーーー

語源としてのMuse

 ギリシャ神話にMusaという女神達が登場する。英語でミューズMuse文芸を司る神。

このことから古代ギリシャでは学堂をムセイオンといった(もともとはムーサを祀る神殿だった)が、のちに文芸・文学を研究する場にも使われるようになった。のちの西洋のMuseum(英語)である。そこから音楽をMusic(英語)と呼ぶことが定着する。

 

古代ギリシャ

(あんまり足を突っ込むとギリシア哲学の領域に巻き込まれるので、少々割愛……)

円形劇場で演劇上演が盛んだった事から、音楽も広く親しまれていたのではないかと考える。その他古代オリンピック開催時にも演奏されていた可能性がある。

(※古代ギリシアの演劇 - Wikipedia・・・演劇は古代ギリシャでは国家的祭祀として行われた儀式で、市民(奴隷以外)は参加する義務があった。専用劇場も各地に残る)

「王様の耳はロバの耳」に登場する葦は、喋る。このことから葦=笛も古くから演奏されていたと思われる。神話にはパンという神様も見える。

注:パンパイプ - Wikipedia
パーン (ギリシア神話) - Wikipedia

神話では他にもオルフェウス竪琴の名手として登場する。

また、歌う神様もギリシャ神話には登場する。ただしその歌声を聴くと船が沈んでしまうという海の神様で、そのいわれはあんまり縁起がいいとは言いづらい。
セイレーン - Wikipedia(いわゆるスタバのロゴマーク

f:id:tushima_yumiko:20210920095515j:plain

(※中世ヨーロッパのローレライ - Wikipediaはここから発想が来てるんじゃないかな)

 

中国

中国において音楽の起源は古く、先史時代にさかのぼる。歴代の王朝には、「楽」を司る官職が宮廷内に存在した。また、詩経・楚辞に始まる漢詩は当時は口伝で歌い継がれていたものだった。古くから音階そして楽器もあり、これらの一部が奈良時代に日本に伝えられて雅楽となる。

編鐘 - Wikipedia (へんしょう:紀元前の春秋時代から宮廷で使われた楽器、権威の象徴。中国では各地で出土している。)

f:id:tushima_yumiko:20210920093549j:plain

箏 - Wikipedia(古代の琴:ただしリンクは日本での歴史)
笙 - Wikipedia
簫 - Wikipedia

阮咸(げんかん)|コレクション|民音音楽博物館

f:id:tushima_yumiko:20210920095158j:plain

※イラストは正倉院宝物の螺鈿紫檀阮咸(らでんしたんのげんかん)。いわゆる古代中国から伝わる四弦リュート正倉院宝物は、このほかにも古代楽器が多数伝世する稀有なコレクションである。写真のものも、持ち手や背面に貝殻や琥珀を埋め込んだ華麗な螺鈿の手法で、エキゾチックなオウムが表現されている華やかな一品。

一般の物はもっと地味でシンプル。

 

 

中世

ヨーロッパ

中世騎士文化を背景として吟遊詩人が各地を遍歴していた。吟遊詩人 - Wikipedia

またインドに端を発し東欧に分布するロマの音楽が、これとは別の系統を形成している。(ロマ - Wikipedia)※古くはジプシーと呼んだが今は蔑称として避けられる。

資料:ロマ系の曲と、動画リンクです。

ツイゴイネルワイゼン (サラサーテItzhak Perlman Sarasate Zigeunerweisen - YouTube

ツィガーヌ(ラヴェルMidori plays Ravel's Tzigane - YouTube

プスタ(ヴァン・デル・ロースト)Puszta (プスタ 4つのロマの舞曲) - YouTube

ハンガリー舞曲(ブラームス ハンガリー舞曲のヒゲ剃り - YouTube

・・・・・あ、あれ?コレジャナイ? 

【菊池亮太】ガチクラシック曲であるハンガリー舞曲を連弾してみた!【ブラームス】 - YouTube

え?………全曲?こっちですか?遊ぶなって…はい…

ブラームス - ハンガリー舞曲集(全21曲) アバド ウィーンフィル - YouTube

 

 

日本

吟遊詩人に相当する存在として琵琶法師が各地を演奏して回っていた事が挙げられる。(平家物語

また民謡の起こりとしては労働歌が多い。

子守歌ーー五木の子守唄 五木の子守歌(昭和27年)藍川由美 Cover - YouTube

漁撈に伴う歌ー有名なソーラン節とか、江差追分 - Wikipedia

木挽き歌ーー南部木挽唄【岩手県民謡】 唄 / 誠一郎・ hb - YouTube

色々あるが田植えや農作業時に演奏される田楽田楽 - Wikipedia)が最も古い形という説もある。民謡で現代に伝わる最古の物の例としては、富山県五箇山地方のこきりこ節がある。(リンク:こきりこ節 - Wikipedia 動画:4k こきりこ節 五箇山こきりこ祭り2019 Gokayama Kokiriko Festival - YouTube

 

 

ヨーロッパのルネサンス時代から近世

音楽史でいうバロック時代、古典派時代)

基本的にヨーロッパの文化はキリスト教ありきである。中世の最高権力は教会を頂点としていて、音楽も美術工芸も教会において表現される神聖なものとされていた。

そんな中、ルネサンスは15世紀イタリアから起こった。それまで教会主導のキリスト教文化が主流だったところに新しい風が吹き込まれた。きっかけは、ビザンツ帝国=東ローマ帝国の滅亡である。それとともに学者が大挙亡命してきたことも、新たな文化的刺激の一因として挙げられるだろう。そこで古代ローマ以来伝わってきた文化工芸が、イタリアを窓口としてもたらされたからだ。

その後封建社会から各国の王権が強まるにつれて、音楽家は宮廷に雇われる存在となってくる。音楽を披露するのは各国の宮廷のサロンで、作曲を委嘱するのも王族や高位の聖職者など、社会的地位が高い層だった。

ピアノの原型の楽器が姿を現すのがこの時代。(チェンバロ、ヴァージナルなど)

活躍した地域ーーフランス、イングランドオーストリア帝国(ハプスブルグ家)、(今の)ドイツ

代表的作曲家ーーバッハ、ヘンデルモーツァルト、ベートーベン、クレメンティ(雑な分類だなあ・・・)

※この記事の中盤以降に、ちょっとこの時代の西洋楽器の変遷について書いててリンク集みたいなのがある。

 

アメリカ大陸の音楽

※リンク:ラテン音楽 - Wikipedia

ラテン音楽南アメリカ大陸を支配したラテン系民族(ポルトガル、スペイン)から名称を取っているが、その実は奴隷貿易によって連れてこられたアフリカ系民族によって中南米で形成された音楽を指す。アフリカ系の複合リズムを有する物も多い。

有名なのだけ拾ってみるとーーー(詳しくないのでリンク貼るにとどめておきます)

キューバ、カリブ方面ールンバ、ソン、マンボ、サルサ、チャチャチャ、スカ、レゲエ等

ブラジルーーーサンバ、ボサノヴァ、ショーロ

アルゼンチンーータンゴ - Wikipedia

アンデス系ーーフォルクローレ - Wikipedia

 

※ここでいう奴隷貿易とはーー大航海時代以降、ヨーロッパの帝国主義に伴う植民地化によってアフリカと中南米、ヨーロッパの間で行われた三角貿易を指す。

この奴隷が連れてこられた中南米、つまりキューバその他カリブ海一帯、アメリカ南部、そしてブラジルとその南部の周辺国家で形成されたのがラテン音楽という事になる。

(画像:大西洋奴隷貿易 - Wikipediaを元に加工)

f:id:tushima_yumiko:20210919230348p:plain

アメリカ大陸での労働力は最初現地民が従事させられたが足りなくなり、アフリカの奴隷供給地から連れてこられた奴隷は1300~2000万人ともいわれる。彼らは中南米プランテーションで働かされた。また、鉱山などの危険な労働にも従事させられた。

南米の銀山で採掘された銀は別名「スペイン銀」と言われ、主にスペインの対イギリス、トルコ、オランダとの戦争に費やされていった。のちにイギリスが世界の制海権を握るに至って、イギリスは中国からの茶、陶磁器、絹を購入するのに銀を以て支払うようになる。

 

ロマン派、印象派以降(解説省略)

この辺は解説要らないですよね?省略しますね。作曲家だけ挙げていきましょうか…

ロマン派

この時代もまた王族や貴族に加えて富裕な市民も文化的なサロンを形成し、芸術家はそこに集まって議論を戦わせたり、また音楽家は演奏を披露したりする場にもなっていた。

代表的作曲家:ブラームスウェーバーベルリオーズメンデルスゾーンシューマンシューベルトショパン、リスト、チャイコフスキーワーグナー(楽劇)、ベルディ、プッチーニビゼー、等。(解説いらないですよね?)

 

印象派(解説省略)

ドビュッシーラヴェル(解説不要ですよね・・・)

 

 

国民楽派

※リンク:国民楽派 - Wikipedia

各国独自の伝統的音楽を作風に反映させる気風が19世紀起こった。大国支配に対する反感もあって、独立運動につながっていった地域もあった。

ロシア五人組・・・

リムスキーコルサコフーーシェヘラザード、熊蜂の飛行

ムソルグスキーー歌劇「売られた花嫁」、展覧会の絵

ボロディンーー歌劇「イーゴリ公」、中央アジアの草原から

バラキレフーーひばり

キュイ

その他のロシア人:グリンカ

ハンガリーバルトークコダーイ

チェコスメタナーーモルダウドヴォルザーク

ノルウェーグリーグ

フィンランドシベリウス

スペイン:ファリャ、アルベニス

 

政治と音楽ーー

ソ連

ロシア帝国から1917年の10月革命によって政権を奪取したソ連は、社会主義国家の名のもとに芸術を迫害、労働者のための芸術を推進した。(スターリンは特に芸術家を粛正したので)その迫害から逃れて政治的に転向・国外へ亡命した音楽家も少なくない。

ソ連時代の主な作曲家

ロマン派ーーラフマニノフ

無調性音楽?というか神秘主義ーースクリャービン

社会主義に迎合気味な作風の作曲家ーカバレフスキーグリエール、ハチャトゥリャン

独自路線ーープロコフィエフショスタコーヴィッチ、ストラヴィンスキー
(転向したように装いつつ主義主張をシレッと曲中に表現する、など)